2017年03月26日

私たちのこれから認知症社会 (NHKの番組では厳しい現実を示さない)


私たちのこれから認知症社会

 (NHKの番組では厳しい現実を示さない)


 今回のNHKの認知症社会はあまりにも現実からかけはなれていた、統計的には数としてはその厳しさを示していたがその内容は甘いものとして見ているしそういうものしか示していない、家族が認知症になったら社会でどうみるのか?
それがあまりにも甘いものであり現実を見ない無視したものだった
認知症になったらその人は人として見られないし馬鹿になったと差別されるし家族すらそうである。それは知的障害者をもつものと同じになる
社会がそんなにそういう人に配慮したりやさしく接したりしない

この世の現実を自分は介護十年で自ら病気にもなり嫌というほど味わった
むしろ人間は弱者化すると食い物にされる、相手の弱みにつけこみやりたい放題になる
人間のその恐ろしさを味わった、人間はそうした残酷さをそうして弱者になるときむきだしになるのだ、それは戦争とか異常な状態でも起きてくる
シリア難民は女性が食い物にされるとか弱者につけこまれるのと同じである。

この世が認知症になったからといって回りが社会が親切にするなどありえないのである。特に現代社会はもうそうした義理人情とか隣近所とか助け合うとか全くない。
相手が弱者化したら財産を奪ってやろうとかそんなことを考える人はいる、自分は現実にそういうことを嫌というほど味わってきた
相手はこいつから金をとってやろうとしかなかった。弱者は最もやりやすくなる
それが人間の実体でありどうして認知症の人に親切にするのか?


行方不明者が一万になったとか誰もそんな人のことをかまわない
そしていつも若者は叫んでいる、老人は早く死ねと安楽死させろとか言っている
それが本音であり認知症の人にやさしくする心など全くない、介護士などでもただ安月給でしかたなくやっているだけである。
それは看護師だって老人にはやさしくない、病院でそれは経験した。
病院は体を物体のように見るが心はみない、無機質な冷たい空間である。

認知症の人が安心して暮らせる社会などありえないのである。その厳しい現実を見ていないのである。そんな社会があるとしたらその社会は天国かもしれない
実際はこの世は弱肉強食の地獄である。そんなことみんな実際の生活体験しているのだから今回のNHKの番組はなんら認知症についての将来の危惧に答えるものでもない何の役にも立たない番組だった
現実を見据えない番組はただ絵空事でしかないのである。
NHKには現実を見据えた番組もあるが今回のように現実とまるでかけはなれた番組もある

認知症に家族なった人や本当に認知症になった人の現実は厳しく過酷である。
人間は弱者になることは何でも厳しい、シリア難民とかもそうでありそういう人たちは食い物にされるのである。
人間とはそうして本来そうした悪質なものなのである。
それが相手が弱者化したりする露骨に現れるのである。
人間の本性が現れる、戦争のときとか異常な事態の時、その獣の本性が現れる
それで沖縄で日本兵が怖いというより地元の人、隣の人にでもレイプされるのが怖かったとかいうのは本当かもしれない、一番身近な人が最も質が悪いのである。
そういう人間社会が認知症のような弱者になった人に親切にするのか?

認知症の悲劇は社会的に優秀な人、貢献した人でも馬鹿になってしまうという恐怖なのである。そのことをプログで書いてきた。
こんなに優秀な強い人がこんなになってしまうのか?これが人間なのかという恐怖だった
そしてあえなく死んでしまった。人間ははかないなとつくづくなってしまう。
ただ認知症になったからといって人間でなくなってしまうわけではない
記憶障害だとしても人間としての何か基本的なものは失わない、そして不思議なのは時々正気にもどることだったのである。
特に死ぬとき正気にもどる、だから馬鹿として扱えないむずかしさがあった。
正気となると介護している人でもその人をみているからである。
特に家族だとおろそかにできないことがあるから苦しいとなる
全然わからなくなった人ならそうはならないからだ。
良く世話してくれたなとかわかる場合があるからだ、何かそういうことはわかるのだ
この人はいい人だとかもわかる、ただ記憶障害がありそれでわからなくなったのかと錯覚する。

いづれにしろ認知症の人が安心して暮らせる社会などこないし作れない、そんな親切な社会があるとしたら現実が弱肉強食の社会になっていない天国になっているだろう。
つまり別に認知症がふえるからといって老人が増えるからといって親切な社会なとこないからである。
弱肉強食の社会の延長として老人社会もあり認知症社会もある、ただ違うのは人間は必ず年取るから弱者と化す、今は強者でもなんでもそうである。
例え大金持ちであっても認知症になったら金の管理も銀行からおろすこともできないのだから何にも役に立たないのである。その驚きを経験したからである。
最後にいかに強者でも弱者になるのが人間の運命なのである。
弱者化した老人をいためつけるのもいいがその痛めつけるものも最後は弱者化していためつけられるのである。それがカルマなのだ。
人間はそういうカルマを生きる運命にある。そのカルマから逃れることができないのである。

