2017年05月01日

南相馬市の古墳の謎(真野古墳群など) 古墳が墓ではない説


南相馬市の古墳の謎(真野古墳群など)

古墳が墓ではない説


なぜ寺内から小池に古墳が多いのか?そもそも古墳は何のか未だに不明である。
寺内から小池に密集して多いのである。
それが墓だとするとき違和感を覚える、むしろ墓があるところは生活拠点となった人が集まり住んだ所である。寺内の前方後円墳からせ金銅双魚はいが発見されたから有力な人がいて葬られた、その人は誰なのかとなるとわからないがその土地の有力者であり功績者だから手厚く葬られた

ただ古墳は造るのにその当時は容易ではなかったから全員で協同して作ったからそこに共同体があり協同の結果として一番の功績者をその土地に祭ったとする説
稲作には土木事業でありその開墾作業の中心人物が祭られたとかしたという建築関係の人が言っているのも面白い。
江戸時代でも開墾した人の名前を地名としている所が多いからそういうこともありうる

寺内となるとそこは古い場所である。真野明神がありそこにヤマト政権がかかわり真野郷が設置された中心だともなるからだ
だからこそ前方後円墳が作られた、その後館の地名があるから寺内という地名はその中世から由来しているかもしれない、なぜなら館があれば寺もあったかもしれないからだ

そもそもなぜ小池にあのように古墳が多いのだろうか?
前方後円墳は寺内にあるが後はないようだ、円墳が密集して作られている
円墳が個々に集まり作られたのはなぜかとまたなる
個々に小さな古墳は造れたが大きな古墳は造れなかった、原町区の桜井古墳はあれほど巨大なのと比べると一目瞭然である。
鹿島区にはあれだけの巨大な古墳を造る勢力がなかったとなる
現実に桜井古墳に二人が一緒に埋葬されたことがわかった、それは何を意味しているのか一人ではないということは二人の王がいたとなり一緒に埋葬されたともなる
奈良とかの大古墳でも天皇の古墳だとしても埋葬されているとしてもそれは証明されていない、つまり誰が埋葬されているかはっきりしないのである。

古墳が墓だとするのも何か不自然なのである。小池とか横手を見るとそこは今の感覚では墓にするにはふさわしくない場所である。
そこはどちらも人が生活する場としては適地であり墓にする場としては適地ではない
奥津城というのが万葉集では死者の埋葬された場所としている
それはそうして人か集まり生活した所から離れた奥の場所なのである。
墓(はか)とか塚(つか)は人が埋葬した標しがあったところである
奥津城(おくつき)は死者の埋葬地としては死語になった、その奥津城が古墳だというときそれも不可解なのである。古墳は人が集まる所にあるのが普通だからである。

祭司場」や「市場(マーケット)」として、人々のランドマーク的な造営物として造られた可能性があります。

桜井古墳はまさにこれである。新井田川に接して海にも近いからである。あの場所が原町区ではその時一番住みよい適地であり中心だったとなる
だからこそあそこに人が集まり住み巨大な古墳が作られたともなる
それだけの勢力があそこにあり作られたとなる

ではなぜ鹿島区では群集古墳になっているのか?まず寺内が古くそこから小池の奥に集落が分散した、古墳が密集している地域に集落ができたことは確かだろう。
それは墓とも違ったものとして見える

そして横手の群集古墳へ集落が拡散したのである。そこで稲作が行われたというとき寺内、小池は高台でありその下は真野川であり湿地帯が広がっているから稲作には適地ではなかった、横手は真野川からも離れていて海がその時迫っていたとしても横手ならまだ離れているから稲作ができたのかとなる、でもこの辺で古墳の回りに田んぼの跡などが発見されたのかともなる

横穴古墳.JPG

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塩崎の船着のすぐ近くまで津浪が来た、そこまで海だったことを証明した

横穴古墳


墓というとき横穴古墳がある、これは古墳とは異質なものとしての墓である。
むしろこっちの方が墓らしいとなる、古墳だと生活の中心にあるからだ
横穴にもそこに人が住んでいたのか?
鹿島区では烏崎から小島田の方への丘の連なりに発見されている
そのときそこは海であり海にそった崖に横穴があったとなる
烏崎の船着という地名はそれを証明しているそれは古代の地名でありそこまで船が来ていたという証となっている
現実に津浪はその近くまで来ていたのである。


横穴古墳が異質であり渡来系が関係していたとなると鹿島区の真野の草原(かやはら)という歌と関係しているのだろうか
つまり草原が萱原のことではなく渡来系が来た人たちが名付けた自分の地名説である。
草原が伽耶原になるのは何か確かに無理があるのだが地名だということはありうる
海側にあるということが寺内とか横手の古墳とは違ったものである。

いづれにしろ古墳が墓だとしても今の感覚の墓とは違っていることは確かである。

昔こそ外に見しか 我 妹子が 奥榔 思へ ぱ 愛しき佐保山(大伴家持)

この奥榔(おくつき)が最初に人が葬られた場所である。それが古墳だとは思えないのである。
そんな人が集まり住む所から離れたところに作られていないからである。
ただ一旦人がそうして奥津城でも山に葬られてその山が人間化してみるというのが人間の情としてありそうなった
荒寥とした山ではない、人間化した山でありそれは低山だとそうなりやすいのである。
里山という感覚である、それで葉山信仰だと祖先は春には山からおりて里におりてくる、その時はちょうど田植えの時期になる

