2017年05月18日

夏の日(abstract pictures-summer come)


夏の日(abstract pictures-summer come)

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about sunshine in the forest

抽象画でも具象画と切り離せない、森の太陽という題にしたけどこの抽象画をまず森となみないと鑑賞できないのである。
森をイメージしないと何なのかわからなくなる、これは森だと見るとき抽象画でも理解できるのである。

The abstract painting was made a title as the sun in the forest which can't be separated from a representational painting, but when there are no forests and regulars first, this abstract painting can't be appreciated.
When thinking this which doesn't know any more what it's is a forest, even an abstract painting can understand that a forest isn't imagined.

投資とは攻めかー貯金は守り 経験しないと投資の世界もわからない


投資とは攻めかー貯金は守り


経験しないと投資の世界もわからない


自分がしたのは株ではないし銀行経由の投資信託だから株の世界はわからない
本当はしたくなかった、ただ貯金は利子がつかないのでやむをえずすすめられした
今でも本当はしたくない、何か今は減る方の心配が大きいのである。
だから増えるより減らないようにしてくれとなる
実際に減ったことがありかなり損したからである。

でもそもそも投資というのは何なのか?投資と貯金は相当に違っている
投資とはそもそも株でも何でもその前に人間は何かに投資して生きている
例えば教育も投資だし何か物を買って利用するのも投資なのである。
ただそれがすぐ見返りとして金として返ってこないものもある

でも人間は何か投資して生きる、教育は将来の投資なのである。
それに見返りなくても投資して教育はある。
金を使うことは投資なのである。本が高いとなるがこれも投資である。
自分は何か本を読んでも理解できないことが多かった
ただ本を買っただけで本をためただけで何か読んだ感覚になり知性も伸ばせたという感覚になっていた。でも本は買っても内容を理解しない限り買った価値も得られないのであるだからいくら金があっても投資しても理解できなければ何もならないのだ

でも不思議なのはそのただ買って集めた本が今になって活きてきているというのも奇妙なのである。
自分がプログで文章を書くようになって今まで買った本を読み直して引用しているからである。本というのはそもそも今自分がしているように自分の文脈にとりいれたとき活きるのである。ただ一方的に読ませられても活きてこないのである。
こういうことは情報にもある、一方的にテレビでも情報でも見たり聞いたりしてもそれが自分のものとして理解しないとただ洗脳されるだけだとなる
だかち本を読むにしても情報を取り入れるにしても批評的に読めれば見れば効果的なる

まず投資というときそれはどこでも起きている、だって何をするにも投資ということがある。例えば農業に投資が関係ないようでも種を買って肥料を買って作物を育てるのも投資なのである。それが実りになるからどうかわからないからだ
それは投資してみて実際に試してみなければわからないのである。
何でも成功は約束されていないのである。農業にも天候の異変とか様々なリスクがあるからだ
だから何でもリスクを逃れられないのである。

でも何もしなかったら何か実りがあるのかとなったらないのである。
金だって使うとき使わないと腐れてゆく、宝の持ち腐れとなる
資本主義が株式会社が最初にオランダの東インド会社から起こったというとき
航海するために金を出しあってリスクを引き受けた、なぜなら船は遭難することがあるからだ、もし遭難したら収入はゼロになるし投資した金もゼロになるリスクがあるからだ
でも成功すればその見返りは大きいのである。株は今でもそういうことで変わりないものだと思った
もちろん今の株とか金融はシステム的にギャンブルであり欺瞞だというのもわかる
ただ投資というのが根本的に何なのかということを投資して考えたのである。

投資というときあらゆることに投資があるからだ、何かを発明するとか研究するとか新しいものを作り出すとあらゆることが投資なのである。
だから投資をやめたら人間社会は活動を停止してしまうことになる
金でも銀行に貯金していてもタンス預金していてもそれが安全とはならない
金の値段は貯金しようがタンス預金しようが変動しているからである。
人間はこの世を生きることはリスクをまねがれないということである。
そのリスクは今回のような津浪だとか原発事故とかでもそうである。
必ず事故はつきものでありリスクが人間社会にはある

人間がでもリスクを回避して安全を計ることばかりしていたら進歩もなかったろう。
常に投資してきてそれがリスクがあってもしてきたから進歩したとなる
大航海時代というときこれもアジアの白人の侵略だったということもあるが
新大陸を目指して航海したことは大きなリスクだった、だから投資というときヨーロッパから生れた攻めの態度だったとなる
農民は守りであり貿易とか外に冒険するのとは違う、ただ農業には農業のスピリットがありそれはまた別である。
投資のスピリットとフロンティア精神でもあり攻めの姿勢なのである。

ただスポーツでも攻めと守りがあり守らねばならないときは守る、それは忍耐に通じている、一方的に攻めということはない、攻めるために守ることも大事になる
男は攻めであり女は守りだもなる、でも経済に関しては守りというのはないのかもしれない、貯金していても高度成長時代のように利子が7パーセンとつけば貯金として守っていれば良かったのである。その時銀行でもいくらでも投資先がありもうけられたからそれだけの利子がついた、今は投資先がないから利子がつかない、それで投資信託とかにならざるをえない時世である。

ただ人間は守りだけになると結果的に守ることさえできず失うだけだともなる
守るとはスポーツなら攻められたら守りぬくが守ったら攻めに転ずるために守るのである結局サッカーのようにシュートをはずれても打つ、そのうち回数が増えればゴールになる確率が増える、シュートは投資である、でもはずれることがある
でもシュートしなければゴールになることもないのである。
そして守っていただけではゴールを得られないからどこかで攻めなければならない
投資は攻めであり人間には不可欠なものとしてある
ただそれが金融とかなるとその攻めが何なのか投資とは何なのか理解することはむずかしい、ただ人間は生きることは投資が欠かせないことは確かである。




posted by 老鶯 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

資本主義の精神とは何か (資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる)


資本主義の精神とは何か


資本主義の倫理は崩壊したから資本主義は終わる


自分の職業もまた神が選んでくれたものに違いない。これを天職または召命という。この考え方はプロテスタンティズム以前にはなかった。自分の仕事が天職であるならば怠けているわけにはいかない。働いて働きまくることが神様のみ心にそう方法。もともとキリスト教には労働こそが救済の手段であるという思想がある。働かざるもの食うべからずというのはキリスト教修道院の戒律だ。こんな思想は仏教にはない。仏教では働かなくても食ってよいし、それどころかインド仏教では経済活動を禁止し、お布施で暮らしていた。


今は社会主義国でも資本主義のなかに組み込まれ生きている、でも資本主義というとき何なのか?それがわかりにくいのだ。
だから何かを理解するのには何かと対比することである、比較することである。
人間はそもそも美と醜があるとき醜があるから美を理解する、善と悪でも悪があるから善を理解する、何かをうまいというとき味でもまずいものばかり食べていたら何がうまいかもわからない、歴史でも今を知るには昔にさかのぼり日本だったら江戸時代をみる
すると現代というのがどこが変わったのかそして昔あったもの失ったことをしる。

例えば車社会になるとこれがどれほど社会を変えててまったか驚くほどである。
なぜなら駅前はすたれシャッター通りなり人間は個々に車に閉じた生活をするようになった、車の影響は実は単に道具が変わった便利になっただけとかならない
人間の精神のありかたまで変えてしまったのである。
なぜこんな人間ばかりなのだと嘆くとき車社会になった人がその社会に適合してそうなったともなる、だから道具の影響は人間の精神まで変えるからただ便利だからいいとして
応用すると社会そのもの人間の精神そのもののまで変えてしまうのである。

