2017年06月04日

「破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人 (子供の貧困は高齢化社会の問題でもある)


破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人

子供の貧困は高齢化社会の問題でもある


「破獄」というドラマだけどそれはまさに現実に起きていた「昭和の脱獄王」をドラマ化したものだった、たからリアリティがある
ドラマでもそれを見る目は一部でもいいからリアリティを経験から感じることである。
このドラマでリアリティを感じたのは看守だった若い人がこの脱獄王を見張るために
労力を費やしていた、それで家族ともゆっくりできないとかなにか大きな不満があり
その脱獄王に襲い殺そうともした
「お前のために犠牲になっているんだよ」とか叫んでいた
この看守は戦争になり死んだがこの脱獄王は戦後も生き延びたのである。

お前のために犠牲になっているんだよ」

このことが他でもある、それは介護でもそうである。介護殺人が起きるのは親でも子が犠牲になるからである。何かしたいことがあってもできなくなる
脱獄王を殺そうとした看守もそうだった、お前みたいもののために俺の人生は犠牲になっていると殺そうとしたことは介護殺人でも起きているからである。

こういうことは障害者をもった親にもある、その負担はあまりにも大きいからその家族はお前のために犠牲になっていると殺したくなる
そうしして実際に障害者を家族でなくても世話する若者が大量殺人にいたった
それはあまりにも凄惨なものである。

何かそこには俺の人生がこんなもののために犠牲になっていいのかということがある
こんな何も役立たないもののために労力が費やされることに耐えられなくなった
看守でもこんなろくでもない犯罪者を看守するだけの仕事が嫌気がさしていたのである。
こういうこもNHKで放送していたけど子供の貧困とかでもある
なぜ老人のために子供に金が回らない、すると老人は早く死ねと若者は叫んでいるからだ子供の貧困とか教育費に金がかかるとかは実は高齢化社会がもたらしている側面がある
団塊の世代でも今までは生産する側であったからよかった
それが今度は大量に非生産的なものとして社会の負担になるからだ

だから今度は老人のために俺たちの人生が犠牲にされる、老人は死ね

こうなっているのだ。もし60代くらいで老人が死んでいれば新陳代謝が行われこういうことはなかったかもしれない、その分年金をはらわなくてもいいからだ。
すると若者の負担もないわけである。
それは結局高齢化社会がもたらした負の面なのである。
中国ではすでに親は子に捨てられて自殺している人も多い、社会保障もないからだ。
その息子娘でもその子の教育に金がかかると親には手がまわらないのである。
それで親が捨てられてゆくから高齢化社会の問題は世界共通なのである。

正直自分も10年間介護して時間がたちまちすぎてしまった
ただ自分は親を恨んでいない、やりたいことをやらせてくれたし恩返しでできて良かったと思っている、でも若いときに介護させられていたらこうはならなかった
親戚の人が病気になったとき自分は輸血を頼まれたりしたが断った
その時登山に行って異常に疲れていたからである。その人は自分を恨んで死んでいった。でもその時激しい運動である登山をして良かったと思う
そのあとなかなか登山でもできなくなることがあったからだ
介護とか看病であれ何かしたいことができないということは若いときだったらその時にしかできないことがあるからその機会を逃してしまのである。
介護の問題は最低でも五年かかるし二人だと十年になる、もし一年くらいの看病とかだったら耐えられるかもしれない、その時間の長さの犠牲が大きいのである。

まず普通の社会だったら子供優先である。若い世代が優先になる、なぜなら未来を作るのは若い世代だからである。老人はもう死んでゆくだけだとなるからだ。
その老人に国の予算で費やしていたら国自体が衰退してゆくのである。
それは生物の理にかなっていないのである。
ただ高齢化社会は人類で今はじめて直面した問題なのである
だからその解決方法は今模索されているのである。
それが今子供の貧困とか若者の負担となっているが高齢化社会はこれからも続くし人類的課題なのである。
人類はどこの国でも高齢化する、そのことを否定はできない、それで高齢者は死ねということはその課題の解決ではない、なぜなら今の若い世代も同じ課題に直面するからである

