2017年07月23日

カルマとは責任のことでもあった (カルマは責任をとらされること)


カルマとは責任のことでもあった

(カルマは責任をとらされること)


カルマというとき人間がもっている業のことだけどそれは責任のことである
人間は生まれたときから責任を課せられている、子供のときはその責任がない軽いだけなのである、だんだん成長するにつれてすでに責任が課せられている
なぜ子供が泣いて生まれてくるのか、笑って生まれてきてもいいはずである。
泣いて生まれるのはカルマを背負って生まれてきたから泣いているともなる
この世に生まれて来たことの重みを感じて泣いているともなる
最後には老人になると人生の結果としての責任を否応なくとらされる
そのカルマから責任から逃れることができないようになっている

健康というのも生まれつきのものではなく作られたものという側面もある
30代は20代の運動量で体力が決まるとかその頃から運動が大事になってくる
運動しないものは心臓でも筋肉でも衰えてゆく
生まれながらに体力ある人でも運動しないと衰えるという
自分は体力がないけどずっとデスクワークもしないで運動してきた
登山もしたしあとは自転車で運動していた
それで今に影響しているのかもしれない、ただ自分は実際は今でも体力はない
何か暑さでも寒さでも前もそうだったが弱いのである。
だから今回の暑さでぐったりして衰弱した

ただ自分が30頃登山して死ぬほど疲れた、そして一週間くらい眠りつづけたのである。
そうして疲れたら寝ていたというのも良かった、それでやっと体力が回復していたのである。その後登山はきついからやめた、自転車は今でも乗っているのは疲れたら休むとか激しい運動ではないからできているのである。

人間はなまけているとそれもカルマになる、何でも自己責任だというときそれはやはり
そうしてなまけていた者は貧乏でもそれは本人のせいだとなる
それには問題があるにしろ何か人生も積み重ねだからそうなりやすい
なまけるということの怖さは退職後なまけていると認知症になる割合が大きくなる
体も頭も働かせないと認知症になりやすいことは確かなのである。
何をしても何をしなくてもカルマとなりその結果があとで否応なく現れるのである。
あの人は才能があるからできたのでありそれは生まれつきだとか言う
でも人間の才能はわずかであり何かしら普通は積み重ねがないとできない
天才は例外なのである。だから手本にはできないのである。

雑学などくだらないとなるがそれも知識の積み重ねでありそれを集積していけばプロにもなる、あることを継続して追及していれば素人でもそのことについては詳しくなる
第一人間はあらゆることに詳しくはなれない、天才でもなれないからだ
時間が限られているからそうなっているのだ、特別時間をもたされる人はいない
時間は平等に与えられている、それも活かすも活かさないも本人の責任なのである。
ただ高齢化社会はその時間が伸びたから有利だとはなっている
時間は何か金のように意識できない、だから一番浪費するものなのである。

人間はカルマから責任から逃れられない、何かしらカルマを積み後に責任をとらされる
これは個人的にもそうであり社会的にもそうである。
原発事故でもやはり人間のカルマであり業であり危険な原子力に手をだして責任をとらされた。人間は原子力をあつかう能力がなかったのである。

人間の健康も暴飲暴食したり何か健康に悪いことをしているとあとでそのツケが必ず回ってくる、それはそういうことをしているときは気づかないのである。
気づかないからこそそういうことができる
10代20代なら無理をしてもいいにしろ30代頃になるとそうした無理はあとで健康をそこなうものとてし現れる

自由な方がいいから結婚もしない子供も育てないとなるときあとで老人になって世話するものもいなくなる、親でも楽していると子供はそれを見ているから世話になったとも思わない、その母親は子供の世話は5才くらいまでしかしなかった、実の親でもそういう人は子供は世話しないから頼っても悲惨な結果になっている
ただ金だけも求めているだけなのである。その女性は育ての親にも非情だから異常なことは確かだが楽した親は最後に悲惨なのである。
それもカルマだったとなる、カルマはその時はわからないのである。
ただ親となるのもカルマであり子もないのもカルマである。
結婚するのもカルマでありしないものもカルマである
カルマはどこにでもつきまとっているのである。
楽だなと思っていいなと過ごしていると後でそれがカルマとなりひどい目にあうのである親が苦労して育てるとそれを子がみているから親を世話する気持ちが湧いてくるのである

ただ人間はカルマを積まない人はいないのである。カルマは欲望でもありその欲望は老人になっても消えないである。だから色恋沙汰の争いが老人ホームで起きて殺人まで起きている、そういう本能的業は死ぬまでも消えないということである。
結果的にそれが災いをもたらすのである
罪障消滅など死なない限りないのかもしれない、人間は生きている限り業をつむ
そして責任をとらされる、カルト教団などは罪障とかそんなものは何の関係もない
みんな業のかたまりであり同じように責任をとらされる

つまりカルトなどはかえって罪障を大きくしているのである。
もしその団体がカルマがないとしたらこの世は天国になっているだろう。
この世のどろどろとしたものがカルト宗教団体に集積しているのである。
それは教会でもどこの宗教でも同じなのである。
団体とかもカルマを積んでいるから団体も歴史的には罰せられのである。
会社とかカルト宗教団体でも他の団体でも組織や団体自体が罰せられる
その団体に所属していただけで罰せられる、そこも罪の団体だからである。
団体組織が権力化して横暴になり社会に害をもたらしていたからである。
カトリックの歴史は暗黒の歴史でもあった、だからそれが今でも問われる
責任を言われるのである。

