2017年04月27日

小池のため池の除染 泥と水を分離していたー真野ダムはできない?


小池のため池の除染

泥と水を分離していたー真野ダムはできない?

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小池の安養寺のあるため池でなにをしているのかと思ったらその下の方で泥と水を分離しして放射性物質をとりのぞく作業をしていた
最近ため池の除染をはじめた、セシウムは泥についているから泥と水を分離して泥を放射性廃棄物としてとりのぞく、その下に放射性廃棄物場がすでに広く作ってある

除染でもあのような作業を見たのははじめてである。
市に聞いてみたら農林課でしているという、田んぼの関係だとそうなる
なぜそうしているのかというとため池から泥と共にセシウムが流れだすからである。
泥についたままセシウムが流れだすからそれで米を作ると米が放射性物質を吸い込むからため池も除染しなければならない、これも大変な作業と見た
横浜とか相模のナンバーのが来ていた。

まだあのため池は小さいからできる、でもため池は多いし大きなため池もあるからそこまでやるのかとなる、ただため池も汚染されているのだとはじめて思った。
ため池までは注意していなかった、ため池はやはり田んぼでその水を使うから実際は危険なものとなる

米が放射性物質に汚染されている写真を見た、確かに白くなっていて米粒が汚染されていたのである。そういうものを食べると危険になる
放射性物質の汚染は計っているから安全だというがそれでも不安になる
それを証明していたのがため池の水も汚染されるから米も汚染されるのである。

ともかく本当に放射能汚染はあらゆるものを汚染する、やっかいなものである。
一番この辺で原発事故があってから心配だったのが真野ダムの水だったのである。
なぜなら飲料水として利用していたからである。
それは相馬市でもそうである。真野ダムは大倉であり飯館村だから余計に汚染されているからである。
自分も飲み水はペットボトルの水を飲んでいる、たいがいこの辺ではそうだろう。
すると相馬市だって被害者になるのである。

その一番心配な真野ダムはこのように除染できるのかと市に聞いたらその計画はまだないという、あそこは大きすぎてできないだろう、でもこのように明らかに泥にセシウムは付着しているのである。
例えば樋の下が屋根から集まったセシウムで泥に付着して放射線量が7マイクロシーベルとか高くなったのである。
ホットスポットでも飯館村の佐須村で泥が20マイクロシーベル以上あったのである。
その泥が真野ダムに流れていけば当然真野ダムの放射線量は高くなる
真野ダムの泥には相当な放射性物質、セシウムが泥に付着しているのである。

水は影響ないとしても何らかの影響はある、だから安心のためにはここのため池しているように泥と水を分離しなければならない、そして泥に付着したセシウムを廃棄することが必要なのである。
でもそれはあまりにもおおがかりになるからできない、森が除染できないと同じである。つまりお手上げだとなる、いかに放射能汚染がめんどうなものかわかる
完全な除染など不可能なのである。ただ時間がたって30年でセシウムなら半減するとかなる、でもプルトニウムは二万年消えないとかなるから恐ろしいのである。

posted by 老鶯 at 16:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

桜は散り今年の春も逝く (枝垂桜の咲く家(詩)


桜は散り今年の春も逝く


(枝垂桜の咲く家(詩)


枝垂桜の咲く家(詩)

桜ははや散りにき
幾度かの風に散りにき
この道を今日も行けば
残れる花のあわれかな
とある家の枝垂桜や
夕日のさして
庭に石の落ち着く
ここをよしとて
居を定める人のあり
河原に鶯ないて
我が行き来するかな


今年の桜は終わった、外に桜を見にゆくこともなく終わったからめずらしいとなる、何か出かけるのが億劫になった
新しく建った家の枝垂桜はいい、あの家の庭はいい庭である。垣根だから丸見えである。庭は別にその家だけでなく外の人も見るからいい庭だと外の人にとってもいいとなる
塀に囲まれているとそうした庭も見えない、垣根だと外から見えるからいいのである。
それは日本的であり日本が安全な社会だからである。
外国では分厚い塀で囲まれているからだ。無防備では住めないからである。
そもそも街自体壁で囲まれているのが外国の街だからである。

