2017年06月07日

原発事故は理系が起こしたもの (理系と文系を原発事故から考える)


原発事故は理系が起こしたもの

理系と文系を原発事故から考える


●文系大学廃止論の問題

「戦時日本は、・・・・理系の応用的な学問を中心に戦争遂行に総力を挙げて、大學の知を動員し、・・・その結果全てが灰燼に帰し、・・・」と記している。まるで、理系の人間が、文系人間が押しとどめるのを振り切って、無謀なアメリカとの戦争に邁進し、その結果敗れ、すべてが灰燼に帰してしまったが、それを改めて新しい価値観を文系人間が与えたとでも言いたげな記述である。これは著者による理系に対するとんでもない誹謗である。
対米戦争を発案し、推し進めたのは、当時の日本国政府であり、その構成員の恐らく9割以上は文系人間であったはずである。即ち文系人間が実権を持ち全てを支配していたのである。中には冷静に状況を判断する理系人間もいたはずであるが、それらの主張は「天皇陛下万歳」「鬼畜米英」「満蒙はわが国の命綱」などといった文系支配者の声にかき消されたのである

「文系学部廃止」というレビューの一部である。この本は読んでいない
この論議をつきつめると原爆を作ったのは理系であり理系の責任だとなる
ところがこの人の論は文系が原爆を作らせたのであり文系の言いなりになったのが理系だとなる、これも何か変な議論である。
科学技術の発明は負の面ももたらしている、公害とかはそうである。
すると理系が悪いのだともなる、そんなこといったら何も科学技術の発明は起きないのである。それで原爆を発明したアイシュタインとかがヒロシマの原爆で反省している
理系の人でも責任を感じていたのである。
このことはレオナルドダビンチもいろいろな発明、大砲なども武器の設計図を書いたが
戦争のためには使ってはならないとか言っていた、これは殺傷道具だから危険だと自覚して警告していた、そういう自覚があった
レオナルドダビンとなると理系でもあり文系でもある天才である。
そういう人はまれである。日本では宮沢賢治くらいだろう。文系には理系の素養が欠けているのだ、もしかしたら実は文系でも学問は考えるということが基本にあるとき共通なものはある

●原発事故は理系の責任か文系の責任か?

例えば原発が全く理系的なものとして考えられていた、でもそこにも文系的なものもかかわっていたのである。
まずなぜフクシマに建てようとしたのか?それは理系の人はどう考えたのか?
東京より遠くに建てた方が安全だというときそこには理系的合理的根拠があったのではない、それはかえって東京に事故が起きるとまずいからフクシマに建てたのである。

フクマシに原発を作った理由は何か?

科学的根拠は何もなかった、東京では反対されて建てられないとかでありその根拠は理系的に理詰めで決めたものではない、そこからして間違っていた
では理系の人はフクシマに建てることを反対したかとなるとしない
フクマシに建てたのは文系の政治家などの言いなりになったとなるのかもしれない
それは北朝鮮でミサイルを作ったのは理系だけど命令したのは文系の政治家であり軍隊であるとなる、理系がただ従っただけだとなる
すると理系の人はただ文系の政治家に軍隊であれ従うだけだとなるのか?
そして理系には責任はないのか?
原発でも不思議に理系の科学者や技術者は責任が問われないのである。
「安全神話」というけどそれは文系だけではない、理系も加担して作られていたのであるそれで御用学者の科学者はメルトダウンしたときしていないと主張しつづけていたのである。その責任は明らかに理系の技術者にもあったのだ

ただもともと原発を建てる時、高い場所に建てる予定だった、それをわざわざ削って低い場所に建てた、電源が近い場所に建てた、それはなぜなのか?
安全性を考慮すれば高い方が良かったのである。そうしていれば津浪の被害からまねがれた、それをしなかったのは清水社長など文系の社長でありコストカッターとしてのしあがったというときそこにコストを考慮した、それは経済学が入ってくる
コストというのは経済学であり文系の分野なのである。
物を作るのは理系でもコストが必ずかかわってくるのである。
コストが高くなれば採算がとれないから中止もありうる、津浪を防ぐ壁も作らなかったのはそのためである。
では文系の社長が決めたから文系が悪いとなるのか?
理系の人はそれに反対することができなかったのか?文系のせいで事故になったとなるのか?つまり理系には責任がないのかとなる
そういうことは社長だけで決められるのか?理系の幹部もいるのだから合議で発言権をもっているから社長だけでは決められないだろう。
ただ東北電力では副社長が理系でありその人がこの辺では津浪がくるということで女川の原発を10メートルくらいでいいというの15メートルの高さにして辛うじて助かったのである。理系の副社長がいて助かったとなるのか?
副社長も幹部であり社長もいたしどうしてそう決定されたのか?
副社長はこの辺での津浪の伝説を知っていてそうしたというとき伝説とかなると文系の分野なのである。

東京電力は24日、福島第1原子力発電所に最大10.2メートルの津波が来て、押し寄せる水の高さ(遡上高)が15.7メートルになる可能性があることを2008年に社内で試算していたことを明らかにした。東日本大震災後、東電は福島第1原発を襲った津波の大きさを「想定外だった」と説明してきた。試算を踏まえて対策していれば原子炉が炉心溶融するという最悪の事態を回避できた可能性があった。

●津浪も東電では理系が予測していだが備えられなかったのはなぜか?

こうして理系では計算していたことはやはり東電では予想できる科学力があった
文系だと伝説とかなりあいまいとなるからこの予想は科学者が出したのだから信頼できるとなる、もしこのことが大々的に発表されていたらこの辺では津浪が来ないと確信のようになっていたものが警告となっただろう。
でもこのことが広く知られないというのは文系の責任だったともなる
マスコミは文系でありこの重大な研究成果が発表されても大きく伝えられないから警戒もしなかったのである。

戦争でも神がかりにするのは文系であり理論的に考えれば兵器の差とか経済力とか理系的な統計とかで考えればアメリカとは国力に差があるから戦争するべきではないと理系は結論したろう、でも神がかりになり文系の指導者によって理系は戦争に狩り出されたとなる
何かを予測するとき科学的な予測の方法と文系的なオカルト的な予測の方法がある
津浪でも神からの罰だとも考えるが一面長い時間で考えれば400年500年さらに1000年間隔になると必ず津浪が来るというのは法則として見れる、それは理系的な見方である。
東電の調査では理系がそれを割り出したのである。
それからボーリング調査などで津浪の痕跡を見つけているのも理系の科学者なのである。
今はそうした理系の方が信用される、オカルト的なものはまさにオカルトなものとして信用されないのである。それは確実にそうなると言い切れないからである。

しかしいくら優れた科学者でも未来は予想できない、その未来を予想できれば世界の支配者にもなれる、邪馬台国の卑弥呼が日食を予言して王の権威を作ったというのもそうである。マヤ文明が天文学が発達したのも未来を予測するためである。
そしてマヤ文明が2015年9月3日滅びると予測する記録を残して消滅した
それも何か象徴的だった、予測することが文明にとっても大事だからそうなった
「聖書」も予言の書ということで仏教などとは違っている
予言とは将来確実に起こることなのでありその未来を決するのは人間ではない、神だとなる、未来を予測したり決めることが人間にはできないという思想があるためである。
それは理系が理詰めで考えてもできないからそうなる

