2017年09月26日

人間は死ぬと美化されやすいのはなぜか? (都築詠一氏が死んで語るもの)


 人間は死ぬと美化されやすいのはなぜか?

 (都築詠一氏が死んで語るもの)


人間が死ぬということは何なのか?死ぬという現実を人は簡単に受け入れられない
骨となり灰となり消える,その変化を受け入れられない
無神論者とか普通にいるし都築詠一氏は無神論者だから死んだらただ消える無になると思って死んだのかとなる
でも一旦死んだとなると都築詠一氏は何なのだろうとなる
今までプログに熱心に書いていたのに急に死んで途絶えた
そして永遠に語らぬ人となったのである。

では都築詠一氏は死んだから全く何もなくなったのか?
肉体は消えた,でも彼が残したものは以前として消えない
その消えないものとは何なのか?それは彼の生きざまでありまたその崇高なものを「心に青雲」を目指した精神である。
彼が現代の英霊になったというときそれは戦争で人を殺したわけでもない
だから戦争で死んだ人達の英霊とは相当に違った英霊である。
それは優れた人が英霊になるのであり戦争に参加しただけではなれない
戦争に参加した人で死んだ人は膨大である,それらが全部英霊になるというのも疑問なのである。

無神論者でも英霊になる人はいる,ただ人間は生きている時はそうした英霊にもなりえないし,祭られることはない,生きていれば何かとケチつける人はいるしおとしめる人はいる,でも何か普通の人でも一旦死ぬと美化されやすいのである。
自分がすでに都築詠一氏を美化しこた詩を書いたのもそうである。
死はともかく人間の見方を変える,生きていれば自分も都築氏を美化したりしないのである。

美化するというとき明治維新で活躍した吉田松陰とか長州の志士たちはテロリストにすぎなかったということが最近言われる,都築氏も言っていたのである。
そもそも吉田松陰のまわりに集まった人達はテロリストでありそこには何の教育も行われなかった,松下村塾などで何か講義されたこともなかった,ただテロリストが集まる場所にすぎてかったとしている
それもそうかもしれない,それは何か死んでから美化されたのである。
吉田松陰は権力をとった長州のテロリスト達によって祭りあげられた
それは司馬遼太郎の小説の影響がありそれで評価が定着した
坂本竜馬もそうである。現実はどうであったのかは歴史的に不明になっているのだ。

ただ何か人間は死ぬと一般的に美化されやすい,それだけ死というのは人間にとって
生きていたときとは全く別なものとして見るようもなる
人間の宗教がたいがいどこでも先祖崇拝から起きているのは死ぬと神となるとか美化されるからである。それはどんなぐうたらな人間でも死んだら崇拝の対象になっていたとういことでもわかる
それだけ人間は死ぬともう現実にいないのだからその人の欠点とか汚いものは見えなくなるから美化されやすいのである。

ただでは自分でも家族が二人死んだけどその人となりは熟知している
だから冷静にいい面でも悪い面でも見ているし死んだから特別な人にはならない
一人は認知症で死んだから無惨だったし一人は死ぬまで花でも庭もいらないとか金がかかるからいらないとか狂気のように主張していたのである。
そういうことを知っているから死んでもそのことに関して今でも自分は頭に残っているから美化しないのである。

でも吉田松陰とかなると現実はどうだったのかとなるとそれを調べるのも容易ではなくなる,だから明治政府になって元勲となったテロリスト達が祭り上げた人にすぎなかったという説もでてくる
元勲となった人達は権力をもったしそれができたからである。
そういうふうに勝者によって歴史は作られてきた
だから吉田松陰は後の権力をもった人達によってち山県有朋となどによって祭り上げられた虚像だとしている

そもそも明治維新というとき一体どういう日本の未来像を描いていたのか?
それも定かではない,ただ幕府を倒して政権をとるという野望だけだったのか?
まずその時どういう新しい社会を作るかという像は描かれていなかった
だからただ尊皇攘夷とか佐幕とかでありそこに日本の新しい像はビジョンは描かれなかった,そこで無益な争いが殺傷が行われたことは確かである。
そういう変革の時期にはテロリストが暗躍する
思想もなにもない暴力だけが全面に出てきてしまう

西郷隆盛によって作られた赤報隊がそうだった,ただ暴力だけで攪乱したのである。
それはシリアのISみたいものだったかもしれない。
その動乱でいろいろな勢力が入り乱れて争いになる
吉田松陰もその思想はアジア侵略思想でありそれが大東亜戦争にまで影響したことは確かなのである。明治維新と大東亜戦争は連続していてその種は明治維新の吉田松陰などによってテロリストによってまかれたとなる

「心に青雲」の都築氏も自分でも死んだとき生きているときとは違った見方になった
10年間くらいフログを書き続けて自分はずっと読んでいたのである。
その歯に衣着せぬ評論は心にひびくものがあった
では都築氏を評価するとき死んでからどうなるのか?
都築氏とはどういう人なのかどういう思想の持ち主なのかとなるとプロクでしかわからない,だからその記録したログが消えることは致命的になるのだ
つまり彼自身が書き残したものから現実を判断する,それしか方法がないということがある。それは間違いなく彼自身が書いたものだから彼自身を知る唯一の手がかりとなるからだ

だから自分はそのプログに書かれたことを手がかりにして批判もしている
原発に関しては疑問だった,原発事故の被害にあった地域は犠牲になってもらわなければならないとか全体の戦力を維持するためには犠牲になってもらうほかないと言っていた
これもおかしいと思わないかか?
そもそも東京で原発事故が起きては困るからフクシマに原発を作ったのである。
そして事故が起きたら犠牲になってもらおうとか言うの東京都民の勝手ではないか
犠牲になるべきは東京都民でもあるのだ,東京に原発を作るべきだったというのは今では正論だからである。
人口に比べたら経済力から比べたら福島はとるにたらないとなり都築氏は犠牲になってもらわねばならないと発言していたのである。
経済的価値からすれば東京がダントツに価値がある,でも飯館村などは森につつまれた貴重な村だった,だからその価値はわからない,ただ田舎にしても昔のように自給自足だったら都会の人に言えた,今は東京の人でも税金を地方に払うから不満になっているのである。

それから都築氏は空手で東電の人とも仲間となっていたりしていた,全日空の人も空手の仲間だったから批判はしない,それはすでに都築氏も利害関係がある人のことは批判しないとなり不公平になっていたのである。
福島は犠牲になってもらおうというときなぜ東電の事故を起こした幹部は罰せられないのか?これこそ犠牲になってもらうべき人間だったのである。

ただこういう矛盾は人間なら必ずあり完全な人間はいない,自分だってそうである。
どこかで矛盾が生まれる,だから都築氏についてもそうである。
ただ都築氏にひかれたのは汚いものと交わらない潔癖性がありそれで常に有名な人物でも批判していたのである。マスコミの人間でも交わると相互浸透するからしないとかなり
そういう人は孤高になる,そういうところに自分はひかれていたのである。
それがフログのみで最後の十年間を主張したということが貴重だったのである。
そして遂に力尽きて死んだのである。透析を17年間して遂に死んだのである。

そして弱みを自分が病気だということをプログではほとんど言わなかった
ただ強気の発言をつづけて死んだ,そのことが何か英雄的に思えたのである。
何も戦場で死ぬだけが英雄とはならない,普通に生活しても英雄的なことは目立たなくてもあるかかもしれない,病気に負けないことが都築氏の場合,英雄的だったとふりかえればなるかもしれない,常に介護される人とか認知症の人とか震災で津浪にあった人でも甘えるなと厳しいことを言っていたが本人が病気でありその弱みを言わないのだから
そういうことを言うことができた,だから非情だとは言えないのである。

ともかく人間は死ぬと見方が変わる,また死ぬとその人の貴重さもわかる
生きていればそんなに関心がなくても死ぬとその人の貴重さをまたその人のことを見直すでも本人は死んだのだから答えはない,生きている人のみが語り都築詠一氏を知るともなる,ただ全部は良しとはてきない,現実に語ったものはプログにまだ残されているからである。

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる

「心に青雲」の都築詠一氏が誉めていた光厳天皇の跡をたどる

kougennntt12233.jpg


光厳天皇の御歌

夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)

冬歌の中に

さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)

ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)

