2017年07月26日

墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来る人はいる,その人も墓だけしか残っていないという
江垂(えたり)だけど原町に墓参りする人はいる
その女性は80以上だろう,すぐに次の電車で仙台に帰ると言ってタクシーで行った

その人は小高の生れで鹿島と関係して新地とも関係している:そして仙台に移った
それで新地にも墓参りに行ってきたという。
何か近くの自分の墓地でも墓だけがあり仙台などから墓参りだけに来る人がいる
墓は家がなくなっても残っているのである。

自分の母の実家の墓は原町にあり家はとっくの昔になくなっている,50年前とかにすでになくなっていた,でも墓だけは残っている
それで福島市にいる人が墓参りにだけは来ている
つまり家の跡継ぎがなく空家が膨大化しているのと同じく墓も跡継ぎなく残されている
ただ墓は簡単に壊せないから最後まで残っている
これもまたまた問題なのである。

なぜこうなるかというというと広い地域に人が住むようになったからである。
まだ相馬地方内で住んでいればいいが仙台となると遠くなってしまう。
そういうことは今回の津浪や原発事故で親戚を頼り全国に散らばったことでもわかる
長男が家の跡を継ぎ守るということもなくなるとき家とか墓も一代限りとかになってしまうのである。

駅にはいろいろな人がくる,この土地に前に縁ある人もくる:今は外部からも仕事で来る
そういう何か人間的な出会いの場所でもあったことを発見した
今までは駅をこんなふうに見ていなかったのである。
ボランティアで駅員していたら見えてきたものがあった
だからボランティアは社会とかかわることだから退職した人はボランティアをするのがわかった

ボランティアとは

語源は英語の will の語源ともなったラテン語の volo で、意思や志願を意味した。
英語圏では、現在も本来の語義どおり志願兵あるいは義勇兵の意味で、この語が使われている。なお voluntary とは、自発的であるさまのことである。

ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般的に、自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。
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ボランティアこそ本当の仕事だという人もいる,なぜなら仕事というとき強制的な面がでてくる:会社のためにもうけになることを追及するのが普通である。
それで金儲けのためには嫌なことでもしなければならない働くにしても金のためだというときそれは自由意志で望んで働いていないのである。
そこに労働の頽廃がある、俺たちは奴隷なんだよな,社蓄なんだよなとなる

ただ自発性、無償性、利他性、先駆性というとき,先駆性とは何なのだろう?
ボランティアには何かを見いだしてするということがあるからか?
何か仕事を発見するということがあるためかもしれない:,確かにそういうことはある
ボランティアは誰かが仕事を与えてくれるわけではないからだ。
ここが欠けているから補おうとか仕事を発見しないとできないからそうなっている

ボランティアはそうではない,自由意志なのである。それは金儲けのためではないから
その仕事そものものに意義と生きがいを見いだしてしているとなる
現代では逆説的にボランティアが本当の仕事ととしての生きがいになっているというのもに大げさではない:それだけ人間というのはそもそもそういう仕事も求めている存在だともなる
ただ金のために強制されて働くことは仕事として嫌だとなっていたのである。

知人が趣味でしている小さな畑もボランティアなのである。
文句は言ってもその仕事は好きだからしている
ただそれが人のためになっているとも思えない
なぜなら人に分けるほどのものは何も作っていないからだ
すると何のためになるのか?荒地にしておくよりはいいとなるのかもしれない。

高齢化社会はボランティアを求める人が増えてくる:現実に増えている,収入に余裕があれば生きがいのある仕事を求めるからである。
ただその人にあったものでないとボランティアもできないだろう。
たまたま無人駅になった結果,そこで何か役に立つことが生れて自分はしている
いなくてもいいがいないよりはいいというくらいだけどそれなりにworkしている
社会的に機能して働いているとなる

夏つばめ(梅雨はまだつづくのか?)



夏つばめ(梅雨はまだつづくのか?)


