2017年08月06日

津浪の原発事故の後の生態系の変化 (チョウトンボを見た)


津浪の原発事故の後の生態系の変化


(チョウトンボを見た)


チョウトンボは今まで見ていない,津浪が起きてまもなくチョウトンボを見た,それはどこから飛んで来たのか?
山元町の海岸地帯に湿地帯が残っていてそこに貴重なトンボが生息していた
その辺から飛んできたのか?この辺では今までみかけたことがない
一時異常に蝶が一面に津浪の跡の原っぱを埋めつくすように集まった
あの現象はなんであったのか?
塩分が多くなってあんなに集まったのだろうか?

今日チョウトンボをみかけたのは六号線から塩崎の方に行く道である。
一瞬見た,津浪が起こったときから見ていない,とするとこの辺に生息しているのか?
今年は長か少ない,キャベツ畑が減っているからだとも言う
アゲハチョウも少ない,ただ海老の所の湿地化したところで赤とんぼが一杯飛んでいた
赤とんぼが群生して飛んでいるのも最近みかけなかった
トンボは沼地があると繁殖しやすい
一時津浪の跡に沼地化して糸トンボなどが繁殖した
でも今は埋め立てられから沼地は消えてイトトンボもみかけない

何か魚釣りの餌をとるために網で堀りをすくっている人がいた
何にもいないと言っていたが堀といっても下も両側もコンクリート化していれば生物は棲めないだろう,みんなコンクリートの堀にしたからメダカもドジョウも生物が棲めないのである。

鷺はもどってきている,蛙も田んぼに盛んに鳴いた,その時復興を感じたのである。
田んぼは生態系としてありそこで生物が生きていて鷺などの鳴き餌にもなっていた
原野化したときはノスリが集まった,原野にカヤネズミなどが増えたのたろう。
しかし人間の肉眼では見えない,ノスリには見えるのだろう。

ともかく蝶はへった,前は小さい蝶でも揚羽類でももっといた。今はたまにしかみかけない,ただ森とか山の方にはまだみかける,放射能の影響などはわからない。

人間は今高度に文明化して生態系を意識しないで生活している
エネルギーが石油とか原子力になると今生活している生態系とは関係なくなる
石油をとりにゆくのは中東であり日本の地元とは関係ないのである。
そのために中東の紛争にもまきこまれる

江戸時代から戦後十年は自給自足の生活がつづいていたのである。
エネルギーは蒸気機関車だと石炭であってもそれは日本でとれたものだったからだ
あとは炭焼きとなれば地元の森林を使っていたのである。

それで入会権というのはもともと森を守るものとしてあった
それはその山で炭であれ山菜であれ山の幸を分け合うものとして山や森を守ってきたのである。
ところが明治維新で私的所有権が過度に認められたとき山は割り山になった
無数に分割されてしまったのである。
入会権として山を守ってきたのはそこで生活をしていたからである。
日本の森や山を利用しなくなったときかえって森も山も維持できなくなったのである。
間伐もしないのは木を利用しないからそうなる
そして利用しないからかえってそこを利用しようとするとき今ならソーラーパネルになるのである。
森でも山でも田畑でも利用しないと廃れてゆき荒廃してゆくのである。

自給自足の生活は自然の生態系で生きることだった,その生態系が原発事故の前から文明化によって破壊されていたのである。
だからこそ今や田舎でも生態系を意識して生活していないのである。
田畑があり森があり山があっても農民は一割にも満たないから生態系を意識して生活している人は田舎でも少数派なのである。
自給自足の生活なら別に意識しようとしなくても意識していたしそうでなければ生きていけなかった,今は田舎でも生態系を意識しなくても生きていけるのである。

むしろ石油や原子力の方を常に意識する,そこから電気が生れるから電気は欠かせないものとして意識する,電気があれば別に森や山などのことを考えないですむ
東京で一千万住んでいてもその人たちは生態系など意識しない
ただ水不足になったりするとき山から流れる水を意識するのである。
石油や原子力から水は作り出せないからである。

原発事故では何が起きたかというと生態系が破壊された
結果として空気も水も汚染された住めなくなったのである。
東電などで原子力発電にかかわった人は地元の生態系など関係ないのである。
ただ事故になった結果,地元の生態系を破壊したから東電の人も田舎が何で成り立っているのか生態系を意識したとなる
でも東電の人達はここに住まないし東京に住むから生態系とは関係しないのである。
だから今回の東電の原発事故は文明のありようまで問われたのである。

それは日本の大企業でも多国籍企業でもインドネシアのオラウータンの住んでいる森を破壊する,それは生態系を破壊するからオラウータンも住めなくなるのである。
それは人間も住めなくなるのである。
最低限生態系が維持できれば水でも飲めれば田畑でも維持できれば森林でも利用できれば生き残れる,でも生態系を破壊されたら住むことはできなくなるのである。