地図を見ると常照皇寺と鞍馬寺と大原が山中にある,都築氏は鞍馬寺と常照皇寺を訪れている,その時自分はそのフログを読んで感想を書いた
インターネットで調べたら常照皇寺のことはでている,写真もでている,それでイメージして自分も短歌を作った。
都築氏は風雅和歌集を評価していた,写生の歌でありリアリティがあると評価していた
ただ写生俳句の創始者の正岡子規は評価していない,というよりそこまで手がまわらなかったともなる,自分は写生俳句から写生の短歌を基にして創作してきた
だからそこを見ていたとは相当に深い見方をしていたなと感心していたのである。
インターネット上には文芸分野では深いものが見られないからそこに注目していたのである。ただ評論としては未完成に終わってしまったのが残念だった
「光厳天皇論」は圧巻だったしそのログは残っている

夕日さす落葉がうへに時雨過ぎて庭にみだるる浮雲のかげ(風雅730)

晩年に常照皇寺で作ったものだろう,これはまさに光厳天皇の心境そのものだった
南北朝争乱に翻弄された一生だったからである。
南北朝は全国に深い傷痕を残した,この辺でも自分の住んでいる場所が霊山城が南朝の城であり炎上して逃れてきた落ち武者が先祖になっている,南相馬市には鹿島区には只野という姓が本当に多い,その只野は郡山の多田野村から発していたのだ
それが南朝に加わり霊山城が炎上してきたとき逃れてきた,それは今も祭りとなって残っているのである。

ただ光厳天皇は北朝であり都築氏は北朝に義があるとして醍醐天皇を批判していた。
日本を争乱に導いたものとして糾弾していた。
そして光厳天皇を高く評価していた,それは昭和天皇と比べて高く評価していた。
昭和天皇はいろいろと蓄財していたとか辛辣にこきおろしていた
右なのに天皇をそんなに批判するのかということで驚いていた
光厳天皇は自ら反省して僧になり乞食までしたと評価していた
昭和天皇は何の責任もとらない,日本国を利用した国賊のような扱い方になっていた
それもやはり現人神(あらひとかみ)から人間宣言などとアメリカ軍に占領されて
全国を行脚して国民に迎えられたがそれも何か責任をとらないしずるいと見ていたのである。それで光厳天皇が反省した態度にひかれた
最後は常照皇寺にこもり果てた,その寺実に質素なのである。それもまた評価している

ただしきをうけつたふべき跡にしもうたてもまよふ敷島の道(御集)

最後まで正しき道を求めたのが南北朝の戦乱で最後まで迷っていたとなる
南北朝とは何の争いだったのかわかる人はいるのかとなる

さむからし民のわらやを思ふにはふすまの中の我もはづかし(風雅880)

この歌も評価していたのは昭和天皇などと雲泥の相違がある。
昭和天皇でも今の天皇でも民を思う心などない,震災で慰めにきて帰れば贅沢な暮らしがあるだけだと言って批判していた。
だからこそ光厳天皇は天皇の中でまれな存在として評価していたのである。

天皇の寺の石段雪ふりて誰かたずねむ山深きかな(自作)

写真がここに

常照皇寺


職務質問してなぜ悪いのか (なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)


職務質問してなぜ悪いのか

(なぜ警察を挑発するのか-コメントの答え)

コメントは直接プログに出ると思っていたら一旦許可してからでないと出ないものがあった

前は許可していたが最近は直接コメントがそのまま出ていたのである。

警察官から職務質問を受けることが
そんなに不愉快ですか?
私も今までに数回、警察官から職務質問を
受けたことはありますが、普通に応じたら
すぐ終わりました。何の不都合もありませんでしたけど。
正当な理由(犯罪に関わっていると疑われる相当な理由)がなければ、そもそも職務質問に応じる義務はない?
小賢しい法律知識を盾に不必要に警察官を
挑発する必要がどこにあるのですか?

Posted by 垰田敦嗣 at 2017年08月29日 10:08

コメントありがとうございます

すぐにプログの方に自動的にコメントがアップされる仕組みになっていたが
このコメントはアップされなかった

遅くなりましたが返答します

職務質問がみんな悪い訳ではないのです
別に自分も旅したときなどは職務質問されています

職務質問はその状況によって変わってくるのです
それを受け入れられるものと受け入れられないものがある
そういう状況を自分は鉄道の部で書いてきました

自分は善意で半年くらい駅でボランティアしてきたのです

それを誰かの悪意の通報でだいなしにされたのです

あやしい人がいるということで警察がのりこんで職務質問すればみんなもあやしいとなる

それは警察がみんな悪いとはならないです
通報した人も悪かったのです

この事情は複雑です

良く自分が何をしてきたのか読めばわかることです

ただフログだけでそれを理解するのはむずかしいかもしれません

鉄道の部を詳しく読めばわかるでしょう

自分が何をしてきたかそれが簡単には理解できないです

何でもそうですが職務質問は全部悪い訳ではないです

要するにケースバイケースなのです

警察はそこを考慮しない

土足で踏み込んでくるのです

そういうことは警察には多いと思いますよ
何しろ権力をもっているからそういう強引なことになりやすい

だから慎重さが必要なのですが
その配慮が警察には全くないのです

そうすると地元からも警察は信用されなくなる
そういう事情は書いてきたのです

人間社会は複雑なのです
何でも職務質問していいかとなったらならない
ケースバイケースでありそういうことに警察は
無遠慮なのです

家族の問題でもなんでもその家族の事情があります,そういう複雑なことに考慮しない
ただ警察にとってもむずかしい面はある

ストーカー問題などでそういうことがあった
だからいちがいに警察を責めることはできないです

でも今回自分が怒った事情はフログに書いたことを良く読めばなぜ怒ったかるでしょう

遅れてすみませんがそういう疑問があるのも当然ですがやはりなかなかその人のことをわかるのはプログだけからむずかしい面はあります

これはフログにまとめて書きますので読んでください


なぜ自分が今回警察の職務質問に怒ったのか?その事情は鉄道の部に書いてきた

自分はこの半年間くらい駅でボランティアしていたのである。
もうそれだけ長かったということである。
なぜそうしてボランティアしていたのに誰かがあやしいと通報したのか?
それは誰かわからない,外部のものかもしれない,しかし自分はそのことでひどく傷ついたのである。

別に自分は旅したときなど必ず職務質問されていたけど嫌だったけどこんなに怒ることはないのである。
つまりなぜ自分があやしいと通報されるのか?そして警察がすぐにかけつけて自分を職務質問したのか?
その警察官は「あやしい」と通報されれば必ず来る義務があるのですと言っていた

そして自分は言ったのである。

ここで駅のボランティアしているから今度通報があったら訳を説明してください

それはできないです

「あやしい」と通報があれば必ずまた来ます

なぜそうなのか?

今自分がこうてし何をしてきたか説明しているのです

そしてまわりのものも認めていたのです

職務質問はすべてに許されいるわけではない

ところが警察では許されていると思っている

「あやしい」と通報されればとにかく相手のことをかまわずかけつけて職務質問する

職務質問していい場合とそうでない場合が確実にある

なぜ今回自分があやしいのかそして警察に通報されたのか?

その理由が全くわからないのです

あやしい素振りがあればいいですがそうではない

自分はずっと長い間駅でボランティアしていたのです

それは駅員に聞いてみればわかる

無人駅でも管理している駅員がいてあっていたからです

自分が何をしているかは回りでもわかっている人はいたのです

そういう善意の行動がだいなしにされたのです

だってそうでしょう

また「あやしい」と通報されるならすぐに来ますと警官が言っていたからです

今説明したし回りでもそう認めているのにですよ

そうしたら自分はそこに普通に安心していられますか?

別にボランティアでなくても駅はみんなが待ち合わせとか交流の場としてもあるのです

それでただうろついているからとそいつがあやしいとなればそうした公共の場に自由に出入りできなくなるのです

そうでしょう,また誰かが悪意で「あやしい」と連絡すればまた職務質問に来ると言ったのです,そしたら安心して出入りできますか?
また警察が来たらやっかいだな,回りでも自分をどう思うのかかなとなるでしょう
それは警官だけが悪いとはならないです
でもただ「あやしい」というだけで相手のことをまるでわからないのにすぐに職務質問するのは許されるのでしょうか?
通報する人がどういう意図でしたかわからない,悪意があるかもしれない
実際それで自分は疑心暗鬼になったのです

自分をこの辺ではあやしいとみている,そして警察に通報される,そうしたら公共の場さえ出入りできないのです
自分の自由は奪われたし常に密告というかそういうものを恐れなければなくなる
それは警察が「あやしい」というだけで職務質問にかけつけることにあったのです
みんなの前で職務質問されればあいつは何なのだと田舎だと目立つのです
自分は善意でボランティアを半年くらいしていたのにそれでできなくもなったのです
あいつはあやしいと誰か一人でも通報すればそして警察がそれに答えればそうなる
むしろ通報した人に問いただすべきなのです

なぜあなたはその人をあやしいと思うのですか?

