2017年06月01日

駅は街の玄関であり関所の役割もあった


駅は街の玄関であり関所の役割もあった


昔は関所がいたるところにあった、白河関はみちのくに入る関所として有名だった
関はもともとは防御のためにありやがて通行人を検めるものとしてできた
そして通行税を寺社がとるためにも関所がもうけられた、それで淀川には300の関所があったとか港でも税金をとっていた
それはライン川でも城が多くそこで通行税を払わなければならなかったとかにている
つまり商業するにも旅をするにも難儀していたのである。

だから鉄道ができて切符一枚で全国を旅することかできることは画期的なことだったのである。アメリカの鉄道もそうである。

東部と西部の間を数ヶ月かかって移動していたのが、3日強で済むようになったのですから、とても有用なものであったのは確かです。

関所にはまた犯罪者を入れないようにもうけられた、「入鉄炮出女」入り鉄砲というとき今でもグローバル社会となったときテロリストが入ってくるから困る、どこの国で世界で行き来できるというときまた犯罪もグローバル化するからである。
それで鹿島駅で監視カメラに振り込め詐欺の人が写っていてつかまったということでもわかる、全国手配の犯罪者の写真もはられているのもそうである。

そして同じ車両に見知らぬ人が同席していることに違和感を感じたというのもわかる
江戸時代ではまず見知らぬ人は常に警戒されていた
それで箱根では関所守り村というのが各地にあり監視していたのである。
与那国島で自分が木陰にいるだけで警察に通報されたようにあのような島では誰か見知らぬ人がくると目立つのである。
江戸時代はほとんど狭い村の世界で同じ人と暮らしていたのである。
見知らぬ人と交わることはまれだった、その時今のように世界のことを知らなくてもすんでいた、狭い村のことを知っていれば良かったのである。

関所があるというとき関所を通ることは別な世界に入ることである。相馬藩でも三春藩とは家の作りが違っていたとか藩が違うと生活も違ってくる
だから江戸時代の旅は今より刺激的だった、食べ物でも言葉でも何でも違ってくるからである。今はどこでも同じになっているからつまらないのである。
どこでもハンバーグを食べている、世界でも同じである。
郷土料理は別に金をかけた贅沢なものではなく貧しいなかで工夫したものが多い。
江戸時代はみんな貧乏だからそうなっている、今は郷土料理はその土地に行ってなかなか食べられないし馬鹿高くなる場合がある

なぜ現代の旅がつまらないのかとなるとそうした土地土地の特徴が一様化されたためである、関所は不便でも今になると関所があることは旅をするなら一つの刺激的な場所になるヨーロッパだったらユーローがない時代はそこで貨幣が変わり両替するからその国を意識する、ヨーロッパの面白さはいろいろな国があり文化が多様なことにある
その多様性の故にヨーロッパにはルネサンスが生れたのである。

自分が駅でボランティアして感じたことは駅は関所の役目もあるのかと思った
なぜなら鉄道は切符を買い改札しないと入れない、自動化して駅員がいないとしても監視カメラがあり見ているとなる、そこはやはり関所のように区切られた場所なのである。
車だったらそういうことはない、どこでも自由に入れる、ただ高速だと料金を払うために関門がありそこで監視カメラがあり誰が入ったか記録されている

いづれにしろ関所ではどこから来た人なのかまたどこへ行くのかなど調べられる、職業まで調べられる、だから関所は人間臭い場所になる
自分も駅でどこから来てどこへ行くのかと聞いたがそれともにている
ただ嫌がれば答えないし今は一般的にそうしたことを聞かれのを嫌がある
それで道案内でも何でもスマホを見てすまそうとしているのである。
それでも見知らぬ土地に来ると簡単なことがわからないのだ
タクシーの番号を書いてあるのだがそれがわかりにくいのだ
それで駅前の店屋に聞いたりしている、食堂もすぐ近くにあるからわかないのである。

駅はその街への入り口、玄関であり関所の役割もあった、そこでいろいろな人が出入りしていたのである。だから駅は不思議な人間臭い場所だったのである。
ただこれも大きな駅になるとどういう人が出入りしているからわからない
仙台駅などでもそうである。いちいち聞くわけにもいかないからである。
ともかく駅は一つの関門なのである。その関門が人間臭い場所になっていた。

ただこう感じたのは自分が旅したときは駅で感じなかったのである。
ただ通過してゆくだけとしか感じていなかったのである。
だから人間は立場が違えば感じ方が変わる、旅として客となるのと旅人を客として迎えるのとはまるで違ったものとなるようにである。
それは医者でもそうである。医者と患者がもし立場が逆になる経験したら違ったものとなる、ただ医者にはなれないから医者のことが理解できないのである。
それはあらゆるところにいえる、農民になって作物を提供するのとただ買うものとはまるで違う。農民が作物を作る苦労などわからないからである。

鈴が音(ね)の 早馬駅家(はゆまうまや)の 堤井の 水を給へな 妹が直手(ただて)よ(巻14)

駅備え付けの駅馬によって早馬を走らせて手紙や荷物を運ぶ役割を果たした。大化の改新の際の詔や大宝律令で重要事項として駅や駅に置く馬などの規定に触れており、実際に『延喜式』では各駅に配置する馬の頭数が事細かに記されている

万葉集の時代からすでに駅があり水を直手で与えてくれというときそこに器で与えるより情がこもるからそう言った、今は何でも機械でしているから情がはぶかれるのである。
スマホを見て人とかかわらないというときもそうである。そこで一言でもしゃべれば情が生まれるのが人間なのである。情報というのは情がかかわり活きてくることもあるからだ

福山市のJR福塩線に「駅家(えきや)駅」がある。これはこの駅周辺に山陽道の駅家(うまや)があったからではなく、福山市駅家(えきや)町にある駅だからである

この駅は面白い、ここに駅家があったのではなく駅家町があったからこの名になった
それは古代に万葉集時代に由来したものだったのである。

秋風や薮も畠も不破の関 芭蕉

この句なども関所であったところが特別であったためにできた、なんでも関所に見えたということである。それほど関所の影響が旅人にあったからである。

かの人のいづこよた来ていづこ行く我が見守りつ今日も駅にいる

関所の俳句十句 (旅には関所も記憶する目印となっていた)

2017年06月02日

遊牧民と航海民 (交通の発達による変化)


遊牧民と航海民

(交通の発達による変化)


遊牧民志向というときモンゴルとか中央アジアとかイスラムなどの地帯である。
そこは砂漠であり草原だから遊牧民の世界でありラクダを使う隊商が生まれた商業が発達した地域である。シルクロードの地帯である。
そもそも遊牧民は常に移動しているのだから商業に貿易に向いている
またモンゴルのようにジンギスカーンが必然的に生まれる、騎馬民族国家である。
境界がない世界に生きているからだ、日頃の生活が移動に向いているから軍隊を編成していると同じである。だから中央アジア地帯がもともとそういう地域であり商業の役割をになったのである。