いづれにしろ原発一つとってもこの世のことは理系的なものと文系的なものが相互作用して成り立つ、そして科学でも未来は予測できない、キューリー婦人とがが放射線のことを発見したのは偶然だったのである。科学の発見には偶然がつきまとっっていることも予測できないことなのである。
ただすべてが予測できないとなるのかというとならない
現実に理系の科学者が15メートルの津浪を来るということを予測した
としたら高い所に原発を建てるということは理屈にかなっていてもできなかった
それはコストがかかるとしてわざわざ高くして整地していたのに土地を削り低くしたからである。
その時の決定をしたのは文系の社長だから文系が悪いとなる、文系は役にたたないとかなる、結果的に悪いことが起これば文系が悪いとなり理系は責任がないともなる
これも理にあわないのである。

●理系の責任は明確にされていない

例えば原爆でも理系だと物理学からそのもののために追求する、でもその物が作られたとき社会的にどう影響するのか?それは文系的な思考であり学問だともなる
だから原子力などそもそも危険だからそんな研究はするなと文系が警告することもできるそうなれば悲惨な事故も起きなかったとなる、でもそのことを決めるのは理系なのか文系なのかとなると明確ではないしわからないのである。

大学でも本当に文系は独学できる、だから文系大学はいらないということは言える
自分も遊んでいただけであり毎日マージャンして終わった人もいる
何のために大学に来ているのかもわからないのである。ただ大学という名があるだけなのである。理系のように目的がはっきりしないし何を学ぶのかもわからない
語学と法学ははっきりしているかもしれない、語学だったから外交官になると役立つし法律は検察や弁護士としての道に仕事に明確に通じているからだ。
他の文系となると経済学とかは何なのだろうとなる、その応用範囲は広すぎるからだ。
実用的になるかとなるとそれも明確ではないのである。

でも銀行とか証券とか株とか投資金融関係は多少役にたつのかもしれない、そこにも理系と文系分野がある、良く予測するためにチャート図をみる、これは上昇曲線にあるから買いだとかすすめられる、それは理系的手法なのである。
でも予測となるとこれも政治的変数があり何か世界的事件が起きると急速に下落するのである。それは予測できないことなのである。
予測するということで理系も文系も確実にはできないのである。
ただ原発に関しては予測できていたのである。ではその予測に備えることができなかったのはなぜなのか?コストがかかるから科学的予測を無視してそうしたのである。
ではそれは誰の責任なのか?理系の技術者なのか科学者なのか、学者なのか?
それもすべて文系の社長が悪いのか?その責任は一体誰にあったのかとなる
理系はただ原爆を作れといえば作る、例えばオウムでもサリン作れといえば作る
それが人を殺すことでも作る、では理系の技術者には責任がないのかとなる

科学技術でも何かを作り出すものが責任がある、普通の人はできないからだ。
何か権力をもつというとき権力をもつものに責任がある。権力とか権限はそれが実行できる力を与えられているからだ。だから地位あるものは責任が重くなってくる。
理系はただその専門分野だけを研究して責任がないともなるのか?
だから金をもつものともたないものがいてもっている人は責任があるとなる
いくら遺産だとか金がなんであれある人はない人より責任が生じる
その金を有効に使わないと責められる、その金はやはり社会があり国があり得たものだからそうなる、金も公共的なものとしてあるからだ。


この議論は「文系大学廃止」の批評ではないです、本は多すぎて読みきれない
文系大学廃止の本はまた別に読んでみないと批評はできないです
やはり部分的な発言で議論するようになるのがネットである。
その発言が多くなると議論は活発になる
ただ多すぎるからもう議論しきれないともなっている
posted by 老鶯 at 16:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

メールで質問がありました (高村光太郎の詩について)


メールで質問がありました

(高村光太郎の詩について)


高村光太郎の牛の詩について

批評の中の水牛の歩みというのは自分の作品です
これを高村光太郎の詩か他の人の詩と間違えたようです
確かにそういう誤解がある文でした

何かインターネットは誰が書いたのか明確にならない
だから誰の作品かわからず引用したりする
引用は許されていても創作物は著作者を明記しないといけいない

ただリンクというのは著作者が誰かよりその文でも詩でもリンクするとその作品のみに注目して作者は注目されないのである。
インターネットにはそういう傾向がある、本だったら作者に注目しているからだ

著作権でもニュースとかその他創作物でいないものには著作権はない
それはその人の独自のものではないからでありそれは公共的に知られるべきものなのである。そういうものはリンクしても引用しても著作権があるとは限らないのである。

ともかくインターネットは何か他者のものが引用しやすいのである。
だからその他者の書いたものはまた個々人が解釈して書くことが多くなる
それで本や映画やテレビでも他を批評するものが莫大に増えたのである。
それは気軽に書けるからでてある。今までのメデアは書けなかったからである。
だから個人でも膨大なもの書くことができる、それは別に電子空間に記録されたものであり負担にならないのである。
本だったら膨大な数となり保管するだけでももう保管しきれなくなるが電子空間では無限に保管できる、でも負担にならないのである。
ただ一瞬にして消えるということが電子空間での記録の怖さなのである。
それでも何カ所かに記録されていればアイカーブされれば残るとはいえる

詩のプログも開設したがそこには手が回らず更新していない
詩は実際は毎日のように書いている、それを日々の感想とかその他の文に出している
詩とかなるとあまり読まれない、評論するものがありそっちに力を入れている
詩は詩でまとめねばならない、それがまたたまっているから苦労になる
「評論と鑑賞」でも無数に書くことがある
今まで書いたものをまた読んで追加することもある
そういう作業をしているときりなくなるのである。

インターネットは他者のでも一部を読むことが多くなる、するとその一部の断片を読むだけであり作者のことも注目しないのである。
断片化された情報になってしまうのである。
要するにインターネット上では誰のものというより全体が一つのものとして機能しているのである。種々雑多なものでもくだらないものもありとあらゆるものが混在しているのである。本だったらそれが一つの世界となり提供されているがインターネットは部分の膨大な集積なのである。
そこに誰のものかわからなくなってしまう危険がある。

ともかくこの高村光太郎の詩はかなり読まれているようです
アクセス解析できていないのでわからないですがまちがいないでしょう


2000ルネサンスというのがホームベージの目次となっているのでここも読んでください
ここに詩が分類されています





2017年06月08日

童話- 山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


 山道の藤の花(平和な時の飯館村へ)


その山の道は通って行く人は本当に少ないのでありました。この坂を越えれば山の村はありましたが人が行くのは一日何人といほど少ないのでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