それが全くないのです,ただ「あやしい」と匿名でも通報すればすぐにかけつける,この次もあやしいと通報があればかけつけると警官が言ったのです
なぜそれほど匿名の通報者を信じるのか重んじるのか?
このことが全くわからないのです

はっきりいって「害悪の告知」という法律違反に通報した人はなるかもしれない
通報した人も罰せられべきでありまた警官も同罪になる可能性がるのです

別にそんなこと気にしないでやれともなりますがやはり警察というのはそれだけ権力をもっているから影響が大きいのです

こうした事情があるし田舎ではまた簡単に誰かが通報したからと職務質問していたら疑心暗鬼になってしまう:それは密告とにているのです
その最大の問題がそうした内輪の問題に警察権力がかかわることで起きているのです
だから権力をもつものは慎重さが要求されるのです
職務質問がみんなが悪いとはならない,でもケースバイケースでありその職権を軽く行使しただけで被害があることもある

だから通報する人にもどうしてあやしいとあなたは思ったのですか?

こうきくべきだったのです

それが職務質問には一切警察では考慮しないです

だから警官は横暴であり警官は信じるなとまでなってしまう

田舎の人でも回りでもそう見てしまうことだったあるのです

田舎はみんなしっているし狭い所で生活している

だから田舎の事情がわからいないで警察が介入することでかえって田舎の和を乱すことだってある,そのことを書きました

ともかく警察が権力をもって横暴になる,そういうことを職務質問などで経験している人が多いから嫌われるとか不信感をもつことがあるのです
権力をもつものは慎重さが要求されるのです
何かそういうことは他でも多く起きているでしょう
そこで警官に不信感をもつ人が増えているのです

それは元公安委員長の人が職務質問されて怒ったことでもわかるでしょう

とにかく一方的であり相手の事情など考慮しない

「あやしい」と通報があればすぐにかけつける,何度でもあやいしと通報があればかけつける
こんなところでうろうろしているなよともなるのです
それはそれだけ警官というのがかかると田舎ではそう見るからです
別に地元に生活しないなら職務質問されてその土地を去るけだからいいのです
あとは関係ないですから,ここでは駅に出入りしなくては生活できないしそういう日常の生活の場なのです
そこであやしいというだけですぐに警察官が何度でもきて職務質問する

そうしたらどうなりますか?

公共の場あですから散歩がてらに来る人もいますし待ち合わせする人もいます
そこをうろついているだけであやしいとさたら出入りできなくなるのです

そんなことで通報する人も悪いですがそんなことを何の考慮もせず職務質問に来るということも納得できない
なぜならみんなが見ている所で職務質問したらあいつは本当になにか悪いことをしているのではないかと回りから見られるからです,田舎だとそういうことにうるさいからです

いづれにしろ今回のことは自分では納得していないです

警察には不信感をもっています,それが警察だけが悪いのではないにしろ権力が介入することがいかに大きな影響をもたらすか
警察では考えるべきなのです,冤罪とかもそうして起こる
それが警察の不信感になり警察だって回りから信頼されなくなる

職務質問ってみんななにか一方的犯人扱いされるような感じを受けている人は多いと思います

ただいちいちそうした事情までふみこむことはむずかしいということがありますがどうしても警察は横暴だなと思う人が多いように思う
今回でも一方的であり何も相手の話しなど聞かないからです

ただ警察に警官には警官の事情がある,それも考慮せねばならない,要するに民主主義とはめんどうなのですが話合いが基本なのです,権力だけで力あるものが一方的に言いなりに行動できるなら民主主義はなくなる
警察にとってそうなると確かにめんどうになるがそれが民主主義であり権力あるものは慎重に相手の話でも聞く必要があるのです
それが全くないからただ怒りになり警察に対して不信感だけが残ってしまうのです

こういう事情を書いたとしても

こいつは警察を挑発している不届きな奴だ,マークしておけ?

挑発という言葉にすでに警察の姿勢が出ている

それははわからないにしても普通の人が挑発しているなどと書かないように思う

警察に逆らう奴は許せないという権力をもつものの姿勢が自ずとでてくる,それが習慣性になっているのが警察や権力をもつ人ににはある,ただ警察にはだからかかわらない方がいいとなっていて表立って言う人はまれである
そうするとそういうことで警察でも警官でもますます冗長してくるということがある
俺たちには逆らえない,俺たちは正しい,いちいち文句言うな,それは警察を挑発している不届きな奴だとマークされる

もしこれを書いた人が警察関係だとしたらこういうことでやはりインターネットでも警察に逆らう奴をマークしているのかともなる,するとは警察を批判するようなことをちっょとでも書けないとなる
それは警察国家となり民主主義社会とはまるで違ったものとなる

ともかくただどっちにも言い分はあります,警察だって相手の事情にどれだけ踏み込んでいいかわからない
それでかえって関係しないで殺人までストカーなどで起きているすから
その時は実際は権力で介入すべきだったのです

つまりケースバイケースなのだけどその判断が簡単にはできないのが問題なのです
それは都会と田舎でまた事情が違ってくるしそういうこともまた考慮する必要があるとなるとめんどうだともなる
ただ警察の影響力がかん大きいから慎重さや話し合いも相手の言い分を聞く態度が必要なのです
それがなにか警察にはないから問題だと思うのです

警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき (一時の赴任では仕事ができない)


警官も医者も教師も他の職業も土着的であるべき

(一時の赴任では仕事ができない)



職質の技術の基本は会話である。が、地域警察官と市民との会話の機会が少なくなっている今日では、職質技術は育たない。本来この職質は、刑事警察官の聞き込みや取り調べの技能の基本にもつながるから、刑事警察官にとっても基本的な技術なのである。

地域に愛されたお巡りさんが退職 住民嘆願、異例7年勤務

同小の橋本佳史校長(55)は「地域にとけ込む努力を欠かさず、私たちにとっては良い仲間でもあった」と退職を惜しむ。先月だけで送別会は7回催され、PTA役員や町内の医師たちが長年の労をねぎらった。同小児童と、隣接する美川幼稚園の園児計25人は「お別れ会」を開いた


警察とか警官の仕事もどういうものなのか?
何か駐在さんなどというときは地域に土着して親しまれた感じである。
第一駐在というとき在とういのはある程度そこに継続して在中することである。
でも7年でも短い感じがする,それだけ今は何か一時的にいる人が多い時代である。
広域化グローバル社会になるとそうである。

そして警官でもそうだが土着性がなくなる,その土地に長くいないからその土地のことをわからない,人ともコミニケーションがとれないということもある
実際コミニケーションとは最もむずかしい問題なのである。
それはどこでもそうでありそれでみんな悩んでいるのである。
田舎などはまるで相互監視状態でありそういうところでは本当は犯罪は起こりにくいともなる
みんなが監視カメラのようになっているからだ,みんな何かしたかを知っているからである。犯罪した人も知っている,ただそこに警察が介入しないだけである

現代は何か相互のコミニケーションが欠けた時代である。インターネットでコミニケーションするというのもそうだがそれで本当のコミニケーションができているかとなると疑問になる
広域的にグローバルに知るにはいいが肝心の実際に生活している場を知ることはかえってできていない,何か田舎町でも何で生活しているのかわからなくなっているのが現状である。
昔だったらたいがい何をしているかわかっていたし相互に関連した社会に生きていた
それが今は田舎町でもわからないのである。

例えばこの辺でタニコーという会社は有名である。その近くに友伸エンジニアという会社があった,それをタニコーに勤めていま人も知らなかったし自分も知らなかった
これは自分にしても小さな町に住んでいるのに知らなかったのである。
それはすぐ近くの小池に工場があるからそれを見てわかった
そして東京から友伸エンジニアの関係の人が来るし社長も来る
東北サッシも有名だが駅に社長が東京から来ていた
社長は東京の人であり地元に住んでいない,そのことは土着していないということである本拠地は東京にあるからだ

東電でもそうである。東電の本社は東京にあり事故が起きたとき本社とコミニケーションができず吉田所長が独断で決めたりした,つまり離れているといくら通信技術が発達しても意思疎通ができなくなるのである。それでその後事故の処理につまづいたのである。
ローマ帝国でも権力の崩壊は地方から起きてくる,それは中央と地方が意思疎通できなくなり地方が独自に力をもつようになるからである。
中央からの統制がきかなくなるからである。
それは戦争のとき起きた,関東軍が天皇の命令をきかずに暴走して戦線を拡大しすぎたのである。

