2017年06月23日

車社会を見直すとき (車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)


車社会を見直すとき

(車は効率的な乗り物ではないー車社会の異常性に気づけ)
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車を考えるとき車をもっていない人は車のことがわからないのである。
それで原町のモスバーガーが車のない人も入れることが二十年間わからずに大失敗だったいつも喫茶店を探していたがあの辺になかったがあったのである。
こういうことは車がない人にありうることなのだ、車社会になっているとき車のことがわからないのである。
だから車社会で車をもたない人は弱者になり一段と下のクラスに見られる、車もない貧乏なのかとみられる、そして金持ちは車の善し悪しで判断される、いい車をもっている人は金持ちである。
この辺で原発避難者は多額の補償金をもらった人がいてそういう人はいい車を買ったりしたからわかり反発を受けたのである。

車をもっていない人は車が社会でどう活用されているわからないのである。
ただ交通というとき鉄道が全盛の時代がありバスも活用されていた時代があり車社会になったのである。
車がなぜこれほど普及したのかそれは家からすぐに乗れて行動範囲が広がるからである。ただ車を見るとき車で見落としているのは盲点は車は空間占有率が高いことなのである。一軒車は小さいが意外と場所をとる、車は一台に一人しか乗らないことが多い
すると50人乗って移動するとどうなるか、50代の車が連なり百人になると百台も連なるのである。百台の車がつらなるとき道路をそれだけの場所をとる
だから渋滞にもなる、それで津浪のとき車が渋滞して被害になったのもわかる

誰でも車を日常的に使っていると何かあったとき車をまず利用しようとする、それは習慣なのである。自転車を足としている人は自転車を利用しようとするのである。
車は津浪から逃れるのにいいとみんな思っていた
ところが早いから逃げられると思ったが渋滞になって車が動けなくなったのである。
それは車がその時一度に百人も逃げるというとき百台にもなるからである。
それは道路を埋めて渋滞になったのである。
車は場所をとる乗り物なのである。例えは乗り物でもバイクとか自転車とかなるとそれほど場所をとらないのである。自転車だったら百台置けるところを車だと十台くらいしかおけないのである。それだけ場所をとるのが車である。
だから歩いて生活していた通りがシャッター通りになったりしたのは車社会になったからである。駐車するスペースがとれないからである。
道にとめて買物しているが危険にもなるからだ。

車社会を見直すというとき、車をなくすということではない、お前は電気もなにもない江戸時代に帰れとかいうとき電気をなくすことではない、車をなくすことではない
電車とかバスでももっと活用して車を減らすということである。
車は実際はエネルギー効率が相当に悪いし二酸化炭素も出している
エコな乗り物ではない、そして金がかかるということである。
車をもたないと生涯で二千万くらいかかるとも言われる
自分は車をもたなかったからそれだけたまったのかともなる
車に金がかかりそれで貧困化している日本では車をもつことは苦しくなっている
皮肉なことは都会は車なくても電車があるから暮らせる、田舎は車がないと暮らせないという矛盾がある、田舎では車は一人一台もっているのも贅沢だとなる

また高齢化社会で運転できなくる人が増えてくる、すると社会的弱者になり買物すらできなくなる、そういう買物難民がすでに増えている
車社会だから近くに店がない、みんな遠くにスーパーなどを作ったからである。
それも車社会が作り出したものなのである。
それが高齢化社会になったとき不利なものとして働くようになった。
高齢化社会はスロー社会だと暮らしやすい

盲人が電車に乗るのは停車時間が一分とか短いからである。それだけ時間も効率化したのはいいが障害者にとってはそのスピードに合わせられないのである。
それは高齢化社会になるとそうしたスピードに合わせることが苦痛になるし事故にもなる車社会が見直さなければならないというとき社会を歪(いびつ)にしてしまったことがあるからだ。街の中心部がシャッター通りになったり街としての機能を失ったとかである。
手押し車で買物も苦痛だという老人が街中にいた、近くに店がないからである。
だから高齢化社会は車社会を見直すのにはいいのである。
それは老人だけではないみんなにとって住み安くもなるのである。

