2017年03月01日

パリの旅の回想ー東駅界隈(秋の短歌十首)


パリの旅の回想ー東駅界隈(秋の短歌十首)
  
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パリの東駅
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パリの東駅のサンマルタン運河
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セーヌ川で洗濯している女
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落葉せしパリまで来てそ安宿を探す我かな年も古りしを

運河ありパリの裏町安宿は満員なりし落葉踏み去る

パリにつく東駅かな運河ありたどり歩みぬ秋の夕ぐれ  

東駅パリの下町運河にそ枯葉の木々を写しけるかな

パリの秋路地を歩みてあわれかな人種様々行き交う人かな

秋のくれセーヌの岸辺絵描きかなノートルダムの寺院も古りぬ

ルーブルの窓に枯木や石の橋歩みてあわれ偲ぶ歴史を

傍らに彫塑の像やもの思ふルーブルの秋我もめぐりぬ

かたわらに貴婦人の彫塑かなローマの女や秋の日暮れぬ

ルーブルの絵洗濯女のあまたかな橋も古りにし秋の夕ぐれ

セーヌの橋によりにつ恋人の愛を語るや秋は深まる

パリの街秋も深まるもの思ふセーヌの岸や石の橋かな 


東駅とサンマルタン運河(写真) 

  

アポリネールの「ミラボー橋」


日々は去り
去った時も
昔の恋も帰ってはこない
ミラポー橋の下 セーヌが流れる

夜よこい 鐘よ時を告げよ
日々は過ぎ 僕はとどまる  

パリには春と秋に二回行ったけど記憶が定かでなくなった、でも思い出す旅は外国までつづいている、外国はまた記憶しにくいし忘れやすいのである。
パリの東駅についた、写真を見たら確かに教会があった、ただ東駅がどうなっていたのかわからない、写真を見てこんなだったのかとなる、駅はゴシック建築のようにヨーロッパ
では威厳があり日本とは違っている、なんかヨーロッパでは建物が立派であり威厳があるそれがヨーロッパの歴史であり文明だということを一番感じたのである。
石の文明であり石が恒久性をもっているから歴史を偲べる、ローマ時代のものもそちこちに残っているからだ。ヨーロッパは石の情緒なのである。
石の橋にもたれるときそれがヨーロッパ的情緒になる、その感覚は日本では感じることはできないのである。



ネッカー川の石橋

ネッカー川の石橋古りぬ
その冷たき石の手触り
市門のありて中世の街
ゆるやかに川の流れて
落葉踏むその岸辺
城砦も古りイギリス門とあり
この城に嫁ぐ王妃の物語
晩秋のハイデルベルグ
ここは古都にして学問の府
その歴史をここに刻みぬ
その岸辺の公園を一人
そぞろ歩みてもの思ふ
もの寂びて薔薇の花の赤しも
我が旅の記憶ここにとどまる



これはパリではないがやはり石の橋ということで共通している  
もともと木の橋だったが洪水が度々あり石の橋にしたとある
石の橋はやはり木の橋のように簡単には作れない、だから石の橋があってももともと木の橋が最初にあったとなる

ハイデルベルグ 

ともかく自分は旅を外国までつづけていた、それでいつも安宿を探していた、それが外国までつづくとは思わなかった。東駅におりて安宿を探したがそこは満員だった、とても言葉が通じないからそういう安宿に泊まるのは自分には無理だった、でもヨーロッパは意外と旅行しやすい、ユースホステルも多いし年配の人も利用している。
外にも安宿が多い、でもなかなか探せないということはある、でもヨーロッパは宿が多いのである。ホテルが本当に多いので旅行しやすい。
でも日本と同じように安い宿を探し歩くとは思わなかった。

自分はハックパッカーでありヨーロッパ旅行でも安い旅行しかしていない、旅で一番かかるのは宿代でありこれは日本でも変わりない、食事はほとんどマグドナルドとかでハンハーガーだった、何かレストランはヨーロッパでは一人では入りにくい場所である。
だから最低の食事しかしていない、自分の場合は食事とか余り興味がない、旅することに重点を置いているからである。
日本でもうまいものを食べたことがない、ありきたりのものであり千円くらいしか使っていない、というのは食事に金を使うと長い旅はできなくなるからだ。
自分は貧乏旅行者でありずっとそうだった。

金がなくても実際は旅は世界でもできるものだと思った。その時は円高だから旅しやすいということもあった。一ドル80円とういいう時代があったからだ。
バックハッカーの時代は今では終わった、それでdarkness duoサイトは面白い、沈没したとかしていて経験を積んだことを書いている
そういう人がかつていてその経験を書いているのである。
自分はそういう人ではないが一応年になってハックパッカーを経験したのである。
ただこれも十年間くらい介護に追われていたら記憶がうすれてしまったのである。

でも短歌にするというときパリはつくづく芸術の都だとなる、パリにいるだけで芸術家になった気分にさせられるのである。橋にもたれているだけで歩いているだけで何かそれが絵になっているのがパリなのである。
ただ最近移民が増えすぎてその情緒が失われたと言える、やはり異国情緒があってこそ旅もいいとなるが移民が増えすぎるとそれも失われる、今は日本だって外国人だらけになると嫌な感じになり旅行したくなくなったのとにている。  

何度も言っているけと旅でも記憶が大事になる、何か記憶に残らないと行ったいうことにもならない、団体旅行ではなかなか記憶には残らないだろう
今になると海外旅行も自転車旅行もできない、肉体的にも精神的にもできない、気力もない、だからやりたいことは若い内に早めにやらないとできなくなる、登山だった自分は体力がないから今はできない、結局老人はこうして回想しているのが至福のときだということがわかったのである。
でも記憶されていないならその至福の時もないから何でも記憶するように生きるということ旅でもそうしないと後で何も残らないということになるのである。
つまりその時間は永遠に帰ってこないのがショックになるのである。