その藤の花に誰かが話しかけてきました。
「藤の花さん、藤の花さん、今日は誰がこの山道通りましたか」
「ええ だれですか、ああ お月さんですか あなたがいたのですね」
「いましたよ、いましたよ、・・・・」
「誰が通っていったですって・・・誰が通ったか・・・まあ 何人かは
通りましたよ、覚えていませんよ 私は関所の役人でもないですから」
「まあ まあ そう怒らずに 誰が通ってもかまいませんよ」
「そうですよ、あなたも無用の暇な方ですね」
「あなたも そうして風に吹かれてぷうらりぷらり 暇な方」
「おたがいさまですね でもこの道を行く人は少ないにしろ毎日働いている人ですよ、ごくろうさんというくらいいう気持ちがあってもいいのでは・・・」
「まあまあ よくいいますね あなたのようなこの世とはまるっきり関係なくぽっかり浮かんでなんにもしないでこの世をながめているばかりの・・」
「まあ そうしたらおたがい重苦しいものになりますよ おたがい責めるのはよしましょうや」」
 その時一羽の黄色い蝶がその藤の花にとんできてまつわりました。
「蝶さん どこへ行くんですか」
「どこということはない、山越えた向こうの村にでも」
「山の向こうに村があるんですか」
「ええ ありますとも 幸いの村がね、山のあなたに幸いが住むという村がね」
「なるほどね、山の向こうにも村がありますか、それはいい、行ってらしゃい」
「行ってきます」

黄色い小さな蝶は一瞬まぶしく光り藤の花にまつわりまた風に流されて山の向こうの村に飛んで行きました。そして藤の花やっぱりのんびりと風にふかれて垂れているだけでした。

風にぷらりぷらぷら藤の花
この山の道行く人まれや
一日ぷうらりぷらり藤の花

お月さんがぽっかり光りさみしい山の道は今日も行く人も本当に少なく暮れるてゆきました。そして蛙が鳴いていました。

「山の向こうにも村がある、ケロケロケロ
 山の向こうでも仲間が ケロケロケロ
 山の向こうの村にも行ってみようや ケロケロケロ」

その蛙の鳴く声は向こうの村にもひびいていったようです。
そして夜になり月が明るく山の道を照らしていました。そしてお月さんは輝き出したお星さんにささやきました。

「この道を確かに人が今日通りましたね、くっきりとその人の影が残影としてこの淋しい山道を行くのが見えます」
「ええ、確かに人の影がゆっくりと行くのが見えます」
その人影はいくつかの坂をこえ曲がる道を行くのでした。そしてなぜか分かれ道でその人影は歩みを止めました。
「どっちの道をゆくかな 右か左か・右は小宮 左は・・・・」
そこは淋しい山の村の別れ道でした。人の影はさらに山の道を移動して行きます。
「ここは二枚橋、家はニ三軒・・・・・」
その人影は独り言をいいつつさらに淋しい山道を移動してゆきます。月はこうこうと明るくその先を照らし出していましたので道に迷うことはありませんでした。



これは前のホームページに書いた童話だった、忘れていた、これは震災前のことであり飯館村が平和なときだったのである。
それがもうそういう感覚はなくなった、別れ道でももう人は住んでないのである。
だからこういう感覚は今はないのである。
やはりそこに誰かが住んでいるときこういう童話もできたということなのかもしれない
たいしていい童話とも言えないが飯館村が平和なときに書けたものだともなる
そういうことがなくなったからである。
栃窪から助の観音を通り上萱(うえがや)に出て八木沢峠に出る塩の道である。
その途中に山藤が山の斜面に一面に咲いていたのである。

これは津浪で被害にあった所でもそうである。村自体が消失したからその村があった街があった平和な時は失われたのである。
つまり平和な時代と今の時代とは違ったものとなったのである。
江戸時代から明治維新後が変わってしまったように一時代が終わり新しい時代ともなったとなる、または古い時代のものは消失してしまった、でもそこに新しい村があるのかとなるとまたわからない、それでも飯館村には住む人がいて明かりがともるとき
なんかほっとするというか昔の村に帰るのかともなる
でも実際は昔の村に帰ることはできない、牛も飼えないし農業もなかなかできないとかソーラパネル工場になったとか変わってしまったからである。

第一ケロケロと鳴く蛙の声が聞こえない、それは田んぼがないからである。
田んぼは無惨に土が削り取られているからだ、この辺でも最初は田んぼがないから蛙の声が聞こえなかった、その後徐々に田んぼが増えて蛙の声が聞こえるようになったのである

posted by 老鶯 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

尽きる線路、消滅した村 (山形鉄道フラワー長井線の終点まで)


尽きる線路、消滅した村


(山形鉄道フラワー長井線の終点まで)

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記憶の中の線路

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終点の荒砥駅をおりて菖蒲という地名が二つもあるのもいかにも
山の奥という感じになる

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線路尽きてその奥なれや住む人のありしも消えて夏草うもる

蚕桑駅おりる人あれさみしきや線路はつづく終点までに

織機駅その名に思ふ昔かな機を織る音そ聞こえて石の鎮まる

夏菊の駅に映えにつ高校生おりるときのみはなぎにけり

一度のみ乗りし線路の尽きにけりその果てゆけば村の消えにき

終点の荒砥駅におり夏の日や菖蒲の地名残りあわれも

かつて住む貧しくあれどともる灯や消えにし村を惜しみけるかな


日本でこういうローカル線がまだ残ってるのが不思議だとなる、ここには確かに夏に一回乗った。すぐに終点になってそのあとは線路がない、調べると機織駅とか蚕桑駅とかある機織駅の名は機織川があったからだという。蚕桑駅は養蚕でありそれはどこでもそうだったからわかる
手で機織りしていた人は戦前までいた。その女性は明治生まれであり母の実家で機織りしていたのである。家の中に機織り機があったとなる、そういうことはつづいていたし珍しいことではない、大量生産する前はそうだったのである。

古事記によりますと、天孫ニニギノミコトが笠沙の浜を歩いていたとき、海辺に八尋殿を建てて中で機を織る美しい機織女を見つけました。衣は魂を包むものとして神聖なもので、霊魂のシンボルとされていました

河内女(かはちめ)の 手染めの糸を 絡(く)り反し片糸にあれど 絶えむとも思へや
  〜作者未詳 『万葉集』 巻7-1316


機織り石(はたおりいし)の伝説
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これは日本だけではない世界的に機織りの歴史があり古い、人類がはじまって以来この業はしている。
その後自分の母親が原町の紡績工場で働いたけどその時は大量生産になっていた。

まずその線は乗り降りが少ない、一日駅でも50人以下だから良く維持できると思う
常磐線は減っても何百人駅で乗り降りがまだある、原町とか相馬市は4,5万の人口があるからだ。スーパーヒタチが急行が走っていた路線でもあった
それに比べるとこうした線が残っているのが日本である。

自分は車をもっていないから車で旅していないから車で旅する感覚がわからないのである一方鉄道を利用しなくなった人は車だけ利用する人は鉄道の乗り方さえわからない人が多くなっているのだ。これも時代である。
この線に乗った記憶も薄れている、それで記録したものを読み記憶をだどる
この線を思い出したのは限界集落で消滅したという村があるとインターネットで発見したからである。それは終点の荒砥駅からさらに山に分け入って所である。
平田村でありそこはすでに人は住んでいないと報告がある。

こういう限界集落が消滅してゆくのがすでに増えてきているのだろう。
山形というのもやはり奥深い知られない場所がある、そして線路が尽きると自分には車がないのだから行くことができなくなる、すると何か道が尽きたという感じになり遠い感覚になる、鉄道で旅しているとそうなるのである。それは車で旅していてはわからない心境である。

