2017年06月07日

メールで質問がありました (高村光太郎の詩について)


メールで質問がありました

(高村光太郎の詩について)


高村光太郎の牛の詩について

批評の中の水牛の歩みというのは自分の作品です
これを高村光太郎の詩か他の人の詩と間違えたようです
確かにそういう誤解がある文でした

何かインターネットは誰が書いたのか明確にならない
だから誰の作品かわからず引用したりする
引用は許されていても創作物は著作者を明記しないといけいない

ただリンクというのは著作者が誰かよりその文でも詩でもリンクするとその作品のみに注目して作者は注目されないのである。
インターネットにはそういう傾向がある、本だったら作者に注目しているからだ

著作権でもニュースとかその他創作物でいないものには著作権はない
それはその人の独自のものではないからでありそれは公共的に知られるべきものなのである。そういうものはリンクしても引用しても著作権があるとは限らないのである。

ともかくインターネットは何か他者のものが引用しやすいのである。
だからその他者の書いたものはまた個々人が解釈して書くことが多くなる
それで本や映画やテレビでも他を批評するものが莫大に増えたのである。
それは気軽に書けるからでてある。今までのメデアは書けなかったからである。
だから個人でも膨大なもの書くことができる、それは別に電子空間に記録されたものであり負担にならないのである。
本だったら膨大な数となり保管するだけでももう保管しきれなくなるが電子空間では無限に保管できる、でも負担にならないのである。
ただ一瞬にして消えるということが電子空間での記録の怖さなのである。
それでも何カ所かに記録されていればアイカーブされれば残るとはいえる

詩のプログも開設したがそこには手が回らず更新していない
詩は実際は毎日のように書いている、それを日々の感想とかその他の文に出している
詩とかなるとあまり読まれない、評論するものがありそっちに力を入れている
詩は詩でまとめねばならない、それがまたたまっているから苦労になる
「評論と鑑賞」でも無数に書くことがある
今まで書いたものをまた読んで追加することもある
そういう作業をしているときりなくなるのである。

インターネットは他者のでも一部を読むことが多くなる、するとその一部の断片を読むだけであり作者のことも注目しないのである。
断片化された情報になってしまうのである。
要するにインターネット上では誰のものというより全体が一つのものとして機能しているのである。種々雑多なものでもくだらないものもありとあらゆるものが混在しているのである。本だったらそれが一つの世界となり提供されているがインターネットは部分の膨大な集積なのである。
そこに誰のものかわからなくなってしまう危険がある。

ともかくこの高村光太郎の詩はかなり読まれているようです
アクセス解析できていないのでわからないですがまちがいないでしょう


2000ルネサンスというのがホームベージの目次となっているのでここも読んでください
ここに詩が分類されています





原発事故は理系が起こしたもの (理系と文系を原発事故から考える)


原発事故は理系が起こしたもの

理系と文系を原発事故から考える


●文系大学廃止論の問題

「戦時日本は、・・・・理系の応用的な学問を中心に戦争遂行に総力を挙げて、大學の知を動員し、・・・その結果全てが灰燼に帰し、・・・」と記している。まるで、理系の人間が、文系人間が押しとどめるのを振り切って、無謀なアメリカとの戦争に邁進し、その結果敗れ、すべてが灰燼に帰してしまったが、それを改めて新しい価値観を文系人間が与えたとでも言いたげな記述である。これは著者による理系に対するとんでもない誹謗である。
対米戦争を発案し、推し進めたのは、当時の日本国政府であり、その構成員の恐らく9割以上は文系人間であったはずである。即ち文系人間が実権を持ち全てを支配していたのである。中には冷静に状況を判断する理系人間もいたはずであるが、それらの主張は「天皇陛下万歳」「鬼畜米英」「満蒙はわが国の命綱」などといった文系支配者の声にかき消されたのである

