2017年09月12日

都築詠一氏の芸術論などの再検討 (習うから技を創りだす・・・)


都築詠一氏の芸術論などの再検討

(習うから技を創りだす・・・)


人類はこのスポーツでも藝術でもなんでも技の創出は「創る」と「使う」が意識されずに要するに習えばよし、努力すればよし、繰り返せばよし、としてなされてきた。
//kokoroniseiun.seesaa.net:80/article/435441083.html

都築氏は天才ではない,普通の人である。人間が模範にできるのは天才ではない,天才は異常なエネルギーが生来与えられた人である。
天才は努力なしで会得する,武道でもそうである。宮本武蔵などももともと天才だったのである。武道家になるために生まれついていたのである。
そういう人はスポーツ界でも芸術分野でも仕事の分野でも医療界でもいるだろう。
何か仕事をさせるとできる人とできない人がいる,それは大工などでもそうである。
でも最初からその人ができる人とは限らない,仕事をしているうちに内なる才能が目覚めることもある,だから学問だけでは人間はものにはならない

手術がうまい人はもともと手先が器用でないとできないとされている
だからいくら一流の大学を出てもものになる人ならない人がいるのである。
それはどの分野でもそうであり農業だってそうなのである。
農業で成功するのも相当にむずかしいから成功する人と失敗する人がある。
料理の分野でもそうである。個々人でも料理を創り出すことはむずかしい
介護してから長い間料理しても一つも自分の料理を創りだすことができないのである。
そういう人はまさに天職としてその仕事についたとなる

ともかく天才的な人はいる,そういう人は模範にできない,そういう人は努力なしでなれるからである。普通の人は努力するほかないのである。
都築氏は武道にしても空手でも努力して会得していった人である。
もともと虚弱だったというのもそうである。すると虚弱でも強いものになれるという南郷派の教えに共感したというのもわかる
そして毎日裸足で歩いていたとか絶えず鍛練していたのである。
強くなるために涙ぐましい努力をしていたとなる

ただ技を創出するとなるとよほどの人でないとできない,なぜなら武道でも型を覚えることでありその型を覚えるだけで精一杯なのである。
そこから型を一歩踏み出して新しい技を形を作り出すことは至難なのである。
だから良く古い武道を伝える家で模範演技の形を演じるけどそれは代々伝えられたものであり新しい型を作り出していないのである。
それはあらゆる分野でも伝統芸でもいえる,華道でも今はフラワーアレンジメントとなったように今までもの華道と違ったものとなっている
新しいものを取り入れるようになる,和洋折衷になるのである。

でも基本的に習えばよし,努力すればらし,繰り返せばよしというのがある
技を「創る」となると実際はその形を習うだけで精一杯でありそれを越えてまた新たな技を作り出すことは並大抵のことではないのである。
自分のパソコンのソフトを使っての抽象画は技を創りだしたものかとなる
それは自分でも不思議だったのである。その評価はやはりアメリカの人が定期的に見ていることである程度は評価されているとなる
ただ著作権違反になるかもしれないこともありわからない面がある

都築氏で興味をもったのは陰謀論などではなくこうした芸術とか人生とかを語る時であるただどうしてもプログは時事問題が日々のことを書くから入ってくるのである。
だから時事問題について書いたものも多いのである
ただ時事問題について書いたものは後世に残らないかもしれない
なぜなら次々に事件は起きるし時事問題は限りなくある
そして事実は無数にあるというときその事実をとても検証などできないのである。
歴史が事実だというときでも事実は無数にあるからそれをいちいち知ることも取り上げることもできないのである。

ただ彼の芸術論と人生論とかはそれは人間の普遍的な問題だから後々まで残るということがある。それを残されたログから再検討してゆく価値はある
都築氏の全貌はまだわかりにくい,ただ死んだことで検討しやすくはなったのである
タグ:芸術論