2017年08月01日

相馬野馬追い終わる (祭りの意義とは何か?)


相馬野馬追い終わる

(祭りの意義とは何か?)

ootukiiii111.JPG

旗取りで同じような旗が集まっている
これは同じ村の人なのだろう。
偶然ではこうはならないだろう
青色なのは宇多郷なのか?

nomaoihataaa11.jpg


地域社会の人間同士のつながりの希薄化から、地域の力の減衰が叫ばれる昨今、
そのコミュニティを再構築するための絶好の機会に、ねぷた祭りは成り得る
のではないか、


祭りの意義というとき何なのか?野馬追いではその意義は何なのか?
それは相馬藩が一体となる祭りである。それと馬の祭りなのである。
馬を偲ぶ祭りなのである。馬はもう忘れられているからだ

相馬藩が一体となるというのは相馬市では市長が相馬市で出陣式が行うことで誇りをもてとか訓示した,その相馬市(宇多郷)と北郷(鹿島)が合流する儀式がある
野馬追いは地域地域が村々が一体化する祭りである。

でもそれは侍が戦争のために一体化するということが起こりである。
土地の農民はどうかとなると参加できないから一体化を感じるのかともなる
野馬追いは戦争が終わって江戸時代でもつづけられていた
その時戦争とは関係していない,戦争は終わっていたからである。
それでは何のためにしていたのか?

その時も相馬藩の侍が雲雀が原に集結して相馬藩の一体感をもつためということもあったその他に馬を放牧していたから馬を飼い馴らすためにしていた
戦争は終わったのだから馬を飼い馴らすためのものとしての方が役割として大きくなっていた

祭りというとき祀るは死者を祀ることであり供養することである。
だから何回忌とか家ごとにしているのは家の祭りなのである。
そして祭りはどこでも神社があり日本では無数にある。
すると神社ごとに祭りがある,そもそもなぜこんなに神社が建てられたのか?
それは神様を祭りその地域に根を下ろして生活したからだろう。
だから神社は先祖と関係している
先祖が移住してきて神も移ってきた

相馬氏なら千葉氏の系統であり千葉県から移ってきた
その神は妙見信仰である。これは北斗七星であり北極星なのである。
それは遊牧民がもたらした信仰である。遊牧民にとって北極星は移動するときの目印になるからだ
だからイスラム圏とか砂漠の民とかは国でも星印の国旗になっているのある。
最近では天皇にも妙見信仰があり遊牧民とか騎馬民族とかの信仰と関係していたという説がでている

野馬追いの見方としては宇多郷(相馬市)と北郷(鹿島)と合流する儀式があるように相馬藩が戦争のために一体化する祭りだった
だから野馬追いの見方としては5つの郷が雲雀が原に結集する祭りなのである。
飯館村も山中郷であり標葉郷は浪江とか双葉と大熊も入っていたのであり実際に出ていた
相馬藩の主な侍は城勤めではなく農業をしていた郷士でありそこに旗も残りほとんど農家から出ているのである。
つまり野馬追いは侍の祭りであり農民とかの祭りとも違うのである。
ただ相馬氏が土地土地に土着して先祖になったので村々とも関係している
村の代表ともなっているのが相馬氏の侍だったとなる

ただ歴史をたどれば霊山城が南北の争いで炎上して落ち延びたのが今の玉野で鹿島と中村(相馬市)に分かれて落ち延びた,山上に山王神社などがあるのはそのためである。
山王の神が霊山城炎上して落ち延びた武士によってもたらされたからである。
こういうのは由来がはっきりしている,只野姓も郡山近くの多田野村に由来していることは書いた,落ち延びた人たちが真野の中館に住んだからである。

ともかくこうして相馬藩が一体化する祭りであるとき津浪や原発事故では野馬追いが復興の行事としてみなおされた,だから相馬市長も南相馬市長もその旨を言っていたのである相馬藩が大熊,双葉,浪江とか小高でも避難区域になりばらばらになってしまった
それで今回小高から60騎くらい7年ぶりに出たということで話題になった
仮設からではなく帰還した農家からも出ていたからである。
それが小高の復興を推進するものとして小高の人たちも見ていたのである。

つまり小高でも北郷でもそれぞれの地域が一体化する祭りが野馬追いにはあった
ただ今になると社会が複雑化して人口も増えたしみんな会社員になったとき
相馬地域の一体感は希薄化したのである。
だから祭りとして地域の一体化を計ることがあるのだが今は成っていない
それで地元でも盛り上がらないとなる

ただ祭りの意義としたら歴史の伝統の保持でありその意義はある
ただ地元の人がみんな参加できないしみんなで盛り上がることはない
だから歴史と伝統の保持も欠かせないがみんなが参加できる祭りとしての工夫もひつようである。
ただそうなると歴史の保存としての祭りが乱されることもある
ただ前からそうだったが野馬追いは一回見て終わりとなっている
地元の人も参加できないから相馬地域がみんなで盛り上がるという祭りではない
その辺の兼ね合いだむずかしいが何らか新しいものも取り入れないとやがては祭り自体が維持できないとまでなる

そもそも祭りは限界集落では跡を継ぐ若い人がいなくなって維持できなくなっている
祭りとは次代の若者がになうものだろう。
威勢良く神輿をかつぐのは若者である。それはその地域をになう意気込みを示すものである。でも現実はみんな会社員なのだから地域の一員という感覚が今では希薄なのである。だから実際に雲雀が原の本陣山を神輿を担いでのぼるのは氏子ではなく会社員に頼んでいるのである。そういう時代に現実になっているのである。
posted by 老鶯 at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

鹿島駅のトイレは市で作り運営していた (駅には常に点検とか修理とか見に来る人がいる)


鹿島駅のトイレは市で作り運営していた

(駅には常に点検とか修理とか見に来る人がいる)

toilettttt1.jpg

今日もいわき市の方からユニオンが来ていた,ここは前にも来ていた
盲人用のプロックが壊れていたので直していた
そこは改札口から離れている,一人盲人が通っているがそこまではこない,改札口くらすぐに乗るからだ

それからまた隣の原町駅の人がスプレーで蜘蛛の巣のあったところに吹きかけた
蜘蛛が来ないようにした,あとはポスターをはりかえた
時刻表はもうなくなっていた

駅前のトイレは市で作ったものだった,あそこのトイレは立派なのである。
掃除は近くの身障者の団体の「あさがお」の人たちが掃除している
市の方で金を払って頼んでいるのである。
要するに市の税金で維持しているのである。
建てたのも税金だし掃除して維持管理しているのも市だったのである。

誰かがあそこはJRで作ったものであさがおに掃除を頼んでいると自分は聞いた
だからてっきりJRで作り掃除も頼んでいるのかと思った
この間違いは大きな間違いだった
知らないのにそういう人がいてっきり自分もそう思っていたのである。

あそこは外から車で来る人も利用しているし農協の人も利用している
市で作ったものなら市民も外部の人も利用できる
公園のトイレのようなものになる,あそこのトイレは身障用もあるからいい
何か身障用のは広いのである。
隣の健常者用のトイレは狭いし窮屈なのである。
それは身障用は車椅子で入るから広くしている
ただあそこは別に健常者も使っている

ただ手を触れると押すとドアは開かないのである。
外から来た人はそれがわからない
外からはじめてくる人は無人駅だとわからないことがある
確かに無人駅でもわかるようにしてはいるがそれでもわかりにくくなる

そこに駅員がいれば聞けばわかる,それができないので困ることがある
だから無人駅は問題がある,鹿島駅はそれなりに乗り降りがあるからだ
新地駅より乗客数は多い,新地駅は無人駅になっていない
駅は新しくなりエレベーターもあるし冷房付きの待合室になった
駅前は広く駐車場や乗り場がもうけられた
これは津浪で流されたがかえって前より良くなったのである。

ともかく何か一つの駅でも知ることは蒸すかしいと思った
あそこのトイレが市で作り運営しているとは思わなかったからである。
それは誰かがそう言ったのをそのまま信じていたのである。
こういうことは人間にある
知らないのに適当に言う人が結構いるからだ
だからそれを鵜呑みにしないでJRであれ市の方に聞けばよかった
でもそんなことで嘘を言うとは思わなかった
嘘というよりそう言った人は確認もないのに言っていたのである。

情報は身近でもこういうことがある
噂話なんかそうである。そういうものでも信じる
そして嘘が広まってしまう
そこに悪意がなくてもそうなるのである。

今日市の方に聞いたら地域振興課とか産業企画課とかなんとかで扱うと言っていた
別に苦情ではない,そこまでは必要ないだろう。
ただ身障用トイレの開け方が問題なだけである。
これも別にそれほどの問題でもない
ただ現代はほとんど使わない盲人用のブロックとか身障用のトイレを整備するから金がかかる,それも法律で決まっている,そういう点でも福祉には金がかかる世の中になっている。それで反発する人もいるのもわかる
あそこの身障者用トイレを利用する人を見たことがないからである。
盲人は一人駅を利用してもこれだってこの辺ではほとんど利用しないのてある。

いづれにしろ駅は維持するのに手間もかかるし金もかかる
しょっちゅう来てみる人がいるからだ,管理するのに手間暇がかかり金もかかるのである第一ホーム自体広いから雪などふると雪かきだけでも大変になる
ここては雪は降らないからいいけど雪がふる駅では雪かきだけでも負担になる

いづれにしろ無人駅には問題がある,でもJRでは金をかけたくないから自動化して無人駅をふやしてゆく,収入がないのだからそうならざるをえないのである。
ただ鉄道や駅はJRだけがかかわるものではない,今回のように市でトイレを作り掃除を頼みそこが街の中心,ランドマークの役割を果たしている
街にはランドマークが必要だと訴えている人もいるのもわかった
つまり街には中心となるものが必要なのである。

それが駅となりトイレも利用するとなっていたのである。
駅は街の案内する場である,駅の場所がわかりやすいからである。
商工会が近くにあり観光案内していても場所がわかりにくいのである。
観光案内は駅が一番いいのである。ただ商工会は駅のすぐ近くにある
でも駅の方がいいのである。

2017年08月02日

駅のトイレから考える福祉の問題


駅のトイレから考える福祉の問題


鹿島駅の市で作ったトイレは立派である。特に身障者用のトイレは広いしきれいになっている,車椅子で入れるようになっているから広いのである。
一方隣の男女用のトイレは狭い,窮屈なのである。
でも車椅子で利用した人を駅にいて見たことがないのである。
ただそこは別に身障者でなくても利用できる,でも身障者用より健常者用を使っているみたいだ

盲人用の黄色のブロックを駅で直していた,そこはほとんど一人通っている盲人でも利用しない,第一駅の渡りの通路は階段が上り下りあるのだから使えない,危険である。
誰かが導かない限り使えない,そもそもそんなに黄色のブロックが必要なのかという疑問がある,通っている盲人も車で送り迎えさせられている
ただ乗る時は本当に危険である。他では死んだ人もいた
だから盲人団体では駅の無人化に反対している
実際に駅に通っている盲人が隣の原町駅の駅員を呼び出していたことでもわかる
盲人自身が危険を感じているからである。
駅員が常駐していれば安全であることは確かである。