津波によっても生態系は破壊された,でもまた元に自然はもどる,自然には回復力がある
でも原発の放射線はプルトニウムなら二万年消えないとかなる
生態系にそういう毒が残り続けるのである。それが自然の災害と科学技術の災害との相違だったのである。
ナイル川の定期的な氾濫は土を肥えさせる泥を運んできた
だからそれは害あるものではなかったのである。それがエジプト文明を作ったともなっていたからである。
それは自然に従う文明であり現代文明は原子力発電とかなると自然に逆う文明だったのである。


17:51 アップ

チョウトンボはハグロトンボだったかもしれない,ちらっとみただけであり確かめなかったのが失敗だった,なぜならチョウトンボが一羽だけ生き残ることは考えられないからだ
まちがいなく震災直後に津浪の後に見たのはチョウトンボだった
追いかけてみたからである。今回はちらっと見ただけだからである

夕方に十数羽,鷺が飛んでゆくのを見た,五六羽は見たことがある。
こんなに多く見たことはない,前には鷺の巣があった
これだけ鷺ももどってきたということである。
それは田んぼが増えて生態系が回復してきたからである。
生態系が回復することが復興でもある


十数羽鷺の群れ飛ぶ夕暮れや久々に見て心地よしかな
posted by 天華 at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年08月07日

原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)


原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)

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時々道の駅で野草展が開いている,さほど見るものがない,今回はイワヒバが多かった
イワヒバはいろいろ種類があるという,茨城県の太子ではイワヒバを売っているので買ってもらった,高いが品種的にはそれほどいいというものではなかった
イワヒバは岩にあうからイワヒバである
これをとるのは容易ではないから高いのである。

レンゲショシウマという花は本当に見れるのか?
こんな花が近くの山に咲いているのか?高山の花だと思った
シャンデリアのように開いている
これを自生してる山の中で見たら神秘的である。

野生の花はやはり野山に咲いているのを見たとき一番美しいし神秘的になる
この花を見たいといってもかなり山奥に入らないと見れないだろう。
花は高山植物を見てきたがそこまで行くのが苦しい

尾瀬にはいろいろ花が咲いていたけどそそこまで行くのが大変である。
至仏山に咲いていた花は神秘的だった
尾瀬にはもう一回行って見たい,でもこの年になるとなかなか行けないなとも思う
人間はこれほど旅をしても見るものがつくづく限られていると思う
だから時間が貴重なのである。

人間はくだらないことに時間を費やしすぎるのである。花を見る時間もやはり人生の中で貴重なのである。花のことを知らない人が多い,すると何か欠けていることになる
女性でも四〇代の人が生け花もしていない,農家に嫁いでも花のことを知らないのである美人でも何か大きなものを欠けていることに気づいた

一般的に男性は花に興味がない,だから花屋で男性が花を買いにゆくと変に見られてしまうのである。
ただ別に野草展では男性の人も花を育てている,そういう趣味の人はいる
やはり高山植物は神秘的である。今になると見れないものとなってしまった
人間は何か何をするべきだったとか必ず老人になると悔いる

それは時間が無駄なことに費やしているからそうなるのである。
時間を有効に使っていないのである。
そしてその貴重な時間がいつかはなくなってしまうのである。
今になると自転車旅行もできないとかなる
時間があっても今度は体力がないとなりできないとなる
つまり時間でも体力でもいつまでもあるものではない,限られたものとしてしか人間には与えられていないのである。




JRには人へのサービスが欠けている (技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)


JRには人へのサービスが欠けている

(技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)



市で作ったトイレが障害者の団体のあさがおで毎日掃除しているという
たまに行くと見かけるけど毎日にしていた
そんなに掃除しなければならないのか?
いつもきれいになっていた,その分金がかかっていたのである。
その金は市で払うから市民が払っているともなる

なぜそれがわかったかというと向かいの自転車屋はいつも駅を見ているから知っているのである。自分は一日一二回くらいしか行かない
その人はいつも駅を見ている一日中駅を見ている
何もしなくても駅とかかわっているのである。
道案内などやタクシーのことも聞く人がいた
つまり駅には誰いない無人駅だからそうなっていたのである。

その人は駅舎が空いているのでそこを利用すればいいと言っていた
それが観光協会がなんとかでうまくいかなかったという
鹿島駅てはあそこで弁当などを売りたいという人がいるという
それなりの人が出入りしているからである。
前は売店まであった,その時はまだもっと人が乗っていたときである。

駅で弁当でも何か売りたい人がいるということは初耳だった
でも観光協会がどうのこうのとかできないらしい
JRはこうして市民が地区の人が掃除していても何も礼も言わない
それは自分もそうだった

