2017年08月30日

「心の青雲」都築氏の死亡について 大成せずに死んだ無念が残る?


「心の青雲」都築氏の死亡について

大成せずに死んだ無念が残る?

「少年老いやすく学なりがたし」というのを年取れば誰でも感じる,先がいくらでもあり時間がいくらでもあると若いときは思っているが時間はたちまち消散する
先がなくなってくるのだ,都築氏は弁証学の師匠のことについてほめていた。
それを継承するものとしてあった,でもそれは何かわかりにくいものとして理解されないものだったろう。
そもそもねの師匠のことも知られていない,そしてその師匠を継承するものとしても自らの学を打ち立てることはできなかった

そして死んだとなる,それもプログでだけ発表して死んだというのも現代的である。
今やプログでもインターネットでも高齢者が書いている場合がある。
すると死ぬということがある。だからインターネットでもプログでももう若い人だけのものではない,まるで遺言のようにして書いている人もいる
そうなるとインターネットでもプログでも重いものとなる
インターネットとかプログは出しやすいから一般の人でも書ける
その中にはこうして遺言のようにして書く人もでてくる
これからますますそうなってくる,若い人でも老いてくるからである。

とにかく「心の青雲」のログは消えているのも問題である。死んだ時点でインターネットは消えるのかとなる,そうなるとリンクもたどれない,そのことは指摘されていた
本だったら長く残ることがある,でも本はなかなかだせない人もいる
公表しにくいのである。本屋では売れない本など置かないし危険な思想のものも置かないインターネットではそういうのが自由だから出しやすいのである。

人間は師匠が必要であり尊ぶとしても10年違っても時代が違うと考え方も変わる,世代間のコミニケーションもしずらくなる,普遍的な価値は変わらないにしてもそういうことがあるし師匠でも弟子でも個々人の個性が違っている,だから師があったとしても師の学があったとしもただ継承するだけでは後世に残せるものは成せない
常に師を乗り越えることで新たな知の世界が開ける
それが都築氏にはできなかった,その前に死んだとうことが無念であり残念だっとなる

「心に青雲」の文は読みやすいし受けた,時の人物批評も良かった,なかなか批判できない有名人もしていた,歯に衣を着せぬ言い方である。
空手をしていたので芯が強い,それが文体にも現れていた
そして一カ月前まで発言して体の調子が悪いとしてプログの発言がなくなった
そしたら死んでいたのには驚いた,まだまだ死ぬとは思えなかったからだ
なぜなら一カ月前まで同じような強きの発言をしていたらからである。

コメントしてきた人が

都築さんは裕福で上品で、でも虚弱で、そのことにひどく劣等意識を持っていました。そのことが、「弱い人ほどほど強くなる」という思想の南郷空手に強烈に心酔していった理由です

そういうことがあったのか,それは三島由紀夫ともにていた,文学するような人が文弱と言われるように身体が弱い人がいる
その反動としてあれだけ肉体を鍛えてみせたのは涙ぐましいとさえなっていた
普通に強い人はそんなことをしないからである。
それは自分ともにていた,自分も虚弱でありなんとか強くなりたいと一時は大学の体育系に入ったがつづかなかった
都築氏も何か常にそういう面が確かにあった,懸命に体を鍛えていた,鍛練していた
強くなりたくてそうしていた,そういう一面があり強い人に憧れていたとなる
それは自分ともにている,だからこそ日本兵の強さとかアレキサンダーのような人になりたいとなっていた
それは文章だけからではわからないものだった,あんなに強きだったというのは自分が弱いからこそそうしていたというのも
今になると意外だったとなる

いづれにしろ弁証学も未完に終わったしその他も未完に終わった
そし死んだらリンクも消えることが問題なのである。
過激な思想でありそういうものでもインターネットならだせたのである。
人間はその人が右だと左だとかで判断すべきではない
何か一貫したものがあれば筋が通ったものとなる
実際は右の団体に属している組織に属している人でも左の組織団体に属している人でも転向は普通にある。日本自体が戦争に負けて転向したからそれに納得いかないというのも当然なのである。その転向したことが次の世代にも影響しているからである。
だから自分は右の団体でも左でもカルト宗教団体でも団体組織は信用できないのである。そこに一貫したものはない,時代によっても変わるしそして政党が変わるように変わるのである。社会党が消えたように時代によって消えるのである。

都築氏は極端な右寄りのようでも天皇を批判していた,特に昭和天皇を批判していたのである。たから右でも天皇を批判するのかとなる,そこが他の右よりの人とは違う
ただ日本軍の兵士の強さを称賛していた,その強さが日本人として誇りとしていた
それも左からするとそうはならない,戦争犯罪者になってしまう
その辺は右よりなのである。
ともかく歴史の見方は人によって違う,そして太平洋戦争についての総括はまだ成されないないのである。

それにしてもログが消えたのだから再検討とするのには困る,それは大きなインターネットの問題である。なぜなら遺言のように残したものが消されたとなると書いた人も無念に思うからである。
ただ自分は数年はずーと欠かさず読んでいた,だからそれが頭に残っている
ただまた再検討するにはログを読み返さないといけない,それがないということは再検討できないということにもなる,だからやはり本にして残すということが必要になる
それで自分もその作業をしているのだが書いたものが膨大になるので苦労なのである。


個々人家族によって違ってくる介護の事情 (社会的な負担と家族の問題)


