2017年08月19日

蝉の声と雨(相馬六万石の城下町)


蝉の声と雨(相馬六万石の城下町)


蝉の鳴き電車の待ぬぬ駅舎かな

雨しとと蝉の声ひびき城下町

城下町出会える女や秋の雨

城下町かぼちゃの花に雨のふる

蝉の声柳しだれて城下町

城下町屋根の低くも秋の雨


六万石城跡に秋の雨しとと今日たずぬる人もなしかな


今年の気候は本当におかしい,この雨は秋雨なのか,それとも梅雨のつづきのなか,夏ななのか?季節がわからなくなっている
だから秋の雨とするのも何かあわないのである。
蝉の声にしても秋の蝉になっているがその前に夏の蝉の声があって秋の蝉になる
それがぬけているからおかしくなる,蝉の季語は夏でありその夏が早めにあって梅雨がつづているという感覚になる
ということは俳句の季節感が狂ってしまって俳句にならないともなる
俳句は季語を基にしているからそうなる
これから残暑になったらまた季節感が狂ってしまのうである。

相馬市まで用事があって二カ月ぶりくらいに行った,最初一カ月は暑いから行けなかった次に雨で行けなかった,自転車でも行けない,原町まではなんとか行った
相当に今年は体が弱った,夏ばてにもなった

相馬市は城下町の風情があるというとき実際は何もないのだか街の形が変わっていないからだろう。城下町のままの町割りになっている,だから駅前から発展した原町とは全然違っているのだ。
そして平凡なことだが屋根が一般的に低く感じられる,高いビルがない
すると何か江戸時代のような町に見えるのである。

公共施設が入母屋作りにしているのも効果的である。だから相馬市は歩いているだけで情緒がある街である。ただ何かもないということはある
その何もないということがいいということがある。
現代派はなんでもありすぎて情緒を壊しているからである

傘をさして一人の女性と出会う,なにかそうした当たり前のことに人間的なことを感じる日本には雨が多いから雨の情緒があった,それは歩いていると自ずと生れる
車ではその情緒を味わうことはできない,車は常に情緒を壊すものとしてある
自転車でも歩いて感じるものとは相当に違う。
歩いていると一軒一軒の店でも家でも見るのである。
だからこそ歩く生活なら街の通りを見るから街が活きていたのである。

城下町といっても相馬六万石となると回りは田畑であり淋しい風景だったのである。
今その名残はある,まず観光客が野馬追い意外でたずねてもここに発見するものがあるだろうか?城跡にしてもここに城があったのかとも思う
何か城下町というものも感じない,だからここが観光の目的地にはならないだろう。
でも何か街の雰囲気はそれぞれ違ったものがある。
相馬市と原町を比べると明確である。そのことはいつも言っているがやはり相馬市は城下町だからそうなっている,でも外から来た人にはわからないのである。

無人駅で一番困ったことが今日あった ( 切符がなく駅で料金を払うことができない人)


無人駅で一番困ったことが今日あった

(  切符がなく駅で料金を払うことができない人)


今日仕事で福島駅から来た人が乗車証明書はもっていたが切符はもっていなかった
それは鹿島駅で清算する証明書だったのである。どうしてそうなっていたのか何かありそうなった
それでどうしていいか迷っていた,それで原町駅に連絡したら切符入れに金をいれてくれと言った
前にも切符入れを回収すると小銭が入っていた,今度の金は大きい
その人は別にそのまま駅を出てもとがめられることはない
たまたま自分がいたから聞いてきたのである。

こういうことで良心的な人はいるものだと思った,かえって無人駅で金払わなくてすんだと得したと思う人もいる,自分などはそういう面があった。
その人が金に余裕があるからなのかと思ったがそうでもない,なぜなら3,4キロある自動車のリース会社のあるところまで歩いて行ったからである。
金を節約するために歩いて行ったからである。タクシーで行けばやはり1500円くらいとられる距離だから節約した

それで原ノ町駅にインターホンで連絡した,料金はわかった
その人は1940円と料金として入れてくれといったがこまかがないので2000円入れたのである。この金は大きいと思う,普通は小銭が多いからである。
その人はこの駅が無人駅だと知らなかったと言っていた
これは無人駅の一番の問題だったかもしれない
料金を無人駅では清算できないのである。みんながスイカを利用できるわけではないからだ。

このように無人駅は万能のようにみえても最も肝心な料金を回収することができないということがあった,鹿島駅は結構乗り降りがある駅なのである。
それで昨日は市の地域振興課の人が二人乗客数を調べていた
何か駅を地域振興のために調査しているのかとなる

確かに地域振興というといろいろあるが駅も大きな部分をしめているかもしれない
鹿島駅は人の出入りが結構多いのである。
今日は小高で花火大会があると浴衣を来た若い女性が電車に乗って小高に向かった
今日は小高はにぽやかになっているだろう。
通りも暗いから人が集まるのはいいことである。
ただ直通で行く電車がまれなので行きにくいのである。
その辺がまだ改善されていないのである。

2017年08月20日

人間何のために働くのか? (ただ金のためだけなのか?)


人間何のために働くのか?

(ただ金のためだけなのか?)