2017年03月02日

松川浦の現在の情況(松がなくなり日影がなくなった)



松川浦の現在の情況

(松がなくなり日影がなくなった)

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前の船溜

春の光がまばゆく反射していた

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まだ残っていた一本の松

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松を植えた所は広い、ここはもともと松原だった

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中島への橋ができていた

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前の松原の道




仙台から来た人が松の苗を植えていたけどあそこ広い、もともと広い所だった
何にもなくなった、潮が引いて松川浦に一本の松が残されていた
磯部でもなんにもない、津波の恐ろしさは何もなくなる
それも一瞬でそうなったから恐ろしい 

あそこに家があった人はただ茫然としているだけだったろう。
人間は家族でも死ぬとただ茫然として力をぬけてしまう
津波だと余計にそうなった、家だけではない村自体が消失したからである。
あそこに昔を偲ぶものはない、集落があったところにも松を植える
あとはソーラーパネル場になった。

船溜は船がもどって何艘か漁をはじめている、あの辺には結構家があったけど何もない
あの松が育つには時間がかかるしそのうち老人は自分でも死んでいる
中島に橋をかけたが松が育たないと景色が良くならない
景観まで全部破壊されてしまったのである。

そして海があっても松がなくなり日影がなくなった
だからソーラーパネルでも暑く感じるし日影ないので夏でも休む所がないのが問題である。
景観も松がないので殺風景になったのである。
自分は右田の松原の日影で暑いとき休んだいた、クーラーがなしでもいい場所だったのである。
だから夏になってもこの辺は海が涼しいとしてもそうはなっていない
そして松が育つまでは時間がかかるから困るのである。
生きている内に松が育ち木蔭ができるのを見ることはできないとなる
それが残念だとなる
タグ:松川浦
posted by 天華 at 15:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処

2017年03月03日

人間が本質的に変わらないから諺も生きている (人間の行為はすべてカルマとなっている)


人間が本質的に変わらないから諺(ことわざ)も生きている


(人間の行為はすべてカルマとなっている)


損して得をとれ

ただより高いものはない

金の切れ目が縁の切れ目


損して得をとれというとき何か商売するにしてもすぐにもうけがでるということはない、それは事業でもそうである。そういうことで自分も失敗している
何かすぐにもうけがでる、成功するということを考える
実際はそうはいかず出費ばかりでもうからないなとなる
商売でもすぐにはじめて繁盛するようなのはなかなかないだろう。
人間はだから最初損して得をとれということに耐えられないのである。
ただ損ばかりしているだけじゃないかとなる

損したくない反面として「ただより高いものはない」ともなる
ただでやってもらいたいと思うが誰もそんなことはしない
何かするには必ず代償を要求してくるのが人間でありこの世である。
ただでやまことはかえって高くつく
人はちょっとしたことでもただではやらない
ちょっとしたことでもただでやるとかえって百倍も高くつく

例えば車がないから車をもっている人に頼むとするとタクシー料金より百倍も高くなるかもしれない、ただでやりますよ、頼んでくださいと言ってもらってもでは必ずお礼をしなければならない、いくらでもいいですよというがそれが普通の料金より馬鹿高くなる
「いくらでもいいですよ」ということはその上限がないことだから馬鹿高くなる
だからそういわれても頼めないことがわかる
ただ近くで車を利用するときは知人に2000円を払うということを決めて頼んでいた人がいた。それもやはり親しい人間関係があってできることである。
だから車をもっている人がこんなにいるのに頼めないのである。
「いつでも頼んでください」といわれてもいくらと決まっていない、「いくらでもいいですよ」ということは上限がないからかえって高くつくのである。

まず事業して借金していたような人に頼んだら怖いことになる、その人は金に窮しているから頭に金とることしかないからだっだ
だからほんのちょっとしたことでもしてもらったら恩きせがましくなるし金を要求する
それも額が百倍になってしまう、上限がないからである。
だから本当にただより高いものはないことを知った

要するに人間はどんなささいなことでも一杯のお茶を運ぶにしてもただではやらないことなのだ、だからこそ金で払うシステムを作ったのである。
いくらいくらで何かをすれば決めて払うのである。「いくらでもいいですよ」とはしないこれだけのサーズヒにはこれだけの金を払うというシステムを作って社会が成り立っている、だがその決められたものならいいが決められないものになると法外に馬鹿高いものとして要求されるのである。
でも家族がいないとかなると何かあったとき一杯のお茶でも入れてもってきてもらうことに百倍の料金が必要になることがある。
家に来た人は盗むことしか考えていなかったから実際は百万倍もの金を払うことになったのである。
それだけ人はただでは働かないものだと知った

この諺は矛盾しているのだけで損して得をとれというのも真実である。それは経験上そういうことがあるから諺になる。損したようでもそれが得となってかえってくるというのも真実である。こんなことをただして何の見返りもない、こんなことをしてどうなるのか?
でも商売だと最初からもうけがすぐにでることはむずかしい
でもサービスがたりないのか、お客さんの要望に答えていないのかとか、徐々にお客さんの要望に答えてゆくようにする、その時どうしても最初は損することになる
その損がやがて得にむずびつくようになる