つまり死者というのがそうして故郷に死んでも生きつづけるのである。それは農耕だとそういう感覚になる、死者はその里や村の中に自然のなかに生きつづける
死者がその故郷を見ているとかなるのは何か自然信仰にもなる
それは人間は死んでもその土地にありつづけるという感覚である。
それは故郷という土地があることによって成り立つものである。
土地と結びついた農耕民の感覚である。
ただそうして死者をその土地で時間の中で断絶させないということがその土地の継続の中に生きる歴史を生きるともなるのである。
今はそういう世界観はなく時間でも断絶しているからである。
この辺では避難区域に帰るのは老人が多いというとき老人はその土地に死んでその土地の土となりまた祖先となるという感覚である。
それが断たれたことが不幸だったのである。

ともかく古墳がなぜこんなに全国でも多いのか?未だに謎である。
高台にあるというときも海の近くにあるというときもそこはその当時は生活しやすい場所だったことは確かである。
名取の雷神山(らいじんやま)古墳も小池と立地がにた場所にある。
高台であり津浪でわかったように海も近くに迫っていた場所である
そこにも多くの古墳が発見されたのである。
それから遠見塚古墳というのは海の近くの平地にあるがあれは離れていても地理的には横手の古墳ともにているのである。
つまり古墳を見るにも地理が大事になるのである。遠見塚古墳までは津浪は来なかった
遠見というとき海の方を遠く見る場所としても古墳が作られたのかともなる
桜井古墳でも海が迫り海の遠くを見る機能があったのかともなる
桜井古墳だはあれだけ大きいし高いからその機能があっても不思議ではないとなる

真野古墳群




タグ:古墳の謎
posted by 老鶯 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

春の日の平和な風景 畑に孫と座る女


春の日の平和な風景


畑に孫と座る女

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建物は復興住宅

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川岸の家の近くに四十雀が来る

クリック拡大するとはっきり見える


春の日や畑に孫と座る女(ヒト)

鶯や手押し車に行く土手の道


なんでもない光景が平和である。孫と一緒にばあちゃんだろうか、座っている、その光景は何を意味しているのか?
次代を継ぐものとここで暮らしたものとの連続性を示している
一方で農業は金にならない、苦労ばかりだからやるなというときそこに世代のつながりが断たれる、そういうことは別にしてこの光景が何か平和を感じた
なんでもないことがこの辺では貴重なものとなった
ただあそこの畑の回りは荒地になっている、キジとかも前よりは多いし知っている人の畑も鳥に食われたとかなんとかある。
つまり農業とかは実際にしてみるのと何もしないで見ているのでは相当な差がある
労働でも外から見ているのと実際にしているのでは違う。

ただなぜその光景が平和を感じたかというこの辺ではそういう風景が一時失われたし避難区域になった所では今も失われたままである。
なぜなら若い人は流出して田畑は荒地になってしまったからである。
この辺も一時はそうなっていたのである。でも回復してこういう風景が見れるようになった、ただ前の半分くらいしか回復はしていない、やめた人も多いということである。

人間はやはり自然と溶け込むときそこに自然なもの平和を感じる、手押し車を押して川の土手の道をゆく老女を見るときもそうである。
それは自然の一風景となって自然にとけこむ、それが病院とかなると無機質な空間となり人間的でなくなる、だから都会などでも平和を感じない
自然がないから人工的空間だからなごむものがないのである。
ただ人は仕事に追われてせわしくしているだけだとなる
仕事しているにしてもそれが自然の中だったらこうした平和を感じる

ともかくこの辺ではなんでもないありふれた日常が奪われたのである。
それは別にありふれたことだから貴重なものとは思っていなかったのである。
老人と子供世代と孫は離ればなれになり分断された
だから避難区域ではこのうよな光景は見れないのである。

技術でも自然と調和したもの、水車とかなら良かったのかもしれない、ただそれはノスタルジックに回想するだけで電気なしの生活はありえないのが現代である。
ただ江戸時代の風景を見たら平和を感じるだろう
小川すら今は堀りになりなくっないるのも自然がそこで失われているからだ
不思議なのは車は自然の中にとけこまない、車を俳句にしたりすることはないのもそのためである。
車を風景の中に絵でも描かれているのはまれである。車は自然に適合したものではない
何か突然空間を引き裂くように車が突っ走るのである。それはバイクでも同じである。

何か自然に反するものがとどめなくあふれさせた、そこに制限があっても良かったともなる、車が必要でもそこに制限が必要だったともなる
車社会は社会そのものを変えてしまった、その影響があまりにも大きすぎたのである。
技術は明らかに何でも無制限に取り入れるものではなかったのである。
つまり技術は制限が必要なものでありそうしないと社会の調和も破壊されるのである。
それは原発でも同じだったのである。
技術だったら科学だったら何でもいいとなり取り入れることが危険だったのである。

そんな風に見ているものはまれだがそれが人間の感性の異常をもたらしているのかもしれない、キレル老人などというときそもそも車というものはとキレルものだからである。
車社会というときそのことが実は平和ではないということもある
電車は撮り鉄とかいるように自然の中で映えるのである。
車にはそういうことがないことでもそれがただメカになっているためだろう。

いづれにしろ何か人を見ても広い庭があるのにただ何も手入れもしなくて何もなくてもいいとか言う人がいる、小石でもまけば川の感じがでる、そういうこともしない、そこに風流心がない、女性でも花に興味がない人もいる、生け花もしていない
何か風流がないというときそれも人間として大きく欠けているのだ
それは別に田舎で暮らしていても風流と関係ない人は普通にいるし多い
だからとやかく言うことでもないが何か淋しいとなる