2017年07月14日

立葵 (俳句は単純な写生で深い意味をもつーデジタルカメラが不可欠の時代)

立葵

(俳句は単純な写生で深い意味をもつーデジタルカメラが不可欠の時代)

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燕が飛んでいたがうまくとらえられなかった

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この木はあまりいい木ではないがこれも写生である。
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夕方の夏の雲


全部クリック拡大しないと見栄えがしない


のうぜんの玄関に散り蟻歩む

また一つのうぜん散りぬ玄関に

五六輪藪甘草や木の根元

立葵その明るさや燕飛ぶ

立葵高くも伸び咲きつばめ飛ぶ

明るくも笑い微笑む立葵 


立葵風にそよ揺れあまた咲く夏の雲湧く朝に映えにき

野馬追いの頃にのうぜん咲きぬあまたかな一輪散りてまた散りにけり


夏らしい雲が湧いていた、今日は紫外線計測器で昼間が8とるなと厳重警戒になる
日ざしが強い、熱中症になったから無理はできない
でも毎日二回くらい買物で出なければならない
それと運動と気晴らしのために外にでる
食事はほとんど買ってすませている、家事からなにもかも一人でやる時間がない


俳句はつくづく写生である、単純な写生でも深い意味をもつ、短いから写生に徹しないと芸術になりにくい、いろんな説明もできないからだ
のうぜんの花が散ったところに蟻が歩んでいる、それがまさに写生なのである。

五六輪藪甘草が木の根元に咲いている、それも写生である
それは詩を作るようにイメージで作っていないありのままだからである。
ありのままだけどそこに深い意味が見いだされているのである。鑑賞する人はその意味を見いだすことが必要である。
俳句はともかくシンプルがベストである。短歌となると表現の幅が広がるからまた違っている

野馬追いの頃になるとのうぜんが咲き始めるからにあっている、藪甘草も咲く、だからこの辺では野馬追いが迫ってくる時に咲く花だと意識する、それは土地柄だとなる
そういう土地柄があるのが文化だともなる

いづれにしろ現代はなんであれ写真の時代である、写真なくして情報もありえない
デジタルカメラの威力が大きい、写真にとると見えないものが見えてくる
それが発見なのである。ただ肉眼でしか見えないものもある。
写真でしか見えないものもある、立葵とのうぜんの花がそうだった
微細なものはデジタルカメラが映し出す、人間の目には見えないのである。

俳句はだからデジタルカメラなしではありえない
写生もデジタルカメラと融合してありえる時代である。
その写真もインターネットだと出しやすい、他のメデアは出しにくいのである。
雑誌でもこんなに写真をのせられないからである。
夏は近くでも被写体となるものが増える、だからカメラを絶えず持ち歩いている必要がある。

ともかく今日も暑かった、クーラーの部屋に一日いるほかない、今前のホームページとかプログの記録の整理があり仕事がある。これも骨がおれる
プログは記録しにくい、なんとかまとめて整理する、それが膨大だから結構な仕事になるホームページを二〇〇〇年にはじめたからすでにプログも十年であり一七年間も書き続けている、だからふりかえりまとめる必要がある




インターネットの情報社会の混乱 (プログも勝手に削除されたりしていいのか?)



インターネットの情報社会の混乱


(プログも勝手に削除されたりしていいのか?)


プログという形式そのものが情報発信することでは今までありえなかったことである。
毎日発信できる、日記形式でできる
それは日々のその人の生きた記録となる、自分のプログはもともと一句一首として日々のことを発信することだった、それは季節によって変わるからプログに向いていた
そして10年間してきた
プログをはじめてすぐに姉が認知症になり今度は認知症のことを書き始めた
これは結構読まれていた、やはり認知症のことをがわからないからそうなった
やはり自ら介護した人でないと認知症はわかりくいからだ

その次に自分が今度は母の介護とか自分の病気とかなり事件もあり一身上のことを書いてきた、これも今までにありえないことだった、一身上のことを公にすることなど今まではできない、どこのメデアでもそんなことを受け付けない、テレビでは芸能人なら視聴率をとれるから放送している
でも芸能人でも今は個人でプログをみんな書いている、国会議員でもほとんど公の人でもプログを書いているのだ、プログは簡単にできるからだ
そして今までは2チャンネルのように必ず受け答えがあるものとしてパソコン通信があった、それは匿名であり言いたい放題であった
相手のことなどかまわない、年齢も社会的地位もなにも関係ない、相手が男か女かもわからない、相手が中学生だったなどということもあった
要するに文章だけが出てくる世界でありそれは実際は現実社会にはない異様なものだったのである。