日本はやはり季節の移り変わりに感じるものがある。
桜が咲いたと思ったらもう散ったな春も終わりだなと感じる
その季節感の故に季語が発達して俳句が生れた
残る花という季語も生れた、こういうふうに微に入り細に入り季節の言葉があるのは日本だけなのである。

仮設はもう終わりである。でもまだ住んでいる人はいる、家建てて庭を作りそこに石を置いて枝垂桜まで咲くと落ち着くなとなる、それは外から見てもそうなのである。
仮設は外から見てもいいものではなかった、二三軒の風流なものとしてあればいいがあれだけ仮設があるということは津浪の被害地でも異様なのである。
その仮設暮らしでも六年過ぎてさらに住んでいるのも限界だとなる
でも仮設から出れないという人もいる、高齢化でもう新しい家を建てる気力がないと言っている人もいる、それで最初から長く住める家を建てた方が良かったとなる
それも法律でできなかったとか今になるといろいろ反省がでてきた
まず日本では家を建てることが金がかかりすぎるからそうもなったのである。

ともかく今年の春も終わりである。

故郷の外にいでずに花も見ずはや散りにけらしも春は逝くかな

まあ、これも一つの情緒である。故郷に桜は咲き散って終わったということである。
常に旅していた自分にとってはめずらしいことだともなる
ただ介護していたときが長いから10年前から遠くには行けなかったからめずらしいともならない、ただ桜の季節はやはり桜一色にそまるのが日本だとつくづく思った。


「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす 京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


「地震考古学」大地の痕跡、防災に生かす


京都新聞の記事に南相馬市の津浪の研究報告


京都府教育委員会から福島県南相馬市に派遣され、1年間発掘調査を支援してきた府教委の古川匠さん(38)は、南相馬市での住居の変遷に着目した。東北では平安時代の貞観地震(869年)での津波の被害が知られるが、約2千年前の弥生時代中期にも大地震で巨大な津波で被災した。発掘調査によると、地震後、弥生時代の集落は津波を恐れてか、高台に多く作られていたことが分かる。

高知県須崎市のただす池の約 2000 年前の津波堆積物の中から土器片を発見したことである。須崎市は歴史的にも繰り返し大きな津波被害を受けてきた地域であるが,すでに約 2000 年前,弥生の人達がこの地で生活を営み,大きな地震と津波に遭遇
していた。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。10軒内外の竪穴住居に倉庫(前期は地面に穴を掘った貯蔵穴、中期以降は高床倉庫)、少し離れた場所に墓地というのが一般的な集落のすがたです



この記事の詳細はわからない、ただ京都からも研究員が来ていた、ただ弥生時代になると2000年前となるとそれを今知るということは容易ではない
例えば海老にも弥生時代の住居跡が発見されたからあそこは相当に古い時代から人が住んでいた。弥生時代となると古墳時代より古いのである。

水田をつくるのに適した湿潤な低地をのぞむ微高地や台地部に立地するのが一般的です。
南相馬市の鹿島区では寺内から小池が一番これにマッチしているのである。
弥生時代から寺内、小池はそういう適地でありたからこそ古墳が多いとなる
ただ桜井古墳の一は相当に海に接していた、新田川にも接していた
そういう地の利がありあれだけ大きな古墳が作られた
なぜなら津浪がその古墳の手前まで来ていたからである。

ただ2000年前の中期の弥生時代に大地震で津浪で被災した

そのことが明確に立証できているのだろうか?

