2017年09月20日

報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


報道はともかく事実を多面的に報道すべき

(津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは

美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。


確かにこのことは相当に批判される
家が水に浮いていてそこにきらきら波が光たよせた光景は信じられない風景だった
なんかいろいろ言われるのは確かである。
小高の人にはお前は同情しないのかとかそんなことを書いて楽しいかとか批判される
人間はどんなことを書いても必ずそれにケチつける人はいるからどうにもならない

八沢浦が美しい入江にもどったというときそれは事実だった,その事実を報告したのである。一方でそれに感情を加えるのは事実ではないのである。
事実というのはそのままを報告することである。

だから一方で自衛隊の人が水が引いたとき泥のなから子供の死体を掘り出しというのも事実である。美しい入江にも一時もどったのも事実である。
そして子供を泥からかきだしていたというのも事実なのである。
つまり事実にはいろいろな側面が実際はある
でも一場面だけを事実として報道すればただ瓦礫の山しか津浪にはなかったともなる
まず自分のように津浪を報告した人はいない,ただ小高の干拓された井田川で縄文の海がよみがえったと報告した人はいた。

ともかく津浪は信じられない光景をもたらしたのである。
それを報告するとき事実にもいろいろな側面がある,その時そこに死んだ人がいるというのも事実である。
お前はそういう人達に同情しなかったのかとなる
でもその時津浪が来て人々がどういう状態になったかわからなかったのである。
あとでここで死んだとかいろいろ聞いたのである。

津浪とか原発事故の避難者に対してはただただまず同情すべきだかわいそうだと言うべきだとなっていた。そうしないものはお前はなんなのだ,非情な人間だとされて批判の嵐になっていた。
現実津浪で家を流されて家族を失った人達の悲しみは想像を絶する
そのことに関して他者が何か慰めの言葉も言えないような悲惨があった
その時かわいそうだとか同情してもとても慰められるような状態ではなかったろう

人間はそういう悲惨な状態になると容易に近づけないとなる,何かしようにも何もできないとなるからだ。
ただ津浪は自然の作用だから確かに一時美をもたらしたのである。
これが戦争だったら爆撃で焼け野原になり無惨なものしか残らなかった
津浪は自然作用でありそこに一時美が生れたのである。
もしそこが家が密集しているような石巻のような所だとただ家がめちゃめちゃになり流されて無惨な光景しかなかったのである。
井田川とか八沢浦とか磯部でも田んぼのあるところは一時湖のようになったのである。
その光景は信じられないとなるのだ。

その時自分がどういう状態にあったかを書いた,身体障害者となり病院に入院したあとであり介護状態にもあり苦しい状態にあった。
それも実際は事実なののである。そんな個人的なことは報道されないのである。
ただただ津浪の被害者が原発避難者に関心は向けられていたのである。
八沢浦が美しい入江にもどったというときそれを批判するのわかる
ではその人が自分の個人的事情とか事実を知らないのである。
なんだこいつは八沢浦が美しいとかどうかしているとなる
つまりなぜこうして批判が常にあり誤解があるかというと人は多様な事実を知らないからそうなる
報道は常に一面的だからである。
人が何か批判するとき必ず一面的なものしか見ず批判しているのである。
報道にはそうした一面的報道が多いからそこに真実が何なのか見誤るのである。

報道には多様な事実が実際にある,殺人事件がある,それがどういう場所で起きたのか?
どういうふうに殺されたのか,何か証拠が残っていないか?
一つの殺人事件でもそこにさまざまな事実がありそれを検証する
殺人事件でもリアルにものをみなければならないのである。
そこに感傷的にみるより冷静に事実を見ることを第一とする
そこから犯人を割り出してゆく,つまり報道するということもそういうことなのかもしれない,事実は多面的でありだからこそ現場に通って感を働かせるのが捜査だとなる
この辺で起きたことは例えば原発避難民がパチンコ屋通いであり多額の補償金をもらって遊んでいたとういことも事実なのである。そんなことを言うなとかかわいそうだとばかり言うのもまた事実を無視して感傷的になっているからである。

