2017年06月17日

原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる (津浪は高低差の影響が大きかった)


原町区萱浜(カイハマ)、高平、北原、雫(しどけ)を尋ねる

(津浪は高低差の影響が大きかった)


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赤い囲いは四十才以下の死者
今田家は三人いるから悲惨だった
あとはやはり七十以上が多い

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津浪にも残った樹、高台にあったから

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パノラマ写真
高低差が大きい、雫の方はかなり高い
車のある島商会まで津浪はきたが建物は助かった
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海岸にハマヒルガオと都草や野茨が咲いていた

でもマルハシャリンバイは咲かない、津浪で喪失

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これは墓や地蔵を集めたが不思議である。
みんな笑っているのか?みんなで祈っているのか?
津浪の後の不思議の光景である
六年も過ぎだから笑っているというのも時間の経過のためだろう
死者は津浪で死んだ人だけでなく笑っているという感じになることがある
時間がたつと悲しいとういだけなく笑っているともみる
ただ津浪の被害はあまりにも大きいからその傷痕は消えない
これは若くして子供でも死んだ人をとむらう地蔵にも見える

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中世の板碑(津浪が来たのが青い線)


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鹿島田中城(線が津浪の来た所)



萱浜(カイハマ)は北原とか雫(しどけ)からすると低い場所だった
だからあの辺は高低差が相当にあった、高い雫の方が津浪の被害がないから家が残っている、萱浜になるとそこは一番低い場所だった
今回の津浪はこの高低差が大きく影響したのである。

例えば海老を見るとそこは右田よりはずっと高いから津浪の被害がないと見ていた
実際に崖の上がさらに高いからそこに逃げた人が30人くらい死んだのである。
それはなぜか?
そこは高いのだがその高さより高い強い津浪がおしよせたからである。
でも海老は海に面してなければ村が消滅するようなことはなかった
海に接して面して集落があったから被害が大きかった
もし海より50メートルでも後退して集落があったら助かった、実際に10メートルくらい後退した高台の家は助かったからだ

それはなぜそうなったかというと海老は弥生時代からの住居が発見されたようにもともと住みやすい場所だったのである。そこは海が入り込んでいて魚もとれるような場所だったしもともとあとは湊となっていたのである。
そこは魚もとれる、帆掛け舟も出せる湊だった。
そういう場所は便利だから海に接して集落があり弥生時代からの住居跡さえ発見されたのである。
三陸などでもなぜ明治時代に今と同じような津浪の被害があったのに低い海に接した場所にまた住んだかというとそこが便利だから元の場所にもどってきたのである。
いくら津浪があっても魚介類をとって暮らすほかない時代である。
そうしたら海に接している所が危険でもまた住むようになったのである。

萱浜にも湊の機能が中世にもあったらしい、そこはかなり低い場所だった
湊という姓の墓もあった、鎌倉時代の海道の武士団という本でそのことが書いてあった。慶長津浪は戦国時代に起きていてその前に鎌倉の武士団が海道を行き来していたという
鹿島区の鎌倉武士の岩松氏も船で烏崎に来たという伝説がありそれは史実である。
ただ磐城から船できて鎌倉ではないらしい。ただ鎌倉時代はそれだけ船で運行する技術力が生まれていたのである。

いづれにしろ津浪は高低差が大きく影響した、萱浜の方が相当に低いのである。
雫の方になるとずいぶん高いと思った、だからそこは津浪の被害がなく家も残っているのである。
十一面観音の御堂も木立の中に残っている、かなり海に近くてもそこは高台だから残ったのである。
ただ島商会の車の置いてある崖の上まで津浪が来たのだから驚く、あの坂はかなり急だからである。
ただ辛うじて島商会は被害がなかったのである。あそこの高台に建てたことで助かったのである。低い所に建てたら根こそぎ津浪に破壊されたからである。
土地が安いということで高台に建てたのだろう。平地だと田んぼや畑になっていたので土地が手に入れにくかったためにあのような高台に建てた

それから津神社は高い所にある、あれは津浪とは関係ない、津(つの)神社でありツノガノアラシト系統であり渡来人系統なのである。
津浪に由来して建てられた神社は見つからないのである。
津浪にまねがれたとしてもそれは津浪神社とはならないのである。
ただ神社に古いものがある、また鎌倉時代にさかのぼると海側や低い場所は湿地帯であり人が住んでいないのである。
萱浜は越中などの移民が入ってきて開拓した場所だった。だからそこは湿地帯であり低い場所で条件が悪い所だったのである。
そういう条件が悪い場所に入るのは後から入って来た人たちであり前からいた人たちは住んでいないのである。

