2017年08月29日

日本では認知されないボランティア活動 (法律的にもあらゆる面で排除されている)


日本では認知されないボランティア活動

(法律的にもあらゆる面で排除されている)


日本ではボランティアが法的に認知されていないということがある。アメリカにはボランティア振興法があって、連邦政府によるボランティア支援が財政面でも組織面でも体系的に整備されており、また、歴代大統領が、法令を制定してボランティア振興のための財団その他の組織をつくり、運営を支えてきている。イギリスには、チャリティ委員会がある
日本のボランティアは、法的な居場所がないだけでなく、サービスの対象者から実費や謝礼金を受け取ろうものなら、たちまち各種の事業法令によって締め付けられる。


駅でのボランティアで感じたことはここに書いてあった,これはボランティア全般の問題である。ボランティアの地位が確定されていない,認知されていないのである。
だからボランティアしていても何をしているのだろうと社会では見る
いくら無償で働いても認知されない,自分の場合はただあやしい人というだけになることもある

それは自分がボランティアを見ていたとき同じだった,この辺ではボランティアが今でも来ている,でもボランティアは何しているのとかなる,それは駅で自分が案内とかその他時刻表を作って配ったりしていても駅を利用しない人は近くの人でも何をしているのとなる。
ボランティアとして熱意がありしていても認知されないのである。

その原因は様々である。ボランティアは何か気まぐれなのだ,何か災害があると寄付があるがその時は寄付してもあとはしない,たいがい一時的なものであり継続的にしている人は少ない,だから海外の援助でも定期的に援助しないと実際に外国で働く人は医者でもなんでも困るのである。
定期的に継続してボランティアは資金でも労働力でも援助しないと援助される方も困るのである。

この辺ではだから自転車旅行でぶらりと立ち寄りボランティアになった人などが結構いたその泊まる場所も近くにあった,しかし地元では必ずしもボランティアを認知しないということもある,それはどこでもそうなのである。
川俣の山木屋ではいろいろな人が来たけど大学でも継続しているのは一つだけになった
つまり定期的継続的に支援してくれるのは本当に少ないのである。

またボランティアというのはせ法律的にも社会的にも権限は全く与えられていないのである。だから街の防犯をしているものは警察から嫌がられる
お前は何しているんだ,ここは俺たちが見回りしている所であり外部のものは入るなとかなる,ヤクザの縄張りのようにな所に勝手に入ってきて防犯であれ警察の代わりのようなことはするなとなる,それでもめていたのである。
警官は法律でも権限もあり守られているがボランティアには日本では全くないのである。だから日本はボランティアがしにくいのである。

そうなると社会全体にとってもいいことではない,ボランティアが必要であり活気をもたらしたりすることがあるからだ
ボランティアは社会的に確実に必要なのである。でもそれは法的にもあらゆる面で認知されていない,それは社会からも認知されていない
あいつなにしているんだ,あやしい奴だと警察に通報してやろうくらいになる
そしてその善意はくじかれてしまう。
ボランティアは社会自体が認知していないのである。
それが確実に必要でもそうなっている

JRの人とも何度も会い話しているけど全く認めない,ただ公安委員会の人が言うには知っていて黙認していることは認めたことだという,でなければ拒否されることやめろと言われることになるからだともなる
つまりボランティアは居場所がないのである。誰も社会でも認知されないとなるとただあやしい人として警察に通報されるだけだとかなる
それも法的に守られてもいない,居場所もないからだとなる

ボサンティアは必要でも日本では社会的に受け入れるような体制がないのである。
ボランティアでも医療関係でもボランティアしようとしても定期的に継続的にチームとなって働かないと邪魔だともなる,
だからボランティアの居場所自体を確保するのがむずかしいとなる
日本にはボランティアと受け入れる素地がないのである。
それはやはりキリスト教の国である。そういう伝統があるからだとなる
日本にはボランティアというのも歴史的社会的に育つ土壌がなかった

だからそもそもボランティアは社会的に認知され受け入れられること自体むずかしいのである。それが社会にとって確実に必要であってもである。
そうなるとボランティアを受け入れない社会は大きな損失にもなる,ボランティアは社会に不足しているものを補う役目が確実にあるからだ
それが受け入れない社会はかえって社会全体にとって損失になる

今回の駅での経験はいろいろ考えさせるものがあった,だから自分にとって社会勉強になったし面白かったとなる,ただあやしいとか警察に通報されたりしたのはショックだった自分にしては外部の人でも道案内されればありがとう絶えず言われていたし内部でも時刻表を作ったりして配ったりその他教えることもあった
それと駅は様々な人の行き交う場所であり社交の場であり広場の役割も果たしていたのである。

