2017年06月28日

金庫が開き証書がなくなった謎 (泥棒のプロが入って来たのか?)


金庫が開き証書がなくなった謎


(泥棒のプロが入って来たのか?)


証書をとりごそうとしたらなかった、それはいつもの場所に置いてあいていたはずである他に置かない、何枚かあった、銀行の人が来たので出そうとしたがなくなっていた
それがなぜ忘れたのではないと自分で思ったのはダイヤル式の金庫が空いていたのであるダイヤル式の金庫は暗唱番号がわかなくなり閉めたままにしていたからである。
それを使わないで失敗したこともあった、そもそもダイヤル式の金庫は開けられないはずである、でもプロになれば開けられるのかもしれない、鍵屋だとできる
そういう機械があるからだ、ただその金庫には一銭の金も入っていなかった、書類もなにも入っていない空の金庫だった
今回は内部のものではない、第一金庫は開けられないからである。
外部のものだとすると物騒になっているとなる、ただ夜に入って来たとは思えない
それでも二階に寝ているとわからないということはある
証書は二階に置いていた、だからこれも謎である。どこか別な所に置いたとういことありうる
何か一人暮らしは物騒になる、不用心になる

別に今回は何の被害もない、小銭も盗まれてもいない、証書はめんどうでも再発行できるし通帳もあり印鑑もある、実際の被害はなにもなかった
だからなんとも不思議だとなる、第一証書をもっていても金を引き出すことは不可能だからである。ではどこか別な所に置いたのか?
そう思えないのはどうして金庫が開いてのかということである。
それで誰かかが物色したのかと思った
内部のものではないというときとてもダイヤル式の金庫は開けられないからである。

ただ一回も外には出かけていない、留守にしたことは昼間にあったが一日も外に泊まったりはしない、その間に戸を開け忘れたことはあった
それで入り安い面はあったがそこも謎である。
謎ではあるがプロが入ってきたとしか思えないのだ

別に被害がないから騒ぐこともない、ただ結局金は親族でもどんな人でも信用してまかせられないというのは本当だろう。

税理士も、親戚も旦那も妻も子供も信用してはいけない

「だまされるな」「警戒せよ」「用心せよ「「近寄って来た人間は信用するな」

税金恐怖政治が資産家を追い詰める(副島隆彦)

これが金に関してはこうなる、妻子でも信用できないのである。
タンス預金しているといつのまになくなるというとき家の者が使っているのである。
それが金というものなのである。だから万全の安全対策が必要である。
その安全対策をしていない人が悪いのである。自己責任になってしまうのである。
会社でも銀行だって横領事件が必ずある、だからこそ管理をする、調査することが義務なのである。信用するしないの問題ではないのである。

金に関しては人は信用できない、これは別に人を信用しないということではない、金がかかわるといくら信用ある人間でも別だと割り切るべきなのである。
いくら信用したって金に関してはそういうことが起きるからだ
今のように格差社会とか貧乏社会になると常に金は危険なものになる
これは覚悟してなけれはならない、副島氏も一千六百万相当が盗まれた
一千万くらい手元に置けと講演していたというから馬鹿だとなった
それも自分で経験している、タンス預金はするべきではない
盗難は巧妙になっている、仏壇の下に隠してもプロはわかる

そしてこんな有名な人でも警察はなにもしてくれなかったのである。本当に警察は何もしない、それが現実である。有名人でもそうなのだから普通の人は相手にもされない
そして昭和恐慌のとき(昭和5-8年)の時ものすごと泥棒が増えた、電気を夜もつけぱなしにしていたという、今もそういう時代にもどりつつあるというのは本当だろう
困窮している人たちが回りに増えれば必然的にそうなるのだ。
資産家にとっても格差社会や貧困化する社会はいいものではないのだ。
安心して寝ることすらできなくなるからだ。
資産家が高い塀で囲んでいるのもそうである。もう戦国時代のように要塞化でもしないと財産も守れないともなる、田舎でも困窮している人はいるし増えてくる

今は田舎も都会も同じようになっている、金に振り回されているのは同じだからである。資産家と小金もちは違う、この人は資産家だから被害も大きくなり不安も増大してゆく
監視カメラから金庫でも特大のものを用意するとか守るために苦労する
外国の資産家は警備員を雇っているからそうなる、日本ではいろいろなハイテクでも何でも利用して守るとなる
自分も今度は銀行の貸し金庫を利用することにした、いちいち出すのがめんどうでしなかった、なんとか整理できたから利用するようにする、金は妻子にもまかせることができないというとき別に一人暮らしだからではない、みんなそうなのである。
それが金というものなのである。

いづれにしろ自分は金の扱いとかわからないし大金を使うとかできない、そういう経験がないからだ、何か経験がないことをするのはめんどうなのである。
必ず失敗する、大金を使い慣れていなければ大金をもつと失敗することがある
日頃の習慣でそうなっているのだ。習慣の力は大きいのである。
いくら金が入ってたとしても金持ちのような生活はできないのである。
自分は資産家でもなんでもない、遺産でちょっと恵まれたというだけである。
でももっと困窮している人が増えていることで安心できない社会になったのである。

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副島氏


posted by 老鶯 at 19:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

責任は否が応でもとらされるのが人間 (金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会) 責任は否が応でもとらされるのが人間 (金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)