北朝鮮の報道でも多角的にみればその実情が像としてイメージされる,youtubeで見たが公園で草をむしって集めている人がいた,するとそれは草を食料とするために集めていたそんなに食料がないのかという事実に驚く
それから喜び組というのがあり女性が品定めされている,まるで江戸時代の遊女である。すると北朝鮮は奴隷国家だということがわかる,金王朝に仕える奴隷国家なのである。
そんな国がどうして国家として維持できなるのか?
やはり内部から瓦解してゆくのではないか?民衆は草を食べ幹部は女性を品定めして遊女のように扱う,そんな国が維持できるのかとなる

ともかくそういう事実はいろいろありそこから像を作り多面的に見ていくべきなのである北朝鮮の民衆は悲惨なのである。その支配者が悪いのであり民衆はかわいそうだとも見る
でも事実というのは無数にある,今でも無数の事実が産み出される,それらの事実を現実に確かめて知ることは不可能である。
事件にしても無数の事実である。それは毎日のように報道される
でも深くその事実を知ることはできない,次々に事実は新たに生れてきりないからである

ニュースで伊豆に東京の人達のために老人ホームを作る,そこに入る人は家族が行くのに遠すぎるとので困ると言っていた,ところが身寄りがない人も入るから家族は関係ないと福祉関係の人が言っていたのも納得する
身寄りのない人も多いのが現代である。事実として様々な事実がありいちがいに遠いから家族が行けないからと判断はできないのである。
伊豆がどういう所かまず地理とか環境もわからないからそこで報道だけを見ていると誤って判断する,何でも多面的な事実がある
報道は一面的報道になりやすい,次々に問題が起きるしニュースがあり事件があるからだ

津浪でも様々な事実があり海が近いのに前に山のようなものがありそれにさえぎられて被害少なかった家もある,そこには様々な事実が生れていたのである。
一時八沢浦が美しい入江にもどったというのも事実である。
そこであとで泥にうまった幼児を自衛隊がほりだしたというのも事実である。
死体を探していたというのも事実である。
そこには様々な事実がありそれを冷静に報告することが報道の基本としてあった
かわいそうだという前に現実を事実を写真で見せられればわかるからである。

ただ原発避難者がパチンコ通いとかギャンブルに興じていたことは事実であったけどそれは報道されていない,そういう事実を無視してかわいそうだとばかり外から感傷的に見られるとき事実が見逃されてそういうマイナスの面は隠される,事実は隠される
すると現実が見えなくなる,そこに報道の問題があった
報道は今までは個人ではしていないできなかった,マスコミだけがしていたのである。
それでマスコミによって操作されていたのである。
いろいろなことを解説するのにもいろんな手法がある,マスコミの解説とは違う解説の仕方がある,すると別な風に見えてくるのである。

だから本当はマスコミでも局によって違った報道するのがいいのである。
すると多面的な見方ができるようになる,でも見る方もそんな暇がない,時間がないからてっとりばやい一面的な報道で判断するのである。
要するにあらゆることに様々な多面的な事実がある,それをそのまま報道すれば何かが見えてくる,でもその事実の取捨選択はマスコミがしている
報道されないことでもある人にとっては重要かもしれないし本当にみんなにとって重要なものもある,でも報道されないとそれは闇に埋もれるのである。

八沢浦が元の美しい入江にもどった

「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題 (確立していないインターネットのルール)


「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題

(確立していないインターネットのルール)

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著作権は、通常の財産と同様に相続の対象となります。遺言によって誰かに譲り渡すこと(遺贈)も可能です。本コラム執筆時点までの報道によれば、やなせさんには法定相続人はいないようですが、遺言により受取人を指定していれば、指定された法人や個人が著作権を引き継ぐことになります。

著作権について複数の相続人がいる場合は、著作権は共有されることになります。著作権が共有されている場合、共有著作権者全員の同意がなければ著作権を行使することができません(法65条2項)。対象となる著作物の著作者(=著作権者)の死後、著作権保護期間中に著作物の利用を希望する人は、原則として全相続人から許諾を得る必要があることになります

著作権者が死亡し、通常の財産であれば国庫に帰属することになる場合、著作権はなんと消滅してしまうのです(法62条1項)。「著作権が消滅する」ということは、誰もその作品が使えなくなるという意味ではありません。著作権の保護期間が満了した状態と同様に、誰もがその作品を自由に使えるようになるのです

著作者の名誉・声望を害するような方法での利用は著作権法で禁じられているということは、心に留めておいてほしいと思います

「目的上正当な範囲内」の引用であることが求められている(32条)。ここから派生して、「人の作品を借りて来るだけのある程度の必然性・関連性が問われる」と説明されることもある。


