2017年05月29日

高齢化社会で買物難民が深刻になる (移り住んだ小高の老人が買物に困っていた)


高齢化社会で買物難民が深刻になる


移り住んだ小高の老人が買物に困っていた

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ここは空家ではなかった

買い物弱者、全国で高齢者700万人と増加。栄養状態の悪化も・・



街中の空き地が多いなかにあった家はてっきり空家だと思ったが空家ではなかった
手押し車に座ってばあちゃんがその前で二人話していたのである。
それで聞いてみてわかった、寺内の方に一時的移り住んでいるだけでありここにもどってくるという、だから庭の手入れに来ていた
それでも6年すぎたとか本当に空家の感じになっている
ただ庭は手入れしていたから荒れなかったのだ
こういうふうに空家でも時々帰ってみている家が近くにもある、だから荒れた感じではない、他にもまだそういう空家を知っているからだ。
でもこの家はいかにも外の壁がはげ落ちたり空家だと思った

そのばあちゃんが二人で話していた。一人は最近この辺に新しい家を建てて移り住んだ人だった、小高の人だった、家族で移り住んだ、だから家が狭いというとき曾孫とかいて五人いるからである。でも庭はもう一軒家が建つくらい広いのである。
その人が言うには買物に困っているという
近くに店もなく困る、シシドスーパーまで手押し車でも行ったという
そうなるとかなり遠いのである。それで買物に困っている
近くの食堂でオカズだけ売っているというのも意外だった
回りには買物する場がない、魚など売りに来るんだよとかも言っていたしキクチスーパーで頼めばもってきてくれるよとか言っていた

小高の人の話を聞くと七回転々として移ったという、そういう人は多い。
そうなると老人にとっては負担になっていて体を壊した人もいるかもしれない
関連死というものがかなりあったからだ
小高のばあちゃんは何か風呂に入るときなど気をつかって嫌だという、そのことをしきりに言っていた。家族と一緒にいるからいいとういものでもないらしい。
何か家族でも外孫だとかなんか気を使う事情があるみたいだ
家族と一緒に暮らしていても今は老人は暮らしにくい事情がある
そうなると家族のなかでも孤独だともなる

あそこにいたばあちゃんは土地の人だからくわしい、駅の掃除をしているんだよとも言っていた。商工会関係でしているんだよと言っていた。駅とかかわる人がいる
この前は花を植えていた人がいるから地区として駅にかかわっているのである。

あそこの空家と思った地域は五六軒家がなくなり空地化したけど実際は土地を求める人が多いから家がまた建つらしい、つまり鹿島区では外に流出した人はそれほどない
鹿島区内を移っているならそうなる、それより小高とか他から移り家を建てた人もいるし今は浪江などの人たちが復興住宅に移っている
だから人口は減っていないだろう、むしろ多少は増えている

小高のばあちゃんは携帯電話を持っているのだが使いにくいとか台所でも電化しているので使いにくいと言っていた、それもわかる、年寄りは機械の操作が苦手になるのだ。
でも携帯などないと今の生活はできなくなる、それで自分の母親も九二歳で携帯を覚えたのである。もう一人の地元の人は九二歳の人だった、郵便局に勤めていたとか言うことがまだはっきりしている、頭の回転が早い、ただ今は九〇歳などざらにいる
その二人は十分に話できる、近くのことでも自分も老人だから話して通じていた
お互いに古いことを知っているからである。

いづれにしろ買物難民が意外とこれから深刻になる、街内に住んでいても近くに店がないすると手押し車で行くとなると例えスーパーがあっても遠いのである。
だからその人は小高にいたとき九人乗りのタクシーとか予約して買物などしていた
何かそういうものが明らかに必要になってくる、配達してくれるのもいいがそれではたりないからである。
これは全国的な問題である。老人が増えてくるからそうなる
都会ですら東京のようなところですら近くに買物する店がないのである。
高齢化社会というのはだからかえって昔のように近くに店があるのが暮らし安かったのである
結局度々書いているように車社会になった結果として近くに店がなくなりそれが高齢化社会になり不便なものとなって老人にしわ寄せがきている