鎌倉時代の板碑がある地点からみるとかなり近くまで津浪がきている、おそらくその時代は湿地帯であり住めない場所だったのである。
鹿島区の田中城もこの板碑がある場所とにかよっているのである。
津浪がやはりかなり近くまで来ていた、その城は回りが湿地帯に囲まれていたのである。だから位置的に鎌倉時代の人の住める地点としてあったことがわかる

その板碑のある隣に氷川神社がある、これは埼玉県に多い、関東から鎌倉武士団が移住してもってきたものだろうか?中世に由来するとなるとなかなかわかりにくくなる。
高平と太田地域は相馬氏の支配下に早くからあったからそうかもしれない。
高平ー大内ー小島田が相馬氏の支配下にあった、屋形などは岩松氏の支配下にあったが後で相馬氏に属すようになった。

氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキが「客人神」として祀られている。このアラハバキ社は氷川神社の地主神である[4]。現在祀られている出雲系の神は、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたもので[5]、先住の神がアラハバキとみられる[4]。

平安時代後期、平貞盛が平将門の乱において当社で戦勝を祈願し乱を平定したことから、関東地方の武士に幅広く信仰され、荒川流域に数多くの分社が建てられ、武蔵国中に広がった。

これはなかなか面白い、氷川神社がアラハバキ族の神社だった、このアラハバキは蝦夷とされているからだ。関東に蝦夷系統の神社が多い、それが東北にこの辺にも移されているのである
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湊氏は安藤氏の系統につながるものらしい、安藤はまた阿部の末裔ともある
阿部氏は日本海の秋田を通じて船で最初に来て蝦夷と交流があり支配した
湊氏は秋田と関係しているのはそのためなのだろう。
だからなぜ萱浜の墓に湊氏があったのか?それはそこに船と関係して湊があったからではないか?もともと古代には泉かんが跡があるからそこはすでに湊の機能としてあった。
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「相馬恋唄」で歌手デビュー 原町の湊清一さん(75) 震災で自宅流失

湊氏がいてこの人も萱浜なのか?

鎌倉時代の歴史書によると安藤五郎が鎌倉時代初期に津軽地方に置かれ蝦夷対応に当たったのが初めとされているが、正確なところは不明である。鎌倉時代末期には御内人として蝦夷沙汰代官職を務め、津軽地方を本拠地に西は出羽国秋田郡から東は下北半島まで一族の所領が広がった

安藤と湊氏の関係があり結ばれている、それは阿部氏とか蝦夷につながる系譜がある。
蝦夷というとき海老もエヒであり蝦夷であり萱浜もカイハマであり蝦夷はカイと呼ばれていた、他にエとつく地名が南相馬市や浪江の沿岸地帯に多い、蝦夷というのはやはり東北一帯に秋田とも結ばれていたとなる
つまり秋田とか津軽(つがる)とかなると福島県では古代からかかわりが感じられないが蝦夷ということでつながりが見いだされるのかとなる
鎌倉時代はまだ蝦夷いうときその歴史が継続していたこともある、古代の延長として鎌倉時代があるからそうなる。蝦夷はその時遠い歴史ではない、まだ歴史としては身近なものとしてあった、だから蝦夷とのつながりが平泉でも取り沙汰されているのである。


posted by 老鶯 at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

付加価値の時代は新たな文化の時代 (フラワーアレンジメントから考える)


付加価値の時代は新たな文化の時代

(フラワーアレンジメントから考える)


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「姉妹」

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「清楚」


何やっても実際は簡単ではない、フラワーアレンジメントもただいろいろな花を挿せばいいと思っていたがそうでもなかった
それを知ったのはスーパーで売っていたすでにフラワーアレンジメントされたものだったそれは400円とか安くても作品として作られていて花束として売っていたのである。
それは簡単なようでもフラワーアレンジメントされていたのである。
それでそれを写真に加工してプログに出した

この花は結局ただ花を売っていただけではない、フラワーアレンジメントをしたのを売っていた、ということは花屋はそうしてフラワーアレンジメントして売ることが商売となるとき花を売るにしてもフラワーアレンジメントできないと売れないともなる
そうして結婚式と葬式のときは作って売っていることは確かである。

