2017年07月27日

原町駅の前で報道機関の人と出会う (野馬追いの取材で来た)


原町駅の前で報道機関の人と出会う

(野馬追いの取材で来た)


29日(相馬市:鹿島区)30日神旗争奪戦(原町雲雀が原)

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本陣山を上る

ここは急な七曲がりの坂を上るから力がいる

ここが一番祭りで迫力を感じた


 

どこの報道機関かはわからない,原町の駅前で野馬追いの報道機関用の用紙を読んでいたあれは雲雀が原で柵の中に入れる許可証である。
また必ず写真とる人がいてその人も一年前くらいから許可証もらっている
そして場所を確保する

でも今日は27日であり29日が中村神社から今の相馬市から出陣して北郷(鹿島区)で合流する,7月30日が雲雀が原で神旗争奪戦である
27日,28日ととまって帰るのかとなる

遠くから東京辺りから来ると交通費とか宿泊代がかかる,二人来ていたからそうした出費がある,報道には金がかかる,そしてどのように報道するのかとなるとそれも問題になるまず一応そ木土地の歴史をある程度知る必要がある,でも簡単には知ることはできない
報道となると結構手間がかかるしノウハウとか学も必要になる

ただ仕事として記者は面白いかもしれない,プロクで報道しているのは記者でもある
写真を撮って報告すればそれは記事である。
ただ報道機関の人は雲雀が原で柵の中にと入れるので特権がある
いい場所が与えられているからいい写真がとれるとなる

ただ野馬追いの写真は地元でもいいものがとれない,それは一回限りであり通りすぎて行くのが早いからいい写真がとれないのである。

中村神社と太田神社と小高神社が雲雀が原に集結して中村神社の神輿を雲雀が原の本陣山を上る時が見物である。ここで昔の相馬藩が一体化する感じになる
そしてあの坂が急なので神輿を上に上げるのが難儀する
馬でもそうだが神輿をみんなで担ぐとき何か相馬藩として一体感を歴史的に体験するのである,あれは氏子だけで担げないので会社員に頼んでいるらしい。
かなり力があり若くないとできない:そもそも祭りは若い人がその村をになって受け継ぐものとしてやっていたのだろう。
その若い者が村からいなくなくなるとき祭りの継承もできなくなるのである。

野馬追いには別に老人でもでている:でも甲冑も重いし暑いと楽ではない
旗取りにはだから若い人しか出れないだろう,40代でも50代でもでているかもしれないがきつい,鹿島区では二組でる:旗がたっていたからだ
街内ではほとんどでたのを見ない:それは相馬市でも原町市でもそうである。
ほとんどは農家からでる,もともと農業をしていた侍であり郷士と言われた人たちである中村に今の相馬市の城に移ってから城勤め人のが増えたのである。

野馬追いでは500人出るとしても全体の人数としては極めて少ない,10万くらいの人口があるのに五〇〇だとなれば少ないのである。
江戸時代はどのくらい出ていたのかもっと出ていた
飯館村が山中郷として出ていたし数は多かったろう,今でも飯館村で野馬追いに5騎くらい出ているという。

ただ地元でも参加できるのはそうした歴史的由緒ある者だけであり他は参加できない
野馬追いは歴史保存のためにある,だから何か相馬地方全員で盛り上がるふうにはならないでも相馬藩が一体となる祭りでありそこに意義がある

今日は涼しいので一カ月ぶりくらいに自転車で原町に行くことができた
原町駅にはやはり来る人が違っている,報道機関の人がくるのは原町である。
ホテルもあるからどうしても原町になる
ただ原町では話しかけにくいと思っていた,でも話しかけたら報道機関の人だったのである。他にも相当数報道機関の人がくる
再興に盛り上がったのは震災と原発事故で祭りが再開されたときだった
その時復興するという祭りとなっていたからだ

でも今となると何かもう外部からも忘れられるということがある
関心が薄れている:今でもまだボランティアは来ているが下火だろう
災害は各地にありそっちの方に移ってゆく
横浜から来た工事関係の人は見たいと言っていた
原町の行列は10時頃行かないとみれなくなると教えた
行列が早いのは五〇〇騎となると相当な長さになるから時間もかかるからである。
だから早めに行って見た方がいいとなる