そもそも相手に何か尽くして損することはないのである。こんなことして何の得にもならないからやらないというのが普通である
でも小さなことでも人間のすることはなんでも「カルマ」になっているのだ。
カルマとは行為のことなのである。何かの行為がささいなことでもカルマとなる
例えそれがすぐに返されなくてもいつかまた自分に跳ね返ってくることがカルマの法則なのである。
人が困ったとき何かをしてやればささいなことでもそれがカルマとなってゆく
それはされる方もした方もそうなってゆく
そしていつかその帳尻は合うようになっているのがこの世なのである。
だからこの世にはカルマの法則が貫かれている

損したと思ってもそれが得に結びついているのである。
「こんな金にもならない、得にもならないことをして何になるんだ」
そう思っているとき実は最も得なことを徳を将来に積んでいたのかと後でわかることがある。

いづれにしろここ十年の介護とか自分の病気とかで社会経験を積んだから諺は人間が変わらないから今も生きていると思った。
確かに便利な世の中になったが本質的に人間は変わらない、だから諺が今もつくづく生きている、むずかしいことだけが真理ではない、庶民もその生活の中で普遍的な真理の言葉を残しているのである。

posted by 天華 at 09:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

今日の鹿島駅 風で遅れて新幹線で帰れない人がいた


今日の鹿島駅


風で遅れて新幹線で帰れない人がいた


今日も風が吹いて電車が遅れた

「新幹線で帰るつもりが帰れなかった」
「仕事だと困るでしょう、時間を決めて合うこともあるし時間どおりに運行しないと予定が狂う」
「この前は相馬市からバスで仙台に行きました」
「そうですか?まだ仙台までの直行のバスが出ている、バスは風と関係ないからいい

こうも毎日遅れると困る人がいる、バスもだから必要ともなるな」
そういう仕事の人もいた

もう一人は前にも見かけていたが新地の人だった
仕事でいつも鹿島に来ていた
話できな人かと思ったらできた

新地駅は立派になっていいよな」
「俺は運転免許もっているが車買う金ないんだよ」
「運転できるのか?、中古安いじゃないか」
「金がねえんだよ、ガソリン代もかかるしな」
「車はもつだけで車検とかもあるし金かかるよな
自分は金はあるけど運転できない、運転免許あるのにもったいないな」
「金がねえんだからしょがねえよ」
「世の中金があっても何もできるわけじゃないよ、うまくいかないんだよ
自分は自転車で原町や相馬市に買物しているよ」

あの人は話できない人かと思ったら話できる、これだけ話すればそれなりにその人のことがわかる。
もちろん車が運転できても車を買う金がないから鉄道を利用している
そういう人もいたということである。

「新地の駅は新しくなっていいよな、何であれだけの土地があるのに家がたたないのかなやっぱり金がないのかな、鹿島では三つくらい新しい街ができたくらい家が建ったけどな」
「家は建たない、金がねえんだろう」
「新地に原発の補償金はおりてねえらからな、その差は大きいよ」

新地の駅前に広い宅地用の土地があるが家が建っていないのは変だなと思った、鹿島では次々に新しい家がたち三つくらい新し街ができた、だからそれと比べるとなぜあれだけの広さの土地にまだ家が建ってないのかなと思った。
新地に他から来た人も小高でも大熊とか浪江とかからも来て建てた人がいる、小高の人が建てたとは聞いた、やはり原発の補償金がもらうのともらえないのではその差が大きい
津浪で家を流されても津浪の被害だけでは金が入らないからだ。

ともかく駅はいろんな人が出入りする場である。地元の人でも外部の人でもそうである。今日はおしの人が来ていた、最初わからなかったがしゃべることができない、耳が聞こえない、字は読めるからスマホを見ていた、説明したらなんとかわかったみたいだ。
別に障害者でも来るがめずらしいとは思った。
つまりいろんな人が駅には出入りしているのである。


2017年03月04日

車の話題 (車と鉄道が合体する場としての駅を考える)


車の話題


(車と鉄道が合体する場としての駅を考える)


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鉄道社会なら借金せずともどうにか暮らせるが 
車社会では大部分は嫌でも車のローンを抱える事になる。 
しかし、税金すげー払ってるよな考えたら。今年からリサイクル料金もいるしな。 
もうすぐ車検で頭痛いよ。駐車場代だの車検・税金、保険料とかに随分使ってるな。 
別に車が絶対必要な訳じゃないし、どうしてもの時は 
レンタカーやタクシーで代用できるからなぁ。手放したら海外旅行2回ぐらい行けそうだ・・ 

地方はフリーターでさえも車が必要。 
例え貯金無くともフルローン組んででも車が必要。 
自動車税、ガソリン代、オイル交換、タイヤ交換、その他諸々・・ 
果てしなく金が必要。 はよ脱出したいわ。 
しかし、車関係に金掛かって貯金が溜まらない。 何の為に働いてるんだ俺? 
ガソリン税、重量税、自賠責、自動車保険、維持費、 
取得税、駐車場、車検、リサイクル料、自動車税、消費税、 


自分は車をもっていないから車のことがわからない、すると実は今の社会もわからないのとなる、なぜなら今の社会は車なしではありえない社会だからである。
自分は家庭環境に恵まれて別に仕事もしなくても良かったから車がなくても良かった。
おそらく車をもっていたら自分は事故で死んでいた。
なぜなら自分は車を運転できない、注意散漫でできないからだ。
自分は金はあっても車をもつ気になれなかったのはそのことがある
そして車だと自然を遮断する、自転車だと常に風を感じるから自然を感じる
今の季節なら海から東風(こち)が吹いて来ているから春を感じる
この東風が3・11に吹いたため飯館とか福島市まだその風に乗って放射性物質が運ばれたのである。
車はまた注意していなければならないから外の景色をゆっくり見れない
ただ密閉した箱の閉ざされた空間が移動するだけだとなる
風を感じないというとき風土も感じないとなり旅したことにもならなくなる