メデアでも新聞からラジオからテレビからインターネットと変わる時、変化した、それは社会そのものまで変える、それはマスコミが世論を作ってきたと言われるようにである。世論も操作できるのだからどれだけたマスコミが力をもったかわかる
でもインターネットが出てきて今度はまた変わってくる
インターネットの不思議は個人がクローズアップされるメデアである。
対話的メデアである,マスコミのように一方通行ではない、基本的にman to manのメデアである。それはもともと個々人がメデアとなったときまた個々人が反応しやすいからそうなる
パソコン通信は必ずレスポンスが必要であるものとしてはじまったことでもわかる

資本主義でもそれがどうしてキリスト教から生れたのかとなると理解しにくい、確かにイスラム教や仏教からは生れていない、労働の倫理でもある。
そもそも宗教と資本主義が関係あるのかとなる
今の資本主義がどうしてキリスト教と関係あるのかとなる、隣人愛などと何の関係もない、自分の欲だけを限りなく追求するだけである。そこにはまず禁欲などないからだ。
禁欲があったら消費もないのである。欲望を無限に拡大して消費することがすすめられているのだ、そこにかつての素朴な倫理は皆無である。

結局逆に働かないで勤労しないで株でもうけたいとなる、一攫千金を得たいとなる
働かないで食べていきたということを今の資本主義から人々は目指すようになった
なぜなら今や金融の操作で働かないで莫大な富を得る、数パーセントの大金持ちが世界から富を吸い上げているとなる、それがなぜ隣人愛だとなる
それはまるで違った資本主義であり宗教とはもう何の関係もないのである。
もし修道院で働く人たちを見ていたらそれがキリスト教に由来して隣人愛の労働だと他者も理解したのである。労働が尊いと理解したのである。

株を金融を操作している一握りのものが世界の富を集めているといのうは悪魔的なのである。つまり資本主義はもうサタンによって操作されていてそこで陰にユダヤ人がいるとかロスチャイルドがなんとか陰謀論になってしまう世界である。
もう資本主義の精神とかモラル崩壊しているのである。
 現実に投資のことをボジティブな姿勢として見たが株式市場では素人は勝てないようになっている
数パーセンのものが株式市場で勝つように仕組みとしてなっているからギャンブルにしても勝てない
なんか銀行に手数料をとられ素人はプロに金を吸い上げられ得するのは数パーセントの大金持ちだとなってしまうのが
現代の株式市場なのである。


では社会主義がどうかとなると、社会主義の精神は何なのだとなる、これも資本主義を否定するものとしてマルクスが産み出したものである。
それが現実化したのがかつてのソビエト連邦とかであり北朝鮮であり中国もそうだった
でも社会主義というのは平等の精神なのか、ぬきでたものはいらない、みんなどんぐりの背比べでいいともなる
何かに新しいものに投資もしない、平等であればいいとなり福祉を充実させることだとなる、そして社会主義国で一番成りたい職業は官僚だとなる、役人だとなる
そこに一番富が集まるからその富の分配にあづかるのが役人だからである。
それで中国ではそうなった、そこにも大きな格差を産む社会になった
でも中国は資本主義も取り入れているからいろいろな試みが投資が行われている

資本主義がもう限界だというとき資本主義は常に投資して新たな富を作り出して分配する平等より差があってもいい、ただその差は何かに投資して新たな富を作りだすからこそ容認されていたのである。
その新たな富を産み出せなくなったとき資本主義が金融資本主義とかなりただギャンブル資本主義となり数パーセントのものに世界の金が富が吸収されるだけとなる
その時、こんな社会なら働くの馬鹿らしいとなり勤労や勤勉の精神がなくなったのであるそこにモラルの荒廃が生れたのである。つまり逆に資本主義が生れた宗教の勤勉を基にしてたモラルが失われたとき資本主義は成立しなくなった
なぜなら働くことが馬鹿らしい、誰のために働いているのだ、株で金融でもうけている人のために俺たちは働いている奴隷なのだとなってしまったからである。
今や富は極少数のものにサタンに吸い上げられているだけだとなる。
そこで常に陰謀論となっているのである。

そして機械化がすすむと人間は労働しなくてもいい、労働しなくても生きられるようになる、ベーシックインカムになる、まさに機械も人間が労働しないために推進される
自分の労働経験は流れ作業しかない、だからもう若いときから労働などしたくなくなったロボットとしての労働でしかなかった、その後労働を嫌いアウトサイダーになった
これも学校も嫌だったし集団組織になじめないということからそうなったこともある。
たまたまそういう境遇に恵まれたからできた、でも自分は学問とか芸術は好きなのであるだからその方面では勤勉に勉強して開発してきたのである。

いづれにしろ資本主義の精神は失われた、そのモラルは失われ荒廃している。
そういう面でも資本主義が崩壊してゆく、もう成り立たないのだ。
世界中で働きたくないということになる、こんな格差社会で働くの馬鹿らしいとなるからだ、悪魔的な世界の数パーセントに富が独占される、その他の人たちみんなその数パーセンの人たちの奴隷だなっていたらそうなる
もう働く動機がもちえない、働くとしても隣人愛のためとかではない、世界の富を独占する数パーセントのものために働く奴隷だとなっているからだ

事業をして失敗した人はそもそも何の理念もない、動機もない、ただ資格をもっていたから金持ち相手にもうけてやろう、そしてもともと自分は優秀だから社長になろうというくらいで事業を起こした、ここに何か社会のためになるとかの動機もなにもない、俺は優秀なんだ、だから社長になれるんだとしかないのである。
そして失敗したら今度は弱者を責めて借金を強要する、ここに隣人愛など微塵もないのである。ただ自分は頭がいいのだから優秀な人間としてみともらいたいから事業したとなるせめてみんなに上手い料理を食べさせて幸せな気分なってもらいたいとかあればいいがそうういものもない、金持ちは金をもっているからそいつらを相手にすれば金になるだろうしかないのである。
こういう人はそもそも何のために働くの生きるのかもわからないだろう。

ただ以前として働くことには意義がある、それが医者とか看護師とか介護士などがそうである。それは相手が弱者だから愛も必要としているからである。
そうした愛を必要としていると直接接するからわかりやすいのである。
ただ現実は医者でも看護師でも弱者を相手にして優位にたつ商売だとも反面なっている
ただその労働は隣人愛に本当は一番通じやすいものとなっているのは確かである。
何か商品を作る売るにしてもそれが人助けになってもそれに感謝する人はいない
金を払えばいいじゃないかだけである。

だから駅で道案内して行きと帰りに二回もありがとうと言われたのは意外だった
ありがとうというときそれは隣人愛に通じていたとも大げさになるが言える
ただそこに金が介在すると当然でありむしろ金払っているのになんとかだとクレームがくるのである。
ともかく今や労働の倫理はモラルは崩壊している、もうだから働くより人に使われるより働かない方がいいとなる
働くのは金だけが動機でありそしてもう働くより金ある所から人から盗めばいいとなる
そういう気持ちになっていることがもう労働のモラルは崩壊しているのである。
勤勉に働く必要などない、もうけた奴は悪い奴だから盗まれても当然なのだ
巨万の富をたくわえたものは俺たちの労働を盗んだものだと思っているしそれも事実だからである。巨万の富だけではない金持ちに対してはみんなそう思っているからである。
そういう意識が蔓延している、現実に自分はそれで大金を失った。
だから今は人間に働かせるより機械に働かせる方がいいともなる
人間はもう働きたくないからだ、そして家事は実際機械や買ったものでまにあせられる
人間は働く必要がないのである


posted by 老鶯 at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年05月19日

シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない) (街作りのテーマ)


シャガの花(鹿島区でも通りは発展しない)

(街作りのテーマ)

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この通りを歩いている人はほとんどいない

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こっちの薬屋は今は行っていない,近くのツルハに行っているからだ


