2017年04月01日

つばめ来る(祝-浪江駅開通)


つばめ来る(祝-浪江駅開通)


我待ちて紛々とにおふ梅の花

梅の花余すことなく香り散る

万作に冬の貴婦人ボケの花

木蓮の蕾ふくらむ希望かな

10羽ほど一気に来る燕かな

浪江駅開通するやつばめ来る


東風(こち)吹いて枝のゆれにき四十雀しきりさえづりわたり飛ぶかな


今日は十羽ほど燕が来ていた、普通は一二羽と見かけるけど今年は一気に十羽も燕が飛んできていた、そして浪江駅が開通した
何か縁起がいい日だとなる、復興には曇っていたがいい日だったとなる
燕が来るということはやはり何か新しいものがもたらされて何か新しいことがはじまるとかそういう兆しとして燕が象徴されるからだ

でも実際は浪江町でも前途は厳しい、17パーセントとしか帰らないとか帰るのも老人だけである。自転車屋をはじめた人も78歳だとか跡継ぎもいないから店は補償金もらってやめたとかそんな人だけでは復興できないだろう。
でも浪江町はそもそも拠点となる町自体を失い役所も他の市町村にもうけていたので浪江町が避難解除されたことで拠点ができるのはいいことである。
復興するにも地元に帰らねばできないからである。浪江町では公務員が忙しくてやめたいとか言う人がいるというのも公務員は一番恵まれていたなど田舎ではなっていたがそんなものでもなくなった、もう町の生き残りをかけて仕事せざるをえなくなったのである。

浪江町に鉄道が開通したら避難解除したら行きたいのは高瀬川である。
あの川は激流となっているから他の川とは違うし名勝の地であった
ただあそこに大堀焼きの窯元があったがそれもなくなったし放射線量が高い所でそこは避難区域のままであり立ち入り禁止になっているみたいだ
そうなると浪江町の魅力がなくなる、でも駅が開通することは復興のはずみにはなる

東風(こち)は浜通りでは海から吹く春を告げる風である。
その風でしきりに枝がゆれ四十雀がさえづりつ飛びわたってゆく,いかにも春らしい
だからまた遠出したくなった、ただ自転車となると体力的に厳しくなっている
でもなんか自転車でないと自然と一体になりにくいのである。

吾妻山の記憶としては白木蓮である。

山高み残れる雪に木蓮の白さや朝の風に走りぬ

この辺では高い山がないから吾妻山は高い山として望めるから気持ちいいとなる。
これも自転車の旅だから記憶に残っているのである。
鉄道とかだと風を感じない、すると記憶に残らないのである。
意外と車でも風を感じない、するとその土地のことつまり風土が記憶されないのである。
ともかく介護もないから今になると自由にまた旅ができる、だからまた行ってみたいとなる





タグ:つばめ来る

浪江町の春の詩 (浪江駅開通を祝して)


浪江町の春の詩

(浪江駅開通を祝して)

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春の渓流轟き鳴りぬれ
巌重なり塔なして
景勝の地、高瀬川にあれ
奥をたずねて心洗われむ

清流の岸辺、根を張る木
古の技を伝え育む
大堀の相馬焼きの窯元
畑耕す人もありしも

広々と海を望みぬ請戸港
漁に出る船や勇ましかも
鴎群れ飛び波のひびけり
大漁の時もありて港にぎわふ

浪江にそ二つの川の流れけり
鮭の上りて幸もあれ
川岸の桜並木を歩むもなつかし
いつの日か往時の栄いもどらむ

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棚塩の海岸

浪江はやはり高瀬川である、あの川はこの辺ではめずらしい、激流であり上流にダムはない、水墨画のような巌がある、あれが名勝の地である。
景観的にも二つの川があり恵まれている、海も望み請戸港もあり魚もとれたしあそこには岩手県の宮古から鉄の材料が運ばれて葛尾村で製鉄されて葛尾大臣の伝説が生れた

それから相馬焼きの窯元が大堀にあり高瀬川の上流の岸辺にあり立地的に恵まれていた。浪江町はこうして実際は景観的には恵まれていたから観光でも人を呼べる環境にあった
ただそれも請戸港から原発の煙突が見える、そんなに近いのに実は請戸港の放射線量は0、5とか低いのである。海に放射線量が流れたから海側は低いのである

それにしても請戸港は津浪で壊滅した、それがあまりにも酷い風景である。
ただすぐ近くに原発の煙突が見えたのだから危機感を感じる人がいたかもしれない、
でも実際は漁業権を東電に売り渡していい暮らしをしていたのである。
それが今になって露になり批判されている

ただ浪江とかなると実際は原発で働く人があれだかけ近いのだから三分の一はいた、原発は賃金が他により危険だから二倍三倍になるからだ
それで家を建てたという人がいたり金持ちになった人がいたのである。
とにかく経済的には原発周辺はうるおっていた。
だから誰も今でも東電を批判できないんだよなとなっているのである。

でも原発事故はあまりにもこれもひどいものだった、村とか町とか消滅させるほどの被害になるとは誰も思っていなかった、もう大堀の相馬焼きは回復しない、放射線量があそこは高く以前として避難が解除されないからである。
もうすでに相馬焼きの窯元は白河だとか二本松だとかではじめている、大堀で相馬焼きが作られることはないのである。

浪江町には二つの川があり風光明媚な土地だったのである。海はあり川あり山ありといい所だったのである。それが回復不可能になったというのはなぜだろうとなる
それほど原発事故の被害は大きかった
結局、原発でも公害になるとみんなだめになるというのは本当だった

