2017年08月23日

他人の仕事を認めない現代 (その対立が深刻になる)


他人の仕事を認めない現代

(その対立が深刻になる)


暑き日に線路補修するJRの人を見てをり無人駅に


今日は仙建工業が小屋のようなもの建てるために工事していた
この会社は鉄道関係で仕事をしているのでしっている
JRの人も原町駅から二人来て草むしったりしていた
何か鉄道は保守管理の仕事がある。それが手間なのである

道案内としてはコモドイン小池のホテルに泊まる人が来たので案内した
歩いて行きたいといったが無理だとタクシーを教えた
駅前の看板の地図を見てもどれくらいの距離がわからない,時間がどのくらいかかるかわからない,そういうことは知らない土地に来ればそうなる

人間は毎日働いているけどその働くことをその価値を認めていない
今まで電車の旅をあきるくらいしたけどそこで働く人のことを考えたこともなかった
そこに人が働いているとすら思っていない,何か自動的電車が来て乗っている感じだった現代はいろいろな場で働いているけどその働いている姿が見えないのである。
また機械化自動化すれば余計に機械が働いていて人間が働いているのが見えないのである
だから日本では働く(はたらく)は端(はた)を楽にする意味があるというとき働く人を身近に家族でも見ているときそういう気持ちになったのである。
今は子供でもお父さんが会社で毎日働いていてもその姿が見えない
すると親の後ろ姿を見て子供が育つとはならないのである。

もし農家だったりすると暑いとき汗を流して働くのは楽じゃないなと子供ながらにみる,でも会社だとその姿は見えないのである。
そしてこれだけ多様な複雑な社会になると他人が働いていることがわからない
小さな町でもわからない,隣すら何して働いているのかわからないのである。
そこで何が起きてくるのか?他人が働いていることの価値を認めないということ知らないということになる

それで駅前の葬儀屋といつもあうが暇で余裕で毎日駅にきて楽だなとかのことを皮肉的に言った,その人は全く駅で自分がボランティアしていてもその価値を全く認めていない
なんだ毎日駅にきて何しているの?暇な奴がきて駅で時間を過ごしているとしか感じていないのである。
そういう面があるにしてもなにかしら役にたっている面もあるがそれを全く認めていない
そういうことは別に今の社会では普通にあり多いのである。何をしているのか仕事をしているのかわからなければ価値を認めるも何もないからである。
家の修理で屋根に上ったりするけどそれは危険なことがわかる
だからその時はその仕事の価値は高くなり一時間で一万五千要求されたがしかたがないと思った,それは目に見えてわかる仕事だからそうなる

ともかく今の社会は他人の仕事がわからないし価値を認めないのである。
車社会になったとき電車の乗り方も知らない人が多い,そういう人は全く鉄道の価値を認めないのである。鉄道など必要ないと思っているのだからそうなる
そこにすでに対立が生れる,自分でも葬儀に関しては30万でしたから必要にしてもそれがさほど重要な仕事に思えないのである。
相手も自分のことを認めなかった,自分でも葬儀などは簡単にしてやればいいと思うだけであり必要でもその価値をあまり認めないのである。

こういうことは今の社会では本当に多い,趣味で農業している女性でもそうである。
自分が駅でボランティアしていてもその価値を全く認めない,自分から見るとほとんど何を収穫している畑でただ愚痴を聞くだけのものが価値が高いとは思えないのである。
そこに種代とかいろいろ自分で払った,でももらったものはほんのわずかであり何もないと同じだからである。
するとそんなことしていて何の価値があるのか?自分は確かに価値を認めていてもその人が自分のしていることをしなくていいとか言えるのか?
ここにも自分のしていることは価値があり他人のしていることは価値がないとしているのである。

こうしてもし一緒に暮らすとなると価値観の対立が深刻になり一緒に暮らせなくなる
そういうことは自分の家族であった。花とかが無駄だとか庭は無駄だとかいう人と一緒に暮らせるのか?それが例え親でもである
これだけ多様な複雑な社会になるとそういうことが多すぎるのである。
要するに一つの絵にしろ価値を認めないものには何の価値もない,芸術となるとそうである。ただ芸術がわからない人でも一枚の絵が何億だと値がつくと価値あるものとして認めるのである。それが資本主義社会である。