このことは自分の一つのテーマである。これはすべての人のテーマでもある。なぜなら日々働いているのが人間だからである。
でも働いている人自体がなぜ日々働いているのか?
明確にわかっていて働いているだろうか?
労働の経験がまれな自分がこのことをテーマにしているのも変だとはなる
ただ自分は働いたのではない,働かされたという経験しかない
金がほしい,その日の食を得るために働いただけだとなる
そういう人も多いしそれ以上考えないから別に金があれば多くの人は働かない
働くことを強いられている働くことは嫌でも仕方なく働いているとなる

まず家族のために働いているというのはわかりやすい,その一番の理由となるだろう。
働くのは嫌だけど家族を養うために働くことる生きがいを感じるからだ
でもその時働くこと自体に生きがいを感じるということではない
次に会社のために働く,会社が家族より大事に思うことさえあり企業戦士とか高度成長時代に言われた,戦士だから会社のために命をささげるほどに働くということである。
今でもそのことは継続している面がある,会社があってその人の存在意義がある
なぜなら日々会社に行き会社から月給をもらい生活が成り立つからである。

不思議なのはある会社がある,では無数にある会社はなんのためにあるのだろうか?
JRという会社がある,その会社はなんのためにあるのか?
それは人々に交通の便宜を計るためにある,そのために早く安全に人を運ぶことを仕事としている,それは考えるまでもないことである。
でも他に無数の会社は何のためにあるのか?
どんな会社も何かのサービスをするためにある?

建築関係になると個人的には快適な住まいを提供するということでわかりやすい,他に大きな公共的建てものを建てるということもある,それは個々人ではない,大勢の人のためのものもを提供するためである
医療関係だとこれも医者がいて患者を治すために働く,その他医者のすることはある
製薬会社は薬を作り人間の病気や予防などをする,それも実際は人にサービスするためである。
複雑な社会だからそのサービスも多岐にわたる,現代なら通信が発達している,するとそれを提供するためにITで働く,それもやはり人にサービスするためなのである。

何か会社というときこうして人に尽くす,サービスすることが基本にある
だから働くことは人にサービスすることだともなる,つまり働くとは自分のために働いているのではないのだ。
でもみんな自分が飲食して住居を得て自分が生活するために働いていると思う
他者にサービスするまえに自分の日々の生活のために他者にサービスする生活を強いられているともなる
現実に働かなくてもいい金があれば人は働かない,人にサービスするのはしたくないからだ,誰もコンビニでスーパーのレジで危険な建築現場で働くだろうか?
もし家でも自分で作るとしたら家族のために労を惜しまず働くのである。
他者のために家を建てるというときそういう動機はない,ただ会社のために金のために働くとなる

不思議なのは資本主義が修道院の中の労働からはじまったということである。
それは宗教的なものが信仰がバッグにあったということである。
そんなことが今や資本主義からイメージしにくい,宗教は人を助けるためにサービスするために働く,それが神の意志にかなうとなる,だから修道院では勤勉に働き人々に奉仕する,その結果として資本が蓄積された,仏教関係ではむしろ働かず人々の布施で生きていたから東洋と西洋では違っていたのである。
人間はそもそもそんなに働かないものだったからだ
資本主義社会は歴史的に異常に働く社会になったことは確かなのである。

宗教だと布施で生きるということは他者の労働により生きる寄食者にもなる
汗水垂らして働いた米でも農民からもらい生きることだからである。
だからこそ僧職にあれば最低の生活で身を修めて仏に仕えることになった
基本的にはそういうのが宗教のはじまりだろう。
ただ僧職としての専門家が生れて堕落したのは東洋でも西洋でも同じである。

明らかなことはウェバーが働くことにキリスト教の信仰にありそこから働くことが意義あるものとして奨励されたことである。
人間はそもそもそんなに働くものでは本来なかったからである。
働く動機がもてない,その動機が信仰に由来するとなれば人は無償でも働くとなる
ボランティアもこれとにているのである。無償でも働きたい,人のためになりたいと働くからである。生きがいとか何か他の動機があるにしろ他者のために働くのである。

働く動機は他に遊びたいから働くということが現代では多い,海外旅行したいからその金をためるために働くとか他に趣味を楽しむために働くとか遊びの世界が広がったからそのために働くのであり働くこと自体に意義を求めて働いてはいない
消費するために働くというのもそうである。何かうまいものを食べたい,でも金がないと食べられないから働き金を得る,金のために働くといってもその金を何に使うのかが問題になる,ただ貧乏になると衣食住のためだけだとなるだろう
その他そんなことを考えることはないだろう。一般的にはそうである。

現実に人を雇うがお手伝いさんなどはその家の塵一つでも掃除したくないのである。
金がほしいからしかたなくしているだけである。
ある人はただ金をくれといって家捜しされて大金を盗まれた
つまり他人の家で働く動機が全くない,金しかないから極端になればそうなる
家族だったら親でも妻でも自分の家だから掃除でも家事でもするのである。
そういうことは狭い地域で生きているとある
ゴミが道端に捨てられてあったが誰も拾わなかった,そこは自分の家ではないからそうなった,自分の家だったらするが外に出ると自分の家という感覚がなくなるからしないのである。それで自分がかたづけた,でも社会もまた家であり公(おおやけ)であり家なのである。

駅でボランティアしているのは自分の家のような感覚がありしている
自分の街がきれいになっていれば住んでいて気持ちいいからである。
自分の住んでいる所が汚いと嫌になる,だから山の斜面が土をとるために削られたのを毎日見ていると嫌な気分になったりする,景観というのは日々接する場所にいれば気になるのである。
それが一番現れたのは原発避難で街がゴーストタウンのようになったときである。
街全体に人が住まなくなり放置されればあのように荒廃してしまう
そしてそこに個人的に家に帰り住みたくないとなる,つまり常に自分の家のこと家族のために働いているが街全体のために働いているという意識がないのが普通なのである。
でも街全体が人が住まなくなり荒廃したとき実は意識しなくても自分の家のためだけではなく街全体の維持のために人々は働いていたのである。