「文系学部廃止」というレビューの一部である。この本は読んでいない
この論議をつきつめると原爆を作ったのは理系であり理系の責任だとなる
ところがこの人の論は文系が原爆を作らせたのであり文系の言いなりになったのが理系だとなる、これも何か変な議論である。
科学技術の発明は負の面ももたらしている、公害とかはそうである。
すると理系が悪いのだともなる、そんなこといったら何も科学技術の発明は起きないのである。それで原爆を発明したアイシュタインとかがヒロシマの原爆で反省している
理系の人でも責任を感じていたのである。
このことはレオナルドダビンチもいろいろな発明、大砲なども武器の設計図を書いたが
戦争のためには使ってはならないとか言っていた、これは殺傷道具だから危険だと自覚して警告していた、そういう自覚があった
レオナルドダビンとなると理系でもあり文系でもある天才である。
そういう人はまれである。日本では宮沢賢治くらいだろう。文系には理系の素養が欠けているのだ、もしかしたら実は文系でも学問は考えるということが基本にあるとき共通なものはある

●原発事故は理系の責任か文系の責任か?

例えば原発が全く理系的なものとして考えられていた、でもそこにも文系的なものもかかわっていたのである。
まずなぜフクシマに建てようとしたのか?それは理系の人はどう考えたのか?
東京より遠くに建てた方が安全だというときそこには理系的合理的根拠があったのではない、それはかえって東京に事故が起きるとまずいからフクシマに建てたのである。

フクマシに原発を作った理由は何か?

科学的根拠は何もなかった、東京では反対されて建てられないとかでありその根拠は理系的に理詰めで決めたものではない、そこからして間違っていた
では理系の人はフクシマに建てることを反対したかとなるとしない
フクマシに建てたのは文系の政治家などの言いなりになったとなるのかもしれない
それは北朝鮮でミサイルを作ったのは理系だけど命令したのは文系の政治家であり軍隊であるとなる、理系がただ従っただけだとなる
すると理系の人はただ文系の政治家に軍隊であれ従うだけだとなるのか?
そして理系には責任はないのか?
原発でも不思議に理系の科学者や技術者は責任が問われないのである。
「安全神話」というけどそれは文系だけではない、理系も加担して作られていたのであるそれで御用学者の科学者はメルトダウンしたときしていないと主張しつづけていたのである。その責任は明らかに理系の技術者にもあったのだ

ただもともと原発を建てる時、高い場所に建てる予定だった、それをわざわざ削って低い場所に建てた、電源が近い場所に建てた、それはなぜなのか?
安全性を考慮すれば高い方が良かったのである。そうしていれば津浪の被害からまねがれた、それをしなかったのは清水社長など文系の社長でありコストカッターとしてのしあがったというときそこにコストを考慮した、それは経済学が入ってくる
コストというのは経済学であり文系の分野なのである。
物を作るのは理系でもコストが必ずかかわってくるのである。
コストが高くなれば採算がとれないから中止もありうる、津浪を防ぐ壁も作らなかったのはそのためである。
では文系の社長が決めたから文系が悪いとなるのか?
理系の人はそれに反対することができなかったのか?文系のせいで事故になったとなるのか?つまり理系には責任がないのかとなる
そういうことは社長だけで決められるのか?理系の幹部もいるのだから合議で発言権をもっているから社長だけでは決められないだろう。
ただ東北電力では副社長が理系でありその人がこの辺では津浪がくるということで女川の原発を10メートルくらいでいいというの15メートルの高さにして辛うじて助かったのである。理系の副社長がいて助かったとなるのか?
副社長も幹部であり社長もいたしどうしてそう決定されたのか?
副社長はこの辺での津浪の伝説を知っていてそうしたというとき伝説とかなると文系の分野なのである。

東京電力は24日、福島第1原子力発電所に最大10.2メートルの津波が来て、押し寄せる水の高さ(遡上高)が15.7メートルになる可能性があることを2008年に社内で試算していたことを明らかにした。東日本大震災後、東電は福島第1原発を襲った津波の大きさを「想定外だった」と説明してきた。試算を踏まえて対策していれば原子炉が炉心溶融するという最悪の事態を回避できた可能性があった。

●津浪も東電では理系が予測していだが備えられなかったのはなぜか?

