支援がすべていいように働かなかった
(復興団地も住宅も一時的な住まいなのか?)
支援すると、意図的に弱い立場に固執する人が生まれてくる
この辺でも津浪の被害地域でもこのことは起きていた
そのことはずいぶん書いてきた
支援されるのはいいとしてそれが自立に向かわない,かえって一方的にいつまでも支援されるものとなり支援を延々と要求するだけになる
支援する人が悪いのではないが人間は楽な方に向かう
支援してくれる人がいれば楽だからいつまでも支援してくれとなり自立をしない
この辺ではそういうことが極端に起こった,原発避難者は常に支援されるものであり外からボランティアがいつも来ていた,そのボランティアが悪いというのではない
常に支援されるものであり自助努力を失っていった
現実は毎日パチンコでありギャンブルしていたのである。
だからボランティアの人達も矛盾を感じたというのはここで言っているのと同じだった
特に地元では支援する気持ちもなくなってしまった
だから例えばこの辺では小高の人達はみんなこんなに支援しているのに地元の人は支援しないのかと怒りにもなっていたのである。
補償金をもらえるのは当然でありそんなことで文句言うなとなって分断されてしまったのである。それをマスコミが後押ししたから余計にそうなった
だから地元の人はおおっぴらにはそのことは言わないのである。
原発避難者が大量に入ってくることは何であれ摩擦になった
それは移民でも大量に入ってくると摩擦になる
これはどこでも当然なのである。どこにもそれなりに共同体があってそこにそれだけ大量の人が割り込むと摩擦が生れる
ただ外から支援する人は歓迎された,でもここでは支援する人も必ずしも自立させるものではない,いつも支援されるとその支援が当たり前となり遂には要求するようになる
それが人間の性質である。楽をしたい,もっとくれとなる
そういうことはこの辺では放射能被害とかいろいろあり要求しやすかったのである。
それは当然の権利となったからである。その権利は認めるにしてもそこから自立するとなるとかえって自立をはばむものにもなった
だから人を援助するものもむずかしいものがある
一見いいようでもその援助に甘い常に援助されるものであり楽をしたいとなり自立はできなくなる,結果的にはそうなってしまったともなる
最近は復興住宅というのが福島県の各地に建てられた,原町の復興団地は五階建てであり数が多いのに驚く,一つの街ができた感じにもなる,他にも三階建ての団地があるから数が多い,ほとんど浪江の人達である
でも復興団地は復興するものとしたら浪江だったら浪江に建てられるべきものではないかそうしなければ復興はないからである。
放射能のためにやむをえないからそうなっているにしても何かこれも違和感を感じるのである。
復興団地に住んでいる人は将来は地元に移るものとして住んでいる?
そのための復興団地である。でもその復興団地はもう地元に帰らないでいつまでも住めるそうしたら移住することになるのか?
移住したとしたらいつまでも補償金に頼るわかけにいかないから就職して移住先にとけこむ必要が出てくる,そして移住先で仕事があれば地元には帰らないともなる
だから何か復興団地というのもあいまいな宙ぶらりんな感じにもなる
もしこれが地元に建って住むとなるとまさに復興団地になる,そこで生活しなければならないからである。地元で生活するから地元を復興させようと自ずからするからである。
しかし地元から離れて住んでいればそういう気持ちが薄れる
ただ近くなると土地を見に行ったりして行き来しているから徐々に地元に帰還するようになるのか?
ただますます帰らない人も増えているのが現実である。
ただ移住先でもこの先補償金がいつまでももらえるわけではないとなる移住先で仕事をするとなると厳しいものがあるかもしれない
何か大工のように技術をもっている人は他の人は簡単に職につけるのか?
そして老人が多いということは復興の最大の障害ともなっている
老人は苦労できない,楽をしたいとなるから支援してほしいとかしかなくなるからである
復興団地も住宅も支援なのである。その支援が有効に働くのか?
地元の復興に役たつのかとなるとまた疑問になる
老人だったら復興住宅でもいつまでも住んでいようとなってしまうかもしれない。
そのために補償金を要求するし支援を要求するだけだとなってしまう。
でもまたそういうことを移住先で許容するのかとなると全面的にはならない
小高の住民は南相馬市だからまだいいとして浪江とかなるといつまでも浪江町民になる
とすると税金を南相馬市に払わないとか他でも問題になった
いつまでも住むとしたら南相馬市民とか他でもその市民や町民になるがなかなかなれない補償金をもらうためになれないということがある。
これもだから宙ぶらりんになっている
不思議なのは仮設に住むというのでも仮りの住まいであり何か何でも仮りの状態になったそれは住宅でも借りている人は仮りの家に住んでいるという感覚になる
それか大規模に仮りの状態で住んでいるとなったのかもしれない
街自体が仮りの街にすらなっているという感じになる
漂流者のような感覚になってしまったかもしれない。
どこにいっても仮(か)りの住まいであり仮りにいるだけだとなる
そしてこの世は仮りの世だというように宗教的にもなる,すべてが仮の世界になってしまう。一時的にいるのでありいづれはいなくなる
ただ最近小高の人はほとんどいなくなったし浪江の人のこともわからない
だからもどった小高でどういう生活をして何を感じて暮らしているのかわからなくなったこれも問題である。だんだん内部でも外部でも関心が薄れ忘れられてゆく,いつまでも関心を外部の人でももていなからである。
するとそこにもどり残った人はそこでそさなりに自立して生活する他なくなる
不便でも不満でもその現実を受け入れざるをえなくなる,それが嫌な人は子供のいる移住した先に親も移るとなる
ただ今になるとみんなどうしようとしているのかわからなくなった
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