2017年03月14日

鹿島駅前にとまっていた九人乗りのジャンボタクシー ( 小高小中学校の送迎用ー親は小高に帰らない)



鹿島駅前にとまっていた九人乗りのジャンボタクシー


小高小中学校の送迎用ー親は小高に帰らない

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鹿島駅前にとまっていた小高への小中学校への送迎用タクシー



これは9人乗りでありいい感じだとなと見た。これは小中学校生徒の送迎用である。
小高で学校がはじまるから用意したという。
高校生も300人くらい通うようになるが高校生には援助がないという
小中学校は義務なのだと無料だという。

でもこれで問題なのは小中学校の生徒の親は小高に住まないのである。
通わせるのであり小高には住まない
なんか飯館村でもこういう問題が起きていた。
立派な校舎を建てて小中学生を通わせようと村長がした。
でも親は住みたくないとか反対する人がいた。
第一村長の孫は飯館村に住まないからだ
人を住まわせようとしても肝心の人が住まないのである

その運転手が言うには金は子の方がにぎっていて老人の親には小使いを渡す程度で老人は金をもっていないという。ええ、そうなのか?子の方が力があるのか?
その子の方は小高に帰らないで外に家を建てたりしている
つまり金を握っているのが子の方だからそうなっている
本当は小高の方に住んで子供を通わせるのがいい
でも親はそうしない、そうしたら小高の復興はないのである。

ただそのジャンボタクシーの通学の費用は市で出すから無料になる
それも運転手は贅沢だといっていた。
これも補償金をもらっているからだろう。
前らか言っていたが小高の人への補償が手厚すぎるのである。
そうして小高に親が帰り子供が通学するならいいが親が住まないでジャンボタクシーを用意させて通学させる
なんても相馬市からも通う人がいてそこは遠くなるから無理だとか運転手が言っていた。

結局何か復興といっても本気になって町でも村でも復興させるという気概は見えない
肝心の若い人たちがそうなのである。小高に住んで通わせればいいがそうしないからまたジャンボタクシーに金がかかる
でも国からなんらか援助が出るからそれに甘えるとなる
そしてそういうことに何か言うと冷たいとか常に言う
近くの仮設でもコンサートなどして「故郷が恋しい」とか泣いていたけどなにか空々しいという感じになる
なぜなら小高はすぐそばなのだから恋しいともならないはずである。
帰りたければすぐ帰れるからである。
東京とかに住んでいるのとは違うからである。それでテレビを見ている人はお涙ちょうだいになる。あんなに故郷が恋しいのだなとか見る、テレビは何かそうしたいい面だけを報道するのである。その裏の真実は報道しないのである。
小高の人たちには南相馬市は原町区でも鹿島区でも不満なのである。

それを言うのは南相馬市全体からすると負担になるからである。
何かというとそうして支援してし無料にしている
そして肝心の人は小高に住まないのである。
老人だけが帰っても復興にならない、その負担が市全体に及ぶからである。
飯館だと線量が高いということがあるが小高だとこの辺と変わりないから帰れる
それでも帰らないということに不満が南相馬市全体でつのっているのである。

このジャンボタクシーを見てこれから利用できる、足として利用できると思った。
バスは一日一二回だからである。
ただジャンボになるから料金が高くなるとかこれも市とかに援助されないと足として利用するには金がかかる、車のない電車を利用した老人もそれを言っていた。
車も年をとると危険だとなっているし高齢化社会ではこの足となる交通が必要になる
自分も原町などに自転車で行っているけどこれから行けなくなったら苦しい
駅前には店がスーパーでもないからである。