当時、村では、水田耕作、青苧( あおそ) 栽培と麻布作り、養蚕業が盛んで
あり、冬は炭焼き、女子は機織で生計を立てていた。その後、出稼ぎが盛んに
なっていった。大瀬集落と平田集落を結ぶ道路は、1962 年度に車が通れるよう
に改良され、1966 年から林業構造改善事業が導入され改修が行われた

農山村集落の消滅メカニズムと再生可能性

ここは二十数戸あり200人くらい住んでいたが2000年くらいに消滅した。
山形市の方に教育も便利だとか道路ができて移るようになったのも皮肉である。
交通が便利になるとかえってこうなるのである。
他にも白鷹町では消滅した村がある。

何かこういうふうに消滅する村というときこの辺でも浪江駅までは常磐線が開通したがそこが終点でありつながらない、するとその先がやけに遠く感じられるのである。
別に道路は通じているから車だったらそうは感じないのである。
終点で線路が尽きることは何か特別の感情をいだかせるのである。

飯館村とかでもこうして蕨平の人と鹿島駅であったが40軒があったのが一軒しか残らなかったというときもそうである。
すると草野で小宮とかへ分かれ道がありそこから蕨平でも通じていた。
それは人が住んでいる家があるという感覚で別れ道があった
もしそこはこのように消滅するとここの先には家がない人が住んでいないとなり感覚的何か自分の書いた童話のようにはならない、地名とは人が住んでいて活きているからである蕨平となると草野の中心地域から相当に離れているから余計にそうなる
もうそこは原野化して森になってしまうかもしれない、飯館の中心地域は避難区域になっても頻繁に川俣や福島市に通じる道路は車が通っていたから違っていたのである。
飯館村はそれだけ広いからそうなった。

いづれにしろ何度も言うように旅でも記憶が大事である。記憶が消えるとそこは存在しなかったと同じなのである。だからホームページで20年前から自分は記録しとて書いてきたのである。それを参考にしてまた書き直しているのである。
何か自分の書いたものも忘れている、こんなこと書いていたのかと自分が読んで新鮮に感じているのである。人間はこれほど忘れやすいのである。
旅をしても忘れやすい、どこを行ったのか近くすらわからなくなるときがあるのだ。
そして老人になるとみんな記憶をたどる旅になってゆくのである。

廃村を旅している人もいる、インターネットに写真も出している、これからさらに日本では増えてくる、それはこの辺が飯館村でも小高でもそれとにたようになったから関心をもったのである。ここは特殊な事情でなったのけど全国的なものとしてもそうなる場所が増えてくるということである。

白鷹町(フラワー長井線の旅)

2017年06月09日

抽象画(夏の海へ) abstract pictures (to the sea in summer)


抽象画(夏の海へ)

abstract pictures (to the sea in summer)

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 To the venice by train
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具象画の場合は私は切り貼り絵になる、私は全く絵は描けないからだ。
抽象画と具象画が一体にもなる、具象画を抽象画にすることもある
その素材はインターネットにいくらでもあるからできる
だから抽象画もインターネットがあって生まれてきたのである。


 I cut it  and stick it、 when I make a representational paintingt, because I cannot drow picture at all.
a representational painting is united with an abstract picture an abstract picture is how much in the Internet, it is that therefore the Internet is to the abstract picture, and have been laid that it is possible

若い人は自分が何に向いているか知るべき (体力がすべての基礎であるのは変わりない)


若い人は自分が何に向いているか知るべき

(体力がすべての基礎であるのは変わりない)

勉強で上位の大学入るより 
スポーツやその他の手に職系でプロになって飯食う方がよっぽど難しい 
勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 
自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 
スポーツとかは逃げ道に全くならないし、むしろ勉強する事よりも厳しい道だと教えないといけない

人間は自分のことがわからない、自分がどんな人間なのかわからない、それがわかるのは老人になって死ぬ時やっとわかるとかなる
そこが人間の弱点である。人間は若い内はなんでもできるような錯覚になる

自分が何に向かって努力していいいのかわからない

それが致命的なのかもしれない、中学生で花に興味があり農業関係の高校に入るという中学生は目的意識があるからそれに向かって努力することができる
しかしそういう明確な目的意識がもてないで高校でも大学でも入る
ただ上から受験戦争で勝ち抜きいい大学に入れば大企業に入れるとかで勉強が強いられる何に向かって努力していいかわからないから学問も職業でも身につかないとなる
それはまた自分自身がどんな人間だかわからないからそうなる

勉強よりスポーツ等の方が下という価値観は子供にとって間違いなくマイナス 
彼らは勉強して学歴はありますよっていう一般人よりは才能も努力の有無も何もかも上の存在なんだよ 

まず人間は体力なんだよ、何をするにも体力が先にある、先天的に体力の差が大きい、
スポーツができる人はやはり生まれつき体力に恵まれている、その差が知力などより大きい、知力がある程度は努力すれば平均的なものは身につく、でも体力は身につかないのである。
だからスポーツできる体力ある人は学校でも最初から恵まれているのだ。
体力ある人はすでに意志と根性が備わっているからだ
第一人間の歴史でなぜ軍人が兵隊が高い地位についたのか?
ローマ帝国でもそうだがコロッセウムなどでも強い人間が選ばれた人間となったのか?
それは体力が戦争するには一番必要だからである。
日本だって侍は体力があるものがなるのでありそれは最初の支配階級になった
官僚は知力の人だが武士は体力がある人がなっていたのである。
武芸に秀でたものが重んじられていたのである。

自分に能力がないって奴こそ勉強しないと駄目 

本当にそうである、インターネットではいろいろな経験談を聞けるし似たようなことを言う人がいるので参考になる
自分は体力がないと自分を知ることが大事だった
そこが出発点としてではどうするのか?知力をつけることだ、そうしないと社会では自分は生きていけないと自覚することだった

体力というとき職人でも建築関係でも体力がないと勤まらないのだ。
大工なんかもそうである。自分が知った大工さんは体が自分などと全然違っていた
ちょうど柔道何段かの体である。太っていないが体の強さが違うのである。
だからうらやましいと思った。農業だってそうである。趣味的農業だって体力がいるのである。女性は耕すことを男に頼んでいるのである。つまり基本的に肉体労働は体力が基礎としてないとできない、もちろん機械化しているから力仕事はなくなるということもある
でも人間はやはり体力がないと人生を生き抜けないだろ。
なぜ男女差別が生まれたのか?男が体力的に勝っていたからである。
まず戦争できるのは男であり女はできない、世界史的にも戦争の繰り返しでありその戦争に勝ち残らなければ民族も滅びる、それに打ち勝つには基本的に体力が必要になる
女はそれができないから男が戦争で勝つことにより女は守られてきたのである。

人間は文明が発達すると体力ではない、機械の時代になると知力が優位になる
肉体労働は低いものとして見られる、それも確かだがやはり人間は体力があって何かをできる、遊ぶにしてもそうなのである。
登山とか自転車旅行とかでもそうである。これも体力ないとできないのだ
世界旅行でもそうである、これもバックパッカーになるときつくなる
自分は登山は途中であきらめた,負担が大きすぎるのである。自転車旅行は休み休み行けるからやれた、それでもやっとしてきたのである。