本は出版社が仲介として大きな役割を果たしていた,出版社を通じてしか本は出せない仕組みになっていた,その前に取り次ぎを通さないとまた出版できない仕組みになっていたインターネットはそうした仲介者が省かれているのだ

そこで何が起きてくるのか?今回のようなプログだけに書き続けた都築詠一の死亡がなげかけた問題である。
グーグルですべてではないがログは保管されていたのである。
これも不思議なのだけど普通は本だったら図書館とか出版社で保管されている
でも本を出すことはむずかしいのでどこにも保管されていない場合だってあるのだ
ところがインターネットでは誰でも一庶民でも何でもくだらないものでもとるにたらないものまで出せるし記録されているのである。
なぜならインターネットでは記録するということは簡単だからである。
そしていくらでもその記録を残すことができる,本のようにもう国会図書館で収蔵しきれなくなるということはない,物理的に場所を全くとらないから無制限に貯蔵できるのである。
ではそれがどれくらいの期間記録されているかとなるとわからない,本なら50年くらいはもつかもしれないがその頃からぼろぼろになってくるのである。
電子空間では50年ももつのかとなるとわからない,電子空間は消えやすい弱点ももっているからである。

ともかくインターネット上にだけ公表されて本としては出版されないものがこれからは増えてくる,出版というのはハードルが高いからである。
インターネットだと気楽にいくらでも書ける,一人の人間が出版社ともなれるテレビ局ともなれるのである。youtubeがそうである。
かえって例えば武田邦彦氏はそうした放送局となっている,科学者として専門性があるから参考になる,テレビだと専門家を呼んでテレビ局の意向によって編集しているからかたよっているのである。テレビはその局の意向を報道しているのであり専門家はただテレビ局の意向のために使われているだけなのである。
だから最近はなるべくテレビは見ないようにしている
テレビを見ていると知らずに洗脳されていることが多いからである。

いづれにしろインターネットでは例えは都築詠一氏が死んでも著作権はあり全文転載はできない,心に青雲の旧フログが一部ログを他のサイトで保存されていたが許可があってできていた,なぜ全文転載ができないかというと宣伝に使われたりするからである。
引用は可能である。それも引用する方が主になり引用される方がその主文に従属するような文でないとできないのである。
なぜなら引用とはあくまでも主なる引用する人の創作の中で利用されるものとして許されているからである。

ただ都築詠一氏のプログの文を本に出すとなると著作権を受け継いだ家族の人とかの許可が必要になるだろう。
でも不思議なのは別に本にならなくてもグーグル内にログは全部ではないが保存されているのである。それは一種の図書館に本として貯蔵されていると同じなのである。
ただそれがいつまで保存されているかとなるとわからないのである。
グーグルというのはこうして何か実際は大きな権利を得ているともなる
まず国会図書館にいくちら貴重な資料があったとしても利用できないものが多い
図書館でも資料があってもそれを調べるのが容易でないから今は行っていない
自宅で調べて書けるようにならないと知的作業はできない
だからある程度の私設図書館が必要になってくるのである。

ともかくインターネットもすでに20年以上とか利用するようになっているしこれからも利用されるようになる,それは世界ともかかわりそのルールが確立されていない
そこに今回のような都築詠一氏の死亡などで問題が浮き彫りにされたのである。
死んだら死んだ人は何も言えないのである。
すると何かそこで問題が起きてくる,ただ何か今も死んだように思えない不思議があるのだ。

「心に青雲」の都築詠一の遺したもの (その死は何を語っているのか?)


「心に青雲」の都築詠一の遺したもの

(その死は何を語っているのか?)

死者のほとんどはもっと生きていたいと願いつつ、この世を去ったのであろうし、災害や戦争の死者はさらに非業の死を遂げたので、その無念の思いは強かろうと想像する。
人間は必ず死ぬけれど、死に甲斐というものはあったほうがよい。この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

 震災の慰霊はほどほどに

こういった残された文章を読むと不思議である。

この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

それは「心に青雲」の都築氏の場合はプログしかない,でもそれも消してくれとか言っていたのがわからない,ここでは証を遺すことだと言っているからだ

人間はつくづく自分のプログでもそうだが自分の書いたものが読み返してみてこんなことが書いていたのとなる,忘れるのである。
都築氏のプログだって読んでいても忘れていた,だから記録すること何かに文章でも人間は遺さない限り何も残らない,忘れるからだ。