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ここは新しくできたアパートである。

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草原の夕べ明るし夏雲雀


新しき家やはやも草伸びてシャガの花咲くこの通りかな

木陰の道を我が行き来しシャガの花新しき家に咲きて暮れにき

夕日さしシャガの花咲き庭に石新住宅街や街の変わりぬ

色濃くも菖蒲の咲きし通りかな人行くまれに我が今日も行く


なんか前からそうだったけど街でもその回りでも自転車で回っている、まず駅に行きそこで案内したりする、鹿島にボート工場があったの?東京から本社から来る人を迎えに来ていた。他の会社でも駅に迎える来る
それからキクチスーパとシシドスーパーとツルハをドラッグストアを回る

外食は今度は小池のコモドインにしている、距離的に原町になると遠いがあそこは町内だからいい、そしてそこは町から離れているので気分転換になる
外食がうまいものを食べるということもあるが気分転換の効果もある
だから本当はながめのいい郊外とかがいいのである。
街内だとそれがない、それでも仙台辺りは並木があり緑がある
でも最近はまた仙台にも行かない
なんか遠くに行く気力がなくなった

深野のユッサもいいが距離的に遠い、自転車だと遠くなる、最近疲れやすくなるから行きたくなくなる、鹿島で暮らして問題なのは外食する場が限られていることである。
仮設ではもう一軒しかないがメニューが限られている
それでコモドインは日替わりがあるからいい、駅にいると食事したいという人がいて
駅前の鈴木食堂による人がいる、あれを考えると昔は駅前は人の出入りが多かったから駅前で商売になることが多かったろう。
ただ仙台を往来する人が三倍に増えたということはいいことである。

鹿島は前に街作りとして新しい通りを作った
川沿いだがあそこは通りとしては新しいし気持ちいい場である。
木蓮が咲いたり通りに花を咲かせている、川が近くだし自然景観もいい、駅前から昔の旧道は自然景観は良くないからだ

ただその新しい通りがほとんど活かさていない、店がほとんどない、それはどこでも同じである。だから歩いている人はめったにいない、ただ車が通りすぎるだけである。
だから何か淋しいという感じがする、でも通りを花で飾っているのである。
スーパーとかにないものは通りには自然が活きていたり通りを歩く楽しみとかある
それがあれば楽しいとなる、前は喫茶店があったみたいだがやめた

結局街というのはある程度の人口がないと何をしてもうまくいかないだろう。
人口一万では発展しない、少なくても二万あればそれなりの街になるかもしれない。
ただ鹿島区は新しい住宅街ができた、だから人口は減っていないが高齢化もあり活気があるとはいえない、これはどこでも同じだがやはり一万の人口の限界現象がある
だから新しい通りを作っても活かせないのである。

ただ鹿島区は何か都会化したと感じるのは新しい家が増えたためである。
その家の数が多いからである。小池辺りでも増えたしあの辺は田んぼだったが住宅地になった。そこにコモドインなどの復興関係のホテルなどができたから都会化した

基本的に街が死んでいる通りが死んでいるというときそれはシャッター通りになっているというとき車社会になったからでありそれをあからさまに批判している本がでていた
「成熟社会」とかの本である。
今思潮として高齢化した結果、昔のような近隣関係とかコミニュティとかの回復を言う人が増えてきた、それを破壊した一番の原因が車社会になったことだからである。
ただ車をもたないとか車社会を批判すること、それが社会の歪みをもたらしたことはあまり言わない、それは原発に反対できないのと同じだった
車社会に反対するというとき車をなくせということではない、何らか制限が必要だということである。

だから交通にしてもバスとか何かそれに変わるものが必要である。駅にいるとそこからの足がないからだ、だから車で迎えに来る人が多い。
都会でかえって車なしで生活できる、鉄道網がありかえって効率的になる
田舎は広いから車なしでは住めない、ただ街内に住んでいればなんとか住める

人間が住みやすい場所は必ずしも田舎ではない、田舎的ものと都会的なものが調和した場所なのである。田園といってもそこに都会的なものがある場所である。
だから鹿島に欠けているのは外食するレストランなどがないことで一人暮らしは困る

いづれにしろ奇妙なのはシャガの花となると何か山の中の人気のない所に咲くものだと見ていた、そういう感じの花である。それが新しい通りというか住宅街に咲いている
そしてすでに草が伸びてそこに咲いている
このことが何かこの辺の変化を現している、都会的なものと田舎的な幽邃なものがあるとなる、あまりにも都会化した場所にはシャガの花はにあわないからだ

雲雀というとき草雲雀とかあり草原ににあっていた、田んぼより草原ににあうのが雲雀だったのてある。この辺は海側がまだ草原なのである。
この風景も前から不思議だった、草原とういモンゴルになるからだ
モンゴルの風景が一部ここに再現されている不思議である。
ただあとはソーラーパネルになっている、でもあそこだとソーラーパネルはそれほど目立たない、飯館村は森の国でありその山に森を削ってソーラーパネルにすると目立つのである。景観が破壊されるのである。

ともかく津浪や原発事故以降景観までこんなに変わることの驚きである。
それで新しい経験をしているということもある
今日あたりも快晴だけど暑いし日ざしが強いと最近疲れる、紫外線は体に良くない
そういう点で老いを感じる、おそらくなぜ昔を回復しようとする思潮が出てきたかというと高齢化社会は歩く生活とか近接社会とかそうした昔のスロー社会とかに向いているからである。若いときは高度成長とか大都会が向いている、高齢化社会にはそうしたかえって活気あるものと見えたものがあわなくなっているからである
ただやはり人間的活気も必要でありそれが通りにないからもったないと感じるのである。

今日の鹿島駅 (原町の人と石巻の娘ところに行く人の話)


今日の鹿島駅


(原町の人と石巻の娘 のところに行く人の話)

三〇キロ圏内で区切ったのは補償金をその他に払いたくない政府の都合だった

今日は結構人の出入りがあった、ちょうど電車が来た時、小池の人が来た、電車は走り出していた、電車は走ったら止まらない、その後は一時間後になった
例の盲目の人が来て案内した、飯館村の蕨平の人も親戚の人が死んで来ていた
その石巻の娘の所に行く女性は石巻に嫁にやった人だった
石巻の娘は困っているので良く行くという,その人も電車のことがわからなくなっている人だった、時間をまちがえて遅れた
娘の夫は一番被害のあた日和山の前の工場で働いたとういう、何でも自転車で逃げて助かったとか言っていた、あの時車だったら渋滞してかえって危険だったとなる
日和山の前は家が本当に多いから被害が大きくなった

そして新しく建てた家が被害にあったという、何かこの新しく家を建てたのに津浪の被害にあったということは良く聞く
他人の家でもあそこでは新しい家を建てたのに被害にあったという
知っている小高の人もそうだった、塚原の人で新しく建てた家であり借金があった
それが津浪で被害にあい帰らないという、ただ小高の人はまだ補償金がもらえたから救われているともなる
海老の人が意気消沈していたのは原発補償金をもらったとしても少ない、宮城県などでも石巻などでも一億円とかもらったのは
極一部の人だろう、ただ何らかの補償が国から出た、一軒五〇〇万円は支給されたみたいだ
津浪の土地は海老でも国で買い上げたが安いと海老の人は言っていた。

それと川がありその川をさかのぼったら被害が大きくなったという
あの川は大きいから確かに津浪だと川をまずさかのぼるから被害になる
この辺でも真野川でも自分のすぐ近くまで川から津浪がおしよせて上ってきていたのである。その時みんな騒いでいたがあとかたづつに追われてわからなかった
物が落ちて散乱していたからだ
石巻は一番被害が大きく死者も多く一年前とか行ったが店も閉まっているのが多いし流出した人口も多いから復興するのも容易ではない
ともかくつくづく津浪の被害は広範囲なのである。何かしら東北では影響を受けているとなる