とはいえ現代で車をもたない人は変わり者であり貧乏に見られる、仕事でも車が必要だからまともな仕事につけないともなる、車のことがわからないと実際は社会不適格者になっているのが現実である。そもそも自分は社会不適格者だったのである。
社会に適合できなかった、それが学校時代からはじまっていた、集団生活ができない、そこには甘やかされて育ったということもあった。
ただ大学に入ってから体育系の部に入ったりカルト宗教に入ったりしてなんとか集団生活になじもうと必死だったのである。
ただその後は仕事は流れ作業のようなものしかしていないから仕事を嫌悪するようになってしなかった。家庭環境に恵まれたからそういう生き方もできたのである。

車をもたないということは原町の六号線から入るモスバーガーを20年間知らなかった
あそこは車しか入れない場所だと思っていたのである。
あの辺には喫茶店がなくていつも困っていた,自分は喫茶店が好きだった、喫茶店で物思いにふけるのが自分だった、今やこの喫茶店はめっきりへった。
でもあそこに20年間も喫茶店としてあったのに気づかなかったのは車を利用していなかったからなのである。そういうことは今の社会では相当にある。
車をもたないということは戦国時代なら馬をもたないと同じとなってしまう。
足軽として仕えるような身分になっているのだ。足軽とはまさに足で歩くほかない職業だったのである。

ともかく田舎では車がないと生活できないというとき農業でも車なしではできない、軽トラックを必ず使うからである。最近知人が80近くになるのに新しい軽トラックを買った
農業しなくても軽トラックは必要なのである。それで軽トラックが一番売れていることでわかる。
ただ新地から鹿島に通っている人が50過ぎだろうか?免許もっているのに車が金がないというのはどういうことなのか?そんなに貧乏なのか?
中古品で20万で買える、その金もないのか、ガソリン代とかかかるとか言っていたがそんなに貧乏なのかとなる、車は実際はいろいろ保険とか車検とかかかる
金のかかるものである。自分は車を乗っていないからその分一千万くらいはトータルで金がかかっていない、残ったともなる
ただ車を知らないということは現代の社会を知らないということなのである。
それは何かと自分は隠者のような生活をしていたから社会を知らなかったのである。

なぜ車のことをしらないと社会の不適合者になるかというと社会自体に関与できないということもある。
例えば今この辺は津浪や原発事故で困っている、ではその復興にどうするかというとき車社会になっていれば車をどう活かすかが問題になる
とすると車を乗っていない者はそのことがイメージできないのである。
でも鉄道には関心をもっていたから鉄道の駅の回りに駐車場を広く新地とか山下では作ったので鉄道と車が合体したようになり駅周辺が活性化した。
別に鉄道利用しない人も車で駅周辺に集まるとういことがあるからだ。
そして鹿島駅に福島市から来た人は待ち合わせ場所として駅を利用していた。
目立つ所がないのと道の駅がここにはないからだ。
駅はやはり街の中心としてありその再開発として考える必要もある。
浪江でも鉄道が開通したら駅中心のコンパクトシティにするようになる。

いづれにし日本は貧乏社会になっている、消費者金融から借りている人が一千万人いる。その数も多い、近くでもみんな借金している、遂に犯罪者になる人もいた。
金をもっているようでも立派な家に住んでいても借金していそうしている借金社会になっているのが現代である。
ただ車が買えないというのは相当な貧乏だと思う。
車というとまだアジアの後進国では買えない、ベトナム辺りでもホンダのバイクとかが交通手段であり道一杯にバイクであふれているのである。
だから車が普通にあふれている光景が世界ではすべてではないのである。
カンボジアではバイクで観光していて中国人がそのバイクを土地の人に貸して商売している、あんな商売なら資本金があればできるなと思った。
なぜならバイクはそんなに高くないからである。カブであり安いからである。
カブの時代が日本にもあったことを思い出したのである。その時は車は普及していない

ふりかえると高校生まで蒸気機関車で原町まで通っていたことの不思議である。
トンネルをくぐると煙で煤になっていたからである。しかしその後すぐ電気になりその頃一番鉄道が利用されていたと南相馬市のチャンネルで放送していた。
あそこにホーム側とは待合室側でソバなどが食べられる丸屋の経営の店があった。
あういうものが手きていたことはやはり繁盛していたからである。
鉄道の利用客が多かったからである。国鉄時代を築いた一時期があったからである。
自分の母親が原町で原町紡績-原紡に勤めていたがその原紡に引き込み線がある写真があった。鉄道と直結していて運ばれていた。戦前であれ原町からも森林鉄道網が縦横に走っていた。そして木材とか石とかを積み出して東京に運んでいたのである。
それは資源を国内で利用していたから全国的にそうだったのである。
だから原町駅にもその貨物をのせる引き込み線かあった
それが車時代になり鉄道は衰退した

だから常磐線でもそうして繁栄した時期の半分以下の乗客になっているだろう
だから何か400億もかけてよく鉄道を復興したと思う、それだけの利益をこれからあげられるのかとなると疑問だからである。でも鉄道はこれからまた見直され利用されるようになるかもしれない、車だけに頼る時代は今やまた車が売れないとか買えないとか貧乏時代になるとまた変わる、車はなにかと金のかかるものだからである。
それでも車のことがわからないと社会はわからないのが現代である。

鹿島駅の前は駐車ス-ペスが狭すぎる、自転車置き場がある所は個人用の駐車場として決められている、だからあそこにはとめることは違反なのである。
つまり鹿島駅は駐車場がないことが一番の問題なのである。
通りが廃れたものただ車が通過するだけだから廃れた
駐車場を広くとれないからである。それで新地駅とか山下駅は駐車場を広くとれたし山下駅にはキクチスーパーができたから駅前に人が集まるようになった
車と鉄道が合体したような場になったのである。




