2017年06月14日

真野川の河口にて(川の漁業権の問題) (シジミとりする原町の人と会う)


真野川の河口にて(川の漁業権の問題)

シジミとりする原町の人と会う

shijimi11.JPG

真野川の河口の方に行ってみた、シジミとりする人が二人いた、聞いてみたら小さなものしかとれないという、昨日も上の方でとる人が5人くらいいたという。
シジミがとれるようになったのか?小さいシジミしかいないことは川が津浪で川が変わってしまったためかわからない、そこは浅瀬になっているからシジミがとりやすい
深くなると船が必要になる。
右田の河口ではシジミはかなりとれた、自分もとったことがある。
右田のシジミはうまいいいシジミという評判だったのである。
でも漁業権をもっている組合からシジミをとることが禁止された
小さいシジミをとることがあり資源保護のためだった
そういうことはやはり漁業権の正当性が認められる

ただ今回の海の漁業権は東電に海を売り渡して補償金を前からもらっていた
それは多額であり事故の後ももらっているのは納得いかないと書いてきた
それで海は誰のものかという議論をした
漁業権は資源の保護などで必要なのであり東電などに売り渡すものとして漁業権はないのである。何かそうした明確に法的なものが漁業権にはない、慣習のようなものがあるだけである。法律として規制していればこうはならなかったかもしれない。
そもそも海を東電に売り渡す権利が船主とか漁業組合にあったのかという疑問があるからだ

無数の小魚が川に上ってきていた、ボラの子なのか?

幼魚のうちはしばしば大群を成して淡水域に遡上する

これだろう。その数は膨大である。前にも金沢で見たことがある、河口の状態が環境的に津浪の後どうなっているかわからない。魚は6年間もとっていないとすると増えたことは確かである。

シジミをとっていたのは原町のおばあちゃんだった、なぜかこの人はしきりに鹿島の人はかわいそうだという、補償金がわずかしかもらえなくてかわいそうだという
その人を最初はそんなに言うから鹿島の人だと思っていたのである。
自転車で原町から来ていたのである。新田川でもシジミはとれるという。
真野川は川が大きいからシジミは多かったことは確かである。

この川は県で管理していてもっと上流でアサリをとっていたら県の担当者に禁止されたという、それは放射性物質に汚染されているからかもしれない、

 福島県相馬市松川浦産のあさりから放射性セシウムが52ベクレル/kg出ています。(2013年11月27日 福島県農業総合センター調べ)位置としては、はやま湖からの水が流れ込んでいる可能性があります

6年ぶり、港に活気 相馬・松川浦アサリ漁再開

こういうニュースがあるからすでにアサリやシジミでも食べられるのだろうか?
ただ河口というのはセシウムのついた泥が大量に流れる所でありそれで阿武隈川の河口では放射線量が異常に高かった、だから河口では放射性物質がたまった泥が堆積している場所だからなんともいえないのである。
アサリをとることを禁止されたのはそのためなのかよくわからない。
別に老人は飯館村でも山菜を食べているから気にしない人は食べていたのである。

ともかくなぜ原町のばあちゃんは鹿島の人をこんなにかわいそうだというのかわからなかった、その人は原町だから何の不満もないが鹿島の人はかわいそうだと言っていたのである。
実際に鹿島の人の不満が大きいのである。そのことはプログで書いてきた
それは自分だけのことではない、鹿島の人の全員がそうなのである。
一番言っていたことは病院とかでも無料になっていたが鹿島の人はすぐに打ち切られたのがかわいそうだと言っていた。その人も病気で病院に行っていたからそこで鹿島の人が不満を言うのを聞いたからかもしれない、そうでなければそんなに原町の人が鹿島の人に同情することはないはずである。
それは相馬市の人も不満を言っていたからわかる。

鹿島の人で原町の人を悪く言う人はいない、そして原町の人がいくら補償金をもらっているからわからない、それがまた不思議だとなる、地域によっても違うからである。
石神辺りは放射線量が高いからそれなりにもらっている
それがわかったのは古い家を新築した人がいたからである。
それは明らかに補償金もらったからできたのである。

いづれにしろシジミでもアサリでも勝手に誰でもとっていいというわけではない、それは資源保護があるからだ、だからこそ漁業権は必要なのであった
シジミでも小さいうらからとっていたから増えなくなるからである。

あのばあちゃんは元気である。原町から自転車で来るくらいだからである。原町といってもすぐ隣だから遠いとは言えないが今なら車で来るからである。
シジミとりはこの辺では夏の風物詩である。何かこの辺でもそうした海の幸の恩恵があっていいとなる

大洗の船溜まりにボラの大群

ボラは数が多い、魚はこういうふうに大量に河口とかに入ってくることがある。


posted by 老鶯 at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

集団就職の金の卵が故郷に帰る (真野川の橋の上で)


集団就職の金の卵が故郷に帰る

(真野川の橋の上で)