いづれにしろ日本ではボランティアは居場所かないというとき特に老後にボランティアしたい人は本当に多い,でも老人だとまた受け入れるのがむかしくなる
体力的にもそうだしいろいろ問題が生じる
するとまた社会から老人は排除されて不満になり社会に居場所がないとなる
それは深刻になるとキレル老人となり社会に害悪をもたらすのである。
ボランティアにも老人にも居場所がないのが今の日本なのである。
日本の社会は何か硬直的社会であり柔軟社会でないということもあるのだろう。
社蓄とかいう言葉にも現れている,

「人間を幸福にしない,日本というシステム」カレル・ブァン・ウォレフレン
ここでも書いてあるが本当に日本は窮屈な社会なのである。
奴隷社会なのである。そうしてみんな社蓄なんだよというときそれを是認しているとき
社会全体奴隷社会であり暗い抑圧的なものになっているのである。
それは文明そのものがそうでありそこからアウトサイダーが生れたのである。

ボランティアこそ実は事故実現とか生きがいを与えるものなのである。
自由意志でやるのであり奴隷のようにするのではないからだ
芸術などの創造は自由意志であり自由がなければありえない
ボランティア精神こそ人間を人間たらしめるのである。
だからボランティアが否定される,認知されないとかの日本のシステムがそうなのであり日本人を幸福にしないシステムだと見るべきである。

福島県の公安委員に警官の職務質問について聞いた (正当な理由があったのか納得できなかった)


福島県の公安委員に警官の職務質問について聞いた


(正当な理由があったのか納得できなかった)


警察官職務執行法(警職法)2条1項である。以下警職法第2条を列挙する。

警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる

福島県の県警に今回のことで相談したけどその人は説明はわかりやすいし親切だった
いろいなアドバイスを受けたし電話したことは無駄ではなかった

でもやはりなぜあやしいというだけで何の根拠もないのに警官がかけつけて職務質問することが許されるのかわからなかった
あやしいという通報には何ら正当な理由がないからである。
ただ見慣れない人がずっと長く駅をうろうろしているだげでそれがあやしいと判断するのには正当な理由がない,でも110番に通報があると警官は必ず確かめるためにかけつけなければならないという規則になっている
110番は県警で受け付けて市町村の警察署に連絡して警官が即座に職務質問する体制にある

それはおそらく「あやしい」というとき何か緊急のことがあったりするからかもしれないその時即座にかけつけないとあやしい人が現実にいて逃亡していなくなれば職務質問もできなくなる
そういう理由があるのかもしれない,すぐに通報する,連絡しないといけない事情がある
それなら正当な理由になる,でも110番に通報するのは119番に通報するのと同じなのである。
119番だと一応どういう状態で電話したのかきく,110番は聞かないのである。
一切通報したことについて事情は聞かないのである。
緊急性があるから事情を聞いていられない,その緊急性がある理由がなくても警官はかけつけなけれはならないのである。
「あやしい」人がうろついているというだけで警官がかけつけねばならない
その理由を全くきかないのである。一言でもどんなふうにあやしいのですかとかきいてもいいはずである。

与那国島では木蔭に休んでいるあやしい人がいると土地の人に通報された
それも理由にならないにしろ一応理由を聞いているのである。
理由は駅をいつもうろうしている人がいるというだけなのである。
別に駅にはいろいろて人が出入りしている,散歩がてらによる人もいる
ジュースを飲む人もいる,広場の役割もありいろんな人が出入りしているのである。
全く理由を聞かないのが納得できなかったのである。
命にかかわるのが119番である。それと同じなのが110番の通報なのだろうか?
その辺が納得いかないことだった,110番の通報にも命にかかわることは確かにある
では駅にあやしい人がうろうしているというだけの理由が警官がかけつける理由になるのか?
その辺が納得がいかなかったのである。
また納得がいかないのは今回事情を説明したし回りの人を認めていたのである。
でもあやしいと通報がまたあれば必ず来なければならないという,そのことは公安委員でも同じだった

ただこのあやしいというのにはもし悪意の人がいたりいたずらでもありうる,でも通報する人をまず信用して確かめる,そういう仕組みになっているからこれは止めることができないのである。
実際は通報する人は電話でも携帯でも警察では証拠として相手のことがわかる
電話した時点で相手のことはわかる,ただ相手のことは言わない規則になっているのだ
そうししないと情報が得られないからである。
今回はかんぐれば悪意があったかもしれない,あいつが駅をぶらぶらして気にくわないと見る人もいる,なんか子供がいるから不安だとかともなる
それで通報することはありうる