イスラムで小切手が生まれそれが貨幣に紙幣になったというのもうなづける
商業民族がイスラムでありイスラム教の創始者のモハメッドが商人だったことでもわかるそしてイスラエルは半分は砂漠でありキリストはそういう場所で生まれた
イスラエルまで交易がありラクダが通っていたのである。

中央アジアとか遊牧民の国家は常にその領土が変動するのもわかる、境界がない世界だから変動しやすいのである。それに比べるとエジプトとか中国とかは農耕民だから国家が変動しないのである。牛と馬があるとき牛が農耕民の神となる
そして国家とか都市は遊牧民が農耕民と接して生まれた、中国の最初の国家は西安(長安)に生まれた、始皇帝の秦である。兵馬俑は騎馬民族国家である。あれだけの騎馬軍団があって国家が統一できたのである。それで日本でも騎馬民族国家論が生まれたのである。
その後長安は唐が生まれ大帝国となったのである。
阿倍仲麻呂など遣唐使が行ったのは長安だったのである。

この遊牧民が航海民になったというときフェニキア人が生まれ地域がポエニであり今のシリア辺りでありその位置が遊牧民が航海民を生んだにふさわしい
なぜなら中央アジアの砂漠地帯から遊牧民が移動して地中海に出る地域だからである。
フェニキア人がアルハベットを発明したのも商業に便利だからである。
それまではエジプトのヒエログリフとか楔形文字とか文字があってもそれがむずかしいものだったからである。アルハベットは世界共通の文字となり言語となったのもわかりやすいからである。漢字がならないのはむずかしいからである。

オデュッセウスは筏の中に腰を据え、匠に家事を操ってあやまたず船を進めたが
その瞼に眠りも落ちず、ひたすらにプレイアデス(すばる)の星群、沈むに遅い「牛飼座」また「車座」の異名を持ち、同じ所を旋回しつつオリオンをうかがい、ただ一人オケアノスの水につからぬ、アルクトス(大熊座)にも彼はじっと目を凝らす
常に左手に見つつ海を渡れと教えた星である。

航海には星座は欠かせない知識である。北斗七星は韓国を通じて日本に伝来して妙見信仰になった、これは相馬藩の神である。野馬追いの旗も北斗七星が描かれている
これは中国の遊牧民から韓国を通じて伝来したのである。
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イスラムが果たした役割は世界史的にみればいろいろあった、そこはヨーロッパより先進地域だった、だから建築とか化学とか代数とかが発達した、それはヨーロッパに取り入れられたのである。イスラム文明の方がその時文化的には優れていたのである。
ただイスラムは世界史的には橋渡し的役割になった
そもそもなぜイスラムがあのように混乱してテロしかイメージできなくなっているのか?
何か文化的にも学ぶものがもうないとなっているのか?
ただ橋渡しの役割を果たして終わったともなる
ただ日本も東西文明の橋渡し役と見る人もいる、東西文明の融合する国だと明治維新で見なされた、中国とアメリカの狭間にあって政治的にもそういう場所にあった
西欧文明の概念を漢字で取り入れたの日本でありその漢字を中国が利用していることでもわかる、確かに橋渡し役を果たしていたのである。

遊牧民が航海民になれたのも地中海があったからである。ここは航海の訓練する場所となったのである。もし太平洋とか大西洋だと航海するにはまだ未熟だったからできなかったここで航海の訓練の場となりのちにコロンブスがアメリカに到達したのである。
ともかく文明は繁栄して衰退するというときそれは常に文明がグローバル化する運命にあったからである。それは技術でも必ず伝播して応用されるのとにている
そうした技術の伝播を止めることができないからである。

航海民というとき日本でも海の道、海道があったという、それは古代からあったという。東北の太平洋岸まで航海できたのかとなる、それは鎌倉時代にもあったことは小高が蔵院とかあり湊があったことで知られている
でも古代となると航海ができたのかとなる
でも海の記録は喪失しやすい、海を見て感じることは新地から駅が高くなって金華山と牡鹿半島がはっきり見えた、するとこんなに金華山と牡鹿半島が近いのかと直感的に見る
まずこれなら航海しても迷うことはない、確実に近くに島と半島が見えているからであるすると航海しても方向に迷うことがないとなる。
だから意外と貧弱な船でも行けたのかなとイメージできるのである。
それはあくまでも直感なのだけど歴史的な証拠もないのだけどそう思うのである。
陸を回るより船で行けば近いと見えるのである。

阿武隈川も道のように利用されていたというとき古代には道ができていいなから川とか海でも交通路になりやすいからである。道は人工的に作らねばならないからである。
道を作ることはローマの道のように文明が発達しないと作れないからである。
川とか海は自然の通路になりやすいとなる
中国やヨーロッパや中東でも大きな河があり長い河がありその河の辺り文明が生まれたというときそこはまた交通路として川が利用された面があったためである。
エジプトでもナイル川の岸辺からピラミッドへ通じる、神殿に通じていた
あれだけの大きな長い川があるからこそ商業が発達したのである。


津浪によって破壊された常磐線の移設工事の発掘調査で山元町坂元地区の熊作遺跡から
「信夫郡安岐 里」の4人の名前が記された木簡が出土し
701年から717年の間に推定できます

躍動する東北「海道」の武士団 七海雅人

この木簡から阿武隈川を通じて製鉄関連の仕事に従事する人がいたとこの本では解釈している。となるとやはり阿武隈川も古代には道としての役割があったのかとなる。
ここに製鉄遺跡も発見されているからである。

また相馬地方に熊野神社が多いというとき鈴木という姓が多いのも熊野信仰をもってきた人たちが移住したからである。

島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船

(巻第六 雑歌 944・新949)

浦廻漕ぐ 熊野舟着き 珍らしく 懸けて思はぬ 月も日もなし                                                    (巻12/3172)

熊野の船は有名だった、山が迫る海であり森林に恵まれて造船に適していた
だから海洋民として太平洋沿いに移動したということもある
ただ海というのは歴史に残りにくい、船は海に沈んで証拠を残さないからである。
津浪でもわかったように村ごと壊滅して全く何も残さないようになる
すると語り伝えられることもなくなるのである。

いづれにしろ交通に興味をもったのは自分は一生旅してきたからだとなる

新地駅から金華山が見えた驚き




2017年06月03日

原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ (福島民報は県が50パーセント出資している官報だった)


原発安全神話の洗脳に加担したマスコミ

福島民報は県が50パーセント出資している官報だった


日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ
日本は戦争に勝つ

日本は戦争に負ける

原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない
原発事故は起きない

原発事故は起きる

ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ
ヒラリークリントンは勝つ

トランプは勝つ


人間の心理として何か常に洗脳されることがある、それはメデアを通じて成される
カルト宗教団体でも洗脳が常に行われている、それは宗教とは関係ない、洗脳なのである嘘も百回言えば真実になるとか洗脳として行われる
それでナチスがゲッベルスがその洗脳を担当したのである。