だから高齢者は高齢者でどうして子供の貧困をなくすか、若い者の負担を減らすかを考えねばならないのである。そういうことが高齢者世代にもないことも問題なのである。
いづれにしろ医療でも進歩するしますます人間は高齢化するからこれをとめることはできないしこれも進歩だとなる、高齢者を抹殺しろと言ってもそれでは人類はその進歩をとめることになる、これからもずっとやはり長生きする時代だからどうしても高齢化社会が常態になるとしか思えないからである。
90くらいが女性で平均寿命になるが男性もやがてそうなる
だから人生90年として生きる心構えをもつことが必要なのなのである。
それは若いときからそうである。自分は60で死ぬと良く若い人が言うけど今の若い人は確実に90まで平均的に生きる、癌でも病気も治すことができくようになるというからそうなるのである。それは悪いことではない、ただ社会全体の歪みをもたらしていることでその課題を解決する必要がある。それがどういうものか模索される時代なのである。



スリランカ人二人と北海道の帯広から一人 (駅は情報が集まる場でもある)


スリランカ人二人と北海道の帯広から一人

駅は情報が集まる場でもある


色が黒いなと見ていた、二人の外国人の若者である。どこかと聞いたらスリランだった
スリランカ人とは前にもあった、その人はあんなに色が黒くない、インド人は黒い系統は原住民のドラビダ族系統なのだろう
あとから入ってきたのはイスラム系で中央アジア系統で白人系統である。
それらの混血もいる、インドは多様だからわかりにくい、一人は中国人の顔である。
その人がどういう人かわからなかった、三人ここで働いている
日曜日で遊びに行くみたいだ

スリランカ人は英語がしゃべれる、すると二言三言しゃべってもそれで会話のきっかけになる
今日は風が吹いて遅れた、5分くらいだったからたいしたことがなかった
それで英語で遅れたことを伝えた、何かもう簡単な英語は今は必須である。
そしてスリランカとかネパールは貧乏でも英語がしゃべることが有利なのである。
何か英語がしゃべれるとインド人でもそうだが共通語となり何か文化人のような感覚を日本でもつから得である。

中国人は実際は今では日本人より豊かな人がいくらでもいる、でも中国語は全くわからないから話しようがないのである。漢字を書いて伝えあうのもめんどうになる。
世界の共通語が英語であるというときそれは英語が必要ないとか必要だとか言う前にそうした現実がある。だからこれだけ外国人が来るとなると片言でも英語をしゃべる訓練はしていた方がいいとなる、それを十年間外国旅行で自分はしてきて良かった
ただ自分の海外旅行は失敗の連続でありもう二度としたくないとまでなった。
その後今度は10年間介護になり何もできなくなった

もう一人は帯広から来た人だった、北海道の人は良くくる、北海道はほとんど回った、
ただ帯広は回っていない、それでも美瑛から十勝岳が見えてその向こうが帯広だということは知っていた、富良野-美瑛-旭川線にのって美瑛におりた
根室本線は一部しか乗っていない、帯広までは行っていないのである。
北海道はそれだけ広いということである。

どういうわけか自転車で十勝川が流れる平野がありそこは一面のジャガイモ畑でありちょうど雨がふっていて休んだところが小さな神社だった、こんなところに小さな神社があることはそぐわなかった、北海道には神社がにあわないのである。
その広さがそぐわないのである。風土にあうものとあわないものがある。
美瑛から十勝岳が望む風景はすばらしい、富良野はラベンダーでありラベンダーメモリーとかなると詩的になる
ただ人間はとうしても30年前とかなると記憶が薄れてしまうのである。
北海道だって20年くらい行っていないからだ
だからまた旅したら新鮮なものとなる


