2017年09月07日

土手 の道でで同級生と昔話する (病気から見違えるほど回復していた)


土手 の道でで同級生と昔話する

(病気から見違えるほど回復していた)


今日土手で自転車に乗っている脳出血で一命をとりとめたきいた同級生とあった
その人は只野という人で南北朝時代,霊山から逃れてきた人を先祖にもつ古い家だったのである。
鹿島には只野性が本当に多い,それはその時逃れてきた武士の子孫なのである。
ただなぜ鹿島の街内だったというのが謎だった,というのは街内は新しい人が入ってきているのが多いからだ。
ただ鹿島でももともと鹿島村だったのである。でもその規模が大きいのである。
そこは平地が広がっていたからそうなる,それで橲原田(じさばら)とうい地名が鹿島町誌に残っている,今はない。
橲原の人が土地を求めて開いたからその名がついた,なにかこれもわかりにくい,
右田の人が橲原に肥料として草刈る場を所有していた
するとそこに右田という地名がついてもおかしくないのである。
ここに橲原田(じさばら)となった理由はわからない。

その同級生は例えば駅前の自転車屋が実は自分の家を間借りしてはじめたという,それは今自転車屋をしている人の父親である。だからその子供のときを知っているという。
ゆして不思議なのはそこに開業医があった,それを知っている人はもうかなり少ない
それをなぜ自分が知っていたかというと母親からそこで幼児の時注射してその傷跡が今でも太股に大きく火傷のようにして残っているからである。
だから医者は下手の人にかかるとひどいことになる
その頃はおそらく医療の技術は遅れていたからである。
つまり医者で一生の傷を負う命取りにもなるということである。

何かその頃町医者が多かった,それは今のように大きな病院がないからである。5軒以上はあった,内科であり歯医者も多かった,それだけ子供が多い時代であり繁盛した。
その時は主に子供とか若い人が医者にかかっていたのである。
今のように老人ばかりがかかっていたのではないのである。
そういう時代の差があった
自分の姉は保健婦だったから医者とはかかわっていたのである。

その人は相馬高校を出て東北学院に電車で通っていた,東北学院はこの辺ではポピュラーな大学である。ただ東北大学とかなると雲泥の差がある。
この辺がまぎらわしいのである。京都大学と京都産業大学とかなると雲泥の差があるのと同じである。
その時大学に出る人はクラスで4,5人だった,その人は兄は東京の法政大学に入ったので
地元の東北学院に入ったという
ただあの人は故郷を出て生活をした経験はないみたいだ,東北学院に通ったとしても故郷を出たとはいえない,自分は大学は東京だから同じ程度の大学でも違っていた
その相違は自分にとって郷里を出て一人生活することはやはり精神的自立することになったからである。故郷を一度も出ないものは何か精神的自立をしにくいように思う。
ただあの人もともとコミニケーション能力があった,そういう性格は変わらない
自分には社会性とかコミニケーション能力が欠けていたのである。
こうして他人と話するようになったのは60代以降強いられてそうなったのである。

自分にとって大学に入ったことは勉強することではない,勉強は嫌いだったし学校にはなじめない性格だった,ただだから家を出ること故郷を出ることが自分の望みだったのである。今でも故郷を出るという志向が自分にはある
あの時代は東北大学に入る人が4,5人でもいた
原町高校と相馬高校でもいたが今は全くいない,それだけ高校生の数が減ったからであるあの時は人が多いからその中に優秀なものも出たとういことである。

ともかくあの人も郷土史を勉強している,あれだけ古い家の生まれだから当然家には一番興味をもつからである。何か古いもの,お宝が残っているらしいがそれがいつの時代のものかはわからないらしい。
郷土史とかはおばあちゃんとかおじいさんとかの話を聞いて興味をもつということを前に書いた。
その人の父親は戦争の空襲のことをノートに書いていたという,鹿島でも爆撃されて死んだ人がいたのか?そのノートに記してあったという,原町の被害は大きかった
飛行場もあり相馬農業学校は爆撃で燃えた,その近くに母の実家があり母から防空壕に逃げた話を聞いている,防空壕の蓋が飛行機が飛んできて舞い上がったとかあるから相当に低空飛行したのかもしれない,そうなったのは相馬農業高校が近くにあったからである。その実家も今はない,墓だけが残っている

自分の家のことも二代くらいだが一人になって昔をふりかえる
家で店をしたとき姉が古い自転車で農家に野菜を買いに行ったことが思い出される
それは役場に出勤する前でありその野菜を積むにも相当な力が入る,女性では簡単にできないのである。その量も多いからだ,でも姉は力持ちだからできたのである。
その野菜を売っていたのが母だったのである。
何か必ず家々にはこうした物語が残っているのである。
一軒一軒の家が郷土史なのである。この辺ではどうしても原発とかかわることが郷土史になってしまった,原発の恩恵を受けていたことが多いのである。
だからあまり東電を批判できないとなっているのである。