現代の社会は価値観の対立が起こりやすい社会なのである。もちろんグローバル化社会になると世界的にもそうなる
価値観の対立は仕事でもあなたの仕事は価値がないいらないということになればその存在の全否定になる,それが深刻になるのである。
現代は価値が多様であり複雑になりすぎてもうそれぞれの仕事とか価値をしりえない社会になっているのだ。

葬儀屋とかは失礼になるが昔なら棺桶屋にもなるだろう。人間が死ねば商売になる仕事である。自分がそんなこということ自体相手の価値を否定しているのである。
大人でも若者がゲームしているのは無駄だとかなったり世代間の価値の対立もある
どこでも価値の対立が起きやすい社会なのである。

自分が車の価値を認めず鉄道の価値を認める,でも現実は車社会であり車に関係する仕事している人が多いのである。だから車がいらないとなれば車関係で膨大に仕事している人もいらないとなり価値が否定されるのである。
自分は車がいらないとかは言っていない,車の恩恵を間接的に通販でもなんでも受けているからだ,車をへらせということを言っているのである。
荷物を運ぶのには必要でもこんなに車が必要なのかという疑問なのである。

タグ:仕事の価値

一つの抽象画から変化するから大量生産できる (春の森-forest in spring)


一つの抽象画から変化するから大量生産できる

Because I change from one abstract picture,
I can produce it in large quantities

(春の森-forest in spring)

youthfulimage1.jpg
ORIGINAL ABSTRACT PICTURE

CHANGE 

springforest11.jpg

springforest11333.jpg
A WAY OF FOREST IN SPRING

springlake111.jpg

A LAKE IN SPRING

springfloer345.jpg

FLOWER IN SPRING



最初の抽象画は簡単である。これは春の感じだなとして変化させたらやはり春のイメージの抽象画がいくつもできる

抽象画は単純なのが抽象画である。単純に色をモザイクに分析しただけで抽象画になる
これは春の感じだなとか秋の感じだなかとかる
色の配合でモザイクでもいくらでもできることになる
その組み合わせは無限蜷くからだ

だから一つの抽象画いくつもにまた変化する,すると無限にできるともなる
それは全く絵を描く才能から作られているのではないのだ。
そこがcomputerの抽象画の最大の不思議である。

ただ作る方でも化学実験のようにして作っているのである。
これは何にしようかなとか画家が絵を描くのとはまるで違っている
むしろ科学者であり実験しているという感覚になるのである。

何かしら人間は才能があってできる,でも全く才能がなくてもできる
それはcomputerが作り出したものだからである。
ただcomputerにはただ色を配合してもそれが春だと秋だとか見ることができない
今回の春の森という題でもこれが春の森として見ることはできないのである。
そこがcomputerと人間の相違だとなる

人間は自然界から多様なものを見ることができるようになっている
それは長年の積み重ねでそうした感性が養われているからである。
computerにはそれができないのである。おそらく永遠にcomputerにはできない
画像解析がいくら進んでもcomputerが芸術を創造できると思えないのである。


The first abstract picture is simple. If I do this when it is a spring feeling and change it, after all it is possible for some abstract pictures of the spring image

It is an abstract picture that the abstract picture is simple. It will be possible for with the mosaic by autumn feeling -colored combination plenty that this which becomes the abstract picture just to have analyzed a color into a mosaic simply is a spring feeling, putting it together is 

Therefore it that it is when I do it even if it is possible endlessly which changes into some one abstract picture again is not made by talent to picture a picture in at all.
There is the biggest wonder of the abstract picture of computer.

Even a person making it does it like a chemical experiment and only makes it.
This is that it is in the sense that rather it is a scientist and tests totally different from a painter drawing a picture what you should be going to like.

This is because it which but it is possible for without talent at all which some human being has talent, and there is is the thing which computer created.
Even the title called the spring forest at this time when I cannot watch it in autumn in spring even if I merely combine a color with computer cannot only watch this as a spring forest.
When it is a human difference, there becomes computer

As for the human being, it which comes to be able to watch a variety of things from the natural world is because such a sensitivity is fed by longtime accumulation.
There is not it in computer. Probably think that computer can create art even if image analysis not to be possible advances to computer how much forever, and there is not it.