だから本当は家族を維持するとしても街全体がなければ維持できない,それが原発で避難区域になったところで起きた。街自体がゴーストタウン化したからである。
働くというときいろいろあっても家族のためだけでもない,会社のためでもない,地域全体のために働かなけれも街が維持できない,それを如実に証明したのが原発避難区域である。

一人はみんなのためにみんなは一人のために(One for all,all for one)

そういうものとして街はあった,それが失われたのが原発避難区域の街だったのである。
いづれにしろ人間の働くことも多様でありそれをもはや解きあかすことはできない,これだけ複雑な社会になると余計にそうである。
ただ基本的に人にサービスするということが働くことにはある。
実際に鉄道でも人々がそのサービスがいらないとなると維持できなくなる
そのサービスが必要ないということは人のためになっていなから鉄道で働く人もいらないとなるからである。
その人のためにサービスすするにしても社会が変わればまたその職でもなんでも変わってくるのである。
ただ基本的に人に何かを与えるサービスするということが働くことのベースとしてることは確かなのである。
ニートとか無職は何も与えないから社会から責められることになるのである。
働かない人が金をもっていても批判されるのは人にサービスすることをしないからだともなる,何かを与えないからだともなる,ただもらうだけの人だったらその人は例え金があっても批判の対象になるのである。
posted by 天華 at 17:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

鷺がもどり川に群れて眠る (生態系の回復が復興でもあった)


鷺がもどり川に群れて眠る


(生態系の回復が復興でもあった)

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白いのが鷺である。数えれば50羽以上いた



霧雨やあまた鷺もどり眠るかな


数えたら五〇羽以上いた,白い点が鷺である。前はこうして群れて巣を作っていた,鷺は夕方になると一カ所に集まり眠る,烏もそうである。
これを見てこの辺では生態系が回復したと見た
田んぼが増えた結果,そこに蛙なども増えて餌になるものが増えた結果である。
田んぼは水が流れるから生態系を形成するものだったからである。

復興というとき街の復興だと前のような街並みとか住宅地の復興となるのが田舎では生態系の回復が復興ともなる,田んぼは生態系の中にある,だから田んぼがなくなった原発避難区域では鷺はいないのである。
鷺でも蛙でもいないことは生態系が破壊されたからいないのである。

南相馬市は小高と山の方をのぞいて生態系が回復した
夕方に鷺が十羽くらい飛んだのを見たときはうれしかった
それは六年ぶりのことだったのである。

ともかく復興というとき田舎では自然の回復があって復興がある
放射能は目に見えないが森でも川でも汚染したのである。
その自然の復興は先が長いのである。
三〇年でセシウムが半減するとかその他放射性物質は消えない

飯館村辺りでは田んぼの土は削り取られている,それは無惨である。
だから鷺は田んぼが回復しないかぎり見ることはできない、
でももう飯館村では田んぼを作る人はどれだけいるのか?
あれだけ荒廃したらもうあきらめる人も増えているだろう。
そして鷺がもどらなければ生態系は回復していないのである。

蛙が夏の夜空に星々に向かって鳴いたとき復興を感じた
復興は人間のみにあるのではない,自然と共にある
それが都会などとの大きな相違なのである。
放射能汚染はその生態系を汚染したから罪深いのである。
蛙でも鷺でも住めないところはまた人間も住めないなのである。

この生態系を東京とか大都会になるともう無視されている
ビルと家の密集しかない都会では鷺や蛙を見ることができない
だからあたかも生態系などと無縁に暮らしているようになる
でも人間は生態系を離れてあり得ない
空気も生態系であり水もそうである。土もそうである。
そういうものが汚染されたら生きてゆくことができないのである。

都会にも放射性物質に汚染された水や食料しか提供できなくなるのである。
だから都会も生態系とは無縁でいられないのだけどまるで無縁のように生活しているのである
何かそのことが大災害が来て知らしめられるかもしれない,東京に住めなくなるかもしれないのだ。それは空想ではなく現実的問題となっているが危機感がないのである。

ともかくこの辺では当たり前にあったものが今になると貴重だったとなる
鷺もその一つである。鷺がもどって生態系が回復したことを示しているのである。
posted by 天華 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年08月21日

支援がすべていいように働かなかった (復興団地も住宅も一時的な住まいなのか?)


支援がすべていいように働かなかった


(復興団地も住宅も一時的な住まいなのか?)


支援すると、意図的に弱い立場に固執する人が生まれてくる

この辺でも津浪の被害地域でもこのことは起きていた
そのことはずいぶん書いてきた
支援されるのはいいとしてそれが自立に向かわない,かえって一方的にいつまでも支援されるものとなり支援を延々と要求するだけになる
支援する人が悪いのではないが人間は楽な方に向かう
支援してくれる人がいれば楽だからいつまでも支援してくれとなり自立をしない

この辺ではそういうことが極端に起こった,原発避難者は常に支援されるものであり外からボランティアがいつも来ていた,そのボランティアが悪いというのではない
常に支援されるものであり自助努力を失っていった
現実は毎日パチンコでありギャンブルしていたのである。
だからボランティアの人達も矛盾を感じたというのはここで言っているのと同じだった
特に地元では支援する気持ちもなくなってしまった

だから例えばこの辺では小高の人達はみんなこんなに支援しているのに地元の人は支援しないのかと怒りにもなっていたのである。
補償金をもらえるのは当然でありそんなことで文句言うなとなって分断されてしまったのである。それをマスコミが後押ししたから余計にそうなった
だから地元の人はおおっぴらにはそのことは言わないのである。