責任は否が応でもとらされるのが人間

(金の多寡で責任の度合いも決まる資本主義社会)

●否が応でも」で、承知不承知に関わらず、何が何でも、という意味に用いられる

仕事や人間関係にトラブルが生じると、必ずといっていいほど始まるのが「責任の押し付け合い」です。誰がミスをしたのか、そもそも誰が責任をとるべきなのか、といったやりとりを見ると「責任なんて、背負いたくない」と思ってしまいますね。

自分が一度でもミスしてしまった場合、それがずっと自分の看護師としての人生についてまわります


ゴミみたいな給料で責任感持たせられてたまるかよ 
経営者が責任感の欠片も持ってないってのに


非正規は責任感が無い奴が多いよ 
実際、責任が無いからね 
要は投げやりなのよ

責任取らされたりするのが嫌で非正規選んでる人多いよ

非正規に責任はない 
正社員じゃないのだから会社の将来を考える必要もない 
やる気いらない、対価を稼ぐだけ 

派遣社員には責任感がない 
仕事に誇りを持って、その道を極める 
そういう日本人らしい労働姿勢こそが日本の誇りなんだよ 
責任感のない派遣社員増やしたの誰だよ

非正規は責任感ないっていうより、信用が出来ないから責任のある仕事は任されない。 
非正規採用である時点で会社から一線引かれてることに早く気付こう。

労働者側から見れば責任感やる気は対価に見合わないだろ。それがほしければ相当の対価を出せよ。



看護師とか医者はやはり厳しい、ミスを許されない職業だからそうなる
ミスしたら患者が死ぬこともあるから厳しいとなる
そのミスが一生つきまとうとなるのも厳しい
あの人はだめな人なのよとされてしまう。
それだけ責任をもたされている仕事だから待遇もそれなりのものになる


職業に貴賤はないというけどやはりそうして責任のある仕事と責任のない仕事に分けられる、掃除する人は多少汚れが残ってもそれが生死にはつながらないからだ
建築関係などでも手抜きしたりしたら本当は地震の時その結果が現れる
それは命にかかわってくる、タカタのエアバッグなどでもそうである。
その責任が問われて一兆円も損失となり倒産するようにもなる

例えば商品でも野菜でも安いならそんなものだろうとなる、高ければいいものでなければならない、電気製品でも三万のノートパソコンを通販で買ったけど壊れた、するとその値段だからそんなものだとなる、これが十万だったらあきらめることもできない
十万の責任がその商品にはあるとなるのが資本主義社会なのである。
値段によって責任の度合いが決められているのである。
家だって安ければそんなものだろうとなる、責任も問うこともできない
そのくらいしか払っていないのだからとなる

だから責任のある仕事にはそれ相応の地位と給料があってもしかたがないとなる
そうしないと本当はそんな重い責任の仕事を引き受けないともなる
非正規はそんな重い責任はとらないだろうしまかせられないともなる

ただ結局誰も責任から逃れられないようになっている、責任はまたカルマなのである。
その人が作り出したカルマなのである。そのカルマを果たすことが強いられる
そのカルマというときいろいろなものがある。
借金したということはすでにカルマを作ったことでありそれを他人に肩代わりできない
その人の家族のカルマとなってゆく、例えば子供をもつ人は持つ人で責任が生まれカルマをもつ、では持たない人は持たない人でカルマをもつ、身寄りがないとなるとそれも経験したように悲惨なことになる、それもカルマだった
ニートとか非正規とか責任ないからいいとなるが後で責任をとらされる
社会的に優遇されないし下流老人の最低限で生きていかなければならないとかなる
また金があっても身寄りがないとかなり苦しむ

要するに人間は生まれたことはカルマを背負うことなのである。生まれたこと自体責任を負わされているのである。子供が泣いて生まれてくるというときそのカルマを背負って生まれるからだともなる、
日本の国土に生まれたものは日本の国土のカルマを背負う、地震とか津浪が来るのもカルマだった、だからこいういう国土のカルマに原発は作るべきではなかった。

人間は責任をもてと言ってももちきれないこともある、裁判官などがそうである。
人が人を裁けるかとなったら裁けない、人は裁くなと神が言う時そうである。
それはあまりにも責任が重すぎるからである。
人を裁けるのは神しかないからそんな重い責任を負うことはできないのである。
最終的に責任をもっているのは神だともなる
なぜなら神は全能だから責任をもちうるからである。
人間は全能ではないから必ずミスがあり過ちがあるから責任がもちえないのである。

だから原発の「安全神話」などももろくも崩れ去ったのである。
そして誰も責任をとらないが責任を地元の住民は責任をとらされているのである。
責任は別に当人がとらされるとは限らない、事業に失敗すると家族でも親戚でも回りにその責任が及んでくるのである。だから事業は慎重にすべきであり回りの同意を得てやれともなる、失敗したら家族にその責任が回り親戚にも回ってくるからだ
それは原発ともにていたのである。
だから土地の所有者と県で許可するようなことをするべきではなかった
広範囲な住民との話し合いで対話してするべきものだったのである。
結果的には今や浪江の人でも他でも避難した人が住んでいるように広範囲なものとして
責任がとらされている、原発を作った町だけの問題ではなくなったからである。
もしそこだけで責任がとれればいいが回りにも波及しているからである。

posted by 老鶯 at 09:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題