自分自身もカルマがあり罪障消滅していない、結果としてそのカルマの責任をとらされているのである。それはみんなそうなのである。
人間は生まれたことはカルマを積むことである。またカルマを積んだから生まれてきたともなる、すでに生まれてきたことがカルマを責任を課せられて返すことを要求されているともなる、親は親としてのカルマがあり子は子としてのカルマがあり責任が課せられている、そのカルマから逃れられないのである。
キリスト教では人間に原罪があるというときもそうである。
それはカルマのことなのである。それをとりのぞくことは信仰でしかできないとなる
いづれにしろこの世はカルマから解放されない限り平和はない
それは別に戦争ではなく個々人のカルマがありそれが平和を乱すものとなる
その根本のカルマが消滅しないからこの世に平和がないのである。
それは科学技術でもカルマから解放されない、原発のように人間の技(わざ)がかえって災い(わざわい)となるように科学技術の進歩ではカルマは消滅しないのである。

人間のカルマが最後に激しく燃え上がり焦土のように化したのが戦争なのだろう。
どっちに義があるというものでもない、人間のカルマが戦争を作り出すのである。
そして最終戦争ともなりハルマゲドンとかなり人類は消滅してカルマも消滅するともなるこの世は改革もできないし改善でもできない、一見できたようでもまた新たな問題が生まれる、そもそも人間のカルマは消滅しないから同じような問題が起きてくるのである。
結局プルトニウムの毒が二万年のカルマを作り出したように人間は責任をとらされるのである。

2017年07月24日

金と責任(カルマ)は一体だった (原発事故でも金をもらった結果責任が課せられていた)


金と責任(カルマ)は一体だった

(原発事故でも金をもらった結果責任が課せられていた)


金をもらえば今はなんでもいいと思っている
ところが金には責任が課せられている
金は具体的に責任がわかりやすい、金を借りればカルマとなりきっちりその金を返すことをカルマが要求される、それも利子付きになっているのだ
じは自分が借りた金を他人に負わせることは自分のカルマを他人を負わせることになる
そういうことを経験した、借金した人は苦しくなりそれが動機で犯罪にもなるし
殺人までなっている、自分で背負ったカルマを他人に負わせることでさらなるカルマを積む

つくづく今になると実家はなくなって墓だけがあるが墓を守ってくれと頼まれた親戚がいた、3百万円で頼まれた、その金は灯をともすようにしてためた金だった
頼まれた人は何か遺産とか金が入る人だったからそんな金は必要でもなかった
でも墓を維持するために3百万円というのは実際は安い
墓は墓というものではなく死者がそこに何人も埋まっているからだ
ではめんどうだからと放棄もできなくなる
つまり供養し続けねばならないとなる
それはたいした手間ではないにしろそれなりの責任が課せられていた
自分も母の実家だからかかわっていたがその責任は課せられなかった
だから気楽だともなるが墓に埋まっている一人は関係しているから責任がある

金というのは原発事故では常に補償金でこの辺ではもめた
でもまたその金もカルマとなりすべて良いものとしては働かなかった
みんな金がもらえればいい、多くもらえればいいとしか思っていない
それは自分だったそうである。でもその金に責任が課せられていたのである
特に船主は原発事故前も多額の補償金をもらっていた
原発御殿が建つほどの金をもらっていた
事故後ももらっていち早く立派な家を建てた
それで回りからう批判されるようになった
みんなそんなに港でも金をもらっているわけではなかったからである。
そして漁業権をもち東電に売り渡したということでも批判がある
今ではいくら金をもらってもその金をもらったことで批判されるから苦しいとなる

誰でも金をもらえればいい、多くもらえればいと考える、自分もそうだった
でもこの辺ではその金で補償金でもめた
なぜ原発避難民だけがそんなに金がもらえるのか?
それは避難民となったから当然の権利だとはなっていた
でもそこにも責任が課せられることになる
お前たちは十分な補償金をもらった、だからその金でお前たちだけで復興しろとかなる
俺たち金はもらっていない、だから協力もしないとまでなる

実際に浪江の会社経営している人が仕事くれと原町なのか仲間に頼んだらあなたは億の金をもらったのだから仕事しなくてもいいと言われた
それはNHKの放送で本音がちょっともれたのでわかった
実はそこにこそ大きなこの辺の問題があったのである。
金をもらったものともらわない人がいてそこで分断された
そして金には責任が課せられていたのである。

逆に金をもらわないと責任も課せられないのである。そもそも原発でも地元では金をもらったし事故前も得をしているのだから恩恵があったのだから責任があるとされたのだ
それは金をもらっていたからである。その金の額も大きかったからである。
だから必ずしも今となると金をもらうことがいいことばかりに作用しなかった。
つまり金には責任が課せられていたのである。
お前たちは東電から金をもらった、だから責任がある、責任をもって原発に同意したとなる
もし金をもらわなかったらその責任もないしその責任を追及できるのである。
でも金をもらったということで厳しい責任は追及できなくなっていたのである。
事故後も多額の金をもらったからそれも責任であり厳しく東電か国家でも責任は追及できなくなる、国民でもそれだけの補償金をもらっているのだから責任を果たしたとみられくからだ。
もし補償金でもそんなにもらえなかったら国でも東電でも厳しく責任を追及できたともなる

金とは誰でももらいたい、多ければ多い方がいいと思う
でもそこには責任が課せられていることを自覚する必要がある
何の謂われもない金をもらったりすると責任が問われる
金が落ちていても拾ったりするいいと思うがそこで責任が課せられているから危険になる金は具体的でわかりやすいカルマであり責任となっている
その額も多ければ多いほど責任が課せられているのだ
だから金からみるとわかりやすいのである。

