2017年09月02日

意思疎通できない連関なき社会 (そしてコミュニティが破壊される)


意思疎通できない連関なき社会

(そしてコミュニティが破壊される)


話し合いが意思疎通ができない社会 (原発事故でも話し合いの住民自治がなかった)


ここでも書いたけど田舎だったら意思疎通できていたように見られる,でも高度成長以後はやはり田舎でも会社員化して意志疎通ができなくなる
自分の家で店をしていたとき野菜は近くの農家から買ってきた,それは自転車で買ってきていたのである。姉は力持ちだから大きな箱に積んできたのである。
すると近くの農家と親密な関係が生れる,そしてその頃は店が個人の店であり狭い範囲にあった,するとその狭い範囲で暮らしているから親密になる
一方でいいろいろかんぐられるので嫌な面もでてくる

大工でも地元の大工が家を建てるから地元の大工と親密になる,今建て売りであり外部からきた人が建てる地元の人とは関係しない,建売は組み立てるだけである。
この辺では新しい街が一つできるくら家が次々に建った
それはみんな外部から来た人が建てたのであり地元の人は関係ないのである。
するとそこでも地元の人でも意志疎通がなくなる

意思疎通ができないというときタニコウはこの辺で大きな会社である,でも友伸エンジニアリングも建物を見れば大きな会社であり工場である,それはすぐちかくの小池にあったでもタニコウの人は知らなかったのである。
それはなぜなのか?何らか仕事でつながりがなければ共同しなければ近くでも無関係になるのである。
現代とはそういうことが非常に多いというときそういう文明社会だとなる
ピカートの言う連関なき社会でありそこからヒットラーが生れた,ナチスが生れというとき無数の部分になりそれらがどう結びついているかなどわからないのである。

鉄道があるとして車をもっている人は乗り方さえもわからなくなる,すると鉄道を残せといっても車の人は利用しないから関係ないとなる
ただ車で駅前に来ることがあり駐車したりして駅に来ることがある,ここでは道の駅がないからランドマークとして来るのである。駅にはそういう機能がある
そこで関連してくることはある

こうして江戸時代なら村とかで濃密な意志疎通していた,しなければ生きていけないような社会と今の社会はあまりにも違いすぎる
広域化グローバル化社会になればそうした狭い範囲の意志疎通より金が大事になる
金があればどこでも生きられる時代である。人間の意思疎通は金になったともなる

大量の物は野菜でも遠くから来る,外国からも来るからである。
すると自分の家で小さな店をしていたときのように近くの農家も関係なくなる,関連しなくなる,こうした小規模な店とかは戦後増大した,それは大きな資本が無くてもできたからである。でもスーパーになったときそうした小売業は姿を消した
そしてシャッター通りになった。

ここで問題なのは大資本が介入してくると小さなコミニティは破壊されやすい,そうして根こそぎコミニティが破壊されたのが原発事故であった
そこには国家権力もかかわり巨大企業である東電がかかわりそれに付随してマスコミとか検察とか警察までもかかわるとなる
国家権力によって自治体が崩壊させられたのである。

そういう巨大資本とか会社とか国家権力でもマスコミでも小さな自治体に介入してくると根こそぎコミニュティは破壊される,マスコミで自治体の争いに介入してくる
そもそもそれは自治体内で解決するのが望ましいのである。
内部の事情に通じない場合があるからだ

そのことで自分が駅で警察に職務質問されたのもそうである。誰かがあやしい人がいると通報したのだが警察まで来て介入すると田舎の平穏な生活がコミニュティも破壊される
つまり大企業でも国家権力でも力が強すぎるからそうなる。
それに小さな自治体は抵抗できない,そしてコミニュティが破壊される
この辺はズタズタに破壊されたのである。

巨大な国家権力機構,大企業とかかかわると一自治体はもろくも破壊される,
狭い範囲内の意志疎通もできなくなりただ巨大な権力によって自然まで破壊されたのである。
それは東南アジアの森林が巨大企業にかいしめられてオランウータンが住めなくなったのとにている,その企業が日本にもあり銀行が融資しているとき銀行もかかわっている

とにかく意志疏通がない社会とか連関性がない社会は文明は最終的にどうなるのかと思うピカートよればナチス化する社会になる,カルト宗教団体もそれとにている
それは疑似コミニュティであり本当のコミニュティではないと言っている
そういうものはナチスのようになる危険がはらんでいる

いづれにしろ意思疎通がない連関性なき社会は文明は何かの調子で崩壊するかもしれないそして自動化社会というのも意志疏通が連関性がなくなる社会なのだ。
一見確かに便利だがすべて現代文明は機械化自動化しようとしている
人間の意志に関係なくそうしようとしているからだ
するとすべてが機械化自動化するとその自動化することによって機械でもコンピューターでも制御不可能になり暴走して自滅するともなる

文明社会が核分裂状態にあるというのもわかる,無数の部分に分裂して連関がなく意思疎通がなく自滅する自壊してゆく,その例がこの辺の原発事故による惨事だったのである。

posted by 老鶯 at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

「心に青雲」都築氏の死亡で考えたこと (実績で決まる死後の評価)


「心に青雲」都築氏の死亡で考えたこと

(実績で決まる死後の評価)


人事は棺を蓋うて定まる

人間の真価は、その人の死後に初めてきまる。棺を蓋(おお)いて事定まる。

人間は評価るのがむずかしい,偉大な人になると評価がむずかしいのは偉大な人を普通の人は理解できないからである。
他に文学とかでもその内容を深く知らなければ評価できない
だから文学作品でも芥川賞などでも出版社の宣伝であり売るために作られているのである出版社では売れないと困るから話題性のあるものを出して売ろうとする