個々人家族によって違ってくる介護の事情

(社会的な負担と家族の問題)


介護というのは家族の事情によって違ってくる,家族はみんな違っているからである。
トルストイのいうように家族の不幸はみんな違っているのである。
ただ家族でも家族内で介護とかしていればそれほど社会に負担にはならない
自分の場合は姉は病院に半年以上入院した,母もトータルではしたかもしれない,でも死んだからそれほど自分でも社会で負担にならなかったかもしれない
そして自分としては介護して良かったなとつくづく思う
なぜなら自分ほど家族に良くしてもらった人はいないからである。
だから恩返しできて良かったなと思う

そして苦しかったけど最期に姉が死ぬときうなづいてわかってくれたことせ救われた
認知症の謎は完全に馬鹿に痴呆になったのとも違う,正気にもどるときがあり意識不明になるときその直前に正気にもどったのである。その後意識不明になり一カ月後に死んだのである。だから自分の場合は老人は介護に金がかかるから早く死ねというが自分にとってそうではなかった,百才で死んだ母もそうである。
百才まで生きる意味があったのである。

生きる意味があるというとき家族内での生きる意味があり社会から見るのとは違っている社会では無駄だと思っても無駄でないことがある。
家族内の価値観と社会の価値観は違うのである。
たから社会の価値観を家族におしつけるのは問題になる
社会の負担蜷というときやはり家族内の問題が社会の問題になる
それは主に金の問題である。社会に負担をかけることはそこで不満が大きくなっている
金だけではない労力の問題もある

例えば障害者がいる家族の苦労は並大抵のものではない,そういう人を知っているが結果としてそういう人にそれだけの労力を払うのになぜ自分には払われないのだろうとか思う自分は家事でもなんでも全部自分一人でしているからだ
障害者にそんなに労力を払ってなんの意味があるのだろうというときまさに介護ともにているのだ,何の益もない死ぬだけの老人にそんなに金を使って延命治療したりして長生きさせるのは無駄だとなる,それは社会で負担するとそうなるのである。
家族と社会の価値観は違っている,家族なら障害者でも母には愛がありめんどうをみるのである。ところが社会というとき他人であり愛をもつことがむずかしくなる
それは金食い虫の無用なものとなるからだ
だから障害者を家族でめんどうみるならいいが施設に入れると社会で負担することになるから問題が起きるのである。

ともかく家族の事情は不幸はみんな違ったものであり家族のことは外部の人が見てわかりにくいのである。それは家族と社会の価値観が違うからである。
家族にとって意味あるものも社会にとっては意味のないものとなる
ただ金と労力を負担するものとなる,そしてどちらかというと介護はもう家族の負担で負いきれないから社会の負担となる,そこに膨大な金がかかり国では限界だとなったのである。

社会では金がかかるから延命治療はやめろといっても家族ではそう望まないものもいる
それは個々人でも事情が違ってくる,社会というのは個々人の事情は考慮しないのであるだから社会は非情だとなる,でもこれだけ老人が増えて介護でも病気でも費用がかかればもう社会では限界だとなる,その負担は若い世代にかかれば国すら介護で弱体化してゆくともなる,高齢化社会で国が弱体化して衰退してしまうのである。
だから社会では非情になるのはやむをえないともなる

ただ自分の家族の場合はそれほど負担になったと思えない,姉はなったが病院に半年ほど入院していたが死んだからである。それも負担にしろそれよりずっと長くなる人もいるからである。
母の場合はほとんど社会的負担になるものはなかった,入院してから一カ月にもならないで死んだからである。こういうものは社会的負担となっているとは思えないのである。
だからどこまでが社会的負担が許されるのか?
介護とか医療にはそういう問題がある。姉は確かに胃ろうになったがそれも半年くらいであり死んだ,胃ろうでは3年とか生きている人もいるしもっと生きている人がいるからだだから人によって負担が違ってくるのである。
だから胃ろうもいちがいにすべて悪いともならないというのがむずかしいのである。
要するに個々人で家族で事情が違ってくることが問題なのである。
それを社会では考慮しえないのである。
80才でみんな安楽死した方がいいというとき個々人ではまだまだ仕事をしている人もいるしいちがいには言えない,90でもそうである。
そういうふうに社会ではしたいとしても個々人の事情を無視すると困るのである。

障害者でも社会的には無用でも家族にとってみればそうでない場合がある,それは老人の介護と同じである。介護になると障害者とにてくるのである。
ただ自分でもそうして障害者に払われる労力とコストは大変なものだと思う
例えば何か家族でそんなことを負担させられて若い人がやりたいこともやれないとしたら悲劇であり障害者を老人をうらむともなる
自分の場合はそういうことはなかった,特別良くしてもらったしやりたいことをやらせてもらったからだ,だからこそ自分は最期は恩返しできてつくづく良かったなと思ったのである。苦しかったけど良かったなと思っている
そして加護された家族もそれを納得してもらったから救われたとなったのである。
認知症でも正気にもどったりしていたからである。
ただこれから自分がどうなるかわからない,体も弱っているからどのように死んでゆくのか不安になる,なるべく社会の負担にならないように死んでゆきたいとなる
いづれにしろもう一人暮らしだとそうならざるをえなくなる,社会は非情だからそうさせられるのである。それもカルマでありやむをえないとなってしまうのである。
タグ:介護の負担