2017年09月20日

「心に青雲」の都築詠一の遺したもの (その死は何を語っているのか?)


「心に青雲」の都築詠一の遺したもの

(その死は何を語っているのか?)

死者のほとんどはもっと生きていたいと願いつつ、この世を去ったのであろうし、災害や戦争の死者はさらに非業の死を遂げたので、その無念の思いは強かろうと想像する。
人間は必ず死ぬけれど、死に甲斐というものはあったほうがよい。この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

 震災の慰霊はほどほどに

こういった残された文章を読むと不思議である。

この世に生まれて証を遺すことが、後世の人間への贈り物である。

それは「心に青雲」の都築氏の場合はプログしかない,でもそれも消してくれとか言っていたのがわからない,ここでは証を遺すことだと言っているからだ

人間はつくづく自分のプログでもそうだが自分の書いたものが読み返してみてこんなことが書いていたのとなる,忘れるのである。
都築氏のプログだって読んでいても忘れていた,だから記録すること何かに文章でも人間は遺さない限り何も残らない,忘れるからだ。

今読み直してこんなこと書いていたのと再認識する,その時読んでいても忘れるのである都築氏はいろいろなことを言っていた,その言い方が卑近な例から語りわかりやすいのである。学者のような言い方をしないからである。

でも自分の書いた唯一の生きた証であるプログまで消してくれとういかのがわからなかった
人間の不思議は死んだらその人をどう評価するかは生きているときわからない,だから死んでみて本当に不思議になる
とても死んだとは思えないのはなぜなのかとなる
何か今でも継続して熱く語っている感じになる,死というのが意識されない不思議がある第一インターネットの中で書いて死んだというのはあまり経験しないだろう
癌を告白して死んだ人などそういう人は増えているかもしれない
ただ病気が苦しいとか病気のことばかり書いていたら読むの嫌になることがあるだろう

都築氏は一切病気のことを語らなかった,透析のことはたまたま語っているがそのことは語らず様々なことに評論をしていたのである。
その見識の深さは瞠目するものがあった,だから毎日読んでいたのだけどやはり読みかえすと忘れていたことが多いなとつくづく思う
人間は忘れやすいのである。それが人間の大きな弱点なのである。
あれだけ悲惨な戦争のことだって忘れる,時間がたつにつれて人間はあらゆることを忘れてゆく,忘れるからこそ嫌なことを忘れるからこそ生きていられるともなる

無念の死のことを語っているけど自分自身もそうだったのではないか?
70くらいまで生きたとしても今の時代なら早いとなってしまう。
何かもっと書きたいこと言いたいことがあったと思う
それが途中で中断して死んだのである。
現代は長生きだから成果を示すのは遅くなる
人生50年とかなると早い内に示さないと死ぬから違っていた
斎藤茂吉は長生きだったと言われるが70才で死んでいたのである。
あとは40代50代で死んだ人が実に多いのである。
今の時代は普通に80才まで生きるから成果を示すのは遅くなる傾向があるのだ

都築氏の評論はいろんな分野にわたっていたのである。
空手をしていたからスポーツ評論があり文芸評論が人物評論があり科学評論まであった。これだけ多岐にわたる評論をできる人は今の時代でもそんなにいないだろう。
ただ死ぬとは思っていなかった,だからそんなに真剣に読んでいない,突然死んだので
驚いた,そしてプログの記録が貴重なものとなったのである。
インターネットにはグーグルでは全部は記録されていない,省かれているが要旨になるような所は残っているみたいだ
だから再検討できるのである。

プログはなにか本とは違う,生放送のようにリアルに今が伝わってくるメデアである。
だから死んだように思えないのである。有名な俳優でも死んでテレビの画面でドラマに写っていると死んだように思えないのである。
プログでしか知らなければやはりこれと同じように死んだように思えないのである。
ただ死んだ結果,こうして自由に語れるとなる,生きていればこきおろされるからできないとなっていたのである。
だから人間は生きているときは評価しにくいのである。

いづれにしろこうしてまたインターネットで自分が都築氏のことを語っているのをあの世でどう思っているのだろうと不思議になる
インターネットだけで語り死んだということが不思議である。
たいがい今までは本で遺していたからである。ただ本は限られた人しか出せないのである過激なものは出せないのである。
それでインターネットだけで語り記録して死んだということは今までにないことかもしれないと思った。
もちろんプログは無数にあるがこれだけのものを語れる人はいない,病気をのことを延々と語っても後世には残らないと思う,なぜならみんな病気になり死ぬからである。

ともかく都築氏の遺したことの再検討は必要である。ただ死んでもやはり著作権があり
そっくり転載することはできないだろう。
だからインターネットだけで語り文章として遺して死んだ場合そういうものがどうなるのか?それもまたわからなくなる,インターネットというのはそういうルールが確立していないからである。

自分がインターネットにある写真や絵から抽象画をソフトで変化させているのもこれも何なのだろうとなる,そこには何かしら著作権が関係している
そんなことしてそれが創作品になるのかとなる,そんなこと今までありえなかったのであてる。
ただアメリカの人たちが定期的に見ているのである。
だからなんらか評価されているとなる
でもなんらか著作権の問題が生じているかもしれないのである。
それもやはりインターネットという空間が何なのかわからないからそうなっているのだ。いづれにしろ都築氏の死はそういう点でも考えさせられるものだったのである。

「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題 (確立していないインターネットのルール)


「心に青雲」の都築詠一氏の死亡で生じた著作権の問題

(確立していないインターネットのルール)

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著作権は、通常の財産と同様に相続の対象となります。遺言によって誰かに譲り渡すこと(遺贈)も可能です。本コラム執筆時点までの報道によれば、やなせさんには法定相続人はいないようですが、遺言により受取人を指定していれば、指定された法人や個人が著作権を引き継ぐことになります。

著作権について複数の相続人がいる場合は、著作権は共有されることになります。著作権が共有されている場合、共有著作権者全員の同意がなければ著作権を行使することができません(法65条2項)。対象となる著作物の著作者(=著作権者)の死後、著作権保護期間中に著作物の利用を希望する人は、原則として全相続人から許諾を得る必要があることになります

著作権者が死亡し、通常の財産であれば国庫に帰属することになる場合、著作権はなんと消滅してしまうのです(法62条1項)。「著作権が消滅する」ということは、誰もその作品が使えなくなるという意味ではありません。著作権の保護期間が満了した状態と同様に、誰もがその作品を自由に使えるようになるのです

著作者の名誉・声望を害するような方法での利用は著作権法で禁じられているということは、心に留めておいてほしいと思います

「目的上正当な範囲内」の引用であることが求められている(32条)。ここから派生して、「人の作品を借りて来るだけのある程度の必然性・関連性が問われる」と説明されることもある。


本は出版社が仲介として大きな役割を果たしていた,出版社を通じてしか本は出せない仕組みになっていた,その前に取り次ぎを通さないとまた出版できない仕組みになっていたインターネットはそうした仲介者が省かれているのだ

そこで何が起きてくるのか?今回のようなプログだけに書き続けた都築詠一の死亡がなげかけた問題である。
グーグルですべてではないがログは保管されていたのである。
これも不思議なのだけど普通は本だったら図書館とか出版社で保管されている
でも本を出すことはむずかしいのでどこにも保管されていない場合だってあるのだ
ところがインターネットでは誰でも一庶民でも何でもくだらないものでもとるにたらないものまで出せるし記録されているのである。
なぜならインターネットでは記録するということは簡単だからである。
そしていくらでもその記録を残すことができる,本のようにもう国会図書館で収蔵しきれなくなるということはない,物理的に場所を全くとらないから無制限に貯蔵できるのである。
ではそれがどれくらいの期間記録されているかとなるとわからない,本なら50年くらいはもつかもしれないがその頃からぼろぼろになってくるのである。
電子空間では50年ももつのかとなるとわからない,電子空間は消えやすい弱点ももっているからである。

