2017年06月08日

尽きる線路、消滅した村 (山形鉄道フラワー長井線の終点まで)


尽きる線路、消滅した村


(山形鉄道フラワー長井線の終点まで)

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記憶の中の線路

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終点の荒砥駅をおりて菖蒲という地名が二つもあるのもいかにも
山の奥という感じになる

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線路尽きてその奥なれや住む人のありしも消えて夏草うもる

蚕桑駅おりる人あれさみしきや線路はつづく終点までに

織機駅その名に思ふ昔かな機を織る音そ聞こえて石の鎮まる

夏菊の駅に映えにつ高校生おりるときのみはなぎにけり

一度のみ乗りし線路の尽きにけりその果てゆけば村の消えにき

終点の荒砥駅におり夏の日や菖蒲の地名残りあわれも

かつて住む貧しくあれどともる灯や消えにし村を惜しみけるかな


日本でこういうローカル線がまだ残ってるのが不思議だとなる、ここには確かに夏に一回乗った。すぐに終点になってそのあとは線路がない、調べると機織駅とか蚕桑駅とかある機織駅の名は機織川があったからだという。蚕桑駅は養蚕でありそれはどこでもそうだったからわかる
手で機織りしていた人は戦前までいた。その女性は明治生まれであり母の実家で機織りしていたのである。家の中に機織り機があったとなる、そういうことはつづいていたし珍しいことではない、大量生産する前はそうだったのである。

古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました

河内女(かはちめ)の 手染めの糸を 絡(く)り反し片糸にあれど 絶えむとも思へや
  〜作者未詳 『万葉集』 巻7-1316


機織り石(はたおりいし)の伝説
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これは日本だけではない世界的に機織りの歴史があり古い、人類がはじまって以来この業はしている。
その後自分の母親が原町の紡績工場で働いたけどその時は大量生産になっていた。

まずその線は乗り降りが少ない、一日駅でも50人以下だから良く維持できると思う
常磐線は減っても何百人駅で乗り降りがまだある、原町とか相馬市は4,5万の人口があるからだ。スーパーヒタチが急行が走っていた路線でもあった
それに比べるとこうした線が残っているのが日本である。

自分は車をもっていないから車で旅していないから車で旅する感覚がわからないのである一方鉄道を利用しなくなった人は車だけ利用する人は鉄道の乗り方さえわからない人が多くなっているのだ。これも時代である。
この線に乗った記憶も薄れている、それで記録したものを読み記憶をだどる
この線を思い出したのは限界集落で消滅したという村があるとインターネットで発見したからである。それは終点の荒砥駅からさらに山に分け入って所である。
平田村でありそこはすでに人は住んでいないと報告がある。

こういう限界集落が消滅してゆくのがすでに増えてきているのだろう。
山形というのもやはり奥深い知られない場所がある、そして線路が尽きると自分には車がないのだから行くことができなくなる、すると何か道が尽きたという感じになり遠い感覚になる、鉄道で旅しているとそうなるのである。それは車で旅していてはわからない心境である。

当時、村では、水田耕作、青苧( あおそ) 栽培と麻布作り、養蚕業が盛んで
あり、冬は炭焼き、女子は機織で生計を立てていた。その後、出稼ぎが盛んに
なっていった。大瀬集落と平田集落を結ぶ道路は、1962 年度に車が通れるよう
に改良され、1966 年から林業構造改善事業が導入され改修が行われた

農山村集落の消滅メカニズムと再生可能性

ここは二十数戸あり200人くらい住んでいたが2000年くらいに消滅した。
山形市の方に教育も便利だとか道路ができて移るようになったのも皮肉である。
交通が便利になるとかえってこうなるのである。
他にも白鷹町では消滅した村がある。

何かこういうふうに消滅する村というときこの辺でも浪江駅までは常磐線が開通したがそこが終点でありつながらない、するとその先がやけに遠く感じられるのである。
別に道路は通じているから車だったらそうは感じないのである。
終点で線路が尽きることは何か特別の感情をいだかせるのである。

飯館村とかでもこうして蕨平の人と鹿島駅であったが40軒があったのが一軒しか残らなかったというときもそうである。
すると草野で小宮とかへ分かれ道がありそこから蕨平でも通じていた。
それは人が住んでいる家があるという感覚で別れ道があった
もしそこはこのように消滅するとここの先には家がない人が住んでいないとなり感覚的何か自分の書いた童話のようにはならない、地名とは人が住んでいて活きているからである蕨平となると草野の中心地域から相当に離れているから余計にそうなる
もうそこは原野化して森になってしまうかもしれない、飯館の中心地域は避難区域になっても頻繁に川俣や福島市に通じる道路は車が通っていたから違っていたのである。
飯館村はそれだけ広いからそうなった。

いづれにしろ何度も言うように旅でも記憶が大事である。記憶が消えるとそこは存在しなかったと同じなのである。だからホームページで20年前から自分は記録しとて書いてきたのである。それを参考にしてまた書き直しているのである。
何か自分の書いたものも忘れている、こんなこと書いていたのかと自分が読んで新鮮に感じているのである。人間はこれほど忘れやすいのである。
旅をしても忘れやすい、どこを行ったのか近くすらわからなくなるときがあるのだ。
そして老人になるとみんな記憶をたどる旅になってゆくのである。