洗脳というときむずかしいことは言わないことである。大衆を洗脳するにはむずかしいことを言っても通じないからである。
戦争が悪いとか戦争がしていいのかとかそうした疑いをもたせない
ただ戦争は勝つと唱えさせていればいいのである。

原発で安全神話が形成されたのもその安全の中味については問わせない洗脳だったのである。
それはマスメデアを通じて成されていたのである。

福島民報が県で50パーセント出資しているとかでもわかる、県は国と結びつきその安全神話を作った側だったのである。福島民報は聖教新聞も刷っているから全く権力側につくから国とか県側につく洗脳メデアなのである。
なんか自主避難でも福島民友は同調しているが福島民報は県の方針に国の方針にそって帰還するべきだと言うだけだとなっている
別に自分は自主避難は何なのか?放射線量がそれほど高くないのになぜ避難するのかのみこめないことがあった、だから自主避難には疑問をもっている
ただそれでも自主避難はだめだということがあってもそれ一方になることがメデアの問題なのである。だから福島民報と福島民友で違った意見になることはいいことなのである。それが常に民主主義なのである。必ず賛成するものと反対するものがある
その両方を取り上げることが民主主義だからである。

ともかく大衆を操作するには洗脳が効果的なのである。だからナチスがラジオによって洗脳されたという時もそうである。ラジオがそんなに効果があったのかと今では思う
テレビはそれより効果的だからである。
テレビで原発が安全でないとか放送されていただろうか?
例えば本は原発は安全ではない、危険だと警告する人がいた、原発は東京に作るべきだという本を出した人がいた、なんかその時自分は近くに原発があるのに関心がなかった
関心をもたされなかったともなる
その本をなぜ自分はSF小説のように見ていた、空想の世界だと思っていたのである
それもそういうふうに洗脳されていたからだともなる
原発が危険だと言う人はいたし本も出されていても関心がない注目されなかった
それは科学的にも科学者でも原発の安全性に疑問をもつ学者はいたのである。
でも「安全神話」は権力で持って強固に作られていたから洗脳されていたから疑問をもつことさえゆるされなかったのである。

マスメデアは全部左寄りでも朝日新聞でも東電に事故が起きたとき幹部が招待されていたように安全神話に加担していた、福島民報も民友もそうである。
ジャーナリズムとは何か?そのことも原発事故で問われた
ジャーナリズムは本当は権力を監視するものがベースにある
常に本当は反権力の立場にたたなければならない、なぜなら権力をもつものを監視するものとして三権分立が生まれた、マスコミもまたその権力を監視するものとしてあらねばならない、権力は危険なものだからそうなる、権力をもつと人間はその権力に魅せられる
なぜなら権力によって人を支配できるからだ、それで裏で金を操作しでこの世を支配しているのがロスチャイルドとかロックフェラーだとかユダヤ人とかなんとか陰謀論になる
それは現代の最大の権力が金になっているからである。

例えば反権力というときカルト宗教団体も実際は監視しなければならないものである。
なぜなら創価でもそうだが政治家して権力を追求しているだけだからである。
会員を増やすのも権力をえるためでありそれ意外なにもない、宗教的改心とかそんなことを言っていたら誰も入らないだろう。そんなめんどうなことではない、ただ得しますよ、ご利益がありますよという利益を説くだけだから入るのである。
だから宗教団体はみんなうさん臭いのである。政治にかかわりそこで権力を操作する側になり利益を得ようとするだけなのである。政治家もただそこが票になるから利用するだけなのである。

マスメデアにしてもそうした巨大な権力側につく、監視する側ではない、国とか県側につき大衆を洗脳する操作する側につくのである。だからそこにもうジャーナリズムとして期待するものは何もない、ただの官報にすぎないのである。
実際に県が50パーセント出資しているのだし聖教新聞も刷っているし東電などからの宣伝費も入っているとなるとそれは何なのだとなる
だから県民でもそんな新聞に何を期待するのか?
原発事故を起こした原因はマスメデアにもあった、そのマスメデアはもともと大衆洗脳のためのマスメデアだったのである。

まずニュースとしてもとりあげるものととりあげないものがある。
原発では度々小さな事故があってもその報道は小さいものとなり何か危険を喚起しない
みんなもの関心をひかないのである。
要するに原子力のことがわからなくても

原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ
原発は危険だ

こういうふうに見出しでも目立つようにしていれば大衆でも危険を感じるようになったかもしれない、そういうこが心理的にあるのだ
それがただ安全だ安全だというものしか目にしないし危険だということはおさえられていたのである
マスメデアが宣伝費が成り立つとき出資者が県が50パーセンとなのだから当然だとなる
だからみんなのための報道というとき何なのかとなる
そんなものを作り出せるのかとなる、でもそういう報道がないとするとどうなるのか?
前の戦争のように300百万人死んだとか、今回のようなとりかえしつかないものとなる
その被害が民衆に及ぶ、それを今みんな実際に被害者となっているからこの辺ではなぜ原発事故が起きたのかを真剣に考えて反省せざるをえなくなっているのである。

その責任の大きなものがマスメデアにもあったからだ
マスメデア側にしても自分たちはただの民間の一会社でしかない、だから利益をあげて穏便であればいいともなる
つまりマスメデアでもメデアは民衆の側でそうした権力の監視を真実の報道を望まなければ生まれないとなる、だから民主主義でも民衆側が賢くならなければ機能しないのである
技術的にインターネットなどが生まれてそういう反権力の報道も可能になっているが洗脳メデアとしてまだマスコミは力をもっているのである。
だからトランプがどうであれマスコミがあれだけ批判していたのに大統領に当選したことは画期的なことだったのである。
何かその後のトランプ大統領を弾劾するとかのニュースでもアメリカの方が権力を監視するということではその機能を発揮している、日本では非常にそうしたマスメデアの自立性がないのである。

駅の燕の巣の問題 (駅の自動化無人化でも問題が起きる)


駅の燕の巣の問題


駅の自動化無人化でも問題が起きる



駅前ツバメの巣駆除、ヒナ落下死…利用者の前で 

 相模原市緑区のJR相模湖駅前で先月27日、バス・タクシー乗り場の屋根にあったツバメの巣を、駅職員が利用者の目の前で棒を使って壊し、落ちたヒナ1羽が死んでいたことが2日、わかった。 

 鳥獣保護管理法違反の可能性もあり、JR東日本は「配慮が足りなかった」と認めている。 

 同社などによると、巣は高さ約3メートルの屋根の下にあり、「フンが汚い」という苦情を受け、職員2人が周辺の蛍光灯や壁の汚れを清掃した際、ツバメを追い払うために巣を壊した。 
 巣は半分ほど残り、今もツバメがやって来るという。 
 
増える無人駅、障害者不安 後絶たぬ転落事故  

2017/2/16 1:11日本経済新聞 電子版

 目の不自由な人が駅のホームから転落する事故が相次ぐなか、各地で進む「駅の無人化」の見直しを求める声が広がっている。鉄道会社はコスト削減のため有人駅の絞り込みを急いでいるが、障害者団体などは「安全性への不安が高まり、移動範囲が制限される」と反発。鉄道会社に改善を求める要望書を提出する動きも出始めた。