いろいろ駅を見ているですよと言っても何も礼も言わない
それがJRだという,確かにおそらくその駅前の人も地区の人も礼など言われたことがないから言っている
何か注文をつけるとうるさいというくらいにしか思っていないのかもしれない
これもどういうことなのか良くわからない
道案内しただけでありがとうと言う人もいるのになぜJRではそうして地区でも掃除したり自分もいろいろみていて補佐しているのに何も礼も言わない
一言ありがとうとも言わない,むしろどうでもいいという感じになる
それで自動化して無人駅化する
何かJRでは人へのサービス精神に欠けているのだろうか?
その辺の事情はよく分からない
今日前の自転車屋に聞いてJRはそうだなと思った

2013.10.15

JR、ずさんなサービス品質の実態〜安全対応軽視、黙り込む駅員、顧客無視のシステム

東京駅の改札前のメイン・フロアでは、カート用のスロープが一路あるだけ。それ以外は、階段と小さなエスカレーターが一機設置してあるのみ。ほとんどの人がスーツケースを重たそうに持ち上げ、階段を上っている。


東京駅でもそういうことがあるのも驚きである。そういうのは駅員が見ているとわかる
田舎の駅ではエレベーターがない駅が多い,するとスーツケースでもキャリーバッグでも階段を上り通路をわたり改札口まで結構な労働なのである。女性もいるから楽ではないと見ている

ここの記事では駅員が何かと不親切だとかインターネットの予約でも何か人へのサービス精神がJRでは欠けていると指摘している

そもそもJRは線路の保守とかメカの点検保守がメインの仕事であり人へのサービスは別なのもと考えているのかもしれない,そういう集団であり組織なのかもしれない
サービス業だとは思っていないのかもしれない
理系とか技術者関係にはそういう人が多いだろう。

でもホテルとか売店とか経営するようになっているから今は変わっているが基本的にはそういう姿勢なのかもしれない,線路とか鉄道の技術としての保守管理がメインの仕事であり人へのサービスは付随したものでしかないと思っているのかもしれない
実際に地区の人でも自分が駅をみてしていることでも全く無関心なのである。
その駅舎でも自分たちのものではないという感じにもなる
すると機械だけおく無人駅でいいというのがJRの態度になって行くのもわかる
それはただコストがかかるからというだけではないのかと今日話を聞いて思った
機械にたいしてメカには保守点検は厳重にしているが人へのサービスは重要なものとして考えないということである。

ただ駅はJRのものだけではない,駅に来て無人駅で案内する人もいないとなると駅が街の玄関の役割を果たしているというときその街自体の印象が悪くなるのである。
駅はJRだけのも問題ではない,その市町村と密接に結びついてある
経営として人へのサービス精神からみる必要もある
駅はJRだけのものではない,それは街と一体化していることを市民でも自覚する必要がある,でも車時代になると常磐高速道でも四車線化しているように
車は乗る人が多いから便利になる,鉄道は利用する人が少ないから便利にならないのである。乗る人が多くなれば三〇分感覚に電車に乗れるようにしたりできるからである。
どうしても経営はコストなしには語れないということである。

2017年08月08日

心が通う田舎駅(詩) (機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


心が通う田舎駅(詩)

(機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


駅は母が子を待つように
あたたかく待っている場所
ぬくもりのある場所
駅はまたは無事を元気なことを
祈り見送る場所
老いも若きも男も女も
ここに住む人も
外から来る人も
様々な人が行き交い
駅は熱気を帯びる
「行ってらっしゃい、お帰りなさい」
あたたかな人間の血が通う場所
一時の出会いなれども
駅には人の心が通う場所
そこには駅員が必要なのだ
すべて自動化機械化はできない
人間は心を持っているから
あらゆる場所がそうである
心が通いあうことを願うから
薬を売るならその人の病気の直ることを
私の作った野菜を食べてください
私が苦労して精根こめて作ったものです
その手から直接与えられたら
その本当の価値を知る
ただ金を得るだけではない
物には人の心が通い物の価値が生まれる
心をこめて作られたものに価値がある
医者はいくら機械に囲まれていても
そういう心をもたないと人をかえって傷つける
今人に欠けているものあたたかい心
科学技術がいくら進歩しても
そこに人間の心が欠ける時索漠とした社会
駅で母が子を待つように
寒い日でも誰かが待っている
あたたかく待っている場所
忠犬ハチ公のように待っている
いつまでも主人の帰りを待っていた
大きな駅にはそれがない
人々はただ物ののように流れてゆく
小さな駅はかえって心が通う
そこには駅員が必要なのだ