廃村を旅している人もいる、インターネットに写真も出している、これからさらに日本では増えてくる、それはこの辺が飯館村でも小高でもそれとにたようになったから関心をもったのである。ここは特殊な事情でなったのけど全国的なものとしてもそうなる場所が増えてくるということである。

白鷹町(フラワー長井線の旅)

童話- 山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


 山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


その山の道は通って行く人は本当に少ないのでありました。この坂を越えれば山の村はありましたが人が行くのは一日何人といほど少ないのでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

その藤の花に誰かが話しかけてきました。
「藤の花さん、藤の花さん、今日は誰がこの山道通りましたか」
「ええ だれですか、ああ お月さんですか あなたがいたのですね」
「いましたよ、いましたよ、・・・・」
「誰が通っていったですって・・・誰が通ったか・・・まあ 何人かは
通りましたよ、覚えていませんよ 私は関所の役人でもないですから」
「まあ まあ そう怒らずに 誰が通ってもかまいませんよ」
「そうですよ、あなたも無用の暇な方ですね」
「あなたも そうして風に吹かれてぷうらりぷらり 暇な方」
「おたがいさまですね でもこの道を行く人は少ないにしろ毎日働いている人ですよ、ごくろうさんというくらいいう気持ちがあってもいいのでは・・・」
「まあまあ よくいいますね あなたのようなこの世とはまるっきり関係なくぽっかり浮かんでなんにもしないでこの世をながめているばかりの・・」
「まあ そうしたらおたがい重苦しいものになりますよ おたがい責めるのはよしましょうや」」
 その時一羽の黄色い蝶がその藤の花にとんできてまつわりました。
「蝶さん どこへ行くんですか」
「どこということはない、山越えた向こうの村にでも」
「山の向こうに村があるんですか」
「ええ ありますとも 幸いの村がね、山のあなたに幸いが住むという村がね」
「なるほどね、山の向こうにも村がありますか、それはいい、行ってらしゃい」
「行ってきます」

黄色い小さな蝶は一瞬まぶしく光り藤の花にまつわりまた風に流されて山の向こうの村に飛んで行きました。そして藤の花やっぱりのんびりと風にふかれて垂れているだけでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

お月さんがぽっかり光りさみしい山の道は今日も行く人も本当に少なく暮れるてゆきました。そして蛙が鳴いていました。

「山の向こうにも村がある、ケロケロケロ
 山の向こうでも仲間が ケロケロケロ
 山の向こうの村にも行ってみようや ケロケロケロ」

その蛙の鳴く声は向こうの村にもひびいていったようです。
そして夜になり月が明るく山の道を照らしていました。そしてお月さんは輝き出したお星さんにささやきました。

「この道を確かに人が今日通りましたね、くっきりとその人の影が残影としてこの淋しい山道を行くのが見えます」
「ええ、確かに人の影がゆっくりと行くのが見えます」
その人影はいくつかの坂をこえ曲がる道を行くのでした。そしてなぜか分かれ道でその人影は歩みを止めました。
「どっちの道をゆくかな 右か左か・右は小宮 左は・・・・」
そこは淋しい山の村の別れ道でした。人の影はさらに山の道を移動して行きます。
「ここは二枚橋、家はニ三軒・・・・・」
その人影は独り言をいいつつさらに淋しい山道を移動してゆきます。月はこうこうと明るくその先を照らし出していましたので道に迷うことはありませんでした。



これは前のホームページに書いた童話だった、忘れていた、これは震災前のことであり飯館村が平和なときだったのである。
それがもうそういう感覚はなくなった、別れ道でももう人は住んでないのである。
だからこういう感覚は今はないのである。
やはりそこに誰かが住んでいるときこういう童話もできたということなのかもしれない
たいしていい童話とも言えないが飯館村が平和なときに書けたものだともなる
そういうことがなくなったからである。
栃窪から助の観音を通り上萱(うえがや)に出て八木沢峠に出る塩の道である。
その途中に山藤が山の斜面に一面に咲いていたのである。

これは津浪で被害にあった所でもそうである。村自体が消失したからその村があった街があった平和な時は失われたのである。
つまり平和な時代と今の時代とは違ったものとなったのである。
江戸時代から明治維新後が変わってしまったように一時代が終わり新しい時代ともなったとなる、または古い時代のものは消失してしまった、でもそこに新しい村があるのかとなるとまたわからない、それでも飯館村には住む人がいて明かりがともるとき
なんかほっとするというか昔の村に帰るのかともなる
でも実際は昔の村に帰ることはできない、牛も飼えないし農業もなかなかできないとかソーラパネル工場になったとか変わってしまったからである。

第一ケロケロと鳴く蛙の声が聞こえない、それは田んぼがないからである。
田んぼは無惨に土が削り取られているからだ、この辺でも最初は田んぼがないから蛙の声が聞こえなかった、その後徐々に田んぼが増えて蛙の声が聞こえるようになったのである

posted by 老鶯 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村