こうして理系では計算していたことはやはり東電では予想できる科学力があった
文系だと伝説とかなりあいまいとなるからこの予想は科学者が出したのだから信頼できるとなる、もしこのことが大々的に発表されていたらこの辺では津浪が来ないと確信のようになっていたものが警告となっただろう。
でもこのことが広く知られないというのは文系の責任だったともなる
マスコミは文系でありこの重大な研究成果が発表されても大きく伝えられないから警戒もしなかったのである。

戦争でも神がかりにするのは文系であり理論的に考えれば兵器の差とか経済力とか理系的な統計とかで考えればアメリカとは国力に差があるから戦争するべきではないと理系は結論したろう、でも神がかりになり文系の指導者によって理系は戦争に狩り出されたとなる
何かを予測するとき科学的な予測の方法と文系的なオカルト的な予測の方法がある
津浪でも神からの罰だとも考えるが一面長い時間で考えれば400年500年さらに1000年間隔になると必ず津浪が来るというのは法則として見れる、それは理系的な見方である。
東電の調査では理系がそれを割り出したのである。
それからボーリング調査などで津浪の痕跡を見つけているのも理系の科学者なのである。
今はそうした理系の方が信用される、オカルト的なものはまさにオカルトなものとして信用されないのである。それは確実にそうなると言い切れないからである。

しかしいくら優れた科学者でも未来は予想できない、その未来を予想できれば世界の支配者にもなれる、邪馬台国の卑弥呼が日食を予言して王の権威を作ったというのもそうである。マヤ文明が天文学が発達したのも未来を予測するためである。
そしてマヤ文明が2015年9月3日滅びると予測する記録を残して消滅した
それも何か象徴的だった、予測することが文明にとっても大事だからそうなった
「聖書」も予言の書ということで仏教などとは違っている
予言とは将来確実に起こることなのでありその未来を決するのは人間ではない、神だとなる、未来を予測したり決めることが人間にはできないという思想があるためである。
それは理系が理詰めで考えてもできないからそうなる

いづれにしろ原発一つとってもこの世のことは理系的なものと文系的なものが相互作用して成り立つ、そして科学でも未来は予測できない、キューリー婦人とがが放射線のことを発見したのは偶然だったのである。科学の発見には偶然がつきまとっっていることも予測できないことなのである。
ただすべてが予測できないとなるのかというとならない
現実に理系の科学者が15メートルの津浪を来るということを予測した
としたら高い所に原発を建てるということは理屈にかなっていてもできなかった
それはコストがかかるとしてわざわざ高くして整地していたのに土地を削り低くしたからである。
その時の決定をしたのは文系の社長だから文系が悪いとなる、文系は役にたたないとかなる、結果的に悪いことが起これば文系が悪いとなり理系は責任がないともなる
これも理にあわないのである。

●理系の責任は明確にされていない

例えば原爆でも理系だと物理学からそのもののために追求する、でもその物が作られたとき社会的にどう影響するのか?それは文系的な思考であり学問だともなる
だから原子力などそもそも危険だからそんな研究はするなと文系が警告することもできるそうなれば悲惨な事故も起きなかったとなる、でもそのことを決めるのは理系なのか文系なのかとなると明確ではないしわからないのである。

大学でも本当に文系は独学できる、だから文系大学はいらないということは言える
自分も遊んでいただけであり毎日マージャンして終わった人もいる
何のために大学に来ているのかもわからないのである。ただ大学という名があるだけなのである。理系のように目的がはっきりしないし何を学ぶのかもわからない
語学と法学ははっきりしているかもしれない、語学だったから外交官になると役立つし法律は検察や弁護士としての道に仕事に明確に通じているからだ。
他の文系となると経済学とかは何なのだろうとなる、その応用範囲は広すぎるからだ。
実用的になるかとなるとそれも明確ではないのである。

