2017年08月31日

情報化時代の弊害 (過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)


情報化時代の弊害

(過剰に反応して疑心暗鬼の社会に)

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現代はものすごい情報量に接する情報化時代である。インターネットでさらに加速した,その量は膨大でありとても追っていけない,情報化時代で何か起きているのか?
それは例えば教師とか様々な地位ある人でも性犯罪が報道される
すると教師が全部そういうふうに見られるのである。
それはなぜかというとそういうことが全国でテレビで常に報道されるからである。
毎日犯罪のことが報道される,するとこの世の中犯罪者ばかりだとなる
テロでも世界中で大騒ぎになる,それもわかるのだがではその国全体がテロだらけになっているかというと別に平和に暮らしている人たちもいる
一部がそうなって大騒ぎになることはわかる,でも全部ではないのである。
イスラム教徒でも全部がテロリストではない,極一部なのだけでイスラム教徒全員があやしいとされる
それは自分が駅であやしいとされ警察に通報されたのとにているのである。

つまりそういう犯罪のニュースばかり流されると今やべてがあやしいとなる
今日のテレビでは花を植えていた鉢が壊れていた,それを誰かがしたと思い込んだ
その人は回りに対して疑心暗鬼になってしまった
回りの人は何かさけている,除外していると思い混むようになった
二人で近くで話していた話しかけたらそれは会話が終わったからにすぎない,
その人と話さないというのではないけどそう思い込んだのである。
鉢は風で壊れていたのである。

そして遂に探偵を頼むまでになった,でも調査の結果は頼んだ本人が被害妄想になっていただけだったのである。
このテレビの番組を見て現代は被害妄想になりやすい,被害妄想とは疑心暗鬼になりやすい社会である。それは都会だと知らない人が多いし引っ越してくる人も多いからである。それは田舎でもそうである。
友伸エンジニアリングの会社は小池にあった,それは大きな建物である
とするとタニコウも小池にあり近くにあるのだから知っているはずなのである。
でもタニコウの人は知らなかった,最近自分は東京から来る人がいるので知ったのであるそれは小池にあるし目立つ建物だったのである。
このように田舎すらわからないことがある
都会だと本当に互いに何をしているのか本当にわからなくなる
そうなると互いに理解しあうこともむかしくなる
結果的に疑心暗鬼になり被害妄想になってしまう

村のような狭い社会に生きていれば竈の灰まで知っているとなるのも困るがそうなっていた,それが逆に今は田舎でも互いに知らないで暮らしている人が多いのである。
そして情報化というとき身近なことを知らないで世界の果てのことを知るということも起きてくる,そこは日常的には何の関係もないのだがグローバル化の情報化時代になるとそうなる,マクルハーンの言うように世界が一つの村になるとうのはそのことだろう
村の噂が世界の噂となり拡散されてしまうのである。

そうなると何が起きているのか?情報にふりまわされるのである。
世界からの情報にふりまわされているのが現代である。
油まみれの海鳥もイラク戦争の時世界中に流されてイラクは悪いとされたのである。
世界中がその一枚の写真に過剰に反応したためである。
それも必要でも情報過剰に悩みまた情報に過敏に反応しすぎることでみんな疑心暗鬼になりあやしいとなり警察にまですぐに通報する
もう狭い田舎でも信じられないとなっている
それはた解に知らない,意思疎通がない社会だからそうなっている

ナチスがラジオから生れというのがピカートの説である。ラジオは国中に放送できるからそうなる,今ならラジオにそんな力があるとは思えない,今ならテレビである。
テレビで放送されるとそれに過剰に反応する
テレビでは毎日犯罪を報道していると日本は犯罪者だらけなのかとなる
実際は日本は犯罪は少ないまれな国なのである。
でも犯罪のことばかり放送していると外国でも日本は犯罪者だらけにみえる
それは外国でも同じである。犯罪者のことばかり放送しているから危険だとなる
でも中国だって旅行したが危険なことはなかった
危険を経験はしたがどこも危険というわけではなかった
でも報道で危険なことばかり犯罪者のことばかり報道していたら危険な国となる