ともかくインターネット上にだけ公表されて本としては出版されないものがこれからは増えてくる,出版というのはハードルが高いからである。
インターネットだと気楽にいくらでも書ける,一人の人間が出版社ともなれるテレビ局ともなれるのである。youtubeがそうである。
かえって例えば武田邦彦氏はそうした放送局となっている,科学者として専門性があるから参考になる,テレビだと専門家を呼んでテレビ局の意向によって編集しているからかたよっているのである。テレビはその局の意向を報道しているのであり専門家はただテレビ局の意向のために使われているだけなのである。
だから最近はなるべくテレビは見ないようにしている
テレビを見ていると知らずに洗脳されていることが多いからである。

いづれにしろインターネットでは例えは都築詠一氏が死んでも著作権はあり全文転載はできない,心に青雲の旧フログが一部ログを他のサイトで保存されていたが許可があってできていた,なぜ全文転載ができないかというと宣伝に使われたりするからである。
引用は可能である。それも引用する方が主になり引用される方がその主文に従属するような文でないとできないのである。
なぜなら引用とはあくまでも主なる引用する人の創作の中で利用されるものとして許されているからである。

ただ都築詠一氏のプログの文を本に出すとなると著作権を受け継いだ家族の人とかの許可が必要になるだろう。
でも不思議なのは別に本にならなくてもグーグル内にログは全部ではないが保存されているのである。それは一種の図書館に本として貯蔵されていると同じなのである。
ただそれがいつまで保存されているかとなるとわからないのである。
グーグルというのはこうして何か実際は大きな権利を得ているともなる
まず国会図書館にいくちら貴重な資料があったとしても利用できないものが多い
図書館でも資料があってもそれを調べるのが容易でないから今は行っていない
自宅で調べて書けるようにならないと知的作業はできない
だからある程度の私設図書館が必要になってくるのである。

ともかくインターネットもすでに20年以上とか利用するようになっているしこれからも利用されるようになる,それは世界ともかかわりそのルールが確立されていない
そこに今回のような都築詠一氏の死亡などで問題が浮き彫りにされたのである。
死んだら死んだ人は何も言えないのである。
すると何かそこで問題が起きてくる,ただ何か今も死んだように思えない不思議があるのだ。

報道はともかく事実を多面的に報道すべき (津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


報道はともかく事実を多面的に報道すべき

(津浪(八沢浦)の自分の報道で責められたことについて)


ポンプで海水を汲み上げたあとの光景は悲惨でした。
たくさんの瓦礫。
ボールのように丸くなった自動車。
たくさんの方達の思い出の品。

半月以上海水に沈んでいたので
自衛隊さんによる本格的な捜索が行われたのは
4月になってから。

そんな状況に置かれていた場所をあなたは

美しい元の風景に戻った

などと不謹慎極まりない発言をされたのですよ。
人として理解不能な発言ですね。


確かにこのことは相当に批判される
家が水に浮いていてそこにきらきら波が光たよせた光景は信じられない風景だった
なんかいろいろ言われるのは確かである。
小高の人にはお前は同情しないのかとかそんなことを書いて楽しいかとか批判される
人間はどんなことを書いても必ずそれにケチつける人はいるからどうにもならない

八沢浦が美しい入江にもどったというときそれは事実だった,その事実を報告したのである。一方でそれに感情を加えるのは事実ではないのである。
事実というのはそのままを報告することである。

だから一方で自衛隊の人が水が引いたとき泥のなから子供の死体を掘り出しというのも事実である。美しい入江にも一時もどったのも事実である。
そして子供を泥からかきだしていたというのも事実なのである。
つまり事実にはいろいろな側面が実際はある
でも一場面だけを事実として報道すればただ瓦礫の山しか津浪にはなかったともなる
まず自分のように津浪を報告した人はいない,ただ小高の干拓された井田川で縄文の海がよみがえったと報告した人はいた。

ともかく津浪は信じられない光景をもたらしたのである。
それを報告するとき事実にもいろいろな側面がある,その時そこに死んだ人がいるというのも事実である。
お前はそういう人達に同情しなかったのかとなる
でもその時津浪が来て人々がどういう状態になったかわからなかったのである。
あとでここで死んだとかいろいろ聞いたのである。

津浪とか原発事故の避難者に対してはただただまず同情すべきだかわいそうだと言うべきだとなっていた。そうしないものはお前はなんなのだ,非情な人間だとされて批判の嵐になっていた。
現実津浪で家を流されて家族を失った人達の悲しみは想像を絶する
そのことに関して他者が何か慰めの言葉も言えないような悲惨があった
その時かわいそうだとか同情してもとても慰められるような状態ではなかったろう

人間はそういう悲惨な状態になると容易に近づけないとなる,何かしようにも何もできないとなるからだ。
ただ津浪は自然の作用だから確かに一時美をもたらしたのである。
これが戦争だったら爆撃で焼け野原になり無惨なものしか残らなかった
津浪は自然作用でありそこに一時美が生れたのである。
もしそこが家が密集しているような石巻のような所だとただ家がめちゃめちゃになり流されて無惨な光景しかなかったのである。
井田川とか八沢浦とか磯部でも田んぼのあるところは一時湖のようになったのである。
その光景は信じられないとなるのだ。

その時自分がどういう状態にあったかを書いた,身体障害者となり病院に入院したあとであり介護状態にもあり苦しい状態にあった。
それも実際は事実なののである。そんな個人的なことは報道されないのである。
ただただ津浪の被害者が原発避難者に関心は向けられていたのである。
八沢浦が美しい入江にもどったというときそれを批判するのわかる
ではその人が自分の個人的事情とか事実を知らないのである。
なんだこいつは八沢浦が美しいとかどうかしているとなる
つまりなぜこうして批判が常にあり誤解があるかというと人は多様な事実を知らないからそうなる
報道は常に一面的だからである。
人が何か批判するとき必ず一面的なものしか見ず批判しているのである。
報道にはそうした一面的報道が多いからそこに真実が何なのか見誤るのである。

報道には多様な事実が実際にある,殺人事件がある,それがどういう場所で起きたのか?
どういうふうに殺されたのか,何か証拠が残っていないか?
一つの殺人事件でもそこにさまざまな事実がありそれを検証する
殺人事件でもリアルにものをみなければならないのである。
そこに感傷的にみるより冷静に事実を見ることを第一とする
そこから犯人を割り出してゆく,つまり報道するということもそういうことなのかもしれない,事実は多面的でありだからこそ現場に通って感を働かせるのが捜査だとなる
この辺で起きたことは例えば原発避難民がパチンコ屋通いであり多額の補償金をもらって遊んでいたとういことも事実なのである。そんなことを言うなとかかわいそうだとばかり言うのもまた事実を無視して感傷的になっているからである。

北朝鮮の報道でも多角的にみればその実情が像としてイメージされる,youtubeで見たが公園で草をむしって集めている人がいた,するとそれは草を食料とするために集めていたそんなに食料がないのかという事実に驚く
それから喜び組というのがあり女性が品定めされている,まるで江戸時代の遊女である。すると北朝鮮は奴隷国家だということがわかる,金王朝に仕える奴隷国家なのである。
そんな国がどうして国家として維持できなるのか?
やはり内部から瓦解してゆくのではないか?民衆は草を食べ幹部は女性を品定めして遊女のように扱う,そんな国が維持できるのかとなる

ともかくそういう事実はいろいろありそこから像を作り多面的に見ていくべきなのである北朝鮮の民衆は悲惨なのである。その支配者が悪いのであり民衆はかわいそうだとも見る
でも事実というのは無数にある,今でも無数の事実が産み出される,それらの事実を現実に確かめて知ることは不可能である。
事件にしても無数の事実である。それは毎日のように報道される
でも深くその事実を知ることはできない,次々に事実は新たに生れてきりないからである