これは別に駅だけの話ではない,どんなに機械化自動化しても人間が必要なのである。
ロボットに介護してもらいたいか?ロボットは補助にはなるが心をもてない,愛ももてない,だから人間の代わりにはなれない,未来は機械化自動化であり人間がいらなくなるということはありえないのである。

確かに鉄道の方が全自動化して運転手も車掌も駅員もいらなくできる,そうなるとどうなるのか?何か索漠としたものにならないか?ロボットに見守られている世界は情なき世界になる,それは社会全体でも言える

牛馬を必要としていたときなぜJそこで情が育まれたかというと牛馬は機械ではないからである。やはり人間の情が通じる,それで馬と結婚した娘の話が残っている
それだけ動物でも情が通じ合うから情が育まれていた,なぜこれほど犬猫のペットブームになっているのか?それは人間の情が通じる,情を求めているからである。
機械には情が通じないのである。

駅では無人化してもやはり必ず家族が見送り出迎える場所である。それはまさに家族の情が通じる場として駅がある。そういうふうに人と人が情で結び合う場所がどこでもある
駅は公共的な空間でもある,車は一台一台閉ざされた空間であり一緒に多数の人が乗りあわすことがない,乗る人は個人か家族か親しい人だけでありあとは排除される空間なのである。

電車とか駅は見知らぬ人が交わる空間でもある,見知らぬ人も行き交う場である。
それも子供から老人までみんな行き交う場である。
今はそういう場所もない,学校は子供のいる場であり病院や老人ホームは老人だけがいる場とか分離して閉鎖されている
昔の村の方が世代間で分離していないし交流が生活の中で自ずからあった
人間が世代でも男女でも仕事でも分離されて交流できないのが現代である。
そこに情が通わない歪な社会になっているのだ。

機械化自動化で人間が働かなくても良くなるということはない,逆により人間的なものが求められる,介護でも力仕事はロボットとかるが愛情ある介護は人間しかできない
機械的にできるものは機械にまかすとしてもやはりどこにも人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。機械にはそもそも愛がありえないからである。
要するに機械化自動化はかえってより人間的なものが人間にしかできないものが価値が高まるのである。

例えば家事でも自動化してゆく,すると人間はいらなくなる,実際家事は一人暮らしでもできるようになっている
ではお手伝いさんはいらなくなるかというとそうでもない,一人暮らしの人は淋しいから話し相手に必要だともなる
そうなると話がうまいとか何か趣味があるとか家事をする能力ではないものが価値がでてくる
もちろん料理でも自動化はできないたろう。機械化自動化してもどうしても人間的なものを求める
その人間的なものがかえって価値が高まるのである。
だから未来は別な能力が求められる,より人間的なものが求められる

将棋や碁の相手は機械になった,すると娯楽にしても変わる,人間はそれでも会話を望むし人間的なもの求める
つまり娯楽も変わる,そこでより創造的なものが求められる時代になる
将棋や碁はコンピュターによって解析された,そうなるとコンピュターによっても解析されないものが価値がでてくる
自分がしている抽象画はコンピュターでしているが新たな価値を作り出したともなる
もちろんその価値はどれだけのものなのか疑問ではなる
でもやはり新しい価値が生み出したともなるのだ

2017年08月09日

原初の山2(mountains in the beginning2)



原初の山2(mountains in the beginning2)


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同じように見えても違っている,そういうものが大量に作られる
ただそうなると何か平凡に見えてしまう
それは自分の能力で描いていないからそうなる
ただ機械的なソフトの作用でそうなっているからである。
そこに限界があるのだがただ大量に生産できるのは機械的操作でしているからである。


This is because it do not go by action of so only mechanical software because different such things do not picture it which then is only seen in the anything ordinariness which is made in large quantities with one's ability even if they see it in the same way, and it is.
There is a limit there, but this is because it is only mechanical operation that I can produce it in large quantities.

2017年08月10日

陰(影)なる人間



陰(影)なる人間


日があたれば影ができる,人は陰(影)となり生きる者がある、男の陰は女であり妻である,華々しく注目を集める人の陰に必ず影となる人がいる
政治家でも議員の陰となる者が秘書である,俳優でも主役と脇役がある
注目は主役に集まる,陰は表に出ない,それが定めである。

この世の中に陰となる者が実は多い,多くの普通の労働者は目立たない,陰のような者である,掃除している人は目立たない,陰となり仕事する人は多い
陰の存在は主役が消えたとき意識される
主役を支えた者としての影が浮かび上がる

そして陰は影はいつでもそこにある,それは以前として目立たない,ただ陰は以前として自分を主張しない,それでいいとしている,みんな主役になりたい,目立ちたい,でもなれない,ただ主役になるのはまた風当たりが強くなる,矢面に立つことになる
主役には主役の役があるが主役あり脇役がありこの世は成り立つ