次に来たの原町の人だった、一人は若く中通りに住んでいるという、小高でも鹿島でも様子を見にきた、その人は津浪や原発事故の時は原町に住んでいた

「小池などは放射線量が高いから補償金高くもらってもいいはずだ」
「でもさ、国で三〇キロ圏で区切ったのはなぜかわかるか」
「理由があるの」
「福島市でも郡山で放射線量はこの辺より高いんだよ、放射線量を基準にしたら福島市や郡山市にも払わなければならなくなる、するととても払いきれなくなる」
「確かにそうだな、三〇キロで区切る必要などなかった、距離と関係なく風の流れて放射線量は影響された、小高でも浪江ですら海側は低いんだよ、相馬市だってこの辺と変わりないよ」
「小池とか山側が放射線量が高い、でもそういうことで補償金払っていたら郡山市とか福島市るで国では払うことになる」
「そういうことだったのか」

そういう理由で30キロ圏で区切ってその内は補償するとうことに決めたのか?
何がしかの科学的根拠もあると思ったがないとすると小高はそもそも避難区域にする必要などなかった、ただ国の政策で三〇キロ圏内にしたとなる
小高が避難区域にされたのは科学的根拠もなにもない、ただ政府の都合で補償金を福島市とか郡山市に払いたくないからそうしたのかとなる
確かに三〇キロで区切ればと政府にとってそれがわかりやすいからであり都合がいいからだとなる、それは住民とはなんら関係なかったことなのである。

南相馬市内でも良く放射線量のことをいう、小池の人も高いというし実際に田んぼを作らないのが多い。放射線量たと南相馬市内でも山側は大原とかは高いから避難区域になって仮設に住んだ人たちがいる
そういう人たちは補償金も高くもらっていた

「俺が住んでいる所は放射線量が高いんだよ、だからもらって当然だよ」
「そうなるとさ、福島市や郡山市はこの辺の海側より高いんだぜ、そうなると国では払いきれなくなる、だから三〇キロ圏内を基準にして払ったんだよ」
「それもそうだな、海側だと0.3以下だから放射線量を基準にしたらもらえない地域だよ
そうしたらまた不満がそこに起きる」
「もしさ、そこに住んでいる家で放射線量を正確に計って補償金を支払っていたらどうなるのか、それで公平になるのか」
「これもならんだろう」
「なぜならこの辺では真野ダムがあったらその水を飲んでもいるし利用するからその影響があるからだ、自分もペットボトルの水を未だに利用しているからな」
「やはり補償金はそうしたスポットスポットの点で放射線量を計ってそれで補償することになじまないんだよ、大地でも川でも山でも空でもみんなつながっているから放射線の影響を受けるからな」

飯館村は高いから例外として後は払わないことにしたというのもわかりやすい
原町でいくらもらったかと聞いても答えない、何かそれがわからないのである。
避難した人はもらったというけど鹿島でも半分は避難したからである。
ただ明らかに三〇キロで区切ったのだからその圏内は確実に補償金を高くもらったのである。
それから二本松とか福島市で耳にしたことではやはり避難した仮設の人がぜいたくして補償金で遊んでいることに不満な人がいるという、やはりそのことはここでも同じだからあった


こうして直接話してみると何か情報はいろいろありわかってくるものがある。
原町の人とあんまり補償金のことは話しない、ただ合併したけど原町中心に予算が組まれて使われたということは確かである。
合併してももともと原町が人口が鹿島と小高を合わせたより多かったのだから当然そうなる、原町が予算を一人じめするということにもなったのである。
そのことは前から言われていた、鹿島では原町に金をくれてやったんだとかとられたんだとか言う人がいた、実際そうだったのである。
だから飯館村は合併しなくて村独自で交渉したから今回は得したとなるのだ

ともかく駅にはいろいろな人が実際交わる場だった、あの人は車で来たが駅に立ち寄って様子を見に来たのである。小高の駅も見に来たがトイレが良くないとかいっていた
鹿島の駅にいると良くトイレを車で来た人も使っている、トイレのために立ち寄っているのである。、鹿島にはそういう場がないからかもしれない、駅はこうして電車を利用する人だけが来る場所でもないのである。
だから駐車場が狭いから広くすれば活性化されることは確かなのである。




●小池の母親が津浪の被害にあった嫁いだ娘のいる石巻に行く

●原町の人が鹿島を見に来る

●中国人が三人駅より帰る


これもニュースである。中国人が三人駅から帰ったのはこの辺では外国人労働者がいる
ベトナム人がいたしネパール人もいた、中国人はやはり一番多いだろう
ただ今は中国人よりベトナムやネパール人が統計では増えている
駅は全国的であり国際的であり地元でもある
これは震災以後にこうなった、だから仙台を行き来する人が三倍増えたのである。

中国人でもやはりありがとうとか言葉を覚えて切符代わりの証明書のことを教えるとそういう、それが印象を良くする、やはりこうして言葉を覚えることは効果がある
ありがという、この言葉外国で一言覚えるだけでかなり効果がある
自分はそういう点だめだった、ただこの中国人は旅行者ではない、日本人に混じって長い間働いた結果覚えたのである。
なにか英語ではない、外国語となると一言でも覚えるのが容易ではない
特に中国語は発音がわからないのでしゃべっているのが皆目わからない
それで漢字を書いたり英語でコミニケーションを計るのである。
英語だと単語を一言でも知っているからいいのである。






















2017年05月20日

なぜ原発事故は三〇キロ圏内で区切られたのか? (科学的、経済的、政治的理由があった)


なぜ原発事故は三〇キロ圏内で区切られたのか?


科学的、経済的、政治的理由があった



●科学的理由

●経済的理由

●政治的理由


今回の原発事故ではこの三つが関係していた、だから科学的なものを原子力とか核を知らないとなかなか追求できないものだった、その壁が大きいから素人は立ち入れることができなくなった、お前は原子力のことがわかるのかとなれば自分は科学に弱いからお手上げになる。
それで専門家集団に牛耳られたでしまったのである。

例えば科学的理由というとき原発自体がそもそもが科学者の集まりで作られたから科学的理由を追求する集団だった、だから本当はそうして合理的科学的に原発を建設するべきだった、ところがそこに経済的理由とか政治的理由があってできなかった
経済的圧力と政治的圧力があり科学的合理的にすることができなかった

もともと高い所に原発を建てたのにそれをわざわざ削って低くして電源の近いところに建てたのは経済的理由である。それだと安上がりになるからである。
会社だったらそうして利潤追求だからなるべく安く仕上げようとするからだ。
そこで安全よりはコストをおさえる方にした、それで清水社長はコストカッターとしてのしあがったというときもそうである。
コストをかけないで作り運営して利潤をあげるのが会社だからである。

そして経済的理由というときなぜ三〇キロ圏内で区切って避難させて補償金を支払ったのか?それは科学的理由があってそうしたのではない、経済的理由だったのである。
なぜなら福島市や郡山市の方が浜通りの海岸沿いより放射線量が高い、すると科学的には放射線量が高い所に補償金を支払わなければならない、それが福島市とか郡山市とかなると人口が多いからできないから三〇キロ圏内で区切って支払うことに政府で決めたからそうなった。
それは科学的理由で決められたのではなかった。経済的理由だったのである。

何かこの三つはあらゆることにからんでくる。北朝鮮のミサイルにしてもそこには科学的なものと経済的なものと政治的なものがからんでいる
原発も政治的理由としてはアメリカが大きな力をもっていて影響した、日本に原発を最初に売ったのもそうである、それは古い型のものであり危険だった、アメリカにしてみればそれでもうける経済的理由があったとなる
それから政治的理由としてはアメリカの核戦略がありそれはフランスとかとも協力して成されるものだから日本はその一翼をになわされたともなる
そういう世界政治とも関係して原発は日本に作られたのである。