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結局細々としてもそこには自然が汚されずあった、そこで町でも村でも継続されたのである。
まず公害になると市町村自体が継続されない消滅の危機にさらされるのである。
この辺ではつくづくこれと同じ反省を強いられているのである。


写真絵はがき-ここに激流の高瀬川


参考となる詩

浜街道春の浪江町

高瀬川轟き流れ春の日や
広々と浪江の大地開けたり
大堀に陶工の業は受け継がれ
相馬焼きの一品を買いぬ


高瀬川春の光にきらめきて
山鳩の嬉々と飛びつつ
春の日に二つの川落合いて
太平洋と流れゆくかな


その昔言祝ぐ橋の一つかな
村と村とは結ばれ栄いぬ
浪江の大地を耕すものや
新たなる力を注がむ


流れ入る川や広々と
かなたに望む行く船や
春の日に鴎群れ飛び
請戸の湊に漁船いでゆく


知られたる高瀬の清水や
西行もここに喉を潤しぬ
浪江の宿や相馬の殿も休み
磐城の境大熊に向かわむ


夜ノ森は余の森なりき
森深く小暗き道なり
その森に境を成しぬ
小良が浜もここより近しも


高瀬川轟きその奥そ深しも
葛尾村は山中郷の相馬藩
三春藩との境を成して
野馬追いの旗を伝えぬ


浪江は標葉郷にて相馬藩
野馬追いにその旗連らぬ
その日のまた来たらむや
相馬の武士の心騒ぐかも

タグ:浪江町の詩

2017年04月02日

再開した浪江駅に行く (鉄道マニアが多かった)


再開した浪江駅に行く

(鉄道マニアが多かった)

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この愛知御津駅がなくなるとか言っていた

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学校の時計は3時30分でとまっている、震災以来とまったままである

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立派な眼科だけど震災前につぶれていたというのは意外
それだけの患者がいなかったのか? 
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飲み屋

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子供部屋がありベッドがある生活があった

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引っ越しの車


浪江まで開通するや草萌ゆる


原町から乗った老人は5万の放射線量を計る機械をもっていた、それはわかりやすいいいものだった、あれだと放射線量は計りやすい、それを見ていたが浪江に来ても0・3にしかならなかった、浪江は市街は意外と低いのである。
浪江におりて歩いたら通りの店はどこも開いていていない、町の役所まで歩いた。
浪江は広い街であり様々な店や医院もあった、でも眼科があったのでめずらしいと思ったが後で聞いたらあの眼科は震災前からつぶれていたというのも意外だった

大きな病院もあったがむずかしい病気は南相馬市立病院に来ていた、実際に浪江の人が入院していて同じ部屋だった、その人は農業で賞をもらうほど優秀な人だった
それだ大学に娘を三人出したのである。昔の平に野菜などを売っていた。
車で毎日来ていて30分かかると行っていた、その人は重体でありしゃべることもなにすることもできない、わずかに妻が来ると手をにぎるだけであり反応がない
植物人間の一歩手前だったのである。だから見ているだけで悲惨だった
でもそれだけした人だから妻と娘は来ていたのである。

浪江で今仕事はじめたのは警察署と消防署であり消防では訓練していてその声だけがひびいていた。あとは仮設の商店が二軒ほど開いていた、カフェが一軒開いていた、後はなにもない、人はまだ住んでいない、引っ越しの車が見えたりしたからこれから移ってくる人がいるのだろう。

何か6年も人が住んでいないとそこは死の街になっていた、小高もそうだったが浪江は小高より広いから余計にそうなる
小学校なのか中学校なのか時計が3時30分で止まったままになっていた
浪江はこの時計がとまっていらい時間がとまってしまったのである。

浪江駅に来ていたのは仙台からの鉄道マニアが多かった、仙台とかなるとそれだけマニアも増える、しきりに車両の写真をとっていた。
切符を集めている人がいてこの駅はなくなるんだよとか言っていた。
鉄道マニアにはいろいろな人がいる、そういう人と話すると確かに面白い
自分もマニアの一人だからである。それは年齢とは関係ないのである。
仙台に直通の電車が日に三本くらいでる、自分が乗ったのも帰りは直通で仙台に行く二両の電車だった、電車の中で近くの鉄道マニアなのか

「磐城太田は昔は高駅と言っていたんですよ」
「磐城太田はずっと磐城太田だよ、それはいつのことなんだよ」

そんなことを言う若い人がいたので調べてみたら確かに高駅として開業した、当時は立派な駅があり駅員もいて繁盛していたらしい。
高という地名があり字地名でありそれが駅名となった
双葉駅の前は長塚駅でありそれは長塚村が江戸時代の宿場町としてあり長塚駅になった
この長塚駅時代に自分の家が酒屋に父が勤めていて関係していてその話を聞いているから何か親しいのである。

高駅の高は古代の郷名に由来するものらしい、そうなると相当に古い地名でありこの辺は古くから人が住んでいたとなる、このように駅名にも歴史がある

それから原町に下りて原町の通りを歩いた、そして鹿島に帰って今度はシシドスーパーの隣の復興住宅の人がいたので話を聞いた、その人があの眼科は震災前につぶれたのだと言って教えてくれたのである。
その人は車を入念に手入れしていた、車庫がないので車が傷むと言っていた。そしてここに駐車しているだけで1500円とられると言っていた。
その人は室原の人でその親は豚を飼っていた、それは品種のいい豚でありキクチスーパーとかで売っていたのである。
伊藤忠商事とも関係して売っていたという、高速ができたので豚を運ぶのにいいとか言っていたがだめになったといっていた。た
でも伊藤忠商事とかと関係していることはそれなりに大規模にしていた
なぜではその人は原発でも働いていたのかとなる
何かこの辺ではそうして原発で働いたとしても農業していたり二つの職についている人も多かった。手間賃稼ぎに原発で働いていたともなる

