2017年02月19日

ボランティアの条件 (ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件


(ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件として

●金をとらない
●金を出さない
●楽しい
●強要されない
●感謝も自由

他人の判断や責任のもとで行為するのではなくて、上のような意図のもとに、自分で状況を認識し、何をなすべきかを自分で判断し、あくまでも自分の責任において、いわば何の後盾もなく、行為を開始するのである。

<無償性>  無償性とは、経済的な報酬(金銭、物品、サービスなど)を目的としないということである。ボランティア活動をするときに、精神的な満足や交流の楽しみなどを報酬として目的にすることは、ここにいう無償性をそこなうものではない。

無償の立場から、公益性を探ろうとする点で、際だっている。もちろん、無償の立場だからこそ真の公益性を主張できるのだ

(一)チャリティーのボランティア(他人のための道徳的行為)
(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)
(三)社会参加のボランティア  (社会のための公的な行為)

ボランティアと仕事は違う、仕事は嫌でもしなければならないしそうしないと社会が成り立たない、ここのボランティアの考察は興味深い

自分が無人駅の案内としての偶然のボランティアはこのことだった。
金をとらないし金を出さないしやっていることが楽しい、公益性もある。強要されてもいない、感謝もされるがそれも自由である。

(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)

この文化的行為というのがむずかしい面がある。自分の場合は鉄道が好きであり鉄道会社に世話になっているということで文化的行為になっている
それから介護施設で老人の昔の話を聞いたときもそれは文化的なことであり郷土史にも結びついていたから文化的行為だったのである。
それは苦痛ではない、楽しいものだったのである。

原発事故や津浪ではボランティアが大勢きた、しかしその人たちがこのような無償の行為だったかというとみんながそうではない、例えば宗教団体が結構きていたがそういう人たちは自分たちの団体を宣伝するという目的があった。
それかち芸能人でもそういう人たちもやはり純粋にボランティアするというよりは名前を売るとかの目的があった。
この辺では福島県の詩人が有名になったけどそれは原発を種にして有名になった売名詩人である。名前を売り出すことができたからである。
そういう目的があってボランティアをしているのである。
だから純粋にボランティアしているというのは意外と少ないしボランティアは本当は相当にむずかしいものだと思う

だいたい人間は何か自分に利益がなければなにもしない、日頃近くで困っている人がいてもボランティアしているかというとしていない、ほとんど無関心なのである。
今でもボランティアにきて焚き出しなどをしているというが国から交通費が出ていると日当がでているとも言われる、第一遠くから来るとしたら交通費を自腹でするとなると簡単にはできないはずである。日当は出るとなる
この辺で仮設に議員が来て援助するというと票を得るためであり無償ではしないからそれも政治活動であり自分のためだともなる

このサイトのボランティアの考察で面白いと思ったのは(自分のための文化的行為)である。これが何か自分のしていることなのである。
文化的なことは本当はボランティアに向いているものがある。肉体労働とかなると苦しいからボランティアしにくい、文化的行為というとき鉄道が好きだとか鉄道マニアがいて鉄道にかかわりたいとかなるとそれは文化的行為なのである。
そもそも文学とか芸術とかは文化的行為である。これでもうけようとするのがなじまないのである。それから情報関係でもそういうことがある。
何かを伝えたいというとき別に金がほしいからではなく常に人間が社会生活ではあるからだ。電車が風の影響で毎日遅れているということを伝えることは別に金がほしいからではない、それがみんなに伝える必要があるものだからである。
人間の社会生活にはこうして実は金にならないものでも必要なものがある。
金にならないということで価値が認められない社会は余裕のない社会なのである。

本でも売れないから出版社で出さないとかあり著者は売れるようなものを書けとなるのが普通である。売る売れないで出版するかどうか決まる、それはマスコミでもそうである。視聴率をかせげるものを放送するが本当はボランティアだったら言いたいことをその人の関心をもっていることを赤裸々に言うことがかえって社会を知ることになる

だから余裕のある社会はボランティア精神を発揮できる社会だともなる、貧乏だったらできないからである。ボランティアできる人間はどうしても金銭的に余裕ある人である
時間的にもそうである。
ただボランティアの問題は責任がないということである。ボランティアの駅員でもいつもいるわけでもない、気まぐれだともなる、だからボランティアと仕事は相当に違っているのである。
嫌でも苦労でもしなければならないのが仕事なのである。
仕事は義務でありそれをしなければ社会生活が成り立たない、ボランティアは義務とか責任に欠けている、ただ自分がボランティアの駅員していて気持ちいいなと思ったのである結構ありがとうという人がいることなのである。こんなことで感謝されるのかとなる
別に感謝されなくてもいいがありがとうということは何か役に立っていることなのであるこのボランティアには全く自分は苦痛を感じていない、楽しいのである。
別にこれは他人でも社会でも認められるものでもないしそうされなくてもいいものであるちょっとした親切にすぎないからである。
ただ不思議なのはこういうことが善であるということも感じた

「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい。そうでないと,天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)

つまりこういうものに通じるものがある。結局津浪原発事故では様々なことが問題になった。ボランティアもそうである。
この言葉のようにしている人はいない、普通の社会生活でもいない、何か自分に利益があってしているのである。みんな何かしらの報いを得るためにしているのである。
ボランティアでもそうである。人間は無償で何かをすることはしない
ただ文化的行為というのは芸術となるといい俳句が短歌が絵でも作れたなとなるときそれ自体が報いとなっている、仕事にもいい作品を作ればそれが報いとなることがある。
だから収入の多寡に関係なくいいものを作るために精進することはある。
それはボランティア精神なのである。つまり仕事でもボランティア精神がなければ成り立たない、だからボランティアが文化的行為になっているとと自ずとボランティアになっているのである。ただ文化というとき広範囲だから理解しにくいが文化には無償性が大きい出版とか報道とかは無償ではない、常に売れなければならない、視聴率をかせぎ宣伝して企業から金をもらむなければならないとか利益追求があるからかえって真実も伝えられないのである。
だからインターネットともともとボランティア精神から成り立っていた。営利事業はしていなかったのである
ウィキペディアなどがそうである

宗教でも本来は無償性かあって成り立つ、だから金をとるカルト宗教団体はうさん臭いのである。布施というとき自発的なものとして受け取る、強制はできないものとしてあったでもカルト宗教教団では布施でも自由に見えても強制されているのである。
そしてなぜ兆にもなるような巨額な金を集めるのか?
それはそれでもって権力を得て銀行でも従わせるとか政治活動して権力を左右するためにしている、宗教も本当はボランティア精神でしていればこうはならない
金もとならない、強制はしないとかなれば問題ないのである。
つまり人間には社会にはボランティア精神がなくては一方で成り立たない、仕事は義務であってもボランティア精神がなければその仕事もゆがんだものとなる
みんなしたくない仕事をしているから奴隷なんだよな、社蓄なんだよなとなっているのである。それが社会を不健全にしているのである。

posted by 老鶯 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題