でも銀行とか証券とか株とか投資金融関係は多少役にたつのかもしれない、そこにも理系と文系分野がある、良く予測するためにチャート図をみる、これは上昇曲線にあるから買いだとかすすめられる、それは理系的手法なのである。
でも予測となるとこれも政治的変数があり何か世界的事件が起きると急速に下落するのである。それは予測できないことなのである。
予測するということで理系も文系も確実にはできないのである。
ただ原発に関しては予測できていたのである。ではその予測に備えることができなかったのはなぜなのか?コストがかかるから科学的予測を無視してそうしたのである。
ではそれは誰の責任なのか?理系の技術者なのか科学者なのか、学者なのか?
それもすべて文系の社長が悪いのか?その責任は一体誰にあったのかとなる
理系はただ原爆を作れといえば作る、例えばオウムでもサリン作れといえば作る
それが人を殺すことでも作る、では理系の技術者には責任がないのかとなる

科学技術でも何かを作り出すものが責任がある、普通の人はできないからだ。
何か権力をもつというとき権力をもつものに責任がある。権力とか権限はそれが実行できる力を与えられているからだ。だから地位あるものは責任が重くなってくる。
理系はただその専門分野だけを研究して責任がないともなるのか?
だから金をもつものともたないものがいてもっている人は責任があるとなる
いくら遺産だとか金がなんであれある人はない人より責任が生じる
その金を有効に使わないと責められる、その金はやはり社会があり国があり得たものだからそうなる、金も公共的なものとしてあるからだ。


この議論は「文系大学廃止」の批評ではないです、本は多すぎて読みきれない
文系大学廃止の本はまた別に読んでみないと批評はできないです
やはり部分的な発言で議論するようになるのがネットである。
その発言が多くなると議論は活発になる
ただ多すぎるからもう議論しきれないともなっている
posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

ゴミ集積場のトラブル (これも民主主義の自治が関係していた)


ゴミ集積場のトラブル

これも民主主義の自治が関係していた


隣接地がゴミ集積所になっていることを分かっていて土地を購入しましたが、想定し得ない近隣の住民が増えたことで、ゴミの量が圧倒的に増えました。」「仮にこちらが「もう、自宅前はゴミ集積所としては提供しない!」「清掃局は戸別回収に応じるを言っている!」と近隣へ主張した後でも従前の場所にごみを捨て続けられたら、不法投棄で訴える事は出来ますか?」といった相談が見られます。離婚・男女問題分野に「近隣 ゴミ集積所」に関連する相談が多く寄せられています。


10年前、土地の一角にコンクリートのゴミ置き場(不動産会社所有)が隣接している家を中古で買いました。当時、ゴミ置き場があるから安かったという事はなかったです。今までは、収集日にカラス対策として網を被せていましたが、最近ゴミを捨てている近所の方達が、そこに固定式のゴミ箱を置きたいと言いに来ました。景観や不法投棄の心配から反対していました


においの問題はゴミ集積所までの距離と言うより、風向きがかなり影響すると思われます。
幸いうちのゴミ集積所は、まれにですがカラス等でゴミがばら撒かれても、近所の人が率先して片付けをしてくれるので虫とかの被害もありません。


「自ら処分しない一般廃棄物については、その一般廃棄物処理計画に従い当該一般廃棄物を適正に分別し、保管する等市町村が行う一般廃棄物の収集、運搬及び処分に協力しなければならない。」

もし何の法律も条例もなければあなたはあなたのお住まいの市や町のどこのゴミステーションに持ち込もうがあなたの自由になってしまいますね。でもそれは許されませんよね。と言うことは何らかの法律か条令が存在していると考えるのが妥当ではないでしょうか。