でも何かトイレから福祉を考えると一度も車椅子で利用したこともない身障者用が広くとってあって健常者が狭く窮屈になっているというのも変だなととも思う
それは法律的に決まっているしそういうふうに社会がなったのだから仕方がないともなる
でも現代は福祉が弱者に対してあまりにも過剰化したのかもしれない
その不満が底辺にあること確かである。
要するに何か弱者化して集団化するとそれにたてつくことはできない
それで言葉狩りが生れた,盲人団体ならその団体から苦言がくる,だから何も言うこともできなくなる
カルト宗教団体でもそうである。団体組織化するとそれが権力化するから何も言えなくなる

原発避難者でも特権化したことがあった,いたりつくせりの補償があり金が支払われた
かわいそうな被害者だとなると特権化した,それが必要でも過剰化していたのではないか?
津浪の被害者と原発避難者はまた違っていた
でもこの辺でももめたけど自分もその時自分の病気とか介護で苦しんでいたけど普通なら個々人のことなど何があろうとほうっておかれるだけであてる。かえって弱者化したら金をとることしか考えない非情な人達しか来なかった
それは津浪でも原発避難者にもあった,火事場泥棒のようなことが実際にあったからである。
ただ一般的に手厚い援助があった,でももしそのことに文句を言うとものすごい反発があったのである。
現代は弱者でも集団化すると特権化するのである。

なぜこれを問題にしたかというと別に盲人のことではない,何か社会に本当はそうした不満が鬱屈しているのだ。それで障害者の大量殺人した人に共感する人さえでてきている
要するにその負担が社会で大きくなりすぎたからではないか?
健常者がかえって障害者より窮屈にしている,障害者のご機嫌をうかかって小さくなっている,そういう不満が鬱屈してそうなっている

自分が言いたいことはそれは老人に対してこそ一番不満が鬱屈している
福祉の費用が膨大化しているからだ,もう国がつぶれるという過剰な福祉の限界が来ている,そうなると自分も老人だからいいにくいとなる
それは結局自分自身が障害者側にたっているからだ
だから身障者のトイレがどうだこうだとは言えない立場なのである。
誰でも自分の損するようなことは言わない,そして老人が多いから圧力になる
障害者は全体からすれば数が少ない,だからそれほどの圧力にはならないのかもしれない老人は確実に票をもち政治を左右している,それは自分でも自分に不利なこと損なことはしないからである。そういう利己的なのが人間である。
いくらきれいごとを言ってもそうなのである。

ただ豊かな時代であれば福祉も手厚しても良かった,余裕があったからである。
それが社会になくなるとやはり福祉は厳しくなる
第一健常者の方が窮屈なトイレになるということがどうしてだともなるからだ
健常者が遠慮して生活しなければならないことの不満が大きくなる
別にそれは冷たいともいえない,なぜなら健常者の生活があって障害者の生活も成り立っているからである。福祉は必要でも過剰な福祉が限界になっている

それは医療でも延命治療はもうできないとかあまりにもそのコストが大きすぎるからだ。
ただ老人の場合は数が多いからいくら政治でどうにかしようとしても民主主義は数だから数できまるから矛盾が生れている
ともかく老人は老人で自己利益優先するから福祉のサービスを減らされることには抵抗する,でも限界にもなっている
鉄道を維持するにも金がかかる,それは福祉ではないのである。
収入がなければ無人駅にもするしサービスも減らされる
それはどうしようもないのである。
ただ駅は街全体が自治体がかかわっているからJRだけの問題ではなく市民全体の問題なのである。

駅からいろいろなことが見えてくる場だった,そこは鉄道だけではない,街全体とか外部でもかかわる場だったからである。そこから社会が見えてくる場でもあったのである。
それは世代を越えてかかわる場でもあった
必ず孫とか娘とか息子でも迎えに来たり見送りに来る場でもあるからだ
まず自分は駅をこんなふうに見たことがないのである。
ただ切符を買って電車に乗るということしかない
駅がどうして維持されているのかなど見ていなかったのである。

だから人間の問題はサービスする側にならないとわからないことが多い
サービスして働く側になると見えてくるものがある。
それはどこでもそうである,だからサービスする側にたたないと社会性が養われない
金持ちでサービスばかりされていたら社会のことがわからなくなるのである
それで退職した人がボランティアに精出すことがわかる
サービスするよりもサービスする側の方が社会を実際は生きているからである
そこに充実感がある,生きがいがあるとなるからだ
親の気持ちがわかるのには子供を育ててみないとわからないということがあるのと同じである。

ただキャリーバッグとか通路を運ぶのは無料ではやる気がしない,有料でもやる気がしない,荷物が重いし階段を上り下りするのが結構な労働になるからだ
乳母車をもちあげて来る女性もいた,だからエレベーターが必要なのだかそれも金がかかるからできない,JRではコストを減らすことをしているからだ
ただ新地とか山下駅は津浪があってエレベーターまでつくようになったのである。
それで良くこの辺に小高の人の引っ越しを手伝いにボランティアに来た人がいた
それは結構な労働であり力仕事なのである。それを74才の人がしていたのである。
自分だったらしない,そこまでやる力もないからだ
そこにボランティアの限界があるともなる

タグ:過剰な福祉

蝉の声(はらまちユッサに行く) (話しかけることは心にかけること)


蝉の声(はらまちユッサに行く)

(話しかけることは心にかけること)

yussa11122233.jpg

一の旗使いの走る朝の蝉

原町になお巣を作る夏燕

合歓の花月のほのかに夕べかな


五六つ庭に石かな蝉の声ここにひびきつ夕暮れぬかも

のうぜんの熱くもも散りてそのうあとに鬼百合咲きて燃えにけるかな

藪甘草咲きにしあとに月見草さきてあわれも月のいずかな



話かけることは心をかけること」

ユッサの玄関にあったこの言葉は面白い,なぜこの言葉がいいと感じたのか?
それは駅で常に自分は話しかけるようになったからである。
駅だけではない,自分は何か一人になってから人に話しかけるようになった
家族がいるときは人に話しかけたりしない,家族がいたから淋しいということはなかったでも家族がいなくなると家でも一人でがらんとしている
それで家にいたくなくなり外に出る,そして話しかける
そればこでもいいということはない,話しかける場所がある
駅とかユッサとかくつろいでいるから話しかけやすいことがあった
でも誰でも話しかけることはできない,嫌がる人がいるし話たくない人もいるし
怒る人もいるからだ:その辺のタイミングとかがむずかしい

今日は山形の人であり山形では雪かきなどが大変だと言っていた,山形は相当雪が降るところだった,それは春になっても山形に入る面白山トンネルをぬけるといつも山に雪が残っているからやはり雪がふる場だった
それから盆地のようになっているから夏は暑いと言っていた。
ただこのユッサは七五〇円とか湯でとるのは高いと言ったら山形では温泉がどこにでもあり三〇〇円くらいで入れると言っていた
この辺は温泉はないからここは一応温泉だから高いのかもと答えた
この辺では温泉は貴重なのである。

山形でも前から常に言っているように地理がわからないと話が合わせられないのである。全国を隈なく自分は行っているから外部の人とと話を合わせられる,外部の人と話すときはまず地理を知らないとできないのである。

今日はユッサは野馬追いも終わり休みでもないのですいていた,あそこに食堂があり日替わりで出しているしオカズも出しているからいい,オカズの手作りがあるから自分にとってはいい,まずオカスが一人で作るのがめんどうだしまずいのである。
外の料理の方がうまいのである。ただ最近暑くて行けなかった
車がないから暑いと行けない,今日は秋のように涼しいから行けた

ともかく「話かけることは心をかけること」それは自分のことを思うときぴったりだった
人間が話かけるときは心をかけるのである,ただ単に話かける,機械とは違う,相手のことを察して心にかけて話するのである。
つまり人間が話かけることは相手のことを気にかけて思って話するのである。
話しかけることは単に話すのではない,人間の場合は心を通いあわすことなのである。
それは二言三言でもそうかもしれない,そで触れ合うも他生の縁となるの話しかけることなのである。
ただ話しかけられることを嫌う人がいる,それは自分もそうだったが駅でも話かけるのは何か役に立ちたいと思ってしているだけなのである。
別にプライバシーがあるから答えなくてもいい,第一あまり普通駅など話しかけない
大きな駅だったらそうなる,田舎の小さな駅だからこんなことができている
だから小さいことは人間的になるのである。

ただ日立木駅とか本当に一人くらいしかのりおりがない,まず外部から来る人かない
そうなると話しかける人もいないとなる
そういう駅も淋しいとなる,あそこは自転車でそう遠くはないから食事するにはいい
オカズが日替わりで変わっているからである。
水曜日はテンプラのあげたてを安く一五〇円でサービスしている
あれは本当にサービスとしてしているのである。
だから今日は得したとなる

野馬追いは終わった,原町で燕がなお巣を作っていたのも原町にふさわしいと思った
原町は街としてもともと大きいからなお燕が巣作りしている,それは人が多いから
何か大きな街だとふさわしい,まだ燕は巣を作っている,燕はまだ増えるとなる

藪甘草のあとは月見草がしっとりと咲き月がでていたのもふさわしい
なんか今日はすでに秋めいていた

2017年08月03日

原初の山々(mountains in the beginning)


原初の山々(mountains in the beginning)


valconoo1.jpg

susemmmmmred1.jpg

coolandhot1.jpg

water and fire cool and hot

mountainwater111.jpg
rockmoon1.jpg

moon and cliff



mmmbbbbmm123.jpg
mmmmmbbb1111.jpg



 私の抽象画はソフトの操作による偶然の結果なのである。
 だから何が生れるかわからないのである。
 こんなものが生れたなと自分で驚いているのである。
 その元はインターネット上にいくらでもある
 その種が尽きないからいくらでもできるとなる


 My abstract picture is an accidental result by the operation of the software.
 Therefore I do not know what is created
When l such thing was born, I am surprised at oneself.
 When it is possible as many as one likes because the cause does not run out of the kind that is how much on the Internet, it is

月見草(霧雨にぬれて咲く)


月見草(霧雨にぬれて咲く)


tukimisouuuu123.jpg

霧雨や夕暮れの道月見草

霧雨やしとやかに咲く月見草

藪甘草咲きにしあとに月見草

数人の行き来す道や月見草


お伝えしたように月見草は、夕方から徐々に花が開き始めて夜になる頃には全開で咲き誇ります。
このように夜に開花することが由来となり、「月見草」と名付けられました。

月見草は夜開くから月見草になった,夜に月を見ている花となる
普通に見るのは待宵草である。宵を待つようにして咲くとあるからやはりにている
でもこの花は開いているのを見るより群生しているのを見る
田舎だと群生している,特にこの辺は荒地が増えた結果待宵草が一面に咲く

いつも行く道には最初藪甘草が咲いていた,次にしっとりと月見草が咲いた
この順序がいい,最初に赤い藪甘草が咲く,人生では青春は赤である
だんだん年取るとしっとりした月見草がふさわしいとなる