ともかく震災から6年すぎてこの辺は一体感が失われた
相馬市だって補償金で不満が多いのである。そこにも仮設に住んだ人たちがいるからだ
また今は復興住宅などで浪江とか飯館村の人が住んでいる
そういう人たちとも一体感が失われる
だから野馬追いはそうした一体感をとりもどす祭りとしてはいいとなる

2017年07月28日

日本人には外国人メイドを使えない (主従関係が作れない)


日本人には外国人メイドを使えない

(主従関係が作れない)


日本にバックグラウンドのない外国人メイドを雇うなら 
はっきり主従関係を作らないとお前の財産は奪われ 
下手したら殺されるかもしれない 
それぐらい外国で育った環境は日本のと違う 
それさえも周知しないで 
外国人家政婦を始めるなんて間違い 

責任の所在もあやふやのまま 
数件家政婦が主人を殺す事件が続いたころは 
一儲けした企業も撤退して終わり 
こんなの目に見えてる

日本人って白人みたいに移民を奴隷扱いできるわけがないのがよくわかる。 
むしろ日本人が奴隷になってるよ。


自分の家でお手伝いさんを使ってわかった。お手伝いさんといっても一時間もいないから家政婦とも違う,今だって皿二三枚洗うだけである。10分で終わる

むしろ日本人が奴隷になってるよ。

まさに自分の場合はこれだった,どっちが使われているのかわからないのである。
一人は本当に大金を奪われたしへたすると殺されるかもしれないというのは経験でわかった,経済的差がありすぎると人間は危険になる
そもそも人間だからなぜこの家はこんなに金があるんだと家に入ると実感する
その差が大きすぎるから不満が大きくなるのである。

主従関係がある社会なら通用する,江戸時代だったら侍階級がいて仕える者がいた
それはそういう社会の中で生きていたからできたことである。
戦前でも中産階級で二人も女中を雇っていたというとき家事労働が女性の働き口であり他にないからそういう社会で女中という仕事が一般化していたからできた

今は一般の家庭で家に入れて女中を雇うことはできない,大金持ちであるならばできる,でも30万くらい月給を払わないとできないしそういう家政婦を雇うことが習慣になっているような金持ちでないとできない,日本では外国人をただ安く使おうとしているだけである。

そして戦後は徹底して平等を教育で教えられてきたのだ,平等意識が極端化している
あらゆることが平等でないと不満になる,才能でもなんでも平等であり才能があったとしてもみんな同じでなければならない,突出したものは許されない社会である。
日本ではもともとそういう平等社会だったけど民主主義になって極端になったのである。家の中に入るとその差が目に見えてわかるから家の中に入れることは危険なのである。
なぜここの家はこんなに贅沢なんだとかなり不満が大きくなる
それが具体的に目に見えてそうなるから危険になる

日本では平等意識が強いというとき雇う方でもそうなのである。お手伝いさんが家族の一員のようになってしまうのである。それはいい面でもあるが外国人を雇うとしたらそうはいかない,外国人も人間だから家に入れば家事だけではない人間として扱うとなるとめんどうになる,日本人はやさしいから余計にそうなる
すると家事だけではないその他に負担が増えることは確かである。
危険も増してくる,外国人だといつでも国に帰るということもあり一時的だから余計にそうなる

ヨーロッパでは貴族がいて階級制度が歴史的に作られてきた,ローマでは奴隷を使っていたとかそういう歴史がある,スラブ民族のスレーブは奴隷の意味である。
奴隷になる民族がいたということである。そういう伝統があって召使を雇うことができていた。でも結局相手が人間だから黒人でも平等を要求してくるし今でもその問題は解決していないのである。
つまり人間は機械の部品ではない,その部品のように人間は使いないのである。

江戸時代の主従関係は歴史的に作られてきたものである。戦国時代に生死をともにするということで強い絆が作られてきた,それはもう現代のような金だけのつながりではない
精神的に強いつながりを歴史的に形成されていたのである。
それは家族ぐるみであり地域も一体化して作られてきたのである。
ヨーロッパではさらにそういう伝統があり言葉まで庶民階級とでは違っていた
ただ日本でも侍言葉がありそれを庶民が使うようになったこともあるからにている