原発避難者が大量に入ってくることは何であれ摩擦になった
それは移民でも大量に入ってくると摩擦になる
これはどこでも当然なのである。どこにもそれなりに共同体があってそこにそれだけ大量の人が割り込むと摩擦が生れる
ただ外から支援する人は歓迎された,でもここでは支援する人も必ずしも自立させるものではない,いつも支援されるとその支援が当たり前となり遂には要求するようになる
それが人間の性質である。楽をしたい,もっとくれとなる

そういうことはこの辺では放射能被害とかいろいろあり要求しやすかったのである。
それは当然の権利となったからである。その権利は認めるにしてもそこから自立するとなるとかえって自立をはばむものにもなった
だから人を援助するものもむずかしいものがある
一見いいようでもその援助に甘い常に援助されるものであり楽をしたいとなり自立はできなくなる,結果的にはそうなってしまったともなる

最近は復興住宅というのが福島県の各地に建てられた,原町の復興団地は五階建てであり数が多いのに驚く,一つの街ができた感じにもなる,他にも三階建ての団地があるから数が多い,ほとんど浪江の人達である
でも復興団地は復興するものとしたら浪江だったら浪江に建てられるべきものではないかそうしなければ復興はないからである。
放射能のためにやむをえないからそうなっているにしても何かこれも違和感を感じるのである。

復興団地に住んでいる人は将来は地元に移るものとして住んでいる?
そのための復興団地である。でもその復興団地はもう地元に帰らないでいつまでも住めるそうしたら移住することになるのか?
移住したとしたらいつまでも補償金に頼るわかけにいかないから就職して移住先にとけこむ必要が出てくる,そして移住先で仕事があれば地元には帰らないともなる
だから何か復興団地というのもあいまいな宙ぶらりんな感じにもなる

もしこれが地元に建って住むとなるとまさに復興団地になる,そこで生活しなければならないからである。地元で生活するから地元を復興させようと自ずからするからである。
しかし地元から離れて住んでいればそういう気持ちが薄れる
ただ近くなると土地を見に行ったりして行き来しているから徐々に地元に帰還するようになるのか?
ただますます帰らない人も増えているのが現実である。

ただ移住先でもこの先補償金がいつまでももらえるわけではないとなる移住先で仕事をするとなると厳しいものがあるかもしれない
何か大工のように技術をもっている人は他の人は簡単に職につけるのか?
そして老人が多いということは復興の最大の障害ともなっている
老人は苦労できない,楽をしたいとなるから支援してほしいとかしかなくなるからである

復興団地も住宅も支援なのである。その支援が有効に働くのか?
地元の復興に役たつのかとなるとまた疑問になる
老人だったら復興住宅でもいつまでも住んでいようとなってしまうかもしれない。
そのために補償金を要求するし支援を要求するだけだとなってしまう。
でもまたそういうことを移住先で許容するのかとなると全面的にはならない
小高の住民は南相馬市だからまだいいとして浪江とかなるといつまでも浪江町民になる
とすると税金を南相馬市に払わないとか他でも問題になった
いつまでも住むとしたら南相馬市民とか他でもその市民や町民になるがなかなかなれない補償金をもらうためになれないということがある。
これもだから宙ぶらりんになっている

不思議なのは仮設に住むというのでも仮りの住まいであり何か何でも仮りの状態になったそれは住宅でも借りている人は仮りの家に住んでいるという感覚になる
それか大規模に仮りの状態で住んでいるとなったのかもしれない
街自体が仮りの街にすらなっているという感じになる
漂流者のような感覚になってしまったかもしれない。
どこにいっても仮(か)りの住まいであり仮りにいるだけだとなる

そしてこの世は仮りの世だというように宗教的にもなる,すべてが仮の世界になってしまう。一時的にいるのでありいづれはいなくなる
ただ最近小高の人はほとんどいなくなったし浪江の人のこともわからない
だからもどった小高でどういう生活をして何を感じて暮らしているのかわからなくなったこれも問題である。だんだん内部でも外部でも関心が薄れ忘れられてゆく,いつまでも関心を外部の人でももていなからである。
するとそこにもどり残った人はそこでそさなりに自立して生活する他なくなる
不便でも不満でもその現実を受け入れざるをえなくなる,それが嫌な人は子供のいる移住した先に親も移るとなる
ただ今になるとみんなどうしようとしているのかわからなくなった
posted by 天華 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年08月22日

母親が三人変わり異常化した女性? (血縁の家族に平和はない?)


母親が三人変わり異常化した女性?


(血縁の家族に平和はない?)


母の実家はママ母が入ってきて異常化した,その継母が異常に気性が荒かったからまた混乱した,一人の母親は追い出されたとか次の母親は水から出てゆくとか分離したのであるだから娘は三人の母親をもったことになる
ただ三人の母親にかわいがられたのだから経済的な面では苦しむことはなかった恵まれたものだった。実際にこの世ではもっと苦しい境遇で生まれ育つ人がいるからである。
だからその人が特別境遇が悪かったともいえない

ただ三人の親にもそれぞれ非があった,それがあとでそれぞれにカルマ受けた,罰を受けたとなる,生みの親は5才くらいまでしか一緒にいず出て行った
今この人は最後にその娘に頼って老人ホームに入ったが認知症になって苦しんでいて何がなんだかわからなくなっている,その娘と再婚した先の息子は実の子ではなく愛情はなく金目あてだけなのである。
その親は恵まれたの人の後妻になったので金がある,でも金があってもその実の娘も全く愛情などないのである。そんな人に頼らざるを得ないのが悲劇だったのである。
ドラマで子供を手放すなというがそのことなのだろう。
子供を手放して自分は裕福な人の後妻になったのは勝手だとなるから当然娘も愛情などないとなったのである。