月見草には霧雨があっていた,今日は霧雨だった,日本では雨の種類も多い,
小雨となれば霧雨とは違う,霧雨はしっとりとぬれる
ふっているのかふっていないのかもわからない,音はしない,何かそれが待宵草,月見草にふさわしい

人間の性質にはいろいろある,激情的な人もいるしおとなしいおだやかな人もいる
激情的な熱情的な外交的な人は鬼百合とかにふさわしい,月見草の性格はおとなしく穏やかである。自分の母親はそうだった,だから自分も性格的にはそうである。

日本語のしとやかにというのがぴったりなのである。人間の性格はやはり親から受け継がれるのだろう。月見草の花言葉が無言の恋とかなっているのもそうである。
母も無口でありおとなしい性格である。自分も何かにている
じっとしていてあまり人とは接したくない,これは猫ににている,猫の性分があるとなる
田舎の道は数人しか歩まない道がいくらでもある,ほとんどそうかもしれない,今は車だから余計に歩く人を見ないのである。車には情緒がないのである。
そうしてただ歩いていることに情緒が生れているのも不思議なのである。
人間はそもそも歩くことで自然と一体となることがあったからだろう
それで浮世絵は歩くことで情緒をかもしだしているのである。

この辺は震災以後混乱状態になったけどそれまではどこにでもある静かな田舎だったのである。それは一身上でも介護や自らの病気などで乱されてしまった
後は静かに穏やかに過ごして死んでゆきたいというのが願いとなる


タグ:霧雨 月見草

2017年08月04日

秘境駅の詩(秘境駅は行くのが大変だ)


秘境駅の詩(秘境駅は行くのが大変だ)


秘境駅(詩)

その駅はどこにあるのか
そんなところをまだ電車が走っているのか
暗いトンネルをぬけると
駅舎もない駅がある
そんな駅から誰が乗るのか?
家があるのか
一体電車は来るのか?
待っても待っても来ない
忘れられたような駅
誰を一体乗せるのか?
まさか幽霊なのか?
誰も乗らない駅なら
それもありうる
何か草むらにひっそりと花が咲いている
一両の電車が来て去る
誰が乗っているのか?
電車は暗いトンネルぬけて遠くへ去ってゆく


秘境駅とは

列車到達難易度 は、列車本数が少なく、普通列車でも停車が少ない場合に高いポイントを得ます。

外部到達難易度は、駅までの道が無い、登山道、未舗装路など、外部からのアクセスが困難な場合に高いポイントを得ます


宗谷本線に多いことはわかる,そういう駅におりたことがあるからだ
常磐線とか東北本線とかにはない,秘境駅はあるようでないかもしれない
常磐線は一時間おきにでているから秘境駅はないことになる
でも人が一人しかのりおりないとかなる無人駅は結構ある
日立木駅などがそうである。でもこれは秘境駅ではない

秘境駅にはなかなか行けない,そこに行っても何時間も待たないと電車が来なくなる
すると相当暇な人しか行けないとなる,かつで自分は暇でそういう秘境駅におりたことがあった,小海線の山間の無人駅である。そこには郭公の声だけが木霊していた
駅の前には二三軒家があった,あんなとこに駅があること自体不思議だった
ただそういう駅にはなかなか下りることができない,帰りが何時間も待つことになるからだ。現代人は待つことが苦手になっているのだ

東京とかなる二三分おきに電車がでる,常磐線でもこの辺だと必ず待つ時間が生れる
その待つ時間が何か人間的な時間を生み出していた,話する時間が生れていたのである。普通駅では話などしない,ただ人が行き来するだけのものだと思っていた。
駅のボランティアをしていていろいな人が行き交う場所が駅だとわかった
ただ鹿島駅は無人駅でもそれなりに人が乗り降りしている
仙台と東京からも結構来ている
常磐線には秘境駅はない,末続駅がもしかしたら秘境駅ににている
崖があり海がのぞけるが山深い感じになるからだ
常磐線でも原町からいわき市の間はたいがい二両であり行き来が少ない
乗客も少ないのである。

ただ秘境駅となるともっと淋しい駅である。本当に電車が来るのかという感覚の駅であるだから全国でも少ないのである。自分も全国を電車で隈なく旅しても秘境駅には三つくらいしか行っていないのである。
奥羽本線の峠駅がそうなのか?あそこは新幹線も走っている,ただ回りをみれば警告がありそういう雰囲気がある,北海道が一番多いことは確かである。
もう廃線寸前の線があり駅が多いからだ,本州になると秘境駅となるとなかなかないだろう。

ともかく鉄道の旅が長いから鉄道にはいろいろ興味がある。ただ駅のボランティアを駅員のようなまねごとをしてみたことで鉄道とか駅とかの理解を深めた
鉄道とか駅を維持すること自体が結構手間とか金もかかるものだったのである。
そういう裏方の労働があって成り立っていたのである。
例えば待合室のホームの椅子があるがそこが蜘蛛の糞とかで汚れていて掃除していた
そんなことがあったのかとなる,掃除する人がいてその椅子がきれいになって利用できていたのである。ただそこまで駅を鉄道を利用する人は思わないのである。
自分でもそんなこと微塵も思わなかった,他でも何かサービスを受けるときはそうして働いている人がいるのである。
ただそれがそうして裏方でも働いてみないとわからないのである。
タグ:秘境駅

JR無人化基準は、1日の利用者が700人。  (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


 JR無人化基準は、1日の利用者が700人。


 (この基準だと相馬市とか原町,亘理以外は無人駅になる)


   鹿島駅
kshimaeki111.JPG

この数字は2017年度は6年ぶりに常磐線が開通したので変わっている
2017年度の乗客数はかなり増えているようだ
なぜなら3倍に増えたと言っていたからである。
ただ震災前から乗客数は減っていたのである。

JR九州や北海道では、無人駅を大量創出することを決定している。九州では大幅に安価となったセキュリティドアが開発され、採用も決定している。
一方で、JRのホームから転落する事故も相次いでいる。上場したJR九州では、利益最優先政策から、現在の駅数566駅のうち、既に無人駅が281駅に達しており、さらに今後、最大で100駅弱も無人化する計画を有している。

国交省は14日、JR京浜東北線の蕨駅で、盲導犬を連れた男性がホームから転落し、電車と接触して死亡した事故を受け、鉄道各社に対し、1人でいる視覚障害者を見かけた際は声をかけることを駅員に徹底するよう指示する方針


JR九州

筑豊線7駅無人化 反対要望書提出へ 14日に直方市と鞍手町 /福岡


別の無人駅では、外国人が券売機の前で困っていました。片言英語で声をかけると、500円玉入れて290円のボタンおしても切符が出てこないようです。画面をよく見ると、10円が釣銭切れのようです。幸い私の財布に小銭が多く入っていたので、両替してあげたのですが、

名鉄瀬戸線を使っている友人は、向かいに座った客がおう吐したので車掌を呼んだところ、すぐ汚物を片付けたことや、その道具を持っていたことに驚いていました。
また、急病人発生で無人の清水駅に臨時停車して、駅員もいない中運転士と車掌で救急隊まで引き継いだことに対し、乗務員の対応に感心するとともに、もっとひどい心臓発作とかだったらどうするのか、

年配の方など、機械に弱い人にとって、券売機の操作が分からなければ、使いにくい鉄道になります。私のように機械の不備で待たされるような場合も同様です。ましてや国際化、高齢化が進む中、ソフト面のサービスも重要と考えます。

鉄道会社はワンマンや無人化で取りこぼす運賃よりも、人件費の方が高いのは分かってますからね

筑豊本線の無人化に反対するよりも、北九州市や自治会などで簡易委託駅として維持管理する方向に努力はできないんだろうか?
JR九州の駅員配置駅でも業務委託駅は多く、むしろ直営駅(その鉄道会社の従業員が駅員であるところ)は少ないでしょう。

一応の基準は、一日あたりの利用客数が700人以下であるということです


福岡)駅無人化計画に反対 視覚障害者ら1万人超の署名

nomanss1.JPG


あすからJR吾妻線 2駅を無人化 利用者から不満の声 
更新日時:2017年3月31日(金)

昨年度の1日平均の乗車数は群馬原町が488人、万座・鹿沢口が205人で、記録が残る2000年度の3、4割程度。無人化は「駅の利用状況などを総合的に判断した」(同支社)という。 

美幌駅を無人化とする計画の撤回を求めた要望(北海道)

どの程度利用者数に減ると無人駅になるのか?
という点である。これまで散々、利用者数などの数値を出してきたが
利用者数だけでは無人駅化する、しないの目安にはならないのではないかと思う。
なぜなら、これらの駅よりも利用者が少ないのに有人の駅も日本中、あちこちにあるからである。
逆に、なぜ利用者が少ない駅なのに有人駅が存在するのか?


100段近い階段のある福吉駅は、無人になったら高齢者や障がい者は乗り降りできず、観光や親せきも来られなくなる。
 対応は?

福吉駅と一貴山駅の無人化   中止して下さい!


車イス等は、(乗る時も降りる時も)深江駅に連絡あれば、係員が出向いて対応する。
 車イス利用者には、JRが説明をする。

九州が無人駅化を押し進めている,その数も200以上とか多い,もうローカル線を維持できない状態になっているだろう。危機的状態なのかもしれない。
ワンマン化も進んでいる,そこでも車内で突然の自己とか事件があって困った
無人化は何か突然の事故の時に対応できない,人がいないのだから安全がない
確かに自動化の技術は進んでいるが安全が計れない

鹿島駅が自動化したことで乗車証明書をとることが意外とわからない,外から来た人はわからない。自動化しても何か必ずわからないことがあり駅員がいれば聞きたいことがある盲人の問題もある。一人の盲人が通っているが前は隣の駅員を呼んでいた,危険を感じていた,今日は補佐したら別にいいという,何か遠慮を感じたのと障害者でも自力でしたいということがあのかもしれない,自分は駅員でないから遠慮するということもある
駅員だったらこき使ういうことがある。ボランティアだと遠慮することがある
ボランティアと何かあいまいな存在なのである。
善意でやるのはいいがサービスを受ける方は嫌がることもある

いづれにしろ無人化に反対するのは全国的にある。それがインターネットでわかった
こういうときインターネットが力を発揮する
相互にリンクすれば無人駅化反対の運動が全国的に拡大するということがある。
ただその解決方法は自治体がかかわるべきだとも言う
つまりそれは市町村の問題でありJRだけの問題としては解決しないからである。

ただ一日平均の乗客数が700人以下が無人化の対象になるとき相当に厳しい
JR九州だと半分が無人化する,常磐線でも相馬市と原町と亘理をのぞいて無人化してしまうのである。それだけローカル線の状況は厳しいのである。
そういうことを市町村でみんな自覚している人は少ない
みんな車を利用しているから鉄道のことに関心をもたないからである。
それでますますJRでも無人化をすすめることになる
市町村の問題として問題意識をもつ人も少ないからますます無人化が増えるし
鉄道はこれからも危機的状態が加速してくる
ただ高齢化社会で高齢者が車に乗れなくなるとき鉄道が見直されるかもしれない
それより少子高齢化で人口が全国的に減るときもうローカル線はどこも維持できなくなる廃線になると予測している,インフラの整備に手間も金もかかるからである。

