2017年03月18日

春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る



春の日に原町の街中の牛飼う農家から原ノ町駅を見る

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パノラマ写真ーソーラーパネルがあるのも今の風景である。
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この石はいい石である、これだけの石があり新築である。
誰が建てたのか?気になるが原町は広いからいちいち気にしていられない

古いままの原ノ町駅

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ここにレールが使われていた




紛々と梅のにおふや晩年に

梅林や牛に山鳩畑かな

街中に牛飼う家や春の雲

大石をすえて新居や梅におふ

春耕や残る街中の畑かな


久しくも一本松のここに立ち一つの池の水ぬるむかな


梅は盛りでありいたるところにおっている。晩年というとき一見年取って嫌だなとみる。でも自分はあらゆるものを深く見れる鑑賞できる、詩などもいいものが創作できる
今まではなかなかいいものが作れなかったが自然にできるとなる
やはり芸術などもなかなかすぐには理解できないし創作もできない
それだけ自然を知るのには歳月が必要だともなる
普通の人だったらどうしてもそうなる、だから大器晩成とは別に大器でなくても理解が深まるし創作もできるようになるのだ。

今日見た風景は変わっていた。六号線の高見町から海の方に行くとそこは工場があり倉庫などがある一帯である。渋佐地区になる
仙台にも卸町とかありそういう場所であり景色は良くない。
でもそこに牛を飼う農家があり畑もあった。この風景も不思議だった。
こんなところに農家があり牛を飼っているというのもにあわない風景だった
この辺はもともとは田畑であり農家があった所である。

この梅林に山鳩も来ていたし鳥がとまっていて春の雲が浮いている
何か牧歌的だなと思うが全然そういう場所ではない、第一ここに農家がある、牛がいるということがそぐわないのである。
でもこういう場所がまだ街中に残っていたことはなごむともなる

何かこの辺でも新築の家が増えた、浪江の人が建てた家もあった、小高の人も建てたし相当に原町でも新築の家が増えた、原町はこの辺では一番住むには便利だからである。
原町は大きいからわかりにくい、鹿島区くらいだとすみからすみまでわかるとなる
それでもわからないものがあるのが現代の社会なのである。

今日は原町駅に行き原町の駅舎を見た、そしたら意外とそれは鹿島の駅舎と同じく明治30年に作られたままのものだったのである。
改装はしても中味は変わっていなかった。
南相馬市のチャンネルで原町駅のことを説明していた。
ホームにレールが使われていた、あれは気づかない、なぜレールなど使ったのだろうか?やはり明治となると鉄が貴重であり建築するにも利用したとなる
壁は自分の家がそうだったように土壁だったろう、するとまるで大きな農家のような造りだったとなる、原の町駅は大きいから昔は残っていないと思った。
蒸気機関車のとき方向転換する場があり大きな駅だった、今は半分くらいに縮小している

高校のとき通った駅だがその時蒸気機関車だったけど鉄道自体に興味はその時もっていなかった。やはり人間は興味をもたないと注意して見ないのである。
勉強だって興味がなければしないし強制的に試験があるからとやらせても身につかないのである。
鉄道だといろいろ興味をもつ人がいる、一番多いのは撮り鉄である。
デジタル写真の時代だからそうなる
ただ鉄道は自分でも原町に行くときめったに乗らない、買い物でも自転車である
途中回れないとかへ不便である。駅に来ても歩いて用たせないから困るのである。
タクシーになるとまた金がかかるからである。駅からのアクセスが不便だから利用しないそれで北海道は半分廃線になというのもわかる。
日高線を復旧するのに130億かかるというから洪水で破壊されたレールは放置されたままである。そしてもう復旧できないから廃線にすると会社では言う。
常磐線の復旧は津波で流された区間を直すのに400億かかった
でも東JRでは復旧したのである。今月は浪江まで開通する

今日は彼岸の入りであり原町の橋本町では墓参りの人が来ていた。
原町の街中で畑を耕す女性がいた、まだこういう光景はこの辺ではある。
それでほっとするということはある。
ただ原町の街は通りはシャッター通りでありさびれている、これはどこでもそうである。何か復興事業も一段落してこれからさらにさびれてゆくから困る
それは相当に深刻な状態になるかもしれない、震災前だって生活が苦しい人が多い
そのことで自分はひどいめにあったことを書いてきた。
復興景気は終わるとこれから農産物でも放射能で売れないとか苦しくなる

何か自分でも自分が病気になったり介護になったりさんざんな目にあったことを書いてきた、つくづく負のスパイラルに陥ってゆくのが人間である。
だから小高でも浪江でも飯館でも避難区域になったところは負のスパイラルに陥りやすいから復興がむずかしくなるのである。
結局いいことにいいことが重なり悪いことには悪いことが重なるのである。

また川子のパークゴルフ場によった、あそこに植えた樹が大きくなるにはこれも何十年とかかる、それで夏は日影がなくなるので日ざしをまともに受けたらできないと思った。
海岸地帯も日影ないので夏はいられない、木が育つまでには何十年もかかる、50年もかかるとなったらもう今生きている人は日影休むことができない
でも20代とかなら老人になったときその木も成長しているから休めるとなる
今の老人は日影に休むことができないのである。
だから老人は先は短いからそうした息の長いことをするのに向いていない
だから復興するのにも長い先を考えるとしたらできない

人間は先をみることがつくづくむずかしい、何が起きるかわからないからである。
東芝で失敗したのは原子力に力を入れすぎたことである。
それが未来だとしてフクシマで事故になりその影響でアメリカの会社まで影響して窮地に追い込まれたのである。先をみることを誤ったのである。
それが致命的結果になったのである。
ただその先をみるというときこれは老人ではできない、先がないからである。
たから老人は復興に向いていないのである。