いづれにしろ普通の家庭で外国人をお手伝いとして家政婦として雇うことは日本ではむずかしい,そういう伝統もなくなっているしそういう社会でもなくなっているからだ
ただ便宜的に金で雇えばいいとはならない,人間は何でも金では解決しないのである。
家事は機械化して今では一人暮らしでも困らないのである。
一人の人間が外国から入ってくることはその背景に国の歴史とか宗教とか様々なものがもちこまれるのである。そこに衝突が生れてテロにもなっているのがヨーロッパなのである

では人手不足をどう解決するのか?それは日本で別な方法で解決するほかない
外国人を安易に入れると日本社会そのものが変質してくる
それでも外国人を入れるとなると相当な覚悟が必要になる
日本社会が変質してもいい,外国人を許容する,そういう寛容さをもつ
でも本当に日本人がそれをできるのか?それに耐えられなくなるだろ。
外国人を入れるとすると簡単に安い労働力としてだけではすまなくなる
その覚悟があれば国民にあれば入れるということはできる
安易に外国人を入れることは危険になる
posted by 老鶯 at 11:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家) (只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)


野馬追い(鹿島村(北郷)で旗が立った家)

(只野(ただの)系統は杉の旗印-菊の紋も南北朝の争いに由来か?)

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ここになぜ旗が立ったのかわからない
勝手にはたてられないはずである
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ここはいつも立っている
ただ記録では鹿島村の旗印にはない
原町の北原に鷺の旗印があり他にもあるが鹿島村にはないみたい
だから他から移り住んで来た人かもしれない

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これは霊山城炎上の時,落ち延びた者に由来する
桑折とかはの姓はそうだからである。
只野:桑折とか菊地の姓がそうなのかもしれない,南北朝の争いで落ち延びてきた
一団だった,杉の紋と天皇の菊の紋はそうだった



只野家について考察したが南北朝に由来して古い家系である。その元は郡山近くの多田野村だったのである。

平景政(鎌倉)までたどれる只野氏の由来
 (奈良の三輪山に野馬追いの杉紋は由来している)


南相馬市鹿島区に多い只野(但野)氏の謎 (お浜下りの祭りのおつづら馬の話ー野馬追いの旗印は杉紋)

この杉紋は古代の奈良の三輪山から生れたとするといかに古く由緒あるものかわかる
そしてこの杉紋を旗印とするのは鹿島村から他にも広がっている
この辺では電話帳を見ればわかるが只野姓というのが多いのである。
只野一族系統がこの地に根をおろして広がった,それは南北朝の霊山炎上から落ち延びた侍だった,その落ち延びたものが祭りとなったのが江垂(えたり)のお浜くだりき祭りである,只野家がその祭りで重要な役を受け継いでいたのである。

そのことは近くの同級生がいて教えられて知った,その人は脳梗塞になり九死に一生を得た,でも最近土手を歩いているのを見ないな,まだ生きているのだろうかともなる

杉の紋の出ている村

宇多郷(中村) 伏見

下栃窪村 只野六郎

岡和田村 只野津右衛門

小池村 只野三郎衛門

鹿島村 只野善衛門 只野仁右衛門

横手村 只野仁衛門

只野一族は鹿島区中心に広がった,宇多郷にもあったのは鹿島村を基にして広がったのである。

次に天皇の菊の紋が鹿島区の町内に旗がたった,これは何に由来するのか?
堀川忠三郎 菊地義兵衛 菊地重朗治 桑折利平治 遠藤八朗(北屋形村)が記録されている
これは天皇の御紋である,それはおそらく南北朝の争いのとき,天皇の旗印として使ったのもかもしれない,正当性を主張して旗印にしたのかもしれない。
なぜなら明治維新でも菊の紋の錦の御旗が作られたからである。
日本では動乱になると天皇の主導権争いになるからだ
そして桑折氏も霊山炎上のとき落ち延びた一族でありその系統も菊の旗印であることもつながる

つまり野馬追いの旗印は鎌倉時代にさかのぼり南北朝の争いからはじまっている
だから旗印を見るとき南北朝の争いも思い起こして見る必要があるともなる
相馬氏は南北朝の争いにかかわりこの地方を制覇したのである。