だから金をもらえばもらうだけいいとか簡単に考えたのは危険だった
金にはなんでも何かしら責任がつきまとっているのである。
原発避難民は多額の補償金をもらったからその責任が課せられたいた
お前たちは十分な金をもらったのだからそれで復興しろとなる
地元では分断されて協力しないとかなる
ただ公平に補償金でも払われていたらこうはならなかった

いづれにしろ何がなんでも金をもらえばいい、奪ってなんでも金を得ればいいことだとなっている、でもそこには必ず金には責任が課せられている
おそらく3億円盗んだとかでもそれが責任となっているからうまくいったとはならない
3億円分の責任が課せられた結果になったかもしれない
だから金と責任は一体だったのである。
責任をとりたくなかった金をもらわないことだったのである。
原発でもそうして地元で金をもらわなかったら責任もなかったが多額の金をもらっていたから責任が問われたのである。

仕事でもこれくらいの金だからこれくらやればいい、大工でもこんな金じゃまともにやっていられない、手抜きしてやろうとかなる
金で仕事でもどれだけやるか計られる、金が多ければそれだけの責任を感じているのである。だから金と責任は一体なのである。
危険な仕事だと金が高くなるのも当然だとなる
それが資本主義社会のルールなのである。
これがかみあわないことがあっても金と責任は一般的に一体である。
ただ官僚とか政治家が巨額の金が入るときそこにも責任が課せられている
何かあったら責任をらされる、だから東電の幹部は死刑に値するような責任がある
でも責任をまねがれいるから国民の批判が大きいのである。
ただ日本には住んでないらしいからそれが責任なのかともなる

現代は地位によってより金によって責任が課せられている
金を多くとるものはそれだけ責任が重いのである。
だから金が多くもらえればいいとなるがいちがいには言えない
それだけの責任をになえるのかということを考慮する必要がある
でも実際は金を多くもらえればいいとなっているのだ
それで後で後悔することになる
posted by 老鶯 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

時刻表を常に見に来る人がいる (手帳にいちいち時刻表を書いていた人がいた)


時刻表を常に見に来る人がいる

(手帳にいちいち時刻表を書いていた人がいた)


駅前にふえて飛び交う夏つばめ

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昨日は年配の女性が時刻表を手帳に書いていた、何か駅に来る人は時刻表を見ている
駅の中に時刻表を置いてもすぐなくなる、それはなぜなのか?
おそらくあの時刻表は小さいからなくしやすいのかもしれない、その時刻表を置くとすぐなくなる
その女性はカレンダーのように大きな時刻表で家に置きたいといっていた
確かにそういうものが必要である。

ただ今はスマホとかで時刻表を写真にとったりしているしすぐにインターネットで検索できる、でもその女性はスマホもしていないからできない
そういう人もまだいる、その割合も老人が多いからまだいる
自分でパソコンで印刷しようとしたらインクがきれてできなかった
印刷何か自分の場合うまくいっていない、印刷機も何台か買ったがうまくいかない
バソコンで調節できない、パソコンでもうまくできないものがある
こういうことはパソコンはそもそも教えてくれる人がいないから困るのである。
電器屋でも教えないし自分で習得するほかないのがパソコンなのである。

このように駅には何か毎日ある、昨日は日曜日で中国人が乗るので電光掲示板に出ているのを説明した、やはり無人駅ではわからないことがある
中国人は発音が全くわからないので困る、全くしゃべることができないからだ
それでもありがとうと言ったのはその人は日本で働いているからそのくらい覚えたとなるするとこちらも気持ちがいいとなる
だから外国に行ったらその国の言葉でありがとうくらい覚えないとまずい
でもその言葉を覚えるだけが大変である。旅行者は長くいないからわからないのである。英語だったら最低限わかるからいいのである。

今日はまた水戸からJRの人がきていた、必ず何か調査にきて見て歩く
駅には本当に絶えずそうして調査したり見て歩いているのである。
だから駅を維持することは人手がかかると思った
下請けの人もくるし人がそれだけかかわっているのである。
これがバスだったらこんなにかかわらないのである。
だから金がかかるからJRでは無人駅化しているのである。

駅前は人がともかく人が交じり行き交う場所なのである。
必ず娘を迎えに来る人がいる、昨日は乳母車で一人の子供を背負い向こうから階段を上り高架の通路をわたりおりてくる、それが結構難儀なのである。
スーツケースで上るときもそうである。
だからエレベーターがあると便利なことがわかる
新地は鹿島駅より小さいがエレベーターがついたからいいのである。
エレベーターをつけろという要望があったがやはり予算の関係でできていない
それもJRで金を払うことになるから余計に苦しくなる
トイレはJRで金を払って掃除してもらっている
でも駅を鉄道を利用しない人も使っているのである。
だから自治体がかかわることも援助することも必要になる
JRだけでは金銭的にも鉄道は維持できないのである。
ただJRは新幹線でもうけているから今回津浪で流された区間を400億円かけて修復したのである。

駅前つばめが飛び交っている、夏になると増える、そのように夏は活気が出ている
野馬追いになれば常磐線が開通してはじめてだから電車で来る人も増えるだろう
土日は仙台にゆく人が多いのである。



「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む (ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


「飯館村の原発事故避難者による営農再開と展望」を読む

(ソーラーパネルなどで景観が破壊される)


