2017年05月14日

文明は農業文明であり遊牧民から文明は起きていない 国々の風土にあった文化が作られる



文明は農業文明であり遊牧民から文明は起きていない


国々の風土にあった文化が作られる 



文明とは何かというとき狩猟とか牧畜と遊牧民からは生まれていない、遊牧民が都市国家を作ったというとき商業をもちこんだからだろう、貨幣も遊牧民の発明だろう。
貨幣は移動するものにとって欠かせないものであるからだ、羊の頭がcapでありcapitalism-資本主義に通じているというのもそうだろう。
羊は移動して売り買いもされるからである。
また遊牧民が貴金属を財産として持ちあるくというとき持ち運びしふすいからそうなる。それは貨幣と共通しているのである。
ただ遊牧民は文明を作ってはいない、都市とは商業都市であり貿易の仲介をする場であり市場から発展したということがある。

世界史をふりかえると中東とか中央アジアは現代の世界で発展から取り残された地域となっている、でもそこはもともとは先進国だった、科学でも化学が代数学が起きた
アーチの建築とかドームの建築もイスラムから持ち込まれた、イスラム圏は偶像崇拝を禁止して厳格だから抽象思考が発達したとなる
その時ヨーロッパは辺境であり遅れていた、経済的にも商業で栄えていたのは中東である今の5ドルとかでヨーロッパ人の女性が売り買いされていたとか今の逆だったのである。

中東でもエジプト文明を継承してはいない、エジプトにはアラブ民族が移動して支配したエジプト文明を継ぐものは何ももっていないのである。
例えばヨーロッパ文明の基がギリシャにあるというとき精神的な故郷としてギリシャを見る、でも精神としてもイスラムからも技術でも文化をとりいれているのである。
ルネサンスというときイスラム文化の影響があって成った面があった

中東には先進国だったという矜持がありそれで欧米に屈折した感情をもっている、それは中国が先進国であり日本はその中華文明の派生したものだと見るのと同じである。
本元は中国にあり日本にはないという矜持と同じである。
中東の移民というときそれは単純労働者の移動であり奴隷化されたように扱われる
そうした移民は隷属されたものでありそこに不満が起きてテロになる
中東にテロの発祥地になっているのはそうした文明の発展に乗り遅れたことが背景にある自分たちは欧米より優れた文明をもっていたのにという過去の歴史から不満が爆発する
移民はただ安い労働力としてみるだけだからである。

中東とか中央アジアとかモンゴルとか遊牧民は空間的に拡大する、でも文明は作っていない。文明とは何かというときそれはただ領土を拡大化することではない、一つの世界観を作ることでありシステムを創造することである。
そのために時間が積み重ねが必要になる、そして文明というとき農業があって文明が作られている、エジプト文明でもそうであり中国でもそうでありインドでもそうである
巨大な農業国家なのである。日本でも稲作文明であり農業を基盤にした文明である。
だからこそ持続したのである。マヤ文明とかもトウモロコシを生産した農業文明である。だから寿命が長い、千年とか普通に継続するのである。

そして農業文明は時間に関心をもつ、農産物を生産するのには時間がかかる、季節の移り変わりにも敏感になる、それで天文学も発達した、マヤ文明は非常に精巧な歴を作っていたというときもそうである。時間の感覚が優れていたのである。
遊牧民だと航海民と同じように方向が問題になる、移動するから方向が一番大事になりここでも星が目印となる、特に北極星が移動の目印となった
それでそれが中国に入り北辰信仰になり韓国を経由して日本に入ってきた。
相馬藩が妙見信仰になっているけどこれも北極星のことである。野馬追いお旗印にもなっている、遊牧民では砂漠であれ水がある場所を探すことが大事になる
それが生死を分けるから信仰までなる、方向を間違うと死ぬというリスクがある。

いづれにしろ文明を形成するのは農業があってできる。農業があってこそ国の基礎ができる、今でも中東が不安定なのは農業が充実していないからである。
遊牧民は飢餓状態になりやすい、それで農業国家の中国に侵略したのがモンゴルであり万里長城がそのためにできたのである。
またインドでも農民のモラビダ族とイスラムの遊牧民が融合してできたのがインド国家なのである。
そして大国として今も継続していのは農業国家として維持できる国である。、いくら工業化してもそうである。それはローマ帝国でもそうである。ローマ人は農民でありそれで建築も質実なのである。農民的要素が色濃い文明なのである。
マヤ文明もトウモロコシ栽培を基礎にしてできた農業文明である。

現代でも大国は農業国家という面を維持している、フランスでもドイツでもそうである、アメリカさえそうなのである。アメリカは農業国家なのである。広大な領土があるから農業国家なのである。そこに強みがある。
何か工業とか技術ばかりとりあげて農業が国を作っているということを看過する
工業でも農業を基盤にしてある、工業には継続性がない、常に変化して一時的には栄えても衰退する、日本の電器製品が売れなくなったことでもわかる