その人は室原に帰るために拠点を作るのでそのために室原に時々帰っている、他の原町の人も浪江に一町の畑があると時々見に行っている、ここからだと近いからできる
それも確かに復興になっているのだ。すぐに帰って復興するのではなく時々見に行っては復興してゆく、拠点を作るのは帰ることを前提にしているからである。
5年後辺りには全部避難解除になるというからである。

ともかく浪江の前途は厳しい、まず人が住んでいない、人が帰らないのは小高と同じだが小高は住んでいる人がみかけたが浪江ではいない,これから帰るというがそれも一割程度とかなるととても街を復興することはむずかしい。
ここは原町とも離れているから買物でも不便になる、買物バスとかが出るというけど遠いから不便になる、だからここで帰って来る人は少ないし小高と同じく老人が多いのである
ただ浪江の人との軋轢は南相馬市ではまだ生れていない、鹿島と小高は犬猿の仲になったのは補償金のためだった
ただ浪江の人でも工場を経営している人が仕事をくれと原町の仲間に言ったらお前らは補償金たんまりもらっているからと断れた、だから浪江の人でも南相馬市の人とももめたとなる、現実に浪江の人が南相馬市に住んでいればそうなるのである。
シシドスーパーの隣の復興住宅に には浪江の人だけではない、他から来た人も住んでいるという、どこから来たかはわからない。

それでも県で建てた復興住宅で前の駐車場まで金をとっているというのもやはりもうそれだけ県でも国でも補償できないということなのか?
いつまでも補償できないということはあるだろう、県とか国では早く帰って復興してもらいたいのである。南相馬市でも小高の人に帰って復興してもらいたい
それがなかなかすすまないのである。小高は小高工業が300人とか通うようになるから電車でも駅でもにぎわうようになる、浪江はそういうものがないから復興となるなにか起爆剤が必要なのである。
それが何になるのかこれから模索することになる
観光だったらどうしても高瀬川に行けないのは致命的だとなる
あそこが避難解除されれば外から観光だけにでも来る人はいる、あそこは本当にこの辺ではめずらしい名勝の地だからでる



行方郡は陸奥国だけではなく、同名の行方郡が常陸国にあり、後述の『和名類聚抄』中の多珂郷は常陸国の多珂郡(多賀郡)と同じ名である。在地の国造ではなく、常陸国から来た移民を中心にして郡が建てられたのであろう。
古代の郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉官衙遺跡と推定されている[3]。位置は不明だが行方団という軍団も置かれていた。『和名類聚抄』による読みは「なめかた[4]」で、吉名・大江・多珂・子鶴・真野の5郷があった。

2017年04月03日

春時雨(原町の駅前通りを歩む)


春時雨(原町の駅前通りを歩む)

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原町の通り歩みて春時雨

春日さす通りに鳩や歩むかな

原町の通りを歩み柳かな店を見につつ帰りけるかな


昨日は浪江を歩き原町により食事をした、それは原町の駅前通りだった、ただその食事はエブフライとかだったが味は良くなかった、チェーン店で作るのとは違うプロが作るのとは違う味だった、それは家庭料理の域をでていない平凡なものだった
やはり揚げ方がうまくできない、料理は自分もしたがむずかしいしめんどうなのである。だから自分は未だにまともな料理ができない、これも結局才能だった、向き不向きだったどんな人でも何でもできるわけではないのである。
人間は何かができる得意だとしたらその他のものはできないともなっているのだ

原町の駅前通りはめったに歩かない、自転車で六号線の道の駅にある方に行くからであるそこで用をたしてしまうからである。
でも街に来る楽しみは通りを歩き季節を感じたり買物することである。
通りを歩むのとイオンとかで品物だけに囲まれるのとは違う
通りを歩むとやはりそこに自然を感じるのである。

昨日は晴れていて本当に春時雨だった、春時雨は結構経験している、なんか雨すら甘い感じがするのである。通りを鳩が歩いているのも平和である。
歩いて経験する、歩いて見えるのものが違ってくる
そして現代はこの歩くことが極端に喪失した時代なのである。
ただ通りでも車は通りすぎて行くだけだからである
歩くことは人間回復になる、本来の五感をとりもどすことにもなる

だから通りが廃れたけどこれからまた見直されるかもしれない、高齢化社会になると車を利用しにくくなるからだ
ただ原町の通りは狭いし歩きにくいのである。相馬市は歩き安いし新しい通りを作った
だから歩く楽しみが他よりはあるとなる
城下町の雰囲気がそれなりにあるともなる

本当は通りでも街でも改革しなかぎり人を寄せつけることはできないだろう
旧来の通りはもう時代にあわないからである。
でもそれには相当な改革が必要になりできない、だからかえって津浪で街全体が喪失したような所では新しい街が作りやすいということもある
新地駅周辺とかはそうなった
通りの復活は旧来のままではできないからである。