業務委託駅とかにして無人化を防ぐということはありその方向に向かうのか?
これもやはり住民が要望したり自治体がかかわらないとやはり無人化はすすむ
JRだけにまかせていればそうならざるをえないのである。
タグ:無人駅反対

2017年08月05日

福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


福島県は地理的に隔絶されて一体感がもてない


昨日は仕事できた郡山市の人が駅にいた,車を運んできたらしい,帰りは電車で岩沼を回り帰るという,そうなると結構遠い,直通だから途中乗り継ぎがないからいい
あとは墓参りにきた福島市のばあちゃんだった,墓参りに来る人は増える
お盆だから増える

駅には人の流れがある,郡山市は30万都市で福島県では一番大きい,だからここから仕事に来る人は多い,福島市はそれほどでもないのは県庁があり公務員の市だからとなる
経済活動を一番しているのは郡山市である。
だから郡山市を県庁にするということでもめている

福島県は大きすぎる,だから実際はいわき地域と郡山地域とか福島市地域とか会津とか相馬地域とかに別れいてる,郡山市と福島市は交通の便がいいからつながる
でも福島市は仙台福島区とか言われるのは新幹線で20分くらいで行き来できるからである交通の便がいいからそうなった。

相馬地方は仙台とのつながり深い,高速でもつながったからますますつながりが深くなる電車でも仙台を行き来する人が一番多いのである。
仙台の方の人と結婚する人も多いのである。仙台市相馬区のようにもなる

ただもし福島市と鉄道ができて30分くらいで結ばれれば福島市も近くなるのである。
会津でもそうである,交通の便が悪いから交流がないのである。
新幹線のようなもので結ばれたらそうした地理的障壁はなくなるのである。

郡山市が発展したのは原野であり何もないところから発展した,安積疎水で猪苗代湖の水を利用した結果として発展した,三春の方が城があるから古いのである。
でも三春は山の中であり発展しなかった。二本松は中世の山城から発展した。
ただ平地があるのは福島市と郡山市と会津若松市である。
やは明治以降は平地があると発展しやすいとなる

福島県は地理的に統一感がない,地理的一体感がないのである。
浜通りと中通りは阿武隈高原でさえぎられていて障壁となり遠い感覚になる
中通りと会津はやはり遠い感じになる
前にも書いたけど廃藩置県は地理とか歴史とかを無視して無理やり作られたことでそうなったのである。

だからそもそも福島県のアイディンティティなど作り得ようがないのである。
会津なら会津のアイディンティティは地理的歴史的に作りやすい
福島県になると作りえようがないのである。

福島県の地理は本当に複雑である,会津などで山が多くて深いからそこを知るだけで容易ではないとなる,そこに魅力もあるのだが福島県は地理的歴史的に一体化することは無理になる,福島県の特徴は地理的に断絶された県だとなる
例えば山形県だと最上川で一体感をもてるかもしれない,ドイツのライン川が父なる川としたように地理的に川で結ばれて歴史も作られてきたからそうなる

福島県に阿武隈川があったとしても確かに郡山市から福島市から宮城県の亘理まで流れている,その川から一体感を感じるということもない,相馬地方とは関係ないからである。会津磐梯山が福島県の象徴的山のように見えても相馬地方からは全く見えない
むしろ霊山からは吾妻山が見えるから吾妻山の方が親しいとはなる

会津県とか二本松県とか磐城県とかになる構想があったがその方がわかりやかったとなるでもそうなると磐城太田駅があるように磐城として相馬地方は組み入れられる
相馬だけでは小さいからそうなる
相馬地域は独自性を保てないとなる,何か仙台市相馬区であり磐城相馬区とかなってしまう,相馬地域が何かそうした中途半端な地域なのである。
ただ相馬藩としてあるときそれはそれで独自性を保っていた歴史があったのである。

ただ原発事故で相馬藩だった所が一番被害を受けたから全体的に縮小した。
そして衝撃的なのは少子高齢化で将来を見ると阿武隈高原地帯には人がいなくなる
今も飯館村などでも原発事故で極端に人口減少が起きているが別に原発事故がなくても
将来的に阿武隈高原地帯には人が住めなくなるような状態になることが予想されていたのである。

津浪とか原発事故はここだけではない,何か日本の将来を先取りした地域になったのである。三陸でも高齢化であり漁業だけではやっていけないとかなっていたのである。
後継者もいないとかなっていた,だからそんなところに今さら金をつぎこんでも無駄だと官僚が本音を言ったのである。じじばばしかいなところに金をつぎこんでも無駄だと本音を言ったのである。それはこの辺でも原発避難区域になった所に言える
じじばばしか残らない地域で復興できるのかとなったからだ
そこはうば捨て山になってしまう

自分としては村々が広範囲にありその地域独自の生活をしているとき魅力を感じる
でも今やインフラの維持に都市部の180倍もかかるとかなると無理になる
昔の自給自足だったらいいがそれだけ金がかかるから税金がかかるからその税金が地方交付税とかで東京都民でも払うから不満になってくるのである。
炭焼きしていたような時は違っていた,自分の生活を自分の村でまかなっていたから都会とは関係なかったからである。

そうなるとコンパクトシウティとかコンパクトタウンとかコンパクトビレッジにするほかないとなる,もう原発避難区域になった所はそうなっている
街から離れた周辺部には住めない,それは小高でも浪江でもそうである。
飯館村でもそうである。蕨平などは40軒あっても一軒しか帰らないとか周辺部にはもう人が住めないのである。

福祉でも医療でそういう広い地域は一軒一軒回るだけでも手間なのである。
人が集まり住んでいると回るのも楽だから医療でも福祉でもサービスをする側にとってはその方が手間も金もかからない,少ない人員でやれる
そして人手不足になっているからコンパクト化が必要になっているのである。

mujyuuka1.JPG
20150年には阿武隈山地には人が住まなくなる
元の森林にもどってしまう

日本ではこの辺でもそうだが原野化するとそこに木が生えて森林化する


阿武隈山地の影(詩) (行政区域としての廃藩置県には無理があった)


阿武隈山地の影(詩)

(行政区域としての廃藩置県には無理があった)
abukumaaaaaa11.jpg

海があり森があり飯館の阿武隈高原がありかなたに
吾妻連邦が見える




阿武隈山地の影が覆っている
常に阿武隈高原がさえぎる
水鏡の峠を越えれば
安達太良山を望む
川俣はまた別な世界
いわきは東京に近い
通勤列車が東京へ出ている
いわきから複線になっている
相馬地域は仙台圏なのか
常に阿武隈高原地帯がさえぎる
その影が覆っている
中通りは遠い
その地理的障壁は消えることがない
人の心はその地理の中に閉ざされる
浜通りは常に海からの風が吹く
その風が開放的にする
しかし海は津浪のように恐怖をもたらした
阿武隈山地に閉ざされて
海は恐怖をもたらし閉ざされる
人間の運命は自然によって
あらかじめこ定められている
その定めを越えることはできない
その地の宿命の中に生きる

地理というのがいかに人間に影響するかである。人間は地理によって作られるのである。その地理の定めを越えることはできない
福島県は阿武隈山地で浜通りと中通りが分断されて中通りと会津も分断されている
そういう地理的宿命は帰ることができないのである。

人間の心もそうした地理や風土によって作られてゆくのである。
阿武隈川山地の不思議は日本列島が大陸から分離して形成される途上で古くから存在していた,古い山脈なのである。地層が相当に古いのである。
だから地盤が安定しているから飯館村に核廃棄物をの貯蔵庫を地下深く作るとかの意見も出たのである。

浜通りにとってこの阿武隈山脈の影響は相当に大きい
物心両面でさえぎられてしまう,その影が大きくのしかかってくるのである。
なぜ地理がこれほど影響するかというとやはりそこに住み生活していれば地理の影響を一番受けるからである。

日本は結局山国だからどうしても山にさえぎられる,その山の中に閉ざされる傾向が強いそういう地理である。どこまでも広がる大陸的平地はない,必ず山でさえぎられるのである。だから日本という国は本来は意思疎通がむかしい国である。
父なるラインとかドイツのように国土を象徴してまとめるようなものがないのである。

福島県でも広いから新潟県がどこなのかという話題になった
越の国の範囲となるが東北だという意見もある
どうもその新潟が相馬地域ににているのだ

東北開発促進法の中では東北地方の定義として「青森県、岩手県、宮城県、秋田県、山形県、福島県及び新潟県の区域」と記されている。

福島県と新潟県が一体化してとらえている,相馬地域も福島県でもあり仙台圏の中にも現代では入っているから中途半端な地域だともなる
新潟県は会津地域にも入る,すると東北なのかともなる
結局は北陸となると富山県が中心でありその富山県は越の国であり大伴家持が古代に赴任してたように奈良か京都を向いている,さらに大阪を向いている
新潟県が向いているのは関東でり東京だとなる,それは福島県ににているのだ
つまりどっちつかずの地域になっているのである。

ただ米沢市は上杉家の藩であり上杉謙信の領地としてあった
それで今の玉野村で丸森の森の木材資源をめぐって伊達藩と上杉藩と相馬藩が三つ巴で争ったのである。だから上杉謙信から歴史的に越の国の影響も及んでいたともなる

ともかく廃藩置県は地理を無視したものであり歴史も無視したからそこで何か一体感をもてないものにしたのである。
会津と新潟は一体の県とした方がわかりやすかったかもしれないのである。
そういうことはいくらでもあるのだ
相馬地域が福島県になるのも何か不似合いだった,そういうことは全国でいくらでもありそれでいろいろもめてもいるのである。
行政区域と地理とか歴史とか風土の区分けは別物なのである。
行政区域としての廃藩置県が地理的歴史的文化的風土的区域化したものとは別物である。明治維新からの廃藩置県はそこで無理があったのである。
それは行政区域としての県という単位であったからである。

2017年08月06日

津浪の原発事故の後の生態系の変化 (チョウトンボを見た)


津浪の原発事故の後の生態系の変化


(チョウトンボを見た)


チョウトンボは今まで見ていない,津浪が起きてまもなくチョウトンボを見た,それはどこから飛んで来たのか?
山元町の海岸地帯に湿地帯が残っていてそこに貴重なトンボが生息していた
その辺から飛んできたのか?この辺では今までみかけたことがない
一時異常に蝶が一面に津浪の跡の原っぱを埋めつくすように集まった
あの現象はなんであったのか?
塩分が多くなってあんなに集まったのだろうか?