ニュースで伊豆に東京の人達のために老人ホームを作る,そこに入る人は家族が行くのに遠すぎるとので困ると言っていた,ところが身寄りがない人も入るから家族は関係ないと福祉関係の人が言っていたのも納得する
身寄りのない人も多いのが現代である。事実として様々な事実がありいちがいに遠いから家族が行けないからと判断はできないのである。
伊豆がどういう所かまず地理とか環境もわからないからそこで報道だけを見ていると誤って判断する,何でも多面的な事実がある
報道は一面的報道になりやすい,次々に問題が起きるしニュースがあり事件があるからだ

津浪でも様々な事実があり海が近いのに前に山のようなものがありそれにさえぎられて被害少なかった家もある,そこには様々な事実が生れていたのである。
一時八沢浦が美しい入江にもどったというのも事実である。
そこであとで泥にうまった幼児を自衛隊がほりだしたというのも事実である。
死体を探していたというのも事実である。
そこには様々な事実がありそれを冷静に報告することが報道の基本としてあった
かわいそうだという前に現実を事実を写真で見せられればわかるからである。

ただ原発避難者がパチンコ通いとかギャンブルに興じていたことは事実であったけどそれは報道されていない,そういう事実を無視してかわいそうだとばかり外から感傷的に見られるとき事実が見逃されてそういうマイナスの面は隠される,事実は隠される
すると現実が見えなくなる,そこに報道の問題があった
報道は今までは個人ではしていないできなかった,マスコミだけがしていたのである。
それでマスコミによって操作されていたのである。
いろいろなことを解説するのにもいろんな手法がある,マスコミの解説とは違う解説の仕方がある,すると別な風に見えてくるのである。

だから本当はマスコミでも局によって違った報道するのがいいのである。
すると多面的な見方ができるようになる,でも見る方もそんな暇がない,時間がないからてっとりばやい一面的な報道で判断するのである。
要するにあらゆることに様々な多面的な事実がある,それをそのまま報道すれば何かが見えてくる,でもその事実の取捨選択はマスコミがしている
報道されないことでもある人にとっては重要かもしれないし本当にみんなにとって重要なものもある,でも報道されないとそれは闇に埋もれるのである。

八沢浦が元の美しい入江にもどった

2017年09月21日

「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


「心に青雲」の都築詠一氏の早期英語教育の弊害について


早期英語教育の弊害
//kokoroniseiun.seesaa.net:80/article/373220605.html


認識の働きとは対象をわれわれの感覚器官に反映して、それが像として描かれる。この像を認識というのだ。認識は像である。
 像が五感器官を通して反映し、形成される。すなわち実体があって反映されるのが正常だ。

 母親が実際に手で触れさせたりしてイヌやネコを、「かわいいね」と教えながら分からせた言葉は本物になるが、英語はそうではない。

 一次方程式なんてものは、われわれが学校で教わるときに、何か現実の、実体の、像があるか? あるわけがない。


都築詠一氏の思想には常に像をもって認識しろ,像を描け想像しろとある,想像とはまさに像を想う像を創出することである。
犬という言葉の前に犬という実体がありその実体を通じて犬を認識する
現代の教育はこの実体から像から乖離している,言葉だけがあり数字の羅列だけがある
数学でも今ふりかえると小学生なら図形を学ぶとしたら常に図形を像として認識する
分数だったら具体的にボール上を二分の一なら半分にきるとか4分の一なら四つにきるとか具体的なものとして数字を認識する
そういう作業として数字を認識してゆく
教育とは実は教えるものの創造性が関係しているのである

要するに現代はあまりにも世界が像として見るのではなく記号化した数値化したものとして見る社会である。それは教育のせいではない,社会そのものがそうなっているのである第一都会だったら田んぼがない,そしたらどうして田んぼを像として認識できるのか?
そういうことが非常に多いのである。
もっと人間は図形化とか絵画化とかすることが教育でも像として認識することに通じる

言葉を日本語でもそうだけど外国語になるとさらに像として認識することがむずかしくなる,ただそれが記号化したものだけになる
ある言葉の感覚というのが実際は像からイメージされる
映画で見たけど馬が暴れている興奮して落ち着かないとき「steady」という言葉を使ったなるほど「落ち着け」とか訳すが堅実とかの意味とかいろいろある
その言葉の感覚はそうした日常の行為とか具体的な像から認識され身についてくる
だから外国語の習得はむずかしいのである。
結局現代は数式とか化学式とかあらゆるものが数字化しているのである。

膨大なそうした記号の氾濫の中で教育もあり像をとした認識できなくなっている
毎日教室にとじこめられているのもそうである。
そこではひたすら像と結びつかない記号の学習なのである。
だからみんな学校嫌いになる,自分もそうだった
都築詠一氏も言っているように秀才を批判するときそうして受験勉強のみで記号の習得のみで官僚とか学者とかなった人は何か欠けた欠陥人間になっている
そういう人が指導者になることは国自体をゆがめると言っているのもわかる
明治維新で官僚が指導者になったときそういうことは起きていた
侍が指導者だったときは文武両道であり何か生活全体で習得したモラルであり身についていた,それがなくなり文官となったときただ法律とか記号の習得だけが優先されるようになったのである。

例えば山を像として認識するとなると容易ではない,まず高い山に上ってみる,すると山を立体的に感覚として認識する,山を知るには山を実際に上らなければ認識できない
そしてまた山は遠くからみるだけでも様々な様相を示しているのだ。
山の像は無限にあるのだ,それをハソコンで抽象画化したりした,こんなに山の姿があることに驚いたのである。一つ一つの山の姿も違っているしその環境でも違っているから山の像は無限である。だから山の絵は無限にあることになる

いづれにしろ現代社会そのものが文明が言葉が死んだとかいうとき具体的な像と結びつかないからである。イメージする力が貧弱なのである。そして記号だけが言葉だけがつめこまれているから外界を反映できないのである。
それはあらゆる面でそうであり社会というのも記号だけで数字だけで認識しているのである。
だから外界を反映するというとき原始人の方が外界をリアルに像として認識していたという逆説にもなる,言葉は密接に自然でも外界と不可分なものとして生れたのだし言葉と像は外界の事象は結びついていた,だから言葉と事物が乖離することはなかったのである。万葉集時代とかそうなっていた,古今集時代になると言葉の遊びになったというとき万葉集のように密接に自然と結びついた生活をせず貴族化して宮廷で暮らすようになったからである。

ともかく現代は外界を自然でもじかに認識できない社会になっている,電車でも風は入ってこないし坂を上るにしても電車に乗っていればその苦しさを感じない
峠があることもわからないのである。車だと風を遮断しているし閉鎖された密閉された空間となり旅は道連れとかにもならない,ただ通りすぎてゆくだけである。
だから江戸時代の歩いて旅していた時より外界の認識力が落ちているのである。
感性とかではむしろ後退しているのである。
一見なんでも進んでいるように見えてかえって後退してしまったいることもある
原始人の方が機械も何もない時代の方が認識力や感性にすぐれていたともなるのだ。

「心に青雲」の都築詠一氏のプログはいろいろ参考になった
ただ弁証法はわかりにくい,陰謀論もうけいれがたい,陰謀は陰謀を生み何がなんだか最後はわからなくなる,だからすべてを受け入れることはできない
人間はあくまでも他者の思想でも何でも批評してみる必要がある
ただ鵜呑みにしているだけでは本も何も読んだことにならないのである。

stonedface.jpg

a face of underground

自然界の多様な姿も実は人間の顔になる,アイディンティティ化されるのである。

2017年09月22日

中南米の悲劇はなぜ起きているのか? (文明の挑戦に応戦できなかった-日本は応戦できた)


中南米の悲劇はなぜ起きているのか?