靴屋で買物した、いい安いぴったりの靴があったのは意外だった、品揃いもいいものだった、いつもイオンとかの靴屋で買っていたがあそこにはいいものが置いてあった
要するに買うつもりではなかったが通りを歩いているとのぞいたりするから買ったりもする、つまり街には人の流れが必要なのである。
そして歩く楽しみがある通りがあればいいとなる
図書館などが駅前にあるのはあっているかどうかわからない
図書館はかえって閑静な郊外とか森の中にあるような所がいいかもしれないからだ
第一じっくり勉強するには本を読むのでもそういう雰囲気が必要だからである。
ただ自分は図書館に10年くらいほとんど行っていない、その時間が今でも家事は追われなくなったからである。

それにしても朝日公園の通りの店の裏が廃屋化していたのはまずい
あんな街の中心があのようだと荒廃している感覚になる
正直駅前と通りは魅力がないのである。ただ春時雨とか自然を感じるというのは違っている、若い女性だったら街をさっそうと歩きたいとかあるだろう
イオンだとかただ買物ということしかないからである。
通りとは街とは商品だけではない、人を見せる場所でもあるのかもしれない
そういう機能が街にはある通りにはある、だからこれから見直されるかもしれない
人間は買物だけではつまらないとなるからだ。




タグ:春時雨

原町のタクシー会社がつぶれた原因? (補償金もらって働く人がいなくなったから?)


原町のタクシー会社がつぶれた原因?

(補償金もらって働く人がいなくなったから?)


山梨の除染に来た労働者は元経営者だったらしい、その経営に失敗して除染員になったのか?
だからいろいろこの辺の事情を知り言えるのかもしれない
駅前を開発するには土地と家を持っている人にオーナー制にして補償する
そして駅前開発をやる、そんなことを言っていた

その人が言うには原町のタクシー会社がつぶれたのはタクシーに勤める人を確保できないからだという、補償金をもらった結果働くのが嫌でそうなったと・・・
これは事実関係がどうなっているのかわからないが現実にそういう状態がこの辺にはあった、多額の補償金をもらった結果、毎日パチンコとギャンブルになったのである。
だからありえていことではないが、これを聞いたときこの辺の荒廃が深刻なんだと思ったそこまでなっているのかそこまで補償金が悪い方に作用しているのかということである。
この辺は特に人手不足といわれ、スキヤでは自給1200円で全国一高いと言われた、それだけ復興事業で外から来る人が多かったからである。
特に若い看護師が流出したとかで不足して病院が維持できないとか深刻な状態になった
介護士も不足している、人を募集しても人が来ないということがある
それは実は補償金のためだともなる、補償金をもらったら働かないとなっているからだ
そしてタクシー会社までつぶれるとなると異常事態なのである。

その人がなぜ飯館村で石ぶつけられたのか?そのことがショックだと今回も言っていた。
それは飯館村でも放射線量が高いところと低い所がありそれで補償金の差が大きいから低い所の家では除染している人に石をぶつけた、でもなぜ除染している人にそんなことするのか?それは除染してもらっても金にならなからやつあたりしたのかとなる
飯館村は一般的に放射線量が高いからみんな同じように補償金をもらったと思っていた
でもやはり差がありその差が大きい所で不満が大きくなっていたのである。

いづれにしろもめごとのあるところに入ると危険になる、NHKの放送で自分もなぜ原発避難民側についているのかと不満になったからである。
だから飯館村が村に残す村長派と補償金をもらって外に出る派と分かれて争っているというのは公平に報道していたのだろう。あからさまに争っているということは南相馬市では報道していないからである。
まずシリアみたいな紛争地に入ったらわけわからなくなり危険になるのとにている
事情が複雑でありわからなくなりとばっちりを受けるから報道機関も慎重さが要求される一方に味方したりしたら危険にもなるからだ

普通だったらこういう危機的状況になったら本当は率先して市町村のために働き復興しようという気持ちになる、それは金の問題ではない、市町村でもそうしてもらわないと困るからである。タクシーだってやはり外から来る人も多かったし必要だったからである。
9人乗りのタクシーで小中学生を小高に送迎するのもやはり学校を維持して教育のために尽力しているとなるからだ。
こういうとき何かそれぞれできることをしないと市町村が衰退して消滅する危機になる
それが小高とか浪江とかで起きているからだ。

自分もだからもともと働いていないが介護とかでできなかったが駅とかが無人駅になったのでボランティアしているとかプログで発言して方策を考えるとか提案し情報を伝えている、そんなこと復興に役に立つのとなるがまずいろいろな人の状況を知り話を聞くとういことからも復興がはじまる、だから役にたたないとはならない
何が問題で何をどうすればいいのかわからないからである。
だから外からの提案も参考になるから聞いているともなる

つまり実際は小高の人はお前は何もできないなら何も言うなとか言うけどこれも傲慢なのである。
南相馬市の一市民だったらかかわらざるをえない、財政負担にもなるからだ
そして補償金は国民が負担しているものなのである。なんでその補償金で遊んでいるだけなんだと批判されるのである。
補償金をもらったからタクシーの運転手などしてられるか、そしてタクシー会社がつぶれとなると一体補償金とは何なのだととなるからだ
もちろんその真偽ははっきりしないが現実にここでは補償金でそういうことが起きたからまるっきり嘘だとも言えないのである。

だから補償金で水俣病でもだめにしたというときにているのだ、補償金が必ずしもいい方面に働かない、その利用を誤るとかえってこのように荒廃して市町村自体が荒廃してだめになる、飯館村だってギャンブラーになったとかだめになるのだ
人心が荒廃してゆくときさらに危機的な状態になり市町村自体が衰退して消滅の危機にさえなってゆく、それが今回のタクシー会社が人手がなくてつぶれるということにもつながる、それは相当に深刻なのである。
でも原町ではそんなにもらっているとは思えないが山側でもらっている、また小高の人でも働いていたかもしれない、その辺の詳しい事情はわからないから明確に言えない
でもありえないとも言えないのがこの辺の状況なのである。
タグ:原発補償金
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2017年04月04日

原発事故周辺の怖い話 (飯館村にも骨が埋まっている?)


