2017年08月02日

蝉の声(はらまちユッサに行く) (話しかけることは心にかけること)


蝉の声(はらまちユッサに行く)

(話しかけることは心にかけること)

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一の旗使いの走る朝の蝉

原町になお巣を作る夏燕

合歓の花月のほのかに夕べかな


五六つ庭に石かな蝉の声ここにひびきつ夕暮れぬかも

のうぜんの熱くもも散りてそのうあとに鬼百合咲きて燃えにけるかな

藪甘草咲きにしあとに月見草さきてあわれも月のいずかな



話かけることは心をかけること」

ユッサの玄関にあったこの言葉は面白い,なぜこの言葉がいいと感じたのか?
それは駅で常に自分は話しかけるようになったからである。
駅だけではない,自分は何か一人になってから人に話しかけるようになった
家族がいるときは人に話しかけたりしない,家族がいたから淋しいということはなかったでも家族がいなくなると家でも一人でがらんとしている
それで家にいたくなくなり外に出る,そして話しかける
そればこでもいいということはない,話しかける場所がある
駅とかユッサとかくつろいでいるから話しかけやすいことがあった
でも誰でも話しかけることはできない,嫌がる人がいるし話たくない人もいるし
怒る人もいるからだ:その辺のタイミングとかがむずかしい

今日は山形の人であり山形では雪かきなどが大変だと言っていた,山形は相当雪が降るところだった,それは春になっても山形に入る面白山トンネルをぬけるといつも山に雪が残っているからやはり雪がふる場だった
それから盆地のようになっているから夏は暑いと言っていた。
ただこのユッサは七五〇円とか湯でとるのは高いと言ったら山形では温泉がどこにでもあり三〇〇円くらいで入れると言っていた
この辺は温泉はないからここは一応温泉だから高いのかもと答えた
この辺では温泉は貴重なのである。

山形でも前から常に言っているように地理がわからないと話が合わせられないのである。全国を隈なく自分は行っているから外部の人とと話を合わせられる,外部の人と話すときはまず地理を知らないとできないのである。

今日はユッサは野馬追いも終わり休みでもないのですいていた,あそこに食堂があり日替わりで出しているしオカズも出しているからいい,オカズの手作りがあるから自分にとってはいい,まずオカスが一人で作るのがめんどうだしまずいのである。
外の料理の方がうまいのである。ただ最近暑くて行けなかった
車がないから暑いと行けない,今日は秋のように涼しいから行けた

ともかく「話かけることは心をかけること」それは自分のことを思うときぴったりだった
人間が話かけるときは心をかけるのである,ただ単に話かける,機械とは違う,相手のことを察して心にかけて話するのである。
つまり人間が話かけることは相手のことを気にかけて思って話するのである。
話しかけることは単に話すのではない,人間の場合は心を通いあわすことなのである。
それは二言三言でもそうかもしれない,そで触れ合うも他生の縁となるの話しかけることなのである。
ただ話しかけられることを嫌う人がいる,それは自分もそうだったが駅でも話かけるのは何か役に立ちたいと思ってしているだけなのである。
別にプライバシーがあるから答えなくてもいい,第一あまり普通駅など話しかけない
大きな駅だったらそうなる,田舎の小さな駅だからこんなことができている
だから小さいことは人間的になるのである。

ただ日立木駅とか本当に一人くらいしかのりおりがない,まず外部から来る人かない
そうなると話しかける人もいないとなる
そういう駅も淋しいとなる,あそこは自転車でそう遠くはないから食事するにはいい
オカズが日替わりで変わっているからである。
水曜日はテンプラのあげたてを安く一五〇円でサービスしている
あれは本当にサービスとしてしているのである。
だから今日は得したとなる

野馬追いは終わった,原町で燕がなお巣を作っていたのも原町にふさわしいと思った
原町は街としてもともと大きいからなお燕が巣作りしている,それは人が多いから
何か大きな街だとふさわしい,まだ燕は巣を作っている,燕はまだ増えるとなる

藪甘草のあとは月見草がしっとりと咲き月がでていたのもふさわしい
なんか今日はすでに秋めいていた

駅のトイレから考える福祉の問題


駅のトイレから考える福祉の問題


鹿島駅の市で作ったトイレは立派である。特に身障者用のトイレは広いしきれいになっている,車椅子で入れるようになっているから広いのである。
一方隣の男女用のトイレは狭い,窮屈なのである。
でも車椅子で利用した人を駅にいて見たことがないのである。
ただそこは別に身障者でなくても利用できる,でも身障者用より健常者用を使っているみたいだ

盲人用の黄色のブロックを駅で直していた,そこはほとんど一人通っている盲人でも利用しない,第一駅の渡りの通路は階段が上り下りあるのだから使えない,危険である。
誰かが導かない限り使えない,そもそもそんなに黄色のブロックが必要なのかという疑問がある,通っている盲人も車で送り迎えさせられている
ただ乗る時は本当に危険である。他では死んだ人もいた
だから盲人団体では駅の無人化に反対している
実際に駅に通っている盲人が隣の原町駅の駅員を呼び出していたことでもわかる
盲人自身が危険を感じているからである。
駅員が常駐していれば安全であることは確かである。