今日チョウトンボをみかけたのは六号線から塩崎の方に行く道である。
一瞬見た,津浪が起こったときから見ていない,とするとこの辺に生息しているのか?
今年は長か少ない,キャベツ畑が減っているからだとも言う
アゲハチョウも少ない,ただ海老の所の湿地化したところで赤とんぼが一杯飛んでいた
赤とんぼが群生して飛んでいるのも最近みかけなかった
トンボは沼地があると繁殖しやすい
一時津浪の跡に沼地化して糸トンボなどが繁殖した
でも今は埋め立てられから沼地は消えてイトトンボもみかけない

何か魚釣りの餌をとるために網で堀りをすくっている人がいた
何にもいないと言っていたが堀といっても下も両側もコンクリート化していれば生物は棲めないだろう,みんなコンクリートの堀にしたからメダカもドジョウも生物が棲めないのである。

鷺はもどってきている,蛙も田んぼに盛んに鳴いた,その時復興を感じたのである。
田んぼは生態系としてありそこで生物が生きていて鷺などの鳴き餌にもなっていた
原野化したときはノスリが集まった,原野にカヤネズミなどが増えたのたろう。
しかし人間の肉眼では見えない,ノスリには見えるのだろう。

ともかく蝶はへった,前は小さい蝶でも揚羽類でももっといた。今はたまにしかみかけない,ただ森とか山の方にはまだみかける,放射能の影響などはわからない。

人間は今高度に文明化して生態系を意識しないで生活している
エネルギーが石油とか原子力になると今生活している生態系とは関係なくなる
石油をとりにゆくのは中東であり日本の地元とは関係ないのである。
そのために中東の紛争にもまきこまれる

江戸時代から戦後十年は自給自足の生活がつづいていたのである。
エネルギーは蒸気機関車だと石炭であってもそれは日本でとれたものだったからだ
あとは炭焼きとなれば地元の森林を使っていたのである。

それで入会権というのはもともと森を守るものとしてあった
それはその山で炭であれ山菜であれ山の幸を分け合うものとして山や森を守ってきたのである。
ところが明治維新で私的所有権が過度に認められたとき山は割り山になった
無数に分割されてしまったのである。
入会権として山を守ってきたのはそこで生活をしていたからである。
日本の森や山を利用しなくなったときかえって森も山も維持できなくなったのである。
間伐もしないのは木を利用しないからそうなる
そして利用しないからかえってそこを利用しようとするとき今ならソーラーパネルになるのである。
森でも山でも田畑でも利用しないと廃れてゆき荒廃してゆくのである。

自給自足の生活は自然の生態系で生きることだった,その生態系が原発事故の前から文明化によって破壊されていたのである。
だからこそ今や田舎でも生態系を意識して生活していないのである。
田畑があり森があり山があっても農民は一割にも満たないから生態系を意識して生活している人は田舎でも少数派なのである。
自給自足の生活なら別に意識しようとしなくても意識していたしそうでなければ生きていけなかった,今は田舎でも生態系を意識しなくても生きていけるのである。

むしろ石油や原子力の方を常に意識する,そこから電気が生れるから電気は欠かせないものとして意識する,電気があれば別に森や山などのことを考えないですむ
東京で一千万住んでいてもその人たちは生態系など意識しない
ただ水不足になったりするとき山から流れる水を意識するのである。
石油や原子力から水は作り出せないからである。

原発事故では何が起きたかというと生態系が破壊された
結果として空気も水も汚染された住めなくなったのである。
東電などで原子力発電にかかわった人は地元の生態系など関係ないのである。
ただ事故になった結果,地元の生態系を破壊したから東電の人も田舎が何で成り立っているのか生態系を意識したとなる
でも東電の人達はここに住まないし東京に住むから生態系とは関係しないのである。
だから今回の東電の原発事故は文明のありようまで問われたのである。

それは日本の大企業でも多国籍企業でもインドネシアのオラウータンの住んでいる森を破壊する,それは生態系を破壊するからオラウータンも住めなくなるのである。
それは人間も住めなくなるのである。
最低限生態系が維持できれば水でも飲めれば田畑でも維持できれば森林でも利用できれば生き残れる,でも生態系を破壊されたら住むことはできなくなるのである。

津波によっても生態系は破壊された,でもまた元に自然はもどる,自然には回復力がある
でも原発の放射線はプルトニウムなら二万年消えないとかなる
生態系にそういう毒が残り続けるのである。それが自然の災害と科学技術の災害との相違だったのである。
ナイル川の定期的な氾濫は土を肥えさせる泥を運んできた
だからそれは害あるものではなかったのである。それがエジプト文明を作ったともなっていたからである。
それは自然に従う文明であり現代文明は原子力発電とかなると自然に逆う文明だったのである。


17:51 アップ

チョウトンボはハグロトンボだったかもしれない,ちらっとみただけであり確かめなかったのが失敗だった,なぜならチョウトンボが一羽だけ生き残ることは考えられないからだ
まちがいなく震災直後に津浪の後に見たのはチョウトンボだった
追いかけてみたからである。今回はちらっと見ただけだからである

夕方に十数羽,鷺が飛んでゆくのを見た,五六羽は見たことがある。
こんなに多く見たことはない,前には鷺の巣があった
これだけ鷺ももどってきたということである。
それは田んぼが増えて生態系が回復してきたからである。
生態系が回復することが復興でもある


十数羽鷺の群れ飛ぶ夕暮れや久々に見て心地よしかな
posted by 老鶯 at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年08月07日

原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)


原町の道の駅で野草展(レンゲショウマは見たことがない)

yasoutenn1.jpg

rengeshoma1.jpg

時々道の駅で野草展が開いている,さほど見るものがない,今回はイワヒバが多かった
イワヒバはいろいろ種類があるという,茨城県の太子ではイワヒバを売っているので買ってもらった,高いが品種的にはそれほどいいというものではなかった
イワヒバは岩にあうからイワヒバである
これをとるのは容易ではないから高いのである。

レンゲショシウマという花は本当に見れるのか?
こんな花が近くの山に咲いているのか?高山の花だと思った
シャンデリアのように開いている
これを自生してる山の中で見たら神秘的である。

野生の花はやはり野山に咲いているのを見たとき一番美しいし神秘的になる
この花を見たいといってもかなり山奥に入らないと見れないだろう。
花は高山植物を見てきたがそこまで行くのが苦しい

尾瀬にはいろいろ花が咲いていたけどそそこまで行くのが大変である。
至仏山に咲いていた花は神秘的だった
尾瀬にはもう一回行って見たい,でもこの年になるとなかなか行けないなとも思う
人間はこれほど旅をしても見るものがつくづく限られていると思う
だから時間が貴重なのである。

人間はくだらないことに時間を費やしすぎるのである。花を見る時間もやはり人生の中で貴重なのである。花のことを知らない人が多い,すると何か欠けていることになる
女性でも四〇代の人が生け花もしていない,農家に嫁いでも花のことを知らないのである美人でも何か大きなものを欠けていることに気づいた

一般的に男性は花に興味がない,だから花屋で男性が花を買いにゆくと変に見られてしまうのである。
ただ別に野草展では男性の人も花を育てている,そういう趣味の人はいる
やはり高山植物は神秘的である。今になると見れないものとなってしまった
人間は何か何をするべきだったとか必ず老人になると悔いる

それは時間が無駄なことに費やしているからそうなるのである。
時間を有効に使っていないのである。
そしてその貴重な時間がいつかはなくなってしまうのである。
今になると自転車旅行もできないとかなる
時間があっても今度は体力がないとなりできないとなる
つまり時間でも体力でもいつまでもあるものではない,限られたものとしてしか人間には与えられていないのである。




JRには人へのサービスが欠けている (技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)


JRには人へのサービスが欠けている

(技術者集団であり人へのサービスは重んじていないからか?)



市で作ったトイレが障害者の団体のあさがおで毎日掃除しているという
たまに行くと見かけるけど毎日にしていた
そんなに掃除しなければならないのか?
いつもきれいになっていた,その分金がかかっていたのである。
その金は市で払うから市民が払っているともなる

なぜそれがわかったかというと向かいの自転車屋はいつも駅を見ているから知っているのである。自分は一日一二回くらいしか行かない
その人はいつも駅を見ている一日中駅を見ている
何もしなくても駅とかかわっているのである。
道案内などやタクシーのことも聞く人がいた
つまり駅には誰いない無人駅だからそうなっていたのである。

その人は駅舎が空いているのでそこを利用すればいいと言っていた
それが観光協会がなんとかでうまくいかなかったという
鹿島駅てはあそこで弁当などを売りたいという人がいるという
それなりの人が出入りしているからである。
前は売店まであった,その時はまだもっと人が乗っていたときである。

駅で弁当でも何か売りたい人がいるということは初耳だった
でも観光協会がどうのこうのとかできないらしい
JRはこうして市民が地区の人が掃除していても何も礼も言わない
それは自分もそうだった

いろいろ駅を見ているですよと言っても何も礼も言わない
それがJRだという,確かにおそらくその駅前の人も地区の人も礼など言われたことがないから言っている
何か注文をつけるとうるさいというくらいにしか思っていないのかもしれない
これもどういうことなのか良くわからない
道案内しただけでありがとうと言う人もいるのになぜJRではそうして地区でも掃除したり自分もいろいろみていて補佐しているのに何も礼も言わない
一言ありがとうとも言わない,むしろどうでもいいという感じになる
それで自動化して無人駅化する
何かJRでは人へのサービス精神に欠けているのだろうか?
その辺の事情はよく分からない
今日前の自転車屋に聞いてJRはそうだなと思った

2013.10.15

JR、ずさんなサービス品質の実態〜安全対応軽視、黙り込む駅員、顧客無視のシステム

東京駅の改札前のメイン・フロアでは、カート用のスロープが一路あるだけ。それ以外は、階段と小さなエスカレーターが一機設置してあるのみ。ほとんどの人がスーツケースを重たそうに持ち上げ、階段を上っている。


東京駅でもそういうことがあるのも驚きである。そういうのは駅員が見ているとわかる
田舎の駅ではエレベーターがない駅が多い,するとスーツケースでもキャリーバッグでも階段を上り通路をわたり改札口まで結構な労働なのである。女性もいるから楽ではないと見ている

ここの記事では駅員が何かと不親切だとかインターネットの予約でも何か人へのサービス精神がJRでは欠けていると指摘している

そもそもJRは線路の保守とかメカの点検保守がメインの仕事であり人へのサービスは別なのもと考えているのかもしれない,そういう集団であり組織なのかもしれない
サービス業だとは思っていないのかもしれない
理系とか技術者関係にはそういう人が多いだろう。

でもホテルとか売店とか経営するようになっているから今は変わっているが基本的にはそういう姿勢なのかもしれない,線路とか鉄道の技術としての保守管理がメインの仕事であり人へのサービスは付随したものでしかないと思っているのかもしれない
実際に地区の人でも自分が駅をみてしていることでも全く無関心なのである。
その駅舎でも自分たちのものではないという感じにもなる
すると機械だけおく無人駅でいいというのがJRの態度になって行くのもわかる
それはただコストがかかるからというだけではないのかと今日話を聞いて思った
機械にたいしてメカには保守点検は厳重にしているが人へのサービスは重要なものとして考えないということである。