自分の姉は体力があった、全然違ったタイプだった、だからこそシンガポールで四年間従軍看護婦として勤めることができたのである。
それから家で店をやっていたとき古い自転車で農家から野菜を積んだ来たのだけどそれがかなり重いのである。でもそれを持ち上げ運ぶことができたのである。
昔になればやはり女性でも体力ないと生活できないのである。
農家などは特にそうであり美人より体力がないと仕事ができないから困るのである。
それで美人は遊女にされて美人でなく体力が女性は紙漉きにされたという、紙漉きは過酷な労働だったからである。
常に人間が生きる基礎になっているのが体力なのである。


知力には向いている人と向いていない人がいるとかある
でもむしろ体力がありスポーツに向いている人はまれだということもある
スポーツに秀でることこそまれだともなる
そうなると知力でもって生きることになるから勉強しなければならないとなる
知力はある程度は努力して積み重ねればつくことがある。
自分はその成果を今出している、それは天才でもない能力がなくても積み重ねたものがあるからだ。旅などでもこれも積み重ねなのである。だって本当の旅をするには時間がかかるからだ。するとそれだけの時間が必要になるからだ。
一気に全国を旅はできない、そうして旅をして知見を広めることができるのである。

とにかく人間は何かを蓄積している、雑学でもそうである。経験でもそうである。
一人の一生を見れば必ず何かを蓄積している、だから知見とか洞察力とかなると老人が優れいているのだ、若い人は体力があっても知力はつかないのである。
自分も若いとき本を読んでも理解できなかったのである。今になればすぐに理解できるのでてある。そして独自の見解を述べることができる
それは積み重ねたものが蓄積したものがあるからできるのである。

結局今度は老人になっても体力勝負になる、老人の体力は若いときの激しいスボーツをする体力ではない、健康を維持する体力なのである。
もう60代で病気になり脱落する人もある、その人は激しいスポーツをできた人でもそうである。必ず病気になり体力あった人もたちたち死んだり病気になり何もできなくなる
自分は何か姿勢でもいいし若く見られるのも不思議だとなる
20代で老成化して60歳くらいに見えていたからである。だから20代と今の姿が変わらないのである。

自分がなぜ体力がないのにそうなったのか?
それは環境に恵まれた結果なのだ、勤めていないし疲れたときは寝ていたし無理をしなかったからだ、会社に勤めていれば無理しても働くから鬱病にもなるのである。
人間は環境因子が遺伝とかよりその人を左右することは確かである。
才能ある人も環境恵まれなかったら貧乏でピアノもないとかパソコンもないとかなると才能が伸ばせるはずがないののである。
一方たいして才能がなくても自分のようなものでもそれなりのものが身につくことがある環境というとき時代もある、戦争の時代になったらもう才能もなにもない、ただ兵隊の駒として過酷な戦地で戦わされたからである。人間は必ず時代の影響を受けるのである。
これはどうにもならない、みんなその時代時代必死で生きる他ないのである。

いづれにしろもう老人は結果がでたのである。もう人生をやり直すことができないことを知り愕然としているのだ。時間は返ってこない、いろいろ嘆いてもそうである。
時間だけは後戻りできない、例え10億円もらっても若い時には帰れないのである
貧乏でも何か積み重ねて蓄積されることはある、でも老人はもう10億円あろうができないのである。経験だってできないのである
自分も50代に海外旅行していなければ今になるとできない、退職してから自由になりできると思ってもできなくなる、何か60代以降病気になったり介護になったりできなくなることが多いのである。確かに60代のパックパッカーもいたけど何かそぐわないのである。
バックパッカーは40代までが限度でありやはり若いときにするべきものなのである。
若いときしかできないことが多い、登山などもきついからそうである。
そして若いとき求道しないものは信仰にはいたらない、老人から宗教を求めるのは遅いのである。それはただの慰めにしかならない、若いときできることをしないともう遂に何もできない、後悔だけが残り終わるのである。

いづれにしろ今の時代は一流大学とか入っても意味がない、文系だったら東大さえ変わらない、それより何か目的意識をもって勉強すれば身につく
それはいろいろな勉強方法が生まれたからインターネットなどや豊富な映像でも学べるからである。大学の価値はもうないような気がする、文系の場合は独学力をつけることである。そういう環境がすでに調っているからである。大学という名にこだわる時代は終わったのである。知力の面からすると大学は文系の場合は無駄だとなる
ただ大学には何か別なものが友達を作るとか遊びで人間の幅を作るとかスポーツで体を鍛えるとか知力だけでないものを培う場所としてもある。
だから教育は変わってゆく、大学の名は一流もなにもない、文系なら特にそうである。
むしろ一流の料理人でも目指した方が得策となるのが現代である
時代が変わると価値観もがらりと変わるからだ、ただ体力だけはやはりどんな時代でも基礎として一番必要なものなのである。






2017年06月10日

浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる (真野川にスズキが上ってきていた)


浪江の室原の人からこの辺の歴史をたどる


(真野川にスズキが上ってきていた)

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真野川の橋の上でしきりにススギがいる、光るのがスズキだという浪江の室原の人がいた鯉はいるけどススギが上ってきているとは思わなかった。

チヌやスズキは環境への適応性がかなり高い魚なので、海水域から汽水域、場合によってはほとんど淡水といったレベルのところでも生きていけます。
途中に堰などがなければ餌を求めて数Km上流まで上ることもあるようです。

スズキはこういう性質をもっているから確かにその人はスズキを見たのである。
釣りもしていたから直感的にわかったのかもしれない、なかなか常に見ていないとわからないからである。
この人は浪江の室原の人でありそこはかなり放射線量が高い、豚を飼っていたという、その豚を伊藤忠商事が買い上げていてこの辺でも売られていたという、豚としては高級なものだった

その人に親しみを覚えたのは室原というとき近くが小出谷なのである。そこが父の出身地なのである。ずいぶん近いなと地図を見て思った。境遇も両親か死んだとか母親は避難中に死んだとかにていたこともあった。
ただ勘違いしていたのは室原は確かに近いとしても大柿ダムから山をおりた平地にありそこから浪江の街まで近いとなる、そこで豚を飼っていたのである。
だから小出谷となるとやはり相当に奥であり離れている
その時そこの親戚がダムができるといいなとしきりに言っていたのである。
なぜなら金がもらえるからである。山の暮らしは貧乏であり山を出たいと思っていたからである。それは戦後まもないころである。
1989年頃完成した、30年くらい過ぎている、このダムの水は小高でも田んぼなどでも利用している

室原というところには行っていない、小出谷には平地がない、前は谷であり川が流れている、その川は大柿ダムに流れている
あそこがまず平地がないということは田畑もまともに作れないということである。
だから林業などで生活していたとなる。電気が通じたのも戦後二十年くらいかもしれない電気がその時まで通じていなかった?とすると明かりはなんなのだったとなる
ネパールの山の暮らしでもそこには電気が通じていないから夜は真っ暗になる
そうした昔の生活がネバールには残っているからそこから昔を偲ぶということができる
何かにた暮らしがそこにあったからだ。ただ一回しか行かないので良くわからない
外国はわかりにくいし良く観察できないのである。

