2017年02月24日

貧困化する日本で社会不安が増大する



貧困化する日本で社会不安が増大する

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●金でめんどうみてもらへ
●金をくれ
●金をよこせ
●金をください

最初の人は全く金に困っていないが人格異常になっていた、何か遺産が入る人だったのである。ただその遺産でもめたりはしていた。
「金をくれ」と来た人は火をともすような生活をしていた。おそらく年金だけは少なくて暮らしていけない状態だった、国民年金でもそうだし厚生年金にしてもまともな会社に入っていなければもらえない、その女性は10万以下しかもらっていない、でもカラオケだとか趣味とかに金を使っていた、だから節約するにしてもそうした楽しみを奪われたくない、つきあいもしたいとなり金が必要になる
そもそも10万以下ではカラオケにもつきあいもできないのである。

「金をよこせ」という人は事業に失敗していたからこれも切羽詰まっていた、自分が介護とか病気になり借金をせまってきた、最初はわからなかった、成功していたと思っていたのである。家族すら知らなかったのである。パチンコ屋に妻が勤めているということでわかったのである。
事業に失敗したとなるとその額は大きくなる、そしてその人は節約していない、いい車をもって外見は成功した生活をしているのである。だから知らない人はやはり成功していると見ているだろう、ただパチンコ屋に勤めているということで金に窮していることがわかる
その人は何かまだ成功するとしている、事業も別に継続しているからだ。
ただ借金の額が大きいからそういう人は軽く百万とか平気で要求するから怖い
だからそういう人と付き合えるのは事業して何十億とかある金持ちしかいないだろう。
そんな人と付き合うとなると怖いとなる、保険金殺人とかの危険もあり何か自分もそういう恐怖になった

最後の人はやはりサラ金からも借金していてヤクザ風の取り立て屋が来た。
でもその額は小さいのである。その女性は一万とか二万とか少額の金を借りてやりくりしていたのである。だから自分はそれを払ってやった。
その人は見栄もなにもないし贅沢もしていない、ぎりぎりでずっとやりくりしていたのである。その日暮らしのような状態であり今でもそうである。
でもサシミなどは魚屋で新鮮なものを食べていた。
ただ人に頼むのがうまい、たけている、処世術がある。
「金をくれ」とか「金をよこせ」とか命令してそれを実行している人とは違う、見栄もなにもないのである。他の人は見栄があるからそういうことはできない

いづれにしろダークネスデュオで言っているように日本も貧困化している、ただそれが現代では見えないのである。着るものでも食べるものでは昔の貧困とは違うからである。
自分の父親は明治生まれでサシミなど酒のつまみに食べすに終わっている
味噌を焼いたようなものを魚にしていたのであてる。
そしてサシミ食べれるようになったけど食べたくないと言って病気で死んだのである。
貧困は自分の子供時代はみんなそうだった、第一物が何もない、電化製品もない、飯台が一つしかないという生活はみんな共通だった
そして農家では卵を食べることができたからかえって自給自足で贅沢だったのである。
街の人は卵を食べていない、自分の家では店をしていたから卵を買うことが仕事にさせられたのである。ものがない時代の貧乏だった、その時はみんな貧乏だったのである。
今は物がある時代の貧乏なのである。これほど物が世界から集まり何でもあるが今度は金がなければ買えないという貧乏なのである。そして格差社会になった貧乏である。

格差社会というときこれは世界的問題である。グローバル経済になるとどこの国でも格差社会になる、グローバルに企業が低賃金の労働者を求める、企業は競争に勝たねばならないからみんなそうなる、そしてAI化とか機械化が進んでゆく、コストを人間にかけられないからである。人間より機械の方が企業にとっては都合がいいのである。
そこにあるのは人間を見る論理ではなくより効率的に企業を経営するという企業側の論理しかないのである。だから非効率な人間は切り捨てられる
それがコンピューター化や機械化でますますめんどうな人間はいらないとなる
グローバル経済になれば低賃金化した職業が増えるし貧困化した人間が増大するのであるグローバル経済はアメリカでもそうだけど極一部の人に富が集まるシステムである。
スキルをもった頭脳となる部分に富が集中するのである。
そして人間を雇うよりそうした頭脳となる人たちはより効率的にするために人間は切り捨てられるしグローバルに低賃金化して雇うのである。それは世界的なものでありアメリカでもそうだしどこの国でもそうなっているのだ。

これほど借金してやりくりしている人が多いということは社会的不安が犯罪でも増大す
る、まず高齢社会になり国民年金だけでは生活できない、貯金ある人も少ない、その人たちは生活保護になり国の財政を圧迫するから75歳まで働けとなった、もう75歳までは老人ではないから福祉サービスも受けられない、国でも出さないとなったのである。
自分が助かったのは介護であまり金を使わなかったことである。
手間がかかったが金はそんなにかからなかった、そのうち死んだので金はかからなかったでも介護だと長くなるし一千万とか二千万使ったという人がいるからこれも負担なのである。高齢化社会は介護の負担が金だけではない労力としても負担が大きいのである。
それはみんなにのしかかってくる負担なのである。