その同級生は本当に二年前にあったときよりすっかり回復していたのは驚いた
一時間以上立って話しているのに疲れたとも言わない,二年前だったら立っていられないだろう。二年間の間に相当回復したのである。
もともと脳は損傷しなかったからそれが良かったのである。
そして脳出血は時間との勝負であり早く治療して南相馬市は前に新しく脳出血センターができたように副委員長が専門的に優れているから若い研修生も習いに集まるほどである。そういうことで幸運が重なりあんなに回復したのかもしれない

いづれにしろ団塊の世代も年でてある。昔を語る人となった,まず自転車屋の前に開業医院があったことを知っている人はほとんどいない,自分は母親から太股の傷のことで聞いてその医者のことを思い出したのである。
注射によって傷が広がったのである。
その医者によってつけられた傷だったのである。
それを恨みに思うももうその医者は5とっくの昔に消えているのである。
ただなんらか昔のことが傷として体に残っている人はいるかもしれない
そういうことは長い一生の間にはある

その人はおくさんもいるし子供がいるから娘は千葉にいて常磐高速でしょっちゅう行っているという,世話する人がいるから病気になっても良かった,今はのんびり庭の手入れをしたり自転車に乗ったり車を運転して楽しんでいる
それにしてもあんなに回復することは驚きである。
やはり脳がやられないから良かったのである。脳がやられると体が麻痺するからである。
やはり近くの同級生は隠れ脳梗塞があるということを言っていてそれがずっとあとにまた脳梗塞になり脚に麻痺がきてびっこになりやっと歩いて買物していた
車があるから買物もできている,まだ車は運転できているのである。
近くでもあれでは買物もできなくなる,一人暮らしだけど一週間に一回くらい弟が世話している,その人も最近母親も死んだので一人暮らしなのである。

団塊の世代は過去をふりかえる時代になった,その歩んだ人生は違っている
その人は普通に勤めて結婚して子供をもうけていたから変わったものではない
最近インターネットだけで知ったプログを最後まで書き続けた人も死んだが同じ世代である。その人は透析を17年間もしていたというからこれも驚きである。
必ず60代から病気がでてくる,そして死ぬ人も出てくる
タグ:団塊の世代
posted by 老鶯 at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

死後にひびく言葉 (「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)


死後にひびく言葉

(「心の青雲ー都築詠一氏へ献げる詩)

(君のからだ,日常振る舞いは極上のものか,死んだら君は極上のものとなる)
ホイットマン(草の葉)
  

死後にその人の
重い言葉がひびきわたる
崇高なる峯のように
荒々しい山嶽のように
そそり立つ巌のように
不浄を拒否して
そは天に聳え立つ
風雪を帯びて厳しく
烈風はその高峰に唸る
氷河にも閉ざされて
銀河をちりばめる
崇高なるもの目指せしもの
そはその途上に倒れぬ
高潔な死者の霊はそこに宿る
しかし死後その言葉は
荘重にひびきわたる
硬質な鋼鉄のような文体
その言葉を受けるものは誰か
その厳しさには人は耐えかねる
それは天上よりの声となりしや
死後にその言葉は重くひびきわたる

死んだら極上のものになるといってもみんなそうとは限らない,その人が生きたものが極上だったら極上になるん,生と死は切り離せないのである。
ただ死ぬとその人を客観的に見れる,生きている内はその人の欠陥などの方を指摘する
でも死ぬと人間は美化され祭り上げられたりもする
過去が江戸時代でもみんないいものではないが過去を理想化し美化しやすいのである。

「心に青雲」の都築氏はプログでしかしらない,ただずいぶん長く読んでいた
旧プログ時代からも読んでいたとする長い
するとそれだけ毎日読んでいたらその人の思想とか何かに染まる
何か文章に独特の張りがあった,やはりプログで表現するものと本とかで表現するものが違っていたためだろう。その文体が過去の伝統的なものと現代的なものがミックスされたということもあるだろう。
インターネットだと生放送のようにもなり話し言葉になりやすい面があるからだ

何か近寄りがたい厳しさが文から感じた,人間も簡単に近寄れるような人,語れる人だとたいしたことがないともなる,彼はマスコミでも何かバーに出入りする文人仲間でも
そういう人と相互浸透するから交わらないと言っていた
A型で潔癖症だったともなるがそもそもマスコミでも何か商業主義の場だから汚れる
そこでは出版社でもそうだがもうけるために適当な大衆受けする人を作り上げるのである芥川賞なんかそうである。そういう世界を相互浸透するからと嫌っていた
結局そういう世界を拒否するとき孤高となり社会から隔絶してしまう
でもまた逆にしきりに社会性を言っていたのはアウトサイダーとは違っていた
その辺が良くわからないことがあった

いづれにしろ死んだということでその人のことを語り安くなることは確かである。
生きていたらとても語れないからだ,現代では70才の死は早いとなる
ただすでにその年で死んでいる人は結構近くにもいる
自分もすでにそうして死は真近なのである。
タグ:都築詠一