でも何かトイレから福祉を考えると一度も車椅子で利用したこともない身障者用が広くとってあって健常者が狭く窮屈になっているというのも変だなととも思う
それは法律的に決まっているしそういうふうに社会がなったのだから仕方がないともなる
でも現代は福祉が弱者に対してあまりにも過剰化したのかもしれない
その不満が底辺にあること確かである。
要するに何か弱者化して集団化するとそれにたてつくことはできない
それで言葉狩りが生れた,盲人団体ならその団体から苦言がくる,だから何も言うこともできなくなる
カルト宗教団体でもそうである。団体組織化するとそれが権力化するから何も言えなくなる

原発避難者でも特権化したことがあった,いたりつくせりの補償があり金が支払われた
かわいそうな被害者だとなると特権化した,それが必要でも過剰化していたのではないか?
津浪の被害者と原発避難者はまた違っていた
でもこの辺でももめたけど自分もその時自分の病気とか介護で苦しんでいたけど普通なら個々人のことなど何があろうとほうっておかれるだけであてる。かえって弱者化したら金をとることしか考えない非情な人達しか来なかった
それは津浪でも原発避難者にもあった,火事場泥棒のようなことが実際にあったからである。
ただ一般的に手厚い援助があった,でももしそのことに文句を言うとものすごい反発があったのである。
現代は弱者でも集団化すると特権化するのである。

なぜこれを問題にしたかというと別に盲人のことではない,何か社会に本当はそうした不満が鬱屈しているのだ。それで障害者の大量殺人した人に共感する人さえでてきている
要するにその負担が社会で大きくなりすぎたからではないか?
健常者がかえって障害者より窮屈にしている,障害者のご機嫌をうかかって小さくなっている,そういう不満が鬱屈してそうなっている

自分が言いたいことはそれは老人に対してこそ一番不満が鬱屈している
福祉の費用が膨大化しているからだ,もう国がつぶれるという過剰な福祉の限界が来ている,そうなると自分も老人だからいいにくいとなる
それは結局自分自身が障害者側にたっているからだ
だから身障者のトイレがどうだこうだとは言えない立場なのである。
誰でも自分の損するようなことは言わない,そして老人が多いから圧力になる
障害者は全体からすれば数が少ない,だからそれほどの圧力にはならないのかもしれない老人は確実に票をもち政治を左右している,それは自分でも自分に不利なこと損なことはしないからである。そういう利己的なのが人間である。
いくらきれいごとを言ってもそうなのである。

ただ豊かな時代であれば福祉も手厚しても良かった,余裕があったからである。
それが社会になくなるとやはり福祉は厳しくなる
第一健常者の方が窮屈なトイレになるということがどうしてだともなるからだ
健常者が遠慮して生活しなければならないことの不満が大きくなる
別にそれは冷たいともいえない,なぜなら健常者の生活があって障害者の生活も成り立っているからである。福祉は必要でも過剰な福祉が限界になっている

それは医療でも延命治療はもうできないとかあまりにもそのコストが大きすぎるからだ。
ただ老人の場合は数が多いからいくら政治でどうにかしようとしても民主主義は数だから数できまるから矛盾が生れている
ともかく老人は老人で自己利益優先するから福祉のサービスを減らされることには抵抗する,でも限界にもなっている
鉄道を維持するにも金がかかる,それは福祉ではないのである。
収入がなければ無人駅にもするしサービスも減らされる
それはどうしようもないのである。
ただ駅は街全体が自治体がかかわっているからJRだけの問題ではなく市民全体の問題なのである。

駅からいろいろなことが見えてくる場だった,そこは鉄道だけではない,街全体とか外部でもかかわる場だったからである。そこから社会が見えてくる場でもあったのである。
それは世代を越えてかかわる場でもあった
必ず孫とか娘とか息子でも迎えに来たり見送りに来る場でもあるからだ
まず自分は駅をこんなふうに見たことがないのである。
ただ切符を買って電車に乗るということしかない
駅がどうして維持されているのかなど見ていなかったのである。

だから人間の問題はサービスする側にならないとわからないことが多い
サービスして働く側になると見えてくるものがある。
それはどこでもそうである,だからサービスする側にたたないと社会性が養われない
金持ちでサービスばかりされていたら社会のことがわからなくなるのである
それで退職した人がボランティアに精出すことがわかる
サービスするよりもサービスする側の方が社会を実際は生きているからである
そこに充実感がある,生きがいがあるとなるからだ
親の気持ちがわかるのには子供を育ててみないとわからないということがあるのと同じである。

ただキャリーバッグとか通路を運ぶのは無料ではやる気がしない,有料でもやる気がしない,荷物が重いし階段を上り下りするのが結構な労働になるからだ
乳母車をもちあげて来る女性もいた,だからエレベーターが必要なのだかそれも金がかかるからできない,JRではコストを減らすことをしているからだ
ただ新地とか山下駅は津浪があってエレベーターまでつくようになったのである。
それで良くこの辺に小高の人の引っ越しを手伝いにボランティアに来た人がいた
それは結構な労働であり力仕事なのである。それを74才の人がしていたのである。
自分だったらしない,そこまでやる力もないからだ
そこにボランティアの限界があるともなる

タグ:過剰な福祉