ともかくもし科学的理由だけを追求して原発でも建てられれば問題なかった
何かそこに原発は経済的理由と政治的理由があり作られた、それによってゆがめられたともなる
科学は悪いものではない、技術が悪いものではない、ただ核兵器とかなると悪く利用されるのである。
科学は純粋に科学ではありえない、そこに経済的理由、政治的が介入してゆがめられるのである。科学者に戦争の意図がないとしてもそれが政治によって戦争に利用される
経済的理由で軍需企業が戦争をしかけるとかともなる、それは経済的理由なのである。
薬などにしても世界的会社が病気がなくなったら困るからガンを直さないんだとかとも言われる、病気がなくなる、病気がへる、ガンがなくなるとしたら薬会社はつぶれるからだ薬はルネサンスの起きたフィレンツのメディチ家が医者や薬の販売で財を築いたというときもともとそれがもうかるものだったからである。薬を売ることは今でもそうだが利益が大きいからである。薬九層倍とはそのことである。

認知症になったから家族をみてもらったが脳の写真をレントゲンでとっても実際は何もわからないものだった
第一脳の写真を詳細にとれるのは福島県には二台くらいしかない、それより脳の写真映像をみてもわからないのが今の認知症の治療の現実なのである。それで三万かかったとすると保険がきいているから五倍くらいの収入が病院に入っている
それは何ら効果のないものでもそうなっていたのてある、医療には膨大な無駄金が使われている
保険から支払われることはまた自分だけではない、国民全員がそうした無駄な金を医療では使われているのである。

何かわからないにてもガンとは実際直せるんだという人がいる、また癌を尿から簡単に発見する技術も開発されたとかある、そういうふうに癌が簡単に見つけられ金もかからないとしたら医療関係者はもうからなくなるから経済的に苦しくなるし会社も倒産しかねないのである。
科学的に病気を治すことを追求するの科学者の役目である、一方で経済的理由でそうなると困るということが起きる、すると癌は直らない方がいいとまでなる
ただ癌を直るとしても馬鹿高い薬の値段にする、そこで科学的に純粋に何でも追求できないのである。そこに経済的理由や政治的理由でできなくなる

科学的合理的に追求すれば三〇キロ圏内で区切る必要がなかった、避難させることもなかった、そのためにこの辺では混乱させられたからである。
それは科学的理由ではない、経済的政治的理由だったのである。
それでこの辺は小高が避難させられて荒廃させられたし補償金で南相馬市は分断されたのである。それは政治的科学的理由のためだったのである。
それはとりかえしのつかないことになったのである。
もう小高は元のように回復できなくなったからである。
そうさせたのは政治的理由と経済的理由であり科学的理由ではなかったのである。

科学的理由というか真理というかそういうものを人類は一方で追求してきた
それは政治的なものと経済的なものと関係はない、地球が太陽の回りを回る地動説は
科学的真理である。それを主張したらカトリック教団からガリレオは批判されて否定された、その時天動説が宗教から定説とされていたからである。
それでそれは神の信仰に反するものだとまでされたのである。
その時宗教というのは政治でもあり権力をもっているから否定されたのである。
宗教的理由というのも歴史的には大きな力をもっていたのである。
宗教というのも何かというとき、それも一つの真理である、不変的真理である。
それは心の内面の問題であり神の実在を信じるものであり政治的なものと経済的なものとは違ったものである。

でも宗教でも政治的理由とか経済的理由がかかわってくる、まずこの二つの圧力が大きいからこれから脱することはできない、それで幸福の科学とかあってもそれはなになのか?
政治的経済的な圧力から離れることはできない,カルト宗教団体はすべて政治的経済的なものと一体化するからカルトなのである。それを如実に示しているのか創価である。
政治経済と完全に一体化しているからである。
日本の戦争にしても天皇教となり宗教と一体化した、でもそれは政治的圧力でそうなったともなる、だから政治、経済、科学、宗教・・・これらは離れられない一体のものとしてこの世にはある。
結果的に今回のように政治経済的圧力がありゆがめらた結果となり甚大な被害を受けたのである。戦争だって現代では宗教と政治と経済と科学が一体となって起されるものである実際に歴史的そうして戦争があった。戦争するにしても勝ちを神仏に祈っているからである。宗教と戦争は一体化していたのである。十字軍もイスラムがその時先進国だから富を奪うためであったとされる、宗教的理由の背後に経済的理由があったとなる
そういうことは人間の歴史をふりかえればいくらでもあるとなる














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(都忘れ)街中の空家の不思議 (空家でもまだ人が住んでいることを偲べる)


 (都忘れ)街中の空家の不思議


空家でもまだ人が住んでいることを偲べる

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木漏れ日に蟻の歩める暑さかな

一畝をうない終わるや暑さかな

車輪梅の垣根や路次の家暮れぬ



鉄線の空家に咲くや路次裏の今日もこの道行きにけるかな

玄関に一本の松残りつつ都忘れの名残に咲きぬ

玄関に一本の松ここにしも暮らしのありし路地裏の暮る

車輪梅の垣根を作りここに住む人のなしかも花は咲けども

雨戸しめそのままなれや空家かな昔住みにし人をしのびぬ

路地裏の道に明るし夏の花咲きしもここを行く人のまれ

夕暮れや空家の庭に紫と白の菖蒲の咲くやいつまた来なむ

いくつかの石の並びつ淋しかな空家の庭や今日も通りぬ

庭の石位置は変わらずここに住む主を待ちぬ久しかりけり



この空家の不思議は何か?古い小さい家だけど狭い庭だけど良く作られている、ジャングルのように木とか葉でおおわれている、そこに花が咲いている、鉄線の花だった
垣根は車輪梅で作っている、車輪梅はこの辺では南限の地に咲くとして海老浜で有名だった、この辺では車輪梅は良くみかけるのである。

玄関に一本の松がありそこを出入りしていたのである。客も迎えたのである。
この空家の不思議は庭が良く作られている、狭いけど庭が丹念に作られている
花もうまくあしらい咲いている,樹々の葉がまるでジャングルのようにおおっている
これは狭い庭だからかえってできたことである。

この家には誰が住んだのか?ここにも生活があったのである。
ただ近くの人はこの同じ町内に新しく家を建てて移ったのだという。
でもこの空家は本当に空家らしい空家なのである。

もう一つの空家は家は古くなっていない空家には全然見えない、実際にその家は時々持ち主が帰ってきてみているのである。
そこに紫と白の菖蒲が咲いている、それをみているのは自分である。

毎日こうして街内を行ったり来たりしている、すると空家でもここには誰が住んだのだろうかと思うようになる、やはり人間は住んでいればどんな場所でも一体化するのである。空家でもやはり人が住まなくても以前としてそこに人が住んだとしてその家と庭からまた人を思ったりするのである。

つまり空家になっても更地にならない限りなにかしら人の住んだとものとして跡をとどめている。だから取り壊されない限り幽霊屋敷のようになっても家があれば以前としてそこに住んだ人を思うのである。

そしてもう一軒の空家は一〇年とか二〇年とか空家になっていたかもしれない、でもやはり時々帰ってきている、それもなぜだろうとなる。
そこには淋しく石が昔のままに置かれて家族が帰るのを待っているのである。
石も人間化しているのである。だからその石は自然にある石とは違うのである。

空家というとき避難区域になったところは空家だらけである。
そして空家が全国で八〇〇万軒になっているとか異常な事態でもある
だからどこでも空家が目立つ、避難区域はそもそも空家の街となってしまったからである。
空家でもいろいろあるがこの空家は庭がいいしここに住んだ人が風流人とかでもなくても何か庭を自然を愛した人かもしれない、花を愛した人かもしれないとなる
この家も壊されればここに住んだという記憶が失われるのである。

避難区域で空家だらけだけどその空家は前に住んでいた人を待っているのである
家もそうだが庭もそうである。時々帰ってくる人があれば完全な空家ではないのである。ただ人が帰るのを待っている一時的に空にした家だとなる

ともかく狭いところでも日常的に行き来していると一体化してゆく
だから年取ってからはあちらこちら旅するというよりこうして一定の場所にいて観察した方がいい、遠くでも一週間とか住んでいるのがいい、するとその土地のこともわかってくるのである。

