2017年04月24日

原発事故と山尾三省 (春の日に鶏が庭を歩く(詩)


原発事故と山尾三省

(春の日に鶏が庭を歩く(詩)

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春の日に鶏は庭を歩く

鶏(にわとり)が庭を歩いている
最近そうした風景を見ていない
鶏は工場のような
ケージの中で卵を産む機械とされる
そして肉はブロイラーにされる
その肉は実は危険なものとなる
鶏は広い庭を歩いている
近くに牛がモウと鳴く
清水が湧く所に清水と地名がついている
のどかな春の日である
この辺には古墳が多い
家の庭にも古墳がある
これらの古墳に春の日がさしている
ここに眠れる先祖は幸いなるかな
犬が春草に鼻をおしつけ匂いをかぎ散歩する
見慣れた光景に実は貴重なものがあった
その貴重なものを貴重なものとしない
鶏が庭を歩いている
その姿が自然であり心がなごむ
春の雲がほっかりと流れて
気ままに自転車でホタリングする
しかしのどかな風景は原発事故で失われた

鶏は庭の鳥だった、あれを見てはっきりわかった。それを見たときなんともいえないものを感じた、そういう姿を見ていないからである。それが近くで見れたので余計にそうなった、こんな光景は当り前であり普通はなんとも思わない
しかし今や鶏でも庭を歩いているのを見ないからそう見えたのである。
その時鶏は庭鳥として生き生きして生きていた、本来の庭鳥になっていた
これは何か人間が江戸時代の浮世絵で歩いて旅している
その歩くということは人間の本来の姿としてある。それが車社会でなくなった
だから歩くこと自体が人間を回復することになっているのだ

鶏は今悲惨である。卵を産む機械であり肉を生産する機械である。そこに人間にとっていいものではない、やはりそこに害あるものが作られている、今の食糧にはそういうことがある。鶏が自然な姿ではないよう人間そのものも自然な姿ではないのが現代文明である。車に乗っている人間は人間の自然な姿ではない、機械の一部に化しているのだ
それはあらゆる面でそうなっている、鉄道でも車より人間的でも電車という機械の一部になってしまうのはまねがれないのである。
もし江戸時代のようだったら人間はみな歩いている、だから人と人がそこで交わり話したりする、車は通りすぎゆくだけである。そうした車の洪水のなかで暮らしているのは本当は異常なことではないか?ただその異常性を鶏が庭を歩いているのが自然なように気づかないのである。

自然の中で動物が生きることが自然なことでありそれを見たとき人間も感動する。動物園の動物を見ても感動はしない、野生の動物をみたときそれが本当の動物の姿である。
人間はそういうことすら気づかないし文明の中で麻痺してしまったのである。
異常なことが異常に見えないのである。第一東京のような所で生活できること自体が異常だからできるとしかいいようがない、そこには自然はないからである。
人間が生きているのではない、機械がロボットになった人間が生きているともなる

山尾三省はそういう都会人だったが屋久島に来て自然と一体となる生活をした。
それは実際は過酷だった、だから妻は早くしんだし本人も60代で死んだのである。
第一パンを食うのが贅沢だとした生活では栄養失調にもなるからだ
そこには無理があった、だから貧乏生活を売りにしている芸人のようにも見られたのである。一面そういことがあった無理な生活だったのである。

現実に農業というけどこれはあまりにも厳しいのである。知っている人が趣味のようなわずかの畑をしているがそこで聞くのはただ苦労だけなのである。
虫にやられた、鳥に食われた、肥料に金がかかる、種に金がかかる、隣の畑の人がじろっと見ていて嫌だとか、そこに聞く話は苦労だけである。
それでまともにとれた野菜もないのである。しかし金はかかっている、ネギ二三本もらって何ももらえないのである。ただ苦労だけを聞かされているだけである。
そんなら買った方がつくづくいいと思うのも矛盾なのである。