真野川の橋でやはり川を見ている人がいた

「水がにごっているね」
「鯉はいるけどな」
「昔こんなじゃなかったな」
「昔というとどのくらい」
「わたしは50年ぶりに帰ってきたんです」
「ええ、とすると集団就職の人」
「そうです」
「じゃ、苦労しましたね」
「本当に故郷は変わってしまいましたよ」
「この辺は特にそうですね」
「なんかのんびりしようとしたけどこの辺はそうもならない」
「それは言えます、あまりにも変わりましたから」

集団就職というとき自分の暮らすで三分の一くらいが集団就職だったかもしれない、ただその時何なのかのみこめなかった。
自分は大学に行って遊んでいたからである。その差が大きかったのである。
集団就職の人は相当に苦労したと思う。

「水がにごっていないときは魚とっていましたね」
「ヤスとかで魚を追ってとっていた」
「あの頃は水がにごっていない、きれいな水だった」
「そうです、きれいな水でないと魚はいない」
「上流がダムになったりして魚をとる人はいなくなった」

その人は団塊世代だから同世代だった、だから同じ経験をしていた。
鰻釣りのことも知っていた。田んぼの畦道で穴に餌をついたミミズをつけた棒を入れて釣るのである。子供のとき父親につれていかれて見ていた
それがかなり待っていないとかからないから嫌だった、何か自分は待つのが嫌な性分だったのである。常に動いていないとだめなのである。
子供だからというのではなく今でもそうだからである。絶えず自転車で動き回っているからである。
鰻とか鮎もその時は大きくうまかった、それを料理するとき手伝わされた、家族みんなで料理した、それが思い出となっている、でもその家族もみんな死んでいなくなった
ただ思い出だけになってしまったのである。
それで今日同じ世代の人と話して思い出がよはがえったのである。

団塊の世代でも今になるとこのように故郷に田舎に帰ってくる人がでてきている
今までそういう人と会わなかったのが不思議であった
自分は同級会には出ていないからでもあるがそういう人と会っても不思議ではなかったのである。
集団就職、金の卵、全学連とか学生運動などは団塊の世代の時代の青春だったとなる
ただ学生運動と集団就職の金の卵の相違は大きかった
自分は学生でも遊んでいただけだからである。一方は油まみれになり狭い宿舎につめこまれて下町の中小企業の工場で働いていたからである。
実はそういう所でアルバイトしていたことがあったから知っている
何か自分が働いたというときアルバイトしかないのである。
自分は別に金に困っていたから働いていたのではないのである。
働く経験をしていただけだとなる

これからはこうして集団就職した人たちも田舎に帰る人が増えてくる、でもこの辺は帰ってものんびりできるところではないのが不幸である。
若い人が流出したりして世話する人がいない、人手不足になっているからだ
そして老人ばかり増えても市町村では負担になるだけだとなる
いくら金があっても働いてくれる人がいなくては金も役に立たないのである。

その人も釣りをしているのでスズキのことを知っていた、海には大きな蟹も上がってきているとかスズキが河口で見たとか知っていたのである。
もともと田舎の出なのだから知っている
そして言葉使いが東京弁とこの辺の相馬弁になっている、でも東京にそうして長くいるとなまりが出ないのである。だからこの人は故郷の人なのかと思った
訛りでお里がしれるというが50年ぶりとかなるともう半世紀であり訛りが出ない
それでもなんか帰って二年間いるからなまりがもどってきたともなる
でもやはりなまりだけはなかなか消えるものではない、東京でそれだけ長く過ごしたことがなまりが出ないということがそれを示していたのである。


ガラスの箱をのぞきヤスで魚とる写真
posted by 老鶯 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

メカニカルなものとヒューマンなもの (AI社会でもヒューマンなものが残る)


メカニカルなものとヒューマンなもの

(AI社会でもヒューマンなものが残る)


現代はなんでもmechanicalなもの機械化することが多い、人間にとって機械は欠かせないそれで今は本当に人間社会は全自動化を目指して人間は働かなくてもいい社会になる
それが本気であり夢物語でもなくなっている
その時人間は何をするのか?人間はいらなくなるのか?
そもそも人間とは何なのか?そういうことまで問われる時代となる

それを英語でmechanical comnicationとかmechanical workとかmechanical learning
とかmechanical responseとか前にmechanicalをつけるとわかりやすい
その反対がhuman comnication human work とかなるからである。

それを駅で考えると mechanical stationとhuman stationになる
なぜなら無人駅でも自動化しているからそこはall mechanical stationなのである。
人間はいないのである。これからの社会はそうなってゆく
鉄道はローカル線だともうからない、だから極力人間を雇わない、全自動化した方がいいとなる、それで実用的にできる、実際そうなっている駅が多くなっている

ところが今日の鹿島駅で報告したようにそこに人間的なものが必要になる
盲人が一人定期的に通っている、その人が乗るとき危険なのである。
それで導いてやる必要がある、それは機械にはできない、そのことで盲人団体が無人駅化に反対しているというのもわかる