例えば広域化社会とかグローバル社会とかも社会を歪にしてしまった。
そんなに遠くと関係して生活するということがいいことなのかどうかである。
基本的なものは地元でまかなうというのが人間的な生活になるからだ
そして足りないものは補うのがいいのである。
外部からのもので買ってばかりいることは豊かなことではない
ただそうはいっても矛盾しているのは自分は買物は地元の店ではしない
それは買物が毎日結構手間だからである。いくつもの店を回るのが手間になるからだ。
だからそういう矛盾は常にある。

車の一番の問題は何かというときそれが場所をとる、空間を占有する率が高い、実際に道路を毎日埋めて走っているのをみればわかる、それも日常の風景だけどよくよく考えてみれば異常な風景にもなる、車がない時代の人が見たらこれはなんなんだとなる
正常とか異常の感覚はとにかく慣れてしまえばそれが正常なのである。
何か異常と思えるのも社会に存在して慣れてしまえばそれが正常になるのだ。
その異常性に人間は気づかなくなるのだ。
車があって当然じゃないか、何を馬鹿言っているんだと実際なっているからだ。
車社会が正常なものであり車がないことは異常なのである。
戦争ばかりしていたら戦争状態が正常になり戦争がないことが異常にもなる

現代に何が正常なのか異常なのかわからなくなっている
それで異常なものにたやすく席巻されるのである。
それがカルト宗教団体とかであり他にも様々な異常なことがあっても気づかないのである車社会を見直すというときそういう異常性があるんだということを気づかない
車がこれだけあふれて空間を占有して金がかかりエネルギーを使い効率も悪いということを考えないのである。

この辺では原発事故で故郷が捨てられて空家だらけになった、その時異常の世界が映画のようにな世界になった、そして今までありふれたものが見直された
田舎の農家に通じる一本の道がアットホームに人のぬくもりを感じたというのもそうである、そんなの当たり前じゃないかとなるけど現実に人が住んでいない家がどうなるか
その異常な世界を見たとき今まであったありふれたものの価値が見直された
そのありふれたものの価値を見いだしていなかったからだ。

原発も異常なものだったが異常と認識できなかった、科学の時代に原子力があるのが普通である、先進国なら当然だとなっていた。だから原発が日本でこれだけ増えて危機感も感じないでいたのである。
人間は異常性に気づかないのである。車があるのは当然であり車がない社会は考えられない、でも車社会はもう飽和状態である、何か別な交通手段、今まである鉄道でも見直すときなことは確かである。路面電車などが見直されたのは実際に運行するようになったのはそのためである。ただそれも都会として規模が大きくないとできない
規模の小さい市町村では交通をとうするかが課題になっている
posted by 老鶯 at 16:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

豊田真由子衆院議員、精神的に不安定となり入院 (人格形成の失敗、人格障害?)


豊田真由子衆院議員、精神的に不安定となり入院

(人格形成の失敗、人格障害?)


東大出でハーバード大学出でも人格がだめになるのか?学歴とかと人格は性格は違ったものなのか?
まず東大とかハーバードととなる普通の人はなぜそんなに利口なのかと考える
人間はどこの大学が出たとか一生つきまとっている
学歴を目安にする、学歴に一生こだわる人もいる
病院で入院して老人が学歴を自慢していたとかいる
いつまでも大学のランクにもこだわる、人間は何んでも比較して優越感をもちたいのである。

ただなぜ人間は例えば体力がありスポーツに秀でていてもまた人格が形成されるとは限らない、結局、人間が奢ること傲慢になることが人格をだめにする一番の原因なのである。一方で頭がいいとかスポーツマンとか優秀なことが悪いことではない
みんなそういう人に憧れているからである。
自分は体力も知力も普通よりだめだった、だから高校でも集団生活になじめないとかわがままであり体力もない、何かいいものがなかった
でも今になると三流大学でも良く入れたなと思う
高校では卒業もできないくらいだったからである。
ただ自分は勉強の仕方が悪かったこともあった。
やはり勉強というとき勉強の仕方がかなり影響してくる
でもやはり東大とかハーバード大学となるとなぜそんなに勉強ができるのかと理解できなくなる