野馬追いの旗印は何を意味しているのか?また何に由来しているのかわかりにくい,一つの系統として南北朝の争いに由来しているものがある,それが一つの謎を解くものとなる

posted by 老鶯 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年07月29日

相馬市の野馬追いの出陣式を見る


相馬市の野馬追いの出陣式を見る


出陣や法螺貝鳴りて朝の蝉

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去年見た疲れなのか何なのか倒れた馬



相馬市の野馬追いの出陣式を見てきた。
6時半き電車で行った:千葉県柏から何人か野馬追いを見に来る人がいた
その一人が駅前のすぐまえの角の家が実家だった
そこから学校に通った,便利な場所だった
相馬の出陣式ははじめて見た

和歌山県から来た夫婦がきた。

「和歌山県ですか,和歌山城には上りました,石段の坂が長い
いい城でした,ここは石垣しか残っていませんが・・・」

こうして日本はたいがい旅しているから話を合わせられるのである。
和歌山城の石段は長いのである。そこが印象として残っていたのである。
何かを旅では印象として残す必要がある
でも何が後で印象に残っているかはわからないのである。
和歌山城の特徴はあの城の石段だったのである。

出陣式には相馬市長と相馬市長が訓示した,鹿児島県とかの市長とかも他にも来ていた,挨拶はどちらも震災の復興と原発事故の復興を一丸として成すということを言っていた,まだこの辺はそうなっているのである。
復興のための野馬追いがつづいているとなる

雨が少しふっていた,それぼどの雨ではないから良かった
激しく馬が横転して落馬した,人の乗っていない馬が通りをはしりぬけた
こういうことは野馬追いに常にある,落馬するのは相当に危険である
この前は馬が倒れたりした
馬というのは実際に今はじかに見ることがない,競馬でくらいしか見れない
馬が何なのか実際はわからなくなっているのだ。
馬を使っていたとき落馬することは常にあった,馬はそれだけ乗りこなすのがむずかしいのである。へたすると大怪我をする

落馬止め天神

その安徳天皇の怨霊がずっと頼朝をつけ狙い、ようやく稲村ヶ崎で姿を見つけ、頼朝を落馬させたというのです。

毘沙門堂は南向きに建てられていましたが,東海道を通る大名が次々に落馬
毘沙門様を素通りしたためではないかと人々は噂しました

 上落馬橋(黒目川)

 「落馬橋」は旧小金井街道(鎌倉道)に架かっている橋です。
江戸時代、武士が橋のたもとで馬から落ちたのでこの名前がついたということです。

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交通事故にかからないように今なら祈る,落馬は常にあった,自分が見たのは馬と一緒に横転したのである。競馬でも落馬は常にある,それが致命傷になる場合もある
競馬でも9頭が落馬した記録もある,馬に乗った経験があれば本当に落ちることが怖い
モンゴルの馬は小型だからそれほどでもない,日本の馬は大きいし高いから落ちることが恐怖になる

これだけ落馬することは恐れられていたことがわかる,それが神様とか仏と結びつき罰だとしている,そういうことは今でもカルト宗教団体とか他でも言う
何か不幸があると仏罰だとなる,ところがカルト宗教団体でもいつも不幸は他より起きている割合が大きいのである。
ただ当時は神様とか仏様にその原因を結びつけることが多かったのかもしれないさ

「東大寺の大仏を焼いた平家の味方をするな」となときこれは寺側の勝手な解釈である。日本は無宗教だとかいうけどやたら神社や社や祠が多い,寺も多い,それはこうして何か縁起が悪いとかなり結びつくのである。
ただ今でも交通事故なども落馬と同じように縁起が悪いともされるから同じことがつづいているのだ。

ともかく馬というのは実際の生活から消えたとき何かわからなくなる,競馬くらいでしか馬に接しないからである。馬と人間が暮らした歴史は長いのである。
それがまるで忘れられたとき馬についてイメージもできないのである。
馬が糞したりするし道は汚れる,馬が頻繁にいななく,そういうことも実感としてわからないのである。だから野馬追いではあれだけの馬が出るから実感する
馬は大きいから500頭も行列すると迫力がある