快晴の朝の空飛ぶ夏つばめ

駅前にふえて飛び交う夏つばめ

ひるがえる野馬追いの旗夏つばめ


しとしとと雨ふり
草むら深く
月見草群れさき
日陰蝶飛び
でで虫の歩む
いつもの道を
今日も行くかな


今日は快晴である。昨日は雨がふった,朝は快晴で気持ちいい,それほどの日ざしでもないかもしれない,紫外線を計る機械をなくしてしまった,体感的に日差しもそれほどではない,ただ熱中症は要注意である。そのために遠出ができなくなって困る
天気予報では注意となっているらやはりそれほどではない,体感的なものと一致していた警戒があり厳重警戒があるからだ

季語的には夏つばめがひったりである,今の季節らしい,こういうときでも外を自転車で走ればきもちいいだろう,本当に最近ずっと遠くに行っていない
仙台にも行っていない,自然とともかく気持ちいい,自然に生きるものはまさに自然だから気持ちいいのである。人間は不自然に生きているから気持ちいいとはならないのだ
人間は何か常に不健康なのである。タバコなど吸っているのもとがめはしないが何か不自然である。健康的に感じないのである。今は女性はタバコを吸う人が多い
ストレス社会になりタバコを吸う人が増えたのだろう。

ともかく家の中にとじこもりなのは良くない:これも不自然であり不健康だとなる。
ただ暑さで外に出れない,北海道に行きたいとかなる
でも外出しにくくなった

昨日は雨であり草むらに月見草が咲き黒い日陰蝶が飛ぶ,そしてでんでん虫がゆっくりと歩む,昨日は梅雨の感覚であり今日は梅雨が晴れたとような感覚である。
野馬追いの旗がひるがえっているからあと二三日で野馬追いである。
結構駅はにぎわうだろう。
天気予報ではまた曇りがつづくから梅雨は明けていないのだろう。
それでもこれまでのような暑さはなく一段落なのかもしれない
体調を壊したから暑さは嫌である。
自分は暑いところは苦手である。胃が必ず悪くなるからだ
また寒いところも苦手なのである。だから気候的にはここがいい場所なのである。

タグ:夏つばめ

金の価値がなくなる時代 (働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


金の価値がなくなる時代


(働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


雨漏りして困った、その場所が危険な場所で見えない、大工さんに頼んだがなかなかこない、その雨漏りが雨が強くふるとびしょびしょになる
一回みてもらったが高い所で危険な場な所であった
木の剪定をしてもらったが一時間くらいしか働いていない
だから一万で間に合うと思った

そしたら一万五千円要求された,高いなと思ったが払わざるえない
その人は危険だったからだという
ほかに頼む人がいないからしょうがない
今はこうした仕事する人がいなくなっている

今は人手不足であり人が集まらなくて建築関係では倒産したり会社でも新しく始められない、それほど人手不足は深刻なのである
そうなると賃金が高くなるのだ、つまり金をもっている人がいてもその金の価値は低くなる、第一利子もつかないし投資してももうからない、もうかるのは銀行だけなのである。手数料をひかれてもうかるより損する度合いが大きいのである。

何か技術が必要だったり危険な仕事は高くなる、もともとそうだったがこれからますます高くなる、ということは金の価値が減少してくるから金をもっていても価値にならなくなる、そういう時代であり働く人の価値は高くなる
老人はもう働けないかち金をもっていても価値がないとなる
でもそれが正常な姿なのかもしれない、働く人の価値が高くなることは悪いことではない利子とかでもうけることは働かないでもうけることはむずかしくなっているのだ

そして人のあまりできないことをする人は賃金が高くなる
このように一時間でも一万五千円とかなる
でも頼まざるを得ないのである。
こういう仕事をする人がいなくなっているからである。
供給する人が多ければいいがなければ高くなる
医者でも多ければいいが歯医者のように多くなると需要と供給の関係で賃金の格差がこれから生まれてくる、その時々で賃金も価値も変わってくるのである。

それはAIとか機械化しても同じである。人間にしかできないことが必ずありそれをできる人の賃金は高くなるのである。大工でも危険な仕事がある、屋根に上ったりするのは危険だから賃金が高いとなる、そうしてそういう人がいなくなるとその人の価値は高くなる、賃金も高くなるのである。
だからこれからどれだけとられるのか心配になる
でも直さないと雨がどんどんもれて家がだめになる
まず家というのは何かこうして修理代とかで金がかかるから資産がないと維持できないのである。
こういう点では借りている方がいいともなる、いづれにしろ人間の価値と仕事の価値は時代によって絶えず変わっている

自分の家は大きな家でも当時は50年前くらいになるが400万だったのである。
今だったら軽く3000万以上する建物である。
その時大工の賃金が安かったのである。すぐに何倍にも高くなったのである。
それでその前に建てろと言って建てたのが良かった
古い造りであり土壁で職人もいなくなっていたのである。
土壁の家はその後なくなったのである。

家にも歴史がある、この家は50年の歴史を刻んだともなる
他でも家には歴史がある、だから原発事故で避難した人たちは家に愛着をもつことはある特に老人はそうなる、思い出が家とともにあるからだ。
そのことが大きな精神的損害だったのである。
posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題