人間は学歴だけではだめである。ただ理系と文系は根本的に違っている、理系はやはり何か頭がいいとみる、違ったものとしてみる、文系の頭がいいというとき文系はたいしたことはないとみる
ともかく人格形成を考えるとき若いとき成功しすぎるとかえってゆがんでしまうだろう。恵まれた環境でもそうである。
金持ちで遊んで暮らせるとかなるとまたおかしくなってくる
江戸時代の映画だと旗本の息子がとんでもない悪さをするがそうなりやすい
つまりあまりにも恵まれた環境も人格形成にいいとは言えない
社会で苦労した人間はやはり人格的にできてくる
でもまたむずかしいのはあまりにも苦労しすぎると人格がゆがむ
そういう人を知っているけど人の不幸を絶えず喜ぶようになっているのである。

ただ人間は狂気になって終わるというとき人格そものものがまともな人がいるのだろうか?
人格を見ると必ずいい面があるとするとそれは悪い面になる、勝気な人は意志が強く何かをできる人である。でもそういう人はまた他者に同情しないとか奢るということもある
でもそういう人は何かできる人なのである。
一方で性格がおとなしい人は控えめであり何かを成すことができないのである。
性格は老人になると極端化してみんな狂気になってゆく
もともとバランスのとれた人格になることはむずかしい
強気の性格で謙虚な性格になることがむずかしいのである。

ともかく自分のあった人間のことを書いたが人格障害者になっていた、すでに60近くでも年数を重ねてもかえって人格が悪くなっていて狂気化していた
それは子供時代しか見ていないからわからなかったがいろいろ人生の中であり異常化して人格障害になっていた、ただそれは外から見てわからないものである。
でもどこかでその異常性が露見する
人間はまともバランスをとれた人格をもつこと自体そもそも一番むずかしいだろう。
それは学問しても作れない、人生経験の中でしか作れないからである。

そもそも人間はこの人は極端だけど人格障害者が多くないか?
人格障害とは何かかたよってしまうことなのである。自分だって何らか人格障害をもつ
性格が内向きだからそれが極端になると社会とも人とも交わらないとなる
ひきこもりになるのである。実際自分は三十年間くらい社会と交わらなかったそうなる
それは家庭環境が恵まれたからそうなったのである。
普通だったら働かざるを得ない勤めざるをえないからである。

いづれにしろ人間の一番の危険は奢ることにある,だから若いときそういう立場にいると危険である。若いとき高い地位につくのは奢りとなり危険である。
また頭がいいと奢ることは危険である。事業に失敗した人は別に高校出くらいだからたいしたことはなくても理系であり資格をもっていたから自分は経営してもできると思っていたのである。ところが理系として技術者としては優れていても会社の経営となると全く別な能力が必要になっていたのである。
でも奢りがあり自分がなんでもできると思い事業に失敗した
そして人格的にもゆがんだものになっていった

確かなことは若いときは失敗したほうがいいし挫折した方がいいし下積みで苦労した方がいいということである。若いとき有名になったり高い地位につくことを望む
それが奢りになり人格障害になってゆく、自分は三十年間隠者になっていたけどそれで良かったともなる、ただその結果としてマイナス面があり介護とかなり苦労したとなる
人格形成というときそれだけいろいろな要素が働くからむずかしいとなる
神は砕かれた魂を望むというときそうである。若いときは一度でも徹底的に打ちのめされた方がいいのである。まず成功しすぎたりあまりにも恵まれすぎると人格が形成されない奢りになるのである。

人格障害というときこの世の中、偉い人と言われる人にも多くないか?
政治家でも弁護士でも医者でも理系の人でも人格から見れば異常的になっていないか?
医者はどうしても今では一番もちあげられるから傲慢になりやすいだろう。
看護師などもそうである。常に弱者を相手にしているから傲慢になってゆく。
すると必ず患者を見下すようになる、謙虚な心はもてないのである。
ただ底辺層でも絶えずおとしめられていると心がゆがむ、だからどっちにしろ人格形成がうまくゆくのがむずかしいのである。

世界は病院である


この世は狂気にいたり滅ぶ

posted by 老鶯 at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層