 
 完成する前に壊せば別の所に行く 
それは誰からも攻められない

JRは鳥の巣に関しては一番よく知ってる会社 
メンテ関係の仕事してる友人いるがJRから巣をみつけたら 
卵と雛を確認していたら絶対に触るなと周知されてる 
運行に危険な場所の場合は専門の駆除業者に頼みそれ以外は 
巣立つまで待つがスタンス 


うちにもつばめの巣つくってほしいけど 
民家じゃなく商家に作るんだよな 
人の出入りが多いから 
賢いな、つばめ


今駅で困っているのが燕が駅舎の中に巣を作り汚れることである。すでに三つ巣を作り壊した、今日も駅員が来て壊した、それを自分が連絡したのである。
乗客は連絡していない、ただ駅員が見回りにきて壊した時もあった
そこで巣を作れないように網などをかぶせたが監視カメラの上に作ったり今度は壁にまで作った、それを今日壊したらまたその壊した壁の所に作ろうとしていた

駅舎の中は安全である。人が出入りするし建物の中のだから安全なのである。
壊して掃除した駅員はしきりにかわいそうなんですよと言っていたのと燕の巣は害になるからといって壊せない場合があると言っていた。
「鳥獣保護法」で燕は守られているからだ。

燕は巣を作る場所に苦心していることは確かである。あそこに三回巣を作りそれでも巣を作ろうとしていたからである。
この解決方法は戸を閉めることである。でもそれができないと駅員は言っていた。
乗客は開けたままにしておく、駅員がいないので無人駅になると誰も管理する人がいないから困る、だから無人駅とか無人化を何でも目指しているが必ず何か困ることが起きる
だから自動化しても機械化しても人間の労働がなくならないと思えないのである。
労働の質が変わるだけなのである。

こういうニュースはインターネットで読めるからいい、同じことで困っている人が必ずいるから探せる、これはただ偶然に見つけたのである。

ともかく駅というのは公共的な場でもある、人々が集う場であることもわかった。
それが実は子供から老人から男女関係なく集う、行き交う場所である。
障害者も交じる場でもある、現実に盲目の人が通っていて案内したからである。
それから外からくる人とも交わる場でありそのことを書いてきた

今日来たのは新潟の人であり新潟は低い土地が多いから津波が来たら被害が大きいと言っていた。新潟の潟は湿地帯であったところである。そういう地名がついているから低い土地であ。新潟の人はこの辺からも避難した人が世話になり待遇が良かったとみんな言っていた。それは新潟で地震があり被害があったとき助けられたからだと言っていた
そういう経験するとそうなる、この辺もそういうことがあるから経験を積んだから外で災害があったりすると助けるという意識が生まれようになったかもしれない。
でも新潟はそもそも情がある場なのかもしれない、新潟に避難した人が多かったこともある。

現代に欠けているのはこうしてあらゆる世代の人とか外部の人とか障害者でも集まる場がない、子供が年代で学校に隔離されるし老人も老人ホームに隔離される、障害者は障害者で隔離される、何かみんな別々に分類されてあらゆる人が集まる行き交う場所がないのである。何かそれが現代的非人間的ものを産み出している。
駅では燕であれ動物まで関係していたということである。

無人駅でも自動ドア化すれば燕が入れないようにできるかもしれない、今は夏であり開けたままにすることが多いからである。それで半開きくらいにしておいた。
でもまた開けるから同じである。
無人駅でもこうして何かかにかやることがあり問題が起きる、だからこれは何でも自動化できないことなのである。そこに人間の手が加わり人間の愛が加わり活きてくる
だからAI化で仕事を失うことはありえないと思う、人間の仕事の質が変わってくる
それはより人間的な仕事になる

野村総合研究所によると、「芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理創出するための知識が要求される職業」や「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」は、人工知能やロボットで置き換えるのが難しい職業になる

この辺はどうしても人間でしかできないのである。自分のやっていることはとても機械ではコンピューターではできない、ただ抽象画はコンピューターがしているから芸術の分野でもAI化は影響するのである。

「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」

この部分は人間の仕事として残る、例えば医者でもコンーピューが診断すにしても患者とのコミニケーションとか大事になるし看護師にしてもいたわる心が必要とされるからその仕事の質が変わっても残る、別にAI化は悪いことだけとはならないのである。
情報はこうした卑近なものでも拡大している、このニュースに関心をもった人が多かったということである。

盲人の人が通っていて自分が乗車するのを助けた、自分で案内してみて電車にのことは盲人にとって危険なことを知った、だから盲人団体から無人駅の見直しを求めるというのもわかる、ただ盲人はこの辺では本当に少ない、自分が目にしたのは一人だけである。
人一人駅員として置くだけでもコストがかかる、だからJRでもコスト削減するから無人駅が増えるのである。
でもこれでわかるように人間は何でも自動化無人化できないのである。



2017年06月04日

量より質の時代へ (AI化で仕事の価値観が変わる)


量より質の時代へ

AI化で仕事の価値観が変わる


プログはコメントとかより訪問者とかページビュー数で決まる、数を集めたら評価になる、宣伝するにも効果ある、自分のサイトは最近あがってきている、10万ページビューとかなっている、ほとんどブックマークからでありこれだと常時読まれているとなる
ただ10万ページビューとかなると本当にプログでアクセスされるとなると大変である。
どうしても数をかせぐには大衆向きにすることになる
すると質は追求できなくなる、そもそも自分はアクセス数よりずっと読まれた人にも関心なく質を追求してきたのである。
だからむずかしくなってもそうしてきた

第一芸術とか宗教とか哲学が量を追求することはできない、ただニュースの解説とかなると量が必要になる、多くの人に読まれれば影響力が何でもでてくるからだ
それでマスコミは大衆向きに量を得るための報道をしてきた
結局は今は芸能人を集めて漫談しているだけの低俗番組化してかえって嫌われたのであるそういうもの一過性で終わる、本当のものを芸術でも創造すれば何世代にもわたって読まれ見られ音楽でも聞かれつづけるのである。
本当に価値あるものはそれだけ寿命が長い、ニュースとなるとその時その時で消えてゆくから不変的な価値とはならない、でもそのニュースを解説するとき人間の変わらぬ真実がありそれを書けばあとあとまで読まれることはある
ただ一過性に消えるものがあまりにも多いのである。


戦後は貧乏であり食べることが最大の問題であり衣食住が満たされることのために働いただから大量生産システムを作りともかく作れば売れるという時代だったのである。
そこではあまり質を追求していなかった、大量生産のための労働というとき労働の質も追求されない、それでもその時団塊の世代などは人数が多いから大量に人手も供給されてきたのである。その時あまり労働の質などは追求されなかったのである。
賃金を高くすることは追求されたが労働の質は追求されない