こういう時代は社会不安が増大してくる、その犠牲になったのが自分である。格差社会となり金持ちでも安心して暮らせない、困窮している人が増えれば犯罪は増大してくる
怨嗟も大きくなる。
ただ自分もそうだが犯罪でも被害にあわないかぎり実際にそうした貧困化している人と会わない限り感じないのである。だから自分はこれまでそんなことを感じない状態にあったからみんないい人だと思っていたのである。
現実はあまりにも違ったものだったのである。
ただ自分も贅沢などしていない、旅するにも温泉宿になど泊まったことがないし土地のうまいものも食べたこともない、そんな金の余裕がないからである。
本を買ったりしたがほとんど何か贅沢などしていないのである
小遣いを多少もらっていただけだからである、だから百万の金を使ったことがないのである。家だって親が建てたからそこに住んでいたというだけである。
要するに自分が贅沢だったというとき時間だけが与えられたというだけだったのである。
ともかく借金で汲々としてやりくりしている生活はどこで破綻するかもしれない、そして何かローンで家を買った人なども退職してからも余裕がないのである。
ローン地獄となる、それも経済成長しないから誤算だったとなる
そもそもそんなに借金でやりくりしているということがまちがいだった、節約すべきだったと言うのもわかる、節約が唯一の道だったというのわかる
で物があふれいる時代は節約することがかえってむずかしい、物がない時代はそもそも買いたいものもないのだから節約もないのである。
だから事業に失敗しても以前としてレベルの高い生活をしているが借金を返すことに汲々していてもそうしている

そういうことは理に反しているけど現代はそうなっているのである。
だから「絶対に借金はするな」となるがそれが実行されずにそのために回りの人もまきこまれることが怖いのである。犯罪の被害者になり自分のように脅迫されるとかもなる。
そもそも節約しないで他人が金あるからとそれを借りてまた脅迫してでも犯罪でもとるということがおかしなことなのである。
そんなに金を出せる人がいるのかとなる、自分だってそんな金はないけどそんなことはかまわず要求してくる、遂に奪えばいいとなる、そして自分のことなど死のおうが何になろうがかまわないとなっている、だから金は怖いとなる
この辺で補償金でもめたけどこれもどうにもならない、どんなことしたって金をもらったものが勝ちだとなるからだ。そういう社会になっているからである。
もらえるものはもらう、金がもらった方が何であれ勝ちだとなっている社会だからであるそして人心の荒廃がすすんでゆくのが現代なのである。。

タグ:貧困
posted by 天華 at 11:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年02月25日

新田川の公園にできるテニスコートは広い (風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による)


新田川の公園にできるテニスコートは広い
    

(風致が損なわれる問題もあったー久々に桜井古墳による) 

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このテニスコートは六面だから広い

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桜井古墳の所まで津波が来ていた
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壊されるフレハブの宿泊所

みちのくの桜井古墳や冬の雲

みちのくの桜井古墳や冬の暮

東風(こち)吹いて桜井古墳海近し


新田川岸辺を歩む人一人老人多し冬の日暮れぬ

赤々と冬の没りて雲染めるここに住みにつ命はぐくむ


今日ひさしぶりで桜井古墳の方に行った、そしたら新田川の岸辺の公園の隣がテニスコートにするために工事していた。
女性が一人歩いていたので話した

「ここはなになるんですか」
「テニスコートで六面できるそうです」
「ずいぶん広いな そんなにテニスする人がいるのかな」
「若い人にはいいじゃないですか」
「そういうことは言えるかもしれません、自分としては安らぎの場として老人が散歩するのにいい、憩いの場所の方が良かったな」
「それもあるけど若い人にはいいじゃないですか」
「大きなパークゴルフ場が鹿島区にできた、あれは老人向きだからここは若者向きも必要なのかもしれません」
「ここはすでに震災前にテニスコートにする予定だったんです」
「そうですか、すでに決まっていたから実行したということですか」
「でも何かここは新田川があり風光明媚だからテニスコートにするのももったいない所だった、木を植えて花を植えたりした方が良かった気もする」
「それも言えますが若い人の要望もあるでしょう」
「別にテニスする人は今は若い人とは限らないですから、それも必要とは言えます、でも市民が議論しても良かったのかもしれません、まあ、桜井古墳の方は散歩するにいいですからここはさけてもかまわないですが・・・・・」   

何か自分が一番常に気になるのは自然景観なのである。突然自然景観が壊されることがあるのでそのことが残念に思うのである。
人間は普通自然景観に敏感ではないから利益にならないから簡単に破壊されることがあるただ運動場を見ると手狭になっていることはわかる。
そしてテニスをしたことがないものはテニスのことはわからない
テニスをしたい人の要望もあるからここを公園にするということは議論が必要になる
若者が運動するというとき老人ばかりの要望を聞いていられないからである。
ただ高齢化社会となるとき安らぎや憩いの場所が多いと暮らしやすいとなる
別にこの辺は自然がないというところでもない、都会とは違うからである
だからここはそんなに問題にすることでもないかもしれない
ただ新田川があり景色がいいからその景色と調和するのがいいと思っただけである。

