2017年03月17日

原発訴訟で東電と国の責任を認める 津浪を予測していたし対策をたてなかった


原発訴訟で東電と国の責任を認める

津浪を予測していたし対策をたてなかった

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今回の判決は別に補償金をもらえない人にも大きい、国と東電に過失があり津浪という自然災害で不可抗力に起きたのではないという判断は大きい

東電は科学者のエリート集団だから津浪を予測していた、30年以内に地震が起きて津浪が起きることを予測していた。

地震が起こり津浪かが起こることを東電は予測していた

ただその対策をとらなかった、それが責任

自分は科学に弱いから変だけど東電は科学者集団だから地震が起こり津浪を起こることをこの辺でも予測していた事である。それも10メートル以上とかの大津波のことを予測していたのである

第一この辺でそんな津浪のことを一般の人は関心がない、津浪など来た事がないから来ないと確信していた、恐れる人もなかったのである。
自分なども津浪のことなど考えたこともない
ただ海岸沿いに住んでいた人は海とは関係なく何か怖いという感覚はあった
それで鹿島だと小学校前まで津浪が来たがそこで浪にのまれる夢を何回も見たのである。あの辺は家がないからそういう夢を見やすかったのである。
だから海岸沿いに住んでいた人たちは夢で浪がおしよせる夢を見ていた
それは津浪とは限らない、高潮でも現実に八沢浦の湊では防潮堤が破壊され水びたしになったことがあったからだ。
海岸沿いには津浪でなくても常にそういうことがあった
それで磯部の佐藤氏は相馬氏が支配する前の中世の豪族で館を構えていたが同じように高潮のために危険だと今の日立木の鬼越城に移ったのである。

ただ夢とか伝説とかなると誰もそれを信じて行動には移しにくい、でも今なら科学者の言うことは信じやすいし信憑性が高くなる

だから東電の科学者はチームは津浪が来ることを予測していた

そのことを知ったら、ええ津浪が来るのか、この辺ではそんな話聞いたことないけど
科学者が言うなら本当かもしれない、警戒しないといけないな

津浪のことをこの辺で相馬でも津浪が来るんだということ大きな津浪が来るということを東電から知らされて警戒する、するとそういう知識がすりこまれるとあれだけの地震だったらもう津浪が来るという知識がすりこまれているから咄嗟に避難した
でも津浪のことをこの辺では知らないし経験がないから警戒しないで避難しないで死んだ人が多い、特に65歳以上の老人はそうして逃げないで死んだのである。
老人でも津浪はこの辺では経験していない、今回の津浪で相馬藩政記に400年前津浪が来て700人溺死という記録があったことが発見されて驚いたのである。

だから東北電力では津浪が来ることそれもかなり高い10メートルも15メートル以上の津浪がくるとして対策をして高い所に建てたから辛うじて助かったのである。
10メートルでは危ない、16メートルにしろと当路の副社長の人が言って高台に作られて助かった。そこは津浪が前にも来ていたからそうなった。

ともかく怠慢だったのは報道関係にもあった
何か危険を知らせる、事前に情報を知らせる、知識を与えるのも報道関係の勤めである。
報道関係者が東電で30年以内に震度8以上の地震がきて10メートル以上の津浪が来ると
予測した

そういうことを新聞でもテレビでも伝えていたかとなると伝えていないだろう。
伝えたとしても読者も無関心だったかもしれない、自分なども原発でも津浪のことでも無関心だったからである。
でもやはり報道関係者にはそうした危険を警告する、知識を情報を与える役目があった
でも福島民報でも民友でも原発は安全だという「安全神話」に組みした方だからそんな危険を警告する報道はしなかったともなる
ただ安全、安全しか言わせなかったからである。それは東電で働く人にも楯にして言わせていたのである。そこで働いている人は今でも東電は批判できないんだよなと言っているからである。

今回の事故のことでももし東電が東北電力のように地元で津浪を警戒して実際に対策をとっていればこうはならなかった
むしろ津浪を警告して東電に助けられたとなり東電様様になっていただろう。
東北電力の女川原発にはそこに避難した地元の人がいて助かったともあるからだ
東北電力のように東電も株があがったのである。
放送というとき自分は今回インターネットがありプログで発信した。
それはインターネットがあったからできたことであり自分の発言などマスコミでは取り上げられない、それは他の人でもそうである。
マスコミは取捨選択する権力をもっているからである

ところが報道する権利はマスコミだけではない、このように庶民さえもてるとなるとまた違った社会になる、自ら報道することはやはりなにかしかの責任と関心を喚起するからである、報道することが実際は興奮することであり金がもらえないとしてもやりたいことがわかった。
こうしてマスコミの記者だけではない一億総記者になる時代である。
そしてこのように号外が出た、そしてそれに対して即座にコメントしてプログで発表するというのもインターネットが速報性に優れているからそうできる
ただまだまだ個人でとは権力がないから追求力が弱いのである。

要するに今回の原発事故は政府と東電に大きな責任がありそれを検察も認めたとなる
地震や津浪の自然災害のためではなくそれに備えることができたのに備えなかった
ただ「安全神話」を作り肝心の備えのためには金もださない、対策をたてていなかったのである。過失致傷の責任があったともなる。
それを裁判で認めた意義は大きい、ただそうなると現実に賠償金の支払いを命じられた
でもその賠償金はまた裁判を起こした人たちだけのものではない
被害を受けたのは広範囲であるからだ、その賠償金をもらえない人の不満も大きいのである。ただ国でもそんなに賠償金を支払えないというのも現実なのである。
それをあまり訴えると今度は国民の反発でいじめとがが起きてくるからだ。


posted by 天華 at 19:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る 近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる 升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る 近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる


升形、井戸の紋の旗印のルーツを探る


近江の彦根城の井伊家ー直虎につながる

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鐘の旗印

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●井伊家のルーツ

井伊家の家紋は二種類あり、定紋(じょうもん)が橘紋(たちばなもん)で替紋(かえもん)が井桁紋(いげたもん)です。

定紋は正式の紋で公式の場で使用します。表紋(おもてもん)とも呼ばれます。

替紋は非公式の場で使用する紋で裏紋(うらもん)とも呼ばれます。旗印などに使われますが、用途については特に決まりはないため、それぞれの大名家のルールで使い分けされていました。

井伊家の家紋はなぜ「橘」と「井桁」なのでしょうか?それは井伊家の祖先共保(ともやす)が井戸から生まれたという伝説に由来します。

共保は井伊谷に移り井伊氏を名乗ります。この共保が井伊氏の祖先だと説明しています。

共保が出生した井戸の脇に橘が茂っていたので、井伊家の定紋は「橘」になり、井戸から生まれたという言い伝えから替紋は「井桁」となりました。


遠江国引佐郡渭伊郷井伊谷
主な根拠地遠江国井伊谷
近江国彦根
滋賀県彦根市 など
著名な人物井伊直政
井伊直弼
井伊直愛
井伊直孝
井伊直虎

井伊家の家系のルーツをさかのぼると、初代当主である井伊共保(いい ともやす)に行き着きます。この井伊共保は元々は捨て子だと言われているのですが、遠江の国司を務めていた三国共資という人物の養子になり、その家督を継いだとされています。

その後、井伊共保は自分が捨てられていた場所である井伊谷(いいのや)に城を構えて井伊氏を名乗ります。ここに井伊家のルールはあると言えそうですね。


南北朝時代になると、遠江の豪族として名を馳せていた井伊家は南朝に味方し、その後南朝の衰退と共に北朝方の今川氏の家臣となります。しかし、主君にあたる今川家との関係は決して良いものとは言えなかったようで、何度も争いの危機を迎えたと言われています。
今川家との争いを防ぎたいと考えた、井伊直虎の曽祖父にあたる井伊直平は娘を今川義元に妾として差し出し、何とか危機を回避したこともありました。


NHK大河ドラマの井伊直虎が近江の彦根城の井伊家の先祖だったとなる、この紋は長久手の戦いでも関が原の戦いでも一番目立っているのである。
それだけ活躍して徳川の四天王になった。三河勢が三人なのに井伊家は別だった

●関が原では三成の旗印と井伊家の旗印が一番目立って描かれている

関が原の戦いではやはりその升形の旗が一番目立っているのである。
では南相馬市の原町区にある蔵のある家はこの井伊家とかかわりあるのかとなるとその由来はわからない、その家臣だったのかもわからない。
野馬追いの旗は鎌倉時代からの由来のもので戦国時代のものは少ないだろう。
戦国時代にはそんなに多様な旗がないのである。
例えば相馬藩と伊達藩が戦ったとしても相馬藩だったら九曜の紋の旗になり伊達藩だったら竹に雀の旗印になる、鎌倉時代は家を代表するものとして紋があり旗印があった。
だから野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて戦国時代にはその旗印が使われていたのかという疑問がある。
戦争のときにそんなに多様な旗印を使ったのかとなる疑問である。
ただ旗印が家宝として残っていたのでそれを野馬追い祭りで使ったのかとなる
戦国時代でも旗印はそんなに使われていないのである。

井伊家の旗印は目立っている、石田三成の旗も目立っている、石田三成の旗は野馬追いにも江戸時代には出ていた、石田三成は相馬にも来ていてた

1599年(慶長4)には、京を出発する時三成から三胤に征矢に漢詩(七言絶句)を添えて贈られました。このように三成には恩義があったので、関ヶ原の戦に参陣せず、その為三成に内通していた疑いで相馬氏は領土没収となります

井伊家は三成の興亡は関が原合戦図の旗印を見ると一目瞭然である。一番どちらにしても目立っているからだ。
三胤は三成の字をもらって名付けた。


●野馬追いの旗の謎

野馬追いの旗は鎌倉時代に由来していて一族、家の旗印であった。でもそれが戦国時代になると家といっても相馬氏でも範囲が広くなるから一家の紋とか旗印で戦争するということはあったのかとなる
相馬藩の九曜の紋の旗印は使われるが一家の紋とか旗印は使われたのか?
そんなに多様な旗印が必要だったのかとなる、武田家だったら三菱の武田家の紋であり伊達家だったら竹に雀とかに統一される
するとそして統一される前の一家の御家人の旗が野馬追いの旗でありだから種類が多いとなる。
残された合戦の図にはこんなに多様な旗印は使われないないからだ。
鎌倉時代から戦国時代になると大きなまとまりが勢力ができて戦うようになったとき一家とか一族の旗は不必要になってきた。
ただ井伊家のように有力な家の旗印は戦国時代でも関が原の戦いでも使用された。
相馬藩でも大きな戦いになったら相馬藩の旗印、相馬氏の旗印の九曜の紋になる
それは関が原でも他でも見られる、でも他の多様な紋は合戦図には残されていないのである。

ただこの辺は研究の余地があり自分にはそれだけの研究ができない、インターネット上で調べた限りではそうでありなぜか野馬追いが旗祭りだというときその由来を研究している者がいないのである。
それは旗印がその由来も複雑でありわかりにくいからである。
鎌倉時代にさかのぼるとなるとその系統も不明になってくるからだ。
その中でも升形の旗印は井伊家が徳川幕府の四天王になったので目立ったのである。
その他の旗印は由来が不明になったと推察できるが自分には解明できないのである。


野馬追いの旗印の由来 (井形と升形の紋ー原町区の古い農家をたずねて探る)
posted by 天華 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)