山尾三省は都会人であり都会から田舎に来て頭の中での理想を実践したのである。
だからもともと農民だった人とは違う、土着的な農民とは違うのである。
ただ不思議なのは核兵器に反対するのはわかるが原子力発電を拒否する反対することとしてアンチテーゼとして農業をしていたのである。
普通原子力発電まではあまり反対しない、核兵器は反対してもしないのである。
例えば広島でも核兵器には反対しても原子力発電には反対していないのである。

畑には大根が太っている
その大根をひきぬいて大根おろしを作る

つわぶきの新芽がのびている
その新芽をひきぬき集めて食べる
やっと春になった
にこにこしながら食べる
こんなおいしいものは
この世にはまたとない

これは地のものの文化であり文明であり
核兵器を作る人たちや原子力発電所を作る人たちへの、捧げものではない

このように原子力発電所に対して拒絶して抵抗して農民になったのである。
ところが農業の現実はそうんなものではない、前にも書いたけど親が農業していた人が
農業だけはするなと親に殴られたということを聞いた、その子供は原発で働くようになったのである。そして避難区域になった小高にもどっているがそこは帰ったのは老人がほとんどなのである。
その他大原の人は代々の農家だったけど子供は跡は継がない、今はそこは空家になっている、農業の現実は過酷なのである。
だから今になるとみんな高齢化社会になり跡を継ぐ人などまれなのである。
農業は何か代々跡を継いでやるものでありそれに適している
なぜなら土作りとかは簡単にはできない、代々に土を作りをして土が肥えてくるということもある。そういうノウハウは農家で生活していれば身につくこともあるからだ

いづれにしろ人間は矛盾を生きている、自分自身も田舎で暮らしていて投資信託などしてグローバル化した世界で金儲けしようとしているのもそうである。
お前も山尾三省のようになれとか言われることは確かである。
でも自分は山尾三省のようにはなりたくないしそういうことも望んでいないのである。
ある程度の現代の生活を享受したいとなる、パンも食べられない生活はもう現代では偏屈者としかならないし誰もまねもしないからである。
それをみんなに要求するのは無理だとなる
ただ原発事故以後そういう反省が一般の人にも生まれたのである。

この辺の人を見ると本当に貪欲になっていたのである。漁業者は原発の補償金で御殿のような家を建てていたとか他より田舎では贅沢していた、田舎では一人一台車をもっていてそれもいい車をもっているのである。
そして家を建てて借金をしている人も多い、借金して自分は事業して成功したとしている人もいてその人に自分が借金を要求されて苦しんだのである。
そのことをプログで書いてきた、こういう贅沢を望むものが原発を作らせたともいえる。
別にパンなどは原発がなくても食べられる生活はこの辺でできた、山尾三省のような生活は異常であり作られた演技のように見えるのもそのためである。
ただそこに原発事故があり見直されたのである。
自分の求めたものとも共通しているからだ。

ともかく一番自分で不思議だと思ったのは鳥が庭を歩いている姿だった
それが何とも言えないもの、自然でありそれが天国の庭を歩いている鶏に見えたのであるそれはおおげさかもしれなんが何かそれほど人間は自然なものから離れてしまったとういことかもしれない、自然なもののが何かわからなくなった
そして人工的なもの都会でもそこに暮らすことが普通になりその異常性に気づかなくなった、原発でもなんでもいい金にあればいいじゃないかしかない、そのために漁業権をも売り渡すしなんでもするとまでなっていたのである。
借金してまで贅沢しているのと同じである。借金しているのは昔とは贅沢するためにそうしているのが多いからである。
そういう異常性なものが普通となり異常と正常の区別すらつかなくなっているが現代文明に暮らしている人たちなのである。

だから人間は今自然な生とは何か知らねばならない、とりもどさなければならない、医療でもチューブ人間になって活かされたりするのは不自然なのである。
自然な死がそこで何かを知る必要がある、人間の本当の自然な姿とはどういうものなのか知る必要がある、その姿を見たら感動する、それは歩く姿を見てそれに感動しているのと同じなのである。歩くということは人間の自然な姿として太古からあったからである。
それすらない文明社会はなんなのだとなるからである。


山尾三省の詩を読む (原発事故で見直されたその生活)
posted by 老鶯 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連