いづれにしろ認知症の人か安心して暮らせる社会はありえない、ではどうするのかというと自分にもわからない、ただ何らか孤独死でも覚悟しておく必要がある。
介護状態にならないようにして死ぬとういことである。一番いいのは働いているうちに死んでいたいうのがいい、そういう死に方をしている人もいる
仕事していたが一週間くらいして入院して死んだとかである。
そういう死に方は弱者化して死ぬとも違っているのである。仕事しながらたちまち死んだともなるからだ。弱者化するとは長い間病気になるとか介護状態になるとか認知症でいつまでも生きているとかになることである。
だからそういう死に方が理想的なのである。認知症になって差別されて馬鹿にされて生き恥をさらして生きるのは恐怖なだけなのである。


農民なら農作業中に死んだとか、画家は絵を描いている内に死んでいたとか、作家は文章を書きつつ死んだとか、普通の人でも自転車屋は修理していたがそのあと急に病気になり一週間後に死んだとか、医者でも90歳まで患者を診ていて一週間くらいで死んだとかあった。平凡な女性でも料理を作っていて死んだとかなればそうである
人間はだから仕事する、仕事を持つということが大事である。
仕事がなくなると認知症になる傾向が強くなるのである。
社会から無用化して廃用化してゆくことが危険なのである。

体を動かすための神経系の調整能力などもそうであり、考える力、などという能力にも廃用萎縮があると思う。

私が行っているのは、その萎縮している機能に気づかせて活性化させているにすぎない。http://blog.sakura.ne.jp/cms/article/edit/input?id=179217012

知的な面でもこういうことがある、それはパソコンのソフトを使うことでもわかる、パソコンのソフトは使いこなすこと、その機能を十分に引き出せないことなのである。
抽象画をしてみてそれがわかる、ソフトを使いこなすのむずかしいのである。
それは絵の才能が全くないとしてもソフトを使いこなせば抽象画ができるからである。

だから認知症の予防の幼稚な運動とかバズルとか計算とかは役に立たない、むしろ料理をしづづけるとか仕事をすることが大事になるのである。
死ぬ間際まで仕事をもつことが大事になる、それが現代だと会社をやめると社会的役割まで終わりにされてしまうことが危険でありそれが認知症にもつながる
それで老後は仕事を持つ人ともたない人では大きな差がでてくる、一見遊んで暮らせるからいいと見えてもそうではない、金のない差も大きいがその人が仕事をもつかもたないかの差も大きい、それは老後はもう金になる仕事というのではなく仕事そのものをもつということである。金にならなくても芸術家のように作品の完成のために生涯精を出すということである。それは平凡な仕事でもそうなのである。

そういう仕事をもつということがやはり老後の課題なのである。
なぜなら退職してからも老後が20年とか長くなっているからである。
その仕事がどういうものになるかはその人によって違うからどんな仕事をしなさいとかは言えない、仕事は他人の仕事の価値もわからない人も多いからである。
老後は金で計れないものにも価値がでてくる場合があるからだ
ともかくWORKというとき作用しているとか機能しているとかの意味がありそれは脳を活性化しているということにもなる、それがなくなると廃用萎縮してくるらか認知症になりやすくなるのである。







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原発事故の国民負担50兆円 (なぜ国民は怒らないのか?)


原発事故の国民負担50兆円

(なぜ国民は怒らないのか?)


原発事故の国民負担(武田邦彦プログ)


原発事故で驚いたのは補償金がこれほどに出せるものなのかということだった
この辺ではだからいくら補償金をもらうかしか関心がくなった
金さえあればどこに暮らしても変わりがない、スーパーに行けばなんでもある
金さえあれば何でも買える、消費者王様だという社会である。
それで仮設に避難した小高の人は「私たち鹿島の人たちを買物して助けているのよ」と言っていた。鹿島の人が補償金が少ないの何の関心もなかったのである。
要するに別に鹿島の人に助けてもらえなくても何にも困ることなく生活できたからである
もし食料もない、何もないとなればそれをもらったりしたらそんなことはないからだ
そういう不便は全く感じないからだ、ただ土地は無料で借りていた便宜を計られたくらいである。でも別に鹿島の人に助けてもらっているなど微塵も考えないのである。
それは別に小高の人が悪いというのではなくそういう社会になっていたからである。
消費者が王様であり金がもつものが一番偉いというのが今の社会だからである。

ただ補償金というのは特別なものであり普通の生活で正当に得たものではない、それが一番露骨に現れたのは漁業権者だった、漁業権を東電に売り渡して事故前も多額の補償金をもらい事故後もさらに損害があったから補償金が増額されてゆき汚染水が海に流れたとなればまた補償金が上積みされる、原発事故の結果としてさらに補償金が増大してというのは何なのだろうとなる、ただ津浪で大被害にあったが漁港に住んで船主ではない人たちは天罰だとか言っていたのはそういう事情があったからである。
そんなふうにして得る金は何なのだろう、回りの人が許すものかとなる