ともかく津波の被害地でも高台とか防潮堤とかインフラ的なものを整備しても肝心の人が住まない、若い人が住まないということが復興に通じていないのである。
若い人が流出しているからだ。そして日本全体も若い労働力が減少して人手不足に苦しんでいる時代である。
ベトナムとかネパールの人が増えたのはそのためである。
何か復興というとき本当に変だなと思ったのは補償金をもらったらみんなその補償金で外に出て家を建てたりして故郷には帰らないのである。
何のための補償金だったのか?故郷の復興など関係なく、故郷を出てそこで復興することに金は使われたのである。
もし補償金が少ないとか家を建てるほどの金ももらえないとしたら苦しくても故郷に住んだかもしれない、でも多額の補償金をもらった結果、若い人はその金をにぎり外に家を建てて帰ってこないのである。
そして老人には小使い程度の金をやっているというのもなんか変だとなる
老人ばかり帰って今度は小高でも病院がどうなるとかなると復興できないのである。
この矛盾は他の原発避難地域でも起きているのである。

国家は国民に犠牲強いる-原発も同じ (国家とクニの相違ー心の青雲に欠けていたクニ)


国家は国民に犠牲強いる-原発も同じ


(国家とクニの相違ー心の青雲に欠けていたクニ)


国家とクニは違ったものである。「心の青雲」の著者にはクニが欠けていたのである。
それは東京とか大都会だとクニがない
「あなたのおクニはどこですか?」と問うとき、国家のことではない、故郷とか狭い範囲の一つのクニである。会津ならそういうクニとしてのまとまりがあるから
「会津嶺の国をさ遠く・・・・・」とかの万葉集の歌が生れた。
防人は国家によってクニから筑紫とかまでも兵隊として行かされた
その時クニからでて国家を意識したのである。それは防衛のためであり戦争のためである

その時防人に出された人の悲哀を歌ったのが万葉集に残された、その時思ったのは自分の住んでいた故郷、クニであり家族である。親であり妻である。
国家は古代からこのように非情なものなのである。クニとは違ったものであり対外的に国家は意識される、だから国家と戦争は一番密接に関係している
外国の戦争のとき一番国家を意識するからである。
だから太平洋戦争のとき一番国家を意識して国家のために300万人が犠牲となったのである。

 久慈川は 幸くあり待て 潮船に ま楫しじ貫き 我は 帰り来む

久慈川はクニを象徴するものでありその故郷にクニに帰ることこそ望みだった。
でも国家のためにそのクニから引き離されてゆく、
クニとはそれは自然発生的に生れたものであり国家は人為的人工的な要素が大きく働く、だからこそstateというときクニとは別な意味になる。
それは国家というとき民主主義でも社会主義国家でも一つのイデオロギー国家になる
それはロシアの前のソビエト連邦でもそうだし中国でも共産主義国家でありアメリカもまた主義の国家である。それはクニとは違ったものである。countryではないのである。

防人でも戦争に出されたが帰ってゆく場所は久慈川が流れるクニである。川というとき大きな川になるとライン川が父なる川というときクニを象徴するものになる
日本の場合は確かに日本を象徴するものとして富士山がある。それは大きな国の象徴として聳え立つことは確かである。
それは国家と違ったクニ意識となる、ただそうして自然とアイディンティティをもつとき戦争とは相いれないのである。富士が優美であってもそれが戦争とは結びつかない
それより何であれ戦争と自然の美は結びつかない,戦争は何であれ自然をも破壊するからだ。
「心の青雲」では戦争に何か英雄的なものを求めている、それは古典的な英雄であるが現代ではありえないし太平洋戦争でもそこに英雄的なものを見いだせるのかとなると疑問になる。ただ喧嘩両成敗のように日本にも理があった

国家を維持するときそれはシリアでもそうだが国家が喪失すると難民化したりする、すると家族もなにもない、ばらばらになってしまう、流浪の民となる。
それは大陸では陸続きで絶え間なく民族間でも国でも戦争が起きていたからそうなった。ユダヤ民族がそうである。国そのものがなくなってしまうのである。
そうなったら小さなクニも家族もないとなるから国家が最優先になる。