戦争でも馬の力は大きかった,義経のひよどり越えとか馬にかかわることはいくらでもある,馬は明治以降もずっと活きていた,荷馬車としても農耕馬としても使われていたからである。太平洋戦争でも馬が活躍していたのである。
日本でも南京とかに入場するとき馬で行列して入場している,仙台の寺には戦争で死んだ馬を供養しているのである。
野馬追いは旗とか甲冑とか見ることもあるのだが馬が蘇る時でもあるのだ
それは競馬とは違うのである。馬があった時代を偲ぶ祭りでもあるのだ
馬にしても何か競馬だけにギャンブルだけに使われるのは本意ではない
野馬追いは本来の馬として活かされる時なのかもしれない

馬を扱うことに優れている→国の力が強くなる

だから相馬藩では雲雀が原で馬を放牧して軍事訓練をしていたのである。それは平将門からはじまっていたのである。 
現代は機械を扱うことに優れていることが国力になっている
馬を知らなければ生きていけない時代があったのである。

出陣式が終わり今度は鹿島に電車で帰ってきた,駅前でタクシーを待っている若い女性がいた。その人は海老原さんの所に行くという,宇多郷と北郷(鹿島)が個々て合流する儀式があるからだ,その人はなぜ海老原という姓まで知っていたのか?
その女性は前も来ていたのである。だから詳しくなった
京都ならいくらでも祭りがある,でも野馬追いに魅力を感じる人もいる
歴女なども増えてきた,そういう女性なのかもしれない,
ただ野馬追いは一回見ると終わりだとも良く言われる:何回も見る魅力がない
それは決まりきったことの繰り返しだからである。
地元でもあきるということがある

ただプログなどで紹介するときこれも一応紹介するとういことでマスメデアの取材とにてくる,何か絵になる写真が欲しいとなる
取材するとは見方がただ漫然と見ているだけではない,何かを訴えるものを写真として出し面白い記事を書こうとするのである。

野馬追いは確かに相馬の城跡から出陣するのだが盛り上がるのは原町の方である。
そこに全騎馬が集結するからである。今年は430騎出場するという。
500のときもあったから多少少なくなったいる
今日はこれから鹿島(北郷)に宇多郷と合流する儀式がある
これも何回も見ている,ただ海老原さん所から街へ行列する所では撮影ポイントがある
田んぼの中を通るから絵になまるのでそこにカメラを構える人が多い
他は街中になるのでてかなかそういう撮影ポイントはない。
posted by 老鶯 at 16:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年07月30日

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る

標葉郷(浪江,双葉,大熊)が野馬追いに出る


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北郷(鹿島)が来る

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風林火山ではないけど風の旗印である



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標葉郷の大将

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末森監物
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これは標葉郷

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これは大堀村

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田尻村の旗印は出ていた


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中浜村(大熊)

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両竹村
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吉田という人は出ていた


相馬 昌胤(そうま まさたね)

元禄2年(1689年)3月2日、将軍徳川綱吉に召し出されて、奥詰になった。同年6月4日、側衆に転じる。同年8月21日、側衆を辞職する。

千葉氏が源頼朝から奥州の小高に領地を受けた後、千葉氏族・相馬重胤が移り住み、南北朝時代の初期は南朝が優勢な奥州において数少ない北朝方の一族として活躍した。南北朝の争乱が収まるとやや衰退し、室町時代後期には標葉氏を滅ぼしたものの、それでも戦国時代初期には行方・標葉・宇多の3郡を支配するだけの小大名に過ぎなかった。

陸奥相馬氏は現在の浜通り夜ノ森以北を鎌倉開府から戊辰戦争終結に至るまで740年もの長期にわたって統治したため、相良氏や島津氏とともに世界史上にも珍しい領主として知られる。

中世の柏市を含む旧相馬郡を支配した相馬氏は、将門の子孫であるという伝承は良く知られています。

標葉郷(浪江)-末森村の謎

今回は標葉郷の旗印が目立った,標葉郷とは主に浪江だけど今の双葉郡や大熊町が入っている,ここは原発事故で最大の被害を受けたのである。
歴史をさかのぼると室町時代にすでに相馬氏の支配下に入っていたのである。
だからずいぶん古くから相馬氏の領地になっていた
ただ野馬追いというと小高と中ノ郷(原町)と北郷(鹿島)と宇多郷(相馬市)が中心として行われていると思った。
でも標葉郷も相馬氏に服属してから古いのである。