今読み直してこんなこと書いていたのと再認識する,その時読んでいても忘れるのである都築氏はいろいろなことを言っていた,その言い方が卑近な例から語りわかりやすいのである。学者のような言い方をしないからである。

でも自分の書いた唯一の生きた証であるプログまで消してくれとういかのがわからなかった
人間の不思議は死んだらその人をどう評価するかは生きているときわからない,だから死んでみて本当に不思議になる
とても死んだとは思えないのはなぜなのかとなる
何か今でも継続して熱く語っている感じになる,死というのが意識されない不思議がある第一インターネットの中で書いて死んだというのはあまり経験しないだろう
癌を告白して死んだ人などそういう人は増えているかもしれない
ただ病気が苦しいとか病気のことばかり書いていたら読むの嫌になることがあるだろう

都築氏は一切病気のことを語らなかった,透析のことはたまたま語っているがそのことは語らず様々なことに評論をしていたのである。
その見識の深さは瞠目するものがあった,だから毎日読んでいたのだけどやはり読みかえすと忘れていたことが多いなとつくづく思う
人間は忘れやすいのである。それが人間の大きな弱点なのである。
あれだけ悲惨な戦争のことだって忘れる,時間がたつにつれて人間はあらゆることを忘れてゆく,忘れるからこそ嫌なことを忘れるからこそ生きていられるともなる

無念の死のことを語っているけど自分自身もそうだったのではないか?
70くらいまで生きたとしても今の時代なら早いとなってしまう。
何かもっと書きたいこと言いたいことがあったと思う
それが途中で中断して死んだのである。
現代は長生きだから成果を示すのは遅くなる
人生50年とかなると早い内に示さないと死ぬから違っていた
斎藤茂吉は長生きだったと言われるが70才で死んでいたのである。
あとは40代50代で死んだ人が実に多いのである。
今の時代は普通に80才まで生きるから成果を示すのは遅くなる傾向があるのだ

都築氏の評論はいろんな分野にわたっていたのである。
空手をしていたからスポーツ評論があり文芸評論が人物評論があり科学評論まであった。これだけ多岐にわたる評論をできる人は今の時代でもそんなにいないだろう。
ただ死ぬとは思っていなかった,だからそんなに真剣に読んでいない,突然死んだので
驚いた,そしてプログの記録が貴重なものとなったのである。
インターネットにはグーグルでは全部は記録されていない,省かれているが要旨になるような所は残っているみたいだ
だから再検討できるのである。

プログはなにか本とは違う,生放送のようにリアルに今が伝わってくるメデアである。
だから死んだように思えないのである。有名な俳優でも死んでテレビの画面でドラマに写っていると死んだように思えないのである。
プログでしか知らなければやはりこれと同じように死んだように思えないのである。
ただ死んだ結果,こうして自由に語れるとなる,生きていればこきおろされるからできないとなっていたのである。
だから人間は生きているときは評価しにくいのである。

いづれにしろこうしてまたインターネットで自分が都築氏のことを語っているのをあの世でどう思っているのだろうと不思議になる
インターネットだけで語り死んだということが不思議である。
たいがい今までは本で遺していたからである。ただ本は限られた人しか出せないのである過激なものは出せないのである。
それでインターネットだけで語り記録して死んだということは今までにないことかもしれないと思った。
もちろんプログは無数にあるがこれだけのものを語れる人はいない,病気をのことを延々と語っても後世には残らないと思う,なぜならみんな病気になり死ぬからである。

ともかく都築氏の遺したことの再検討は必要である。ただ死んでもやはり著作権があり
そっくり転載することはできないだろう。
だからインターネットだけで語り文章として遺して死んだ場合そういうものがどうなるのか?それもまたわからなくなる,インターネットというのはそういうルールが確立していないからである。

自分がインターネットにある写真や絵から抽象画をソフトで変化させているのもこれも何なのだろうとなる,そこには何かしら著作権が関係している
そんなことしてそれが創作品になるのかとなる,そんなこと今までありえなかったのであてる。
ただアメリカの人たちが定期的に見ているのである。
だからなんらか評価されているとなる
でもなんらか著作権の問題が生じているかもしれないのである。
それもやはりインターネットという空間が何なのかわからないからそうなっているのだ。いづれにしろ都築氏の死はそういう点でも考えさせられるものだったのである。