寺内の人がいてスーパーキクチの近くに社がある所に養護施設ができるという、それは相馬市の関係らしい、その養護施設がどういうものかはわからない。
あそこを古墳が多いから発掘していたのはあそこに養護施設が建つからだった
他にも消防所も作っているし鹿島には次々に新しい家も建ったしスーパーも新しくなったり二つできたし都会化しているのである。


量より質の時代へ (AI化で仕事の価値観が変わる)


量より質の時代へ

AI化で仕事の価値観が変わる


プログはコメントとかより訪問者とかページビュー数で決まる、数を集めたら評価になる、宣伝するにも効果ある、自分のサイトは最近あがってきている、10万ページビューとかなっている、ほとんどブックマークからでありこれだと常時読まれているとなる
ただ10万ページビューとかなると本当にプログでアクセスされるとなると大変である。
どうしても数をかせぐには大衆向きにすることになる
すると質は追求できなくなる、そもそも自分はアクセス数よりずっと読まれた人にも関心なく質を追求してきたのである。
だからむずかしくなってもそうしてきた

第一芸術とか宗教とか哲学が量を追求することはできない、ただニュースの解説とかなると量が必要になる、多くの人に読まれれば影響力が何でもでてくるからだ
それでマスコミは大衆向きに量を得るための報道をしてきた
結局は今は芸能人を集めて漫談しているだけの低俗番組化してかえって嫌われたのであるそういうもの一過性で終わる、本当のものを芸術でも創造すれば何世代にもわたって読まれ見られ音楽でも聞かれつづけるのである。
本当に価値あるものはそれだけ寿命が長い、ニュースとなるとその時その時で消えてゆくから不変的な価値とはならない、でもそのニュースを解説するとき人間の変わらぬ真実がありそれを書けばあとあとまで読まれることはある
ただ一過性に消えるものがあまりにも多いのである。


戦後は貧乏であり食べることが最大の問題であり衣食住が満たされることのために働いただから大量生産システムを作りともかく作れば売れるという時代だったのである。
そこではあまり質を追求していなかった、大量生産のための労働というとき労働の質も追求されない、それでもその時団塊の世代などは人数が多いから大量に人手も供給されてきたのである。その時あまり労働の質などは追求されなかったのである。
賃金を高くすることは追求されたが労働の質は追求されない

今になると労働することそのものの価値が追求されるようになった
一体自分の労働にどういう価値があるのかということである。
それで働く動機が賃金もあるが何か労働自体に満足する価値を求めている時代になる
だから趣味に時間を費やしたいという人が増えるのもそのためである。
理想的なのは趣味と労働が一致して収入になることである。遊びと労働も一致して収入になることである。
出世とか賃金だけではないもの、何か人生として充実する労働をしたいとなる

そもそもそういうことは別に今だけではない過去にもあった。
江戸時代の職人は質を追求していた、量ではない、一つのものを作るのにも質を追求して最高のものを作ろうとしていた、それで職人気質ヴ生まれたのである。
刀を作るにも精根こめて最高のものを作ろうとしていたのである
それは大量生産ではない、手作りでありその技を究めようとしていたのである。

人間の仕事はworkでありそれは作品の意味だからこれは東西の文明にかかわりなくそういうことはあった、作品を仕上げることが仕事なのである。
大量生産にはそういうことはなかった、大量に同じものを提供することが豊かになることだった、そういう時代は貧乏なときはやむをえていことがあった
でもこれからはそうした大量生産というのはなくなる、AI化によってそうした労働は機械やロボットやコンピュターがする、すると労働もそうした流れ作業的なロボットができるような仕事はなくなる、では人間はどういう労働をするのか?
それが今後問われてくることになる

それは教育などにも影響してくる、今までのような受験競争とかでいいのか、社会でこれから通用するのかとなる、労働の質が変わるというときそれがどうなるのか明確ではない

野村総合研究所によると、「芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理創出するための知識が要求される職業」や「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」は、人工知能やロボットで置き換えるのが難しい職業になる