女性が畑を耕していた、夕方でも今日は暑い、そういう姿をみていると食べ物でも貴重だと思うのである。苦労して作っているんだなと見るからである。
でも機械で自動的に野菜でも何でもとれたらありがたみがなくなってくるのである。
誰も機械には感謝しないからである。
ともかく今日は暑くて外に出れなかった、何か暑さに弱くなっている
疲れやすくなっている、だから今日は一回しか外に出なかった



2017年05月21日

文明で抽象化された人間 (文明は数えることからはじまった)


文明で抽象化された人間


(文明は数えることからはじまった)


文明は何かというときこれせ定義もできない、ただ文明の起こりが数の計算から起きてきた。穀物でもエジフトでも計るときその時数を計算するもの必要になった。
それで書記が重用されて高い地位についた、それは官僚でもあった
数の計算は物でも数としてみるとき人間も必然的に物として数として見るようになる
つまり人間一人は一個という数に抽象化されるのである。
人間一人といってもそこにはいろいろな属性があり一人一人違ったものである。
顔も体つきも生い立ちもいろいろ違っていて個性がある。
しかしその個性は無視されるのでてある。
政治的にも数が権力だとなるとき数を集めることが権力をもつことになる
それで一票として人間は数えられる、どんな人でも一票には変わりないのである。
それ自体は平等になるがただ数だけがもの言う世界になる

だからシュヘングラーが数から数学的思考からはじまり文明の崩壊を説いたのも納得できる、文明は現代文明だけではない、そのはじまりから数と密接に結びついていたのであるそれが高度な数学になったが最初はただ数えるということからはじまっていた
数えることが文明のはじまりだったのてある。
人間一人でも様々なことを現している、でも経済的人口的単位になれば一つとしか数えられないのである。政治的単位でも一票としか数えられない、それ以外にその人を示すものはないのである。

そして経済というときグローバル化経済になるとますます世界が常に数として計算される金融の世界になるとただ毎日株価が上がった下がったというけどそれも数として現される数字が変動する、それが経済だとなる、そこに何か文明が最初から数を数えることから始まったように抽象化した世界である。
それは放射線量を計る時も同じである。全く数値としてしか放射線量は計れないからである。目に見えないものであり数値だけでしかわからないからである。
現代の経済も具体的に目に見えるものとしてやりとりされないからである。
ただ数値だけを追っていることが多いのである。
銀行員とかはそうである。毎日具体的な物を扱っているより数値を追っている
だから抽象的なものとなる、そもそも貨幣とかもこの数えることから生まれたのかもしれない、貨幣はやはり物を人間を数としてみる、そういう道具として便利だから生まれた
貨幣はだから抽象的なものへの転化なのである。それは数としてはじまった文明と同じである。

銀行員は今や貨幣を扱っているのではない、数字を扱っている、金にしても帳簿に記された数字でありグローバル化経済では数字としてふりとりされている
今や貨幣ではない数字化されたものとして経済があり金は数字であり数字が減ったり増えたりしているだけでありあくとき数字がゼロになっとき貯金もゼロになっているのである貨幣だったら紙切れでもこれが一万だとかなる、それよりそれが黄金だったらもっと具体的になるからその黄金をもっていて触っていたりしたら金持ちだという感覚になる
数字だとそういう感覚がなくなる、触ることもできないし重さも大きさもないからであるだから石の貨幣とかあったがそれは富の象徴だというとき具体的に重いし大きいから力あるものとして富の象徴となったのである。

例えば石というのを自分はテーマにして詩を書いてきた、石でもよくよく見るとみんな形も大きさも重さも違っていて個性がある。でも一個二個と数えればその個性は省かれるのである。ただ一個の石となる、それでも石の大きさがどうだとか重さがどうだとかは計れるるし分類できる、それは数学的概念として処理できる
でもその石の個性がどうだとかなるとそれは文系的なものになるのだろう。
その石の大きさとか重さとかを計るのは数学だからである。石は正方形とか立方体にはなっていない、そこに個性が生まれる、でも数学的にするには正方形と立方体にするのがわかりやすくなる、計算しやすくなるからだ。

結局現代文明の問題は別に今に始まったことではない、すでにその萌芽が文明のはじまりとともにあったのが現代になって極端な形で現れたとなる
ナチスがなぜ生まれたかとなると人間は数でしかないという感覚になっていた
人間は人間と見ていない、数として抽象化されたものしとて見ていたのである。
それはカルト教団とか宗教団体でも同じである。ただ数を増やすことしかない、それが一票に通じているし権力になるからだ。創価などはその典型的なものである。一人一人がどんな人間など関係ないのである。
改悛とか何か宗教的なものとは一切関係ない、ただ数だけを追求しているのである。
それが極端になるとナチスのようなものとなる恐怖である。

それでなぜホランニーのような人間の経済学が生まれたかというのもわかる、そこでは具体的な物と物の物々交換の世界を良しとしているからだ。数の世界ではない、例えば黄金と塩が等価で交換されたというときそれは具体的な物と物の交換であり数として貨幣としての交換ではないのである。物と物の交換になると具体的だがそこに貨幣が介在すると抽象的になり数になってくるのである。
だから人間の経済学というのも現代文明のアンチテーゼとして生まれたものである。
現代の学問でも思想でもなんでも人間を回復しようとすればそうなってくる

不思議なのと認知症になると数字というのが抽象的概念が理解できなくなる、金のことが貨幣のことが理解できなくなる、だから銀行から金もおろせなくなるのである。
漢字なども書けなくなるのは漢字も文字も実際は抽象化されたものだからである。
太陽とか石とか文字で現してもそれは抽象的なものである。
認知症になるとそうした抽象的なものを理解することができなくなる
だから人間は外界を抽象化することができる、文字にしたり数字にしたりできるということが文明を生んだともなる、それが現代のようになると数値のみになり抽象化して現実の世界が何なのかわからなくなる
文字はまだ多様なものを現している、でも数字はそうした多様なものを抽象化して数としてしか計算しないのである。

ともかく現代は世界を数として把握することが多い、常に統計的に人間をみる、それか経済的観点とか政治的観点からするとわかりやい、人口がその国の経済力となる、日本だと人口一万あればそれだけの消費をするからそれくらいの規模の町としてみる
でも一万となると限界がありとても現代的便利な暮らしはできないとみる
普通だと十万都市をイメージする、そきくらいなら現代の便利な生活が可能だとみる
経済とは数字として常に見ているのである。
原発事故の避難区域になったところでも一万あった人口が二割しか帰らないとなると町は成立しないとみる、それは経済的観点からはそうである。
でも別に昔なら大正時代なら6000千万の人口だから成り立っていたとなる

要するに人間社会を数からしか見れない、政治でも経済でもそうである。
人間一人一人が求めるものが違うこともあるがそんなことは関係ない、すべて数として社会を見ているとなる、数が集まればそれが力なんだとなるのである。
少子高齢化でもそうである。数の観点からしかみていない、でも少子化になっても日本の人口が減ってもそれが本当に悪いものかどうかはわからない
なぜなら例えばヨーロッパの都市でも5万になれば大都市である。

ではなぜそういう人口が少ないのにギリシャでもそうだが文化が文明が生まれたのかとなる、それは人口に比例して文化が生まれるとは限らない、5万となると現代ではどこでもざらにあるがそこに文化が華開くということではないからだ
人口が少なくてもその質が問題になる、現代は量だけはあるのだが質が劣っているのである。いくら人口を増やしても質が劣ればいいとはいえないのである。
だから量より質の時代に転換すべきだとなる、高度成長時代は量の時代だったがこれから質の時代なのである。
カルト教団のように毎日量だけを数だけを増やすことに奔走していてそれが何か社会的に意味があるのかとなればただ権力となるだけで文化的な成果は何もない
精神的なものを追求するのが宗教だけどその精神的なものと一切関係ないのである。
でも数を集めると社会ではそこに注目する、政治家も票になると利用することを考えるのである。
一票としてしか数えられない政治もそうである。そこに人間の回復はないのである。
ただ現代文明はただ数からしか見ないのである。

2017年05月22日

原発事故の避難区域の復興を担うものは誰か? ( 外からの人でも誰でもいいとはならない)


原発事故の避難区域の復興を担うものは誰か?