現代の問題は人間と人間がコミニケーションできなくなった時代ともなる
相互の意思疎通ができないのである。
そこに今回のように権力で警察が介入したりするとかえって田舎の和を乱したりする
ただそのコミニケーションにしても簡単にはできないのである。
それは家族だってそうだろう,コミニケーションというか意思疎通自体が最高にむずかしいのである。
だから外から赴任して7年くらいでその土地のことがわかる,意思疎通できるのかともなる

ただ現代は土着性が希薄な時代である。そこで何が起きるのか?
互いに誤解が生じたりそれで争いになったりする,都会であるある女性はそれで被害妄想になり隣人を疑っていたが犯人は風だったのである。
風によって鉢植えの花が壊されただけであり隣人は何もしていなかったのである。
それも日頃から意思疎通ができない,引っ越してきたばかりとかなるとできないからそうなる

現代とはそういうことは非常に多い時代なのである。小さな町すらそうだとしたらもう4,5万の市だってそうなる,ましてや十万以上の市だったらさらにそうなる
もうそういう市が多いのだから当然意思疎通しにくくなる
人間は農業中心の時代は土着的に生きていた,そうするほかなかった
でも広域社会グローバル社会になると移動する社会になるから一時的にいるだけだからその土地とも人とも深く交わらないとなる社会である。

この辺では医者でも前は開業医が多かった,大きな病院はなく開業医が多かったのであるだから一万くらいの町に小児科の開業医があった,そこで自分は幼児の時注射をしてもらいそれが基で成長してから股がヤケドしたように大きな傷として残ったのである。
その頃子供が多いから小児科の開業医も成り立っていたとなる
そして原町の産婦人科の医者は原発事故でこの市のために尽くしたいとしてがんばった
それは開業医だったし長くここで医者を勤めていたからである。
つまり土着的になっていたのである。

何か人間は土着的でないと仕事ができない,報道にしても一見そんなこと別にそこに長く住まなくてもできるではないかとも思われる
ところがその土地の事情に歴史でも自然でも知らないと報道もできない
だから自分は今回の津浪とか原発事故では地元で生活してきたことから報道したのである報道にしても土着的であることが必要だったのである。
確かに外から来たひともいろいろ報道したり本を出したりした
でもやはり地元に住んでいることで地理などもわかり深い報道ができるのである。

現代の問題はあらゆることで土着性がない,そこからコミニケーションが互いにとれず意思疎通できない,警官でもそれができなくなっている,駐在さんなどと呼んでいれば土着しているのである。ただ7年では短いとなる

自分がしてきたこと詩とか芸術にしてもその住んでいる自然とアイディンティティ化することは時間が必要になる,石と樹でも山でも長い時間で見ないとアイディンティティ化できないのである。それは地元の人にとってはそうしたことは実際の生活では関係ないことだったかもしれない,文化的なことでもやはりその土地に長くいないと創造できない。、そもそもエジフト文明は3000年とかで形成されたものでありマヤ文明でもそうである。
日本文明だってすでに二千年とか縄文時代を入れればどのくらいになるのかその歴史は長いのである。

ともかく土着性がないことは現代社会に大きな歪みをもたらしているのである。
それが大きな問題をある時原発事故であれ犯罪であれ致命的にもなる事件となる
大げさだったかもしれないが警官が介入してきてかえって田舎の和が乱されたりもする
それは警察というのが土着的なものではない,一時的に滞在するだけであり田舎に深くコミトメントしない,交わらないということがある。
それだけの時間がないということがある

要するに何でもそうだが時間が関係している,土着的とはやはり時間的にそこに長くあって土着的になる,原発というのもそもそも日本の土着的なものから見れば津浪とか地震かありそれを無視して作ったのだから大事故になったともなる
土着的というとき技術も土着的なものから生まれていたのである。
風車は中東で発明されたのは風が強く吹く土地だからである。
日本でトンネル技術が発達したのは山が多いからである。技術も土着的なものとして生まれてきているのである。
土着的になるとき技術もその土地に根付くということである。

そして意思疎通ができない,コミニケーションができない社会に何が起こるのか?
それは社会的にはファシズムでありナチズムになる。強権的一方的権力による支配である。
そしていかに自動化するとかAI化するとか機械化しても
それ自体が今回の原発事故のように破滅的な事故につながる
機械とコミニケーションできなくなるというか今度はAIが人口知能が暴走するのである。
それを誰もとめられず社会自体のメルトダウンが起きてしまうかもしれないのである。
決してAI化とかは人口知能が万能ではないからだ
駅の無人化でも様々な問題が生じている
なんでも自動化無人化すればいいとはならないのである。
やはり人間と人間のコミニケーションが基本にあるのが社会だとなる
タグ:土着的仕事

2017年09月27日

警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない (市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


警察とか公共機関組織が何でも解決してくれることはない

(市民が国民が自主的にかかわらないと守れない)


都心なんて、もっと狭いのに、 
家からの騒音と、道路でのチンドンのコラボだもんな。 
家族みんな高血圧になったわ。

相談を受けたという警察には止められた可能性があるわけだ 
他の相談量の多さを理由に構ってられなかったでは言い訳できんよ、仕事なんだから


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報

警察に対応して欲しい気はするが 
隣人トラブルに全部介入してたらいくら人手あっても足らん気はする 
解決しようもないってのもあるし

暴言吐いて家に物を投げ入れるって警察から見ると些細なことなのか 
なら警察官の家に物投げ入れても何も問題ないってことだよな?

警察は毎日のようにパチンコ屋で新台の認定してシールをパチンコ屋に売る仕事をしてるから
ご近所トラブルなどに対応する時間はない

警察に相談しても被害に会ったらそれを動画に収めてくださいと言われる 
暴言吐かれそうになったらスマホで素早く撮る 
それが無理だったら豊田議員の秘書みたいにわざと挑発して 
ボイスレコーダーを起動させ録音する 
そうすれば警察は動く

警察はほんと動かない 
基地害が上から物を(ビール瓶とか)捨ててたから相談したけど 
壊れたものがないとかで事故を未然に防ぐ努力を一切しなかった 
物が当たって死んでからしか動かないらしいよ@練馬警察


相談に行くからあしらわれる 
騒音やトラブルはすぐ110番通報


警察に相談に行っても受け付けない,なぜか?
警察はなるべくかかわらないようにしている,犯罪でも明確な証拠がない限り動かない
殺人事件などは別にして警察はかかわらない
騒音問題などは特にそうだろう

要するに前に書いたように騒音問題でも双方の事情を知ることがそこに長く住んでいないとわからないのである。
その人がどういう人なのかもわからない,だからよほどその土地の事情に詳しくならない限り仲裁とか簡単にできない
かえってこじらせたり悪い方向に向かわせたりする

だから警察を呼びたかったら110番通報することある。
「あやしい」人がいるとうだけでかけつけるからだ
おそらくそれは119番と同じ効果がある,公安委員でもそういう取り決めになっているし
あやしいと言われれば相手が匿名でもなんでもかけつける
そういう仕組みに警察はなっているのである。

それで自分もそうしてあやしいと誰かわからない人に通報されて職務質問された
そして事情を話して回りの人もそう言ってくれたのに
あやしいと通報されればまた来ると言っていたから駅に自由に出入りすらできないような状態になった

何かこうしたもめごとは本当にむずかしい
これは警察に同情することもある
ただ回りの人が犯人に同情することはやはり相手にも非があったとなる
そこに土地の事情に詳しくないと仲裁もできないことがある

何か事件があるときは積り積もったものがある,それを知らないと仲裁も何もできない
でも警察でも他のこともあるしかまっていられないのである。
そしてへたにかかわると警察が責められることもある
自分のことでもなぜそんなことで警官が責められるのかと見る人もいるからだ

つまりこの事件も土着的でないということで起きた面もある
新興住宅街によそ者が移り問題が起きたからである。
何か今はそうしてみんな土着的な生活をしていない
だから近隣トラブルが増える
警察でもそうした社会状態に対応できないのである。
警察もかかわってもかかわらなくても文句が来る
それは市役所でも常に苦情が来て困っていると言っているからだ

実際なんでも警察に頼ることは無理だし警察のやるべきことは限定せざるをえないかもしれない,それで私立探偵などに頼ったり民間の自主バトーールとかも必要になる
警察で何でもできないのである。
ではそうしたトラブルを解決するような社会でもない
長屋のもめごとは大屋がしていたから大屋はやはり事情に通じているからできる
そこに住んでいる人がどういう人か熟知しているからできる
そして意外なのは長屋に住む人は実際は長く住んでいたのである。
今のように変わりやすい社会ではなかった
だから浪人のようなものがふらりと来て長屋に住むということではない
長く同じ長屋に住んでいたのである。
江戸でもそうして同じ長屋に住んでいれば相手のこともわかるからトラブルでも治めやすいとなる