要するに報道は一部を拡大してそこだけを強調するようになっている
日本の戦争でも中国人を医療の実験台にしたとか悪いことばかり報道されると
日本人は残酷だとなる,それを世界に伝播することになる
そういう日本の悪いイメージを新聞社とかが拡散すると日本のイメージがそのとるにたらない嘘のニュースであっても拡散して日本はそんな国なのかとなってしまう
時代劇でも座頭市でもそこにいるのはヤクザばかりて争いばかりあったのかと錯覚するのである。実際はそんなことは極一部であり普通はみんな平和に暮らしていたのである。
ただドラマだと面白くないから面白くするためにそうしているだけなのである。

ドラマだって時代劇となると歴史の情報を勝手に歪曲して伝える,すると何が事実かもわからない,架空のドラマが事実と錯覚している人もででくる
庶民は歴史考証などに関心がないからである。水戸黄門のような人が実際にいたとまで信じる,実際は水戸光国は一回も旅していないのである。
現代は過去の歴史でもそうして事実でもないのに事実のように思わされ歪曲されて伝えられているのである。
そして問題はそうした情報に過剰に反応しているためにみんな疑心暗鬼になる
みんなあやしいとなる,被害妄想化してくるのである。
確かに子供の犯罪はある,でもそれは極一部のことである。
でも一人でも起きれば日本人全員を疑うことになるのである。

要するにいつの時代でも現代でも犯罪はあるし犯罪をとめることはできない,江戸時代あたりだとそんな犯罪があっても藩の外のことはしらなかったろうし村の外のことすら知らなかった,するとその村内では平和か保たれたとなる
それは閉鎖的でそんな社会は嫌だともなるがまたこれ人間のことは必ずいい面と悪い面があり情報も諸刃の剣なのである。
現代は情報化社会が日常化している,報道は必要でも犯罪ばかり報道していたらそれに過剰に反応してみんな犯罪者に見えてしまうのである。
みんなあやしいとなり被害妄想になる人もいる,それはやはり今の社会は狭い田舎ですら互いに知らない人が増えすぎたのである。
そして直接話する人は少なく常にテレビからそうした情報が絶え間なく流れてくる
すると現実に住んでいる狭い範囲の情報より日常的には関係しない世界の情報が身近になる,世界が村になり肝心の住んでいる村のこと知らないとなるのである。

人間は本当に何でも知るのがいいのかともなる,知らないですまされたらそれでかえって平和でいいということもある
人の悪口にいちいち気にしていたらもう生きるのも嫌になるだろう
かえって知らなければ平和が保たれる,現代はかえって情報によって平和が乱された時代だともなる
特に犯罪ばかり報道するのは問題がある。それは一部のことであり全部じゃないからである。
そしてそこに誤解が生れ一人でも議員が不正を働くと議員とはそんなものだとかみんなそう思ってしまうのである。

北方の森(NORTH FOREST)


北方の森(NORTH FOREST)


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NORTH RIVER




これも一つの抽象画を変化させたものである。
それは確かに森の絵である。
でもそれを変化させたら全く別物だから著作権違反にはならない
ただ川は何かなるかもしれない,
ともかくこういうふうにして抽象画を作ることは今までありえなかったことなのである。

This changed one abstract picture, too.
It is surely a picture of the forests.
But if change it, do not become the copyright violation at all because is an exception; the river is only what, or it may be; it is a thing impossible so far, anyway, do it in this way, and to make an abstract picture.

鷺が元の巣に帰り平和な里にもどる


鷺が元の巣に帰り平和な里にもどる



深野(ふこうの)に夕べひびきぬ蝉の声

善徳橋今日もわたりて木槿かな

鷺脚を流れる水に浸すかな


合歓の花風にそよぎて田舎駅でで虫の殻や電車とまりぬ

水無川今日清らかに流れつつ翡翠数羽飛びて来れり

山鳩の夕べ飛ぶかな我が里や実りそめにし稲穂見るかな

山鳩の夕べ飛びにつ今日一日平和に暮れむ心なごみぬ

我が里に牛のいにつつ動かざれ秋めく風の吹きにけるかな

鷺あまた前の巣にそもどりけり夕風涼しともに眠りぬ

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この辺は元の状態にもどりつつある,鷺の群れが竹藪にもどり眠る
あそこには震災前も鷺が群れていたからだ
それで前のような状態にもどったと感じた。それだけ田んぼが増えて餌も増えたからである。田んぼがなければ鷺も増えない,なんかこの辺は動乱がつづいたのである。
それは自分の一身上でもそうである。精神的にもへとへとになってしまった。