野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性 (野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)


野馬追いの旗とヨーロッパの中世の城と旗の共通性


(野馬追いと同じ祭りがヨーロッパにもある)

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2014夏のブリュッセル★ (写真拝借)

これは野馬追いと同じである

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野馬追いの旗にもこれと同じ識別化がある


騎士団は軍隊の中枢と見なされていた。上級貴族として「バナレット騎士(旗騎士:旗は領地管轄権の象徴であり、供の者を従えていた)」

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「a.武装して戦う特権を有し、そのために通常は課税されない人々」と「自然物を生産し、自分の需要に加えて他人(=b.の人々の労働の成果で暮らせる特権を持つ人)の需要を満たすように期待された人々」が区別された



公家の家紋は優雅なものが多く、武家の家紋は実用的で、戦いの場において、敵味方の陣地識別のために旗や幕に用いて目印としたのに始まり、簡略で、しかも識別しやすい幾何学模様が多いのが特色といえる。ことに群雄割拠して互いにしのぎを削るような争いが続くにつれて、一軍の将たる者は、地方の群雄の家紋をつねに熟知しなくてはならなくなり、このために『見聞諸家紋』という書籍さえ刊行されるほどであった。

 関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。つまり家紋は、武士の威儀を正すのに必要なものとなり、儀礼のうえからも、自己の家格門地を表す服装の決まりができて、参勤交代あるいは登城をするときの行列に、家紋を明示する必要に迫られ

ヨーロッパと日本は別の世界であり歴史も理解しにくいと思っているが封建制があることで共通している、封建制があったのはヨーロッパと日本だけだッからである。
それで明治維新が成されたという説もある。西欧化でたきという説である。
それは封建制というのはやはり歴史的人間の発展としてヨーロッパと日本にしかないということが重要である。

だから騎士とサムライもにているしなぜヨーロッパに城が日本と同じように多くあのように紋章学まであるように紋の種類も多く旗の種類も多いのかとなる
それにはやはり封建制があり城が多く騎士がいてサムライがいたからだとなる

それはそういう歴史的基盤の共通性がありそうした紋章学とか旗が生れたのである。
ただそういう歴史があるのは日本とヨーロッパだけなのである。
だから野馬追いが旗祭りだというときヨーロッパでも同じ祭りがありブリュッセルでの旅の報告では野馬追いと同じ祭りがあった。騎馬行列もそうであり様々な旗があるのも同じだった、つまり野馬追い祭りは日本だけのものではない、ヨーロッパとそっくりなものがあった、旗でも同じような旗があった。幾何学紋様であり識別するものとしての旗である
だからヨーロッパというのは異質な社会だと見ているが野馬追い祭りからみると何か親近感を覚えるのである。同じ歴史があり文化があったとなる
ただキリスト教がかかわるのでそこがわかりにくいとなるが日本でもサムライの前進が僧兵だったということを言うひともあり京都でも比叡山なども寺領が一つの町を形成していた。それはヨーロッパでも同じであり修道院は要塞であり城でもあったし騎士団もいたからこれは僧兵である。
一見日本と中国は漢字を使っているから共通性があると思っている、でも日本の村と中国の村はまるで違ったものだという学者もいる、日本の村は封建制へと発展した村だった。だから封建制があるということで中国にはないからヨーロッパの歴史に日本はにているのである。

「戦う人−耕す人」に二分された(10世紀)。これによって「武装して戦う特権を有しそのために通常は課税されない人々」

これも日本にもある、戦う人とはサムライになった人であり耕す人は農民である。
でも日本では相馬藩でもそうだがその両方をかねそなえた郷士がいた
農民であり侍であった人である。それは城勤めになった侍は専門家して官僚ともなった。兵農分離したのである。刀狩りによってそうなった。

野馬追いでは郷士から出ていて農民と侍だった人たちである。町内とか街内から出る家は極わずかである。農家に古い家が残り鎧や旗が残されていた
それは勝手に作ったものではなく先祖伝来の旗である。

ただこの旗も

関ヶ原の戦いを契機として、太平の世の基盤ができて、武具、武器、旗、幟、馬印などは無用のものとなり、紋章の用途のうえに一大変革が行われた。

つまり相馬野馬追いにはあれだけ多様な旗があるけど戦国時代でも大きな藩とかにまとまると家の旗とかは必要なくなる、相馬藩とか伊達藩とかで戦うから相馬藩なら九曜の紋であり伊達藩なら竹に雀の紋の旗とかなるのである。
野馬追いの旗の種類の多さは鎌倉時代に由来していて多いのである。
戦国時代からはまだ使われたにしろ家の旗はそれほど使われない、その後は儀礼的なものその家の家柄を示す地位を示すものと変わってきた。

野馬追いの旗は公家の紋とは区別される、公家の紋は天皇の紋が菊のように植物が多い、橘などもそうである。鎌倉時代から戦国時代になるとその植物紋が受け継がれたにしろ
多様なものになった。識別を基とするとき幾何学的な抽象的な単純なものが多数生れたのはヨーロッパの旗でも同じものがありにているとなる

いづれにしろヨーロッパの歴史というとなにかむずかしくなじめないということがある。でも野馬追いの旗からみると共通性があり親しみやすくなる。
だからヨーロッパの城や騎士や旗とかを研究すればヨーロッパの歴史に興味がもてる
つまり相馬藩というとき何か世界史と関係ないように見えてあるともなる
歴史に興味をもつというときやはり身近なものから始めないとできないからである





posted by 老鶯 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)