飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)
●みなみそうま(南相馬)と記された古文書があった
真野川をさかのぼり真野ダムにでる、そこは大倉である。ここは岩松氏が相馬氏などが関係して岩松氏が滅ぼされてその奥方が逃げた場所であり湯舟とかの地名が残っている
奥方が妊娠してそうなったとかある。大倉に逃れてきて悲劇の死をとげた。
草野は岩松氏の所領にあった。ただ相馬氏の岡田氏とか伊達氏もかかわり所領争いがあった地域である。前は大館とかがあり中世の館があり飯樋問と大館が明治に合併して飯館になった歴史がある。
地名にも歴史があり由来がある。面白いのは相馬岡田文書に
ゆつりかわたすそうまの小次郎たねもりのあとの事
下総(しもつさ)のくに、みなミそうまのうちいつみ(泉)のむら、ならひのむつのくになめかたのこおりおかたのむら(岡田の村)、このところは五郎たねやすそうりょうしきとして永大知行すべし
しもつさの国ミなミそうまのむら、かなやま(金山)、かミやなと、ふなつ(船津)
ならひにミつの国なめかたのこおり(郡)おかたのむら(岡田)やつうさぎ(八兎)
いといのかりくら、(飯樋、狩倉)かのところはたねやすちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりょう(私領)たる間・・・
ここにみなみそうま(南相馬)として出ていることである。すると南相馬市の由来はここにある、ただその領域は小高中心なのである。
もともと小高に相馬氏の城がありそこが相馬氏の中心であり拡大した、それで鹿島はその小高から北であり北郷となっていたのである。当時のみなみそうまとは小高中心であり原町の領域、中ノ郷は入っていないのである。
ただ歴史的にみなみそうまというのが古文書に記されていたことは重要である。
ではなぜみなみそうまなのか?この時むしろ北を意識してみなみそうまと記したのだろうか?わざわざみなみそうまと記すのはなぜなのか?
つまりみなみそうまとは今の南相馬市とは領域が違っている、原町(中の郷とか北郷(鹿島)は入っていないのである。小高を南相馬としていたのである。
ただすでに南相馬市(南相馬)という名称があったということである。
すると南相馬市は歴史的地名なのかとなる。ただこれがどうしてみなみそうまになっていたのか?その解明が必要になる
●伊達市になったとき感覚的その領域が拡大した
伊達市というとき
1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。
1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。
2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。
伊達町があったとしてもその前に伊達町はなかった、長岡村だったのである。伊達市というとどうしても伊達政宗をイメージする、相馬市とか南相馬市だと相馬氏を意識するようになった。
それで佐須の峠を越えるとき伊達市に入るとなり感覚的に前とは違ったものとなる
前は霊山町だったから霊山神社があり南北朝の由来にもとづく地名として意識していた。た、伊達市になると南北朝時代から伊達政宗と相馬氏が争った戦国時代になる。
ここから伊達市に入るというとき伊達政宗の時代を意識するのである。
それが地名の大きな影響なのである。もともと
伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に
といわれたように境が意識されていたし現実に境があった。飯館村では岩松氏の所領ともなり相馬氏の所領ともなり伊達氏も領地争いにかかわっていた。
「草野通率一族」とあるように相馬一族のものが草野村の一部を所領していた
「草野通」とあるようにこの村を一筋の道があって行方郡と伊達郡(小手保9を通じて知られていた
これは地理的にも今でそうである。原発事故避難区域になっていてもこの草野通だけは交通として閉鎖されず通じていたのである。これはやはり地理がわからないと歴史も理解できないのである。
●前田は草分けの地、注意すべき戦後入植した人たちが多いこと
前田
豊栄は戦後入植した地名
ここに入植した人が住んでいた

山津見神社から前田に出たが前田というときそこは必ず草分けとなった農家がありその前田から村が発展したのである。
前田には江戸時代の古い碑が並んでいたことでもわかる、他でも大原の前田という地域は大原の奥にありそこに南相馬市立病院で同室だった斉藤氏が住んでいた。