文明とは何かというときトータルなものとしてある。車が作れるから売れるから文明とはならない、自然と融合してトータルな総合的なものとして文明がある。
文明と文化はまた違う、ただ文明の基に文化がある。
文化とはcultivate-cultureだからである。つまり大地を耕すことがあって農業があって文化もありえる。
だから多国籍企業のグローバル経済は文化を作らない、国々の土地土地の文化を破壊するのである。
コカコーラとかハンバーグでもそうである。食はそもそも風土が違えばみんな違ってくるが一様化されるのである。日本は海の幸に恵まれていたから肉を食べないというのもそうである。そうして長い時間の中で人間の体も作られてきた、腸が長いというとき穀物を消化するには適しているが肉を消化するには適していない、欧米人は肉を消化する酵素を体から出すから肉食に向いている。体まで風土によって違って形成されてきたのである。
それを無視するとあらゆるところに問題が起きるのだ。
発は向いていなかったのである。その後の技術的な面でも森とか山が多い日本にソーラーパネルは向いていない、地震が多い地に原発は向いていなかったのである。
風土と技術の適合性も大事だったのである。それを無視すると今回の原発事故のようなとりかえしのつかないものになる
日本に日本に向いた技術の養成も必要なのである。

建築は人間の魂をもっとも良く表現する表現する芸術形式である。樹木と良くにているからである。それを違った土地に移植するといろいろ妙なことが起きてくる
えり抜きの植木屋の一隊を連れてきて念には念を入れて栽培しないことにはもとのものとはまるで違ったものになってしまう。
(芸術の歴史ーH.ブァン・ルーン)

芸術とかそれが建築でも何でもそうだけど風土と密接に関係してできたものである。
芸術というとき絵とかももともとは建築の中に飾られるものであり一体化したのが近代は分離した。絵だけを鑑賞するということはてかったのである。

聖堂であって同時に城郭であり、学校であり、美術館であり、音楽堂であり単に魂あでなくて人間を徹底的にbuildenする場所であそれを完成する一切の設備が完備している場所である。中世では一切芸術も文学も思想も個々以外には存在せず、ここ以外からは出現しなかったろう。(ヨーロッパ遍歴ー下村寅太郎) 

そこは単なる祈りの場だけではなく総合的な当時の社会を具現化した場だから絵と建築の分離もないし音楽もない、音楽もその聖堂がオルガンでも荘厳に反響する大ホールになっていたのである。その聖堂の外の市街もまたその延長上にあるから都市が一つの全体として機能していたのである。

芸術という分野はなく社会全体の中に構築された文明としてあった。
それはエジプト文明でもマヤ文明でもそうである。全部が一つの精神で形成されているのである。その中の部分を一つを取り出して鑑賞はできないし観ることもできないものである。現代ではそうして一部を分離して観るのは世界を部分的に観ることに通じているのだ
ゴシック建築とういときドイツなどの北方の森を象ったというときもそうである。
明らかに内部は深いドイツの森でありそこにステンドグラスがあり光がさしこんでくる
天上は枝のように組まれていて森の中に入ったような荘厳な雰囲気になる
そういうゴシックは北方のドイツにふさわしく南国のイタリアにはふさわしくないのである。だからイタリアではゴシック建築を拒否したことがわかる

人間は風土性にかなったものとして文化は耕される、cultivateされるからである。
それは技術の面でも言えた、日本に合わない技術はとりいれるべきではなかった。
原発とかソーラーパネルは日本の風土にあわないのである。
そういうことは他にもある、グローバル化はそういうことを無視して文化を破壊する傾向がある。国々に土地土地に自然にあって生育するものが文化なのである。

動的文明から静的文明へ (グローバル移動社会から定着文化の時代へ)


動的文明から静的文明へ


(グローバル移動社会から定着文化の時代へ)



世界史的にみても大航海時代とか外へ外へとヨーロッパでも向かった時代であった
それはアメリカでもアメリカ自体が大きいのだから東部から西部への移動はフロンティア精神を作り出した、つまり世界的拡張し外へ外へと向かう時代が今世紀のグローバル資本主義とかでも継続されてきたのである。

現代文明の特徴は交通の発達にある、交通の道具が車でも飛行機でも鉄道でも発達したことでもわかる、モータリゼーション、車社会というときまさに車によって社会が変わり車に適応するようにされた、それで通りの店はシャッター通りになった

原町だと陸前浜街道がありその筋道に宿場町が形成された、全国的にも街道沿いに町が形成された、その街並が今も残っている、それが鉄道ができたとき駅前通りが形成された
原町でも駅前通りがあれだけ長いことでもわかる
その鉄道の時代から車社会になったとき六号線沿いに街が拡大したのである。