ただ駅はJRのものだけではない,駅に来て無人駅で案内する人もいないとなると駅が街の玄関の役割を果たしているというときその街自体の印象が悪くなるのである。
駅はJRだけのも問題ではない,その市町村と密接に結びついてある
経営として人へのサービス精神からみる必要もある
駅はJRだけのものではない,それは街と一体化していることを市民でも自覚する必要がある,でも車時代になると常磐高速道でも四車線化しているように
車は乗る人が多いから便利になる,鉄道は利用する人が少ないから便利にならないのである。乗る人が多くなれば三〇分感覚に電車に乗れるようにしたりできるからである。
どうしても経営はコストなしには語れないということである。

2017年08月08日

心が通う田舎駅(詩) (機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


心が通う田舎駅(詩)

(機械自動化しても人間的な仕事の価値は高まる)


駅は母が子を待つように
あたたかく待っている場所
ぬくもりのある場所
駅はまたは無事を元気なことを
祈り見送る場所
老いも若きも男も女も
ここに住む人も
外から来る人も
様々な人が行き交い
駅は熱気を帯びる
「行ってらっしゃい、お帰りなさい」
あたたかな人間の血が通う場所
一時の出会いなれども
駅には人の心が通う場所
そこには駅員が必要なのだ
すべて自動化機械化はできない
人間は心を持っているから
あらゆる場所がそうである
心が通いあうことを願うから
薬を売るならその人の病気の直ることを
私の作った野菜を食べてください
私が苦労して精根こめて作ったものです
その手から直接与えられたら
その本当の価値を知る
ただ金を得るだけではない
物には人の心が通い物の価値が生まれる
心をこめて作られたものに価値がある
医者はいくら機械に囲まれていても
そういう心をもたないと人をかえって傷つける
今人に欠けているものあたたかい心
科学技術がいくら進歩しても
そこに人間の心が欠ける時索漠とした社会
駅で母が子を待つように
寒い日でも誰かが待っている
あたたかく待っている場所
忠犬ハチ公のように待っている
いつまでも主人の帰りを待っていた
大きな駅にはそれがない
人々はただ物ののように流れてゆく
小さな駅はかえって心が通う
そこには駅員が必要なのだ

これは別に駅だけの話ではない,どんなに機械化自動化しても人間が必要なのである。
ロボットに介護してもらいたいか?ロボットは補助にはなるが心をもてない,愛ももてない,だから人間の代わりにはなれない,未来は機械化自動化であり人間がいらなくなるということはありえないのである。

確かに鉄道の方が全自動化して運転手も車掌も駅員もいらなくできる,そうなるとどうなるのか?何か索漠としたものにならないか?ロボットに見守られている世界は情なき世界になる,それは社会全体でも言える

牛馬を必要としていたときなぜJそこで情が育まれたかというと牛馬は機械ではないからである。やはり人間の情が通じる,それで馬と結婚した娘の話が残っている
それだけ動物でも情が通じ合うから情が育まれていた,なぜこれほど犬猫のペットブームになっているのか?それは人間の情が通じる,情を求めているからである。
機械には情が通じないのである。

駅では無人化してもやはり必ず家族が見送り出迎える場所である。それはまさに家族の情が通じる場として駅がある。そういうふうに人と人が情で結び合う場所がどこでもある
駅は公共的な空間でもある,車は一台一台閉ざされた空間であり一緒に多数の人が乗りあわすことがない,乗る人は個人か家族か親しい人だけでありあとは排除される空間なのである。

電車とか駅は見知らぬ人が交わる空間でもある,見知らぬ人も行き交う場である。
それも子供から老人までみんな行き交う場である。
今はそういう場所もない,学校は子供のいる場であり病院や老人ホームは老人だけがいる場とか分離して閉鎖されている
昔の村の方が世代間で分離していないし交流が生活の中で自ずからあった
人間が世代でも男女でも仕事でも分離されて交流できないのが現代である。
そこに情が通わない歪な社会になっているのだ。

機械化自動化で人間が働かなくても良くなるということはない,逆により人間的なものが求められる,介護でも力仕事はロボットとかるが愛情ある介護は人間しかできない
機械的にできるものは機械にまかすとしてもやはりどこにも人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。機械にはそもそも愛がありえないからである。
要するに機械化自動化はかえってより人間的なものが人間にしかできないものが価値が高まるのである。

例えば家事でも自動化してゆく,すると人間はいらなくなる,実際家事は一人暮らしでもできるようになっている
ではお手伝いさんはいらなくなるかというとそうでもない,一人暮らしの人は淋しいから話し相手に必要だともなる
そうなると話がうまいとか何か趣味があるとか家事をする能力ではないものが価値がでてくる
もちろん料理でも自動化はできないたろう。機械化自動化してもどうしても人間的なものを求める
その人間的なものがかえって価値が高まるのである。
だから未来は別な能力が求められる,より人間的なものが求められる

将棋や碁の相手は機械になった,すると娯楽にしても変わる,人間はそれでも会話を望むし人間的なもの求める
つまり娯楽も変わる,そこでより創造的なものが求められる時代になる
将棋や碁はコンピュターによって解析された,そうなるとコンピュターによっても解析されないものが価値がでてくる
自分がしている抽象画はコンピュターでしているが新たな価値を作り出したともなる
もちろんその価値はどれだけのものなのか疑問ではなる
でもやはり新しい価値が生み出したともなるのだ

2017年08月09日

原初の山2(mountains in the beginning2)



原初の山2(mountains in the beginning2)


mmmmtopppp111_FotoSketcher.jpg

valcanoooooooo12344.jpg

vvvvvffff11122.jpg

vvvammmmm1234567.jpg

waterfalll11.jpg
forestsunset1111new.jpg
mmmrrrbbb11.jpg


rocklakeee123.jpg

numawwww111.jpg



同じように見えても違っている,そういうものが大量に作られる
ただそうなると何か平凡に見えてしまう
それは自分の能力で描いていないからそうなる
ただ機械的なソフトの作用でそうなっているからである。
そこに限界があるのだがただ大量に生産できるのは機械的操作でしているからである。


This is because it do not go by action of so only mechanical software because different such things do not picture it which then is only seen in the anything ordinariness which is made in large quantities with one's ability even if they see it in the same way, and it is.
There is a limit there, but this is because it is only mechanical operation that I can produce it in large quantities.

2017年08月10日

陰(影)なる人間



陰(影)なる人間


日があたれば影ができる,人は陰(影)となり生きる者がある、男の陰は女であり妻である,華々しく注目を集める人の陰に必ず影となる人がいる
政治家でも議員の陰となる者が秘書である,俳優でも主役と脇役がある
注目は主役に集まる,陰は表に出ない,それが定めである。

この世の中に陰となる者が実は多い,多くの普通の労働者は目立たない,陰のような者である,掃除している人は目立たない,陰となり仕事する人は多い
陰の存在は主役が消えたとき意識される
主役を支えた者としての影が浮かび上がる

そして陰は影はいつでもそこにある,それは以前として目立たない,ただ陰は以前として自分を主張しない,それでいいとしている,みんな主役になりたい,目立ちたい,でもなれない,ただ主役になるのはまた風当たりが強くなる,矢面に立つことになる
主役には主役の役があるが主役あり脇役がありこの世は成り立つ

今にして気づく,影のようにいつも寄り添いあったものを,それは目立たない,影でよしとしていた。そういう性格でもあった,その性格に生きた
主役が消えたとき華々しさもまた消えた,でも影はいつまでもそこに残っていた

日があたれば影ができる,それは法則である。人の世もまた同じである。
陰となり働く人は多数である。華々しい主役はまれである。
しかしその陰には陰となり働く人がいる,人間にはまた陽と陰があり調和する
陽は陽の働きがあり陰と陰の働きがあり調和する

内なる人と外なる人がいる,それは人間の性格であり性格に人は生きる
人間にはその両方が必要なのである。
ただ本当に陰なるものは気づきにくい,その存在を意識するのは主役が消えたときであり後になる,でも陰なる存在に気づくときその影はいつまでもやはり寄り添いある感じになる,妻がある時妻は意識しにくい,死んだとき意識される

そういうことはこの世に多い,普通にあるものは当たり前にある者は意識しにくい,それが失われたとき意識する,その存在に気づく,そしてその影はやはりいつも寄り添っている,陰はなかなか消えないのである。主役は華々しいが一旦消えると忘れやすい
ただそれもその人の性格でありその人はそういうふうに生きることを宿命づけられていたのである。

まず陰なる人は主役のようになれない,その能力がないからである。
ただ陰としてのみ生きる,そういう能力しかない,しかしそれもまた不可欠なものとしてこの世にある,主役にはなれないし成りたくない人はいる
みんな社長には向いていない,主役には向いていないからだ

神が男女を造られたのは陽と陰として造られたのである。それは太陽と月のごとくでもある,陰陽の原理がこの世には働いている,太陽は男であり月は女である。
自然にも陰陽の原理が働き世の中にも働く,その定められた宿命を否定することはできない,男には男の役目があり女には女の役目がある,それを越えること否定することはてきない,否定すれば不自然なものとなり世は乱れる

一生陰となり生きた者よ,そなたは今も影としていつまでもある,主役として生きた者があり陰として生きた者がある,その両方によって人は支えられている
この世に生きる者は大方は陰である,目立たない,そう強いられているともなる
しかしそれが世を支えている,目立つ者だけでは世は支えられないのだ
目立つものには目立つもの主役としての責務がありそれを成すからこそ主役なのである。
陰なる者はそれができない,主役のようにできない,だから陰として影となり存在する
でも全く影にすぎないのかというとそうではない,それはいつまでも存在し続ける
それは主役が消えたときその影に気づくのである。
陰になり働いていた者にきづくのである。

ただ人は陰になることは嫌う,でも主役になるにはそれなり技量が必要なのである。
では陰になるものが目立たない者が存在感がないのかというとそうでもない
陰になる人は主役が消えた後々までも存在し続けるのである。
いつも寄り添い陰となり存在しつづける

太陽があり月がある,陰陽がある,それは宿命である。それぞれに補いこの世がある
その原理に逆らうことはできない,陰なるものもまたこの世を支えている
そして大方は陰なるものとして生き陰なるものとして終わるのである。
その存在は影とてし終わるかというとそうでもない,いつまでも陰なる者として支え寄り添いある

台所にたたずみあわれ我が母を思い悲しき一人料理する

この母を妻にしてもいい,毎日自分で家事を全部しているときこのことを感じた
誰も本当に家事をしてくれない,一枚の皿を洗うこともしてくれなかった
今でも実際はそうである。ただ自分が全部を負うようになったのである。

負うべきは我が一人のみ頼れずに日々一人台所に立つ

家とか家事とかは何か全部一人で負うことは容易ではないことを知った
介護の時もそうだけど家は少なくとも二人以上いて家なのである。
なぜなら留守になると誰もいないから不安になるし何か常に不足を感じるからだ
だから一人より集団で生活した方が楽である。
食べ物でも一人だと損である,古くなって食べられなくなるのが多いからである。
だから今の世の中単身で暮らす人や老人が多いことは人間としては異常なのである。
それは社会自体が歪んでしまったからなのである。
自分は自分の特殊な事情でなったのだが他でも同じだったのである。