外からの人でも誰でもいいとはならない


●若い人

●技術を持っている人経験者

●何かを指導できる人(年配でも可)


「南相馬で復興を支えるエンジニアを求めている」。ITに詳しい市内の若者を紹介された。

地元の人間だけになったら、きっと原発の話とお金の話ばかりしていると思う。地元の人間だけでは、芋こじが開かれた場にならない。それでは続かないです。色んな人が来て、色んな人と会える。色んな人と話ができる。

ここで地元の人というとき南相馬市とか相馬市も入る、もっと広範囲になるかもしれないつまり福島市だってそうだし郡山市だって入る、するとそこで補償金のことで争うことになる、特に南相馬市は鹿島と小高が対立状態になった
だからかえって外からの人に期待されるのもわかる、何も土地のしがらみがないからいいとなる

でも移住するにしてもみんなが誰でもいいわけではない、ただ年寄りは若い人ならその土地にとっていいのである。先があるし時間をかける時間がある
年よりは時間がないので先がないので新しいことをはじめるのが苦手になるからである。山梨の人は事業に失敗した、その話は参考になる、人の使い方などを知っている
人がいいので人に裏切られらて失敗したのかもしれない。
だから十年その人も老けてしまったのである。あんまり人は苦労すると年とるのである。自分も若いときそうだった、若いとき苦労したので急激にふけたのである。
そんなもの苦労ではないと言えばそうだが自分にとって苦労だったのである。
その後30歳以後故郷に帰り楽したから体が弱くてもここまで生きたとなる
やはり人間はあまりにもきつい生活だと早めに死ぬようになる
パンも食べられないような生活でははやめに死ぬのはやむをえない

小高は今は外から来ている人が増えたという、小高は前よりは増えているだろう。
こういうときは人手を求めているから他からでも受け入れやすいのである。
だから小高では外からの人が来て元気がでてきているのもそうである。
でも誰でもいいわけではない、何か技術でももっている人がいいのである。
若い人は何ももってなくても若さがあるから受け入れられる、
山梨の人は急激にふけてもう何もしたくないとなっている
人を使うということが嫌になっている、それほどひどい目にあったともなる
人間不信になり病気にもなっているからだ
こうなるとこういう人は何か悪いが受け入れるにしても受け入れる側もその人に何かしてもらうのではなくしてやるという感覚になるから受け入れがたくなる

ただ内輪では帰る人と帰らない人がもめているし南相馬市内でも補償金でもめている
必ず鹿島の人に会うとその話になるのである。
だからかえって外の人の方がいいとなるのがわかるのである。
この辺では外部から入る人が今もそれなりにいる、駅にいるとそういう人たちが出入りしているからわかるのである。外部の人たちがまだ活気を与えているともなる
小池にコモドインとんうホテルができてランチも食べられるようになったのもそのためである。家も何百軒と建って都会化したのである。
駅というのは地元の人たちだけが出入りするのだとつまらない、外部の人が出入りしてくると活気がでてくる、その中には外人もいたからだ

避難区域になった所の復興は外部からの力が必要である。でもそれが誰でもいいとはならない、若い人は技術がなくても経験がなくても受け入れられる、体力はあるしその先が長いからである。
50以上になるとやはり技術をもっているとか何か経験があり人を指導できるとかの人でないと無理だろう。
だから変なのは東京辺りの介護が必要な老人を受け入れろとなるとそもそもこの辺では病院でも看護師がたりないし介護士もたりないのだからそういう人を受け入れるのは金をもらってもできない,人手不足がこの辺では深刻なのである。
そして老人が他より65歳以上が30パーセントとか多いのである。

そして今度は復興住宅に移って来た人も老人が多くその子供は流出して老人だけ取り残された人も多い、都会の老人を田舎で引き受けても例え金があっても活性化はしないのである、金でなんでもできるというわけでもないのだ
復興にしても実際は金が有効に使われずに兆の金さえ無駄だったかもしれないからだ
山梨の人は確かに経営者として経験しているがもう人を使う仕事はしたくないという
では何をするのか?農業するなどと言っても全く農業のことを知らない、だから簡単に考えている、となるとこういう人を受け入れても負担になるだけかもしれない
だから誰でもいいから受け入れるということはできない、ただ若い人は何もなくても受け入れやすいのである。それも40代とまりだろう。

結局これだけ老人が多いということそれが復興の障害となる
老人はこの先どうするかというとき補償金とかの方を先に考える、何か復興するというより楽したいとなる、だから小高の老人は国民年金ではたりないからもっと年金として補償していほしいと訴えたことでもわかる、老人は苦労したくないからそうなる。
農業を会社経営にしたとしても60以上が多い
するとどうしてもそこに若い血を導入する必要があるのだ
これはここだけの問題ではない、ここでは何でも極端なものとして現象化したのである。
ただ数万円の収入を得るために四苦八苦しているとかなると楽ではない、その分を農業していれば野菜とか米をもらいたりすればいい、でもそれも今はむずかしい
第一野菜をもらえばいいというがもらえるほど作るのか容易ではないのだ
今野菜が高くなっているからもらえればいいがその野菜を趣味で作っているだけでも労力が金さえかかる、そして何にももらえないのである。人にくれるほどとれていないのである。
現代は現金収入がないとどこでも生活が苦しくなる、飯館村などでは震災前は自給自足的な生活をしていたがみんな出て行ってしまったという、そういう人はまた愛着がなかったのかとか批判される、苦しいときこそ何か助けになることをすべきだと地元の人は思ったからだろう。

それは地元の人でもそうである。なぜ故郷を捨てて出たのか?外に出た人と残った人で争う、それで飯館村では外に出た人と残った人で草刈りをしたというのもそのためである。この辺では様々な対立が生れたのである。
第一飯館村では補償金をもらって外に出た方がいいという人と残る組が二つに別れて争いになったことでもわかる、その争いが深刻なのである。
蕨平の人は40軒あったが残るのは一軒であり牛を飼うことであれ農業が田んぼの管理でもできなくなっている、それで小高辺りでもあきらめるという人がでてくる
もともと後継者がいなくなっていたから余計にあきらめる人か多くなる
共同性が失われたからその共同性を具体的に意識されたのである。
個々の家というものは常に意識されるけど共同しているということは意識されないのである。
でも現実にコミニュティとかこのうよに破壊されると強く意識されるのである。
特に農家の場合は一軒一軒の家では成り立たないのが農業だったから余計にそうなったのである。

ただこういうときは外からの人も入りやすい、助けを求めているのだから外からの人は若いなら歓迎される、普通だとなかなか入りにくい、その外からの人が逆に指導的立場にもなりやすいのである。
なぜなら地元の人は老人が多く、出る人と残る人で分断されたり補償金とかでもめたりと一致していない、外からの人はかえってそうしたしがらみとかもないし新しいことをしやすいのである。何かこういう場所だからこそ生きがいを見つけやすいともなる
町や村をリードする立場にだって成りやすいとなる
地元の人が困り求めるているからそうなる、普通だったらそうはならないからだ。




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ゼネンコンの正社員は除染で3万円 下請け除染員は7000円の不満


 ゼネンコンの正社員は除染で3万円

 下請け除染員は7000円の不満

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除染などの費用 今年度までだけで3兆円以上の試算


2016年分だけでこれだけかかっている、途方もない金である



 よくわからなかったけど山梨の人はの不満はこのことだった
大成建設とかの正社員は除染作業で一日3万もらっているという
それで一カ月75万になっているという
下請けの作業員は7000円だからその差が大きいのである。
その人は7000円しかもらえないから不満を言っていたのだ