バスは三春の方まで通っていたのである。バスが盛況な時代があったのだ
その頃森林鉄道もいたるところにありそのことを姉は語っていた
浪江のの高瀬川沿いを葛尾村の落合まで通じていた、それも距離が長いから凄いと思った森林鉄道というとき木材の供給地として山でも暮らせたとなる
それで山持ちで大倉の女性が俺は相馬の女学校(じょがっこう)に行っていたんだよ、親戚が鹿島にいてそこから通ったんだよと言っていた
当時の女学校というとき本当に相当な金持ちしか行けない所だったのである。
あとは自分の母親が尋常小学校のようにそんなものだった
当時の女学校というのは特別な金持ちが行くエリートだったのである。
山持ちが金持ちになっていた時代があったからそうなった
だから優秀だった姉が女学校に行きたかったというのはそのためである。
ただ大倉の女性は年をとっていてそういうエリートだったと面影はまるでない、田舎のばあさんになっていた。

小出谷の親戚はそれから浪江の街におりてきて暮らすようになった、息子は原発で働くようになった、家も建てた、それは一つのこの辺の歴史である。
何か原発とかかわっている人が実際に多いのである。浪江だとすぐ近くだから余計にそうなる、将来的にも浪江が廃炉作業の宿泊所としてコンパクトシティとして生き残るというときもそうである。
山の貧しい暮らしから脱出しようとして原発があった、それは確かに豊かな生活をもたらしたのである。自分の父親は双葉の新山の酒屋に丁稚奉公したのもそのためである。
山の貧しい暮らしは戦後街の方が豊かになったとき比較したときその差が大きくなったから山を出るという人が多くなったのだろう。
それが今になるといいものとしてだけ働かなかったのである。

いづれにしろ室原というとき帰るのはむずかしいのだろう。なんか拠点をもうけて集まり復興しようとしているらしい、それはまだ浪江の街に近い感じだからそうなっていた。
地図で見た限りはそう見えるのである。
その人はなにもすることがなく淋しい感じである。
ただ浪江はここから近くなっているから帰れるという気分になることは確かである。
時々土地がある人は見に行っているからである。

スズキが川通じて上ってくるというときこの辺は山でも海との関係がある
中通りとかなると海との関係を感じないだろう。会津でもそうである。
それでお浜下りとして飯館村の佐須村の山津見神社から祭りの時来るのを見ている
今は車で神輿をのせて来ていた、そして松川浦に山津見という地名があるから社があって祀られていたからであろう
もちろん綿津見神社というとき海の神でも山にもあるから海と山の関係はもともと日本では深かった、海彦山彦の国だからである。
だからスズキというのが川に上ってきたというときスズキは結構大きいからそういことは知らなかったのである。これはかなり川上まで上ってゆくという、何か餌になるものがあるためである。その時そこに翡翠が姿を現したがすぐに隠れた、なかなか動くものは写真にとりにくい、翡翠は別に時々みかけるのである。

ともかく浪江辺りになると親戚関係になっている人も多い、双葉とか大熊は相馬藩内でも遠い感じになる、浪江は野馬追いにも出るから相馬藩内である。
南相馬市だけでも2000人くらい復興住宅とか家を建てたとか移住しているようだ
だから今は浪江の人が目立つのである。
posted by 老鶯 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2017年06月11日

無人駅の問題 (空家と同じで人がいなと荒れる)

無人駅の問題

空家と同じで人がいなと荒れる



阿武隈急行 全 24駅中 16無人駅

無人駅といえども、冬季における除雪対策や列車ダイヤ混乱時の通報・連絡体制、駅構内における事故発生時対策について、有人駅と遜色のない対応が求められる

地域住民から除雪時の雪かきが不十分で通行の安全が確保されていない


無人駅には実際はいろいろな問題がある。人がいないと落書きされたとかある。空家と同じで荒れてくる
小海線の佐久広瀬駅がそうだった、そこが駅なのかという感覚になる
ただ落書きする場ではないかとさえ思った。落書きだけが目立った駅だったのである
鹿島駅はそういう駅ではない、常磐線には桃内-磐城太田-日立木-駒ヶ峰駅などが無人駅である。一人か二人しか乗り降りがない、全く乗る人もない時もある、これらの駅は常磐線でも感覚的に本当に淋しい駅である。なぜここに駅があるんだろうとも思える駅なのである。
鹿島駅は特殊な事情で無人化しただけであり無人駅ではもともとない。

無人駅になった結果、確かに雪かきをしていた。ここは雪が降らないからまだいい、雪かきは雪の降る場所では仕事になる、会津の方だとそうだろう。
それをするのはやはりJRの職員なのである。
この前は燕の巣で駅舎内が汚されたので三回も巣をとりのぞいて掃除したとかあった。
鉄道というのは鉄道自体の整備とか駅舎の掃除とか仕事がある。

だからしょちゅうレールとか建物とか点検に来ているのである。
安全も確保しなければならないからその手間と整備に費用と労力もかかる
鉄道は何かとバスなどより維持費がかかるのである。
レールでも点検をいつもしているのである。
電気類もありそれも点検するから鉄道の維持には手間と金がかかる

鉄道の無人化に盲人団体が反対したというのもわかる、一人通勤している人がいる
その人は電車に乗るとき危険なことがわかった、安全に乗れないのである。
だから盲人団体から反対があったのもわかる。そこで駅員が導いてやれば安全である
自分はそれをしてわかったのである。

JRにしてみれば人員を削減するというとき無人駅にするのもコストの面でそうなる
駅員一人雇ってそれだけの収入が見込めないからである。
鉄道が足の時代は終わっているからだ。だから電車にのっていないなと言う人が多いのである。乗り方さえわからなくなっているし路線図を見てもわからない
自分ならたいがいどういけばいいのかすぐわかるが乗っていない人はわからなくなるのだ要するに車時代になったとき「電車に乗っていない」ということが実感なのである。
それほど鉄道があっても鉄道にうとくなっているのである。

無人駅などは時々鉄道マニアがおりて写真撮ったりするくらいである。
無人駅というだけで実際は相当なコストの無駄になる、一人二人くらい乗り降りするにさくコストが無駄なのである。
乗る人でもそうした無人駅はとばして早く目的地に着きたいとなるだろう。
その方が効率的にもなる、無人駅は本当に山の奥で駅の前に二三軒家がありそんなところに電車が泊まるのも不思議だとなる
小海線の佐久広瀬駅などはそうである。山間深く一日聞こえたのは郭公の声だけだった
そういう駅がかえってマニアには面白いとなるのもわかる
こんなところに駅があるのか?それが不思議になる
そしてそういう駅は記憶に残っているのである。

いつ来るや次の電車は郭公の声のみひびき山間暮れぬ

そういう駅におりるといつ次の電車が来るのか時間がありすぎるとなる
でもその時間がいいのである。田舎の駅は待つ時間がある。
その待つ時間が人間的になる、そこで会話したりしたのが自分だった
普通の駅ではただ通りすぎるだけの場になっているからだ。