それで県の公安委員では駅の案内人としてわかるようにそうした目立つものを来て案内するといいといっていた,それからJRから許可を得て許可章をもらうといいといっていた
それはyoutubeでアップされた神戸の街の防犯のボランティアがそうしていた
街の防犯をボランティアでしている人はいるのである。
なぜではそこで警官ともめたのか?警官にしてみれば防犯は警官の仕事であれそんなことに勝手に手をつっこまれるのが嫌なのかもしれない
なぜならソープで働いている人が発言していた,

元ソープ組合員です。   国家公安委員長も賄賂お渡しております。   本当です。

これは本当かどうかわからない,警察とこういう関係の人は結びつきやすいことは確かである。何かだからボランティアの防犯などを面白くなく思うことがあるのかもしれない

ともかく法律を知らないと対抗できないことは確かである。だからこそ証拠が必要になる証拠がなければ全く対抗できないからだ
ただ法律は本当にむずかしいから一般の人は損しているのである。
それは自分でも法律はむずかしいからわからない

例えば故意とか悪意とかが必ず問題になる,あやしいと通報するにも故意が悪意があったかもしれない,あいつが気にくわないとして通報する人だっているのである。
その故意と悪意を見分けるはほとんど不可能である。
誰も人間の心を見れる人はいないからだ,神はその心を見ているというとき神は知っているのである。たとえ警察沙汰にならなくてもその悪意自体が大きな罪なのである。
だからそれは罪であり必ず罰せられるのである。
だから人間は罪を犯さない人はいない,悪意をもたない人などいないからだ
直接犯罪にならなくても悪意など誰でももつからである。
そのこと自体罪になってしまうのである。

法律と宗教は関係が深いのである。宗教は人を罰しない,許し更生することを第一にしている,だからキリストでも許せと言っている,警察はただ罰することであり許さないのである。罪に帰して許さないのである。
だから警察はいい職業ではない,なぜなら警察官もやはり罪を犯している,悪意の人もいる,その人が罪に帰して許さないからだ,だから神は裁くなというとき人間に裁く力がないからである。でも警察は検察でも常に裁くことが仕事なのである。
そこで罪深い仕事だともなる,人間が裁けないというとき必ずミスがあるからである。
そのために常に冤罪がある,そして人間の一生を狂わしてしまうことがある
たから警察は罪深い仕事だとなる

公職中の警察官の動画や写真をとれる (肖像権はない,回りの人が写るとある)



公職中の警察官の動画や写真をとれる

(肖像権はない,回りの人が写るとある)


警察官の横暴・暴挙 神戸市

これも警察に抵抗するには参考になる,執拗に警察官の動画を撮っていた,それでやめろと恫喝された,でも撮っていた,その理由が公職中の警察官の動画や写真はとれる
肖像権がないとして撮っていた。
そして警官に恫喝されたことを盛んに言っていた
この人はNPO法人なのである。ちゃんと認可もされているから強い

まず相手の警官の階級とか氏名とかを知り動画か写真に写す,なぜならそれが証拠になるからだ,その証拠がないことには裁判では戦いないからである。
この人は法律に詳しい,ここまで知っている人は少ない
法律はやはりその現場で問題が事件があった有効に働くかどうかである
実践的なものとして利用しないと身につかないのである。

自分もここまでは知らなかった,一般の人も知らない,この人はマスコミに匹敵して
個人でもこれだけ警察官を追い詰めていることに驚く
なぜ動画に写されることこれほど嫌うのか?
それは証拠になるからだ,警察官の横暴を訴えるに証拠がないとできない
そして肖像権が警察官にはない,公職中ならない,公務員もない
この法律を知っている人はなかなかないだろう
みんなまず警察官は怖がるからである。

必ず一方的に恫喝してくる,それで怖がりこんなこきとまでしない
ただここまでできるのかという驚きがある
こういうとき法律が役にたつということを実感した

インターネットにもいろいろ問題があるが市民の武器でありマスコミの代わりをしていることがわかった,マスコミでもこういうことをなかなかしない
誰が警察官の横暴をとめるのかとなると市民しかない,しかし市民でもその武器がないとできない,それがインターネットでできるようになった
その人は世界に発信するというとき世界の人も見ているとなるからだ
日本の警察は何なのだとかなる,中国の警官の横暴もある
日本よりひどいだろう。中国ではここまでできないだろう。

八戸の警官に職務質問したのもそうだがこの動画も警察官に抵抗するには相当に参考になる,必ずカメラを携帯して職務質問されたら相手の名前階級などを聞き身分を明らかにする,そして動画や写真をとるのである。
それが証拠となるからだ,でなければ後でそのことを証明できないからである。
それをインターネットで公開もできる,結構を見る人がある
だからインターネットはマスコミの代わりにもなるのだ

でもここまでやれる人はなかなかいない,田舎ではこういう知識をもつ人がいないかもしれない,どっちも八戸であれ神戸であれ大きな都会である。
この辺が違っているかもしれない

警察に対抗するにはカメラとインターネットと法律だ!