(文明の挑戦に応戦できなかった-日本は応戦できた)


メキシコ、ブラジル、ホンジュラス、ベネズエラ。 
全部中南米ジャン。あと、西インド諸島の土人も来るな。 
キューバ、ハイチ、ドミニカ、ジャマイカ。 
何でアメリカの周りは、カナダ以外クズしかないのだろうか。 
統治を行った、スペイン様、ポルトガル様、フランス様に感謝しなくては。 
土人に文化を与えた、神の子供たちである、白人様。

スペイン人が入って文化、宗教をボロボロにしてしまった 
社会に相互の信頼関係がない 
インカ人やマヤ人のままだったら秩序を保って発展できただろう

カトリック教会は、「蓄財は罪」と教えました。 労働は「神から課せられた罰」でしかありません。 
男は額に汗して働かなければいけない。女には陣痛の苦しみを与える。そして、人類には死という罰を与える。これが基本です。 
だから、おカネが貯まったら教会に寄付することが奨励されていました。 
結果として蓄財や勤勉に働くよりも消費や道楽やサッカーに励み、教会にどんどん寄付するような国民性が育まれていったのです。

アルゼンチンは人種差別はあんまないけど階級差別が酷い 
使える店も階級ごとに決まってると言うか暗黙の了解みたいのがある 
下の階層の人が上の階層の人が使う店いくと出てけって言われたり 
物売ってもらえなかったりする 
その逆も当然あって、階層が上の人が階層が下の人が使う店に来ると 
ここはアンタみたいのが来る店じゃねえつって追い出される 
だもんで安い店に行くときにあんまオサレな格好していくと 
階層が上の人だと誤解されかねないのでNGらしい 
サッカーでも上流階層が応援するのがリーベルで 
下流階層が応援するのがボカってハッキリ分かれてる

"南"は圧倒的にカトリック教徒の入植だったのに対して、"北"にはプロテスタントが可成り入りましたので。
カトリックが中世以来の農本主義一本槍だったのに対して、プロテスタント達はやがて資本主義を持ち込む事に成りますので。
詰まり元からの拠って立つ、基本的な文明文化が違って居たとも言えます。

南"は圧倒的にカトリック教徒の入植だったのに対して、"北"にはプロテスタントが可成り入りましたので。
カトリックが中世以来の農本主義一本槍だったのに対して、プロテスタント達はやがて資本主義を持ち込む事に成りますので。



中南米は犯罪が一番多いとかギャング集団や麻薬組織とか何かいいものが伝わってこない貧乏からもぬけだせない,それはな何なのだろうとなる
そこは文明的に遅れたとも言えない国だった,インカとマヤは高度な文明をもって一千年とか栄えている,それがなぜ今も発展しないのか?
その原因は一つではない,人間の現象は複合的に起きてくる
犯罪の原因も一つではない,いろいろなものが重なって犯罪になる
だから何が原因でそうなったのかとなると簡単には言えない

明らかなことはスペイン,ポルトガルに征服されたことである。スペイン,ポルトガルの影響を大きく受けたことである。
一方北米はイギリスの影響を大きく受けてアメリカ合衆国になった。
ところがアメリカでも南部と北部は成り立ちが違っていた
南部は農業中心で北部は工業に経済の重心を移していた
南部は綿の栽培とかで黒人奴隷を使っていた,北部は工業化してゆくから南部とは違っていた。北部と南部の争いは農本主義と工業化という生活形態の相違から起きたともとれる人間の争いは人種とかよりそうした生活形態の相違で争いが起きる
遊牧民と農耕民は相いれないのである。だから万里長城ができた
日本でもヤマト王権は稲作を普及するために狩猟採集民族の蝦夷と敵対して争いになったそしてイギリスはいち早く産業革命を起こした国である。
その産業革命の基になったのが確かに石炭がとれて蒸気機関車が発明されたとかある
それは北部で鉱物資源が豊かだったこともある。

それと宗教が関係したということが意外と重要である。
中南米はカトリックであり北米はフロテスタンとなのである。
マックスウェバーが資本主義の基はプロテスタントから起きた,
神に奉仕するための勤勉な労働が良しとされた,カトリックにはそうした勤勉な労働を良しとするものがそれほどない,時間にルーズなものもそうである。
資本主義はまた農本主義とは相いれない,今でも土地を基にしたものに資本主義がなじまない,資本主義は通用しないのである。
勤勉とか効率を求めても土地は別物だしtime is moneyといっても作物を早く実らすことはできないからだ。
農本主義からは資本主義は発達しない,北米ではイギリス人が入ってきたりユダヤ人が入ってきて金融を発達させて資本主義が成立したのである。

そしてトインピーの史観によると

「挑戦と応戦」 ・・・ "challenge-and-response"

 「挑戦」・・・社会の安定した状態になんらかの攪乱的影響を与える刺戟。
 「応戦」 ・・・挑戦に対する人間の主体的な対応の試み

中南米は高度な文明があった,しかし新しい文明の挑戦を受けたときそれに応戦する力がなかったのである。
この中南米と比べるとなぜ日本がヨーロッパの植民地にならずにすんだのか?
西欧文明の挑戦に対して応戦できたのか?
これも一つの大きなテーマとして今もある
明治維新とは何かそれは歴史的に解明されたわけではないからである。
日本の社会は江戸時代は農本主義である。そこにヨーロッパの産業革命が入ってきた。
でもそれに適応したのである。社会制度でも藩を侍をなくして国民国家として平等にしたこうした大改革がなぜできたのか?
そして資本主義と民主主義を取り入れたのである。
日本には不思議に働くこと自体に価値を認める,勤勉民族だということも言われる
今でも過剰な労働国である。それはプロテスタントシズムとも通じているという見方もある

そして日本の歴史はマヤやインカのように断絶しないで今日にもつづいている
日本はなお日本文明として西欧文明の挑戦を受けたが応戦して継続しているのである。
日本は本当はこの日本文明に誇りをもつ必要がある
中南米を見ればわかる,あまりにも外来勢力によりその歴史のアイディンティティは破壊されたからである。そこは貧困と犯罪の国としてしか伝わってこないのである。
工業化もできていないのである。

アジアでもなぜ日本だけが西欧化工業化資本主義化民主主義化に成功したいうのもなぜなのだろうとなる,中国でもできなかったしアジアではヨーロッパの植民地化された
日本だけはヨーロッパの植民地にならなかったのである。
ただアメリカとの戦争になりアメリカに敗れて属国になり植民地とは言えないまでも
属国化したのである。
日本とはこれからどうするべきなのか?
それは日本が日本文明を新たに歴史の伝統をふまえて創造する
そして日本人として日本文明に誇りをもつことでてある。
その日本文明が日本人のみではないアジアにも普及して世界的になるとき日本は誇りをもつことができる
大きな視点に立てば新たな日本文明の創出が課題となる

一方で日本は衰退するだけだとか盛んに言われる,下り坂でありそんな日本文明もなにもない,三等国に転落するだけだというのが日本の現状である。
そもそも日本文明とは何なのともなる,日本人は戦争で負けたこととか日本に誇りをもっていないのである。だから国自体の自主性がないのである。
それは個々人にも波及して自立心がないのである。
アメリカの言いなりになるとか今度は中国の言いなりになるとか自主性がもてない
それは日本がそもそも日本の歴史に日本文明に誇りをもてない,また日本文明が欧米より劣った見方をしているからである。
日本は今日本文明の再興をして日本人の誇りをとりもどすことが必要なのである。
だから日本を否定する左翼でもアメリカ一辺倒になる右翼でも実際は従属しているだけの属国でしかない,日本独自の文明がありそこに誇りをもてるようになれば左右を越えて
日本の新しい時代がやってくるとなる
それは時間的に百年とか二百年とか見ないとわからないのである。
戦後70年はその節目であり次なる時代へ向かう時代の転換期なのである。
そこに世界情勢の変化がありまた強いられるともなる