タグ:車社会

春の絵(おたまじゃくし-tadpoles) 具象画からも抽象画が次々にできる



春の絵(おたまじゃくし-tadpoles)  


具象画からも抽象画が次々にできる      


An abstract picture is made from a representational painting in sequence

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これはずいぶんまえになるけど貼り絵をしていた、それを忘れていたのだが整理したら出てきた一枚である。
これは骨の折れるめんをとな作業だった、こんなこと自分には向いていなかったけど自分には絵にしたいという欲求があった、絵の才能が全くなくても絵にして現してみたいという欲求である。
それで貼り絵をしたのである。正直うまくいかなかった、めんどうな作業でありこんなことをしていたのは暇があったからである。 

その頃何か自分は暇に悩んでいたのである。勤めてもいないし三食用意されているから家事もしていないから暇が時間がありすぎるほどあった。それで困っていたくらいである
今になるとそういう時があったというのもあっというまにすぎてしまった
それから介護とか自分の病気とかに追われることになった。
そして今でも家事は一仕事だからあまり介護が終わっても暇がないのである。

この絵は何か稚拙なんだけど今見るとそれなりに生命力を感じた
何か自分は団塊の世代でありその時子供が本当に多かった、だからどこでも子供が騒いで活気があった、それはおたまじゃくしがうようよ生まれくるのと同じだったのである。
それがなんだか今は少子高齢化になり子供も少なくなり活気がないとなる 
特にこの辺は老人は外より10パーセントも多いから余計にそうなっている

とにかく具象画でもこのように抽象画になる、抽象画の範囲は広いし形にとらわれないからいくらでもできるとなる、それがパソンコで可能になったのである。
とても貼り絵などではめんをとすぎて表現はできない、抽象画は表現の範囲が広いからいくらでもバリーエーションができる、それが不思議なのである。


It is a picture that this sets up paper though it becomes much before it and makes. I left it, but am one piece that came out when I arrange it.
It was careful work, and this was tiring. It is the desire that the desire that I want to make a picture to oneself though I did not turn in a such a thing own minute does it to a picture even if there is not the talent of the picture which there was at all and wants to show.
So I put it and did a picture. To be frank, the reason why it is the troublesome work that did not go well and did something like this is that there was time. 

Though it was unpolished what this picture was, it was the just same as anything oneself who felt vitality as such when I watched it being a post-baby boom generation, and one cup of ladle being born in it that therefore a child made noise anywhere, and there was vigor which there was really many, and a child coming then.
Because there are more 10% than the outside, this neighborhood where it somewhat becomes the low birthrate and aging now, and the child decreases, and it is if there is not vigor in particular do not go along the old man even more and is 

Anyway, it that it was when it was possible plenty because the range of the abstract picture which became the abstract picture in the representational painting in this way was wide and was not kept in the form was enabled in computer.
It which can change plenty because a range of the expression is wide as for the abstract picture which I put it and am over noodles with the pictures and can hardly express is mysterious.

2017年03月05日

時代を越えられない、時代の犠牲となる人間 (大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)


時代を越えられない、時代の犠牲となる人間


(大奥という場で犠牲となった絵島ーNHK歴史秘話ヒストリア)



大奥の絵島の事件は何であったのか?結局大奥という江戸時代の女性が政治化した権力争いがありそれが原因となっていた。
そもそもそうした大奥というものがあること自体、江戸時代は今になるとありえないイメージもできないものとなっている
そんなところに何千人も女性がいたのかというのが謎になる
将軍の種を宿すためにそんなことをしていること自体江戸時代の暗黒があった
だから今になると江戸時代は庶民はいい顔していたとか言われるが政治は暗黒だった
ただどんな時代でも明暗があるから一がいには言えない

結局絵島はこうした江戸時代の大奥とかの今ではありえないものとして大奥という場の犠牲者だったのである。
それが時代でありその時代で人は必死に生きねばならなかった。
絵島は出世したのだからその大奥に適合したのだが反面そういう場所で犠牲者になったのである。
平賀源内でも天才だったけど才能を認められで発揮できずに死んだとかも時代のためである。
あまりにも時代に先んじている人物は時代に合わないものとして活かされないのである。
だからタイムマシンで過去に戻っても結局人間はその時代に適応しないかぎり生きられない、戦国自衛隊などの映画でもいくら戦車とかをもっていっても機関銃でもそんなものはガソリンがないとか弾がなくなるとかでいづれは使えなくなる、すると生き残るためにはその時代に適合するほかない、刀や槍で戦うほかなくなるのである。
その時代を越えて人は生きられないのである。

これは戦争などでもそうである。太平洋戦争では3百万人が死んだ、自分の姉も赤紙一枚で招集されてシンガポールに従軍看護婦として働いた。
そこで塗炭の苦しみを味わった、第一そうして3百万人が死んだのである。
その中には優秀な若い人もいたが高橋英吉なども才能を発揮できず死んだ
才能を発揮できないというときそういう人はいくらでもいた。
戦前に北海道に開墾に入った詩人の猪狩満直などもそうである。
病気で過労でで死んだのである。それが呪いとなっている

そういうふうに才能が発揮できずに死んだという人は無数にいる、その屍の上に才能を発揮できる人がいる、いくら才能があっても時代が悪ければ才能は発揮できない
何かたいしたことはないようでも自分が描いているパソコンの抽象画でもそうである。
自分でしていても不思議なのである。絵が描けなくても絵を作ることができることが不思議なのである。これもパソコンが生れたらでありまさにart(技術)が生れてできた芸術なのである。技術の進歩があってできた芸術である。