公共機関がいろいろある,市役所もあり学校もあり病院もあり福祉施設もあり警察もありとではそうした公共機関が何でもできるかとなるとできない
かえって害を及ぼすのもそういう機関であり組織にもなる。
なぜならみんなそういう公共機関は権力をもっているからである。
学校でも病院でも老人福祉施設でも警察でもそこに頼めばなかなか文句など言えない
それはそこにあづけてしまうからそうなる
もし家族だけでまかなうようだったらそういうことはないのである。
そういう公共機関は確かに助ける場でもあるが逆に冷たい場所であり人を苦しめる場にも変わる

いづれにしろ現代の社会は様々なその構造に問題をかかえている,でもそういう社会なのだからどうにもならないという面はある
ただ人間社会はそもそもが市民が国民が作るものでありそうした機関や組織が作るものではない
例えは自衛隊というのも組織機関としてある,それが本当に国を守ってくれるのかというとそんなことはない,国を守るのは市民であり国民である。
もし国民に自国を守る意志がないなら自衛隊とか軍隊がいくらあっても守ることはできない,最後は志願兵ともなり特攻隊ともなり敵と戦う意志がなければ守れなくなる
つまりボランティア精神がないと国も守れないのである。
最後は機関や組織がいちらあっても守れないのである。それが生死をかけるとなると余計にそうなる,なぜ自衛隊でも警察でも俺たちだけが死ななければならないのかとなるからだ

だから最後は政党でも組織団体でも機関でも守れない,国民がそういう意志をもたないかぎり守れないのである。
戦争というのではなくても自由とか民主主義とかもそうである。
国民がそれを守ろうとしなければ誰も守ってくれないのである。
ただ法律があり民主主義があってもそれは名ばかりになってしまうのである。
日本にはお上のままにお上を信じるというかまかせるというか長いものに巻かれろとかある,そうなると本当に市町村でも国でも守れない
そういう機関が組織があっても何でもしてくれるわけではないからである。
何かそこを錯覚している,錯覚させられている
それは危機の時わかる,今回の原発事故などでもそういうことが露見したからである。
国や官僚とか検察でもマスコミでもあてにならないか知ったからである。
そして結果的にその被害はそこに住む住民とか国民が受けるのである。
責任はこの辺のようにとらされるのである。

報道だってそうである。,マスコミの報道をうのみにしていたらそれで自らに害が及ぶ
マスコミは偏向しているからである。
でもそのことを言う前に対抗策がとらねばならない
インターネットなどはその対抗策になる,自分でも報道機関の一翼をになっているのだと自覚するようになる
その影響力はわずかでも自分で報道してその自覚をもったからである。
それがなにがしか社会に影響してゆくこともある
今までなら何も言う場がない,マスコミを通してしか言う場がなかったからである。
インターネットは市民のメデアでありマスコミのマスメデアとは違うのである。
そこから「心に青雲」の都築氏のような過激な言論も生まれたのである。
それはマスコミでは一般社会では出ないものだったのである。
でもそのログが消えたということが問題なのなのである。
全部ではないにしろなぜ消したのか?自ら消したのか?
死んだとき消えたのである。それが残念だったとなる

制度疲労を起こしている現代社会 (大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)


制度疲労を起こしている現代社会

(大きな機構組織会社は機能不全化しやすい)



私は日本人の付き合い方は大企業ではなく、中小企業こそ、その良さを引き出せるものがあると思っています。つまり、企業レベルが大きくなっても一緒に汗をかくその協業精神が維持されないとだめなのだろうと思います。

巨額の不良融資を原因として倒産したA銀行の物語をしよう。大蔵省はその処理に介入した。これは監督官庁として当然のことだが、その処理の過程で大蔵省は巨額の税金を投入し、今後も巨額の税金が投入される可能性を残しているのだが、これらは当然のことだろうか。
監督官庁である大蔵省は、「金融不安を防ぎ、国民生活を混乱させない為」に、それまでに何を監督していたのか。これらについては追求されなければならない。

総ての官庁は、それぞれが所掌することに対して大きな権限を持っている。だがその権限の行使の結果に責任を問われることがないことも、総ての官庁に共通している。彼らはどれほどの失敗をしても崩壊し倒産することはない。そしてこの事実によって彼らは自己浄化・自己改善の動機を持たない。そしてその為に彼らは同じ失敗を、あるいは犯罪を、平然として幾度も繰り返すのだ。


役所-市民の自治

警察-市民の自主バトロール-私立探偵

病院-開業医-民間療法(漢方医)

老人ホーム-民間のホーム-家

銀行-サラ金-個人の金貸し

学校-塾-家

ハウス会社-地元の大工


何か現代はこうした大きな機構とか組織とかに頼りすぎるしそういう社会になった,
それは専門家社会だとかイリイチなどが指摘した
人間が無能化される社会である。自主性をなくして専門家集団組織にたよる
宗教でもカルト宗教団体にたよるとか困るとはそうした組織集団に頼る
そのことが人間の自主性をなくしてそもそも市町村でも市町村を作るのはその市民であり役所で何でもできるはずがないのである。

だから例えば不思議なのはこの辺では原発事故などで避難して町に村に人が住まなくなった,でも最初に住むというか入ったのは役所であり警察であり銀行とか農協とかであったゆうちょも入った,ではそれだけで復興できるかとなるとできない
肝心の市民が町民が村民がもどらないからである。
そして肝心のそうしたそこに住むべき人間が復興の意志がなければ復興はありえないのである。そういう機関が元にもどっても肝心のそこに住んで生活再建する人が帰ってこないのである。

役所とか警察とか病院とか銀行とか学校でも大きな組織であり国が関係しているのが現代である。でもそれらですべてまかなえないから警察に相談できないから民間療法に頼むとか警察だったら私立探偵に頼むとか学校だったら教育だったら塾に頼むとかなっている
それらは大きな機関があってもすべてまかなえないから補う役目なのである。

これらを見ると警察でも病院でも大きなものだが自主的パトロールとかなると少人数でできる,実際にしていた,病院というとき大きな組織であるが開業医とか漢方医とかは個人であり開業医などもそうである。

そして何か役所でも警察でも病院でも学校でも普通にあるものだと思うようになった
でも不思議なのは江戸時代を見ればそうとはなっていない,確かに警察に代わるものとして役人がやはりいたし幕府があり地方で藩が治めていた
だから警察のようなものはあったし病院はないにしろ町医者はいた
学校でも寺子屋があり代わるものがあった
大きな組織機構を補完するものが江戸時代には主役だった
明治維新後にそういうも大きな組織機構ができたのでありそれまではなかった
官僚機構だって江戸時代にはなかった,幕府とまた官僚機構は違っていた
侍が基本的に治めていたのであり官僚ではなかった

だから一見当然現代にあるべきものが実はまだ明治維新後できたものであり歴史的に長いとは言えないのである。
なぜそんなことを考えるかというと何かあらゆるものが明治維新後の近代化で制度疲労をきたしている,社会のニーズにかえって答えられなくなっている
警察でも書いたようにそんなに様々なトラブルに介入できない,処理できない
複雑な社会になっているからである。だからかえって権力で介入すると社会を田舎の平和を乱すことにさえなる
だから警察はそうしたもめごとにはかかわないのである。
かかわるとかえって問題をこじらせたりするし警察が介入してうらむ人もいる
だから簡単に介入できないのである。
それが職務質問で自分が経験したことを書いた

この大きなものが必要でも制度疲労を起こしている,大きいが故にかえって機能しない
田舎のもめごとだったら江戸時代なら大屋とか地元の顔役でも治めていたのかもしれないヤクザでもそういうことをしていたというとき地元のことを知っているからである。
警察は警官は一時派遣されるだけだから地元に精通していない
そこで相談しても頼みにならないしかえって田舎のことを知らないで和を乱すようにもなる

これからは逆に補完的役目をになう小規模なものが社会で有益になるかもしれない
ボランティアなどはそうした役目がある。
だから警官に対して自主バトロールした人が逆に職務質問したり薬物をもっていると装い警官をだましてそれをyoutubeで放送したとき百万人が見たのである。
なぜそうなったのか?日頃職務質問で嫌な思いをしている人が多いから警察ざまあみろとなったのかもしれない
警察がからかわれたことに拍手喝采になったのかもしれない,警察は権力を笠にきて庶民をいじめているということがありそれでみんな拍手喝采したのかもしれない。
警察が笑い物にされたのでありそれがみんなも喝采していたのである。
警察に不満をいだいているからそういう人もでてくる

