2017年07月05日

夏の雲(駅の風景写真)


夏の雲(駅の風景写真)

summercccc2222333.JPG

summercccc11.JPG

一人待つ駅舎にあれや夏の雲

高校生夕べあまたや夏の雲


今日は結構乗り降りがあったが何か語るべきものはない、夏の雲が夕方に湧いていた、
駅というのは駅にただより見に来る人がいる、車でくる
野馬追いの写真を見ている人があった。何か様子をさぐりにくる人がいる
駅は広場的機能がある、ここでは道の駅がないから街の中心として外からの人もよる
一番利用しているのはトイレである、ここのトイレはきれいである。
JRが障害者施設の人に委託して掃除させているからだ
新しいこともある。これも実際は市でも関与せねばならないものである。

だからJRだけに金を払わさせるというのは良くない
鉄道は駅と一体としてある、その駅は街と一体としてあった
だから駅前通りになっていたのである。
それが車社会になったとき街と分離してしまったのである。

今日は夜に9時ころ10人くらん原町に行く人がいて乗った、めずらしいと思った。
何かここで会合なのかわからない若い人が集まったらしい。
夏だから人が夜も乗り降りすると活気がある
夏の月が輝いていた

三日くらい熱中症になり駅によらなかった、駅も日立木のような駅だったら淋しい
一人くらいしか乗り降りしない、それこそ無人駅なのである。
やはりある程度人が乗り降りして交わると活気がでてくるのである。
鹿島駅はそれなりに乗り降りがある、仙台に行く人がかならずいる
一番多いのはどこでもそうだが高校生である。
小高には高校生が300人とか中学生なども加えると500人とかいるといっていたから
駅もにぎわっているだろう。それだけが活気があるとなる
鹿島駅より高校生を見れば活気があるだろう。
その他は乗り降りする人はまれだから淋しいとなる

夏の雲がでていたけど写真では実際見た感じがでていない、何か平凡である。
そういう時がある。写真も万能ではない、ただもし入道雲のようにもくもくと湧く雲だったら目立つ、そういう写真をとることはむずかしい。
その時々の様子をリアルタイムで報告するのがプログの醍醐味である。
ただたいして報告することもなくなっている



タグ:夏の雲

残されるべき神秘の領域(サンクチュアリー) (飯館村への道の詩)


残されるべき神秘の領域(サンクチュアリー)


(飯館村への道の詩)

iidatevvvv111.jpg

神秘の領域

深い森の中に
揚羽が一羽
美しい羽を広げる
そを見る者は誰か
そのたまゆらの美
揚羽は森深く舞いさる
深くつつまれた森に
宝石のように
秘められて
たまゆら現れて消える
その森へ行く道は
草むして
あると思えば消える
人間の入るのをこばむように
そういう神秘の領域
サンクチャアリーとして
心に平安を与える


人間の思想形成は自然と離れてありえないだろう。政治とか経済の話ばかりになるのも耐えられないだろう。そういう世界の中でオワシスとなるべき所が必要である。
都会になるとそれがなくなる、ただ都会にも規模があるから10万くらいまでは郊外があり自然もある、相馬地方だと相馬市と原町と鹿島とか小高とか浪江とかでは感覚的に違っていた、飯館村となると森におおわれた神秘の領域になっていた、そこから発想されるものは自然と深く結びついていたのである。今も別にその自然が消失したというのではない
森は残っているからだ。

飯館村というとき飯館村に入る所も森がつづいている、南相馬市でも浪江でも相馬市でもそうである。この辺は高い山はないが森がつづいている、丸森が森とあるごとく森が深いのである。ただ杉林にはなる
そういう森が現実にあるというときそこから詩でも思想も生まれてくる

飯館村に入る道はいくつもありそこは深い森を通ってゆくのである。
そこは深い影をなす道である。飯館村は森の国だった、70パーセントが森だったから除染もできないのである。
この辺の自然の魅力としては飯館村は欠かせないものとしてあった
もちろんその村が消失したとかはない、でもその村があまりにも変貌してしまった
メガソーラ場とか田んぼでも土が削りとられるとフレコンバックがつまれているとかで
森の国としての自然と融合した昔の村ではない
それはこの辺でも山の方はそうなっている

ただこのサンクチュアリーはかなり日本でも消失している、ただ北海道は全体的にまだ残っている、自分はそうした自然から詩を発想して書いてきた
それは相当な量になるがこれはその一部である。
芸術は都会からは生まれない、自然が最大の芸術品であり人工的な風景にばかり接していたら心は荒廃して安らぎもないのである。
だから飯館村とかは貴重な場だったし他に橲原(じさばら)村なども心の中に常に反映してきて安らぎを与えるのである。

確かにサンクチュアリーとなると観光資源にはなってもなかなか経済的効果がない
その経済的効果がないことに価値がないのかとなるそうではない
精神的な価値がある、自分が古代文明に魅力を感じるのは自然と結びついて文明が作られれてた、マヤ文明でもカンボジアのアンコールワットでもエジプト文明でもそうである。そこに神話が生まれるというとき自然と融合していた文明だからである。
現代文明はただ経済の規模の増大であり技術の発展だけを追求している

今からふりかえるとアニミズム的文明とかなるがそれも自然と深く一体化していたからそうなったのである。科学技術文明とはそうしたアニミズム文明とは正反対のものにある
でも自然から遊離しているから危険な文明ともなっていたのである。
アニミズム文明とはそれぞれの地域に生態系があり必然的に発生したものである。
もちろん偶像崇拝として拒否するべきものでも自然と切り離せない密着した生活していた人々にとってはそれは必然だったのである。

この辺では葉山(端山)信仰などは稲作と密接に関係していて生まれたのとにている、水の管理が必要でありそれが山に負っていたから生まれた
もし本当にそうした自然と一体化して生活していたら原発など拒否していたろう。
そういう生活が遅れているとかと見るのは現代文明からの見方でありそれが災いを生んだ
夏でも飯館村にゆく道は木蔭の道がつづき涼しい、ただ自転車でそこまで行くのが日射病になってから怖くなり行けない、でも心の中にいつも近くの自然は反映されているのである。

posted by 老鶯 at 10:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村