2017年08月11日

強者が弱者となり弱者が強者となる (賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


強者が弱者となり弱者が強者となる

(賢い者が愚か者になり愚かな者が賢い者となる)


人間はみんな最後に老人になるとこのことを頭ではなく現実問題として実感する
理屈ではない,現実として事実としてつきつけられる
人間はいくら人生論だとか読んでも他人事なのである。
でも現実に家族とか身近な人とか自分自身とかにじかに起きてくることは否応がでも
その事実で知らしめられる,それを自分も実際の事実として家族とかでつきつけられたから驚いたとなる

今でもその死は信じられないとなる,本当に体力的に頭脳的にも優れた人が認知症になって死んだ,それは馬鹿になって死んだともなる
身近に接していたから女性でも男性並であり男性でも怖がっていたのである。
全然人を恐れないことの驚きである。女性でもそういう人はいる
そういう人は実業家とかであり政治家であり何かをできる人間なのである。

それがあえなく認知症になって死んだということが信じられないとなる
一方は愚かと見えた人は実は愚かではなかった
認知症にもならないし正直な人で親切な女性だったのである。
そういう人はただ目立たないし何か優秀なことはないのである。
でも死にざまをみると愚かは見えた人が賢かったとなる

 わずかな人間の知恵の幅である。賢さの中にも愚かさがあり、愚かさの中にも賢さがひそんでいる。

 例えば人生を生きる時,みんな賢く生きたいと思っている,愚かに生きたくないと思っている,でもこの世を生きることは利に聡く賢く生きることが得をする
賢いといってもずる賢いとかもあり賢さがいい方面にだけ働かないのである。
あの女性は馬鹿正直で嘘をついたことがない,愚かだともなっていた
でもそれだけ正直だとなると今の世の中にいないとなる
愚直だという言葉もある,何か筋を通すとなると功利的ではなく愚直を要求される
だから賢くふるまうということは悪い面としては功利的にふるまうことである。
常に利を求めて利でもって判断する,一方でそうしないものは賢くない馬鹿だとなる

また聖書でも高きものは卑くくされるというときもそうである。
自分が偉いとか優秀だと思っている人は地位とか富のある人は卑くくされる
そういうことを身内の死とかで実際まざまざと見たから驚愕した
認知症になることはいかなる優秀な地位ある人でも馬鹿になるという恐怖なのである。
だからあまりにも悲惨だったとなる
その認知症になる人が将来二〇年後くらいに四〇〇万人にもなる
そうなると認知症になことはめずらしいことではない
最後は人間は馬鹿になって死ぬのが定めなのかとまでなる

親戚の人は理系であり常に優秀だとされていた
それで事業を起こしたが失敗した
経営者と技術者とは違うから経営には優れていなかったのである。
理系は文系を馬鹿にするが理系もまた馬鹿なのである。
人間はそもそも賢くなれないからそうなっている

人間は永遠に賢くありえない,個々人でもそうだし人類全体でもそうである。
いくら科学技術が発達しても同じである。
この辺で起きた原発事故をみればわかる,最高に現代では賢いとされた人達が科学技術者が事故を起こしたからである。
その災厄は甚大であり回復不可能までになり人は住めなくなったからである。
原子力発電を核を操作する知能があってもそれが賢さにはならないのである。

逆に核戦争になって人類が滅べば人類ほど愚かな者はいないとなる
それで猿の惑星の映画がそのことをわかりやすく指摘した
猿は人間から見て愚かな知能のない馬鹿と見ていたが人間が核戦争で滅んだのだから
人間は賢いとされた知能故に滅びたとなる

いづれにしろ人間は神のように賢くなることはできない,人間は何が本当に賢いのか賢くないのかわからないからである。
科学技術が人間を賢くするわけではない,それを悪用するのも人間だからである。
すでにドローンが兵器としても活用されてロシアのクリミヤで成果を上げていたのである常に科学技術は戦争に用いられ悪用される,だから常に人間は賢いのだが愚かだとなる

賢さを追及しても結果的に愚かなことになりまた愚かさを愚直を貫いたことが賢さに通じていたともなる,全体的な知恵とか賢さをもつのは神しかもち得ないのである。
そこに人間の限界がある。
科学技術がすべて否定されるものではない,電気でもそうである。
それが人間を賢くするものではない,むしろこの辺で原発を建てるとき金になるからと賛成した,でももしそんなものいらないとか愚直に反対したら今になるとその人が賢かったともなる
山尾三省のようなパンが贅沢などと言っているのは馬鹿だとなる
だが今になると原発事故で見直されるようになったのである。

2017年08月12日

マスコミにはリアリティのある報道がない (個人の経験にリアリティがある)


マスコミにはリアリティのある報道がない


(個人の経験にリアリティがある)


マスコミの報道に本当のリアリティがあるのか?
例えばこの辺で起きた原発事故騒動でも報道するときリアリティのある報道をしただろうか?
確かに自分が原発避難者を批判したとき小高の人などから反発をくらった
でも現実に原発避難者が何をしていたのか?毎日パチンコ通いだったのである。
その時ボランティアが来て働いていたが避難者は何もしていない,パチンコでギャンブル通いだったのである

それにも理由があるにしてもともかくそれが現実でありリアリティだったのである。
そういうことはあまり報道されずただかわいそうだかわいそうだということしかなかっただから原発避難者に文句言うことはタブーとなっていたのである
マスコミでも常にかわいそうな人達としてその人たちを批判しないからである。
今でも何か小高の人達に文句言うと怒る,俺たちはかわいそうなんだぞ
何で同情しないんだとなる,そんな奴は誰もいない,マスコミの報道を見ろとなる。

別に自分でもその時介護や自分の病気で苦しんでいたし他の人も貧乏で苦しんでいた人もいる,借金で苦しんでいた人もいる,そして何か自分にその矛盾が現れた
自分が苦しいことなど関係なく親戚の人はパチンコ屋で借金を返すために働いていたのである。別にこれは原発避難者が悪いというのではない,ただそういう矛盾を生み出したからこそ原発避難者に腹ただしくなったのである。
ただその矛盾が実はリアリティだった,そのリアリティを自分は報告したのである。
報道で大事なのはリアリティなのである。
でもマスコミではリアリティは報道されないしされたとしても確かめようがないから何が真実かわからないのである。

良く極貧のことを話題にするけどそれも嘘だったということがわかった,それもNHKがその嘘を作り出していたのである。そこに本当のリアリティが報道されなかった
リアリティとは何か?それは事実なのである。
例えばリアリティというとき時代劇でもリアリティがあって成り立つ,事実があって成り立つ,ただ人などあんなにバタバタ切れない,ただその物語に何か事実がありリアリティがありそれで見ている,全く架空のことならドラマでも感動しないのである。

リアリティというとき報道されてもその事実を確かめようがない,だから映像でも作られた映像でだまされたことがあった,イラク戦争で泥まみれの海鳥の写真が世界中に衝撃を与えフセインは悪い奴だということがすりこまれたのである。
一枚の写真が世界をだました驚きである。その報道が確かめようがないからそうなる

マスコミの報道からは本当のリアリティを事実を伝えるのではなく常に放送局の方針によって編集して伝える,例えばある番組を現地の取材でも実際は100もの写真をとっている
動画をとっているでも報道されるのは1しかない,すると実際はのこされた99の記録したビデオに本当のリアリティを感じるものがある,でもそれは見れないのである。
ただyoutubeでは単調なものでも延々と写している,それができるようになったのがインターネットである。でもマスコミではそれでは視聴率がとれないからいい場面しか写さないのである

マスコミでは視聴率を一番に考慮する,阿部内閣の新しい組閣でもマスコミはサプライズを好むというときそうである。何か目立つものがないと誰も注目しないからである。
マスコミは常にサプライズを好むのである。目をひくものがないと視聴率が上がらないからである。
ただサプライズだけに目がむくと肝心の重要な事実が見逃されてしまうのである。

人間はいくらグローバル化しても世界の事実を知ることは不可能なのである。
だからフェクニュースでも信じてしまうのである。フェクニュースでもサプライズだから見るのである。視聴率を上げるためにインターネットでもそうしているのである
まずインターネットで読まれことは至難だからである。

リアリティとは何かというときそれは平凡な人でも日々経験していることがありそれを報告すればリアリティになる,だからインターネットがでてきてそうした個々人の経験が語られる,そこにリアリティがあることを知る
マスコミでは報道するときはそれが編集されているから本当のリアリティがわからない。それで個々人のプログでもネットでもそうしたリアリティに感心することがある。
ただインターネットは何か情報が多くて混乱しているから探すのがむずかしい。

自分がなぜ津浪や原発事故で報道したときリアリティがあったかというとその現場にいたからである。だから八沢浦が元の美しい入江にもどった写真入りで報告したときここで泥の中にうまった子供の死体が発見されたのだと顰蹙を買った
それも事実なのである。では昔の入江になり波がよせて太陽の光できらきら光っていたのも事実なのである。本当にそれが美しかったのである。
福島県では海があっても入江がないからである。荒々しい波が寄せるだけの荒寥とした風景なのである。ただ入江になると波も穏やかでなごむのである。
それが津浪で再現されたことに驚いたのである。

ただ津浪ではどろどろとして瓦礫の山となったことしか報告されていない,ただ悲惨なものしかなかった,でも一部に美が生れていたのである。それも事実なのである。
でもその美が生れたことは報告されていない,すると全体的に事実が報道されていないともなる,津浪はただ地獄的なものであり何にもいいことはなかったとなる
それは事実にしても八沢浦とか他でも海になったというときそこに美が生れていたのである。特に宮城県のように入江がない福島県ではそうだった

いづれにしろ事実をリアリティを伝えることはできない,その人の目で五感で感じたものを伝えることがリアリティなのだけどマスコミで報道されるのはマスコミという組織が会社が編集したものであり本当のリアリティとは違うのである。
ただマスコミの報道にもリアリティはある,ただ意外と地元でないとわからないことがある

例えばNHKで相馬市のトマト農家が飯館村の原発避難者を採用しなかった,それは相馬市は津浪の被害が大きい,だから津浪の被害者を優先した,それは別にトマト農家が差別したわけでもないのである。
なぜなら原発避難者には手厚い補償金が支払われていたからである。
それから浪江の会社経営の人が元の仲間に仕事をくれと頼んだらあんたは補償金で億の金をもらっているから仕事はいらないだろうと断れたということをちょっと漏らした
そのことは外部の人だとのみこめないだろう。
でも地元だとピンと来る,一番補償金でもめていたからである。
でもマスコミの報道はなぜ原発避難者を差別するのかと伝えられるのである。

要するに報道というのは相馬地方から福島県とか東北とか全国レベルにさらにグローバルになると確実にリアリティを失ってゆく,事実を確かめようがないからマスコミによって操作されることが多くなる,歴史も事実が基なのだけどそれがドラマ化するとドラマが真実のように思えるのである。
坂本竜馬が英雄化されたのも司馬遼太郎の小説によってである,小説は作られたものであり事実があってもそうである。でも小説の方をドラマを真実とみるのと同じである
そこに何がリアリティで真実なのか事実なのかを見極めることができなくなっているのであ。

とにかく報道は事実をリアリティを基にすべきなのだがそうなっていない
マスコミの意図されたものが報道される,それは作られた報道だともなる
都合の悪いものは報道しないしマスコミの意向に反するものはとりあげないのである。
江戸時代のように相馬藩内とかで暮らしていれば狭い世界だから知ることがでる
しかしもう福島県でも東北でも全国レベルになるとグローバルになると報道はリアリティを失い,ただマスコミによって操作されるだけだとなっしまっているのである。
そこに報道の根本的な問題がある,それはなかなか解決策が見いだせないのである
人間は今や報道によって翻弄されるのであり自らではもうその事実も確かめようがないからそうなってしまったのである。

yasawauraaa11.jpg
八沢浦が元の美しい入江に戻った!