現代は大きな組織に機構に会社でも東電のような国並の会社に社会が牛耳られる
そういう会社は国でも官僚でも警察でも官僚でも支配できる:マスコミも莫大な宣伝費を払い原発推進した,金で社会を動かし支配できるのである。
その大きなもが社会に大きな弊害をもたらす,だから大きなものが社会にとっていいとは限らない,病院は必要でもそれを補完するものがかえって今では有効になっているのかもしれない,なぜならそうしたし大きなもの国がかかわるようなものが制度疲労を起こしているからだ,もう複雑な社会に対処できなくなっている
職務質問しても検挙率は10パーセントくらいしかない,警察でも複雑な社会に犯罪でも対処できなくなっている

いづれにしろこうした大きな社会のインフラというかそうしたものが制度疲労を起こしている,そしてこうした大きなものを制度を機構組織を建物を維持するのには莫大な金がかかる,国ではだからもう病院を維持できないとするとき国がつぶれるような金が老人医療などにかかる,それは主に病院を維持するためにそうなっている
国で維持するようなものが役所でも警察でも病院でも学校でもその他福祉施設でも制度疲労を起こしている,それによって国はもうまかなえない,今度は消費税10パーセントにして教育費を無料にするというがそれもいいようでまたそうした制度とか機構に組織に国で金を使うことになる,むしろ塾とか小規模な教育機関などに援助したらいいのかもしれない。民間の小規模な医療機関を充実するとかの方が効果的なのかもしれない。大きな政府はいらないというとき制度疲労を起こしているからただ国で上からの官僚からの支持ですると金ばかりかかり効果を上げられない
そして国民の負担のみがふえて国もつぶれるようなっているのである。

銀行でもつぶれるとなると国の税金が使われる,それを監督するのは国だけど国の責任は問われない,そのツケは国民に税金の無駄使いとしてはねかかり消費税が上げられる
誰かの不始末はみんな国で引き受けそして国民がその責任をとらされる
それが現代の社会であり仕組みである,それが原発事故で一番明らかになったのである。
タグ:制度疲労

「心に青雲」都築詠一氏の人となりをふりかえる (自分とにたものがあり世代も同じだった)


「心に青雲」都築詠一氏の人となりをふりかえる

(自分とにたものがあり世代も同じだった)


文明の発達が人間を弱い方向へと引きずりこみました。あらゆる便利さが弱くても生きていかれそうな錯覚を与えました。
 (中略)
 存在意義があるとすれば、それはひたすら強く生きることにあるのでしょう。

ここで人生の土台とは、まともに生活する、すなわち健康的に生活できることがそうであり、それなしには生きることの理想をいくら掲げても健康的な生活を保てずに、病人や、半病人になったりして、ゆがんだ生活で生きることになってしまったのでは、どうしようもないのです。

すなわち、人は信念や情熱などの精神的生活のみでは現実の世界でまともに生きていけないのです。 (引用終わり)

彼は病弱だとか一人っ子だとか金持ちの家に生まれたとか知った
成蹊大学などはそういうお坊ちゃん大学なのだろう。
なかなか地方の人は入りにくい大学になる,そこに都会と田舎の差があったかもしれない文系だったらどこの大学かなど関係ないだろう。
文学部だったというとき彼はめずらしく短歌でも俳句でも他にいろいろな作家を批判していた,こきおろしていた。
そういう鑑賞力があった人である。これはだからインターネット上ではめずらしいことだった,空手関係の人は武道には詳しくても他の教養がゼロの人が多いみたいだ
ただ武道の面ではそれなりのものをもっているから批判している
実際に文武両道の人はこの世にまれだろう。
どうしても文弱になったりするし文学にかかわる人は病弱のが多いのである。

ともかく都築詠一氏は確かに金持ちの家に生まれ恵まれた環境で育った,それは自分ともにている,ただ相違がその時東京と地方という差があった
あの頃はやはり東京と地方の差が大きかった
東京に憧れ人が多かった,でも地方だと田舎ではクラスの三分の一くらいが金の卵として集団就職したまだ貧しい時代だったのである。中卒が普通にいたのである。
団塊の世代として共通であり親近感も都築氏には覚えていた
ただ別に会ったこともないしプログだけの出会いだった

その後の就職先は編集とか文学関係とかにたずさわっていた,それも恵まれたことなのだろう。そんなところに簡単には就職できない,なぜ朝日新聞社に就職したのかもわからない,右なのだから何か辻褄が合わないがそういうことは人生にはある

ただ彼の強さへの志向は強かった,それも自分とにている,弱いものはなんとか強くなりたいのである。自分も体が弱かった,体が弱いということは実際は精神に相当影響するのだ,頭脳にも影響する,勉強するにも社会で働くにも頭脳だけでだめである。
心身共に健康でないとだめなのである。
自分は強くなりたいので大学の合気道部に席を置いていたが一年でやめた
その時良くやれたなと今でも我ながら感心する
そこで基礎を築いたから今日あるともなる
それまでは高校では落第するような状態だったし人間としても全くわがままだったし集団に適応できない人間でいいところがなかったのである。

人間とは若いとき30頃まですでに人間ができあがる,なぜなら若いときは自分のような体力がなくても無理ができたからである。若いときはやはり一番誰でも力があふれているからである。
そして地方だと家族がいないから栄養とかその他苦しいものとなるからだ
何か自分は体が弱いのに20代とかは苦しい目にあって体力が消耗してすでに老成していたのである。
だからその頃と今の顔つきなどが同じなのである。
なぜ自分がその後まだ生きているのか?
それは30代頃からは家で楽した結果のなのである。家族がなんてもやってくれたから自分は本当に楽だったのである。そのことで体力も回復してここまで生きたとなる
そうでないと早死にしていたと思う
都築氏の場合はかなり空手に励み無理したことが早死になったのかもしれない
過酷な訓練を強いていたからである。

人間はみんな個々にどういう人生をたどるかわからない,生まれもあるから都築氏も自分も幸運だったとなる,彼は平凡な普通の人間であることも共通している
天才という人を知っているけどそういう人は生まれつきなんでも備わっているのである。普通の人は努力しなければできない,武道なんかでも生まれつきがいい人は楽にこなせるスポーツでも天才的な人は常にいるからである。
ただ文武両道の人は本当にまれだと思う
彼が文学に通じていたことは武道家ではまれだろう。ただその評論が十分に展開されなかったのが残念である。

すなわち、人は信念や情熱などの精神的生活のみでは現実の世界でまともに生きていけないのです。

人間は体が弱れば精神も弱るのが普通である。なんか自分はちょっとでも体が弱ると心も弱る,だから都築氏も体がもともと弱かった,それで健康志向が強くなったとなる
もともと強い人は健康に無頓着なのである。
そういう人は無理もできるし強がる必要もないのである。もともと力にあふれていて別に武道などしなくても強いのである。そういう人が身近にいたからうらやましいといつも思っていたのである。ただ最後は弱く無惨に死んだのである。
いかに強き人もまた最後は老人になり病気になり弱くなり死ぬものだと驚いたのである。

存在意義があるとすれば、それはひたすら強く生きることにあるのでしょう。

都築氏はこのことを貫いた,透析のことは語っていたけど17年も透析していたとは思わなかった,でもそのことはあまり言わず弱さをフログでは出さなかった
それが何か英雄的にも今になると思える
介護される人も批判していたが自分はそういうことにもならずプログに調子が悪いといって書き込まなくなったら死んでいたとなる
それだけ強さを言ったのは言葉だけではない,実際の生活で実践していたのである。
震災の被災者にも同情しなかったなどと批判がある
それもわかるが体育館に入っていたときなどは苦しいからそんなことは言えないのが普通である。
でもその後仮設に入ってからはみんなパチンコ通いとか遊んでいただけなのである。
だから自分もそこは地元でも批判していたのである。

空手関係者とかは彼の文学的理解の深さとかはわからない,武道に関しては何か言うことはある。でも武だけの人間となるとかたよった人間になる
ただこの両方を備えるとなると至難だとなる
彼の人となりなかなか理解されなかった,それは文学関係などで理解できない人が多かったからかもしれない,自分は日本文化について理解が深いなと感心していたのである。

天から気合がひびく
そして活を入れる
日本人の心を正さむと
天から気合を入れる
秋のみ空に清らかに
きらめきあう星なれや
天にその気合はなお木霊する

この引用は誰かが引用したのもである。彼の文を引用していたものは残っているが全部は残っていない,それが残念だったとなる
ふりかえるにしてもふりかえることができなくなった
ただ断片的に引用されたのは残っているが少ないのである。
ただ彼がどういう人間だったかはある程度は理解している