今回スーパーで買ったものは安いからそういうものではないと思った
ただ花をアトランダムに束ねただけかと思っていたのである。
でも良く見ると単純なのだがすでにフラワーアレンジメントとして作られていたのである。
フラワーアレンジメントは花が高いので金持ちでないとできない、ただ安いものでも売っているからそれでたりならいい、花をいろいろ買ってフラワーアレンジメントすると高くつくのである。
そして壺もフラワーアレンジメントの要素として欠かせない役割がある
写真をとると壺もとるから壺の役割が大きくなるのだ
壺によて印象が違ってくるのである。

これからの商売はただ花だったら花を売るだけでは売れない、単純なものでもフラワーアレンジメントされたものなら買うともなる
それは単純でもただ花を売っているのではない創作品だったのである。
そこに価値が生まれていたとなる
花があってそこに付加価値としてのフラワーアレンジメントがあるから価値があった

付加価値というときもともと機能的価値が基本にある、土器でもそれは物を入れるものとして機能性を追求する、でも今度は装飾性を追求する、それが縄文土器となった
機能性に付加価値を加えたのである。それが芸術だともなる
何でも最初は機能性を追求する、茶の湯でもそうである。茶碗はただお茶を飲むものでしかなかった、それが茶の湯に発展したのである。
それが人間的なことであり文化なのである。

つまりこれだけ物があふれると物としての道具としての機能性より付加価値があるものが求められる、なぜなら機能的な面は今度は機械化され自動化されるからである。
でもそうしても駅でメカニカルなものとヒューマンなものとして分けて見た
いくら機械化しても自動化してもそこにヒューマンなものが必要になる
そこに価値が生まれる、機械化すれば自動化すれば余計にヒューマンなものが価値が出てくる、ロボットには愛などは生まれようがない、ただ高度な知性は備えるようになる
でもヒューマンなものは必ず求められる、それが付加価値になる

要するに今は物があふれているから物だけ売っても売れない、そこに何でも付加価値が必要になる、それは芸術的なものとなる場合もあるしその他人間的なものとしてあることの価値が高まる、もてなしというときとても機械だけでロボットにはできないのである。
機械にロボットにできても人間にしかできないことがありその価値が高まるのである。

情報化時代というときこれも付加価値なのである。情報といっても無限である。
それがインターネットでキーワードでひけるとき情報の付加価値が生まれる
本の弱点はキーワードで関連したものを引用できないことなのだ。
情報のデーターベース化が必要になる、それは確かに個人的にもできるようになってはいる、蔵書もデーターベース化できる、だから知的な環境として自宅に図書館をもっていることにもなる、図書館は何か調べるのにもめんどうなのである。だから図書館に行かなくなったのである。図書館も飼料でもデーターベース化すれば調べやすいのである。

もう一つは物語性というのも価値がでてくる、例えばヨーロッパの修道院で作られた菓子が売っているというときそこで修道院のシスターが丹念に作ったものとして歴史を偲ぶのである。そういうことは日本でもある。その菓子は中世とかなると貧しいから貴重なものだった。そういう物語性はむずかしい歴史書を読むとういのではなく誰でも感じることができる、庶民的なものにもあるからだ、確か北海道のトラピスト修道院の菓子とかあるがヨーロッパだと中世からはじまっているからもし旅をしてその菓子を味わうとき歴史を偲ぶことができる、その中世の街にあってこそその菓子を食べたとき本当の価値を知るのである。
ただ自分はヨーロッパを旅してもそういうことはできなかった、旅はなかなかそういうことを知ることがむずかしいのである。
その土地の表面的なものだけを見て終わっているのである。

最近駅に興味をもってお茶の水という駅があり地名の由来を知るとなるほどなと思った。もともとは寺があり江戸城で殿様がその寺の井戸の水で茶の湯のために使ったことがその地名の起こりである。
するとそこから江戸時代が偲ばれる、水道の水ではない、井戸の水を使っていた。
そして茶の湯をたしなんでいたのである。その時江戸時代の感覚だと悠長な時間があった騒々しい時代ではない、ゆったりとして茶の湯をたしなんでいたのである。
その感覚はあまりにも今とはかけはなれいるから余計にそう思う
お茶の水駅でもそこは騒々しいとても茶の湯をイメージする場では今はないからだ。
でもその物語を知るとき江戸時代はまるで違ったものとしてあったのである。

殿様の茶の湯たしなむ江戸の町静かなる時のかつてありしも

江戸にはそういう悠長な時間があったとなる、それを偲ぶ物語があり付加価値が生まれるのである。




posted by 老鶯 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題