クニというとき故郷的なものがありそこには家族がいて死んだ先祖がいるという場所にもなる。国家というと軍隊があり何か重々しいものになる
ただ一庶民でも外国にゆくと日本人ということ日本国家を意識させられる、だから国家意識は別に平和なときでも外国にいるとき意識させられる、外国人から常に日本人とも見られるからである。一庶民でも日本を代表するようにもなる、それは国内ではそういう意識はもたされないのである。

でも外国だと「あなたのcitizenはどこですか」とかパスポートにも記される

 citizenとは市民である。市が外国では国になっている、もともとギリシャの国家というときポリスであり市のことだからである。中世になるとburgessでありburgは城だか城下町とかなり江戸時代の藩単位のクニだとなる、相馬市民とか会津市民とかなる

ある国、または、別の政治共同体に属する生来の、または、帰化した構成員
(a native or naturalized member of a state or other political community)

国家とは political communityであり政治的結合体という要素が強い、それはローマ帝国ともにている、ローマ帝国はどうしてもあれだけの広い領土を治めるとなると政治的結合体となるからである。そこで法律も重んじられ公正さが求められる。
ローマ法が今でも通用しているのはそのためである。それはアメリカ合衆国ともにているのである。

このことが原発と何の関係があるのかとなるとある。原発は国家防衛の視点から国家的政策として作られたのである。それはアメリカからのおしつけがあったというときもそうである。
核装備のために準備のために備えのために原発が国家にとて必要だということがあった。エネルギー政策は国家的なものになるとしても原発は核武装という備えのために国家的政策としてあった。国家防衛のためだというときそれは戦争とも結びついているのである。国家は対外的に成り立ち戦争と一番結びつくのである。
だからこそ「心の青雲」の著者はそうした国家論を語っている

そして国家はクニを破壊したのが原発事故だったのである。国家的政策として原発が建てられクニが破壊された、そして故郷はクニに住めなくなった。クニは放射能物質に汚染されて肝心の水も飲めなくなり作物を育てる土でも汚染されたのである。
つまり防人の久慈川が幸(さき)くありまてというクニが故郷が消失したのである。
帰る場所がなくなったのである。帰る場所があって遠く筑紫まで兵士として遠征した。
でもその故郷がクニが喪失したときもう帰る場所がなくなったのである。
国家によってクニが故郷が破壊されたのである。
「心の青雲」の著者には他でも都会にはそもそもクニ意識はない、育たない、ビルの谷間では川もなにもない、そのクニがなくて国家がある、そうなるとクニは無視されるのである。
しかし人間の生存の基盤はアイディンティティはクニにある、国家とは別でありそれは自然発生的に生れたものなのである。

第一ヤマトというときそれは狭い範囲の村から発祥していた、それが奈良全体となり国家意識が生れた、それはクニが基であり日本語でもそうしたクニから生れたものである。
文化はクニから生れた、国家にはだから常に非人間的なもの冷酷なものが非情なものがある。それはどこの国家でもそうである。
だから国家により戦争でなくてもクニが犠牲にされるということが今回の原発事故でもあった、ただではそのクニを意識すること、守ることがクニに住んでいる人にあったかというとこれもなかった。
第一クニといっても故郷とといってもそれが何なのか、その大切さを意識してたのかとなると疑問だとなる。

いづれにしろ「幸くありまて」というとき何か待つ場所、待っている人がいないと人間は根なし草にもなる。難民になるとそうである。また家族がいなくなると旅しても待っている人がいないから根なし草のようになるのがわかった。
だから故郷とはクニには誰かが待っているという場所だったということも意識したのである。


国と地方の歴史を見直す (原発は国策であり地域を破壊した)

「心に青雲」の著者の都築氏の病気の回復を願います

思想的には一致しないが共感することが多々あったからです
そこには一貫した主張があったからです

ともかく60代は病気になる人が多い、自分も一時腎不全になって入院したからである。
ただ自分は腎臓の病気ではなかった、一時透析になるとか医者から言われたのである。
腎臓の病気も怖いのである。

posted by 老鶯 at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連