2017年07月21日

人間は暇になると博打になる (原発事故の避難民も同じだった)


人間は暇になると博打になる

(原発事故の避難民も同じだった)

 「学校」を意味する英語「school」の原義は、ギリシア語の「余暇」を意味する「schore」に由来していると言われています。古代ギリシア・古代ローマの市民が、音楽、スポーツ、芝居、議論などを楽しむために過ごす、「暇つぶしのための時間や場所」を表す言葉でした

上州の農村では、生糸をつむぐ女性が、一家の稼ぎ頭でした。
そのため、亭主は金と暇を持て余したのです。その暇を潰し、
更に金をもっと大きな金に変えてイイところを見せようと思っ
て、多くの男性が当時思い浮かべたこと。それは、博打だった
のです。


上州というと今の群馬県とか栃木県になるのか?群馬県の方だろう。
人間の暇の問題は実際は大きい、暇をどう使うかで人生も決まることもある。
ギリシャに哲学が生まれたのも暇が生まれたからである。
それは奴隷がいて暇が生まれていた、スクールがもともと暇の意味だったからである。
暇があるからスクールが生まれ学ぶことになった
それはいい面として暇が作用したのである。

それが悪い面として作用すると博打になりギャンブルになり風俗とか遊びになる
人間は暇というのが意外と大きな問題としてある
つまり暇をどう有効にもちいるかどうかが大きな問題となるしそれが人生を左右する
一見裕福な家に生まれると恵まれたとなるが放蕩する息子も生まれてくる
それは金があり暇があるからである、それが悪い方向になると遊び人になってしまうのである。遊びに費やされてしまい何か実りとならない、社会に貢献もしないとなる

この辺で原発事故で起きたこともいろいろある、それは常に自分が言ってきたけど避難して仮設に住んだ人は何もすることなく暇になった、そしたら何をしたかというとパチンコとギャンブルになったのである。風俗も通いもあった。
それでイワキなどでは顰蹙をかって落書きされたことなどが問題になった
今まで手にできない補償金をもらったからそうなった
その金を何か復興に使うとういことはない、ギャンブルに費やしていたのである。

人間は暇を有効に過ごすことはむずかしい、そのためには訓練も必要である。
学問でも芸術でもそれは暇を有効に使うためのものとして発達した
なぜならスクールが暇を意味していたからである。
だから自分が大学に行って驚いたのは大学が遊び人養成の場なのかと思ったことである。ほとんど授業には出なくてもいいのである。私立文系の場合はそうである。
朝からマージャンしていいる人も普通にいる、講義に出るということを馬鹿にする人もいる、講義に出ないのが大学では恰好いいものとされていたのである。
真面目な奴は嫌われていたのである。

だから高校と大学ではあまりにも違っていたのである。
大学は高校とか毎日授業しているのとは全く違った世界である。
授業に出なくてもいいのである。そしたら遊びたい者は遊ぶとなる
その遊ぶにしても何か有効な遊びならいいが毎日マージャンしているとかありパチンコすらしていた
だからそもそも大学とは何なのだろうと疑問になるのも当然である。
それである人は全学連とか学生運動に生きがいを見いだすようになったり自分のようにカルト宗教団体で活動したりするものがでてくる
それは大学が勉強する場ではないとなっているのだからそうなった
今でも一流大学の医学部の学生が強姦したとかあるがそれも大学になると高校とは違って解放的になるから起きてくるのも当然だとなる
大学になると大人にされる、勉強することも先生から学ぶのではない自分で学びなさいとなっているからだ。文系の場合は遊びを覚える場が大学なのである。

それで不思議なのはなぜそんな遊び人養成のような大学から真面目な企業戦士と団塊の世代がなったことである。それはほぼ全員である。大学ではあれほど自由に遊びを覚えたのに真面目な会社に尽くす企業戦士となったのである。
普通はそんな遊びを覚えると真面目に会社で働けなくなる
自分などはそうなった、就職もせず底辺労働者となってさまよっていたりしていた。それも結局大学に行ったことが影響していたのである。

だからこの上州の人が女性が絹織物産業で稼ぎが良くて男はヒモになっていて働かない
それで博打打ちになったというのも理解できる。それは男が暇になると博打になるからだこの辺では飯館村などは素朴な人が住んでいるように見えたが実際は馬券売り場とかありギャンブルする人はどこでもいる
今でも鹿島区の競輪の券の売り場に通う人がいる
ただ仮設に住んだ人は何もすることがなく金があるからパチンコ通いでありギャンブラーになった、何百万円もうけたとかそんな博打打ちになったのである。
それも結局暇があってその暇を有効に使えなかったことにあったのである。