原発事故避難者による営農再開と展望
―福島県相馬郡飯舘村の事例分-

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営農を再開するという決意の前提として非経済的動機,つまり「何が何でも再開しよう」という動機があったと言えるだろう。それは,避難先の狭い住居で無
為に過ごし,体調を崩している親を「見るに見かねた」こと(K 氏)であったり

全体で60 ha の水田があり,そのうちの20 haはNTT と20年間の契約をして太陽光パネルの設置に利用することが決まっている。残りの40 ha を利用し
て牛の放牧をするのである。

「個人化」とは,避難生活によって地域社会や家族が分断され,一堂に会することが
物理的に難しくなるということでもあるが,それ以上に選択を被害者「本人の自由」に任せることによって,事実上,責任を被害者に負わせ,自己責任を強いることを意味する。


これは自分がプログで書いてきたことであり一致する、やはり無為にすごすことに耐えられないということがあった、毎日パチンコやギャンブルではやりきれないとなってゆく
かといって何をするかというと今までしたことをする他ない
それは農業である。それで仮設の前の畑にカボチャの種を植えて実ったことで喜びがあったとなる、つまり農業自体に喜びがある
だから趣味で畑で農作業している女性は文句は常に言っているがともかく畑の方に関心があり自分の家のことには関心がないのである。
自主的に汚れたところも掃除もするきがない、皿二三枚しか洗う他なにもしない
それは見ていてわかる、畑の方が文句ばかりでいつも関心は畑にある
その人は根っから農業が好きなのである。

飯館村はやはり水田があってももう米作りはしないのだろう。無惨に表土が削られてフレコンバックの山になっている。表土が削られることによって栄養分も喪失している
すると米作りも簡単にはできないのである。もともと飯館は高地であり米作りには向いていなかっだ、それで常に冷害に見舞われていた。
すると田んぼがなくなるから蛙も鳴かなくなり鷺なども見えなくなる
自分にとってこの蛙が盛んに鳴いたときこの辺は復興したなと感じた
ただ山側は田んぼになっていない、小池辺りでは田んぼを草地にして牛の飼料にしていただから飯館村でも田んぼを放牧地にしてあとはソーラパネルにする
その風景も奇妙なものになる

草野では原町から川俣への幹線道路沿いに道の駅を建設中でありその脇にメガソーラーパネル場になった、何かそこに違和感を感じる、素朴な飯館村という感じは喪失した
ソーラーパネルは森とか山の風致でも破壊するし何か台風とか来たりすると危険にもなるそういうことは土手を削った所にソーラーパネルを置いたので水害になったということがあった、これから何が起きるかわからないのである。
そして景観を破壊するから昔の飯館村、森につつまれた村ではなくなってゆく
ただ飯館村は広いから全部ソーラーパネルにはできないが一部でも森の中にソーラーパネルがあると景観が破壊される
でも土地の利用が方法がないからそうなってしまう
膨大な土地がありその土地から収入を得るにはソーラーパネルくらいしかないからである。
家族が分断され地域が分断されて個人化したということも書いた
飯館村では牧畜でも牛を飼うにしても農業するにも人手は家族でしている
だから三世代とかが住んで農業に従事していた
それが分断された、地域も分断された
結果的にどうなったかというと個人化した、それぞれの個人でやりたいようにやれとなった、そのために補償金を払ったのだとなる、自己責任化したのである。

南相馬市でも避難区域の小高ではそうなった、いろいろな人がいても補償金をもらったことにより個人化して地域の一体感は喪失した
家族も分断されて地域も分断された、親の子供世代は放射能が危険として帰ってこない
そして取り残されたのが老人だった、でも小高では2300人が帰っている
それが多いとなるのか少ないとなるのかわからない、ただ半分は65才以上の老人なのである。
小高の人は金がある人は新地であれ相馬市であれ鹿島であれ原町に家を建てた
浪江の人も建てた゛つまり地域は個人化して分断されたのである。
個人化すればをとすればいいんだとなれば金があれば他で家を建てて生計をたてる他ないからである。

飯館村では仮設暮らしの無為に暇に耐えられなくなったとき農業をはじめたがそれが非常な困難をともなっていた。その場所を探すこと一からはじめることが容易ではないからだ農業はそれなりに設備が必要なのである。
飯館で有名だったトルコキキョウなどの花栽培でもそうであり簡単にできるものではなかった、トルコキキョウというと飯館のような涼しい地にあっていたのかもしれない
トルコキキョウと竜胆(りんどう)はにている、飯館村は何か花が美しく見えた
それはいつも不思議だった、やはり何か環境が影響していたのである。
飯館村は一つの桃源郷とかアルカディアの雰囲気があった
ただそういうものは原発事故後そこなわれたのが残念である。
それよりそういう所を破壊した原発に怒りをもつのである。
アイヌのカムイコタンとは神の村と言うときそういう側面が飯館村にはまだあった
森につつまれてあった神秘性もあった
だから峠を越えてゆくと何か別世界に来たような新鮮な感覚になっていたのである。
それで詩を書いたりしていた。

ともかく飯館村の農業の復興は至難である。放射線量が高いこともある、土も水も森も汚染されたからである。それが致命的になったのである。
はっきりいって自分はソーラーパネルが置かれる場所には行きたくない
大倉から峠を越えて入った場所は前は森におおわれていて人が踏みいらぬ神秘的な場所だった、そこが道になり喪失した、だから原発事故前にすでに自然が破壊されていたということがあった、ただ全体的には森につつまれた森を維持していていて飯館村が好きな人が多くいたのである。
だから残念だとというより自分は原発事故に対して怒りをもっている
なぜそうした森につつまれた村を破壊したのだとなる
ただ自分のように景観とか風致にこだわる人はそこに住んでいる人でも少ない
やはり金が入れば土地の人は景観など考えない
だから容易に今や利用されない土地はソーラーパネル工場になってしまうのである。