時代というとき技術も関係している、外国に行くというとき船でしか行けない時代と飛行機で行ける時代はあまりにも違うのである。外国に行けたのは極少数の選ばれた人だけである。今は誰でも行けるのも違っているし時代である。
そうなると新たな芸術でも学問でも生れる、なぜならそれだけ視野が広くなるからである現代人はそれだけグローバル化して視野が広くなっているのである。
ただ実際に外国に行ったことがある人とない人では相当な差があるし外国に住んだ人と住まない人でも外国の理解では差がある。
でも狭い村から出たことかないというのが普通だった時代とは余りも違っているのであ

人間が時代を越えられないというとき、例えば現代に生きていても現代という時代は技術的な面では越えられない、自動運転が普通になったとき交通事故もなくなったときどうなるのか
なんで交通事故であんなに死んでいたのかと不思議になるのである。
でもそれは時代であり時代の犠牲者だったとなるのは同じなのである。
貧乏でもそうである。戦前とかの貧乏は今とは比べようがない。
自分の父親は明治生まれであり最後は戦後十年くらいたってサシミを食べられるようになったが病気になり食欲がなく食べたくないと言って死んだ
これも時代だったのである。そのときはみんな貧乏だったからである。
バナナなどはこの辺に売っていない、病気の時仙台から買ってきたのである。

人間は時代を越えられないし時代の犠牲者となる、歴史を学ぶということはそうした人間の苦労をふりかえり今を考えることである。昔が良かったとかではない、そのいい面とまた暗黒面をふりかえることである。
女性でも絵島は当時だったら最高の職についたのである。でも大奥などという今ではイメージもできない場がありそういう場の犠牲者だったのである。
それは時代がそうしたのでありその時代を越えられないからそうなった。
そういうことは歴史では常にある、貧乏だったというとき江戸時代なら美人は遊女にされ不細工な女性は紙漉きさせられたとなる
それもどっちが過酷だかもわからない、そういう時代でありその犠牲者だともなる

とにかく歴史を学べばそんな時代と比べて今はいい時代だなとなる、その喜びをかみしめることができる、そうでないと今の時代にも不満ばかりになる
でも今の時代でも時代の不満があるのが人間社会である。いくら過去と比べても今の時代の苦しみがありそこに関心が集まり過去はそんなに考えないのである。
人間は歴史をふりかえれば犠牲の歴史でもあった。その犠牲の上に今日があるということも考えねばならない、それが現代の苦しみのみに注意が向けられて過去は忘れるのが人間なのである

タグ:絵島

今日の鹿島駅(春の日) (10年ぶりにいわきをまわり来た人)



今日の鹿島駅(春の日)

(10年ぶりにいわきをまわり来た人)

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紅梅や仙台に通ず線路かな

鹿島駅十年ぶりに来たりしと春の日さして鉄道の旅



今日は風がなく遅れがなかった、春の穏やかな日だった。土浦ナンバーの水戸管理局の人が信号室を見て回っていた。一人はこの前来た検査車両に乗ったことがあるという。
あの検査車両は浪江とか双葉大熊まで電車を通すために実験している車両である。
浪江は今年中に再開する、3月30日で避難解除になるからである。

そして双葉から大熊とかを通っていわき市までも開通する、その工事は点検ははじまっていたのである。ただ放射線量が高いので双葉とか大熊の駅にはとまらないという。
浪江から双葉に入ると0・5マイクロシ-ベルトから7マイクロシーベルトになるから高いから止まれないことがわかる。でもそうなるとなかなか双葉、大熊などの復興は遅れるとなる。いづれにしろいわき市までも通じる日が近いことを知った。

今日会ったのはいわき市からこっちに回って来た人だった、何かこっちに縁があったらしい人である。茨城の大学に在学していたというからだ。
震災前に来る予定だったがこれずに10年ぶりに来たという。鉄道の旅が好きだとは言っていた。今日は日曜日だから仕事ではない。
10年ぶりに来たとなればなつかしいのかもしれない、仙台まで開通したので来たのだろう自分でも介護ですでに東京に十年以上行っていないのである。

昨日は福島市からタクシーを貸し切りで鹿島駅まで来た人がいた。前も福島市からレンタカー借りて来た人がいた、鹿島では待ち合わせ場所がないので駅にしたという。
福島市から来るのは福島市に県庁があり仕事で福島市から南相馬市に来るということがある。新幹線を利用しても遠回りで時間がかかるから金がかかっても会社なら金が出るからタクシーできた。福島市には貸し切り専用のタクシーがある。
辰己屋というタクシー会社である。この会社を近くの人が知っていた。

近くに星自転車屋と大沼菓子店がある、10年ぶりに来た人は香の蔵でお土産を買った
うまいと言っていた。前に東京から来た人がわざわざ六号線の香の蔵にお土産を買いに行った、あそこまで行くのは不便である。
スーパーキクチの方が近い、あそこでも菅野漬け物屋のものは売っている、数はすくない

とにかく駅はこうして出会いの場所なのである。外から来る人が必ずいるしまだ工事関係とかで来る人もいる、やはりまだ開通したばかりだから外から来る人が多い
だから意外と何か用がある、別にいなくてもいいがやはり無人駅は困ることがある。
3月4日からの時刻が変わるので時刻表を置いたけど風で飛ばされていたのである。
それを原町駅に連絡したらすぐにまた置いた、セロハンで箱をはりつけて飛ばないようにしていた。時刻表をみんなもってゆく