買い物弱者から栄養事情の悪化

生鮮食料品店までの距離が500m以上 かつ自動車を持たない人を買物困難者としている。
(METI/経済産業省参照)

さらに75歳になると、多くの場合、体力がより低下し始める。団塊世代は、10年後、75歳以上となり、自ら運転できない人口が一気に増え、先に述べた行動範囲が狭くなってしまうのだ。

コンビニがその代わりになるとしても五〇〇メートル以内にはない、その付近にはコンビニはない、パンなど売っているところがあるにしても生鮮食料品となるとつまり野菜とか果物とか魚類がない、魚屋がなくなっているからだ
ここには一軒魚屋があるが遠いのである。
要するにこれも車社会の歪みが生れてこうなってきたのである。

何か高齢化社会でかえって重要になってくるのが近隣なのである
近隣に買物ができて用をたせれば暮らし安い、昔はそうなっていた
そして隣近所で助け合うとういこともあった
一人暮らしとかでも隣近所がみていてくれると助かるとかある
介護でも隣近所が少しでも気づかってくれるとかだと助かる
特に認知症の人のいる家族はそうである。何かと迷惑になるが近くで見ていてもらうと助かるとなる

結局高齢化社会で今までも車社会の構造がかえって不便なものとする、老人には生きにくいものとなる、それは車社会というのはもともと高度成長で若者向きの社会だからであるバイクでも何でも吹っ飛ばし快感を得るのは若者なのである。
それが老人になると全く違った感覚になる、歩いて行ける範囲が便利だといいとなる
第一手押し車なのだから500メートル範囲内でも遠いとなるからだ
自分は十年間介護したから老人を世話したからそういうことを身にもって感じていた
車社会は車をもっているものでもそれが使えなくなったとき社会的弱者に転落するのである。
だから老人に住みやすいとなるとき車を使う社会ではなく歩くと近くで暮らしやすいことなのである。それはまた昔は不便だというけど昔にもどるということにもなる
それは江戸時代のことを書いてきたがここでも同じなのある。

タグ:買物難民

原発事故と老子の教え (原発事故は文明崩壊の現象をもたらした)


原発事故と老子の教え


(原発事故は文明崩壊の現象をもたらした)


《老子・第六十四章》
「安定しているものは保持し易く、未だ兆(きざ)していないうちは対処し易い。物事は顕在化しないうちに処理し、乱れないうちに治めよ。

老子と原発事故が何か関係あるのかともなる

未だ兆(きざ)していないうちは対処し易い

病気とかでもそうだろう、必ず何か兆しがでてくる、その早い兆しを察して治療すれば軽くてすむ、でも病気が顕在化したときはすでに時遅しということになる
原発事故でも実際はいろいろな小さな不具合があった、ただそれが大きなものとして報道されなかっただけなのである、それは「安全神話」を作るほどの権力をもつものによってそうさけられていたのである。
何かあってもたいしたことがないでかたずけられていたのである。
「安全神話」になるほどだからそうなる
おそらく内部のものもその安全神話が宗教のようになっていたのかもしれない、外部でもそうである。日本人の技術は優秀だからチェルノブエリのようにはならないとか思っていたのである。原子力など自分などもむずかしいからそういうことが信じやすいのである。

物事は顕在化しないうちに処理し、乱れないうちに治めよ。

これは今の原発事故周辺を見ればわかる、もう乱れに乱れて収拾がつかなくなっている
廃炉でもそうだし避難区域の復興にしてもそうである。
補償金の対立もあったしいろいろな問題が噴出して顕在化したとき収拾がつかなくなっいるのだ
病気だったら顕在化してもう手遅れでありあとは死を宣告されるだけだとなる
ある意味で文明崩壊現象を見る感じになる
これだけの問題が顕在化したときこれを解決することがもう絶望的だとなる

そもそも老子は2000年前に今日を予言していたのである。
道具を使うなとかまで言っている、道具とは原発も道具である
その道具故にふりまわされて終始がつかなくなる

最善のものは水なり、無味を味わうというとき現代ほど様々なものを味わっている時代はない、貧乏人さえ昔から比べれば考えられないほどグルメなのである。
でもいろいろなジュースを飲んでもその元は水なのである。水が最善のものなのである。ジュース類は飽きるが水は飽きないからである。その水さえ飲めなくなったのがこの辺なのである。