何か掛け軸があり竜の絵が描かれていたがそこに相馬 昌胤(そうま まさたね)と筆で書いてあった,相馬昌正胤は藩主であり元禄時代の人だった
こうした古いものが残っていることでも標葉郷は相馬氏に服属して古いのである。

標葉郷騎馬会は出陣式に先立ち、相馬家第二十一代当主の相馬昌胤(まさたね)公らの墓所がある浪江町の大聖寺を訪れ、

相馬昌胤(まさたね)はここに由来していた,聞いた人は若いから知らなかった
肝心の野馬追いに出る人が歴史を知らないのはまずい

その標葉郷は主に浪江であるが双葉郡も入っている,長塚村とか新山村とかある。
ここに自分の父親が酒屋の丁稚をしていて姉から話を聞いているので親しみがわくのである。何か両親とか祖父母に直接話を聞いたことは心に残る
だから歴史は祖父母から話を聞くことからはじまると書いたのである。

その中で末森村があり末森監物と名を記した人が出ていた,そのことは前にも考察した。泉田村に月に波模様の旗印がある,両竹村にもある。月に波模様の旗印が今回目立った
これは標葉郷のものである。
十字の旗印は大堀村のものである。大堀村はもう住めないとされている
そこから出ているのも歴史である。

野馬追いは歴史の保存だからこうして歴史をたどらないと鑑賞できない
だから外から来る人は地元でも旗印が何を意味しているか良くわからないのだから
何なのだろうとなる

それで威勢のいい60代なのか女性が声をかける,野馬追いは何か地元でも盛り上がらないなと言ったらその女性も同感していた
歴史の保存だからやむをえないが勝手に侍の家でもないものが出れないから盛り上がらないと言っていた。
この辺ではそのことをみんな思っている:ただ行列を見ているだけだからである。
歴史の保存だからやむをえないとしても侍の家でなくてもその後に分けてみんなが参加できるものにすれば盛り上がるかもしれない

今は村というのもだけではない,あまりにも社会が変わりすぎたからである。
すると会社の代表とかが出ればそこに勤めている人も知っているから盛り上がる
何か馬場がありそこをもっと利用して馬になれれば出れる
そして旗印をそれぞれの会社とか地区でもいいから作り出れば盛り上がる
ただたいだい祭りは歴史の保存だから勝手にやると乱れてしまうから拒否されるのかもしれない,でもそうすると盛り上がらない
小高で何か儀式があり女子高校生がその儀式をしていたとき高校生だとまとまって若い女性が確保できる,高校以上になると会社勤めでも別々になりまとまって今は若い女性はいない,早乙女踊りなどがあるがそれももう村だけでは若い女性を用意できないのである
すると祭りが継承できなくなる,現実にて中村神社の神輿は氏子だけではできないので
会社員の人に頼んでいるのである。
みんなが会社員の時代になれば必然的にそうなってしまうのである。

南相馬市の姉妹都市としてしてカナダのペンデルトン市がありその女性はそこに行ったという,そこも馬が縁で姉妹都市になった。
その馬はカーボイの馬であり荒馬を乗りこなすことであり牛をつかまえたりと荒っぽい祭りである,ロデオとかなると野馬追いで馬を乗る人より馬を巧みに使う人でないとできない,それはアメリカのカーボイでありインディアンも関係していた
もともとインディアンの土地だったからである。


オレゴン州ペンデルトン市(カナダ) 

いろんな人がいるが鹿島駅前の角が実家の人は千葉県の柏市から来ていた,そこは千葉氏とかかわり相馬氏が出た所だったのである。流山市とかとも姉妹都市になっているのもそのためである。
ともかく野馬追いは歴史を見ないとわかりにくい,旗指物もやはりどこの村から出たのかとかわかるとそうかとなる
今回は標葉郷に焦点をあててみることができたが後は曇っていて写真はきれいにとれていなかった。写真は場所にもよるし野馬追いではすぐすぎさるからいい写真が以前としてとれないのである。やはりいい写真をとれる場所が大事になる
撮り方もアップでとらないと映えない,今回は写真はきれいにとれてかった
神旗争奪戦は見なかった,天気は多少晴れた,でも曇りであり涼しいのは良かった
最近涼しいし風が気持ちがいい,だから熱中症にはならない
こういう気候の方がいいが写真はいいものが光の関係で撮れなかった