補償金でかえってつぶれかかっていた商店とかはこの際借金でも払ってやめたとかある
跡継ぎもいないとかすでにもう経営ができない状態になっていた
そういう店などはかえって補償金をもらって良かったとなる
補償金はすべて悪い面だけに作用してはいない、それでかえって得したという人たちもいたのである。でもそれは避難区域になったはところであり一部である。
原発被害地域は広い、浜通りだけでもいわき市は30万として相馬市でも4万とか中通りでも被害があったしそこは人口が多いけど補償金はもらっていない、確かに事業者の補償はあったとしても一般の人はないしその補償金も打ち切られるから倒産する会社が増えるだろうと予測している

漁業権者の場合は極端にしてもそういう金でありだから回りの目が厳しくなった。
だから最近そのことに気づいたのが飯館村でも避難した人は出身を言わないという、回りから補償金もらっているだろうと言われるからである。
小高の人の場合は前はそういう遠慮もなかった、かえって自分でもそうだが文句言うなとか責めてきていたのである。そこに根深い対立が生れたのである。
その対立は地元を分断した。浪江の会社経営している人は原町の仕事仲間に仕事をまわしてくれと言ったとき、あなたは補償金もらっているんだからと断れたという。
それも一理ある、なぜなら事業者となると補償金の額が軽く億とかなるしその額が大きいからである。するとうらやましいなとなる
でも今になると浪江の人たちは県で建てた災害復興住宅に住んでいる、すると原町であれ補償金をあの人たちはたんまりもらっているだろうなとなる
だから補償金が必要でもその金によって地元でも協力できなくなったのである
ただボランティアはそんなことないから歓迎されていた、しかし地元で心が分断されたのであり地元はかえって冷たいというとき補償金のためだったのである。

ともかくそもそもこんなに補償金が出るということの驚きと廃炉事業でも除染でも原発事故の処理には武田邦彦氏が50兆円かかるというから驚きである。
その負担は国民がするのである。そもそもそんな金がかかるとしたら

50兆円もかかる、原発なんかやめろ

国民が怒るはずである。でも国民は原発避難者に対して子供のいじめとかになっているがそんなに税金を負担することに怒らないし原発をやめろとも抗議しない、それは国民的運動になってもいいはずだかそうともならない、議論すらしていないとも言っている
争いになるから議論はしないという、いくら争いになるからといっても50兆円となると国が傾くような金なのである。それになぜ国民が怒らないのかわからないとなる
人間は余りにも大きな金とか大きなことには関心がなくなるのかもしれない
隣の人の月給とか近くの人がとれだけ金をもっているとか何に使っているとかいい車をもっているとかなると異常に気にしてもそういう大きなことは無関心になる

電力会社にしても一年に5000億円くらいしか全部で利益を出していなとしたら50兆円という金はその百倍の途方もない金である、そんなものを経営として成り立たないしやらないでも別に会社でその損失を払うわけではないから原発をやめないという。
その損失は全部国民が払うからいいとなる、そしたら電力会社でも普通だったら東芝であれシャープであれ大企業でもつぶれて社員は路頭に迷う、だからこそ会社経営でも真剣になる、親方日の丸だと真剣にならないということがあり現実に東電の経営者は罰せられないからである。
もちろん武田邦彦氏も実は原発事業に参画していた責任者だったという指摘がある。
そして原発推進者だったという責任者でもあったのだから罰せられ方の側にいた人であり今になって原発反対を言うのはおかしいと言う科学者もいる
原発の御用学者の一人だという批判があるからそんなこと今になって言えるのかということもある。

とにかく補償金は必要にしてもそれが地元でいい面にすべて作用したとはいえいない、悪い面マイナスとして作用した面も大きいのである。
だから原発事故を金だけで解決することはできないものだった
ズタズタに地域が分断されて回復不可能にさえなっているからである。
その後遺症がまた大きかったのである。
復興するというとき地元の人が協力しあうということが必要であり金だけではない、協力しあう助け合う気持ちが必要になる、それが補償金問題でなくなった
すると避難した人たちも金をもらっても肩身を狭くしているからいいものでもない、どっちにしろいいものとはならなかった
第一原発の被害地域は広いけど補償金をもらったのは一部である、するとその回りのものは不満になる、そんなに補償金が払えるものではない、国がつぶれてしまうほどの額になるからだ、そこに国民の不満があっても鬱積して子供のいじめになるだけでありもう原発はやめろと国民運動にもならないのである。
何であれ人間は金にはシビアだから50兆円もの金を湯水のように使う原発に抗議しないというのも不思議だとなるのである


posted by 老鶯 at 16:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連