馬酔木なす 栄えし君が 掘りし井の 石井の水は 飲めど飽かぬかも 

水は飽きることがないのである。だからある一面様々なジュース類を生産して飲んでいるがそれも実際は老子流に言えば無駄だとなる、無為がいいというとき無駄なことをしているのが文明なのである。文明の労働には膨大な無駄がある
そのジュース類を生産するために費やされる労働も膨大なのである

多く貯めれば貯めるほど失うものは多い

金持ちが安泰かというとそうでもない、その金の心配をいつもしていなければならない、金がなくなるということを常に恐れているのである。
多く持っていれば失うものも多くなるからである。何ももたなければ何も失うものがないというのも逆説である
何かこうした教えはキリスト教とか仏教とかの教えと共通しているのである。
それはすでにそれだけ文明化していたからその反発から生れたのが宗教だからである。
今だけが文明ではなくすでに2000年前にも文明化したためである。

いづれにしろ原発事故は文明崩壊の現象だったのである。バベルの塔の崩壊のように終始がつかない状態なのである。右往左往して何か解決策もなくふりまわされているだけだとなる、バベルの塔が崩壊してあちこちにその破片が散らばり未だ収拾がつかない

終始がつかなくなっている、それは神から天から下されたカルマだったともなる

そのカルマはプルトニウムが二万年消えないというカルマをここに残したのである。

小国寡民の理想郷というのもそうである。それは実は江戸時代に実現していたのである。隣の村とは境がありそれぞれが自給自足して交わらないのである。
だから隣の村が麦踏みに来た若い男は大蛇とされた伝説がこの辺に残っている
もしかして江戸時代が300年も平和を維持したのはそうした村が基本にあり争わない生活だったかもしれない、それが今になるとグローバル社会になったとき地球の裏側とも関係する、村の規模から地球規模になったのである。
そういうことでどうなったのか?明治以降は世界大戦があり膨大な人間が死んだのである小国寡民ならそんな戦争しなくても死ななくても良かったのである。
グローバル社会にもプラス面があっても大きな負の面がある。
それが歴史で証明されたからそれもすでに老子によって予言されていたのである。

小国寡民というときこれも現代的に解釈すれば一万くらいの町がある、小高とか鹿島とか新地とか結構全国的にある。すると町の単位は一万くらいが適正規模なのかとも思う。
この辺だと原町だと回ってみると知らない所があり大きいなと思う
鹿島駅からいろいろ考察したが一万くらいの町は身体的にも一体化できる
身体的感覚で一体化できる、これが4万5万の人口になると相当に規模が違って一体化できなくなる
老子の考えた小国寡民は日本の村くらいの規模なのである。
だから今の感覚では一万の町さえ大きいのである。

いづれにしろ2000年前に今日の状況は予言されていた、キリストであれシャカであれ老子であれ同時代に生れている、それが鉄の生産がはじまったときだというときそれが文明を作るものとなったからである。
木の鍬から鉄の鍬になったとき生産力が飛躍的に増大したからである。
老子が鉄の鍬使わないで木の鍬を使えといったことでもわかる
その道具や機械によって素朴なものが失われるからである。
車社会のことで自分が追求したようにである。
その時社会も大きく変わりそれに反発する思想家が生れたからである。
それより古いとなると聖書のバベルの塔でありまさにそれは文明崩壊なのである。
この辺で起きたことはそうした文明崩壊の現象なのである。
だからもうその混乱を書いてきたけどどうにもならないという状態になったのである。
内部でも補償金で対立したとか争い混乱状態が収束しないのである。

バベルの塔は崩壊した
人々は言葉も通ぜず争う
そして散り散りに民はなり
ばたばたとなおその破片が落ちてくる
その災禍は限りない
百年後もまだ落ち着くことがない
ばたばたとなおその破片は落ちてくる

これくらいの災禍なのが原発事故だったのである。



posted by 老鶯 at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連