原発事故周辺の怖い話

(飯館村にも骨が埋まっている?)


いわき市と西郷村で死体が埋まっていた、いわき市では借金のことでもめごとがありそれで争いになり殺されたと報道した
西郷村も放射性廃棄物場に死体が発見されたから除染とかの関係者だろう
なぜ殺されたのか?
山梨の除染員が言うには飯館村にも骨が埋まっているという
その人は除染していて石ぶつけられてショックだったと言っていた

飯館村で除染というと裏山などを除染して木を切ったりすると一億円かかったとか言われる、
除染の費用も莫大なものなのである。
だからそんな金を除染などしないで個々人でもらった方がいいというのもわかる
その金は実際はゼネコンとか暴力団とか利権化して地元の人に有効に使われていないのである。
結局自治体で有効に使うべき金がゼネコンだとか政治家だとか暴力団に流れて地元の復興には役に立たないとしきりに言うのもわかる
自治体で除染でもとりしきれば相当な莫大な金が浮く、それが復興資金になる
それもしなかったので肝心の復興のために金が回らなかったという。

何かこの辺は除染関係者や工事関係者とともに暴力団関係も入ってきた、郵便局に若い人が腕に入れ墨をした人が堂々とそれを見せて窓口にいたのは驚いた。
そういう人もかなり入ってきたのがこの辺だったのである
韓国系だかなんだかわからないが売春婦も入って来たとか言うのはそれだけの需要が生れたのがこの辺ではありそれとともに治安も悪くなったのである。

ともかく飯館村などというとそんな話題もない、平和な村だったのである。
今は村を二分して補償金でもめていたりする、原発周辺はみんなそうである。
その巨額な金のために政治家が官僚が利権化してゼネコンとか暴力団に金が流れて肝心の復興のためには使われていないともなる

この辺は正常ではない、異常化した世界にもなった、それは原発誘致してから東電は金のなる木だったから政治家から官僚からマスメデアから地元の人たちも群がったのである。漁業権者は一番金が入っていた。漁業権を売り渡したからである。
そういうふうに原発は巨額な金を生むものであり事故後もそうだった
かえって事故後の方が巨額な金が補償金として支払われたのである。
それで水俣病になった所では補償金で村は破滅したとその経験を書いている
金がみんないいものとして働かないのである。
補償金もらったら働きたくないとかなったりして毎日パチンコとかギャンブルになったりしたのもそうである。

モラル的には相当にこの辺は荒廃した、かつての平和は失われた、前から別にこの辺の人たちがいい人だとか素朴な人たちだったということは今ではない、やはりどこでも今は金、金、金を求めているのは変わりないのである。
ただ飯館村などでも暮らしが隠されていたので見えなかっただけである
それが補償金のためにその醜い人間の欲がむきだしになってしまったのである。
でも除染も終わりになり工事関係者もすでに少なくなっゆくと今度は市町村自体が高齢化社会になり衰退してゆく、南相馬市でも高齢者が65歳以上の人たちが他より10パーセント増えている、災害復興住宅に浪江の人たちが移ってきたとしても老人が多いのである。
若い人は流出しているからだ。
その若い人たちも補償金もらったら仕事はしないとなる
そんなことで復興できるのかとなる、だから金だけでは問題は解決しなかったのである。国では金をやればいいとしてもそれを有効に復興のために活用できなければなににもならない、かえってその補償金のために争い復興の障害になってもいたのである。
タグ:飯館村
posted by 天華 at 09:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年04月05日

避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句


避難解除した飯館村の春をめぐり短歌十首と俳句

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真野川の上流
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根元石
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根付き石-ここには人は住まなくなった

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滑の残雪
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クリック拡大ー残雪の吾妻嶺
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森につつまれ一軒一軒ある家
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クリック拡大
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前田の古い碑ー江戸時代のもの 

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前田の墓地にあった老木、

俺はここに残って死にたいんだ

そんな執念のような木に見えた


 


大倉や春の日さして根元石
飯館にまた人住まむ春の雲
春北風(はるきた)や峠を肥えて伊達に行く
前田には古き碑並び残る雪
春日さし老木の墓地に残るかな
飯館に春田のなしも悲しかな
春日さし石あたたむる動かざり


川上の春の流れの清しかも瑞枝の影のやわらきかな
清流の磐打ちひびき流るかな残れる雪のここに清しき
天上に浮かびしごとく残雪の吾妻峰仰ぐ神々しかも
山津見の社や遠く奥深し残れる雪に住む人ありぬ
知られざる道に誘われ春の日や遠くに行かむ山を望みて
八石山石切り場かな飯館に営みありて春の日さしぬ
前田より開けし土地や古き碑のここに並びて梅におい散る
広々とと飯館めぐり春の日や深く息して帰りけるかな
飯館の広々として春の鳥さえづりつつもわたり飛ぶかな
根付く石ここ離れじも淋しか春は来れど人住まぬ家
飯館に春の灯ともれ人影にほのぼのとして村も活きなむ