2017年07月31日

ボランティアにも動機がいる (介護でも犯罪でも動機が必要)


ボランティアにも動機がいる

(介護でも犯罪でも動機が必要)


仙台の松島の人が今回の九州の水害にあった所にボランティアに行っていた,そんな遠くまで行ったのかとなるがこの辺でも福岡市から来た人がいた
交通費だけでも大変だろうなと思っているがそれはどうなっているのかわからない
その人が言うには津浪で世話になったから恩返しだという
それが動機になっていることが災害の時など多くなった
もちろんこうした動機がなくてもボランティアしている人はいる
でもそうした明確な動機があるときボランティアも報酬無くてもできる

何か人間は動機がモチベーションが何するにも必要なのである。
働くにしてもそうである。ただ金をもらいたいというだけで働いているのはまさに奴隷なのである。何かしら動機があって働く意欲が生れる,その時人間は本当に働いているとなる
そういうことは介護では本当に動機がないとできない,肉親でもなんても介護は辛いから動機がないとできないものだろう。
自分がやれたのは動機があったからである。一番自分は親であれ家族に良くされたのである。だから恩返しだったから必死にした,介護のとき兄弟でもお前は一番かわいがられたからお前が介護しろとか言われる,それもそうだと思った
兄弟でも動機がないとできないからである。
遺産目当てが動機となるだけではなかなか介護もできない

動機というとき推理ドラマでは常に動機が重要なものとして追及している,人を殺すくらいだと恨みだとか何か強烈な動機があるはずだとなる,だからまず動機をさぐる
関係者を探して動機を探るのである。犯罪でも動機があって成り立つとなるから動機を探す

ボランティアは自由意志でするから報酬もない無償の労働だというとき動機がないとなかなかやれないだろう。水害の後片付けなど結構重労働になるからボランティアでも辛いとなるからだ,何のためにしているのかとなるからだ

ではなぜ自分が無人駅のボランティアをしているのか?
それはたいしたことではないし誰も別に自分が働いているとも認めていない
ではなぜそんなことをしているのだろうか?
暇だから生きがいを求めてというのもボランティアにある,それが60代以上が多いことでもわかる,生きがいを求めてするとういのも動機なのである。

自分の場合は鉄道旅行が長い,すると今になると鉄道会社には世話になったということを思うようになった,すると鉄道会社に対しての恩返しなのかと思うようになった
もう一つは駅は鉄道とだけ関係しているわけではない
その街とも関係している,そこに住む人々とも関係しているのである。
だから地元の人のためにするということが動機になる,地元に生きるならなにかしら世話になるから働くという動機になる
自分が駅でたいしたことでなくてもボランティアしていることは動機があった

要するになにかしら動機がないとボランティアもやれない,つづかない
ボランティアをしても報酬がないからそうなる,余計に報酬のある労働より動機が大事になる,趣味の畑をしている女性もボランティアである。
毎日嫌だ嫌だと言っているけど農業が好きだから自由意志でしているのである。
金銭的には損失になっているからそれはボランティアなのである。
でも農業が好きだからこそしている,それでとても生活の足しになるわけでもないからだ野菜でも何でも買っているからだ

いづれにしろ人間が60とかまで生きればなんらか世の中に世話になったことを自覚する
一番自覚するのは親には世話になったということを自覚する
それは人によりけりだか一般的にはそうなる,恩を感じるのである。
その恩は実は死んでからも感じる,意外と死んでからそういうことをその人のありがたみを感じる,その人がいるときはそういうことを感じないのである。
だから妻でも死んだときそういうことを感じる夫が多いのである。
それでいつまでも何回忌だとか毎日仏壇に祈っている男性がいる
それはやはり妻をなくしたショックがあり妻のありがたみを知ったからである。
それは宗教でも信仰でもないがそうなるのは死んではじめて妻のありがたみを知ったからである。

自分の場合もそうだった,60年間食事でもなんでもしてくれる人がいて自分はなにもしなかったのである。これほど恵まれたことはなかった
それが一転して介護となり自分が今度は世話する番になった
そして毎日今でも台所にたち料理して自分のことは一切自分でしなければならなくなったそのことは悲しいことであり自分を世話してくれた親に感謝したのである。
死んでからもその感謝の念が強まっているのも不思議である。
人間は死んでもやはりすぐに忘れるわけではない,自分を愛してくれた世話してくれた人のことは忘れない,かえって強まってくることがあるのだ