いづれにしろ空手関係者は都築氏のことをこきおろしいるが恥ずかしいからやめた方がいい,文については学についてはそういう人は何もわかっていないからだ
いくら武にたけてもいても人間として低劣だとなる,武と精神性は一体化しなければならない,武だけだったらそれは獣と同じようになってしまうだろう。
江戸時代とかもののふは侍はそうではなかった,そこが何か今のスポーツ関係者とは違っていた。

真夜中をすぎてもなおも虫の鳴く命短くせつなきものかもか

2017年09月28日

常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏 (常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


常照寺を訪ねた「心に青雲」の都築詠一氏

(常照寺(光厳天皇),鞍馬山(義経),大原の幽居)


「心の青雲」の著者が求めるものは何なのか (鞍馬山に上り義経と一体化する)

templekyoto11.JPG

遠きかな都を離れわびずまい庭の桜に夕日さしあわれ

戦乱を逃れて住みぬ山の寺花そここに散りしあわれも

天皇の悔いてここにそ死ににけりその跡あわれ夕桜かな

(大原)

大原の闇の深きに花そ散るここに逃れてはかなき夢かな

都より遠く離れて春の星きらめき清し流れひびきぬ


志高くもありて果てにけれ正しく清く秋の星光る



なぜあれほど都築氏は光厳天皇にひかれたのか?
南北朝の争いでは北朝に義があるとしていた
後醍醐天皇を批判していた,ただ南北朝は本当にわかりにくい。
ここで考察するのはそのことではない

京都の地理的位置なのである。自分は大原には行っているけど鞍馬山とか常照寺には行っていないけど大原に行った経験からすると京都の街からずいぶん遠かったなという記憶がある。京都でも街を離れて山の方に入ると奥深い,バスで二時間くらいかかったような気がする,それだけ離れているということである。

地理的感覚は何度も言っているが実際にその場に行かないと身につかない,遠いという感覚でも一回でもその場を踏めばわかる,自分は全国を隈なく旅しているからでは常照寺がどういう場所なのか?大原を想像してわかるとなる
常照寺はやはり大原のように京都の街から相当に離れた山奥である
そこに光厳天皇が隠棲した
ただ自分が行ったのは30年前とかそれより前であり記憶がおぼろになる
ただ一回行ったということで地理感覚が残っているのだ。
京都にはもうそれだけの間行っていないのである。
ただ歴史はやはり地理でありその場を踏むことで実感することがある
それで実際に都築氏は鞍馬山と常照寺に行って光厳天皇と義経を語ったのである。

京都の魅力は様々な歴史的なことがありそれが魅力になるがいろいろありすぎてわかりにくいのである。京都から離れたそうした山奥も歴史的人物が関係している
そういうことは地方ではあまりない,そういう歴史的人物を彼は語ることができる人物だった,自らもその時義経やアレキサンダーとか一体化していたのである。
もともと体力的に弱かったからその憧れが強かったともなる

まず京都を知ることは容易ではない,これだけもう京都に行っていないのだからイメージもできなくなる,最近は外人が多いから行きたくないこともある
自分が行ったときも修学旅行生が騒いで情緒を壊された,今はもっとひどい,日本は貧乏になり観光でもうけるというとき一方で必ずマイナスの面もでてくる
京都は古都らしくしんみりと歴史の場などを散策したいとかある
そういうこともうかなわない,だから自分は人のいない阿武隈高原の道を自転車で行った方がいいとなる

いづれにしろ京都にはいろいろな古跡がある,その魅力は歴史で作られたものであり
他では作れないのである。まさに千年の都だからである。
ただ光厳天皇に都築氏があれほど注目していた,そして昭和天皇のふがいなさ,節制のなさを辛辣に批判していたのである。
そういうふうな見方もあるのか教えられたのである。
やはり人間はそれぞれが独自の見方をするとき教えられる,刺激を受ける
何かパターン化した見方では真実は見えない
天皇が被災地にきてありがたいなとかテレビに写されてみる,でも帰ったら贅沢な暮らしにもどるだけだと批判していた
一方で光厳天皇は乞食までして己をふりかえり反省していたとほめていたのである。
ともかくいろいろな分野に独自の見解をもっていたのである。

それにしても介護で十年間ほとんど旅行をしていない,でも一回でも行ったところは記憶に残っているからこうしてふりかえりイメージできるのである。
問題はいかに旅の場合に五感で感じて記憶に残すかが大事になる
ただ大原は何かバスで行って遠いなというのが実感としてあった
やはりそうした実感が記憶として残される,ただあいまいでぼんやりな記憶になっているのである。
インターネットの便利なのはインターネット上で旅をたどることができることである。
常照寺の写真もでていてイメージできた,質素な寺だったのである。
なるほど光厳天皇にふさわしい寺だとインターネットからイメージできる
ただ地理的感覚は一回その場を踏むのと踏まないのでは相当に違う
大原に二時間くらいバスで行った記憶が残っているから常照寺もそういう奥深い場所だなとイメージしたのである。
でも本当に実感したいならそこまで行く必要があるのだ。
何かもう最近そうして旅する気がしないのである。

龍安寺石庭,鎌倉五山を語る (心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)


龍安寺石庭,鎌倉五山を語る

(心に青雲の都築氏の見方から詩を作る)

templeee1_FotoSketcher.jpg

白砂の庭を美しく見せようとしたのではなくて、その欲を棄てきったところに現れる「美」を、私たちは500年の時を経て、発見しているのである。だから最初に述べたように、創建者の禅僧が、今に生き返って庭を見たら、驚嘆するはずなのである。

だが石庭の白砂を掃除してならして何になる? 今なら観光客に見せて拝観料がもらえるとかだろうが、昔はまさに愚にもつかぬ作業である。誰が見て褒めてくれるわけではなかった。
 その場合に、嫌々やるとか、適当でいいやと思いながらやると、その感情で自分を創ってしまうことになる。

 ここがおそらくは修行の根幹である。愚にもつかぬ行動だからこそ、立派な感情を創るにふさわしいのだ。これは否定の否定である。
 弁証法を知らなくても、龍安寺の往時の僧らはこれを見抜いたのだから、すごいことだった。
 自分の感情でものごとを為そうとしてはダメで、禅の感情なり、その寺の開山の感情にならないといけない。

 五山文学を読んでみると、禅僧たちが「個人」になっていることが見てとれる。それ以前の平安時代の宗教は鎮護国家としての宗教である。天台宗、真言宗などはその典型である。

龍安寺石庭の謎を解く


枯山水の庭

白砂に石
方丈の庭
単純明快な配置
清純と質素
静粛な美
石は黙して
石は喝!
誠の石
ひびきあう
雑音なき楽のように・・・



三門譜

建長寺訪
三門威風
落葉踏想
五山禅僧



都築氏の見方は日本文化に対しても深い,なかなかこれほど語れる人はいなかった
その時代と社会から個々の文化をみるべきだと主張していた
その時代と社会の全体の像を見ないと個々の文化も理解できない。
鎌倉時代は平安時代と違い宮中の貴族文化から武士の文化,質実剛健な文化に移行したのだ,鎌倉時代は日本の武士の時代を築いたのである。
何か鎌倉時代というとき今は鎌倉という狭い領域でみる
でも鎌倉時代は東北まで広がった時代なのである。

平泉政権が滅びたとき鎌倉の武士,関東の武士が東北に移住した
相馬氏などせそうであり野馬追いの旗は鎌倉時代の武士に由来してはじまっている
宗教でも鎌倉時代に平安仏教とか国家鎮護の仏教から日蓮宗や念仏宗や禅宗と変化した大きな変革の時代だった
その大きな変革の原動力は何であったのか?
それは馬を駆使した関東武者の台頭だったのである。その流れとして相馬氏があり相馬野馬追いが生まれた,これは平将門からはじまってるのである。

他で平泉政権が滅ぼされたとき関東武者が東北に移住して先祖になっているのである。
そういう大きな広域的な変革の時代だった,その時代と社会の中で個々の文化が興隆したのである。
個々の文化でもそうした大きな時代と社会を見ないと理解できないというのがわかる
だから都築氏の視野は広いし深いのである。
そのログが消えたことは詳しく検討できないから残念になる
誰かが残しているのもあるが普通だったら全文でも検索することができたからである。