今になると労働することそのものの価値が追求されるようになった
一体自分の労働にどういう価値があるのかということである。
それで働く動機が賃金もあるが何か労働自体に満足する価値を求めている時代になる
だから趣味に時間を費やしたいという人が増えるのもそのためである。
理想的なのは趣味と労働が一致して収入になることである。遊びと労働も一致して収入になることである。
出世とか賃金だけではないもの、何か人生として充実する労働をしたいとなる

そもそもそういうことは別に今だけではない過去にもあった。
江戸時代の職人は質を追求していた、量ではない、一つのものを作るのにも質を追求して最高のものを作ろうとしていた、それで職人気質ヴ生まれたのである。
刀を作るにも精根こめて最高のものを作ろうとしていたのである
それは大量生産ではない、手作りでありその技を究めようとしていたのである。

人間の仕事はworkでありそれは作品の意味だからこれは東西の文明にかかわりなくそういうことはあった、作品を仕上げることが仕事なのである。
大量生産にはそういうことはなかった、大量に同じものを提供することが豊かになることだった、そういう時代は貧乏なときはやむをえていことがあった
でもこれからはそうした大量生産というのはなくなる、AI化によってそうした労働は機械やロボットやコンピュターがする、すると労働もそうした流れ作業的なロボットができるような仕事はなくなる、では人間はどういう労働をするのか?
それが今後問われてくることになる

それは教育などにも影響してくる、今までのような受験競争とかでいいのか、社会でこれから通用するのかとなる、労働の質が変わるというときそれがどうなるのか明確ではない

野村総合研究所によると、「芸術、歴史学・考古学、哲学・神学など抽象的な概念を整理創出するための知識が要求される職業」や「他者との協調や、他者の理解、説得、ネゴシエーション、サービス志向性が求められる職業」は、人工知能やロボットで置き換えるのが難しい職業になる

こういうことになるとすると暗記ばかりの受験のための勉強は役に立たなくなる
語学でも翻訳機械が飛躍的に進歩している、翻訳にも創造性が必要なのだが機械的に翻訳できる面ができるから変わってくる、ただ詩などはとても機械ではコンピュターでは翻訳できないだろう。そういう分野は以前として人間がすることになる
でも何かAI化というのは仕事でも機械にできないものとなると相当に高度なものになる
そこまで人類は進化しているかとなるとしていないだろう。
まず暇が多くなるとき一般的に何しているかとなるとギャンブルが多いことでもわかる
暇の有意義な過ごし方をしている人がどれだけいるのかとなる
これは高齢化社会の大きな問題になっているのだ。
なぜなら暇を有意義に過ごすことを訓練されていないからである。

質を追求するというときこれからあらゆる面で起きてくる、それは卑近な所でも起きてくる、料理でもそうである。料理となると実際はその材料が良くないといくら料理人の腕が良くても活かせない、ではその料理の材料を良くしようとしたら農家がやはりいいものを作らねばならない、そこにも質が求められているのである。
AI化機械化されることは人間の質を実際は追求することになる
人間にしかできないものが仕事として残る
それは介護分野とかでもそうである。そこにコミニケーションとか愛とかが必要になり追求される、それはサービスをする方にもされる方にもいいことなのである。

政治とか経済とかは高度成長時代ではGDPが指標になってきた、どれだけ生産量があるかでありその質は計られない、その量を増やすことが目標になってきた
カルト宗教団体でもそうである。ひたすら数さえふやして政治力、経済力をもち権力をもつことが目標である。
そもそも宗教とは本当は質の追求である、もともとそんなに数はいらないのである。
そんなに数を増やすとなると大衆化して低俗化する、それはマスコミが視聴率を稼ぐ方法になる、芸能人の漫談の場を提供するだけになる

ただAI化というのがどういうふうに影響するのかわかっていない、それは知能部門でも仕事が変わるからである。すでに翻訳部門では変わっている、まず翻訳者は機械翻訳してそれを直していることでもわかる
ビッグデーターでもAI化されて分析される、AI化がコンピュターが知能をもつということがわかりにくいのである。
ただこれからの時代はそうしたAI化に備える勉強も必要になる
それは仕事の質が変わるから今までのような仕事がなくなるからである。
それは高齢化社会というものにも影響しているのだ
高齢化社会というとき老人はもう人生は終わりだから関係ないともなるがそうでもない
高齢化社会は60で退職しても70でもそれからの人生の時間があることなのだ
するとそこで何か有意義な時間を過ごそうとするとそれに備えねばならない

それが今までの将棋とか碁とか何か老人の趣味も変わる、将棋でも碁でもすでにコンピュターが人間に勝ったというときもう将棋でいくら15歳くらいの天才が出ても驚かないのないのである。コンピュターが人間に勝ったという方が驚きなのである
そのソフトを作り出した人こそ将棋の人間の天才より驚きなのである。
第一将棋ソフトに勝てる素人はいないのである。将棋でもコンピュター相手にして勝てないのである。だから将棋がいくら天才が出ても驚かないのである。
それはもう計算されつくされた世界であり人間はコンピュターに負けているからだ
ビッグデーターをコンピュターは解析して買っているからである。

人間が進歩するというときやはり機械的な奴隷的な仕事はしたくない、手伝いさんでもそうである。その女性は皿洗いなどはしたくない、でも庭の手入れとか花を植えたりすること育てること野菜を作ることにははりきってしている
その方に生きがいを見いだしている、家事には見いだしていないのである。
第一家事は機械化しているからもう手伝いさんでも職業として必要ないのである。
そうして人間としてしたくないものはAI化して機械化する
では人間は何をするのか?それが問題になる、それは暇をどう有意義なものとして使うかということになりそれは人間の進歩だとなる



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スリランカ人二人と北海道の帯広から一人 (駅は情報が集まる場でもある)


スリランカ人二人と北海道の帯広から一人

駅は情報が集まる場でもある


色が黒いなと見ていた、二人の外国人の若者である。どこかと聞いたらスリランだった
スリランカ人とは前にもあった、その人はあんなに色が黒くない、インド人は黒い系統は原住民のドラビダ族系統なのだろう
あとから入ってきたのはイスラム系で中央アジア系統で白人系統である。
それらの混血もいる、インドは多様だからわかりにくい、一人は中国人の顔である。
その人がどういう人かわからなかった、三人ここで働いている
日曜日で遊びに行くみたいだ

スリランカ人は英語がしゃべれる、すると二言三言しゃべってもそれで会話のきっかけになる
今日は風が吹いて遅れた、5分くらいだったからたいしたことがなかった
それで英語で遅れたことを伝えた、何かもう簡単な英語は今は必須である。
そしてスリランカとかネパールは貧乏でも英語がしゃべることが有利なのである。
何か英語がしゃべれるとインド人でもそうだが共通語となり何か文化人のような感覚を日本でもつから得である。

