立葵
(俳句は単純な写生で深い意味をもつーデジタルカメラが不可欠の時代)
燕が飛んでいたがうまくとらえられなかった
この木はあまりいい木ではないがこれも写生である。
夕方の夏の雲
全部クリック拡大しないと見栄えがしない
のうぜんの玄関に散り蟻歩む
また一つのうぜん散りぬ玄関に
五六輪藪甘草や木の根元
立葵その明るさや燕飛ぶ
立葵高くも伸び咲きつばめ飛ぶ
明るくも笑い微笑む立葵
立葵風にそよ揺れあまた咲く夏の雲湧く朝に映えにき
野馬追いの頃にのうぜん咲きぬあまたかな一輪散りてまた散りにけり
夏らしい雲が湧いていた、今日は紫外線計測器で昼間が8とるなと厳重警戒になる
日ざしが強い、熱中症になったから無理はできない
でも毎日二回くらい買物で出なければならない
それと運動と気晴らしのために外にでる
食事はほとんど買ってすませている、家事からなにもかも一人でやる時間がない
俳句はつくづく写生である、単純な写生でも深い意味をもつ、短いから写生に徹しないと芸術になりにくい、いろんな説明もできないからだ
のうぜんの花が散ったところに蟻が歩んでいる、それがまさに写生なのである。
五六輪藪甘草が木の根元に咲いている、それも写生である
それは詩を作るようにイメージで作っていないありのままだからである。
ありのままだけどそこに深い意味が見いだされているのである。鑑賞する人はその意味を見いだすことが必要である。
俳句はともかくシンプルがベストである。短歌となると表現の幅が広がるからまた違っている
野馬追いの頃になるとのうぜんが咲き始めるからにあっている、藪甘草も咲く、だからこの辺では野馬追いが迫ってくる時に咲く花だと意識する、それは土地柄だとなる
そういう土地柄があるのが文化だともなる
いづれにしろ現代はなんであれ写真の時代である、写真なくして情報もありえない
デジタルカメラの威力が大きい、写真にとると見えないものが見えてくる
それが発見なのである。ただ肉眼でしか見えないものもある。
写真でしか見えないものもある、立葵とのうぜんの花がそうだった
微細なものはデジタルカメラが映し出す、人間の目には見えないのである。
俳句はだからデジタルカメラなしではありえない
写生もデジタルカメラと融合してありえる時代である。
その写真もインターネットだと出しやすい、他のメデアは出しにくいのである。
雑誌でもこんなに写真をのせられないからである。
夏は近くでも被写体となるものが増える、だからカメラを絶えず持ち歩いている必要がある。
ともかく今日も暑かった、クーラーの部屋に一日いるほかない、今前のホームページとかプログの記録の整理があり仕事がある。これも骨がおれる
プログは記録しにくい、なんとかまとめて整理する、それが膨大だから結構な仕事になるホームページを二〇〇〇年にはじめたからすでにプログも十年であり一七年間も書き続けている、だからふりかえりまとめる必要がある