2017年08月07日

JRには人へのサービスが欠けている (技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)


JRには人へのサービスが欠けている

(技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)



市で作ったトイレが障害者の団体のあさがおで毎日掃除しているという
たまに行くと見かけるけど毎日にしていた
そんなに掃除しなければならないのか?
いつもきれいになっていた,その分金がかかっていたのである。
その金は市で払うから市民が払っているともなる

なぜそれがわかったかというと向かいの自転車屋はいつも駅を見ているから知っているのである。自分は一日一二回くらいしか行かない
その人はいつも駅を見ている一日中駅を見ている
何もしなくても駅とかかわっているのである。
道案内などやタクシーのことも聞く人がいた
つまり駅には誰いない無人駅だからそうなっていたのである。

その人は駅舎が空いているのでそこを利用すればいいと言っていた
それが観光協会がなんとかでうまくいかなかったという
鹿島駅てはあそこで弁当などを売りたいという人がいるという
それなりの人が出入りしているからである。
前は売店まであった,その時はまだもっと人が乗っていたときである。

駅で弁当でも何か売りたい人がいるということは初耳だった
でも観光協会がどうのこうのとかできないらしい
JRはこうして市民が地区の人が掃除していても何も礼も言わない
それは自分もそうだった

いろいろ駅を見ているですよと言っても何も礼も言わない
それがJRだという,確かにおそらくその駅前の人も地区の人も礼など言われたことがないから言っている
何か注文をつけるとうるさいというくらいにしか思っていないのかもしれない
これもどういうことなのか良くわからない
道案内しただけでありがとうと言う人もいるのになぜJRではそうして地区でも掃除したり自分もいろいろみていて補佐しているのに何も礼も言わない
一言ありがとうとも言わない,むしろどうでもいいという感じになる
それで自動化して無人駅化する
何かJRでは人へのサービス精神に欠けているのだろうか?
その辺の事情はよく分からない
今日前の自転車屋に聞いてJRはそうだなと思った

2013.10.15

JR、ずさんなサービス品質の実態〜安全対応軽視、黙り込む駅員、顧客無視のシステム

東京駅の改札前のメイン・フロアでは、カート用のスロープが一路あるだけ。それ以外は、階段と小さなエスカレーターが一機設置してあるのみ。ほとんどの人がスーツケースを重たそうに持ち上げ、階段を上っている。


東京駅でもそういうことがあるのも驚きである。そういうのは駅員が見ているとわかる
田舎の駅ではエレベーターがない駅が多い,するとスーツケースでもキャリーバッグでも階段を上り通路をわたり改札口まで結構な労働なのである。女性もいるから楽ではないと見ている

ここの記事では駅員が何かと不親切だとかインターネットの予約でも何か人へのサービス精神がJRでは欠けていると指摘している

そもそもJRは線路の保守とかメカの点検保守がメインの仕事であり人へのサービスは別なのもと考えているのかもしれない,そういう集団であり組織なのかもしれない
サービス業だとは思っていないのかもしれない
理系とか技術者関係にはそういう人が多いだろう。

でもホテルとか売店とか経営するようになっているから今は変わっているが基本的にはそういう姿勢なのかもしれない,線路とか鉄道の技術としての保守管理がメインの仕事であり人へのサービスは付随したものでしかないと思っているのかもしれない
実際に地区の人でも自分が駅をみてしていることでも全く無関心なのである。
その駅舎でも自分たちのものではないという感じにもなる
すると機械だけおく無人駅でいいというのがJRの態度になって行くのもわかる
それはただコストがかかるからというだけではないのかと今日話を聞いて思った
機械にたいしてメカには保守点検は厳重にしているが人へのサービスは重要なものとして考えないということである。

ただ駅はJRのものだけではない,駅に来て無人駅で案内する人もいないとなると駅が街の玄関の役割を果たしているというときその街自体の印象が悪くなるのである。
駅はJRだけのも問題ではない,その市町村と密接に結びついてある
経営として人へのサービス精神からみる必要もある
駅はJRだけのものではない,それは街と一体化していることを市民でも自覚する必要がある,でも車時代になると常磐高速道でも四車線化しているように
車は乗る人が多いから便利になる,鉄道は利用する人が少ないから便利にならないのである。乗る人が多くなれば三〇分感覚に電車に乗れるようにしたりできるからである。
どうしても経営はコストなしには語れないということである。

原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)


原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)

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時々道の駅で野草展が開いている,さほど見るものがない,今回はイワヒバが多かった
イワヒバはいろいろ種類があるという,茨城県の太子ではイワヒバを売っているので買ってもらった,高いが品種的にはそれほどいいというものではなかった
イワヒバは岩にあうからイワヒバである
これをとるのは容易ではないから高いのである。

レンゲショシウマという花は本当に見れるのか?
こんな花が近くの山に咲いているのか?高山の花だと思った
シャンデリアのように開いている
これを自生してる山の中で見たら神秘的である。

野生の花はやはり野山に咲いているのを見たとき一番美しいし神秘的になる
この花を見たいといってもかなり山奥に入らないと見れないだろう。
花は高山植物を見てきたがそこまで行くのが苦しい

尾瀬にはいろいろ花が咲いていたけどそそこまで行くのが大変である。
至仏山に咲いていた花は神秘的だった
尾瀬にはもう一回行って見たい,でもこの年になるとなかなか行けないなとも思う
人間はこれほど旅をしても見るものがつくづく限られていると思う
だから時間が貴重なのである。

人間はくだらないことに時間を費やしすぎるのである。花を見る時間もやはり人生の中で貴重なのである。花のことを知らない人が多い,すると何か欠けていることになる
女性でも四〇代の人が生け花もしていない,農家に嫁いでも花のことを知らないのである美人でも何か大きなものを欠けていることに気づいた

一般的に男性は花に興味がない,だから花屋で男性が花を買いにゆくと変に見られてしまうのである。
ただ別に野草展では男性の人も花を育てている,そういう趣味の人はいる
やはり高山植物は神秘的である。今になると見れないものとなってしまった
人間は何か何をするべきだったとか必ず老人になると悔いる

それは時間が無駄なことに費やしているからそうなるのである。
時間を有効に使っていないのである。
そしてその貴重な時間がいつかはなくなってしまうのである。
今になると自転車旅行もできないとかなる
時間があっても今度は体力がないとなりできないとなる
つまり時間でも体力でもいつまでもあるものではない,限られたものとしてしか人間には与えられていないのである。