だからプログでおめえはなんとかとコメントしたとき違和感を感じた
それはパソコン通信とか2チャンネルならそういうことは普通だったのである。
プログとなるともう違っている、二三行かいてケチつける暴言をはくようなことは受け入れられない、プログでコメントするときはやはり現実社会と同じになる
自分の素性をある程度プログで明確にして主張でもそうである。
そうでないともう対話は成りたたなくなった
それでどうしてもプログは一方的に発信するのが多くなっているのだ。

プログになるとこれはその人となりが必ずわかる、どういう主張をもっているのかもわかる、その素性もわかる場合がある、プログは何か一貫して主張することに向いている
だから何度も同じようなことを追加して書くのに向いている
これは一冊の本とも違う発信の仕方である。
それは書く方にとってもメリットがあり読む方にとってもメリットがある
書く方では前に書いたことをまた追加したり再考察して書く
するとまた違った見方が生まれる
そしていくら書いても制限がないからできる

インターネットという場も実は法も整備されていない混乱したカオスである
そもそも一記事だけを読むということはメデアの世界では今までない
一冊の本としてか雑誌でもそれなりの長い文として主張させている
短い一記事だけを読むということはありえない世界だった
キーワードで読むからそうなっているのがインターネットの情報社会である。

ただそこに様々な問題が生まれている、プログでも運営する側に勝手に削除されたりすると困る、注意するのはいいが削除されると困る
アスカとかがプログで自分の言い分を言ったら削除されて困った
そこには自分の作曲されたものがあったからだ
でも記録していたので再現されたという
だから問題があっても削除することはよほどのことでないとあってはならないことであるそしてインターネットの恐怖はパソコンの恐怖は一瞬にして記録したものが消える
そしたらこれまで苦労して書いたものが水の泡となる
それも重要なものがあり後世に残るものもある、芸術作品もあるからだ

ただインターネットでは無数にあるからこんなもの消してもどうってことないとなる傾向がある、でも今ではまともな人が相当に書いているからこういう対処の仕方は許されなくなっている
削除するときはよほど慎重にしなければならない
さくらのプログでは一回料金を払わないで全部消される所だった
その時自分は病院に入院していてメールとか見ていなかった
自分はメールとかコメントをこまめに見ていない、ただ自分の言いたいことプログに書いている、対話はほとんどしていないのである。

今はホームページに書いたものやプログに書いたものを整理している
つくづくそこで感じたことはその大半を忘れているということである。
自分の書いたもの忘れている、こんなことを書いていたのかとかこんな俳句や短歌を作っていたのか詩を作っていたのかとあらためて感心しているのも不思議である。
人間はともかく忘れる、だからプログでも何でも記録していないと思い出すこともできなくなる、人間はこれだけ忘れるのだから記録するだけでも必須なのである。
そうでなければ過去すら忘れてたどることもできなくなる
そういう点でプログは読まれなくても記録するだけで後で役に立つ
ただ自分の場合膨大なものになっているからそれをたどり読むことも苦労になっている

ともかく今回一つのパソコンから書き込めなくなったのはショックだった
それはさくらの方で操作したのではない
パソコン自体の不具合から外部からの操作なのかもしれない、それはわからない。
でも書き込みだけができないということが不可解なのである。
さくらのプログはホームページでもプログでも全く不干渉である
何を書いても自己責任でしろとなっていて干渉していない
プログランキングなどもしていないし宣伝もない
ただプログとしてはマイナーなのでアクセス数が上がらないということはある
でも10年間してアクセスは10万ページビューにはなっている

インターネット上で読まれことは至難である、ただアクセス数となると一カ月百万ページビューのサイトでも自分にはつまらない、かえって大衆受けしないとテレビと同じく視聴率はアクセスはとてもとれない、高級なものになると余計にそうなる
俳句とか短歌とか詩になるとそもそも読む人が少ない
だからどこでもアクセス数は少ないのである。