今にして気づく,影のようにいつも寄り添いあったものを,それは目立たない,影でよしとしていた。そういう性格でもあった,その性格に生きた
主役が消えたとき華々しさもまた消えた,でも影はいつまでもそこに残っていた

日があたれば影ができる,それは法則である。人の世もまた同じである。
陰となり働く人は多数である。華々しい主役はまれである。
しかしその陰には陰となり働く人がいる,人間にはまた陽と陰があり調和する
陽は陽の働きがあり陰と陰の働きがあり調和する

内なる人と外なる人がいる,それは人間の性格であり性格に人は生きる
人間にはその両方が必要なのである。
ただ本当に陰なるものは気づきにくい,その存在を意識するのは主役が消えたときであり後になる,でも陰なる存在に気づくときその影はいつまでもやはり寄り添いある感じになる,妻がある時妻は意識しにくい,死んだとき意識される

そういうことはこの世に多い,普通にあるものは当たり前にある者は意識しにくい,それが失われたとき意識する,その存在に気づく,そしてその影はやはりいつも寄り添っている,陰はなかなか消えないのである。主役は華々しいが一旦消えると忘れやすい
ただそれもその人の性格でありその人はそういうふうに生きることを宿命づけられていたのである。

まず陰なる人は主役のようになれない,その能力がないからである。
ただ陰としてのみ生きる,そういう能力しかない,しかしそれもまた不可欠なものとしてこの世にある,主役にはなれないし成りたくない人はいる
みんな社長には向いていない,主役には向いていないからだ

神が男女を造られたのは陽と陰として造られたのである。それは太陽と月のごとくでもある,陰陽の原理がこの世には働いている,太陽は男であり月は女である。
自然にも陰陽の原理が働き世の中にも働く,その定められた宿命を否定することはできない,男には男の役目があり女には女の役目がある,それを越えること否定することはてきない,否定すれば不自然なものとなり世は乱れる

一生陰となり生きた者よ,そなたは今も影としていつまでもある,主役として生きた者があり陰として生きた者がある,その両方によって人は支えられている
この世に生きる者は大方は陰である,目立たない,そう強いられているともなる
しかしそれが世を支えている,目立つ者だけでは世は支えられないのだ
目立つものには目立つもの主役としての責務がありそれを成すからこそ主役なのである。
陰なる者はそれができない,主役のようにできない,だから陰として影となり存在する
でも全く影にすぎないのかというとそうではない,それはいつまでも存在し続ける
それは主役が消えたときその影に気づくのである。
陰になり働いていた者にきづくのである。

ただ人は陰になることは嫌う,でも主役になるにはそれなり技量が必要なのである。
では陰になるものが目立たない者が存在感がないのかというとそうでもない
陰になる人は主役が消えた後々までも存在し続けるのである。
いつも寄り添い陰となり存在しつづける

太陽があり月がある,陰陽がある,それは宿命である。それぞれに補いこの世がある
その原理に逆らうことはできない,陰なるものもまたこの世を支えている
そして大方は陰なるものとして生き陰なるものとして終わるのである。
その存在は影とてし終わるかというとそうでもない,いつまでも陰なる者として支え寄り添いある

台所にたたずみあわれ我が母を思い悲しき一人料理する

この母を妻にしてもいい,毎日自分で家事を全部しているときこのことを感じた
誰も本当に家事をしてくれない,一枚の皿を洗うこともしてくれなかった
今でも実際はそうである。ただ自分が全部を負うようになったのである。

負うべきは我が一人のみ頼れずに日々一人台所に立つ

家とか家事とかは何か全部一人で負うことは容易ではないことを知った
介護の時もそうだけど家は少なくとも二人以上いて家なのである。
なぜなら留守になると誰もいないから不安になるし何か常に不足を感じるからだ
だから一人より集団で生活した方が楽である。
食べ物でも一人だと損である,古くなって食べられなくなるのが多いからである。
だから今の世の中単身で暮らす人や老人が多いことは人間としては異常なのである。
それは社会自体が歪んでしまったからなのである。
自分は自分の特殊な事情でなったのだが他でも同じだったのである。

2017年08月11日

強者が弱者となり弱者が強者となる (賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


強者が弱者となり弱者が強者となる

(賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


人間はみんな最後に老人になるとこのことを頭ではなく現実問題として実感する
理屈ではない,現実として事実としてつきつけられる
人間はいくら人生論だとか読んでも他人事なのである。
でも現実に家族とか身近な人とか自分自身とかにじかに起きてくることは否応がでも
その事実で知らしめられる,それを自分も実際の事実として家族とかでつきつけられたから驚いたとなる