ともかく紅梅が咲いて線路は仙台に通じているのがいい
いわき市まで通じればさらにいい、ただ特急ヒタチは走らない、もう走る姿を見れないとなるのは残念である。新幹線があるから時間的には東京まで行くのは変わらないからである。でももう一度鉄道ファンなら乗ってみたいということがある。
ただ十年以上その人もこっちに来なかったが自分も十年以上介護とか東京に行っていないのだ。時間がすぎるのはとにかく早いのである。

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福島貸切辰巳屋タクシー


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 常磐線の復旧に400億円かかっているからすごい、でももうけているのは新幹線でありあとは5パーセントしか収入がない
新幹線に接続するものとしてローカル線がある。ローカル線が維持できるのは新幹線があるからだとなる
これが鉄道の経済の実体なのである。

2017年03月06日

コンビニで監視カメラが警備会社とつながる 相互信頼のない殺伐とした社会


コンビニで監視カメラが警備会社とつながる


相互信頼のない殺伐とした社会



近くのコンビニで何かしきりに警告している、何なのかと思ったら監視カメラがカウターの前に二台大きなのがすえつけられていている、そしてそのカメラは警備会社と直通であり盛んにそのことを警告している
そのコンビニは前とは違い警戒を強めている、万引きなどを警戒している
それは前にもあったがその警戒の度合いが強いのである。
何か見て回っていてのだが何か買うのかと店員が言ってくる
何も買わないものは早く出て行きなさいという感じである。
そして立ち読みも禁止していて店に長くいま人を警戒している
すぐに目的のものを買って店を出て行ってくださいという感じである。

自分はオカズなども買ったからそういう客ではない、ただ何があるのか見て回っていた。ともかく買物はどういうものがあるかを知ることが意外とむずかしいのである
ゴンビニによっても売るものが違うからである。
だから何を買うのかが問題になる。それで見て回っていた。
でもそうしていると何かうさんくさい何も買わないで見て回るだけの人だとされる
だから何を買うのか買わないなら出て行ってくれと店員が口には出さなくても強いている
ではなぜこんなふうに変わったのか?やはり万引きなどが多いからなのか?
そこの店はこれまで外部の除染関係とか工事関係者の利用が多かったのである。
何かそういう理由があるのか?そこはセブンエレブンではない。
でもその警戒ぶりは異様にも思えた。
地元でもコンビニに十年通っても今はお得意様とはならない、それはどこでもそうであるコンビニでもスーパーでもお得意にはならない、そして客も信用できないからそうした厳しい監視体制をとる、警備会社にたのみ警察が直結しているともなる
コンビニ強盗にも備えているということがある。

そういう店に入ると何かとげとげしくなる、ゆっくり品物を見ていられないのである。
もちろん立ち読みもできない、そういう余裕がない店になる
何か自分は息抜きに店を利用するということがある
毎日三軒は店を常時回っている、それだけ買うものがあるからである。
あのようになるとあそこの店には行きたくないともなる

もう資本主義社会をつきつめてゆくと金だけの社会になる、人間関係も金しかなくなる
実際には自分はそれを経験した。
要するに「お前のために働いているのではないんだよ、金のために働いているんだ」となっているのが普通である。
労働はすべて金のためでありその人のためではない、お前のために働いているのではない金のためであるのをつきつめてゆくと自分が経験したように相手が介護で困っていようが病気だろうが関係ない、金さえとればいいとなり実際盗まれたり虐待されたのが自分である

その人は借金しているから自分のためには何一つ軽い荷物すらもつのを嫌がっていた。
ただただ金がほしいしかなかったのである。
それが極端になると相手のことなど全くかまわない、金さえもらえばいいとなり強盗にもなる、そういう経験もしてきた。
だから家の中に人を入れるのは今はとても信用できる人がいないから一番危険になる
そこに経済的格差が大きいと本当に危険になる
家で働くものはよほど信用がある人でないと危険極まりないものとなっている
それはみんなその人のために働いているのではない金のために働いている社会だからである。

結局江戸時代の貧乏の暗黒があった、容姿のいいものは遊女にされ不細工な女性は過酷な紙漉きをさせられたとか暗黒があった。
現代もまた相互信頼がない暗黒社会である。それはアメリカとにてくるのである。
アメリカをまねて日本も資本主義社会になったからである。
もちろん金が常に人を支配してきたとういことはある
でも何か現代はそれが異常化している、それはアメリカでは他人は信用しない、玄関に人が来れば銃をかえまているのがアメリカである。
まさにこのコンビニはアメリカと同じになっていた。客が来ても信用しない、銃をかまえている、即警備会社から警察に監視カメラがつながっているのである。

ともかく現代の暗黒もまた江戸時代などの暗黒もあるが変わらないものがある。
貧困社会になれば余計にそうなる、資本主義社会は金がないともう余裕などもてないものになっている、清貧などありえない、基本料金として水道からガスから電気から通信費でもかかるから清貧はありえないのである。
金がないということはそうして精神的余裕がてないのである。
自分は今まではそうだったが金が入った結果精神的余裕がもてるようになったのである。このくらいの金はたいしたことがないとかなった、今まではそうではなかった。

もう日本も貧困社会になるとみんなさらに余裕がなくなる、物があふれていても金がなくて買えないとなるとかえって餓鬼地獄のようになる。そして唯一の頼りが金だけになる
人が働く動機も金しかないというとき殺伐としたものになる
遂に極端になると金をめぐって殺すか殺されるまでなる、メキシコなどは貧困社会でありギャングが横行するから実際にそうなっている
そういう殺伐とした社会では金持ちでも安穏とはしていられない、メキシコでは金持ちが誘拐されるのが多いからである。
いくら個人が余裕があったとしても回りがみんなそうなったらとてものんびりとしてはいられないのである。そういう経験をしてきたから今の世の中はかえって江戸時代よりも貧乏な時代よりも暗黒だとさえなる
結局この世の中から暗黒はdarkness duaではないがなくならない
一見現代はいい面も多々あるが金のないものにとっては地獄なのである。
その傾向は貧困化しているから日本でもますます強まり相互信頼もなくなり殺伐となってくるのである。