小海線 佐久広瀬駅

この駅は新しくした駅である。前はもっと長い駅舎で古くなっていた。

現代はみんな急いでいるから旅情がなくなっている、新幹線には旅情が感じられないのである。旅情が感じられるのは船なら遅いから感じる、スローになると人間的になり旅情を感じる、バイクとか車は早いから旅情を感じない、ただキレルという感覚なのである。
別れを惜しむというより人間と人間の関係がキレルのである。
そこに情が働く時間とゆとりがないのである。
現代でキレルというとき老人がキレルとか話題になったけどみんなキレルようになっているのが現代なのである。

いづれにしろ何か自分は鉄道には愛着があるのだ。今日の鹿島駅は横浜から来たとか10人くらい乗って仙台方面に去った、日曜日は乗る人がいつも多いのである。
阿武隈急行の存続が危ぶまれるのもわかる
あそこの車窓の風景で心に残ったのが枯野だった、枯芒だった

車窓見ゆ枯野の記憶消える線

阿武隈急行は常磐線より維持するのが厳しいだろう。阿武隈急行 全 24駅中 16無人駅
であり半分以上無人駅だからである。
途中に大きな都市がない、この辺では原町とか相馬市とか都市であるが阿武隈急行にはない、町しかないからだ。
ただ旅するだけなら情緒ある線だともなる
どういうわけか記憶として枯野の記憶なのである。鉄道はバスよりコストがかかりすぎるのだ。無人駅にしてもやはり問題があるし駅が死んでいるという感覚にもなる
だから何らかの車とコラボするとかで駅自体を活性化する必要があるのだろう。

今になると旅は思い出としてある、するとどこが記憶に残っているかが問題になる
きまぐれに降り立った淋しい駅が記憶に残ったりする、大きな駅は記憶に残りにくいのである。
要するに記憶に残らなかった駅は存在しなかったともなる、駅だけではない最後は記憶が薄れて消えてゆくのである。道でも何か明確にたどれないのである。
まず車とかなると道をたどることはほとんどできないだろう。ただ通りすぎただけとなるのだ。それは旅にすれば実りあるものとなっていなかったのである。


2017年06月12日

人間関係も外交関係も何でも日々変化している (人間はその変化に気づかない)


人間関係も外交関係も何でも日々変化している


(人間はその変化に気づかない)


人間というのはも日々変化している、その情況も同じではない、家族でもその情況は常に変化している、なぜなら子供が成長するから変化している、いつまでも同じ状態のものはこの世にはないのである。
人間関係も常に変化するのは情況が変化するからである。
自分はこれまで介護とか自分の病気とかで弱い立場にありその弱いが故にそこにつけこまれてひどいめにあってきた、でもその時は何もできない状態だったのである。
でも介護が終わり自分の健康も回復したとき違ってきた
何か頼る必要がなくなったのである。弱い立場ではないのである。
でもそういう変化に気づかず相手は弱いと思いつけこんでくる
それは相手の変化を見ないから察しないからそうなる
そして今度は反撃されることがあるから注意すべきである

つまりこの情況というのはあらゆる所で変わるのである。日々変わっているしそれが良くわからないのである。
外交関係でも常に変わっている、なぜなら中国との関係でも10年前と今では全く違った情況が生まれている、10年前だと中国があんなに発展していないだろう
すると日本ではまだ中国は貧乏国の後進国だと見てしまうのである。
10年すぎる中国はみるみる変わってしまっている
いつまでも世界は同じ情況になっていない、人間はその変化に対応できないのである。
イギリスもいつのまにか衰退してしまっていた、それでも大英帝国がなおあるように錯覚するのである。
日本とアメリカの関係もいつまでも同じではない、そんなにいつまでも日米同盟がつづくとは限らない、どこかですでにその情況は変わっている
それは中国の関係でも韓国の関係でもロシアの関係でもそうである。

ともかく世界は常に変わっている、この辺は津波と津波や原発事故でまるで変わってしまった、ただその変化に対応できないのである。
避難解除になったからといってすぐに帰れるわけではない、その心境とか情況も常に変わっているからだ、仮設に住んで復興住宅に住むことでも変わっている
そういう変化がこの辺は激しいのである。だからどういうふうに対応していいかわからないとなる

科学技術の面でも常に変わっているからこれについてゆくことも年取ればむずかしくなる老人は時代に技術についていけなくなる、だから老人は金をもっていても弱者化してゆくのである。時代の変化に対応できないからである。
車社会になったとき車をもっていないものは弱者になっている、だから老人でも車を80でも90でも運転しようとする、弱者になりたくないからである。

人間関係でも家族関係でもなんでも常に情況が変わってゆくことがわからない、すると突然離婚になったり何か破綻したりする、それは突然そうなったのではなく情況が変わるからそうなる、離婚でも経済的に苦しいからできないとなっていても何かで経済的に自立できるとかなると離婚になる、情況が変わるからそうなる

あらゆるところで情況が変わり変化してゆく、強いと思ったものが弱くなり見る影もなくなる、老人になるとそうなりやすい、そういう親が老化して弱者になることをまざまざと見たとき信じられないとなるのだ。
あらそるものは変化である。その変化に気づかないから相手が弱かったからいつまでも弱いと思っていると強くなっていることがありそのために今度は逆に攻められてひどいめにあうことにもなる

人間関係もいつも同じではない、それはそれぞれの情況が変わっていることに気づかないのである。それで突然変わったとかなる、それは相手がいつも同じ情況、状態にあると思っているからである。
個々人の単位でもそうだが国の単位でもそうである。今の日本は高度成長時代の日本とは違う、子供の貧困が6人に一人もいるとかなるとなんでこんなに貧乏になったのかとなる
そういう情況があることをなかなかのみこめないのである。
それは過去の繁栄を経験した人は余計にそうなる、なんでこんなに日本は落ちぶれたのかとなり信じられないとなるのである。

人間は情況を変化を見誤ることが致命的なにる、夫婦でも友達関係でも何でも情況が変わるからいつまでもつづくとは限らない、友達も結婚すれば別だとなる、
そして結局人間の関係は金の切れ目が縁の切れ目であり仏の顔も三度までとかなり縁も切れるのである。仏の顔が三度までというとき相手はいつまでもその人が仏のような人とと思いつづけている、でも情況が変わるし同じことは何度も聞かれないのである。
もういいかげんにしてくれるとなり切れるのだ。
人間の関係はまず常住なものがない、切れやすいのである。
それがこの世の人間関係だとつくづく思う、ただ家族は60年つづいたからその歳月故に死んでもつづいていることがある。その絆は死んでも切れないのである。
他の人間関係はつくづく金の切れ目が縁の切れ目とかなりやすいのである。
この世の人間関係の無情がある

だから外交のむずかしいのは相手の国でも常に情況が変わり変化していることを見誤るからである。アメリカでもトランプ大統領になったとき変わったがそれがどのように変わるわからない、アメリカの変化がわからないのである。
そのことから外交でも見誤り失敗するのである。
それほど人間はとりまく情況が常に変化している、それに対応できない、相手を察することもできないから失敗する
仏の顔も三度までというとき金を貸してくれたらまた貸してくれるだろうとなる
それも三度まででありそれ以上はないというということを思わない
それで金が貸してくれないというときその人は愕然として怒りにもなるのである。
なぜ変わったのだとなるがそういう情況を作り出していたことに気づかないのである。


