空間的拡大の世界から時間軸の世界へ
(時代の変化で日常も変わる)
人間の思考でも志向でも歴史でも必ず空間軸と時間軸で展開されている
それは卑近な日常でもそうなのだ、人間の生活そのものが空間軸と時間軸で日々展開されている
まずどんな人でも空間の中を生きている、その空間も日々生活する場は市町村単位であり狭い、戦前から戦後十年までは自給自足的生活でその生活範囲は狭い
だから主に時間軸の生活が行われていた、農業とか林業は時間軸の生活である。
野菜が果物が実るのにも時間がかかる、それは木を植えて実りになるまで時間がかかる
「桃栗三年 柿八年」とかなるし木も育つまで50年とかかかる
農業とか林業は時間軸の生活なのである。
こういうことは一年間の生活でもすでに時間軸になる、いや10分でも時間軸になる
電車を待つ時間など待つ時間が時間軸なのである。
駅というのは一つの空間であるがスペースであるが待つというとき時間軸なのである。
その待っている時間が実は充実した時間になっていたのでそのことを書いてきた。
待つ時間が意外と記憶される時間なのである。
だから駅でも長く泊まっているとそこが記憶されるのである。
早く過ぎ去るから今は記憶されずにただ空間を過ぎ去るだけの時間となる
逢隈駅蝉なく声のひびきけりせわしげにのる人見つ待ちぬ
あそこで3分くらい電車交換のために待つ時間があり蝉の声がひびいていたのである。
前の新地駅ではここも電車交換で5分くらい待つ時間があった
そこで虫が鳴いていたのである。津浪のくる前はその前に海に面して新地の家並みがあった、その待つ時間が記憶される時間になっていたのである。
今日書いたコンビニで新聞の立ち読みのことでもそうである。
この人は時々新聞を買っている
一カ月の間に10回かっているときもあった
今は立ち読みしているが買うかもしれない
だから注意をしない方が良いかもしれない
なぜなら一回注意したら買わなくなるから
こういうふうに継続した見方ができないのがコンビニでありスーパーなどである
こういうふうに身近な所でも空間と時間軸の見方がある、そこには時間で積み重ねられたものがある、でも時間軸では見ていない、つまり現代は空間の拡大化した社会であり時間軸では見ていないのである。
そもそもグローバル社会というのもそうである。空間が世界的に拡大化した世界である。国内でも広域化した社会である。車社会になれば常にその空間を移動する社会になる
そのためにそもそもコンビニはその空間を結ぶものとして設置された
国道沿いに車の便宜のために作られたのである。
一つのネットワーク化された店である。それは空間的志向から生まれたのである。
だからなぜ時間軸の思考に志向に無頓着になるかというと空間志向から作られたものだからである。
カスタマーというとき習慣化しているというときそれが客になるというときそれは時間軸で見ているのである。一年間も通う、すでに5年間も通うとかなると時間軸としてその客を認識する、いつも来る客となる、そういう客をまず大事にするのは当然だとなる
だから京都では一元さんはお断りとなるのはそのためである。
時間軸から客をもてなしているのである。それはお得意さんの思考なのである。
現代は空間的拡大の社会だった、海外までも拡大化してゆく社会だった
そこで欠けたものは時間軸の思考である。
高齢化社会というときどうしても老人は空間的思考が苦手になる、第一老人は記憶に生きるというときすでに時間軸の思考が主になっている
青年は荒野を目指すなどというとき世界旅行とか空間を拡大する志向になる
老人は過去を回想することが仕事になる、それは時間軸に生きていることなのである。
時間軸で見るから深い見方もできる
これからの社会は空間拡大の社会から時間軸の社会になる、それは中世的な世界ともなるこういう時代は宗教とか哲学とか芸術文化の時代なのである。
それは歴史をみればわかる、日本でも大和王権国家の統一の時は蝦夷征服とか日本の国家が空間的に拡大した時なのである。その時唐とかの交流もあり奈良時代の文化が生まれた次に今度は狭い閉鎖的な都の宮殿での時間軸の文化に移行した
それが平安時代の国風文化になった。
世界史的にもそうである。歴史は絶えず空間を拡大するものとしてあった
大帝国は空間の拡大である、ローマ帝国でもそうである。「すべての道はローマに通ず」というときまさに空間の拡大の文明だった、そしてまた時間軸として300年とかつづいたものとして形成されたのである。
モンゴルとかはジンギスハーンの世界帝国はただ空間を拡大化しただけであり時間軸で形成されるものはなかった、遊牧民の社会は空間の拡大に向いていたのである。
砂漠と平原は道になった、そしてそこに商人が行き来した、商業が発達した
イスラムが商業の世界だというとき遊牧民の社会だったからである。
商業や貿易は空間の拡大であり大航海時代もそうだった、アメリカの西部へのフロンティア精神も空間の拡大から生まれたのである。
人間の歴史は常に空間の拡大の歴史だった、それと同時に時間軸で文化は形成されてきたのである。
そして20世紀はグローバル社会であり空間の拡大化をめざした社会である。
21世紀は時間軸の社会になる、その土地土地で耕す文化の時代になる
宗教や哲学や芸術や文化の時代になる、それが普通の社会生活にも及んでくる
コンビニとかは空間の拡大とともに車社会とともに生まれたものである。
だからその限界が見えてきた、車社会もまた飽和点に達してそれによって失われたものが見直されるようになる。
だから今まであったものがこれからあるとは限らないのである。
人間の社会は常に変化だからこそ無常なのである。
変化に対応できないものは滅びてゆくのである。
空間の大きさは三重だ
休みなくたえまなく
長さは伸びようとつとめる
とこまでも遠く、はてしなく広さはそそがれ
底しれず深さは沈みゆく
それらはきみに一つの姿を示している
きみが完成の姿を見たいと思うなら
休みなくきみも前進すべきだ
疲れてたちどまることを決してするな
世界を形成させたいなら
広さの中に己を展開することだ]本質の啓示を願うなら
深さの中へ降りてゆくことだ
粘り強い前進のみが目標に導き
己を充実させることのみが澄明にみちびき
底の底に宿っているのが心理なのだ
(シラー)
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