自分は都築氏が生きている時は自分はこのように答えて書いていない
都築氏は独断で書いて終わった

そもそもインターネットはパソコン通信からはじまっていた
その時から自分はワープロでしていた,それか何なのかわからなかった
それは若い人たちがパソコンの技術開発,ソフト的開発に貢献していたのである。
なぜならその時まずパソコンは高価なものであり誰も使えるものでも買えるものでもなかったからである。30万とか何か非常に高いものだったのである。
自分は理系ではないしそういう技術的なことは知らなかった
でも富士通のワープロで通信ができたのでたまたましていたのである。
それは訓練に終わったのである。

そしてインターネット時代になったときようやく社会に普及した
でもこのインターネットというメデアをどう利用するかはまだわからない人がいる
プログになると独断で延々と書くようになった,そこには対話がなくなった
パソコン通信の時代は必ず誰かが書いたらレス(レスポンス)が必要でありそれがないものは有効にならない,なぜなのか?
それは技術的にまだ未熟であり書いたものが通信されて到達したがどうかもわからない
だから確かめるために必ずレスが必要だったのである。
そういう形式で発達してやがて今のようにインターネットで一般化したのである。

ネットではレスすることが不可欠だった,そういうメデアだったのである。
テレビなどでも新聞でも今までのメデアはマスコミが発言していたのであり一般の人は埒外だったのである。
ただその内容は稚拙なものが多かったし今でも稚拙なものが多い
文学関係とかなると他でも膨大なゴミになっている
俳句でも短歌でも詩でもそうした高等なものより世間話が中心だったし今でもそういうことがある。

だから都築氏はそういうレベルとはまるで違っていたから驚いたのである。
でも都築氏はネットがどういうメデアなのかわからなかった
だから延々と独断でネットにプログに書き続けたのである。
第一とても彼の評論に答えられる人はいなかったと思う
空手関係では武の世界ではスポーツ関係ではいたが文学とかなるといない
そして自分は今こうして答えている,レスを残した文につけている
こういうことが本当はネットの醍醐味だったのである。
それができずに都築氏は死んだのである。
彼は何かそういうレスポンスするメデアの特徴を無視して独断で書き続けたのである。
それは自分もそうだがやはり高等になるとレスするにしてもできない
自分はだから短歌とか俳句とか詩で答える
そこに対話が成り立っているのだ

2017年09月29日

巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会 (そして恐竜のように自滅してゆく?)


巨大なる機構会社などが機能不全に陥る社会

(そして恐竜のように自滅してゆく?)


肥大化した組織が自壊する5つの理由と、小さな組織の台頭

明治維新後は近代化であらゆるものが国家の役割をにない,国家のために富国強兵を目的として社会が変えられた,強力な中央集権国家になった
それは対外的に外国と対抗するためである。
警察でも中央集権国家の中で侍に代わり生まれたものである。
軍隊も明治以降は国家の軍隊として生まれたのである。
藩の時代は藩中心の軍だった
つまり明治時代以降は国家中心の国家のために尽くすものとして社会が変えられたのである。
江戸幕府時代の藩をなくして廃藩置県にして四民平等しにしたのもそうである。
西南戦争で国民軍が西郷隆盛のひきいる武士集団に勝ったことで国民の軍隊となった
明治からは強力な中央集権国家に変貌したのだ
言葉でも標準語に変えられた,明治維新後は欧米とか列強と戦うための強力な中央集権国家になっていた,その継続としてアメリカとの熾烈な戦いがあり敗れたのである。

まず江戸時代は国家は意識しない,天皇も意識しない,それぞれの藩が国だったのであるだから国家意識をもつことはない,
天皇などは地方では知らないということもあったろうそれが強力な中央集権国家になったとき天皇が国の中心となり太平洋戦争に向かったのである。
明治以降は国家のために生きていたのであり一般的に個々人の価値観に生きることは許されないことがあった

だから絹を生産するのも国力を充実させるためでありその輸出で外貨を稼ぎ軍事力の増大に使っていたのである。国家のためにと働かせられていたのである。
一に国家,二に国家,三に家があったのかもしれない,その家も国家に尽くすものとしての家だった,戦後の家父長制は国家の意向が働いていたのである。

戦後はそうした国家のためにという価値観は否定されてきた,そして今度は企業戦士となり会社のために働くようになり高度成長時代を築いたのである。
でもやはり中央集権国家というのは制度に残っていたのである。
地方でも国家から中央から地方交付税とかを配布されるから経済的に中央が支配する体制ができあがっていた
そしてあらゆる分野で国家が関与する,官僚がその税金を使うようになった

それが警察でもそうであり医療関係でも病院であれ福祉施設であれ銀行でも国家が関与して経営する,国民健康保険自体が国家が運営するものだからである。
だから教育でも明治以降は学校制度ができて中央集権の国家のために尽くすように作られた,学校自体が国家のためにあったのが明治以降なのである。
寺子小屋だったらそれはただ読み書きそろばんを習うだけであり国家など関係しないし,江戸時代などは村が中心であり国家など関係していないのである。

そういう巨大な国家運営するための機関が組織が肥大化する,その巨大機構が機能不全に陥ってくる,制度疲労を起こしてきているのが現代である。
巨大なものの危険はあまに巨大化して肥大化してそれで社会までおしつぶしてしまう。
東電なども国家並の巨大企業でありそれは福島の一地域に原発を造った時,事故となり住めなくなった
それは国家が地方などつぶしてしまう力を持っていた
それは巨大なるがゆえにそうなったのである。

巨大なるものの危険性はそうして自然でも一地域でも破壊する力を持つことである。
そして巨大なるものは巨大なるが故に自ら制御できなくなる,結果的に原発事故のようにメルトダウンして何もできない,そこには人は住めなくなる
それはあたかも恐竜のようにも見える
恐竜は巨大なることの故に自滅したのである。かえってネズミのようなものが盛んに動き回り適地に逃れて生き延びた,恐竜は巨大なるが故に動くのも遅いし小回りがきかないから自滅したとなる

国でも必ずしも大きな国がアメリカでも中国でもロシアでもそうだが強いとも限らない
なぜ北朝鮮のような小国を相手にアメリカが右往左往しているのか?
それは核だと大国に対等に対抗できるからである。アメリカでも一発核弾頭がうちこまれたら大被害になるからである。
だからアメリカでも中国でも大国が必ずしも強いとかならない

そこには巨大なるがゆえの弱点が生まれる,小回りがきかないとかまとまりがないとかなる,それは大企業でも同じである。小回りがきかないから時代に適応できない
ネズミはこまわりがきいて動き回るから自然災害からも逃れられたとなる
巨大なるものは強いようで弱点をもっているのである。
日本は小さいにしてもまとまりがあり小回りがきくとか大国にはない強みをもてる
だからその利点を活かせば大国にも抗することができる
なんでも大きなものが有利とはならないのがこの世界なのである。

いづれにしろ巨大機構は機能不全に陥ってゆく,警察だって巨大な機構だけど個々のこまかい対応はできなくなっている,
病院は肥大化してただ税金を使い国をつぶすまでになっている,
国家の巨大機関が機能しなくなる,官僚はただ税金の無駄使いするだけだとかなる,それは国家が巨大でありこまわりがきかない,大きな政府より小さな政府がいいというとき税金の無駄使いなどなくなるからである。
何でも政府で無償化というとき無料のことではない,必ず税金でまかなうことなのである。
政府ではとにかく税金でまかなうほかない,公務員とか官僚でも別にかせぐ組織でないからである。
いづれにしろ現代の制度疲労化した社会は何かの拍子に自壊するかもしれない
それが原発事故でもあった,原発の内部を知るものは一人もいない
吉田所長も肝心の復水器があることを知らなかった,それは水を流して原子炉を緊急に冷やすものでありそれを知らないとは致命的にもなっていたのである。

原発は巨大だから複雑だからそれを誰も制御できなくなりメルトダウンした,現代の社会も同じようなことが起きてくる,巨大な機構でも会社でも機能不全に陥ってゆく
そして手がつけられなくなり自壊するのである。
たから今度は警察機構が崩壊したら機能不全に陥ったら自警団を組織するとかなるかもしれない。学校が崩壊したら自主学習の小規模の塾に通うかもしれない。
銀行がつぶれたら小規模の金融組織が作られて地域に機能するかもしれない。
マスコミだとインターネットのyoutubeのようなほぼ個人で放送できるものがかえって繁栄する
大きいだけがすべていいとはならない,小さいものには小さいものの良さがある
そういう社会そのものの転換期が明治維新から140年とかすぎてきている
制度疲労はもう機能不全になり腎不全のようになってしまうかもしれない
それは死を意味しているのである。