2017年09月21日

「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


早期英語教育の弊害
//kokoroniseiun.seesaa.net:80/article/373220605.html


認識の働きとは対象をわれわれの感覚器官に反映して、それが像として描かれる。この像を認識というのだ。認識は像である。
 像が五感器官を通して反映し、形成される。すなわち実体があって反映されるのが正常だ。

 母親が実際に手で触れさせたりしてイヌやネコを、「かわいいね」と教えながら分からせた言葉は本物になるが、英語はそうではない。

 一次方程式なんてものは、われわれが学校で教わるときに、何か現実の、実体の、像があるか? あるわけがない。


都築詠一氏の思想には常に像をもって認識しろ,像を描け想像しろとある,想像とはまさに像を想う像を創出することである。
犬という言葉の前に犬という実体がありその実体を通じて犬を認識する
現代の教育はこの実体から像から乖離している,言葉だけがあり数字の羅列だけがある
数学でも今ふりかえると小学生なら図形を学ぶとしたら常に図形を像として認識する
分数だったら具体的にボール上を二分の一なら半分にきるとか4分の一なら四つにきるとか具体的なものとして数字を認識する
そういう作業として数字を認識してゆく
教育とは実は教えるものの創造性が関係しているのである

要するに現代はあまりにも世界が像として見るのではなく記号化した数値化したものとして見る社会である。それは教育のせいではない,社会そのものがそうなっているのである第一都会だったら田んぼがない,そしたらどうして田んぼを像として認識できるのか?
そういうことが非常に多いのである。
もっと人間は図形化とか絵画化とかすることが教育でも像として認識することに通じる

言葉を日本語でもそうだけど外国語になるとさらに像として認識することがむずかしくなる,ただそれが記号化したものだけになる
ある言葉の感覚というのが実際は像からイメージされる
映画で見たけど馬が暴れている興奮して落ち着かないとき「steady」という言葉を使ったなるほど「落ち着け」とか訳すが堅実とかの意味とかいろいろある
その言葉の感覚はそうした日常の行為とか具体的な像から認識され身についてくる
だから外国語の習得はむずかしいのである。
結局現代は数式とか化学式とかあらゆるものが数字化しているのである。

膨大なそうした記号の氾濫の中で教育もあり像をとした認識できなくなっている
毎日教室にとじこめられているのもそうである。
そこではひたすら像と結びつかない記号の学習なのである。
だからみんな学校嫌いになる,自分もそうだった
都築詠一氏も言っているように秀才を批判するときそうして受験勉強のみで記号の習得のみで官僚とか学者とかなった人は何か欠けた欠陥人間になっている
そういう人が指導者になることは国自体をゆがめると言っているのもわかる
明治維新で官僚が指導者になったときそういうことは起きていた
侍が指導者だったときは文武両道であり何か生活全体で習得したモラルであり身についていた,それがなくなり文官となったときただ法律とか記号の習得だけが優先されるようになったのである。

例えば山を像として認識するとなると容易ではない,まず高い山に上ってみる,すると山を立体的に感覚として認識する,山を知るには山を実際に上らなければ認識できない
そしてまた山は遠くからみるだけでも様々な様相を示しているのだ。
山の像は無限にあるのだ,それをハソコンで抽象画化したりした,こんなに山の姿があることに驚いたのである。一つ一つの山の姿も違っているしその環境でも違っているから山の像は無限である。だから山の絵は無限にあることになる

いづれにしろ現代社会そのものが文明が言葉が死んだとかいうとき具体的な像と結びつかないからである。イメージする力が貧弱なのである。そして記号だけが言葉だけがつめこまれているから外界を反映できないのである。
それはあらゆる面でそうであり社会というのも記号だけで数字だけで認識しているのである。
だから外界を反映するというとき原始人の方が外界をリアルに像として認識していたという逆説にもなる,言葉は密接に自然でも外界と不可分なものとして生れたのだし言葉と像は外界の事象は結びついていた,だから言葉と事物が乖離することはなかったのである。万葉集時代とかそうなっていた,古今集時代になると言葉の遊びになったというとき万葉集のように密接に自然と結びついた生活をせず貴族化して宮廷で暮らすようになったからである。

ともかく現代は外界を自然でもじかに認識できない社会になっている,電車でも風は入ってこないし坂を上るにしても電車に乗っていればその苦しさを感じない
峠があることもわからないのである。車だと風を遮断しているし閉鎖された密閉された空間となり旅は道連れとかにもならない,ただ通りすぎてゆくだけである。
だから江戸時代の歩いて旅していた時より外界の認識力が落ちているのである。
感性とかではむしろ後退しているのである。
一見なんでも進んでいるように見えてかえって後退してしまったいることもある
原始人の方が機械も何もない時代の方が認識力や感性にすぐれていたともなるのだ。

「心に青雲」の都築詠一氏のプログはいろいろ参考になった
ただ弁証法はわかりにくい,陰謀論もうけいれがたい,陰謀は陰謀を生み何がなんだか最後はわからなくなる,だからすべてを受け入れることはできない
人間はあくまでも他者の思想でも何でも批評してみる必要がある
ただ鵜呑みにしているだけでは本も何も読んだことにならないのである。

stonedface.jpg

a face of underground

自然界の多様な姿も実は人間の顔になる,アイディンティティ化されるのである。