森深く月のみのぞく神秘かな

そんな神秘的な世界がまだあった、それが失われたのである。




posted by 老鶯 at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

2017年07月25日

地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞 (報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道)


地方の一新聞がピューリッツァー賞受賞


報道は事実を伝えることー原発事故でも問われた報道

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NHK国際報道


NHKの国際報道で3000部しか発行していない地方新聞がピューリッツァー賞を受賞したことで話題になった、それでも社員が十人くらいいた
そんな新聞社で給料が払えのかと見た
アメリカにもともとこうした小さな新聞社が多かったから伝統があるのかもしれない

この新聞社は地元密着であり狭い範囲でささいなことでも報道している
この新聞社で報道したのは農薬で川は汚染されていることに注目した
それはなぜか?それは毎日その川を見ているからである。
そうしたら地元の人だったら気になるのである。
例えばこの辺で屋形の家の裏の山の土がけずりとられたとき土がむき出しになっている
それを毎日見ているといい気持ちがしない、それはそこを通りすぎることができない、
嫌だなと思っても毎日見る、それは汚染された川を見ているのと同じなのである。

この新聞社では事実を伝えることにこだわった
まず事実を知ることだと事実を調査した
どこから金が支払われたかを調べた
そしたら化学肥料会社から農協のような自治体に支払われていた
それで公平な裁判は行われない
その事実を伝えたことが功績だった
しかし背後の化学肥料会社から金がでていることをつきとめることはむずかしかった
住民でも口を閉ざした、会社はそれだけどこでも権力をもっているからである。

結局人間は金には弱い、金はカルマであり責任であると書いたときここでもそうだった
一旦金をもらえば責任が生じる、それでこの辺では原発事故が起きても東電から金をもらっていたから責任を追及しにくくなった。
それは日本全体でもそうである。マスコミも東電から金をもらっていた
電事連から800億円という金が流れていたという、その額は巨額だったのである。
そもそもこのような一新聞社など簡単に買収できる金である。

この化学肥料会社はまだ小さい、東電は国家並であり国家もかかわっていたのだから
その事実を暴くことさえできなくなって「安全神話」が作られたのである。
例えば地元の新聞でも福島民報でも民友でも何も追及しなかった
福島民報は聖教新聞を刷っているし県で50パーセントも出資している官報と同じなのである。金をもらっているのだから何も追及できないのである
他の雑誌でも小規模だからそれだけの収入を得ることがむずかしい
すると東電のような国家並の会社からの宣伝費とかは経営を支えるものとなる

そもそもこの地方新聞が事実を暴くことができたのはまだ小さい会社だったからかもしれない、国までかかわる会社となると簡単にはできなくなる
原発は危険でもそういうものだったからである。国策として作られたものだからである。ただ今回の原発事故で一体地元を守るものは誰なのか?
それは地元の住民しかないのである。地元の住民が一番被害を受けるのだから無関心ではいられない問題だった、でも地元では金をもらえばいいくらいの意識しかなかったのである。ただこの一新聞社のように真のジャーナリズムがあれば違っていたかもしれない
それでも国家権力を相手にするととなる歯がたたないともなっていただろう。

ただそうはいっても一体地元では地元を自然でも何でも誰が守るのだろう?
それは地元の住民しかない、もしそれができなくなれば今回の原発事故のように地元に故郷にも住めなくなるのである。
そういうことを身をもって知ったのだから地元の人がもっと関心をもって地元を守ることをしなければ今回のように巨大企業や国家の言いなりになり住めなくなる
だから必要なのはこうした一地方新聞のジャーナリズムであることを示した

そういうことは日本でもあった、新潟の巻町は原発に反対して建てさせなかった
それを応援したのは新潟日報だと評価されているのである。
福島県では報道関係でそういうことはなかったのである。
そもそも自然が大事だとか自然を守れとかなると何かインパクトがない
現実に農民が土地を汚染されて農業もできないとかなると深刻に考える
この辺では土も水も空気まで汚染されたからその深刻さを身をもって知ったのである。

ただ原発は金になるからそれに抵抗するのは相当にむずかしい
金が入り豊かになればなんでもいいんだというのが現代だからである。
そもそも自然を大事にしろといっても景観を守れといっても金にはならない
だからソーラーパネルでも何でも金になるならと土地を売るのである
自分の場合は景観を重視しても地元の人は生活のために金が必要だとなる
ただ地元にも住めないとかなることを経験したから他とは違いここは環境破壊する原発には反対する、でも他の原発ではやはりここと同じように金が入るということで是認しているのである。ここでの経験を参考にしていないのである

いづれにしろ報道は何かというときネットでは常に言われている

事実だけを調査して伝えろ

その事実だけを報道してマスコミの報道する者は何か意見を添えるなと言っている
マスコミはNHKでも報道するというとき事実だけを報道するのではない
NHKで事実をそのまま伝えない、編集してこうあるべきだという方針のもと報道する
コメントするものもマスコミで選び、局の方針にそって意見を言わせられだけなのであるだから事実も作られフェイクニュースも流される
だから事実だけを報道している局はないのである。