津浪で判明した江垂の地名の謎 (気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)


津浪で判明した江垂の地名の謎

(気になる江のつく地名2-地名伝説には嘘が多い)
etarichiuuu11.JPG

津浪浸水地域

etariii11122.jpg

津浪は六号線を越えてきていたのである。

dairokutennn1.jpg


「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

気になる江(え)の地名で考察したけど今日自転車で六号線を通ってきたら小島田は自覚していたが六号線沿いに江垂(えたり)の地名の表示があった
ここも江垂なのか?江垂は街内でもあるからこんなに広い領域だと思わなかった。
そもそも村の境はわかりにくい,江垂と小島田の境はわかりにくい,小島田はほとんど津浪の被害があった,江垂はなかった。
でも江垂まで津浪は押し寄せていたことになる
小島田の地名は湿地帯であり島のように田があるということになる,湿地帯が広がってそこを田にしたのである。地形的にはあっている

江垂の地名の起こりが都の貴人が来て水で袖を濡らしたことでその名がついたという伝説がある。江を衣垂としてその伝説が生れた,それは根拠のないものだった
地名伝説は何かこうして後世にあてつけでその由来を説明している
なぜそうした地名がついたのか後の世の人は不明になったから勝手に地名を解釈して地名伝説を作ってしまった,地名の由来の伝説は信用できないのである。
ただ地名はそれだけ古いからその由来がわからないのが多いのである。

江は水と関係しているから袖を水でぬらしたというのはあてはまっているかもしれない,ということは海が迫っていた,海水でぬらしたのかもしれない。
縄文海進があり海が奥まではいりこんでいたことは今回の津浪で実証された。
塩崎(しおのさき)はもともと海の崎にありつけられた名である。
そこに船着とか地名があるのも古代に船が着いたからその地名が残った
そして今回の津浪はすぐその近くまで津浪が押し寄せていたのである。
あそこは低い土地だから奥まで津浪が来たのである。

江垂の地名は海に面していたということで生れたのではないか?
江とつく地名は海に関係している,水と関係している
垂れるの意味は

一続きのものの端がだらりと下がる

海が一続きとしてありその端だというとき位置的にはあっている
江垂が海が迫っていたことが気づかなかったのはそれほど奥に端に海がつづいていたからだとなる
それは蝦夷(エソ)に由来していることでも縄文時代からの言葉に由来している

桜田山の下からせ縄文人の遺跡が発掘されている,そこからは鹿の骨とか海の魚の骨が発見された,そこは狩の場でもあり漁をする場でもあった,つまり海が近くに迫っていたから海の魚がとることができたのである。
海に近ければ海の幸で生活できる,その海も入江のように入り込んでいると荒くないから漁ができたとなる,だから海老はエヒでありこれも海に面して住んでいた人達である。
江垂も同じだった。
不思議なのは海老とか江垂でもそこは蝦夷という原住民が住んでいて外来の人達との争いの地点でもあった

なぜなら桜田山の下に第六天の祠があり第六天とは魔神の意味でありそれは大和朝廷に抵抗した人達としていたのである。悪者にされたのはインディアンなどともにている
西部劇ではインディアンが常に破るものとして退治するものとしてドラマが作られていたからである。戦争では強い方が勝手にドラマを作るのである。
海老にも御刀神社がありそれは海老村に蝦夷が住んでいて抵抗した,それで刀で責めて征服した地点だとなり神社が祀られた。
海老からは弥生時代の遺跡が発掘されたから相当に古い場所なのである

ともかく日本には江とつく地名が北海道でもどこでも多いのである:それはなぜか?
日本の原住民が蝦夷でありそのエゾのエが全国に地名化して残った。
それは縄文語に由来しているのである。
蝦夷というのは謎であるが大和王権が日本を統一するときその前から住んでいた原住民である。それらの人達は歴史から消えたが地名としてその存在を残していた
アイヌも蝦夷なのかどうかわからないがアイヌはむしろ蝦夷の後に来て蝦夷と同一化された民族だともなる,その前に蝦夷がいたからそうなったのである。

ともかく歴史でも考古学でも何でも地理に詳しくないとわからないきである。
地元にこれだけ長く住んでいても地理がわからない,江垂は街内と見ていたのである。
でも今回の津浪で海が迫っていたのである。それは津浪が知らしめたとなる
posted by 老鶯 at 21:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2017年08月13日

人生とは何かを究めること (道を究めること)


人生とは何かを究めること

(道を究めること)


日本語には道とつく言葉が多い,剣道、柔道、弓道、華道、香道、武士道、茶道、書道とかいろいろある,武道とは単に格闘技ではない,道を究めることである。
道を修めることである。宗教でも神道となり神ながらの道を究めることになる
道は極めて日本的な思想であり宗教にも通じているのだ
道を究めるというときはそれはあらゆる分野に通じている
江戸時代なら職人道があり職人は刀鍛冶でも最高の刀を作るために精進していた
それはあらゆる職業でもそうだった,特別な職業だけではないのである。
英語だとはworkである,作品を作るために精進していたとなる
江戸時代までこうして個々人が道を究めることに生きていたのである。
明治以降は会社組織になり会社がwork(作品)を商品を作るために会社員全部で精進しているとなった,だから個々人の道を感じなくなったのである。

例えば旅でも旅を究めたのが最初は西行であり次に芭蕉とかであり近代では山頭火などになる,旅を究めるというとき芭蕉のように人生自体が旅としてとらえるようになったのである。人生は旅だとしたのである。それこそ旅を究めたとなる
現代では旅というときただ保養する気晴らしという感じしかない
うまいものを食べて違った環境で気晴らしする,旅人はもういない
江戸時代だと歩いて移動するから隣の町まで行くのにも旅になっていたのである。
今は平泉まで二時間半だとかなれば旅とはならない
途中は通過して一挙に平泉につくから深い感懐も抱けないのである。

だから旅人はいない,ただ移動して気晴らしする人であり観光する人である。
旅人となることは実際は容易ではない,今になると余計にそうなる
移動しやすいからそうなる,自分の場合,自転車で旅したときある程度は旅人になっていた,一カ月くらい旅したからである。
その時必要なのは今のようなホテルとか旅館とかではない,江戸時代のような泊まるだけでいい宿なのである。特別土地のうまいものを食べることでもない,そういうものに金をかけることではない,一宿一飯の宿なのである。
木賃宿というときそういうものだった,そういう宿が多かったのは江戸時代は移動することが容易ではないから簡易な宿で良かった,移動するだけで時間がかかるからそうなった今はそういう環境が失われたから旅もなくなり旅人もいなくなったのである

ただ以前として人間には旅をしたい,別な世界を見たいということは変わりなくある,現代だとだから世界旅行が人気になるのである。
常に言っていることだけど学問の基礎は地理にあるというとき旅しなければその地理感覚が身につかないのである。近くですらそうだった
江垂のことを書いたが地理的に誤解していたのである。広い範囲が江垂だったのである。郷土史を究めるというときもやはり地理感覚が基礎にないと究めることができないのである。

いづれにしろどんな分野にしろ一芸に秀でることが生きることになる,そのために日々ある。それはつまらないことでもそうなのである。雑学すらそうである。
地名学があるとする地名など学問なのかとなるがやはり学問になる
雑学にしてもやはりそれを究めるには積み重ねが必要であり地名を究めてゆくことが必要になる,それは人間のあらゆる分野でそうなのである。

医者だったら医道を究める,やはり医者として熟達してゆく,すると神業的な神の手をもった医者になる,手術のうまい先生でそういう人はいる,ただマスコミにもてはやされる人はみんなそうとは限らない,マスコミの人の判断は何か実力ない人でも有名にするからである。
ただ本当にその分野で実力あり神業的な人がいることは確かなのである。
それはどの分野でもいるのである。人間国宝とかなるとそういう人だろう。

現代でも組織の時代でも道を究めるということはある,ただ集団で道を究めることはありえない,カルト宗教など道を究めるなどとは何の関係もない,ただ数を増やして権力をもつというだけだからである。そんてところで道を究めるなどは全くない
現代で道を究める生き方がしにくいのは組織化集団化の時代だからである。
workするにしても一人ではなできない,何か発明するにしても組織で会社でしているからである。道を究めるというとき江戸時代までは個々人で究めていた環境があった
そこに現代で道を究めることのむずかしさがある

道を究めるというときその道を究めた人に弟子入りするということがあった,師が必ずいて習ったのである。現代ではそういう関係は築きにくい,ただその道に優れた人はいる
南相馬市の病院には脳外科で優秀な先生がいてその先生に習いたいために全国から研修生が集まるというときそうである。
そういうことが医療の世界でもいろいろな分野でもある

人間にいろいろな考えがある,いろいろな人がいる,それが一貫してそれぞれの道を追及すると豊かなものになる,ただ自分のしていることが何なのかわからないことがある。
でもわからないなりに学問でも芸術でも職業でも道を究めることをしていると最後に実りがある,郷土史なども雑学のようなところがあるがやはり郷土というのをあらゆる観点から究めようとしているのである。
それが津浪や原発事故などで郷土学というものが必要だったことを知らしめたのである。原発事故では郷土そのものを失うことになり故郷とは何かとか問われたからである。
故郷を失った故郷の意味が追及されたのである。

道を究めるというとき重要なのは雑念とか欲望とかいろいろなものを遮断する必要がある
だからある意味で道を究めることは精進することは修行でもある
この世の欲望にふりまわされていると修行しにくい,精進できないからである。
そして人間に与えられた時間は限られている,たちまち時間はすぎてしまうのである。
でも後で雑学すら役に立っていることがわかる,様々な経験したことも活きてくる
だからどんな職業でも何でも自分は自分のあった道を究めているという自覚が必要なのである。ただ会社人間化しているとい俺たちは社蓄なんだよなというとき一生を奴隷として終わるかもしれない,そうして終わった人生は何なのだろうと悔いるが万事休すとなってしまう。もう人生は一回だけであり取り戻せないからである。
タグ:道を究める