心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった (敬愛なるベートベンを見て)


心の青雲の都築詠一氏の映画批評は面白かった

(敬愛するベートベンを見て)

記録は、どれだけ時間が経過しようとも変化することはありません。記録を残すことによって、当時の自分を主観的ではなく、「客観的に」振り返ることができるようになるのです。

心に青雲の映画批評をしていたが面白かったしそんな映画があったのかとアマゾンで注文して買った,過去に作られた映画も膨大にあった,しかしそれを見るのはほんの一部だけどインターネットで注文できるようになった
映画は現代の代表する文化である。映像の時代になったのが現代だからである。
都築詠一氏の批評は様々な分野に及んでいた。
だから批評家として十分に一流になれた人だった
でもなんか中途で死んで終わったなという感じになる

ログがみんな残されていればいいのだがグーグルで確かに残っているが全部は残っていないみたいだ
そしてなぜ消したのか?死んだらすぐにプログとかインターネットは消されるのか?
全部保存してあとでみんながまた読まれるようにしておくべきだった
貴重なものが消失したとなると後世のためにもならない
ただどこかで記録しているところがあるのかもしれない。
ただ全部は記録されていないのである。

「敬愛するべートベン」でも批判している,芸術家でもそんなふしだらな生活をしてはいけない,まともな社会人であれということである。
確かに天才的芸術家となると社会人としての常識すらなくなる,だからこそ天才であり後世に作品を残したとなる。それでなければただ平凡な人として終わっているだけである。

一方では聴衆の質の低下を招く。こうなると繊細さや知的な面白さではなく、すごいといわせる一種のハッタリが有効になる。これが大音量と高度な演奏技術を発達させる。ストラディヴァリウスなどのバロック時代の名器も、音量増大のための改造がなされる。19世紀になると、音楽は途方も無い技術をもったプロがステージでするもの、になり、プロとアマが分離し、スター演奏家が誕生する。

信仰年のためのベートーベンの交響曲第 9 番のコンサートでの、教皇フランシスコの突然の欠席は、解読困難な彼の教皇職のスタートを象徴する出来事であった

ベートベンの時代は音楽も変わり目になっていた。社会が変わってきた。
教会一辺倒の世界から脱出する時代だった
ただなぜ教皇が第9の演奏に欠席したのか?映画では特等席に座っていた

自分は音楽には詳しくない,この映画で注目したのが家政婦が金を盗んだのかとか疑っていたことである。家政婦はまずやはりここでも危険な存在なのである。
インドネシアでも老夫婦が殺されたように金をもっていると危険になる
でもインドネシアとかでも家政婦を一人雇うことは決められている。
その家について詳しくなれるからだ,すると貧富の差が大きいと犯罪になるのである。
家政婦とかちょっと手伝う女性でも家に入れるとなると危険になる
そしてそういう人をかかえこむほどやっかいなことはないのである。
絶えず金を要求されるのである。それがないなら盗まれるということである。

一方でベードベンの音楽にひかれてきた音楽を習う女学生は別だった
譜面を書写する役だがまさにベードベンをその音楽を敬愛していたからである。
まず家政婦とかなるとただ掃除とか料理をだすだけでありか音楽とは関係ないのである。だから働く動機は金しかないのである。だから危険になるのだ

ベードベンも金に困っていたのか?アパートのような所で作曲できたのかとなる
第一ピアノの音がもれたらうるさい,そこで下の階にもれるから騒音問題になる
そんなことをベードベンは気にしない,今なら大邸宅で作曲していたろう。
ただ隣の部屋の老婆はベートベンの音楽が聞けるので不満があっても我慢していたのである
へたなピアノを聞かされたら嫌になる
あんな部屋で作曲すること自体,環境的には最悪だったような気がする
やはり芸術でも学問でもそれなりの環境が調わないとできないことはある
だから貴族の師弟しか昔は学問でも芸術でも習うことはできなかったとなる

映画は暇つぶしにいい,最近見ているのが「座頭市」である。
風景が江戸時代を想わせるように作られている,土橋を歩いているところなどうである。あんな橋がこの辺にかかっていたのである。
昨日見たのは親分が役人に追われて子分と二人で逃げていた
親分には百両の賞金がかかっていてねらわれていた
そしてつてを頼り前に世話した親分をたよる
でも子分はその逃避行に疲れていた,嫌になっていた
それで親分を殺すことにしたのである。それをつてを頼った親分と一緒になってしたのである。それで役人からもほめられたり得になるから共同でした

この裏切りも恐ろしいけど人間は利がなくなれば離れるのが普通である。
そんなに苦しい目にあってまで義理を果たすことはないのが普通である。
これは介護で疲れて親を殺すのともにている
あまりに苦しくなると人間は肉親でもそうなる
だからこれは特別なことではない
親分はもっと子分のことを考慮しないといけなかった
俺一人で逃げるからお前は別に生きろとか言うことも必要だったとなる
なぜならその子分は疲れ果てていたからである。

ベートベンでも家政婦は盗むことしか考えないがベートベンの音楽を敬愛していた女学生は違っていたのである。
そういうふうに動機があるなしで人間は違ってくる
女学生もベートベンを嫌ったけど音楽の絆で結ばれていたとなる
まず人間はあまり小さいことを言われると大物にはなれないかもしれない,日常のささいなことに使われていたらとても大芸術家などにも何か他でも大物にはなれない
社会をはずれたようにならなければ大物にはなれない
そういう環境にないと大物になれない
教育でもそういう教育をしないと大物になれない,平均的なことをして平均的なことを教えていたら個性的な人は生まれないのである。
人間は生まれつきですべては決まらない,平凡な人間でもあることをきっかけに変身するダビデは石コロをなげてゴリアテに勝ち一躍英雄になる
人間は人生の中で鍛えられ変化するのである。

天才も資質も大事だが環境も大事である。
もう毎日肉体労働に費やされたら知的な探求もできない,本すら読むことができないのである。
ただベートベンと普通の人と比べることはできない,同等に扱うことはできない
でも才能があったとしてもそれを開花させる環境がなかったらどうにもならないのである自分の場合は20代で書斎をもっていた,でも本を買うのでも少なかった
なぜなら本は地方では買えなかった,専門書は仙台まで行かないと買えないし今のようにインターネットもないから知識的には地方は不利だったのである。
今わかることは本は相当な量を読まないと知識の世界では狭いものとなってしまうことがわかった,あるものは深く読むにしても学問の探求とかなると相当な量を読まないと独創的にもなれないのである。
ただ自分は本は買ったけど読んでなかった,こういうことが結構多いと思う
不思議に今読みかえしてみると理解できるのである。
それで自分なりに引用して文を書いている

現代はそういう環境が調ってはいないか?若い者でも働かないものが膨大にいる
そうしていられるのはやはり豊かだからである。するとその中から独創的な人が出てくるかもしれない,社会性に欠けていても何か別な方で才能を伸ばすかもしれない
ただ天才と狂人は紙一重とういとき結局ニートなどは狂人に終わるのが大半だとなるかもしれない,アウトサイダーになったのはもともと資質的にも優れている故にそうなったのである。自分の場合は資質的には平凡でも社会に適応できなくても環境に恵まれて芸術とか学問を追及できたとなっているだけなのである。
それでもやはり環境に恵まれていると平凡な人でも何か才能が開花することはある
ただベートベンのような天才と比べることはできないのである。

2017年09月23日

抽象画(abstract picture) (岩,壊れた機械-rock and broken machine)


抽象画(abstract picture) (岩,壊れた機械-rock and broken machine)

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機械は壊れた
機械は機能しなくなった
我々は機械の歯車ではない
我々はもう働かない
我々は歯車として働くことに疲れてしまった
我々は機械の歯車であることをやめたのだ


The machine broke.
Machine no longer function
We are not a machine gear
We will not work anymore
We got tired of working as a gear
We stopped being a gear of the machine

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抽象画は変なものを作り出す,意外なものを作り出す,予期せぬものを作り出す,何が生み出されるのかもわからない,それは変化するからそなる,無限の変化の芸術だからである。
岩の顔でもそうだし壊れた機械もそうである。
こんなものに変化することは予想しえないからである。
絵だったらだいだいイメージしたもを描いてゆく,頭の中でわかっている
抽象画は特にパソコンの抽象画は全く何が作り出されるのか変化するのだからわからないのである。

Abstract paintings produce strange things, produce unexpected things, produce unexpected things, do not know what will be created, because that will change, that is the art of infinite change.Even rock faces and broken machines are.It can not be expected to change to such a thing.If it is a picture I will draw the image I imaged as much, I know it in my headAbstract paintings do not understand, especially because abstract paintings of personal computers change at all what is produced.

オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見 (佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


オオカミ絵のお札、版木 飯舘の個人宅で複数発見


(佐須は焼き畑で地名で狼は害獣から防ぐから神となった)


縄文人は、クルミや木の実中心の生活でした。その後、焼畑という農業が伝わるようになってヒエ、アワなどの他に、ソバや大豆などが作られることになります。秩父や長野県、山形県などの地域で蕎麦作りが盛んなのは、焼畑農業の歴史があるからです。

福島県虎捕山は、サス山とも言います。サスとは、焼畑という意味です。ここでも、別の豪族によって追われている阿部家の子孫といわれる人が住んでいた所です。(山津見神社がある佐須)


真神(まかみ)は、日本に生息していた狼(ニホンオオカミ)が神格化したもの。大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)、御神犬とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され[1]、猪や鹿から作物を守護するものとされた。
『万葉集』巻八には「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」(舎人娘子)

間地の耕作は「焼畑」が中心。そのため、イノシシの害にはほとほと手を焼いていました。イノシシの侵入を防ぐために、山林と耕地との境に猪垣(ししがき)を築いたり猪堀(いぼり、ししぼり)を掘ったりしたのだそうです

日本人と狼 



飯館村の佐須村は焼き畑のことである。他に比曽(ヒソ)もそうであり飯館村は森が深くあれだけの広さがあるから焼畑としては適地だったのである。
飯館村に人が住んだのは古い,縄文時代からでありそれだけ森の幸,山の幸があった
佐須というと大倉からさらに奥地だかちいかにも焼き畑に適していた土地だった
焼き畑農業はこれも渡来人がもたらしたものだといわれる,稲作の前に焼き畑農業が行われていた。鎌倉時代にも行われていた,山間では必ず焼き畑が行われていた。

山林を切り払って焼き、その灰を肥料に雑穀や豆、イモ類などを栽培する
焼き畑が普及したのは稲作などより簡単だからである。農業には肥料が欠かせないのである。その肥料で苦労しているし害獣でも苦労している
畑は常にキジに食われたとか虫がついたとかともかく常に被害がある
だからなんとかしてくれとなるとき狼がイノシシとか鹿の害から防いでくれるとなり狼は大神になったのである。
狼はイノシシ,シカ,サルなどの害獣を襲い撃退してくれるからありがたいものとなった
日本はまず縄文時代がありその時は森の中の木の実とか採集狩猟時代であり焼き畑をしていない,十五夜に芋とかを供物にしているのは焼き畑でとれたものを捧げていたのである太陽信仰に天照大神の信仰になったのは稲作がはじまってからである。
それまでは月の信仰だったのである,月読み神の信仰だったのである。
歴も陰暦であり月の満ち欠けで決めていたのである。

焼き畑になったとき芋類とか食べられるとなると相当に栄養が良くなった,芋は常食にもなり栄養豊かだからだ,すると養える人口も増えたとなる
鎌倉時代あたりまでは相当に焼き畑が行われていた,それからだんだん少なくなり地名だけ残ったのである。焼き畑地名は日本全国で非常に多いのはそれだけ焼畑が行われていた証拠なのなのである。
飯館村の場合はそこが焼畑をしていたということがイメージしやすいのである。

飯館村は焼き畑をしていたがその後稲作をするようになった,でも高原であり寒い地域だから稲作に適せず天候不良で飢饉になった,夏でも高原だから涼しいのだが稲作はもともと南国向きであり寒いところには適さないものがあった
焼き畑農業と稲作農業もその生活形態はまるで違う,それは蝦夷が狩猟,採集,漁労の生活であり稲作はヤマト王権によりもたらされたものなのである。
そういう生活の相違が実際は江戸時代から明治以降までつづいていてふ柳田国男の遠野物語の山民が存続しつづけた伝説となった

何か神社は場所と密接に結びついたものがある。佐須は奥深い地域でありそこに神社があることがふさわしいのである。
日本人の生活がもともと自給自足だったというときやはり最低限の食料がまかなわれたということがあるだろう。それは日本だけではないどこでも山の民でもそこで生活できる糧があって自給自足できるのである。
佐須では畑の中に「乳神」の碑があった,それが印象的だったのはまず乳が出なかったら子供が育てられない時代があった,ただ飯館村で牛を飼うようになったのは戦後とかであり新しいのである。だから乳がでなければ子供は育てられないのである。
それは江戸時代でも同じである,それで乳神に祈るしかないとなっていたのである。

飯館村は歴史は新しいようで古いのである。縄文時代からはじまって焼き畑時代があり
稲作時代となっている,それは日本のたどった歴史である。
日本では全く未開の地はまれだろう。たいだい早い時期から人が入っている

「多胡の入野」も、早く『万葉集』の東歌に見えながらもその後詠まれることが極めて稀であったものだが、まずはその『万葉集』所載の1首を挙げてみよう。

吾が恋はまさかもかなし草枕多胡の入野のおくもかなしも[万葉集3421]

野とつくのは傾斜地であり焼畑であった。小林のコバも焼畑地名だった。焼畑に由来するものが多いのだ。鹿野というのもそうでありカノはノがついているから焼畑なのだ。ノは焼畑なのである。山の神である、名はオホヤマツミ神を生み、次に野の神である、名はカヤノヒメ神を生んだ。またの名はノヅチ神と言う ... 山の神の次にカヤノヒメ神を生んだのはまさに最初に山の神があり狩猟中心の世界があり次に焼畑に写った。この生業の変化がどのようにもたらされたか、焼畑は狩猟採集より発達した文明の段階になるからこの技術が渡来人によってもたらされたかもしれない、これも稲作と同じように定期的に収穫が得られるから権力基盤をもち地方の国造、毛野王国などを各地に作ったのだ。その毛野王国のなかに渡来人が入ってきて焼畑の技術をが入ってきたのかもしれないそれが万葉集の入野の歌だった。東和町の白髭は高麗(こま)からきている。この白髭は各地に多数ある白髭は新羅であり毛野に新羅人が入植したのだ。

これは前に自分が考察したものである。焼き畑地名が多いし稲作の前は焼き畑文明だったから当然だとなる
佐須という地域はこの入野にふさわしいのである。おくかもかなし・・・というとき山間の奥地で焼畑が行われていたのである。そこには恋しい人が住んでいたとなる
佐須という場はそういう場所にふさわしいことは実際にそこを訊ねればほかる。

いづれにしろ今回の狼の札の発見は他でもあり狼信仰が焼き畑とともに生まれたことの証拠である。例えば飯野(いいの)なども焼き畑が行われた地域なのである。
野は傾斜地であり焼き畑が行われた日本独自の地形を示す語なのである。
原とかとは朝鮮語系統から渡来人系統から入ったものであり別個の言葉なのである。
それは焼き畑に由来している,原というときモンゴルのような草原をイメージする
野となると日本的な風景から生まれた言葉なのである。

posted by 老鶯 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年09月24日

「心の青雲」の陰謀論はうけいれがたかった (でも都築詠一氏は日本の英霊となった?)