「小人閑居して不善をなす」というとき小人とはみんな小人なのである。
自分もだから会社員にもならないから働かないから不善を成したのである。
今のニートとか働かない者は必ず不善を成す、何か変な方向に舵をきる
やはり普通は社会で働いて訓練された方がいいのである。
自分の場合は暇を旅に費やしたともなる
だから大学とはいうのはそうして不善を成す場だというのも奇妙なのである。
自分で勉強しろといっても普通はできない、その課題を見つけることもむずかしいからである。
大学生になって文系の場合、人生が狂るわされたということもあるだろう。
高校生だとたいがい就職してそういう暇をもたされないからである。

人間は金があっても暇があってもそれで堕落する、ローマ帝国は贅沢で滅びた
ローマ帝国はもともと質実な農民の国だったのである。
それが富を集めて贅沢で滅びたのである。
この辺も復興など関係なく仮設に住んだ人は暇をもてあましギャンブルーになったのが多い、金をもらったからといってそれが有効には使われるとは限らないのである。
フィリンピンの女性を連れ込んだとかもある、それも金が余ってそうなったのである。
そうして5年6年も過ごしていたらどうなるのか?
もう真面目に働く気もなくなるのである。
また老人が多いことでも働く気がなくなったのである。

日本でも平安時代になると宮廷で貴族は暇だから源氏物語のようなものができた
短歌でも万葉集とは違う、貴族が暇であり恋愛などで遊戯人間のようなものに化していたからである女性と遊んでいたとなる、ただそれが遊びでもかなを作ったの女性だったとか文化に貢献したのである。暇を与えられたものは何か文化に貢献するものとなるとそれは無益なものとはならない、万葉集と古今集が全く違ったものとなっていたのはそうした時代背景かある。万葉集には働く農民の歌があるが古今集にはないからである。
平安時代は時代的には堕落した時代とされるのは贅沢にふけったローマとにているのである。

ただここは特殊な事情でそうなったけど現代は全人口の三分の一が働いていない、ニートや老人でも多いし働いていない
すると老人でもここが特別ではなくパチンコとかしている、パチンコしているのは老人が多いという、それは暇だからである。
暇を有効に使うことはそれだけむずかしいのである。
そして老後の問題は平均寿命でも長くなると暇をどう使うということが問題になる
趣味に費やすとしてもこれも老後にすぐに身につけることはできない、今までしていればできるがそうでないと簡単にできない、では何か生きがいをることをしたいとなりボランティアになる、そのボランティアでもなかなか簡単にはできないのである。
老後になって暇になりそれが大きな高齢化社会の問題にもなっている
ただそれは人類がはじまってから起きていた問題なのである。
古代の天皇がサイコロをしていて博打をはじめたということでもわかる

結局避難解除になっても何か復興の仕事をしている人は少ない、以前としてギャンブルしている人が多いだろう。でもだんだん補償金も使うとできなくなる
そうなるとお前らはそうして遊んでいたのだから援助はしないとなるかもしれない。
でも今度は生活保護を要求する、それも原発のためにそうなったのだからという理由で許可されやすいかもしれない、つまりそうして堕落してゆく人が多いかのがこの辺だったとなる

人間は何か仕事が必要なのである。それは退職してもそうである。
何か仕事をしていないと怖いのは認知症になることである。
自分の家族の一人は公務員を退職してから全くなにもしない、家事もしない、趣味をしていてもそれはあっていないただのつきあいだった
家事は結構頭を使うから家事を94歳頃までしていた人は95ではぼけたとしてもそれまでぼけなかったのである。
高齢化社会というのは退職後でも長いから暇の問題があり生きがいをどうするかというのが大きな問題としてクローズアップされているのである。

暇を有効に使うことはやはり何か訓練が必要なのである。
そもそも暇からスクールが生まれたのだからそれは暇が文明を作ったともなるのである。
これからはAI化に機械化で人間の余暇は増大する、それは人類的課題にもなる
現実に家事は機械化して昔のように女中を中産階級で二人も雇うようなことは必要ない
そしたらどうなるのか?女性の仕事はなにになるのか?
家事も必要ないとしたら何になるのか?そうなると女性でも余暇を有効に過ごすことが課題になる
習い事とか何か余暇を有効に過ごすことが課題になる、平安時代の宮廷の女性のようになるのである。
posted by 老鶯 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続) (それは本当だった)


鰻を売りに天秤棒をかつぎ鹿島区の屋形から川俣まで行った人の話(続)

(それは本当だった)




うなぎ街道(山陰中央新聞)