今でもその死は信じられないとなる,本当に体力的に頭脳的にも優れた人が認知症になって死んだ,それは馬鹿になって死んだともなる
身近に接していたから女性でも男性並であり男性でも怖がっていたのである。
全然人を恐れないことの驚きである。女性でもそういう人はいる
そういう人は実業家とかであり政治家であり何かをできる人間なのである。

それがあえなく認知症になって死んだということが信じられないとなる
一方は愚かと見えた人は実は愚かではなかった
認知症にもならないし正直な人で親切な女性だったのである。
そういう人はただ目立たないし何か優秀なことはないのである。
でも死にざまをみると愚かは見えた人が賢かったとなる

 わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。

 例えば人生を生きる時,みんな賢く生きたいと思っている,愚かに生きたくないと思っている,でもこの世を生きることは利に聡く賢く生きることが得をする
賢いといってもずる賢いとかもあり賢さがいい方面にだけ働かないのである。
あの女性は馬鹿正直で嘘をついたことがない,愚かだともなっていた
でもそれだけ正直だとなると今の世の中にいないとなる
愚直だという言葉もある,何か筋を通すとなると功利的ではなく愚直を要求される
だから賢くふるまうということは悪い面としては功利的にふるまうことである。
常に利を求めて利でもって判断する,一方でそうしないものは賢くない馬鹿だとなる

また聖書でも高きものは卑くくされるというときもそうである。
自分が偉いとか優秀だと思っている人は地位とか富のある人は卑くくされる
そういうことを身内の死とかで実際まざまざと見たから驚愕した
認知症になることはいかなる優秀な地位ある人でも馬鹿になるという恐怖なのである。
だからあまりにも悲惨だったとなる
その認知症になる人が将来二〇年後くらいに四〇〇万人にもなる
そうなると認知症になことはめずらしいことではない
最後は人間は馬鹿になって死ぬのが定めなのかとまでなる

親戚の人は理系であり常に優秀だとされていた
それで事業を起こしたが失敗した
経営者と技術者とは違うから経営には優れていなかったのである。
理系は文系を馬鹿にするが理系もまた馬鹿なのである。
人間はそもそも賢くなれないからそうなっている

人間は永遠に賢くありえない,個々人でもそうだし人類全体でもそうである。
いくら科学技術が発達しても同じである。
この辺で起きた原発事故をみればわかる,最高に現代では賢いとされた人達が科学技術者が事故を起こしたからである。
その災厄は甚大であり回復不可能までになり人は住めなくなったからである。
原子力発電を核を操作する知能があってもそれが賢さにはならないのである。

逆に核戦争になって人類が滅べば人類ほど愚かな者はいないとなる
それで猿の惑星の映画がそのことをわかりやすく指摘した
猿は人間から見て愚かな知能のない馬鹿と見ていたが人間が核戦争で滅んだのだから
人間は賢いとされた知能故に滅びたとなる

いづれにしろ人間は神のように賢くなることはできない,人間は何が本当に賢いのか賢くないのかわからないからである。
科学技術が人間を賢くするわけではない,それを悪用するのも人間だからである。
すでにドローンが兵器としても活用されてロシアのクリミヤで成果を上げていたのである常に科学技術は戦争に用いられ悪用される,だから常に人間は賢いのだが愚かだとなる

賢さを追及しても結果的に愚かなことになりまた愚かさを愚直を貫いたことが賢さに通じていたともなる,全体的な知恵とか賢さをもつのは神しかもち得ないのである。
そこに人間の限界がある。
科学技術がすべて否定されるものではない,電気でもそうである。
それが人間を賢くするものではない,むしろこの辺で原発を建てるとき金になるからと賛成した,でももしそんなものいらないとか愚直に反対したら今になるとその人が賢かったともなる
山尾三省のようなパンが贅沢などと言っているのは馬鹿だとなる
だが今になると原発事故で見直されるようになったのである。

2017年08月12日

マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)


マスコミにはリアリティのある報道がない


(個人の経験にリアリティがある)


マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである

それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。

別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。

良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。

リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる

マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである

マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。

人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。

リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。

自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。

ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった

いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある

例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。

要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。

とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。

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八沢浦が元の美しい入江に戻った!