「心の青雲」の陰謀論はうけいれがたかった

(でも都築詠一氏は日本の英霊となった?)

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もともと陰謀論とは、ある出来事について、公式の発表や一般に信じられている説明を否定して、隠された別の目的、つまり陰謀があるとする主張

「世界は謎である。世界は秘密と陰謀に満ちている。そのような世界を解読したい、はっきり見たいと思う時、陰謀論という〈アプリ〉が必要となる」

陰謀論を唱える者は基本的に政府、権威、現状などに対する強い不満を持ち、「今の世界は間違っている」と考える。同時に自らの価値観や考えを無条件に「正しい」と信じ、その正しい考えが世に受け入れられないのは、世界を操る邪悪で強大な「何者か」が妨害するからだと主張する。

陰謀論者は、自らを「愚かな人びとに石を投げられながら正義と真実のために闘う孤独なヒーロー」と思いこんでいると指摘しています。これはつまり、"誰も知らない真実を知っているのは、自分だけだ"という優越感や"愚かな大衆に真実を知らしめねば"という使命感に駆られている心理状態と言えます


陰謀論はインターネットでは本当に盛んである,プログでも異常に多い,それからインターネットでは左翼を在日を批判するのが多い,それはマスコミが左翼であり在日に支配しているからだとなる,そういう一面はありその不満がインターネットに噴出している
マスコミを支配しているのは在日だというのはインターネットから見ればそうなる
NHKでも在日が支配しているか韓国の悪口は言わない,批判しないとかあり不満になる

「心に青雲」の都築氏も必ず悪いのはユダ金だとかユダヤ人のせいにしている
イルミナティとかも関係しているとかなる
ユダヤ人が金融関係にかかわるのが多いしマスコミがアメリカでもユダヤ人が主導しているということでそれは一面の事実である。
でもあらゆること世界史的なことでもすべてユダ金が操作していたとなると疑問になる
なぜ彼がこうした陰謀論に強固に信じるようになったのか?

一つは宗教の不信からである。宗教の歴史をみると宗教というのに不信感をいだくのはわかる,マイナスの暗黒の歴史が多すぎるからだ,するとそこに嫌悪感をもつのは当然だとなる,今でも宗教はかえって世界に平和をもたらしているのではなく災いをもたらしているだけではないかとなる,するとそこに陰謀論が生まれる
都築氏は無神論者であり進化論者である。だから神を信じないで死んだ

陰謀論者も無神論者もまた奇妙だがカルト的になってゆく,無信論者は無信論という信仰にもなってゆく,マルキシズムが左翼の宗教のようになったのもそうである。
それが金科玉条となり信仰のようになっていたのである。世界はそれで解決するとなって信仰のようになり世界に普及したのである。
そしてそれがせかいに災いをもたらしたのである。

ただ都築詠一氏は柔軟な思想の持ち主であり他の陰謀論者とは違っていた
社会のことをいろいろわかっていた,それで公務員のことを官僚のことを良く批判していた,官僚は勝手に無駄な仕事を作りそれでもうけているとか天下りしてもうけているとか官僚を役人を常に批判していたのである。
それは実際にそうである。役人は役得があり得するのである。
それは自分の身内が地方の公務員だからそういうことを知っているし自分の家でも得していたのである。公務員は身内であり身内で得する仕組みがある
これは本当である。その得を自分を受けていたのである。
それは天下り役人とかの大きな得とは違っていても確かに得する立場にあった

底辺層などからするとそういう支配的立場にある人はうらやましくなる,あいつらたいして仕事もしないのに優遇されすぎている,公務員の仕事など簡単であり誰でもできるのに優遇されすぎているという不満が常にネットではあふれている
こういうことも陰謀論を生む素地になっている
この世はいつの世でも不平等であり得する人は得するが損な立場にあれば損するだけだとなる,そしていくら努力しても上には上がれないとかなり不満が社会に鬱積するのである
確かに金融などはそういう側面が大きい,それで都築氏はギャンブルのことを盛んに言っていた,もうかるのは胴元であり一般の人はギャンブルではもうからないようになっている,株などそうだという,それは言えると思う
日本の株式市場は外資が多く入っている,外資に左右されるとなると日本の株は外資に操作されているとなりそれはユダ金だとかなるのである。
グローバル市場になると天文学的な金が動いているのだからもう誰もわからない,するとそこに陰謀論が生まれてくるのである。

陰謀論は現代にだけあったのではない,時代劇では必ず黒幕がいて表にでてこない,それが陰謀論になり黒幕がイルミナティとかフリーメーソンとかユダヤとかなっている
結局この世の中を動かしているのは誰なのか?それがわからないから陰謀論が生まれる
でも例えばマスコミを動かしているのは誰なのか?
それは別に在日とか左翼だけではない,創価などもマスコミを支配して動かしている
だから創価の批判はマスコミではしない,そしたら左翼だけではないし自民党だって操作している,権力をもつものはマスコミを支配できるとなる
背後の権力をもつものがマスコミでも支配できる
例えば東電だけではない原発にかかわる電事連合は原発を推進することを望んでいる
マスコミへの800億とかの宣伝費は東電だけではない電事連合から出ていたのである。電気関係で働く人が多いしそうなれば原発も推進派になる
都築氏は原発推進派であり右翼は核武装派だからそうなる
東電関係の人も空手を通じて友達となっていたから原発推進派になっていた
その辺が同調できないところだった

そうして同調できないところが自分にあったとしても彼の言い分は納得することが多かった,つまりわかりやすい表現になっているのがそうした大きな原因だったと思う
表現がうまい,文章がわかりやすく,心にひびきやすいものとなっていたのだ
だからネットに無数にいる陰謀論者とは違っていた
もしそうだったら自分も評価しない,都築氏は広い分野に深い識見をもっていたのである文芸にも芸術にも深い理解力があった,評論できることは芸術家と同じである。
自分はそこに一番ひかれたのである。日本文化に造詣が深かったのである。
そこから日本人はとうあるべきかを説いていたのである。
日本語でも敬語は日本語として相手を思いやるもので評価していた
これは上下関係があり批判するものもいる,でもこれも日本文化として評価していたのである。
だからそういう見方もあるのだと感心していたのである。
彼の独特な見方がありそれに自分も日本文化を追及していたから感心したのである。

いづれにしろ彼の多岐にわたる評論はその筆法がさえていた,これだけのものを書ける人は日本では今いないとも思っていた,ただ陰謀論が結論になるとき同調できなかった
ただ人格的には孤高にもなり悪を嫌うことで同調した
マスコミとかの人と相互浸透して堕落するから交わらないとか文学仲間ともバーに行かないとか潔癖な人だったのである。
そういうところに好感をもっていた
彼の時事問題の評論もわかりやすいし人物評論でも有名人も批判していた
いつもあいつの顔が良くないとかで批判していた
どうしても顔は偽ることができないからそこから人間を見ていたとなる

都築詠一氏については良くまだわからないことがあった,ただ日本を支える大きな一人だったことは間違いない,日本を支えるというとき集団だけではない,個人が支える,人格的にでも立派な人がいれば日本を支える,日蓮ではないが日本の柱となる人だったともなる,死んだとしてもその霊は日本を支えるのである。
何か変だけど戦争で死んだわけでもないが日本の英霊となる
英霊とは優れた霊のことだからである。戦争で死んだ人達とはまた違って平和の中でもそういう人はいる,戦後70年であり都築詠一氏とは同世代である。
団塊の世代はあまり評判が良くない,自分でもインターネットにこんな人がいたということは驚きだったのである。
ただインターネット意外では知らないのである。無視されているのである。
それはやはりユダ金とか言うと受け入れられないからである。

2017年09月25日

なぜ人は利を越えられないのか? (人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


なぜ人は利を越えられないのか?