こういうことになるとすると暗記ばかりの受験のための勉強は役に立たなくなる
語学でも翻訳機械が飛躍的に進歩している、翻訳にも創造性が必要なのだが機械的に翻訳できる面ができるから変わってくる、ただ詩などはとても機械ではコンピュターでは翻訳できないだろう。そういう分野は以前として人間がすることになる
でも何かAI化というのは仕事でも機械にできないものとなると相当に高度なものになる
そこまで人類は進化しているかとなるとしていないだろう。
まず暇が多くなるとき一般的に何しているかとなるとギャンブルが多いことでもわかる
暇の有意義な過ごし方をしている人がどれだけいるのかとなる
これは高齢化社会の大きな問題になっているのだ。
なぜなら暇を有意義に過ごすことを訓練されていないからである。

質を追求するというときこれからあらゆる面で起きてくる、それは卑近な所でも起きてくる、料理でもそうである。料理となると実際はその材料が良くないといくら料理人の腕が良くても活かせない、ではその料理の材料を良くしようとしたら農家がやはりいいものを作らねばならない、そこにも質が求められているのである。
AI化機械化されることは人間の質を実際は追求することになる
人間にしかできないものが仕事として残る
それは介護分野とかでもそうである。そこにコミニケーションとか愛とかが必要になり追求される、それはサービスをする方にもされる方にもいいことなのである。

政治とか経済とかは高度成長時代ではGDPが指標になってきた、どれだけ生産量があるかでありその質は計られない、その量を増やすことが目標になってきた
カルト宗教団体でもそうである。ひたすら数さえふやして政治力、経済力をもち権力をもつことが目標である。
そもそも宗教とは本当は質の追求である、もともとそんなに数はいらないのである。
そんなに数を増やすとなると大衆化して低俗化する、それはマスコミが視聴率を稼ぐ方法になる、芸能人の漫談の場を提供するだけになる

ただAI化というのがどういうふうに影響するのかわかっていない、それは知能部門でも仕事が変わるからである。すでに翻訳部門では変わっている、まず翻訳者は機械翻訳してそれを直していることでもわかる
ビッグデーターでもAI化されて分析される、AI化がコンピュターが知能をもつということがわかりにくいのである。
ただこれからの時代はそうしたAI化に備える勉強も必要になる
それは仕事の質が変わるから今までのような仕事がなくなるからである。
それは高齢化社会というものにも影響しているのだ
高齢化社会というとき老人はもう人生は終わりだから関係ないともなるがそうでもない
高齢化社会は60で退職しても70でもそれからの人生の時間があることなのだ
するとそこで何か有意義な時間を過ごそうとするとそれに備えねばならない

それが今までの将棋とか碁とか何か老人の趣味も変わる、将棋でも碁でもすでにコンピュターが人間に勝ったというときもう将棋でいくら15歳くらいの天才が出ても驚かないのないのである。コンピュターが人間に勝ったという方が驚きなのである
そのソフトを作り出した人こそ将棋の人間の天才より驚きなのである。
第一将棋ソフトに勝てる素人はいないのである。将棋でもコンピュター相手にして勝てないのである。だから将棋がいくら天才が出ても驚かないのである。
それはもう計算されつくされた世界であり人間はコンピュターに負けているからだ
ビッグデーターをコンピュターは解析して買っているからである。

人間が進歩するというときやはり機械的な奴隷的な仕事はしたくない、手伝いさんでもそうである。その女性は皿洗いなどはしたくない、でも庭の手入れとか花を植えたりすること育てること野菜を作ることにははりきってしている
その方に生きがいを見いだしている、家事には見いだしていないのである。
第一家事は機械化しているからもう手伝いさんでも職業として必要ないのである。
そうして人間としてしたくないものはAI化して機械化する
では人間は何をするのか?それが問題になる、それは暇をどう有意義なものとして使うかということになりそれは人間の進歩だとなる



posted by 老鶯 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題