これが言えるかもしれない,何か他に見当たらない,相談する場所もない,公安委員会などでもよほどのことがないかぎり取り上げないだろう

その前に証拠がない限り警察でも検察でもとりあげないのである。
だから裁判では常に証拠,証拠になる
そして犯人も必ず証拠をだせとなるのが現代の社会である。
だから領収書とか何か常に証拠になるものを持参していないとどんな犯罪にあっても大きな犯罪でも警察はとりあげないのである。殺人などになると別だと思うが他の事件はそうである。

現代を生きる術を知らなければならない,そのために知識が必要になる
ところが学校ではいかにこの社会を生きるかその生き方を教える場所がないのである。
そこでただ一方的に警官にでもその抵抗の方法がわからないから泣き寝入りになる
この人は若いように見えて50近くになっていたから驚く
なんか自分は社会やいろいろなことがわかることが遅すぎたのである。

社会のことを知らないで生きられていたからである。それも自分でも不思議だと思う
ニートなど社会を知らない人達はこれから必ずひどいめにあう
社会経験がないからそうなる
法律も大事だがその元となる社会経験がないと結局法律も利用できないのである。
法律といっても膨大でありそれらをいちいち知ることは不可能だからである。

ただやはりインターネットは民主主義を促進する力となる
マスコミにできないことをこうして個々人が補うことができる
やがては個々人がマスコミの代わりになってゆくかもしれない,その途上にある
これは具体的な法律の勉強になる,こういうのだとわかりやすくなるのだ。
具体的な実践的な例だからである。

インターネットによって個々人も放送する権利を獲得した
インターネットだと新聞社とかテレビ局とか出版社とか通さなくても発言できる
それは大きな権利である。なぜならそういうものを通すと新聞社でもテレビ局でも
俺たちを通さなければと何も言えないのだとなるからだ
現実にそういうことで今までマスコミは力をもっていたのだ
議員でもテレビで顔を売れば票が増えるとかいろいろあったからである。
インターネットではなかなか顔を売れないからだ
人間の社会は歴史は権利(right)の追及である。

権利はライト(right)である。正しいことが権利になる
だから権利を獲得することはそれにともなって正しいことを追及することである。
そして権利をもったらそれを乱用はできない
それは警察でも同じである。強大な権利を権力をもたされた警察は勝手にその権利と権力を乱用してはいけないのである。
それが警察の場合はまかりとおっている,それを諫めるものがないのである。
司法と行政と議会と三権分立が民主主義の基本としてある
この仕組みが日本ではうまく機能していないのである。
だからこそ警察の権力が肥大化して横暴になっても諫めるものがないのである。
三権分立は機能していないのである。
だからこそ自治体を焼け野原にしてしまうぞと愛知県警に脅されていることでもわかる
ここまで言うこと自体,いかに日本では警察の権力が検察でも大きくなりすぎているからである。

民主主義は戦ってこそ獲得できると言われる,日本は戦後おしつけられた民主主義である。
だから民主主義は成熟していない,民主主義は常に市民が権利を獲得する戦いなのである。
戦いなくして権利は獲得できないのである。
インターネットは民主主義を推進するものとしてある
これも問題があるにしろ個々人が武器を手にしたことは大きいのである。


肖像権とは

人格権に関しては、「公権力が『正当な理由無く』個人を撮影してはならない」とする最高裁判例が存在する

報道写真のように公共目的の場合、あるいは政治家[12]や公務中の公務員、芸能人[12]のような公人に関する場合であっても、肖像権は存在し得るが、撮影の目的や場所、様態、必要性などを総合的に勘案して、それが肖像権を侵害しても良いとされる限度であるかどうかを判断したうえで[13][14][15][16]撮影を行えば、一般に違法性はないと考えられる

肖像権も解釈がいろいある

今は写真の時代である。そしてインターネットに膨大な写真がアップされている
だから著作権とか肖像権とか知らないとまずいとなる
インターネットは公表することができる
でもそうなると責任が生れる,そのために法律の勉強が必要になる
個人が大きな武器を手に入れたのだがそれとともに責任も生じている
だから法律を知らないと危険になってくる
インターネット自体がまだ成熟していない,だからその利用方法がわからないのである。