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)


津浪で判明した江垂の地名の謎

(気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
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津浪浸水地域

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津浪は六号線を越えてきていたのである。

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「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

気になる江(え)の地名で考察したけど今日自転車で六号線を通ってきたら小島田は自覚していたが六号線沿いに江垂(えたり)の地名の表示があった
ここも江垂なのか?江垂は街内でもあるからこんなに広い領域だと思わなかった。
そもそも村の境はわかりにくい,江垂と小島田の境はわかりにくい,小島田はほとんど津浪の被害があった,江垂はなかった。
でも江垂まで津浪は押し寄せていたことになる
小島田の地名は湿地帯であり島のように田があるということになる,湿地帯が広がってそこを田にしたのである。地形的にはあっている

江垂の地名の起こりが都の貴人が来て水で袖を濡らしたことでその名がついたという伝説がある。江を衣垂としてその伝説が生れた,それは根拠のないものだった
地名伝説は何かこうして後世にあてつけでその由来を説明している
なぜそうした地名がついたのか後の世の人は不明になったから勝手に地名を解釈して地名伝説を作ってしまった,地名の由来の伝説は信用できないのである。
ただ地名はそれだけ古いからその由来がわからないのが多いのである。

江は水と関係しているから袖を水でぬらしたというのはあてはまっているかもしれない,ということは海が迫っていた,海水でぬらしたのかもしれない。
縄文海進があり海が奥まではいりこんでいたことは今回の津浪で実証された。
塩崎(しおのさき)はもともと海の崎にありつけられた名である。
そこに船着とか地名があるのも古代に船が着いたからその地名が残った
そして今回の津浪はすぐその近くまで津浪が押し寄せていたのである。
あそこは低い土地だから奥まで津浪が来たのである。

江垂の地名は海に面していたということで生れたのではないか?
江とつく地名は海に関係している,水と関係している
垂れるの意味は

一続きのものの端がだらりと下がる

海が一続きとしてありその端だというとき位置的にはあっている
江垂が海が迫っていたことが気づかなかったのはそれほど奥に端に海がつづいていたからだとなる
それは蝦夷(エソ)に由来していることでも縄文時代からの言葉に由来している

桜田山の下からせ縄文人の遺跡が発掘されている,そこからは鹿の骨とか海の魚の骨が発見された,そこは狩の場でもあり漁をする場でもあった,つまり海が近くに迫っていたから海の魚がとることができたのである。
海に近ければ海の幸で生活できる,その海も入江のように入り込んでいると荒くないから漁ができたとなる,だから海老はエヒでありこれも海に面して住んでいた人達である。
江垂も同じだった。
不思議なのは海老とか江垂でもそこは蝦夷という原住民が住んでいて外来の人達との争いの地点でもあった

なぜなら桜田山の下に第六天の祠があり第六天とは魔神の意味でありそれは大和朝廷に抵抗した人達としていたのである。悪者にされたのはインディアンなどともにている
西部劇ではインディアンが常に破るものとして退治するものとしてドラマが作られていたからである。戦争では強い方が勝手にドラマを作るのである。
海老にも御刀神社がありそれは海老村に蝦夷が住んでいて抵抗した,それで刀で責めて征服した地点だとなり神社が祀られた。
海老からは弥生時代の遺跡が発掘されたから相当に古い場所なのである

ともかく日本には江とつく地名が北海道でもどこでも多いのである:それはなぜか?
日本の原住民が蝦夷でありそのエゾのエが全国に地名化して残った。
それは縄文語に由来しているのである。
蝦夷というのは謎であるが大和王権が日本を統一するときその前から住んでいた原住民である。それらの人達は歴史から消えたが地名としてその存在を残していた
アイヌも蝦夷なのかどうかわからないがアイヌはむしろ蝦夷の後に来て蝦夷と同一化された民族だともなる,その前に蝦夷がいたからそうなったのである。

ともかく歴史でも考古学でも何でも地理に詳しくないとわからないきである。
地元にこれだけ長く住んでいても地理がわからない,江垂は街内と見ていたのである。
でも今回の津浪で海が迫っていたのである。それは津浪が知らしめたとなる
posted by 天華 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2017年08月13日

人生とは何かを究めること (道を究めること)


人生とは何かを究めること

(道を究めること)


日本語には道とつく言葉が多い,剣道、柔道、弓道、華道、香道、武士道、茶道、書道とかいろいろある,武道とは単に格闘技ではない,道を究めることである。
道を修めることである。宗教でも神道となり神ながらの道を究めることになる
道は極めて日本的な思想であり宗教にも通じているのだ
道を究めるというときはそれはあらゆる分野に通じている
江戸時代なら職人道があり職人は刀鍛冶でも最高の刀を作るために精進していた
それはあらゆる職業でもそうだった,特別な職業だけではないのである。
英語だとはworkである,作品を作るために精進していたとなる
江戸時代までこうして個々人が道を究めることに生きていたのである。
明治以降は会社組織になり会社がwork(作品)を商品を作るために会社員全部で精進しているとなった,だから個々人の道を感じなくなったのである。