なぜそうなるかというとゼネコンで除染の責任をとりたくないから中間業者をへて下請けにまわる、その中には暴力団関係が人を連れてきて働かせて金がそっちにまわってゆく、責任とは除染をしてそのことで住民からクレームが来るとき困るからだという。つまり自分たちの責任ではない、下請け業者の責任にする
政治家が秘書に責任にしたりするの構造が同じである

そして除染は手抜きでありただ草刈っただげで終わっているのもあるという
実際にモニタリングポストの下の土をとっているからそこは低いけど回りはその倍はあるだからモニタリングポストの数字の倍はみないと放射線量の正確なところはわからない
だから飯館の佐須で0・7が計測されていたけどその倍となると1・4だから高いとなる
今は1以上だと何か高いとみるからである。飯館は全般的に高いのである
その飯館で大成建設が除染作業をしていたのを見ている

除染には国から兆の金がでている、その金がどこにいったのか?
それはゼネコンの大成建設とか清水建設とか大手の正社員に主に流れた
その下請けにも流れたが下請けだと7000円だったから安い
何かここに大きな悪が生れていた、この構造は今だけではない、前からあったことであるその原因はゼネンコに金が回りその金が今度は自民党に献金として回ってゆく構造にあったという。自民党員になっていれば献金はいくらでも可能だとか言っていた
そういう構造は前から言われてきた

よく格差社会のことを言うけどここに大きな格差を産むものがあった
大企業と政府とか大きな権力は結託して利益を得る利権構造があった
その下で苦しむものがいる、その人の不満はそこにあった

3万と7千円の差は大きい

その人は事業を失敗して家族を失ったとか苦しんでいることもあった
だから事業については詳しい、人を使うこともしてきたからそういうことを知っている
ただその人はまだ南相馬市にいて仕事を探すという
でも精神的ショックで病んだから仕事でも何でもできるわけではない
しかし何らか仕事を得ないとまずいということはある
山梨に帰れない事情ができているのかもしれないからだ

いづれにしろ兆もの金が自治体に回らずゼネコンとかその中間業者とか暴力団とかにまわって自治体の復興につながらなかった
つまりその人が言うように自治体で除染をすればそんなに金もかからないしその兆もの金を復興資金として使えば良かったとなる
なぜ自治体は市町村は何もしなかったのかとなる
二本松だったかほんの一部で地元で除染を請け負ってしていたところはあった
でもほんとんどは大手のゼネコン経由でしきられて除染したのである。

結局ふりかえるとまず原発を建てるときから自治体というのはその市町村は何の働きかけもなかった、そこに国の大きな権力が働き県と国でも一体化して原発は建てられたのである。
自治体というとき地元密着であり地元のことを優先する、そこに生活するのだからそうなる、ところが大手のゼネコンはここで生活するわけではないから除染にしても楽してごまかし金だけもらおうとする
もし自分が住んでいる場所だったら動機も違ってくる、放射線でも日々影響するとなるとなるべく減らして生活しようとなる
それは東電が建てた原発でも言えたのである。

東京の電気を供給するなら東京に原発を建てればいい、そしたら真剣に自分たちが危険にさらされるから管理することになる
それが東京から離れてフクシマに作ったのは自分たちの安全を計るためだったのである。東電の社員でも地元に住んでいれば意識が変わっていた
一部はそうだった、だから浪江の津島に放射線のことを知らずに逃げた
その時東電の社員もいて街の方に引き返した方がいいとしてそれに従い住民も引き返したのである。それはその人がここに地元に住んでいたからそうなったのである。
自分も被害者になったからそうなった,そして東電では東京本社から事故のとき指令を出していたのである。ここにも意思疎通がうまくいかなことがあった
それで吉田所長が独自の判断をして失敗したということもとりざたされた

結局自分たちが安全ならばいいということでフクシマに原発が作られたことがそもそも事故にもつながった、離れているから自分たちには被害がないという前提で建てられていたからである。
一方で地元というとそうした国と東電という大きな権力の圧力のもとで自治体でもなんら抵抗するものがなかった
肝心の自治体が自分たちの住んでいる住民を守らない、また住んでいる人たちも自分たちの住んでいる土地を守る意識がなかったのである。
事故後もそうである。ゼネンコの大手に除染をまかせる、そこで手抜きがされるのは外から来た人はそこに住まないから金をもらって適当にやりごまかしして楽したいとなるからだ、地元に住んでいる人とは違った意識になるからそうなる
今回のことで国と県と自治体の関係が問われた、それより自治体が市町村が何ら国とか県のなすままであった、復興するにしてもそうである。
自治体というときそこの住民も自治体の一員だったがその人たちもやはりよそ事のようにして原発が建てられたし事故後も自治体は有効に国からの金を活かせなかった

例えば補償金でも実は兆もの除染費用があるなら自治体主導すれば復興にまわせるし補償金にも回せたのである。南相馬市だったら鹿島区は百億円を支給した
それ以上の金はまわせた、そうなれば小高と鹿島区の対立もなかったともなる
これはいい悪いでないにしろ例えばでありそういうこともできる金が実はあったが活かせなかったのである。
それは自治体でもその住民でももっと一体となり働きかける力がなかったともなる

地元というときそこに住んで生活して死ぬ場所でもある、その土地と一体化してある場でありそれは今の世代だけではない代々受け継がれたものとしてある土地である
そこが汚染されて住めなくなるとかそういうことは地元の人にとっては耐えられないたことでてある。
でも地元の人にしてもそういう強いここが掛け替えのない土地だという意識もなっかのである。そういう危機感もなかった
自分たちで自分たちの住む場所を守らないとしたら誰が守るのか?
もしそういう意識がないとしたら自治体の住民なのかともなる
そんな人は住民としての資格があるのかとまでなる
そういう人は別に一億もらってどこにでも去ってゆくとなる
実際にそうなった面もあった、金の社会であり移動が自由であるときどこでもそうなりやすいのである。
ただそういう人は本当にここに住む自治体の一員としての資格があったのかとまでなる

話は変わるがベトナムではなぜアメリカに抵抗できたのか?アメリカが征服できなかったのか?
それはベトコンがその土地に愛着がありアメリカが外国人が侵略して支配されることに根強い抵抗があった、だから穴を堀り地下にもぐり抵抗したという。
南国だから芋がすぐに成長するから食料になったという。
そのパトリシズム(愛郷心)が根強くあったからあれだけの抵抗がありアメリカは敗北したのである。
それだけの愛郷心があったということ、そういう愛郷心がその土地土地に住む人にあったただ現代では便利なものを求めてそうした愛郷心が希薄化してきたことも事実である。
だからこそ不便になったらこれだけ荒廃したら流出してゆく、不便な所には住みたくないとなって流出したのである。
ともかくこの辺ではいろいろなものが問われた場所になったのである。

あの人の不満は大きいからその捌け口がどこになるのか?それが今度は共産党とかの支持につながる
共産党もまた幹部は贅沢しているし実際は同じ構造があるが刷毛口がないからそうなりやすい
こういう構造はアメリカでもある、大企業が刑務所に入っている人を安い労働力して使っていたのである。
これもブラックジョークとなるが一体悪い奴らは誰なのか?
ゼネコンの正社員なのか大企業なのかとなる
その大企業と結託した政府なのかともなる
正社員と非正規の格差問題でも同じである。
こういうことは歴史上常にあったことである。支配するものと支配されるものがいて支配されるものは悲しむ者となる
この世のとはそういうところであり何か変わらない、正直者は馬鹿を見るということでもある
ただ自分でもそうした得をしている方なのかもしれない、そういう人はやはりいつまでも得をするかとなるとならない
そういうカルマをもったからそのカルマを受ける時がくる
自分が苦しんだのはそのカルマが家族でも積み重なっていかからかもしれないからだ。
そういう社会がいつまでもつづくとは思えないのである。











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