中国人は実際は今では日本人より豊かな人がいくらでもいる、でも中国語は全くわからないから話しようがないのである。漢字を書いて伝えあうのもめんどうになる。
世界の共通語が英語であるというときそれは英語が必要ないとか必要だとか言う前にそうした現実がある。だからこれだけ外国人が来るとなると片言でも英語をしゃべる訓練はしていた方がいいとなる、それを十年間外国旅行で自分はしてきて良かった
ただ自分の海外旅行は失敗の連続でありもう二度としたくないとまでなった。
その後今度は10年間介護になり何もできなくなった

もう一人は帯広から来た人だった、北海道の人は良くくる、北海道はほとんど回った、
ただ帯広は回っていない、それでも美瑛から十勝岳が見えてその向こうが帯広だということは知っていた、富良野-美瑛-旭川線にのって美瑛におりた
根室本線は一部しか乗っていない、帯広までは行っていないのである。
北海道はそれだけ広いということである。

どういうわけか自転車で十勝川が流れる平野がありそこは一面のジャガイモ畑でありちょうど雨がふっていて休んだところが小さな神社だった、こんなところに小さな神社があることはそぐわなかった、北海道には神社がにあわないのである。
その広さがそぐわないのである。風土にあうものとあわないものがある。
美瑛から十勝岳が望む風景はすばらしい、富良野はラベンダーでありラベンダーメモリーとかなると詩的になる
ただ人間はとうしても30年前とかなると記憶が薄れてしまうのである。
北海道だって20年くらい行っていないからだ
だからまた旅したら新鮮なものとなる


寺内の人がいてスーパーキクチの近くに社がある所に養護施設ができるという、それは相馬市の関係らしい、その養護施設がどういうものかはわからない。
あそこを古墳が多いから発掘していたのはあそこに養護施設が建つからだった
他にも消防所も作っているし鹿島には次々に新しい家も建ったしスーパーも新しくなったり二つできたし都会化しているのである。


「破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人 (子供の貧困は高齢化社会の問題でもある)


破獄」のドラマを見て・・犠牲となる看守と介護殺人

子供の貧困は高齢化社会の問題でもある


「破獄」というドラマだけどそれはまさに現実に起きていた「昭和の脱獄王」をドラマ化したものだった、たからリアリティがある
ドラマでもそれを見る目は一部でもいいからリアリティを経験から感じることである。
このドラマでリアリティを感じたのは看守だった若い人がこの脱獄王を見張るために
労力を費やしていた、それで家族ともゆっくりできないとかなにか大きな不満があり
その脱獄王に襲い殺そうともした
「お前のために犠牲になっているんだよ」とか叫んでいた
この看守は戦争になり死んだがこの脱獄王は戦後も生き延びたのである。

お前のために犠牲になっているんだよ」

このことが他でもある、それは介護でもそうである。介護殺人が起きるのは親でも子が犠牲になるからである。何かしたいことがあってもできなくなる
脱獄王を殺そうとした看守もそうだった、お前みたいもののために俺の人生は犠牲になっていると殺そうとしたことは介護殺人でも起きているからである。

こういうことは障害者をもった親にもある、その負担はあまりにも大きいからその家族はお前のために犠牲になっていると殺したくなる
そうしして実際に障害者を家族でなくても世話する若者が大量殺人にいたった
それはあまりにも凄惨なものである。

何かそこには俺の人生がこんなもののために犠牲になっていいのかということがある
こんな何も役立たないもののために労力が費やされることに耐えられなくなった
看守でもこんなろくでもない犯罪者を看守するだけの仕事が嫌気がさしていたのである。
こういうこもNHKで放送していたけど子供の貧困とかでもある
なぜ老人のために子供に金が回らない、すると老人は早く死ねと若者は叫んでいるからだ子供の貧困とか教育費に金がかかるとかは実は高齢化社会がもたらしている側面がある
団塊の世代でも今までは生産する側であったからよかった
それが今度は大量に非生産的なものとして社会の負担になるからだ

だから今度は老人のために俺たちの人生が犠牲にされる、老人は死ね

こうなっているのだ。もし60代くらいで老人が死んでいれば新陳代謝が行われこういうことはなかったかもしれない、その分年金をはらわなくてもいいからだ。
すると若者の負担もないわけである。
それは結局高齢化社会がもたらした負の面なのである。
中国ではすでに親は子に捨てられて自殺している人も多い、社会保障もないからだ。
その息子娘でもその子の教育に金がかかると親には手がまわらないのである。
それで親が捨てられてゆくから高齢化社会の問題は世界共通なのである。

正直自分も10年間介護して時間がたちまちすぎてしまった
ただ自分は親を恨んでいない、やりたいことをやらせてくれたし恩返しでできて良かったと思っている、でも若いときに介護させられていたらこうはならなかった
親戚の人が病気になったとき自分は輸血を頼まれたりしたが断った
その時登山に行って異常に疲れていたからである。その人は自分を恨んで死んでいった。でもその時激しい運動である登山をして良かったと思う
そのあとなかなか登山でもできなくなることがあったからだ
介護とか看病であれ何かしたいことができないということは若いときだったらその時にしかできないことがあるからその機会を逃してしまのである。
介護の問題は最低でも五年かかるし二人だと十年になる、もし一年くらいの看病とかだったら耐えられるかもしれない、その時間の長さの犠牲が大きいのである。

まず普通の社会だったら子供優先である。若い世代が優先になる、なぜなら未来を作るのは若い世代だからである。老人はもう死んでゆくだけだとなるからだ。
その老人に国の予算で費やしていたら国自体が衰退してゆくのである。
それは生物の理にかなっていないのである。
ただ高齢化社会は人類で今はじめて直面した問題なのである
だからその解決方法は今模索されているのである。
それが今子供の貧困とか若者の負担となっているが高齢化社会はこれからも続くし人類的課題なのである。
人類はどこの国でも高齢化する、そのことを否定はできない、それで高齢者は死ねということはその課題の解決ではない、なぜなら今の若い世代も同じ課題に直面するからである

だから高齢者は高齢者でどうして子供の貧困をなくすか、若い者の負担を減らすかを考えねばならないのである。そういうことが高齢者世代にもないことも問題なのである。
いづれにしろ医療でも進歩するしますます人間は高齢化するからこれをとめることはできないしこれも進歩だとなる、高齢者を抹殺しろと言ってもそれでは人類はその進歩をとめることになる、これからもずっとやはり長生きする時代だからどうしても高齢化社会が常態になるとしか思えないからである。
90くらいが女性で平均寿命になるが男性もやがてそうなる
だから人生90年として生きる心構えをもつことが必要なのなのである。
それは若いときからそうである。自分は60で死ぬと良く若い人が言うけど今の若い人は確実に90まで平均的に生きる、癌でも病気も治すことができくようになるというからそうなるのである。それは悪いことではない、ただ社会全体の歪みをもたらしていることでその課題を解決する必要がある。それがどういうものか模索される時代なのである。



2017年06月05日

南相馬市鹿島区の最新のニュース(2017年6月)


 南相馬市鹿島区の最新のニュース(2017年6月)