この話しには驚いた。五貫目の鰻を天秤棒で八木沢峠を越えて川俣まで売りに行った話を聞いたという。川俣までとなると八木沢峠を越えること自体大変でありそれも天秤棒だとなるとバランスをとるのがむずかしいから余計に重労働になる。坂をのぼるときバランスをとるのが大変だったというからその話はリアルである。五貫目というとこれはかなりの重さである。

百匹にもなるのか?50匹くらいか、それほどの数でないとこれだけの重さにはならないかもしれない、それだけ売れたら大変な金になったからこそ川俣まで売りに行った。川俣では当時高く売れたということである。今でもそうだけどやはりバナナでも売れるのは金持ちの国である。食料品も金持ちの所に流れてゆく、松川浦でとれた魚も東京の方に高く売っていたのと同じである。地元ではかえって食べられなくなっていたのである。

川俣まで鰻を天秤棒で売りに行ったのは川俣が景気が良く高く売れるからだった。そうでなければわざわざそんな遠くに行かないのである。鰻取りは自分の家で思い出がある。父親が明治生まれであり鰻とりを田んぼの畦道などで良くしていたのである。子供のときついて行った。鰻の住んでいる穴を熟知していたりミミズを餌にして微妙に微調整して穴に入れるのがコツである。鰻をとったときはごちそうだった。家族みんなで鰻を料理したのである。その頃の鰻は天然だからうまかったのである。その鰻を川俣で売りに行ったというのは本当に驚きである。

うなぎ街道の記事を見て屋形で明治に川俣までうなぎを売りに行った話は何か信じられなかった、この記事を読んで信じた、全国的にうなぎは売られていたしうなぎは日本では貴重な食料でありエネルギー源であった
うなぎは栄養価が高いからである。地元でも自分の父親だけではなくみんなうなぎをとっていた。川でもとっていた。それはみんな天然ものだからうまかった
ただうなぎ街道となると相当な距離を運んだ、そのために苦しんだ

まず今の時代どうして天秤棒などでかついで川俣まで行けるのかというのが疑問になる
うなぎは水が必要だから水も運ばねばならない八木沢峠になると今でもそうだけど急峻な長い峠道なのである。そこをまず上るとすると容易ではない、天秤棒などかついで行けるのかとなり疑問だった、ただうなぎが屋形とか海老とかではとれた
結構多くとれたことはわかる、それを売りたいということもわかる
川俣は絹織物で栄えていたから金になり売りに行ったというのもわかる
でも本統治天秤棒をかついで八木沢峠を上れるのかとうことが疑問だった

でもこの記事のように他にもそういうことがあるということで信じるということがある
つまりここだけではなくうなぎを売るということは全国的にあったことなのである。
それもかなり不便な所を長い距離があるところを売っていたのである。
大阪まで売っていて出雲のうなぎは有名だったという、江戸時代とかがわかりにくいのは基本的に歩くほか移動できないことである。
川とか海でも船を利用しても基本的に歩くことなのである。
それが実感として理解できなくなっているからそんなことありうるのかとなる

うなぎは夏にはいいが今は中国産でありこのうなぎは何か不安なのである。
薬を使っているとか何を食わせているかわからないとかある、実際あれだけ安いということは何かあるということになる
ともかく過去はそれは実際にあったのか事実だったのかということがまず第一に知ることそれが歴史を学ぶことなのである。
時代劇だってあんなにばたばた人を切れるのかといったらそれは架空の物語である。
水戸黄門とか吉宗とかがバタバタと人を切るけど第一その人がそんなに位が高いと知ったら家来はいくらなんでも切ろうとするだろうか?
そんな危険なことはしないと思う、恐れいってしまうだろう。
それがフィクションであり事実に裏付けされていないからつまらないとなる
そんなハデなことはなかったのである。

第一水戸黄門は日本を旅行したことないというからあれはみんなフィクションなのである
ともかく昔の話でも伝説でも何でもそこに事実をよむことが大事になる
その事実から歴史をたどる、小説はフィクションである。事実を基にしてもフィクションである、それで司馬遼太郎は小説家であり坂本龍馬を英雄にしたてあげたというフィクションを歴史と信じてしてしまう危険がそこにあった。
いづれにしろ川俣まで屋形から天秤棒かついでうなぎを売りに行ったというのは事実である。するとその物語にも重みが生まれのである。

飯館村までの塩の道は実際に残っていた。それも沢の道であり馬一頭がやっと通れる細い道であり一歩あやまると下の谷底に転落する、そんな危険な道をよく行けたともなるがそれが歴史の道として残っている、それも全国的にありそもそもそうした危険の道が人びとは歩いていたのである。
山があっても道を作ることはできないとなるとそうした自然の道、尾根とか沢道を行ったとなる、そういう道はまだ残っているから実感できるのである。

タグ:うなぎ街道
posted by 老鶯 at 08:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)