飯館の佐須から霊山に行きまたもどり山津見神社から八つ石をめぐり前田に出て臼石から草野を回り大倉から真野川に出て帰ってきた
つくづく山津見から前田の方には行ったことがない、飯館村は本当に広いからまだ行っていない道がある。
前に阿武隈高原の魅力が道にあると書いた、道が縦横にありどこまでもある。
その道を春の日がさしてきままに誘われ自転車で行くとき気持いいのである。
ただ介護十年で自由が奪われたので行けなかった、三食用意するとなるといつも追われていてゆっくりできないからである。
いつ帰ってもいいなと思うと楽であり追われることもなくなったのである。

飯館村は奥深いからところどころまた雪が残っていた、やはり寒い所なのだと思った。
あたたかくなったから雪は残っていないと思ったからである。
ただ最近まで寒い日があったから雪が残っていても不思議ではない
佐須から峠を越えて伊達市に入り霊山から望む吾妻峰は雪が厚く最高の景色であった
山は見る場所によって相当に印象がちがう、季節によってもそうである。
福島市から吾妻嶺を見てもそんなに美しく見えないのである。それも富士山でも同じである。場所や季節によって山の見え方は相当に違うのである。

今回は大倉の奥に木の根元にあったから根元石とか草野から大倉に出る所の石は根付き石とかなづけた。ぽかぽかと春の日がさしていた、そして石はそうして春の日がさして気持ちよく動きたくないとなる、老人になると特に動きたくなくなるのだ
「ここがいいな、ぽかほか春の日にあたたまって」とかなる
老人になるとそうして慣れ親しんだ所がいいのであり移動するのが不幸になる
だから大内村とかで70ハーセントも帰るとか飯館村でも30パーセント帰るというとき老人が多いからだろう。老人は慣れ親しんだ所に帰りたいのである
原発事故の酷さはそういう場を奪ったことにもあった。老人に過酷だったのである。

ともかく飯館村は何軒か避難解除になって住む人がいた、でももう住まない人もいて空家になっている、根付き石の所にある家も壊されていた、人が住まないということはどういうことになるのか、そして普通だったら春田になっている、春田というときこれから田に水が流れて田植えがはじまるという時期の田であり単なる荒地ではない
今はその春田がなく荒地になっている、そういう暮らしが消えるときそこは何なのだろうとなる、飯館村は広いから牧場とかあり土地が広いからそこをどう利用するのかとなる
ソーラーパネルとかになりやすいのである。

次回も飯館村に行って感じたことを書く
posted by 天華 at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村

とある田舎駅の人間模様 (春の日に盲人を導くー短編小説)


とある田舎駅の人間模様

(春の日に盲人を導くー短編小説)


つくづく駅にはいろんな人が来るものだと思った。今日来たのは盲人だった、その人はヘルパーなのか若い男が助けて駅まで来た
それで聞いてみた

「どこへ行くんですか」
「浜吉田です」
「あそこも津波の被害がありましたので驚きです」
「駅も津波をかぶりましたよ」
「そうですか、早く復旧はしたようですが」
「2年目でした」
「浜吉田はやはり浜が近かったんですね」

そこで目について失礼とは思ったが聞いて見た、何か駅というところは見知らぬ人でも話やすいことに気づいたのだ

「目が見えないのは一番辛いでしょう」
「30才になって見えなくなったんです」
「そうですか、30才までは見えていたんですね、じゃ社会のことがわかってから見えなくなった」
「ぼんやりとは見えることは見えるんですけど」
「全然見えないのとは違う」
「目が見えないと音には敏感になりますよ」
「そうでしょうね、でも目が見えないのは一番辛いと感じる」
「まあ、外にも辛いことはあるでしょう」
「電車にのるのは怖いでしょう」
「まあ、なれていますから」

まず盲人などと話したことがない、ただどこでもがある視覚障害者誘導用ブロックはあるのでここを盲人が歩くということは知っている、でもそんなに盲人が歩いているのを見たことがない

2種類あって誘導用のものが線状ブロック、一時停止、注意を促すものが点状ブロックです。

そういえば確かにそうなっている、ここまで普通の人は注意していない、良く見るとその誘導用ブロックはホームのトイレまで導いている、つまりいたるところにあるのだ
普通だと電車に乗るのは危険だし怖いと感じる、ヘルパーが必要にも見える
それで自分が電車が来て誘導したのだがその時杖でたたいて乗るのだが結構危険だった
ただ車掌が見ていたから安全ということはあったのかもしれない
なぜか自分に車掌が挨拶して去って電車は去って行った。
駅員なら車掌も安全確認とかするのかもしれない、なぜ無人駅のボランティアの自分にしたのか、それは盲人を導いていたのでそうしたのかもしれない。

ともかく意外と田舎駅でもいろいろな人が乗り降りするものだと思った。
一番多いのは仙台へ行く人と来る人である。

「この駅には花がさしてあっていいじゃない」
「あれは自分がさしたんですよ、金盞花とか万寿菊という花でしょう」
「気がきいてるんじゃない」
「この花は長く咲いているんで好きなんですよ」
「花があるのはいいことよ」
「無人駅なんたけどやはり人がいないと困ることあるんですね、それで近いもので駅を見に来ているんですよ」
「常磐線も仙台まで開通して良かった、電車のありがたみがわかったね」
「そうですね、バスは不便だったから」

駅では良くホームで見送りするけどここは無人駅なので出入り自由になっている、それで見送りすることが自由にできるのもいい、駅で見送りすることが人間的な光景なのである今日は春の陽気であたたかった、それでまた一句作る