そしてその後高台に住居が多く作られたとあるがこれなども詳細がわからないからわかりにくい。ただ相馬市では貞観津浪の痕跡が発見されていた
海の砂がボーリング調査で海から離れた奥で発見されたからである。
貞観津浪というのは史書にも明確に残されているし科学的調査もされていてその被害もわかっている。
ただ慶長津浪となるともう一つ記録的には明確でないし科学調査もまだ不十分なのである小高と浪江では貞観津浪の痕跡が発見されている
つまり今回と同じような地域で巨大な津浪があったことは明確なのである。

だから弥生時代にさかのぼり津浪のことを知るのは容易ではない、海老も高台であったからあそこに津浪がくるとはみんな思っていなかったのである。
それで海老の崖の高台に避難して30人くらい死んだのである。
その原因が崖になって高台になっていたから海に接しても津浪が来ないとして前から避難先として指定されていたのてある。
それほど津浪については市でも知らないからそういう重大な過ちをしていた

ただその後ろが森になっていてその森に逃げたら助かったのである。
その森の木につかまり助かった人もいたし右田から必死でその高台目指して逃げて森に逃げて助かった人がいたのである。まさに九死に一生を得たとなる
海老は右田などからすれば高台だから安心していたのである。
高台だからこそ弥生時代から住居があり人が住んでいたとなる
その弥生時代でも巨大な津浪が来たら大きな被害があった
ただ小高で考察したように縄文時代に住んでいた地域には津浪は来ていない、そういう場所に住んでいたからである。
新地の貝塚でも高台にあり海から相当離れている、貝などは海にきてとったとしても住んでいた場所は高台なのである。それで手の長い巨人が住んで貝をとって食べていたという伝説が残っている

いづれにしろ津浪とかなると2000年単位くらいでみないとわからないものだったのであるその時間の感覚が人間にとってはとてもリアルに感じられないものとしたのである。
だから相馬地域では津浪は来ないという確信とまでなっていたのである。
自然の時間感覚はこのように長いのである。それに人間が合わせることは容易ではない
今回の巨大な津浪でクローズアップされたからこそ弥生時代の2000年前の津浪のことまで調べるようになった。

考古学でも津浪のことが今回の被害でテーマになった。ただ海老に弥生時代の住居跡があるとして次に鎌倉時代の住居跡もあるとしてその後に起きた津浪、慶長津浪がどう影響したかはわからない。慶長津浪のことは相馬地域でも700人溺死したとしか記録がなくわからないのである。だから謎になってしまっている
貞観津浪は記録でも考古学的科学的調査でも明確になっている、慶長津浪については不明確なのはなぜなのかともなる

郷土史などでも2000年単位でみないわからないとなる、ただそうなると2000年前に巨大津浪が来ていたとしてもそれで警戒する人はいないだろう。
貞観津浪は800年頃であり奈良時代であるから記録にも残った、弥生時代となると記録にも残らない時代である。そういう時代を知るとういことは容易ではない
地層を調べるとかなると化石時代までもさかのぼる、そういう時間感覚になると人間は弱いのである。第一300百万人が死んだ70年前の戦争さえ現実と思えなくなっていることでもわかる、そんな大惨事でも人間は忘れてしまうからだ。
その人たちは異国に死んでその骨は埋まっていても拾う人もない、北朝鮮では日本人が埋められた墓があったがそこは畑になっていて一部が辛うじて残っていたのである。
70年前のことさえこうして忘れられるというとき2000年前をリアルに感じることはできないのである。

人間は死ぬとたちまち忘れられる、そんな人が生きていたのかとまでなる、思い出す人もわずかでありやがては全く忘れられるのである。
そして自分のように墓に記された名前と死亡年月を見たりしてその人を知るとういだけになる、人間は常に目の前の現実と戦い生きているから過去は忘れやすいのである。
でもその現実もすぐに過去となってゆき忘れられるのが運命なのである。


南相馬市小高区福岡で津波のボーリング調査 (十和田湖カルデラ火山の灰の下から貞観津波の砂を発掘)

posted by 老鶯 at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係