自分の家の前がネットをかぶせたゴミがカラスとか猫に食い荒されて道路一面に広がった自分の家の前なのでそのつまにしておけず掃除した、車も震災以後は通る場所になったので困る それが度々そうなっているから困る
このゴミ集積場の問題はなんかめんどうだった

●利用している人が明確ではない

●組が四つくらいに別れている

●設置する場所が問題

●市では金の援助はするがあとは地域で決めろという

ここのゴミ集積場は誰が利用しているか明確ではない、組の人が数人はしているが他の組もしているしそれが三つ四つくらいの組に分かれている
車で遠くから捨てに来る人もいる、その人は組の人で遠くに移った人である。
だから組の問題でもない、近隣の問題なのである。
それよりゴミを捨てる人の問題である。利用者の問題である。
でもその人たちが誰かわからないのである。

そしてなぜここにゴミが増えたかとなると近くの空家に外から来た労務者が住むようになったからである。九人も住んでいるという、となるとゴミの量も増えたのである。
これもこの辺がまだ工事関係者入ってくることの問題だった

市の環境課に相談したが設置する場所とかはゴミを捨てる人たちで決めてほしい、その場所に問題がないなら費用の九割は支払うという、でもその設置場所が問題なのである。
街中ではそういう場所がなかなかない、それで網をかぶせるだけとなる
するとカラスとか猫に荒らされるのである。

道に設置しようとしたらそれも所有者がいるとか人に迷惑になるとかで問題だった
道でも通行権はあるとかの法律も学んだ
このゴミ問題はそれを利用する人たちの自治が要求されているのである。
住民の自治がないと市の方では金は出すがなにもしないとなるからだ
これこそまさに自治が要求されるから民主主義だとなるのかもしれない。
でも自治となると住民の合意になるからその手続きもめんどうだし誰かまとめ役が必要になる、自治といってもみんな勝手なことを言っていたらまとまらないからである。

つまりゴミを捨てる人に責任がある、その責任を果たす必要がある。ゴミ捨てる一人一人に責任がある、その責任を自覚することからはじめねばならない
それは確かに民主主義になる、一票が平等に与えられているがその権利はあるが責任も生じているのである。
ここではそれが具体的な問題として現れているのだ
だからゴミを捨てる人を特定しなければならない、なぜならその人たちが利用しているから責任が生じているのである。

なぜこれほどゴミ集積場でもめているのかとなると明確なルール、法律がないからであるまたそれも決めにくいからだろう。そこには様々なその場その場の問題が生まれているからである。だからルールが作りにくい、するとゴミを捨てる人たちでルールを作り監視してくれとなる
でも組という明確な組織もないからめんどうになる
何かここにも法律問題とか政治とか民主主義の問題がある
政治というと国政になるが卑近なところにも政治があり民主主義がある。
そこで学ぶことがかえってある、法律も具体的な問題の中で身につくしわかりやすいのである。
自分が理論好きである。だから法律も勉強すれば興味をもったかもしれない
社会の問題もこれも学問としてあるからだ
具体的な社会の中で活きる学問があるからだ

民主主義はともかく自分たちの利益、権利を主張することに傾きすぎた
ゴミを捨てるとしても何かを利用する権利があるとしてもそこに責任が生まれる
それはささいなことでもそうである。
漁業権にしても海を東電に売り渡す権利があるのかと書いたがそれだけの権利が生じるとなると責任も問われることになった、だから今になると漁業者への反発が大きくなったのである。今までは知らないし何か被害がないから感じていなかったのである。

責任というときだから国政を担当するとなるとその権限も大きくなると権利も大きいと責任もそれに比例して重くなっているのである。
何か権利があるというとき必ず責任が付随している、その責任を誰が負うのかとなる
それは原発事故でも問われてきたのである。




posted by 老鶯 at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層