春日さし盲人導く田舎駅

万寿菊駅に明るくまたおいで

自分でもこの駅で毎日人と会って話しているのも奇妙である。なぜそうなったかというと家族がみんな死んでから家にいるのが淋しくなったからである。
だから今までは家族がいるときは介護していても淋しいことがなかったのである。
家族がいなくなると家ががらんとして淋しくなるのである。
妻をなくした一人暮らしの人がそのことをしきりに言うのもわかった。
そして一人暮らしの人が人ごみのなかにデハートなのかスーパーなのか行って淋しさをまぎらわしているという気持がわかった

駅前にはいつもタクシー会社の人がいる

「タクシーも歩合制ですか」
「まあ、おいしい商売ではないよ」
「歩合制でもある額を越えないともらえないよ」
「近くだと600円くらいだからな、数をこなすのも大変だ」
「基本給はもらいるけどいい商売ではないよ」

このおいしいというとき暴力団風の人が国から受注する仕事はおいしいと言ったのでタクシーの運転手がおいしくないというときそういうことがある。
おいしいというとき株とかなにか労せずにもうけることである。
でも何か一般的には仕事は地道であり目だたないし大きな収入にはならない
でも駅で見ていたら9人乗りのタクシーがありそれで小中学生を送迎している
すると一見タクシーは人を運ぶだけのものであり何の役にたっているのかと思うが実は
そのことは教育という仕事にもなっていたのである。
教育は先生だけが知識を教えるものばかりと思っているが違っていた
つまり裏方としてタクシーの運転手でも給食を作る人でも協力しているのである。
要するに仕事とはみんな部分をになっているからそれでタクシー運転手ならただ一区間を運ぶだけの仕事だとなり仕事の生きがいが感じられないともなる
何かこれだけ複雑な社会では人間の仕事はどうつながりあるのか見えないのである。

だから駅に来てみてそれが見えたということがあった、いろんな人が出入りしているのが駅なのである。いろんな人と接するのが駅なのである。
遠くの人とも接するからそれは外部とのつながりのある場でもある。現実に外国人も来ていたからである。
もともと鉄道の旅が長いから鉄道好きである。でも駅で別に話したりしなかった。駅はただ一時よる過ぎ去る場所にすぎないのである。
でも駅にはいろいろな人が出入りするものだと思った。高校生などは毎日通学しているし通勤している人もいる、でもこうして盲人なども来るということが違っていたのである。

2017年04月06日

飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


飯館村考(歴史をさかのぼり現状をみる)


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●みなみそうま(南相馬)と記された古文書があった

真野川をさかのぼり真野ダムにでる、そこは大倉である。ここは岩松氏が相馬氏などが関係して岩松氏が滅ぼされてその奥方が逃げた場所であり湯舟とかの地名が残っている
奥方が妊娠してそうなったとかある。大倉に逃れてきて悲劇の死をとげた。
草野は岩松氏の所領にあった。ただ相馬氏の岡田氏とか伊達氏もかかわり所領争いがあった地域である。前は大館とかがあり中世の館があり飯樋問と大館が明治に合併して飯館になった歴史がある。

地名にも歴史があり由来がある。面白いのは相馬岡田文書に

ゆつりかわたすそうまの小次郎たねもりのあとの事

下総(しもつさ)のくに、みなミそうまのうちいつみ(泉)のむら、ならひのむつのくになめかたのこおりおかたのむら(岡田の村)、このところは五郎たねやすそうりょうしきとして永大知行すべし


しもつさの国ミなミそうまのむら、かなやま(金山)、かミやなと、ふなつ(船津)
ならひにミつの国なめかたのこおり(郡)おかたのむら(岡田)やつうさぎ(八兎)
いといのかりくら、(飯樋、狩倉)かのところはたねやすちうたい(重代)さうてん(相伝)のしりょう(私領)たる間・・・

ここにみなみそうま(南相馬)として出ていることである。すると南相馬市の由来はここにある、ただその領域は小高中心なのである。
もともと小高に相馬氏の城がありそこが相馬氏の中心であり拡大した、それで鹿島はその小高から北であり北郷となっていたのである。当時のみなみそうまとは小高中心であり原町の領域、中ノ郷は入っていないのである。
ただ歴史的にみなみそうまというのが古文書に記されていたことは重要である。
ではなぜみなみそうまなのか?この時むしろ北を意識してみなみそうまと記したのだろうか?わざわざみなみそうまと記すのはなぜなのか?
つまりみなみそうまとは今の南相馬市とは領域が違っている、原町(中の郷とか北郷(鹿島)は入っていないのである。小高を南相馬としていたのである。
ただすでに南相馬市(南相馬)という名称があったということである。
すると南相馬市は歴史的地名なのかとなる。ただこれがどうしてみなみそうまになっていたのか?その解明が必要になる

●伊達市になったとき感覚的その領域が拡大した

伊達市というとき

1898年(明治31年)1月19日 掛田村が町制施行して掛田町となった。
1928年(昭和3年)1月1日 小手川村が町制施行して月舘町となった。
1940年(昭和15年)4月1日 長岡村が町制施行して伊達町となった。

2006年(平成18年)1月1日 伊達町、梁川町、保原町、霊山町、月舘町が合併して伊達市となった。

伊達町があったとしてもその前に伊達町はなかった、長岡村だったのである。伊達市というとどうしても伊達政宗をイメージする、相馬市とか南相馬市だと相馬氏を意識するようになった。
それで佐須の峠を越えるとき伊達市に入るとなり感覚的に前とは違ったものとなる
前は霊山町だったから霊山神社があり南北朝の由来にもとづく地名として意識していた。た、伊達市になると南北朝時代から伊達政宗と相馬氏が争った戦国時代になる。
ここから伊達市に入るというとき伊達政宗の時代を意識するのである。
それが地名の大きな影響なのである。もともと