タグ:監視カメラ
posted by 天華 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年03月07日

故郷の駅の八重桜(詩) 思い出のある場所が故郷


故郷の駅の八重桜(詩)

思い出のある場所が故郷

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信号室があり新しく鉄塔が建てられた

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建物財産標とは、国有鉄道(→JR)が建物の用途毎に設置した
建物の分類や建物の使用開始(或いは登録)年月日を示した札である

M 30年とあるのは

1897年(明治30年)
1898年(明治31年)
Mは明治のことでありこの駅舎は明治30年に建てられたから古い
そして31年に鹿島駅が開業した

30年に中村駅が開業して31年に原ノ町駅が開業した
ともかく建物財産標はそれだけ古いものであり鹿島駅は古い駅舎そのままだった


ふるさとの駅に
八重桜咲き
その花の影に
我がたたずみて
電車を待ちぬ
そのあたたかき
ほのぼのとしたる
八重桜かな
母のごとしか
姉のごとしか
我を待ち迎え
見送りしものあり
しかし悲しかも
その八重桜は切られて
その根のみ残りぬ  
ああ 我が母も姉も死ぬ
我を迎え待つ者のなしも
我はただその切られし
切り株を見るのみなりしも


一本の桜と古い駅

鹿島駅には八重桜が咲いていた、それが5年8カ月ぶりに再開したとき切られた、根が残っているがそれが桜となるのかわからない
自分はいつもその八重桜の下で電車を待っていた、電車は待つということがありそれが人間的なのである。待つということは人間的時間を作り出している
今は忙しいから待つ時間がもてないのである。10分20分でも待つ時間があるとそれが人間的な時間となり思い出となる。だから新幹線は何か思い出となりにくい、ただ目的地に行くだけだとなるから旅にはあまり向いていないのである。

昨日も広島から来た人がいた、何か駅舎の作られた年を見ていた、36年前とか書かれていたのか?これには注目していなかった。ここも5年ぶりとかに再開したので鉄道マニアでも来る人がいる。広島は遠いなと思った。ただその人とは会話は成り立たなかった、会話できる人とできない人がいる

ともかく毎日駅に行くとそこで人とふれあうことができることがわかった。
自分は家族がいなくなって本当に淋しくなった。もう待っている人も誰もいない、それが悲しいとなる、八重桜はほのぼのとしてあたたかい、桜とは違ってすぐ咲いてぱっと散るのとは違う趣がある。それはぱっと桜が咲いて散った後ほのぼのと咲くのである。
それは何か母のごとく自分の場合は姉のごとくとか愛を感じる
複雑でもそうである。八重桜はそういう家族の愛を感じるのである。

その八重桜が切られてないことがショックだった、信号室があって何か鉄塔を建てたために切った。それが残念だった、切り株だけが残っている、この根からまた新しい八重桜が咲くのだうか?
その八重桜の根を見たとき自分の家族が死んだのでそれを同時に思ったのである。
根だけしか残っていない、それは墓だけしか残っていないとかともなる
何か故郷というときそういう思いとか愛着がある場所なのである。
家族をみんなもっているからそういう愛のある場所である。

ただ家族に愛があっても故郷の人は愛があるかというとまた別である。故郷を一茶のように嫌悪するものもいる、ただこの辺では故郷とは何かとか避難したり故郷自体が消失したりしたから考えるようになったのである。
津波でも村そのものが消失したりしたからそうした愛着ある場所がなくなった
そのことがショックだった、老人が帰りたいというときそこに愛着があるからである。
それが失ってみてわかる、それがあるときは考えないのである。
だからここでも八重桜が切られてなくなったとき自分も考えたのである。
それが貴重なものであり思い出の木だったのである。
そういうことがこの辺ではいたるところで起きたのである。

右田の一本松というと津波で残った松だがあれはそもそも松原としてあったから一本の松としては意識していなかった。松原は一本一本の松を意識しない所だった
駅の八重桜は一本の木として意識していたのである。
要するに自然でも人間化する、八重桜には家族とか母とかでも人間をみるのである。

ともかく家族をみんな亡くして誰も待つ者もいない、それが淋しい、世間の風は冷たいが家族の愛につつまれていたときを思い出すのである。
それが思い出となってしまった。今は自分が待っていて迎え見送りしているというのも奇妙だとなる。
駅が結構いろんな人が出入りする、すると淋しさもまぎれるのである。
一人暮らしの人が老人がスーパーなどに毎日行くというときその気持がわかる
そういう人が出入りする所で淋しとかがまぎらわすのである。
それは妻を失ったとか一人身になった人しかわからない心境である。

家族が死んだり愛する者が死んだりするとそれがずっと尾を引いて癒されないのである。それはなぜか、死んだ人とは二度と会えないからである。会えないからこそまた悲しみがつのってくる、生きているときは嫌な人でもあったことはある、でも死ぬと二度と会えないから余計にまた会えたいとなるのである。
だから人間は二度と会えないということで会っていると有意義になる、一期一会とかなる自分は60年も一緒にいたからそのことで忘れられないとなる
だからどうしても老人は故郷に思い出のある場所に帰りたいとなるのである。

木造の古い駅舎