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 ●橲原(じさばら)に右田の人が集団移転

 ●寺内の発掘した場所に相馬市の養護施設が建つ

 ●新しい消防署を建設中

 ●駅前に仙台からくるリホーム会社の事務所を開設

 ●近くに風力発電会社の駐車場

 ●大東建託のアパートが二カ所建設中

 ●新しいツルハドラッグが元のスーバーキクチを改装して開店


橲原(じさばら)の大原へゆく新しい道の方に右田の人が集団移転するという、
すでに家が相当建っているという
なぜそこに家を建てたのかというとそこは右田の人の土地であった
入会権をもって山を所有していたのである。
一〇町くらい山を所有していた、そこで草を刈ったりして右田に運び飼料とか肥料に利用していたのである。
それを運ぶのに苦労したことを復興団地にいる右田の老人が語っていた
あのころは車もないし道も舗装されていないし橋が土と木の橋でゆれて怖かったのである右田から橲原(じさばら)だと馬車やリヤカーで草を運んでもかなりの距離なのである。あの老人は復興団地は狭くて嫌だ嫌だと言っていた
9つくらい小屋がある広い土地に住んでいたという。そういう所が右田には普通にあった馬も飼っていたし牛も飼っていたからである。

この辺の農家は広い土地と家に住んでいたから狭い所に住むのは嫌がる
小高の人は50畳もする部屋があったというから驚きである。
そこで集会などが開かれていたのだろう。
右田の人は他に小池に集団移転して家を建てている
ただ海側から山側に移り住むというのも同じ地域で感覚的にはまるで違ったものとなるだろう。そこで田などは作れないだろう。
何をして生活するようになるのかはわからない。

 寺内で古墳を発掘していたのはそこに相馬市の養護施設を建てるためだった、
養護施設となると確かに鹿島にはない、アサガオの障害者の工場などはある
養護施設がないとあるでは違うものとなるだろう。
鹿島にはデイサービスの厚寿園とかも新築された
消防署も新築しているから公共的な施設がいくつか建った
大東建託のアハートが二カ所まだ建設中である。15くらいできているかもしれない

スーバーキクチの隣には元の建物を利用して新しいツルハドラッグができる
駅前には仙台のリホーム会社が事務所を開設する
リホーム関係は仙台からも来る、自分が頼んだユニットバスも仙台のリホーム会社だった100万だったから安いと言われた そうゆうけんという会社だった
今度は台所をリホームをしないかとと電話があったが断った

風力発電事業も開始されてその駐車場があった
これもどういう事業なのか?そういう関係の会社が入ってくる
駅でドコモインに泊まる人が駅からタクシーで行った
その人は友伸エンジニアの人だった
この友伸エンジニアは元からあったから震災とか原発とは関係ない
でも鹿島にホテルができたということが変わったのである。
鹿島に宿泊所は民宿一軒しかなかったからだ

鹿島区は震災前より良くなった、新しい家が何百軒とたった、その数が多いのである。
小池などは都会の風景のようにもなった、こんなに変わるとは思いもよらないことだった海の風景もまるで変わった、ソーラーパネルとか今度は風力発電の風車の風景になるからである。景観がこれだけ変わるとまるで違った世界になったような気になる
未来のSF小説の世界が現実化したような感覚になるのである。


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2017年06月06日

延命治療の中止の判断のむずかしさ (人間は意識があるうちは生きている)


延命治療の中止の判断のむずかしさ


(人間は意識があるうちは生きている)


それでは機械の「認識」と人間の「認識」との違いは何かと問われると、それは正に「意識」を定義できるかどうかという問題に帰着するのではないでしょうか。

コンピュターではどうしても意識をもたせることができないという、そこが人間と機械との根本的相違である。意識があることが人間であり機械はその意識をもつことができないそもそもでもこの意識と何なのかというときまたむずかしい。

私の意識が大宇宙を感じ、地球を感じ、妻や子を感じ、親兄弟を感じればこそ、それらのものは存在できたのです。その意識が無くなれば、その瞬間すべてのものは消え去ってしまうはず・・・!?

意識のなぞは死んだら意識がなくなる、死者は意識をもっていない、灰となり原子となり消えたとなる、死者が生者を見守っているというとき生者がそうして死者に意識をもたせているともなる、死者が果たして意識をもって見守っているのかとなる

自分の肉親の死で感じたことは認知症の不思議は以前として意識をもっている
時々正気にもどる、正気の意識をとりもどすということである。
誰か息子でも娘でも意識できないこともあるが意識することもある
記憶障害になっても意識は存在して誰かを認識する、それが死ぬ前に正気になることがあるのが不思議なのである。

身内を二人を看取ったが一人は典型的なアルツハイマー型認知症だった、激情的な人だったから暴力的にもなった、そういう人でもその人が意識を失った訳ではない、ずっと自分が誰かを意識していた、ただいろいろなことがわからなくなっていた。
そして最後に意識不明になる前に何かこれまでの事情を察してうなづいたのである。
いろいろ暴力的になったりして身内でも不信感をもっていたが敵対的な感情がなくなり
しゃべらなかったが何かを察してうなづいた
そしてすぐに一カ月間意識不明となり死んだ
意識不明となったときもう何も通じない、完全に死んでいたと同じであった
ということは意識があるうちは人間は生きているのだ
意識がなくなったとき人間は何であれ死んでいるのである。
だから植物人間は意識がない、体が生きていても意識がないから死んでいる状態なのである。
もちろん植物人間から生き返ったというとき意識を取り戻したということである。
植物人間の状態ときは死んでいるのである

もう一人は百歳まで生きたけどひどい認知症ではなかった、だいたい90以上になると半分は認知症になる、認知症の症状も様々ななのである。
そして死ぬ一カ月前とかに孫が一人いてその人に金をやれと自分に大声で言ったのであるそれには驚いた、離れているから自分は関心がなかった。
でもそれが遺言であり孫には言われた金は払ったのである。
最後の言葉は重いものとなるからだ、払わないとしたら死者に恨まれるともなるからだ

ともかく人間の最後をどうするかとなると家族でも死ぬ人自身も苦しむ
死の側面は社会関係とか家族関係とかの中の死がある
それと同時に死そのものがある、人間が死ぬということは社会関係とも家族関係とも関係ない絶対的死がある、これはまねがれないのである。
もう一つは社会関係としての死がある。社会的に一個の人間が消滅するということである家族関係の中で親兄弟と息子娘と孫とかと永遠に別れることである。

不思議なのは社会関係とか家族関係とかの中での死というときすでにそういう人が生きながらいる、天涯孤独の人はすでに家族関係がないのだから家族関係の中の死はないのである。社会関係でもすでに社会から見捨てられた人はもう社会関係の中で見捨てられて死んでいる、そして孤独死となる、だから何々の関係、人間関係の中ですでに生きながら死んでいる人はいる、それとまた絶対的死は別なのである。
この世の人間関係が切れることが死なら生きながらそうなっている人は結構いるからだ