歴史でも事実を基にしてあるべきだが小説家されドラマ化されるとそれが事実だと思い込む人が多い、それは事実だけだと面白くない、文献を調べたりするのは庶民にとって面白くないしめんどうだしわからないからそうなっているのである

報道というときインターネットはじめてから自分も報道にかかわるようになっていた
第一自分が報道する立場になるとは思っていなかった
それがインターネットだからできたのでするようになって報道を考えるようになったのである。
そしてインターネットでもマスコミと同じようなことが起きていたのである。
何かインターネットでは読まれること自体本当にむずかしい
すると何か目立つことをしなければ読まれないのである。政治家のプログでも読まれないから女性の議員がめだつためにサッカーのことで目立つことを言って炎上して読者の注目を集めるのである。
それはマスコミのしていることと同じだったのである。

インターネットで報道も変わらざるをえない、今までのマスコミの手法では時代についていけなくなる、インターネットはコストがかからないのが強みなのである。
でも読者を獲得することは至難だとなる
新聞はあと十数年で消えるという、そういう感じになっている
紙の膨大な無駄でありいちいち配達するためのコストもかかりすぎる、内容もない、住民のためにもなっていないとなると若い人はすでに新聞をとっていない、ただかえってこの新聞社のように生き残り策はあるのかもしれない福島県でも広いから福島県だけではない、相双地域とかいわき地域とか浜通りとか中通りとか会津とか三つに分かれた新聞などがジャーナリズムが必要になる
やはりより狭い範囲だと川が汚れているとか毎日見るからそこに関心をもち報道するから訴えるものとなる


幻想の森( illusion of forest)


幻想の森( illusion of forest)

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unknown forest

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a way of forest

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mountains in the evening






色には三つの世界がある、光のスペクトルによる物理的色、目で見る恒常性の色(抽象の色)心で見る心理的色、画家が描くとき心で見るのでありそこには外界の色とは異なった
画家の心の色がある、これは外界の特定の形に隷属して、いた色をその形から解放し、画家が獲得した高次の心的創造活動による、色の表現にかえる
(芸術脳の科学)塚田稔

自分のしていることはこれなのかもしれない、ただ自分の心ではしていない、ただコンピュターで変化させて、いるだけだからである。何かそこに創造的なものがないのである。機械的に変化させているだけだとなる
それでもこれだけ変化していることが芸術になっていることの不思議である。
そこには自分が創作したのとは違う、ただ変化したことによる芸術なのである。


When a psychological color, a painter watching it for a color (color of the abstraction) heart of the constancy to watch with the physical color by the spectrum of the light with three world, eyes in a color picture it, I watch it for a heart, and this with the color of the heart of the painter different from the color of the outside world is subordinate to specific form of the outside world there and frees the color that was from the form and is hatched in the expression of the color by the highly advanced mental creation activity that a painter acquired


 change it in one's mere computerj which it does not only do for one's heart which may be that it is this to do, and this is because it is only. There is not something creative there. It is the wonder of it being for art that only this changes in it to become when I only change it mechanically.
It is the different art by having merely changed there that oneself created.

原町駅の人が駅舎を掃除していた (いろいろな人が駅で混じり合う)


原町駅の人が駅舎を掃除していた

(いろいろな人が駅で混じり合う)


今日は原の町駅から駅舎の掃除にきていた、長い箒をもって蜘蛛の巣を掃除していた
ホームの長椅子と他の椅子には雲の糞がついていいて汚れていた
そこは座るところだから掃除が必要だった
駅には何かしらこうして用事があり来る人がいる
昨日も水戸管理局からきていて建物を見ていた
こうして駅は常にJRでとか下請けで見て回る
それだけで人手がかかっている

だから自治体でもかかわらないと維持できない
トイレは車の人もしょちゅうきて利用している、農協の葬儀関係の人も来ている
トイレはJRを利用したものだけが使うのではない、関係ない人も使っているのである。
そして障害者施設の人に掃除してもらっているが金をJRで払っている
そうなると自治体でも市の方でも負担してくれともなる
つまりJRだけでは維持できないのである。
掃除くらいなら自分もできるが他はできないものがある

昨日は相馬農高の相農の高校生がいたい、その人は農家であり跡を継ぐという、それはなぜそうなのか?梨農家だからである。梨農家だと農業でも収入があり家を継いでもやっていけるからである。農業などやるなと親に殴られた人は梨も作っていない零細な農家だったのだろう。梨とかトマトとか花は収入になり農業でもやっていける
ただ飯館村には梨農家はいないようだったからあそこで梨はとれないのだろう。
他にも梨農家に生まれた人を知っているから梨農家はこの辺で多いのである。
だから一時放射能汚染で苦しかったのである。
今では影響はないとしているが風評被害はまだあるのかもしれない

もう一人の女性は農家ではないが相農に入った、中学生で相農に入った人は花栽培したいということで入ったからめずらしい、その二人の女性は農家の出ではない
一人は勉強嫌いで相農に入った、相農だと無試験でも入れるだろう。
定員割れにもなっている時代だからである。

ともかく駅にいるとこの辺の事情がわかることがある、家の跡を継ぐとなると進路も決まっているから悩む必要もないからから楽だともなる
農業の否定的な面だけを言ってきたが梨農家とかは農業としてやっていけるのである。