駅で感じたことは人間は無人化してゆく、機械化してゆく、駅でもスマホを見ている人が多い、すると回りも機械化しているしそこにいる人間もスマホだけと会話しているとかなる、もう人間はいらないとなる
でもそうなるとどうなるのか?人間的なものがない駅は何かが欠けているとなる

それで中学生が近くにお菓子屋があったとき腹が減って食べたいということを言った
それは貧乏ではない、たまたま金をもっていなかったのである。
それで買えなかった、それで自分が買って食べさせてやった、それがヒューマンなことだったのである。
自動化して機械化したらそういうことはなくなる、ただ機械化して自動化した駅を機械的に通りすぎるだけになる
そこにその駅の印象は消失するのである。
人と人は会話も情もかわさなくなる、人間なんていらなくなる、そしてロボットが観光案内でもするようになる、それも必要だがやはりヒューマンなものがなくなるということはありえないのである。

ただこれは駅だけの話ではない、どこでもこういうことが起きてくる病院でも学校でも店屋でも日常的に起きてくる問題である。メカニカルなもの自動化するとヒューマンなものは何かとかえって問われるのである。
そしてそのヒューマンなものの価値が上がってくる
医者でもAI化して診断するときでも医者の価値はヒューマンな対応が問われる
それが何かというとき医者はもう病気に対して処方するより人間的な対応がより求められるから悪いとはならないしそういう適正がないとすると医者失格にもなる

そういうことはどこの職場でも起きてくる、今だってすでにメカニカルなものの中で働いている、それが高度な仕事と思われるものも機械化するからだ
すでに翻訳は機械翻訳を参考にして翻訳者は訂正しているのが仕事になっているのだ。
いくら機械化してもそこにまだ人間がかかわる余地が残るからだ。

でもそもそも人間的なものヒューマンなものは何かというとき明確ではない
例えば情報というとき情に報えるというとき情報はただ機械を通じて伝えられるものではない、情報はまさに人間の情を通じて与えられるものである。
ただ道を教えてもそうである。だからこそありがとうと言うのである。
機械にスマホになればそれもなくなる、人間はいらない、土地の人でも教えてもらう必要がない、そこにはもう人間の情は通わないとなる
そういう世界とは何なのか?殺伐とした世界となってしまうだろう。

別にAI化の前に機械化するということは何か人間的なものを奪われるのである。
車社会になると歩くということがなくなる、それで街はシャッター通りになった
歩くということが人間的に見えるというのもあまりにも機械化したからメカニカル化したからそう見えるようになったのである。歩くことはもっともヒューマンなこと人間的なことだからである。
歩いて旅した時代なら世は道連れとかなりそこに人間的な交流が生まれるが車では生まれないのである。ただ通りすぎてゆくだけだとなる

そもそも全自動化店でロボットがそこにいるだけの店に人は行くとしてもそれだけでは満足しない、それでかえって人間的な対応してくれるサービスをしてくれる店を求めるようになる、だからこれからの商売は自動化する機械化する店と人間的対応する店とに分かれる、いくら機械化しても人間的なものヒューマンなものを求めるからである。
かえってそういう店が繁盛するということにもなる
自動化した店は店として利用してもまた人間的な店も残るのである。
それはどういうものかわからないけどそういう商売はなくならないのである。
かえって機械化するとそういうものが歩くことが人間回復になるように求められるからである。

飲み食いするにしても人間はただ腹を満たすだけではない、そこで会話したりすることが人間的になる、だから何か一人暮らしだとそういう場を求めるようになる
ただ飲み食いするだけではものたりないのである。
そこに人間的なサービスがあればいいとなるのだ
これからの世の中は機械化するけどスシだって実際に回転寿司となるとそうなっている
でも何かそういうものでは腹を満たすだけで満たされないということもある
そこに人間的なものを求めるのが人間たる所以なのである。

家庭でもすでに家事は機械化している、一人暮らしても家事は困らないのである。
オカズは買えばいいし料理はめんどうでもそれも機械化してゆく
その時妻の役割は何になるのか?お手伝いさんとか今はいらないのである。
だから一体なぜ皿二三枚洗うのにも雇う必要もないのである。
それでも人間的なものが必要になる、より人間的なものの価値があがる
一人暮らしだと淋しいからやはり女性がいると安らぎがあるとかなる
いるだけでもいいとかもなっているのが一人暮らしなのである。
ロボットと対話しても人間の代わりにはならないからだ
そこで求められるのは家事をすることではなくなっているのだ。

ともかくこれからの経済は社会は機械化であれ自動化であれAI化であれさらにすすむ
でもその反面人間的なものがかえって強く求められるのである。
するとその人間的なものは何か問われる、人間的なものの価値がかえってあがる
すると機械的なものと人間的なものとの区別をして対応する必要出てくる
そこに価値観が変わるからだ、それにどう対応するか教育ですら変わらざるをえない、
それは悪い方ばかりになるとはならない、なぜなら人間的なものがかえって価値あることは悪い社会ではないからだ。
そういう人間的なものが一番欠けた社会で殺伐としたとなった社会だからである。



posted by 老鶯 at 07:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題