それは他人事ではない,自分もそうだった,頼ったのが泥棒だったのである。
だから大金を失ったのである。それはたまたまそういう事情が生れてそうなった
何か困ったとき頼る人がいないと悲惨なことになる
だから結婚しないとかまたニートとかは悲惨な結果になる
人間は先がどうなるのかわからないからそうなるのである。
しかしどんな人も必ずカルマが60以降に現れやすい,なぜなら人生の総決算みたいなことが起こる,それは最期の時に起こるからだ。

どんな強い人でも弱者化するのが老人である。金があっても認知症になったりしたらどうにもならない,第一金のことがわからなくなるからである。
そしてそこに金の亡者が集まってくるのだから地獄となる
人間は愛情がある家族がいなかったから金ほしいだけになる
金をとったら捨てられるということである。

結果的にどうなったとかというと異常に気性の荒い継母は最後は老人ホームで目が見えなくなり自分の母親に看取られて死んだのである。
自分の母親はその継母にいじめられていたのである。でも母は最期を看取ったのである。そして悪かったなと言って死んだのである。

母親が三人いた娘は三人目の母は実の母ではないがずっと一緒にいた。
でも反発して娘は病気になったときもめんどうみなかった。
それがわかったのは「ひどい娘だわ」といって白血病で死んだ
ただ救われたのは介護もないしあっけなく死んだから良かった
もし介護状態になったら最悪だった

ただ自分から見てわからないのはその母親は一番長く一緒にいて娘を世話していた
だからそんな冷たいことをできるのかわからない,別に自分の母親のように継母としていじめたわけでもしいからである。
何かいろいろあっても普通の人なら愛情をもつからである。

ただその娘は実際は異常人間と化していたことがわかった
それも何十年と接していないのだから自分にはどうこういえない,ただ明らかに普通の人間ではない,自分の母親になぜ
「おばちゃんは金あるんだから金でめんどうみてもらへ」と
血相変えて去って行った,それは狂気だった
別にめんどうみなくても何もする必要がないから来なくなればいいことだからである。
別に世話してくれとも言っていないからである。

ともかく前にも書いたが自分の家系は何か不和をもたらす家系だったということはある
ただそもそも家族というのは本当に理想的な家族があるのか?
何かしら問題が生れてはないか?
人間の家族は理想的なものなのだろうかとなる
自分もそうだが血縁とかにこだわることも問題を起す,血縁で結ばれるのが果たして人間としていいものかという疑問がある。

だからキリストは結婚すること,血縁の家族を否定したのである。
仏教でも同じである。出家することが宗教の基本にあったからである。
血縁とかには結婚とかには根本的に平和がない
それは肉の結合だからである。精神の結合ではないからである。
肉の結合たる家族が理想的なものではなく不和をもたらす,そういう宿命が家族にはあるし親子にもある,人間が本当に結ばれるのは血縁ではないというのがその教えなのであるだから家族には自分でもそうだが常になんらかの問題が生じる,理想的になりえないのである。
天国で結ばれるのは血縁ではない,愛で結ばれた人達が作る国だからである。

駅からの足がないことが鉄道の大きな問題 (鹿島駅の時刻表を作る)


駅からの足がないことが鉄道の大きな問題

(鹿島駅の時刻表を作る)


今日来ていたのは相馬市から来た人だった,わざわざ二時間も遅れたのに乗るという
その理由が相馬市からのバスがないからだという
相馬市街に住んでいるのではなくちょっと離れているからバスの便がそれぼどないから
そのバスの乗るために鹿島駅で待っているという。

鉄道の最大の問題がここにあった,みんな駅に高校生でも息子でも孫でも車で迎えに来ている,駅からの足がないからそうなっている,タクシーだと町内は600円内で行けるが離れると高くなる,だから普通には利用しにくい。
それで9人乗りの乗合タクシーなどが一時小高の方で利用されていた
今は子供の通学などに使っている

電車が利用されないというとき電車にだけ乗せようとしても乗らない,交通は鉄道だけではない,今では車が主流となっていると車と結びつかないと電車も利用しにくいのである乗り継ぎができないので田舎だと町から離れて住む人が多いから車になる
なぜ東京とか都会だと電車だけでまにあうかというと電車で用をたせるようになっているからだ。車がなくても不便がないのである。
電車とバスでも連結したようにして利用できないと電車も利用されないのである。

その女性は二時間も待っていたのは暇な人だからである。なんでも息子がアメリカに仕事で住んでいてインターネットで連絡しているという,それでタブレットをもっていて見ていた,おばあちゃんなのに60代なのか先進的である。
それは息子が与えたのと連絡するためにもたされたともなる

その人はアメリカとハワイには行った,タイにも息子が住んでいて行っている
この辺で60代くらいになるとそういう人は少ない
でもそういう国際化はグローバル化は田舎にも及んでいるのである。

アメリカの高速道路にはサービスエリアとか休憩所があっても小屋のようなものしかないという,日本ではパーキングエリアとサービスエリアがある。
サービスエリアは50キロごとにある,鹿島のセッディセとかのサービスエリアがある
アメリカにないというときアメリカが広いから50キロごとにもそうした休憩所がもうけられないのかもしれない,アメリカは広いから高速でも違ってくる,高速はアメリカでは無料だというときずいぶん得だなとも思う
日本では人口が密集して狭い場所だから細分化してサービスする所がもうけられる
アメリカだと次の街から街で相当に離れていることがあるだろう
するとその間にサービスする店も休憩所もないとなる