駅はいろんな人が行き交う場である。外部の人も交わる
だから何かそこが活気ある場ともなっている、なかなかそういう場がない
高校生が多いにしろ老男若女が行き交っているのである。
老人だけ集まるのが老人ホームであり同じ学年とかか年齢で区切られて集められるのが学校であり今の社会である。そこに何か世代間の交流がなくなっている
むしろ江戸時代の方が世代に関係なく交わっていたともなる
子供が生まれて名付け親になったりするのは村の人だったからである。
ずっと村人がみんなで見守っていたのである。
学校とかは一時期しか関係しないのである。そこに世代間の断絶がすでに生まれている

駅には何もできない場であるようでも何かが毎日ある場でもある
盲人など来て案内したりするのでもそうである。盲人と直接話した経験がないからであるたいしたことをするわけではないが駅は面白い場だなと実感した
ただ自分はせいぜい一時間くらいしか駅にはいないのである。
気まぐれに駅に行っているだけだともなる
それでも何かあるのが駅だったことを経験したのである。

旅だとすぐすぎさるからもったいなとなる、なぜならそこには一度しか行けないということがあるからだ。海外旅行の場合はそうである。
一方こうして定点観測するのも興味深いものだと思った。
一人一人の人間のことをみる、小さな町でも会わない知らない人がいかに多いかのかしるそんな人いたのかとなる、一万人いれば知らない人がそれだけ多いことを知る
これが4万とかさらに十万とかなると人間はもう会うこともちょっとでも関係することもないのである。
一万でも知らない人がこんなにいるのかと思う、世代が変わるとまた知らない人がふえてくるからだ、身内は公務員をやめてから役場に行っても知らない人ばかりになったと言っていた。回りですら知らない人が増えてくる
仕事しないと余計にそうなる、会社の人間が関係がきれるとまた新たな人間関係が作りにくいのである。
定点観測はその地点で何か深く知るのにはいい、一つの定点から街とか社会とかをみる
すると見えてくるものがあるとなる

2017年07月26日

金の価値がなくなる時代 (働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


金の価値がなくなる時代


(働く人に価値がでる-一時間の労働で一万五千円とられた)


雨漏りして困った、その場所が危険な場所で見えない、大工さんに頼んだがなかなかこない、その雨漏りが雨が強くふるとびしょびしょになる
一回みてもらったが高い所で危険な場な所であった
木の剪定をしてもらったが一時間くらいしか働いていない
だから一万で間に合うと思った

そしたら一万五千円要求された,高いなと思ったが払わざるえない
その人は危険だったからだという
ほかに頼む人がいないからしょうがない
今はこうした仕事する人がいなくなっている

今は人手不足であり人が集まらなくて建築関係では倒産したり会社でも新しく始められない、それほど人手不足は深刻なのである
そうなると賃金が高くなるのだ、つまり金をもっている人がいてもその金の価値は低くなる、第一利子もつかないし投資してももうからない、もうかるのは銀行だけなのである。手数料をひかれてもうかるより損する度合いが大きいのである。

何か技術が必要だったり危険な仕事は高くなる、もともとそうだったがこれからますます高くなる、ということは金の価値が減少してくるから金をもっていても価値にならなくなる、そういう時代であり働く人の価値は高くなる
老人はもう働けないかち金をもっていても価値がないとなる
でもそれが正常な姿なのかもしれない、働く人の価値が高くなることは悪いことではない利子とかでもうけることは働かないでもうけることはむずかしくなっているのだ

そして人のあまりできないことをする人は賃金が高くなる
このように一時間でも一万五千円とかなる
でも頼まざるを得ないのである。
こういう仕事をする人がいなくなっているからである。
供給する人が多ければいいがなければ高くなる
医者でも多ければいいが歯医者のように多くなると需要と供給の関係で賃金の格差がこれから生まれてくる、その時々で賃金も価値も変わってくるのである。

それはAIとか機械化しても同じである。人間にしかできないことが必ずありそれをできる人の賃金は高くなるのである。大工でも危険な仕事がある、屋根に上ったりするのは危険だから賃金が高いとなる、そうしてそういう人がいなくなるとその人の価値は高くなる、賃金も高くなるのである。
だからこれからどれだけとられるのか心配になる
でも直さないと雨がどんどんもれて家がだめになる
まず家というのは何かこうして修理代とかで金がかかるから資産がないと維持できないのである。
こういう点では借りている方がいいともなる、いづれにしろ人間の価値と仕事の価値は時代によって絶えず変わっている

自分の家は大きな家でも当時は50年前くらいになるが400万だったのである。
今だったら軽く3000万以上する建物である。
その時大工の賃金が安かったのである。すぐに何倍にも高くなったのである。
それでその前に建てろと言って建てたのが良かった
古い造りであり土壁で職人もいなくなっていたのである。
土壁の家はその後なくなったのである。

家にも歴史がある、この家は50年の歴史を刻んだともなる
他でも家には歴史がある、だから原発事故で避難した人たちは家に愛着をもつことはある特に老人はそうなる、思い出が家とともにあるからだ。
そのことが大きな精神的損害だったのである。
posted by 老鶯 at 09:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

夏つばめ(梅雨はまだつづくのか?)



夏つばめ(梅雨はまだつづくのか?)