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

といわれたように境が意識されていたし現実に境があった。飯館村では岩松氏の所領ともなり相馬氏の所領ともなり伊達氏も領地争いにかかわっていた。

「草野通率一族」とあるように相馬一族のものが草野村の一部を所領していた

「草野通」とあるようにこの村を一筋の道があって行方郡と伊達郡(小手保9を通じて知られていた

これは地理的にも今でそうである。原発事故避難区域になっていてもこの草野通だけは交通として閉鎖されず通じていたのである。これはやはり地理がわからないと歴史も理解できないのである。

●前田は草分けの地、注意すべき戦後入植した人たちが多いこと

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前田 
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豊栄は戦後入植した地名


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ここに入植した人が住んでいた

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山津見神社から前田に出たが前田というときそこは必ず草分けとなった農家がありその前田から村が発展したのである。
前田には江戸時代の古い碑が並んでいたことでもわかる、他でも大原の前田という地域は大原の奥にありそこに南相馬市立病院で同室だった斉藤氏が住んでいた。
その家は代々つづいた古い家だったのである。その人はすでに死んだ
その前田からさらに八木沢の方へ遠田という地名があることでも前田を中心にして大原があり拡大したことがわかる

佐須というとき佐須は焼き畑の地名である。他にヒソとかもそうだった。最初に入ってきたのは焼き畑をする人たちだった。縄文時代から人は住んでいてもそのあとは焼き畑をしていた。飯館村というとき何か新しい感覚になるけど古い村から成り立っている

比曽村には氏神を祭る社があり中に古い鉦が下がっていて延亭2(1745)年の年号と先祖の菅野伝左衛門の銘がありました

比曽村にこんなに古い由来があったのかと驚く、ともかく飯館村は広いのである。
何十年も前に一回くらいか比曽村とか長泥村を通った記憶がありそこにも古い碑があったのである。
葛尾村にも元禄の碑があったからあそこも古い、草野になると鎌倉時代からはじまり館がありそれが今の飯館村になっている。

ただここでまぎらわしいのは飯館村の人口をみると

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戦後開墾に入った人たちが多くそれが混同しやすいのである。一万人近く飯館村の人口があったことに驚く、それは戦後引揚者が生活の場がなく農業で生活するために辺鄙な山村にも入ってきたからである。
例えば自分が知っている人でも小池でも町に近い所に開墾に入っている、菅野漬け物の倉があったところにである。そんなところが開墾する場だったのかとなる
それだけ戦争が終わり仕事がなく開墾に入った歴史がある。
それは全国的にそうであり浪江の津島でもそうでありそれで苦労したので団結力があると報道されていた。
第一一万人も飯館村に生活していたということが驚きなのである。どんな生活をしていたかとなると相当に貧しい生活である。炭焼きとかが主流となっていたのだろう。
それは現金収入にもなり豊になった人もいたからである。
あとは木材とか石材の供給地でありそれなりに生活できていた。その後は牛を飼うようになった。

この戦後入植してき来た人たちは山村に多いことを注意する必要がある。飯館村でもそういう場が多いからだ。豊栄とか共栄橋とかの地名は開墾に入った場であり昔からある地名ではないのであく。戦後開拓に入った人たちがなづけた地名である。
それで豊栄辺りで聞いてみたらやっぱり戦後開墾に入ってすみついた人であった
その人はそこに避難解除になり住んでいる、息子は川俣の会社に勤めているという。
もともとは農家であり牛などを飼っていた。
今飯館村で仕事しているのは菊地製作所とかの小さな工場である。他は仕事をしていない
牧場があり牛が放牧される広い土地がありそこは何にも使われていない、そこがこれから何に使うのか?ソーラーバネルとかになりやすいのである。
すると飯館村の景観は破壊されるし昔の飯館村とは違ったものとなる

飯館村のモニタリングポストでは佐須とかで0・6とかある、でもモニタリングポストの放射線量は実際の半分なのである。なぜなら土をけずりとって設置していたからである。
自分もその脇を計ったら倍だったからである。
そもそも名もあのヴらなモニタリングポストが必要だったのかとなる、放射線量をごまかすためにかともなる、それも本来の復興のために金が使われなかったということなのである。
ただ飯館村はもともと放射線量が高かった、草野で7くらいもあった、だから今でも0・6とあっても実際はその倍にもなるとなると今では相当高いともなるからそこに住むのが嫌だというのが理解できるのである。
それで裏山の木を切って除染したのに一億円かかったというときその一億円をもらった方がいいというのもわかる。除染してもまた山から森から放射性物質がでてきて減らないからである。だからなんのために除染しているのかとなる
無駄な金かゼネコンに流れただけだともなるからだ。

それで村に居残る派と補償金をもらい村を出る人に分かれ争いになった。
ただそうなると一体江戸時代からある古い村はどうなるのか?元の自然に環るのかとなると還らない、そこはソーラーバネルとか放射性廃棄物の処理場とかにされる
なぜなら土地をもっている人がいるしその人たちに権利があり金にしたいとなるからだ
ただ荒地にしていても金にならないからである。
小さな工場だけが仕事しているというとき農業ができないからである。
農業がない飯館村がイメージできない、ソーラーバネルを見るだけとなったら飯館村の魅力はなくなる。だからこれからの村造りをどうするかとなるとその解答は簡単に出ないのである。
でも何軒かは人が住みはじめたから人が住まないことには村も活きてこないのである。

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佐須で0・7は高い、この倍にはなっている
posted by 天華 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村