だから死とは何なのかとなる、それは明らかに意識の消滅なのである。何かを意識することがなくなる、それが死なのである。人間関係でも親兄弟があり娘息子がいて孫がいて友達がいて意識できなくなる、何か花を見ても意識できない、自然を見ても物を見ても意識できない状態が死なのである。だから逆に意識がある限りは生きているとなる
つまり社会関係や家族関係がない仙人のような人がいたとしてその人は以前として生きているのである。自然でも意識をもって見ているからである。ただそういう人も意識がなくなれば死んでいるのである。

この人もう生きていても苦しむだけだから死なせた方がいいという判断をするときむずかしいのは苦しんでいても意識があるうちは生きているからだ
だから意識がなくなったら死なせても何の問題もないのである。
自分の身内の一人はうなづいた時は言葉を発しなくても意識があり生きていたのである。でもそのあとは目は死んで意識不明になったのである。何にも意識もできない状態になったのである、この時は死んでいたから延命治療しても無駄であり死なせても良かったのである。

いづれにしろ人間の最後をどう迎えるかはむずかしい、ただ全体的死から救われるとしたら信仰しかないのである。人間は死なないという永遠の命のあることを信じる
それがキリスト教だったら根本にあるからだ、肉体は死んでも必ず蘇るという信仰である絶対的死はまねがれえない、ただ社会関係家族関係の中での死は死そのもの絶対的死とはまた別なのなのである。
結局死は社会関係家族関係からの離脱でもある、いくらこの世の関係に執着しても遂に死をもって断たれるのである。

2017年06月07日

ゴミ集積場のトラブル (これも民主主義の自治が関係していた)


ゴミ集積場のトラブル

これも民主主義の自治が関係していた


隣接地がゴミ集積所になっていることを分かっていて土地を購入しましたが、想定し得ない近隣の住民が増えたことで、ゴミの量が圧倒的に増えました。」「仮にこちらが「もう、自宅前はゴミ集積所としては提供しない!」「清掃局は戸別回収に応じるを言っている!」と近隣へ主張した後でも従前の場所にごみを捨て続けられたら、不法投棄で訴える事は出来ますか?」といった相談が見られます。離婚・男女問題分野に「近隣 ゴミ集積所」に関連する相談が多く寄せられています。


10年前、土地の一角にコンクリートのゴミ置き場(不動産会社所有)が隣接している家を中古で買いました。当時、ゴミ置き場があるから安かったという事はなかったです。今までは、収集日にカラス対策として網を被せていましたが、最近ゴミを捨てている近所の方達が、そこに固定式のゴミ箱を置きたいと言いに来ました。景観や不法投棄の心配から反対していました


においの問題はゴミ集積所までの距離と言うより、風向きがかなり影響すると思われます。
幸いうちのゴミ集積所は、まれにですがカラス等でゴミがばら撒かれても、近所の人が率先して片付けをしてくれるので虫とかの被害もありません。


「自ら処分しない一般廃棄物については、その一般廃棄物処理計画に従い当該一般廃棄物を適正に分別し、保管する等市町村が行う一般廃棄物の収集、運搬及び処分に協力しなければならない。」

もし何の法律も条例もなければあなたはあなたのお住まいの市や町のどこのゴミステーションに持ち込もうがあなたの自由になってしまいますね。でもそれは許されませんよね。と言うことは何らかの法律か条令が存在していると考えるのが妥当ではないでしょうか。


自分の家の前がネットをかぶせたゴミがカラスとか猫に食い荒されて道路一面に広がった自分の家の前なのでそのつまにしておけず掃除した、車も震災以後は通る場所になったので困る それが度々そうなっているから困る
このゴミ集積場の問題はなんかめんどうだった

●利用している人が明確ではない

●組が四つくらいに別れている

●設置する場所が問題

●市では金の援助はするがあとは地域で決めろという

ここのゴミ集積場は誰が利用しているか明確ではない、組の人が数人はしているが他の組もしているしそれが三つ四つくらいの組に分かれている
車で遠くから捨てに来る人もいる、その人は組の人で遠くに移った人である。
だから組の問題でもない、近隣の問題なのである。
それよりゴミを捨てる人の問題である。利用者の問題である。
でもその人たちが誰かわからないのである。

そしてなぜここにゴミが増えたかとなると近くの空家に外から来た労務者が住むようになったからである。九人も住んでいるという、となるとゴミの量も増えたのである。
これもこの辺がまだ工事関係者入ってくることの問題だった

市の環境課に相談したが設置する場所とかはゴミを捨てる人たちで決めてほしい、その場所に問題がないなら費用の九割は支払うという、でもその設置場所が問題なのである。
街中ではそういう場所がなかなかない、それで網をかぶせるだけとなる
するとカラスとか猫に荒らされるのである。

道に設置しようとしたらそれも所有者がいるとか人に迷惑になるとかで問題だった
道でも通行権はあるとかの法律も学んだ
このゴミ問題はそれを利用する人たちの自治が要求されているのである。
住民の自治がないと市の方では金は出すがなにもしないとなるからだ
これこそまさに自治が要求されるから民主主義だとなるのかもしれない。
でも自治となると住民の合意になるからその手続きもめんどうだし誰かまとめ役が必要になる、自治といってもみんな勝手なことを言っていたらまとまらないからである。

つまりゴミを捨てる人に責任がある、その責任を果たす必要がある。ゴミ捨てる一人一人に責任がある、その責任を自覚することからはじめねばならない
それは確かに民主主義になる、一票が平等に与えられているがその権利はあるが責任も生じているのである。
ここではそれが具体的な問題として現れているのだ
だからゴミを捨てる人を特定しなければならない、なぜならその人たちが利用しているから責任が生じているのである。

なぜこれほどゴミ集積場でもめているのかとなると明確なルール、法律がないからであるまたそれも決めにくいからだろう。そこには様々なその場その場の問題が生まれているからである。だからルールが作りにくい、するとゴミを捨てる人たちでルールを作り監視してくれとなる
でも組という明確な組織もないからめんどうになる
何かここにも法律問題とか政治とか民主主義の問題がある
政治というと国政になるが卑近なところにも政治があり民主主義がある。
そこで学ぶことがかえってある、法律も具体的な問題の中で身につくしわかりやすいのである。
自分が理論好きである。だから法律も勉強すれば興味をもったかもしれない
社会の問題もこれも学問としてあるからだ
具体的な社会の中で活きる学問があるからだ

民主主義はともかく自分たちの利益、権利を主張することに傾きすぎた
ゴミを捨てるとしても何かを利用する権利があるとしてもそこに責任が生まれる
それはささいなことでもそうである。
漁業権にしても海を東電に売り渡す権利があるのかと書いたがそれだけの権利が生じるとなると責任も問われることになった、だから今になると漁業者への反発が大きくなったのである。今までは知らないし何か被害がないから感じていなかったのである。

責任というときだから国政を担当するとなるとその権限も大きくなると権利も大きいと責任もそれに比例して重くなっているのである。
何か権利があるというとき必ず責任が付随している、その責任を誰が負うのかとなる
それは原発事故でも問われてきたのである。




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