アメリカだと鉄道の軌道も広いしアムトラックだとソファーでゆっくり寝れた
アメリカ人の太った人が座っても十分に余裕があるからだ
だからホテル代をうかすことができた,日本は窮屈だから眠れないのである。
アメリカが土地が広いというとき土地が無料だったというとき
その考え方にも影響する,人種差別があるにしても広い土地だから棲み分けができるという,それで摩擦が起きるのを防いでいるともいう。
日本では近接して密集して住むから必ず摩擦が起きやすいのである。

ともかく駅は必ず待つ時間があり一人の女性は買ってきたのかおにぎりを食べていた
弁当でも食べている人がいる,それは待つ時間があるからだ
だから駅前の自動販売機は一番売れている,待つ時間に飲む人が多いからである。
人の出入りが多いところは商売になりやすいのである。

時刻表を作った,コピーで十円である。
自宅での印刷はかえってインクカートリッジでコストが高くつく
そしてうまく印刷ができない,コンビニのコピーだと写真もきれいにとれていた
前は相馬市の方でしていたが遠くてできない
何か全部自宅で機械を用意してやるのはかえって今は損である
洗濯でもコインランドリーが安上がりである。
乾燥機を6万で買って失敗した,生活が変わっているときそれに適応しないと損になる
印刷はスキャナーとしては使いたがその他印刷となるとうまくいかない
インクが消耗しやすいから損なことに気づいたのである。

この時刻表は印刷自由です

(A4の大きさに印刷できます)

timepole221.jpg

2017年08月23日

一つの抽象画から変化するから大量生産できる (春の森-forest in spring)


一つの抽象画から変化するから大量生産できる

Because I change from one abstract picture,
I can produce it in large quantities

(春の森-forest in spring)

youthfulimage1.jpg
ORIGINAL ABSTRACT PICTURE

CHANGE 

springforest11.jpg

springforest11333.jpg
A WAY OF FOREST IN SPRING

springlake111.jpg

A LAKE IN SPRING

springfloer345.jpg

FLOWER IN SPRING



最初の抽象画は簡単である。これは春の感じだなとして変化させたらやはり春のイメージの抽象画がいくつもできる

抽象画は単純なのが抽象画である。単純に色をモザイクに分析しただけで抽象画になる
これは春の感じだなとか秋の感じだなかとかる
色の配合でモザイクでもいくらでもできることになる
その組み合わせは無限蜷くからだ

だから一つの抽象画いくつもにまた変化する,すると無限にできるともなる
それは全く絵を描く才能から作られているのではないのだ。
そこがcomputerの抽象画の最大の不思議である。

ただ作る方でも化学実験のようにして作っているのである。
これは何にしようかなとか画家が絵を描くのとはまるで違っている
むしろ科学者であり実験しているという感覚になるのである。

何かしら人間は才能があってできる,でも全く才能がなくてもできる
それはcomputerが作り出したものだからである。
ただcomputerにはただ色を配合してもそれが春だと秋だとか見ることができない
今回の春の森という題でもこれが春の森として見ることはできないのである。
そこがcomputerと人間の相違だとなる

人間は自然界から多様なものを見ることができるようになっている
それは長年の積み重ねでそうした感性が養われているからである。
computerにはそれができないのである。おそらく永遠にcomputerにはできない
画像解析がいくら進んでもcomputerが芸術を創造できると思えないのである。


The first abstract picture is simple. If I do this when it is a spring feeling and change it, after all it is possible for some abstract pictures of the spring image

It is an abstract picture that the abstract picture is simple. It will be possible for with the mosaic by autumn feeling -colored combination plenty that this which becomes the abstract picture just to have analyzed a color into a mosaic simply is a spring feeling, putting it together is 

Therefore it that it is when I do it even if it is possible endlessly which changes into some one abstract picture again is not made by talent to picture a picture in at all.
There is the biggest wonder of the abstract picture of computer.

Even a person making it does it like a chemical experiment and only makes it.
This is that it is in the sense that rather it is a scientist and tests totally different from a painter drawing a picture what you should be going to like.

This is because it which but it is possible for without talent at all which some human being has talent, and there is is the thing which computer created.
Even the title called the spring forest at this time when I cannot watch it in autumn in spring even if I merely combine a color with computer cannot only watch this as a spring forest.
When it is a human difference, there becomes computer

As for the human being, it which comes to be able to watch a variety of things from the natural world is because such a sensitivity is fed by longtime accumulation.
There is not it in computer. Probably think that computer can create art even if image analysis not to be possible advances to computer how much forever, and there is not it.

他人の仕事を認めない現代 (その対立が深刻になる)


他人の仕事を認めない現代

(その対立が深刻になる)


暑き日に線路補修するJRの人を見てをり無人駅に


今日は仙建工業が小屋のようなもの建てるために工事していた
この会社は鉄道関係で仕事をしているのでしっている
JRの人も原町駅から二人来て草むしったりしていた
何か鉄道は保守管理の仕事がある。それが手間なのである

道案内としてはコモドイン小池のホテルに泊まる人が来たので案内した
歩いて行きたいといったが無理だとタクシーを教えた
駅前の看板の地図を見てもどれくらいの距離がわからない,時間がどのくらいかかるかわからない,そういうことは知らない土地に来ればそうなる