人間は死んだとき確かに評価しやすい,生きている時は偉大な人になると力量が違うから評価しにくいのである。へたに評価するとその評価する人からの反撃をくらう。
だから「心の青雲」の都築氏は評価しにくかったとなる

自分が共感したのはそこに一本筋が通ったものがあり何か貫くものがあったためである
右とか左の思想ではなく人間そのものの魅力である。
第一右と左とか団体化して騒いでいる人たちはマスである。個人はいない
人間はマスとしてみるのではなく個人としての人生をみる
それがどこの団体に属していたかで見ることはできないのである。
そこにはいろいろな人がいて尊敬するような人などいないからである。

「心の青雲」には何かそういう右左関係なく人間的なものを一本筋を通ったものを感じていた,何か強い意志があった
ただ陰謀論は受け入れることができない,この世の中陰謀論で見たらきりがない,陰謀にまた陰謀になり何がなんだかかわからなくなるからだ
ユダヤ人がこの世をすべて支配できるのか?別にキリスト教徒でもユダヤ人が良くならなければ世界が良くならいなとしている,ユダヤ人が特殊な地位にあることは確かなのである。でもユダヤ人が世界を支配する力があるとは思えない
現実に世界をみれば中国が台頭してくればアメリカの力は弱まる
そしたらユダヤ人の力も弱まるとなるからだ

人間は死んで評価ができるというときそもそも人間の評価は何なのかとなる
死んだ人が何を残したのか?何か実績を残さないと評価できないだろう。
「心の青雲」都築氏ではプログに残したものしかない,本も出していないのである。
それが死んだ時,ログが消えている,すると読み直して評価するのもできなくなっているただ毎日読んでいたからその趣旨はわかる

そして実績から考えると年齢は関係ないのかもしれない,若いときすでに天才的な人がいて科学の分野でも実績を残したとすればその人は歴史にも残る
野口英男などがそうだろう,細菌と戦い黄熱病の病原体を発見して51才で死んだけどその実績は評価されて残る

人間は年齢ではない,何かを残したかの実績である,芸術家だったらなぜ啄木などがあれほど評価されているのか27才で死んだのにである。
別に若くして死んでも評価される人はされる,それは何か実績を残したからである。
ただ長く生きればそれだけ文学とか芸術の分野でも実績を残しやすい
でも別に若くしてすでに成熟した理解力をもつ人もいるのである。
だから人間を評価するのは実績であって年齢ではない
馬齢を重ねるとかありいくら長生きしても実績がないものは評価されないのである。

「心の青雲」の都築氏の実績は何なのかとなるプログしかないのである。
そのプログからしかしりえようがないのである。
そのプログが死んだら消えたことが問題なのである。
人間は実績を残すには時間の無駄が多すぎるのである。

「時間は有効に使おうと思えば思うほどたりなくなる」と「日本人の死に時」の著者の久坂部羊氏は言っている
有効に時間を過ごそうとするとそうなる,例えば小説一つでも書こうとする論文を書こうとする絵を描こうとすると時間がたりなくなるのである。
何か作品を仕上げようとするとき時間がたりなくなる
そしてたちまち時間は消失する,それで老人になるとまた病気になったりするともう何もできないということになる

ただ都築氏の場合は17年間透析していたというのも驚きである。
透析しても人間は普通に生きられるという不思議である。何か病気になったら必ず弱気になる,自分もなんか今年は体弱わった,やはり年なのかと感じた
すると先がないんじゃないかと心配する

都築氏の場合なぜあれほど強気でいられたのか?終始そうであり体の調子が悪いとプログの書き込みがなくなって一カ月くらいで死んだのである。
まだまだ文章からは死ぬものとは思えなかったのである。
だらだら介護されて死ぬのではなく簡単に死んだということで本人も生前介護などされたくないと言っていたからそのように死んだのである。
ひっそりと死んでゆきたいというのももっと有名になりたいということもなかった
その死は見習うべきものがある
死といっても生と死は連続したものである。その人の一生が死にも現れる
だからその死はその人の一生を示していたともなる

ただその実績を問うとき十分なものが残せなかった,弁証論も学として師を継承したにとどまり自らの学を打ち立てることができなかった
それより一つの学を打ち立てることは本当にむずかしい
何か断片的なものとしてプログで発言して終わった
ただその断片的なものでも光るものがあったのである。
そういうことで実績を残せず死んだともなる

何を追及したのかというと一日本人として

豊国の 企救(きく)の浜辺の 真砂地(まなごつち)真直(まなお)にしあらば何か嘆かむ 
(巻7−1393)

これを追及したのかもしれない,これは日本人的なものの見方である。
神道に通じる心である。直し赤き心などという,ただそれは日本の自然の中でそうあるのでありそれが戦争に結びつくのとはまた違う。
良く人の顔を見て批判していた,あいつの顔はだめだとなりその人を評価しない
それは人間の心が顔に否応なく反映されるからだろう。
それは自分が真直なるものを追及してきたからそうなった
ただ横浜とかに住んだらそういう自然はない,田舎でも真砂地というのは砂浜がなくなっている,そこからして日本人の心も失うとなる
実際に企救の浜辺は小倉であり工業地帯になったときその面影すら偲べないのである。

いづれにしろ数年は毎日プログは読んでいた,文章がわかりやすい,読みやすいということがあった,断片的なものでもその人の人生経験からもれてくるものには訴えるものがある。若い人にはそういうものがない,ともかく人間を評価するのはむずかしい。
偉大になればなるほどそうである。ただ死んだとき評価しやすいのである。
要するに簡単に評価される人間は偉大ではないとういことである。
posted by 老鶯 at 07:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層