その家は代々つづいた古い家だったのである。その人はすでに死んだ
その前田からさらに八木沢の方へ遠田という地名があることでも前田を中心にして大原があり拡大したことがわかる
佐須というとき佐須は焼き畑の地名である。他にヒソとかもそうだった。最初に入ってきたのは焼き畑をする人たちだった。縄文時代から人は住んでいてもそのあとは焼き畑をしていた。飯館村というとき何か新しい感覚になるけど古い村から成り立っている
比曽村には氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延亭2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました
比曽村にこんなに古い由来があったのかと驚く、ともかく飯館村は広いのである。
何十年も前に一回くらいか比曽村とか長泥村を通った記憶がありそこにも古い碑があったのである。
葛尾村にも元禄の碑があったからあそこも古い、草野になると鎌倉時代からはじまり館がありそれが今の飯館村になっている。
ただここでまぎらわしいのは飯館村の人口をみると
戦後開墾に入った人たちが多くそれが混同しやすいのである。一万人近く飯館村の人口があったことに驚く、それは戦後引揚者が生活の場がなく農業で生活するために辺鄙な山村にも入ってきたからである。
例えば自分が知っている人でも小池でも町に近い所に開墾に入っている、菅野漬け物の倉があったところにである。そんなところが開墾する場だったのかとなる
それだけ戦争が終わり仕事がなく開墾に入った歴史がある。
それは全国的にそうであり浪江の津島でもそうでありそれで苦労したので団結力があると報道されていた。
第一一万人も飯館村に生活していたということが驚きなのである。どんな生活をしていたかとなると相当に貧しい生活である。炭焼きとかが主流となっていたのだろう。
それは現金収入にもなり豊になった人もいたからである。
あとは木材とか石材の供給地でありそれなりに生活できていた。その後は牛を飼うようになった。
この戦後入植してき来た人たちは山村に多いことを注意する必要がある。飯館村でもそういう場が多いからだ。豊栄とか共栄橋とかの地名は開墾に入った場であり昔からある地名ではないのであく。戦後開拓に入った人たちがなづけた地名である。
それで豊栄辺りで聞いてみたらやっぱり戦後開墾に入ってすみついた人であった
その人はそこに避難解除になり住んでいる、息子は川俣の会社に勤めているという。
もともとは農家であり牛などを飼っていた。
今飯館村で仕事しているのは菊地製作所とかの小さな工場である。他は仕事をしていない
牧場があり牛が放牧される広い土地がありそこは何にも使われていない、そこがこれから何に使うのか?ソーラーバネルとかになりやすいのである。
すると飯館村の景観は破壊されるし昔の飯館村とは違ったものとなる
飯館村のモニタリングポストでは佐須とかで0・6とかある、でもモニタリングポストの放射線量は実際の半分なのである。なぜなら土をけずりとって設置していたからである。
自分もその脇を計ったら倍だったからである。
そもそも名もあのヴらなモニタリングポストが必要だったのかとなる、放射線量をごまかすためにかともなる、それも本来の復興のために金が使われなかったということなのである。
ただ飯館村はもともと放射線量が高かった、草野で7くらいもあった、だから今でも0・6とあっても実際はその倍にもなるとなると今では相当高いともなるからそこに住むのが嫌だというのが理解できるのである。
それで裏山の木を切って除染したのに一億円かかったというときその一億円をもらった方がいいというのもわかる。除染してもまた山から森から放射性物質がでてきて減らないからである。だからなんのために除染しているのかとなる
無駄な金かゼネコンに流れただけだともなるからだ。
それで村に居残る派と補償金をもらい村を出る人に分かれ争いになった。
ただそうなると一体江戸時代からある古い村はどうなるのか?元の自然に環るのかとなると還らない、そこはソーラーバネルとか放射性廃棄物の処理場とかにされる
なぜなら土地をもっている人がいるしその人たちに権利があり金にしたいとなるからだ
ただ荒地にしていても金にならないからである。
小さな工場だけが仕事しているというとき農業ができないからである。
農業がない飯館村がイメージできない、ソーラーバネルを見るだけとなったら飯館村の魅力はなくなる。だからこれからの村造りをどうするかとなるとその解答は簡単に出ないのである。
でも何軒かは人が住みはじめたから人が住まないことには村も活きてこないのである。