人間は毎日働いているけどその働くことをその価値を認めていない
今まで電車の旅をあきるくらいしたけどそこで働く人のことを考えたこともなかった
そこに人が働いているとすら思っていない,何か自動的電車が来て乗っている感じだった現代はいろいろな場で働いているけどその働いている姿が見えないのである。
また機械化自動化すれば余計に機械が働いていて人間が働いているのが見えないのである
だから日本では働く(はたらく)は端(はた)を楽にする意味があるというとき働く人を身近に家族でも見ているときそういう気持ちになったのである。
今は子供でもお父さんが会社で毎日働いていてもその姿が見えない
すると親の後ろ姿を見て子供が育つとはならないのである。

もし農家だったりすると暑いとき汗を流して働くのは楽じゃないなと子供ながらにみる,でも会社だとその姿は見えないのである。
そしてこれだけ多様な複雑な社会になると他人が働いていることがわからない
小さな町でもわからない,隣すら何して働いているのかわからないのである。
そこで何が起きてくるのか?他人が働いていることの価値を認めないということ知らないということになる

それで駅前の葬儀屋といつもあうが暇で余裕で毎日駅にきて楽だなとかのことを皮肉的に言った,その人は全く駅で自分がボランティアしていてもその価値を全く認めていない
なんだ毎日駅にきて何しているの?暇な奴がきて駅で時間を過ごしているとしか感じていないのである。
そういう面があるにしてもなにかしら役にたっている面もあるがそれを全く認めていない
そういうことは別に今の社会では普通にあり多いのである。何をしているのか仕事をしているのかわからなければ価値を認めるも何もないからである。
家の修理で屋根に上ったりするけどそれは危険なことがわかる
だからその時はその仕事の価値は高くなり一時間で一万五千要求されたがしかたがないと思った,それは目に見えてわかる仕事だからそうなる

ともかく今の社会は他人の仕事がわからないし価値を認めないのである。
車社会になったとき電車の乗り方も知らない人が多い,そういう人は全く鉄道の価値を認めないのである。鉄道など必要ないと思っているのだからそうなる
そこにすでに対立が生れる,自分でも葬儀に関しては30万でしたから必要にしてもそれがさほど重要な仕事に思えないのである。
相手も自分のことを認めなかった,自分でも葬儀などは簡単にしてやればいいと思うだけであり必要でもその価値をあまり認めないのである。

こういうことは今の社会では本当に多い,趣味で農業している女性でもそうである。
自分が駅でボランティアしていてもその価値を全く認めない,自分から見るとほとんど何を収穫している畑でただ愚痴を聞くだけのものが価値が高いとは思えないのである。
そこに種代とかいろいろ自分で払った,でももらったものはほんのわずかであり何もないと同じだからである。
するとそんなことしていて何の価値があるのか?自分は確かに価値を認めていてもその人が自分のしていることをしなくていいとか言えるのか?
ここにも自分のしていることは価値があり他人のしていることは価値がないとしているのである。

こうしてもし一緒に暮らすとなると価値観の対立が深刻になり一緒に暮らせなくなる
そういうことは自分の家族であった。花とかが無駄だとか庭は無駄だとかいう人と一緒に暮らせるのか?それが例え親でもである
これだけ多様な複雑な社会になるとそういうことが多すぎるのである。
要するに一つの絵にしろ価値を認めないものには何の価値もない,芸術となるとそうである。ただ芸術がわからない人でも一枚の絵が何億だと値がつくと価値あるものとして認めるのである。それが資本主義社会である。

現代の社会は価値観の対立が起こりやすい社会なのである。もちろんグローバル化社会になると世界的にもそうなる
価値観の対立は仕事でもあなたの仕事は価値がないいらないということになればその存在の全否定になる,それが深刻になるのである。
現代は価値が多様であり複雑になりすぎてもうそれぞれの仕事とか価値をしりえない社会になっているのだ。

葬儀屋とかは失礼になるが昔なら棺桶屋にもなるだろう。人間が死ねば商売になる仕事である。自分がそんなこということ自体相手の価値を否定しているのである。
大人でも若者がゲームしているのは無駄だとかなったり世代間の価値の対立もある
どこでも価値の対立が起きやすい社会なのである。

自分が車の価値を認めず鉄道の価値を認める,でも現実は車社会であり車に関係する仕事している人が多いのである。だから車がいらないとなれば車関係で膨大に仕事している人もいらないとなり価値が否定されるのである。
自分は車がいらないとかは言っていない,車の恩恵を間接的に通販でもなんでも受けているからだ,車をへらせということを言っているのである。
荷物を運ぶのには必要でもこんなに車が必要なのかという疑問なのである。

タグ:仕事の価値

2017年08月24日

資本主義社会とは何なのか? (発明発見技術革新ないとゆきづまる)



資本主義社会とは何なのか?

(発明発見技術革新ないとゆきづまる)


普通の人から金を毟り取る「弱肉強食の資本主義」で生き残れ

このサイトでは資本主義社会でどうして生き残るか,資本主義社会とは何かを絶えず考察している,要するに資本主義社会というのが株式のことでも良く一般の人にはわからないのである。
その仕組みもわからないしその思想もわからない,資本主義というからにはこれも主義であり漠然としてあるものではない,明確な主義の元に動いている
民主主義もそうである。主義としてある。
それを理解するには対局にある社会主義を理解すればわかりやすい,でも社会主義は失敗したのである。中国は社会主義政権だけど実質は資本主義で動いているからだ

資本主義がキリスト教の修道院から発したという説もあるし資本主義の発生は何なのかわかりにくい,わかりやすいものとしてオランダで船で世界で貿易するとき株主がよりあって金を出した,船が無事に帰れば巨額のもうけがある
でも船が嵐などなにかの事故で沈んだらもうけはゼロになるし大損になる
そのリスクをとるのが資本主義の株式の世界での基本にある
リスクからとるからまたもうけも大きいとなる
そのリスクを分け合うものとして株式がある