現代文明が移動する文明だというとき交通の発達があったからである。明治は鉄道がその役割を果たしていた、その鉄道の発達が関所をなきものにして全国の人が自由に行き来するようになり日本人という意識が作られたというのもそうである。

それと同じように飛行機がさらに今度は世界を行き来するものとなりグローバル化社会になった、飛行機運賃も安くなり移動しやすくなったからである。
もともと交通が文明を作るというときローマ帝国が成ったのもローマ街道がはりめぐらされたからである。

狩猟、牧畜文明は移動であり結果的に商業を発達させるし商人になりやすい、その牧畜民、遊牧民が航海民になるというのもわかる、アルハベットがフェニキア人によって発明されたのも貿易のためにである。その文字も最近スペインからも発見されている
つまり英語もそのアルハベットの文字なのである。

二〇世紀は移動するグローバル化する社会だった、それで国と国が衝突して必然的に第一次世界大戦となり第二次世界大戦となった、グローバルに交流するとしてもその副作用として対立が激化したのである。今も移民などで対立が激化している
それでアメリカでもヨーロッパでもナショナリズムが国内回帰が起きてくる

でもトランプ大統領になってもラストベルトの製造業の労働者の困窮は解決していない、多国籍大企業がグローバル化しいと世界的競争に勝てないからである。
アメリカ国民を第一にしない、アメリカファーストにできない社会になっている
そこで労働者は以前として苦しんでいるのである。
どこでもそうだけどアメリカ国民というアイディンティティより多国籍企業の利益が優先される、そういう企業社会なことは世界共通なのである。

でも世界的にそうしこたグローバル化というのは行き詰まり資本主義も行き詰まり終焉を迎えるという論調になるときグローバル化に限界が生れたのである。
世界が投資を求めてグローバル化するというのは資本主義に向いていた。
でもそれも行き詰まると成長する国がなくなるとどうなるのか?
投資先がなくなる、成長が終わった国では投資先がなくなり日本のように成熟社会になる銀行でも投資先がなく貸す企業もなくただ金だけが蓄えられているのだ。

そうなるとどうなるのか?何に投資するのかとなる
それはもはや物ではない、精神面内面の充実を計る、それは物を売るとか物を買うというだけではない、文化面での充実になる、観光がなぜグローバル化で盛んになるのかというと中国人は最初は爆買いになったが次は日本の文化を知りたいとなるのとにている
物だけではない文化面の充実が求められる

つまり経済的にもそうだがそれと同時に人間は内部志向になる、それは外部拡張する遊牧民志向ではない、農業的志向であり内面の充実に向かう、それは植物的志向なのである。木のように大地に根を張り徐々に成長してゆく静的文明になる
今までは過剰なほどな動的文明だったのである。これからは静的文明の追求なのである。エジプト文明は静的な文明である。その象徴としてピラミッドがあった。
ピラミッドが動かないからである。それはまたヨーロッパの中世のような社会となる
閉鎖的ではあるが内部内面志向になるのである。

高齢化社会というときもそうして内部志向内面志向の時代として適しているのである。
そのことは自分が山とか樹とか石を詩にテーマにしたことで追求してきた。
老人になると外への志向より内部志向となり定着志向になるからだ。
物よりも精神的なものを望むのである。異常に退職すると生きがいをなくしてボラインティアをしたい生きがいを得たいというのもそのためである。

ある意味でそれは鎖国時代への回帰ともなるそれは世界的兆候である。
そこで日本なら国風文化の最高であり世界的にも自国の文化への回帰になる
動的な文明は過剰に移動する文明である。アメリカなどでは一カ所に定着して住まない、広い国だから常に移動して住んでいる、でもそのことにより精神的安定が得られない、
アイディンティティは一定の土地に定着しない限り深められないからだ

植物的志向の文明とは時間感覚が長いのである。江戸時代などの時間感覚になる
木が育つにも五〇年とかかかる、それを切って利用するのにそれだけかかるとなると一代だけでは成り立たない経済だから息の長い時間感覚が必要になる
そういう静的文明への回帰がこれからの時代なのである。
ここの人生でも長寿社会は息が長いのである。人生九〇年とかは普通になるというとき
何かをあせってやる必要もない社会になる
六〇くらいまではモラトリアムとか試行実験とかなる、そして華開くのは60以降とかなるのが普通になる、高齢化社会とは真に才能が華開く時代かもしれない
人間は才能を開発するにしても時間がかかりすぎるからである。
凡才でも自分のようなものでも時間をかけるとそれなりのものになるからである。
老人になるとあらゆることに理解力が鑑賞力とか洞察力とかが深まるのである。
だから高齢化社会の暗黒面ばかり注目されるがプラスの面としては個々の才能が開発されて華開く時代なのである。