何か巨大な勢力でも権力でもいつまでもつづかない、だからいつまでも今ある権力があると思うと失敗する、たちまちそのような権力も雲霧消散するからである。
まるで幻のように消えてゆくのである。そういう変化を人間の歴史はこれまでつづけてきたのである。津波でも原発事故でもそういう大きな変化でありもう対応できなくなっているのだ。
津波でも原発事故でもそれだけが変化ではとない、過去には二度の戦争があったし過酷な変化がありそのために犠牲になった
そういう変化があるのがこの世でありさけられないとみるべきだったのである。
でも平和がつづくとそれがいつまでもつづくと思ってしまうのである。
平和であることこそがまれなことなのである。
むしろ一生の間にはこうした大きな変化に見舞われることこそが人間社会でありそれは歴史をふりえればわかる
その変化こそが人間の歴史であり繰り返しだったのである。


人間万事塞翁が馬  (じんかんばんじさいおうがうま)

「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」という事です。

原発にしてもこの辺では悪いものではなかった、富をもたらすものだった、それが事故になったら一転して大きな災いとなり苦しむだけだとなった
でも見方によっては他に移っていいと思っている人もいるかもしれない、多額の補償金をもらって良かったと思っている人はいる。
原発事故でもすべてが悪いものとして働くだけかとなるとそうでもない面があるかもしれない。この辺などは前よりスーパーが二軒新しくなったりといい面があったからだ。
もちろん悪い面の方が多いのだが町自体が急激に衰退するということはなかった

ともかく人間は情況が常に変わるからこういうことが起きてくる、何か幸福になるのか不幸になるのかわからないのである。まず幸福の原因が不幸になり不幸の原因が幸福になっていることは普通にあるしみんな経験している
自分が幸福だったことが苦しみのどん底に落された。親が二人死んでただ苦しみしかなくなったのである。30年間の幸福は一瞬にして消失したのである。
それは津波や原発事故でもそうだったのである。
有為転変をまねがれえないのがこの世なのである。人間の歴史自体がそうだったのである

駅で柏餅を中学生におごる (与えるにはタイミングが大事)


駅で柏餅を中学生におごる

(与えるにはタイミングが大事)


今日はなぜか受験のために仙台の中学生が来ていた、三年生の二人だった
途中鹿島駅によったらしい、そこで一時間仙台ゆきが待つことになったのである。
何か一時間くらいローカル線だと待つことがある
その待つ時間が人間的なものを産み出す契機となる

その女子中学生は前にお菓子屋があったが腹減っていたが金がなくて買えなかった
金をたまたまもってきていなかったみたいなのだ
だから駅前の菓子屋を見て食べたいと言っていたのを聞いた

それで自分は柏餅を買ってきて食べさせてやった、一個百円だった
それはもらった人は意外だったろう
自分も今までそんなことをあまりしていない
何か自分がもらう方であり与えることがなかった
常に与えられ方だったのである
自分はだからもらったり与えたりするのが苦手なのである。

子供をもてば与えることは義務になるしそれは喜びである。
そういう経験もないというとき自分は与えられの常だったのである。
でも親の介護になったときはじめて与える側に立ったのである。

人間は与えるのももらうのも与えられることもむずかしいのである。
与えられる時は遠慮なくもらうべきである。
その人はその時与えたいし余裕があるからだ
金銭的余裕がある人は与えたくなるのである。
自分は遺産を受け継ぐまでそうした金銭的余裕がまるでなかった
だから常に与えられる側にあったのである。

与えられる、もらうことの上手な人はいる、でもそれが全く遂に遠慮もなくただ与えられることが当たり前となりそれより子供のように何でももらえるとねだるようになる
借金でもいくらでも要求してくるから与えるのも実際は金とかなるとむずかしくなる
金のやりとりほどめんどうなことはないからそこで金の切れ目縁の切れ目になるのがあまりにも多すぎるのである。

つくづく人間は与えるにしてももらうにしても何かめんどうなのである。
与えるにしても相手が嫌がることだってあるし別に金があるから買うからいいともなる
なぜ今回は与えられたのか?それは相手が中学生であり昼間ちょうど金がなく腹をすかしていたからである。そういうタイミングが大事なのである。
人間はつくづくタイミングである、旅とかなると一回しか機会がないことが多いからその時しかタイミングがなかったことに今になると気づいた
でも自分は何かそうした出会いのタイミングを逃したのは失敗だった

人間は変化するものであり状況も常に変わっていると書いた、そのことはタイミングを活かすことがいかに大事かとなる、そのタイミングを逃しているのが多いのである。
与えるにしても与えられにしてもタイミングがあるのだ
それを逃すとどっちもできない、その機会を逃してしまうのである。
人を助けるにしてもタイミングがある、その機会を逃したら後は二度とないのである。
自分が苦しんでいるとき誰も助けてくれなかった
それも自業自得、自分のカルマだったのだけどもしその時助けられていたら恩人となり
終生恩義を感じることになったのである。

意外とそういう機会を逃しているのが人間である。その時来た人は借金とか金がなくて苦しんでいるからできなかった、相手が苦しんでいるときチャンスになったがそれは助けることでなく相手の弱みにつけこむだけだったのである。
相手が困ったとき助けるというとき必ずしも金だけではないだろう
何か金でなくてもできることはある、津浪で苦しんでいたとき泥かきなどをして助けた人は恩義を感じている、恩人だとかなる
恩人になる機会は実際は人生の中でなかなかない、そういうタイミングがあったとしても逃しているのが多い、自分とは関係ないとなりちょとしたことで助けないのである。
そのことは自分が病院に入院するときその人はともかく金が欲しい欲しいしかない金をもらわなければなにもしたくない人だった
だから軽い荷物でももつことを嫌がっていたのである。
そんなことすら人間は他人のためにしないのである。
それも金の余裕とか心の余裕がないからできなかったのである。

もしかしたらこうしたちょっとした親切でも思い出となり鹿島駅のことが記憶されるかもしれない、これはどうでもいいことだが何か小さな駅は人情の駅になることがある
大きな駅はただ通りすぎるだけだからである。
確かなことは今は自分は金銭的にも与える方になっている
その金は無理したものではないからだ、ただ有効にタイミングが良く与えることがむずかしいのである。
だから与えるというとき大きなものでもなくてもささいなものでも効果的な場合がある
それはタイミングが良かった時なのである。
今回はたまたまそういうタイミングがあって与えることができたとなる
自分は与えるにしても与えられるにしても何か苦手である。
社交性がないというか何かうまくない、でも今回はタイミングが良かったからできたとなる、こういう時は与えても恩着せがましくなるとまた相手も嫌になるだろう。
それが中学生とかでありうまくいった、子供なら与えても当然だとなるからだ。

タイミングとは運なのである。株でもタイミング良く買えばもうかる、そのタイミングを逃せばもうけも逃げる、男女の出会いもタイミングである
そのタイミングを逃すとあとは二度とないとかなる、そして一生は短いからタイミングもねんなにない、だからこそタイミングを活かした人が運が強いとなる
運はタイミングなのである。タイミングを活かせないものは運もないのである。
あの人は運が強いというきタイミングを活かした人なのである。
商売でもそうであり何か幸運になるのはタイミングが良かったからだとなる