(人間は何も変わっていない-犠牲が強いられるから)


この世の中すべて利の活動であり利を求めて日々仕事している,会社でも利を求めて共同している,人間の関係も利なしではありえない,金が第一だというときもそうである。
人間の関係は金だとなる,それが資本主義社会になり極端になったのである。
そもそも資本主義が利他的行動として宗教に由来してはじまった
勤勉に働き他者のためになるためになるとして生まれたというとき今ではそんなことをイメージすらできない,利を求めて弱肉強食の世界になっている
だから利のためには相手のことなどかまわないのである。
自分が苦しんでいたときもそんなことより相手から金をとる借金するチャンスだとなる
その人たちもまた金で追い詰められていたからである。
金で追い詰められていた人は例えばわずかの金で人を殺すのである。
明日食べるものがないとしたら殺すこともするのが人間である。
それは追い詰められているからそうなる
それが人間社会だとなる
だから結局人間社会は金の切れ目が縁の切れ目となる,こいつとつきあって何になるんだなんの得もない,金にならないとしたら付き合いも切れる
それが資本主義社会では極端化したのである。

座頭市でも親分が訳ありで役所からおたずねものになる,子分が一人ついてきたが賞金かせぎにねらわれるとか疲れ果ててしまった,それで親分を殺すことを一宿一飯の他の親分と相談して殺すことにした,そうすると役所からもほめられるし賞金ももらえるとか得になるからである。
ではなぜそうなったかというとその子分は逃避行に疲れ果てていた,そういう生活が嫌になったのである。
そういう生活に耐えるには相当な動機がないとできないともなる
その親分が義賊みたいなところがあり貧民を助けたということがあったとか言っていた
するとそういう親分のために尽くしたいとなるとかある
でもそこまで尽くすとなるとやはり相当な動機がないとできない
介護でも苦しいとなると肉親でも殺すことが普通に起きてくる
自分の場合は一番良くされたということで動機があり介護していたのである。

人間はともかく生きることは利の追及である。利しかないともなる
利とはそれぞれのエゴから発する,エゴというとき人間の欲望は限りなくある
男女の関係でも利がからんでくるし欲望がからんでいるから利と離れられない
家族関係にも利がからんでくるし夫婦でも利がからんでくる
だから遺産相続となると骨肉の争いになる
人間が利を求めるのは恐ろしいことになる
動物でも腹が減れば他の動物を襲い食べる,それと同じことが人間もしているのである。ただそれが他の動物を殺して食べるということではなく何か人間の場合はあからさまに残酷ではないように隠されているだけである。

利を越えるというとき例えば親分-子分というの関係はなくなる,同じ目的をもち思想をもつ同士となる,そういうことはカルト宗教団体とか共産主義団体とかでも同士となり
表向きは利を越えた団体のように装う,では内実はどうか?
創価で共産党でも他の様々な右翼団体でもなんでも利がかかわる,革命というのでも利がかかっている,もっと俺たちにも富を分けろとか地位をよこせとかが目的となる
そのために毎日祈っているのだからまさにご利益を求めることしかなくなっている
共産党でも幹部は贅沢して豪邸に住んでいるとかなるし何かそういう美名のもとに贅沢している人も相当いる,アグネスとか世界の貧民に援助をと言っているが実際は豪邸に住んでいるのである。寄付金で自分は贅沢な生活をしているとか普通にある

明治維新でも一体何を求めて行動したのかを見るとわかりやすくなるかもしれない,下級武士とかなると今の低い地位から脱して上に上りたいとか何かそうした利を求めた野心がある人もかなりいた,下賤の身から成り上がった人達はそういう人達であったともなる
今そういうことが指摘されるのは革命といってもいろいろな人間の欲望が渦巻き複雑になっていたからである。ただ人間は美名を装うのである。
戦争でもそれは様々な欲望が渦巻いていたかもしれない,戦争でもうけた人もいるし地位を得た人もいるしその当時軍人は一番威張っていたというのも真実である。
一方で戦争というのは生きるか死ぬかであり死ぬことを強いられる
死ぬことを強いられるということは犠牲を強いられることなのである。
それは利を越えないとできない,日本のためにと最後に死んだ特攻隊などはそうである。これから生きる命を日本のために犠牲にされたのである。
それは日本を守るためという大きな使命をになっていて死んだのである。
戦争は死ぬから利を越えたものを要求されるのである。
戦争で日本の悠久の大義とかいうのもそのためである。
義があり義のために死ぬというとき利を越えたものとして義があるとなる

宗教というときキリスト教でも仏教でもやはりいかにしてこの人間の利から離れるか克服するかということが課題だったのである。
その利を越えるには離れるために出家するというのもそのためである。
恋愛であれ家族であれ否定するのはそれが利であり人間の欲望から結ばれるからである。家族もエゴなのである。なぜなら自分の家族意外は人間は虫けらのようにも考える
自分達の家族さえよければあとは関係ない,金だけとれば他人は関係ないともなる
それで肉の家族は否定されたのである。

宗教はエゴ,自我とか欲望の否定で共通しているのである。なぜそうなるかというと俗世間では利しか求めることがないからである。利のために相手も殺すとかしかないからである。そういう弱肉強食の世界に生きているからである。
利を越えるためにはそういう自我の欲望を否定しないとできない
現実にカルト宗教団体でも左翼の団体でもそうした自我の欲望など否定していない
革命でも自分たちの自我,欲望が満たされない不満から起きているからだ
だから組織団体とか多数の団体は宗教を装っても中味は普通の利を求めて活動しているものと同じなのである。ただ宗教とか思想とか主義とかで装うのが人間なのである。

要するに人間は犠牲になることが一番本能的にむずかしいのである。
人間はそもそも生物は自己保存を求める,それは本能であり否定できない,
長生きするなとか言っても無駄である。人間は生物だから自己保存をもつ,すると死にたくないとなる,お前ら老人は若い者のために早く死ねといってもできない
それは自己保存が本能的にあるから死にたくないからそうなる
だから宗教はそうした本能の否定からはじまった
自我とかエゴとか欲望がある限り利他的行動は無理だとなりそうなったのである。
人間はだから犠牲になることは一番むずかしい
それは利を自我を越えるものだからむずかしいのである。
その利を自我を越えるものがないと本当は利他的行動はできない
するとしても装った偽善になっている
宗教団体などがなぜ全く利他的行動にならないのか?それは個々人がやはり自我や欲望から逃れられないからである。
ただ集団化組織化して自分たちのエゴを利を実現するためにそうしているのである。
そこでは絶対に犠牲になるようなことはしないのである。

人間は利を越えるのがむずかしいというとき自我が自己保存が自らの利から離れることができないからである。愛もむずかしいのはそもそも自我や欲望から離れられない限り否定しない限り本質的にはありえないからである。
愛にしても恋愛もあり夫婦愛もあり家族愛もあり実際はいろいろある,ただ本当に利他的愛があるとしたらまず自らの欲望とかを否定しないとできない
それが人間には本能があり自己保存を求めるし欲望があるのだからできないのである。
要するに人間の本能がどれだけ強いかとなると老人になったからといって人間は枯れる訳でもない,ますます欲望が強くなるということもある:残り火でも最後に燃え上がる
人間の本能的欲望は死ぬまで消えることがないとまでなる
人間はそれだけではない,様々な欲望がありそのために人間社会は本質的には何千年前と何ら変わりないともなる,いろいろな面で変わったとしても人間の本質は変わらない
だから「金の切れ目が縁の切れ目」とか庶民が残した諺が今も生きていることでもわかるそれはどんなに社会が変わっても人間の本質は本能は変わったりしないからである。