痛切に思ったことは自分のことを思う人が一人もいなくなったことである。
自分を思うとしても他人は金しかないのである。
それは本当に悲しいことである。皿二三枚あらうことさえ他人はしない,そのためになぜこんなに金を払わねばならないのか
と今も思う,人は他人を思うときもう金しかないのである
ただ今になるとそれも自業自得だったとなる
そういう非情を十年間経験したことで親のことをさらに思うようになったのである。 

ただ親を供養する気がない人もいる,それはあまりにも親のために苦しんだためである
それは親子でも恨みしかなくなっていたのである。
だから別に親子で恩を感じるとかみんなならないのである。
親でもよほどのことをしないかぎり感謝するとか恩を感じることはないかもしれない
自分の場合は特殊な事情で親に恩を感じて死んでも供養しているのである。

時刻表を見に来る人がまたいた (無人駅ではたりないものがある)


時刻表を見に来る人がまたいた

(無人駅ではたりないものがある)


鹿島駅虹のかかるや我のをり

虹残る電車の去りて駅にいる
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ボタン押すと乗車証明書がでてくる

外から来た人はここがわからない
ここが一番重要なのたけど・・・

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  切符を入れるものだがここも意外と外からの人はわからない

意外とはじめての人はわからないものなのである

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ごみ箱はホームにある

これも外から来た人はわからなかった


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ここはドアをあけるには押すとあかない

手を離してかざすと開く

ここに説明が必要なのである。

他ではコンビニなどのドアでは説明が書いてある



今日も孫が仙台に行ったからと迎えるに来る人がいた,その人は老人だからスマホをもっていない,デジカメももっていない,それで手で時間を書いていた
その人は良く会う人だったのである。
耳が遠くなっているとか言うけど車は運転できる
それでバチスロかなにか原町に行ったことを話していた
パチンコ屋も老人が多いというとき暇だからそうなる
学校の孫の送り迎えとかの人が良くくる

無人駅で困るということはある,特に外から来た人がわからない,乗車証明書があるのだけどそれがわからない,外にごみ箱があることもわからなかった
それからトイレの身障用のものが手をかざすとドアがあくのだけど
手を触れるとあかないのである。でもみんな手をふれて押しているのである。
これは何かその前に書いておけばわかりやすい,コンビニとかではそうしている

だから無人駅は外から来る人には困ることがある,説明が書いてあってもわからないのである。こういうことは外国だとあることだが日本でもわからないことがある
ここに住んでいる人はなれてきてわかるが外から来る人ははじめてだからわからないのである。

無人駅で何か用があるのか?やはり何か用があるときはある
掃除などもする必要がある,仕事とは何か?この世に仕事がないということはないのだ
まだ発見されない仕事が常にある,この駅では無人駅化して仕事が生れた
何でもこの世の中自動化,無人化できない,必ず人間で補うことがでてくる
英語だとわかりやい

need and fill

必要なものがあり満たすものがある,必要なもの足りないものが必ずどこの職場でもある職場でなくても地域でもある,ただ見いだされていないだけなのである。
だから満たさざるものを満たすというのが仕事になる
だから無人駅では満たされないものが生れた,それで仕事がかえって生れたのである。

今日は急に雨になった,これは局地的であり鹿島だけだった
そして虹がかかった,この辺で虹がかかるのは場所も時期も決まっている
にわか雨がふり夕方になると虹がかかる,これは法則のようなものである。
確率的に虹がかかる割合が高いのである。それは自然条件でそうなっているのである。
こういうのは偶然ではないから科学的にもわかる

駅には一日二回くらいしか行かない,でも何か用がある,それはやはり無人駅でたりないものが生じているということである。
だから駅の無人駅化は問題があるとみる,盲人とか反対しているのはわかる
ただコスト面では電車に乗る人が少ないのでやむをえないとなる
みんなが鉄道を利用して自治体でもかかわることが必要になる
トイレはJRで頼んで掃除していもらっている,でもそこは鉄道を利用する人だけではない車の人も利用しているのである。
つまり鉄道は自治体とか地区とかでもかかわり維持しないと保てないのである