だから何か今は平和だなとつくづく感じる,そういう光景は30年くらいつづいていたのである。
人間は一生の内平穏無事には終わらない,時代的にも大きな変化に必ず見舞われる
これから生きる人もそうである。それはどういう変化なのかもはや想像もつかない,
想像もつかない変化が起きる

蛙が盛んに鳴いたときも復興を感じた,そして鷺が増えたことで復興を感じた
常磐線が開通したことで復興を感じた,そこで駅のボランティアしているのも不思議だとなる
ただ小高とか浪江となるとその差が大きすぎるのである。
自然も田んぼがないから蛙も鷺もいないのである。
前も田んぼがない田舎が考えられないと書いた,田んぼは単に米をとるというだけではない,日本人の原風景になっていたからである。
だから都会の人と田舎の人の感じ方は違うのである。
神戸の地震のような復興と田舎の復興は違うのである。

田舎というとき深野(ふこうの)とあるがそこの感覚はやはり独特なものがある
それは簡単に言い表せない,歴史的には深野は大原よりかなり古い,
中世の館という地名が二つあるからだ,大原は相馬氏進出して開いた
相馬氏から来る前から深野はあった
郷土史は村の新旧を知れというときその土地についてわかり俳句や短歌や詩にするときでも深いものができる,また鑑賞もできる

ただ深野に夕べ蝉が鳴いている,ただそれだけでは何がいいのかとなる
深野とは短歌ならその前に枕詞がつく,暮れなづむとかなる

暮れなづむ深野の里に我が来る蝉の音ひびきあわれ深まる

小池から坂をおりて「ユッサ」にゆく道である。あそこは実際に草茫々にまだなっているところがある,そこは牧草地にするという,小池でも震災前から牧草地になっていたところがある,牛舎がありやめたのかと思ったらやめていないという
また牛を飼うことをはじめると言っていた
結構広い土地が牧草地になる,ただ田んぼかなり増えた

田舎は村ごとに違った印象を与える,その土地土地の地貌が違うのである。
それが自分にとっては詩とかの題材になる,何か今はその土地土地の特徴が失われているが以前として地貌というものがある。
栃窪も橲原でもそうだし大原もそうだし特徴がある
今よりそこで自給自足していた時代はもっとその土地は特徴があった
生活そのものすら他の村と違うということがあった
だから日本は無数の村があるとしてその村は地形的にも違っていて地貌があり狭い国でも変化がある。大陸だとどこまで行っても平坦で嫌になるだろう。
日本は海あり山あり変化があるから旅をしてもあきないのである。

小池の善徳橋は前は木の橋で趣があった,土橋のようなものだった,真野川だってそういう土橋であり子供のときわたったがゆれるから何か怖かったのである。
そういう橋は洪水になると流されやすい,日本では橋は頑丈でないから流されやすいのである。野馬追いの行列も新田川をわたるとき橋が流された絵が残っているのもそのためである。
善徳とは人の名前である。橋でも田んぼでも人の名前がつくということはそれだけその人が生きていたとき何か貢献してそうなったともなる
人の名前を簡単にはつけられないからである。

水無川は最近雨で水が流れている,カワセミを三羽ほど見た,これはめずらしいとなる

今合歓の花が咲いている,駅の向かい側にも咲いている,そして夕べに電車が来てとまるでで虫の殻が残っていた,何かそれは田舎の平和な風景である。
しかし駅にあやしい人がいるということで警察に通報されたことはショックである。
その時田舎の駅の平和は乱されたのである。
だからそれには自分は怒りになっているのだ。

山鳩は平和の象徴である。そして稲穂が実りそめる,なんとなくもう今年は秋めいた。
ただ今日も曇っているから天気がぱっとしない日が本当に長くつづいたなと思う。
タグ: 山鳩