例えば旅でも旅を究めたのが最初は西行であり次に芭蕉とかであり近代では山頭火などになる,旅を究めるというとき芭蕉のように人生自体が旅としてとらえるようになったのである。人生は旅だとしたのである。それこそ旅を究めたとなる
現代では旅というときただ保養する気晴らしという感じしかない
うまいものを食べて違った環境で気晴らしする,旅人はもういない
江戸時代だと歩いて移動するから隣の町まで行くのにも旅になっていたのである。
今は平泉まで二時間半だとかなれば旅とはならない
途中は通過して一挙に平泉につくから深い感懐も抱けないのである。

だから旅人はいない,ただ移動して気晴らしする人であり観光する人である。
旅人となることは実際は容易ではない,今になると余計にそうなる
移動しやすいからそうなる,自分の場合,自転車で旅したときある程度は旅人になっていた,一カ月くらい旅したからである。
その時必要なのは今のようなホテルとか旅館とかではない,江戸時代のような泊まるだけでいい宿なのである。特別土地のうまいものを食べることでもない,そういうものに金をかけることではない,一宿一飯の宿なのである。
木賃宿というときそういうものだった,そういう宿が多かったのは江戸時代は移動することが容易ではないから簡易な宿で良かった,移動するだけで時間がかかるからそうなった今はそういう環境が失われたから旅もなくなり旅人もいなくなったのである

ただ以前として人間には旅をしたい,別な世界を見たいということは変わりなくある,現代だとだから世界旅行が人気になるのである。
常に言っていることだけど学問の基礎は地理にあるというとき旅しなければその地理感覚が身につかないのである。近くですらそうだった
江垂のことを書いたが地理的に誤解していたのである。広い範囲が江垂だったのである。郷土史を究めるというときもやはり地理感覚が基礎にないと究めることができないのである。

いづれにしろどんな分野にしろ一芸に秀でることが生きることになる,そのために日々ある。それはつまらないことでもそうなのである。雑学すらそうである。
地名学があるとする地名など学問なのかとなるがやはり学問になる
雑学にしてもやはりそれを究めるには積み重ねが必要であり地名を究めてゆくことが必要になる,それは人間のあらゆる分野でそうなのである。

医者だったら医道を究める,やはり医者として熟達してゆく,すると神業的な神の手をもった医者になる,手術のうまい先生でそういう人はいる,ただマスコミにもてはやされる人はみんなそうとは限らない,マスコミの人の判断は何か実力ない人でも有名にするからである。
ただ本当にその分野で実力あり神業的な人がいることは確かなのである。
それはどの分野でもいるのである。人間国宝とかなるとそういう人だろう。

現代でも組織の時代でも道を究めるということはある,ただ集団で道を究めることはありえない,カルト宗教など道を究めるなどとは何の関係もない,ただ数を増やして権力をもつというだけだからである。そんてところで道を究めるなどは全くない
現代で道を究める生き方がしにくいのは組織化集団化の時代だからである。
workするにしても一人ではなできない,何か発明するにしても組織で会社でしているからである。道を究めるというとき江戸時代までは個々人で究めていた環境があった
そこに現代で道を究めることのむずかしさがある

道を究めるというときその道を究めた人に弟子入りするということがあった,師が必ずいて習ったのである。現代ではそういう関係は築きにくい,ただその道に優れた人はいる
南相馬市の病院には脳外科で優秀な先生がいてその先生に習いたいために全国から研修生が集まるというときそうである。
そういうことが医療の世界でもいろいろな分野でもある

人間にいろいろな考えがある,いろいろな人がいる,それが一貫してそれぞれの道を追及すると豊かなものになる,ただ自分のしていることが何なのかわからないことがある。
でもわからないなりに学問でも芸術でも職業でも道を究めることをしていると最後に実りがある,郷土史なども雑学のようなところがあるがやはり郷土というのをあらゆる観点から究めようとしているのである。
それが津浪や原発事故などで郷土学というものが必要だったことを知らしめたのである。原発事故では郷土そのものを失うことになり故郷とは何かとか問われたからである。
故郷を失った故郷の意味が追及されたのである。

道を究めるというとき重要なのは雑念とか欲望とかいろいろなものを遮断する必要がある
だからある意味で道を究めることは精進することは修行でもある
この世の欲望にふりまわされていると修行しにくい,精進できないからである。
そして人間に与えられた時間は限られている,たちまち時間はすぎてしまうのである。
でも後で雑学すら役に立っていることがわかる,様々な経験したことも活きてくる
だからどんな職業でも何でも自分は自分のあった道を究めているという自覚が必要なのである。ただ会社人間化しているとい俺たちは社蓄なんだよなというとき一生を奴隷として終わるかもしれない,そうして終わった人生は何なのだろうと悔いるが万事休すとなってしまう。もう人生は一回だけであり取り戻せないからである。
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