快晴の朝の空飛ぶ夏つばめ

駅前にふえて飛び交う夏つばめ

ひるがえる野馬追いの旗夏つばめ


しとしとと雨ふり
草むら深く
月見草群れさき
日陰蝶飛び
でで虫の歩む
いつもの道を
今日も行くかな


今日は快晴である。昨日は雨がふった,朝は快晴で気持ちいい,それほどの日ざしでもないかもしれない,紫外線を計る機械をなくしてしまった,体感的に日差しもそれほどではない,ただ熱中症は要注意である。そのために遠出ができなくなって困る
天気予報では注意となっているらやはりそれほどではない,体感的なものと一致していた警戒があり厳重警戒があるからだ

季語的には夏つばめがひったりである,今の季節らしい,こういうときでも外を自転車で走ればきもちいいだろう,本当に最近ずっと遠くに行っていない
仙台にも行っていない,自然とともかく気持ちいい,自然に生きるものはまさに自然だから気持ちいいのである。人間は不自然に生きているから気持ちいいとはならないのだ
人間は何か常に不健康なのである。タバコなど吸っているのもとがめはしないが何か不自然である。健康的に感じないのである。今は女性はタバコを吸う人が多い
ストレス社会になりタバコを吸う人が増えたのだろう。

ともかく家の中にとじこもりなのは良くない:これも不自然であり不健康だとなる。
ただ暑さで外に出れない,北海道に行きたいとかなる
でも外出しにくくなった

昨日は雨であり草むらに月見草が咲き黒い日陰蝶が飛ぶ,そしてでんでん虫がゆっくりと歩む,昨日は梅雨の感覚であり今日は梅雨が晴れたとような感覚である。
野馬追いの旗がひるがえっているからあと二三日で野馬追いである。
結構駅はにぎわうだろう。
天気予報ではまた曇りがつづくから梅雨は明けていないのだろう。
それでもこれまでのような暑さはなく一段落なのかもしれない
体調を壊したから暑さは嫌である。
自分は暑いところは苦手である。胃が必ず悪くなるからだ
また寒いところも苦手なのである。だから気候的にはここがいい場所なのである。

タグ:夏つばめ

墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来た人(ボランティアの意味)


墓参りに来る人はいる,その人も墓だけしか残っていないという
江垂(えたり)だけど原町に墓参りする人はいる
その女性は80以上だろう,すぐに次の電車で仙台に帰ると言ってタクシーで行った

その人は小高の生れで鹿島と関係して新地とも関係している:そして仙台に移った
それで新地にも墓参りに行ってきたという。
何か近くの自分の墓地でも墓だけがあり仙台などから墓参りだけに来る人がいる
墓は家がなくなっても残っているのである。

自分の母の実家の墓は原町にあり家はとっくの昔になくなっている,50年前とかにすでになくなっていた,でも墓だけは残っている
それで福島市にいる人が墓参りにだけは来ている
つまり家の跡継ぎがなく空家が膨大化しているのと同じく墓も跡継ぎなく残されている
ただ墓は簡単に壊せないから最後まで残っている
これもまたまた問題なのである。

なぜこうなるかというというと広い地域に人が住むようになったからである。
まだ相馬地方内で住んでいればいいが仙台となると遠くなってしまう。
そういうことは今回の津浪や原発事故で親戚を頼り全国に散らばったことでもわかる
長男が家の跡を継ぎ守るということもなくなるとき家とか墓も一代限りとかになってしまうのである。

駅にはいろいろな人がくる,この土地に前に縁ある人もくる:今は外部からも仕事で来る
そういう何か人間的な出会いの場所でもあったことを発見した
今までは駅をこんなふうに見ていなかったのである。
ボランティアで駅員していたら見えてきたものがあった
だからボランティアは社会とかかわることだから退職した人はボランティアをするのがわかった

ボランティアとは

語源は英語の will の語源ともなったラテン語の volo で、意思や志願を意味した。
英語圏では、現在も本来の語義どおり志願兵あるいは義勇兵の意味で、この語が使われている。なお voluntary とは、自発的であるさまのことである。

ボランティア活動の原則として挙げられる要素は一般的に、自発性、無償性、利他性、先駆性の4つである。
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ボランティアこそ本当の仕事だという人もいる,なぜなら仕事というとき強制的な面がでてくる:会社のためにもうけになることを追及するのが普通である。
それで金儲けのためには嫌なことでもしなければならない働くにしても金のためだというときそれは自由意志で望んで働いていないのである。
そこに労働の頽廃がある、俺たちは奴隷なんだよな,社蓄なんだよなとなる

ただ自発性、無償性、利他性、先駆性というとき,先駆性とは何なのだろう?
ボランティアには何かを見いだしてするということがあるからか?
何か仕事を発見するということがあるためかもしれない:,確かにそういうことはある
ボランティアは誰かが仕事を与えてくれるわけではないからだ。
ここが欠けているから補おうとか仕事を発見しないとできないからそうなっている

ボランティアはそうではない,自由意志なのである。それは金儲けのためではないから
その仕事そものものに意義と生きがいを見いだしてしているとなる
現代では逆説的にボランティアが本当の仕事ととしての生きがいになっているというのもに大げさではない:それだけ人間というのはそもそもそういう仕事も求めている存在だともなる
ただ金のために強制されて働くことは仕事として嫌だとなっていたのである。

知人が趣味でしている小さな畑もボランティアなのである。
文句は言ってもその仕事は好きだからしている
ただそれが人のためになっているとも思えない
なぜなら人に分けるほどのものは何も作っていないからだ
すると何のためになるのか?荒地にしておくよりはいいとなるのかもしれない。

高齢化社会はボランティアを求める人が増えてくる:現実に増えている,収入に余裕があれば生きがいのある仕事を求めるからである。
ただその人にあったものでないとボランティアもできないだろう。
たまたま無人駅になった結果,そこで何か役に立つことが生れて自分はしている
いなくてもいいがいないよりはいいというくらいだけどそれなりにworkしている
社会的に機能して働いているとなる