これも資本主義発生の一つとしてあるがその他に資本主義には何か有望なものに将来を見込んで投資するということがある,そしてもしその投資したものが大きな発見があったりすると見返りが大きくなる,新薬の発明で売れたりすればそうなる
コンピュターの発明は世界を支配するほどの発明だった,だから発明者のビルゲイツとかはものすごい金持ちになったのである。そのことで批判する人はいない
なぜならそれによってアメリカ自体巨額の収入を得ることになりインターネットなどで世界まで支配するような力をもったからである。

資本主義にはフロンティアの開発,大航海時代とか発明発見技術革新が不可欠でありそれに成功したものは巨利を得るのである。
本質的に今の金融資本主義,金を右から左に動かして富を得ることではない,そこからは富が生れないのである。
大航海時代だとスペインに富が黄金が集まったというときもインカとかを征服して黄金を手にいれたからである。
それからイギリスでも産業革命で蒸気機関車とか工場を作るなど技術革新の結果なのである。

資本主義はそうした発明発見技術革新などがあって活きる,それがないと資本主義の意味がなくなる,そのことで世界にフロンティアがなくなった,未開発の国がなくなったというとき資本主義の発展がそがれ限界だという説がでてくる
中国が発展したときは株も世界的にあがったが世界的に発展する国がなくなると株も上がらないのである。投資先がなくなるからである。

具体的に何か日本が新薬を出すというとき日本株が上がるぞとか騒いだことがあった
他に海底資源が発見されて日本でも資源がとれるとなると株も上がる
常にそうして発見発明技術革新があり資本主義は発展する
それで格差社会になっても全体の富が増えるから下々でも豊かになり恩恵を受ける
高度成長時代はそうだった,逆に発明発見技術革新がないとき今度は全体的に経済も停滞して資本主義はゆきづまるのである。
現代はそういう傾向にある,福祉平等は社会主義の思想だけどそれも国全体の富が増大しないと成り立たないのである。
社会主義はもともと富の増大をめざしていない,だから発明発見や技術革新に投資するという思想がないのである。

要するになぜヨーロッパが欧米が世界を導くものになったかというとヨーロッパには天才が科学でも芸術でもなんでも多い,発明発見がヨーロッパ中心に成されてきたからである今でもノーベル賞をみればわかる,欧米中心にして世界があったのはそのためである。
社会主義だとみんなが平等でもみんなで貧しくなるが資本主義だとそれがうまくいけば
全体の富をおしあげる,でも発明発見技術革新がないと停滞してゆきづまるのである。
金融資本主義は富を生まないのである。金を右から左へ流していただけでは富は生れないのである。それが資本主義のゆきづまり限界が来たとされるのである。

コンピュターなどの技術革新は芸術の分野にも波及した,それが自分とは関係あるとは思わなかった,自分がソフトで変化させて抽象画を作っているがこれは全く技術的なものであり自分には全く絵の才能がないのにできているという不思議である。
一定数,アメリカの人が主に見ていることでもたいしたことはないにしても評価されているとなる,それが著作権違反ということで問題になるものもあるがオリジナルなものとまるで違っているのだからわからない,著作権違反にはならないということである。
全く別物になっているからである。

アメリカがなぜあれだけ発展して世界まで支配する用になったのか?軍事力なのだろうか?軍事力もそうだが果たして軍事力だけで世界を支配できるのか?
ローマ帝国は軍事力だけで支配したのか?やはり技術の優位,建築術の優位があったことも大きな原因だった
日本が一時高度成長時代にいわれたのは猿まねの国だが何も自ら発明発見技術革新がないよその国のまねはうまいが自ら発明して発見して世界に普及したものがあるのか?
そういうことが問われたのも資本主義は発明発見技術革新がないと発展しないからそういわれたのである。

日本にはそうした発明発見とか天才を産む土壌がないとも言われた
狭い村で生活するとなにより平等が争わないことが要求される,田舎に住んでみればわかる,いつも同じ顔の人とつきあっていれば何か争いがあったりするいつも一緒に住んでいるからきまづくなるしいずらくなるのである。
まず田舎では経済でも徹底して平等を要求する,特別な金持ちは目立つし分けろとなるからいずらくなる,日本自体が村だというとき日本では発明発見の土壌がないというのもわかる,学校教育でもコンピュターを発明したビルゲイツとジョブスとか生れないのであるゆきんでたものを常に嫌う村社会が日本なのである。

天才なんか普通の人とは関係ないというが別に天才でなくても何か常に創造的なものを志向する態度が奨励されないと天才の能力があっても活かされないのである。
そういう土壌が日本にはないのである。日本は外国の猿まねで豊かになったが今度は自ら何かを発明発見する技術革新するとなるとできないとなるから停滞する
それは中国でも日本の技術をなどをコピーして発展してきたがでは今度は自ら新たなものを発明発見技術革新しなければならないというときできないとなるとゆきづまるのであるそれが資本主義社会だということを理解する必要があるのだ。

確かに格差社会だとか資本主義が批判されるがでは社会主義のようにみんな同じで貧しくていいのかとなる,社会主義はにはこれも主義であり投資とか発明発見技術革新をすすめる思想がないのだと思う,そこに大きな差があり資本主義が世界に普及した
でもフロンティアの喪失や発明発見技術革新がなくなるとき資本主義もゆきづまるのである。今はそうなっているから株もあがらないとなってしまったのである。
posted by 天華 at 09:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題