桜井古墳は海に近かったしもともと海に向いた古墳だった、何か港のような感じにもなる実際に津波はここまで来ていたからもともとは八沢浦と同じく海だったのである。入江だったのである。その海に面して桜井古墳があった
海に面して古墳があったというときここもそうだが名取の雷神塚古墳でも海から離れているようで実際は海が近かった、仙台の遠見塚古墳でもそうである。遠く見るというとき海を見ていたのかもしれない、海と関係して生活していた人が作った古墳だとなる
たださの古墳にしても観光の目玉ともなりにくい、古墳はなかなかわかりにくいのである真野の古墳からは金銅双魚佩(ぎょはい)出たので目だったがそれでも城のようには目だたないから観光としては歴史的なものとしては注目されないのである。 

今日は東風(こち)が一時吹いた、あとはまた北風になった、そして3月11日は東風が吹き放射性物質が飯館村から福島市までその風にのって流れたのである。

ダイユーの仮設は壊されていた、これを見ても徐々に除染も終わり人が減ってゆく、この辺はそうなると一時の工事とか除染のバブルも終わると経済的影響は大きくなる。
外からの人が来なくなるからである。

帰りは雲が赤く夕日に染まる、ここに住みついて雲が赤々と染まってゆく
何か報道するということはプログでもしてみると近くのことでも関心をもち住んでいる場所を良くしたいとかなる、それは自分が住んでいるからそうなる
旅などではそういうことは思わない、ただ通りすぎてゆくだけだからである。
でも人間は最後はどこかに定着して命をはぐくまねばならない、報道することは何か政治とも関係している、ここはこうしたほうがいいとかなるからである。

一人一人議員になったように狭い場所だとなりやすい、だから原発に無関心だったのはなぜだったのかとなる?
それは報道する者の責任だったかもしれない、第一今ならインターネットでフログなどで発信して報道できるがそもそも一般市民はできなかったからである。
こうしてフログなどでも書いて発信できると違っていたのである。
報道の役割は意外と大きいのである。知らされなければわからないからである。
だからこそマスコミは第三の権力になっていたのである。
民主主義は報道が大きな力をもつからこれが機能しないと今回のような原発事故とかになりとりかえしのつかないものになる
そもそも原発には許可なく誰も立ち入れないし報道機関が報道しない限りわからないものだっからである。

2017年02月26日

2015-2017 相馬地方のニュースのまとめ


2015-2017 相馬地方のニュースのまとめ



2015-12月 母死亡

2016-1月 母の供養

2016  南相馬市鹿島区にシシドスーパー開始

新鮮なので評判がいい

隣に復興住宅(五〇戸くらい)完成

主に浪江の人、外部の人が入る

原町のキクチスーパーの隣に三階建ての復興団地完成

雲雀が原に五階建ての復興団地完成

全部で一〇〇〇人くらいの規模か?

鹿島区の川子に大きなパークゴルフ場完成

鹿島の仮設食堂のあつみ食堂やめる

野菜食が多かったので自分には打撃

鹿島区のローソンの向かい側の屋形の土とる場所から古墳発見

相馬市の入母屋風の市役所完成

公共の施設は入母屋風に統一しているのが相馬市
城下町としての情緒を大事にした街作りをしている

常磐線が仙台まで開通

新地、坂本、山下の駅前開発

新地には温泉がでて施設ができて駅前に大きな駐車場ができていた
山下に大きなキクチスーパーができる

2017

南相馬市立病院にヘリコプターの着陸場がある脳卒中センター完成

ここの担当の副医院長は手術がうまいと評判

同級の人が脳卒中になり一命をとどめる、他に癌で一人、糖尿病で一人死んだ

新田川の岸辺の公園の脇にテニスコート六面を作る工事開始
運動場を拡大する

原町区の六号線のダイユーの仮設の宿泊所を撤去



津浪と原発事故以後の相馬地域の変化は大きい、それが今もつづいている
ただ仮設の宿泊所が撤去されたということでも除染関係とかの仕事は相当に減っている
地域のニュースとういとき毎日の生活で直接ひびくから中央のニュースより身近なのである。

復興住宅も原町区だと本当に大きいから驚く、1000人規模で大熊とか双葉とか主に浪江の人が入る、ここからだと浪江が近くだから見に行けるから便利だと言っていた。
仮設に住んだり復興住宅に住んだり原発避難者も津浪の被害者も大きな変化を経験した

脳卒中センターなどが完成したのも大きなことかもしれない、同級の人が脳卒中になったが早くみてもらったので助かった、つまり脳卒中はどれだけ早く治療するかで生きるか死ぬかになる、他に近くで癌で死んだり糖尿病で死んだ同級の人がいた。
なんか病気とか死とかが身近になる世代になった。

一番の変化は自分にとっては常磐線の仙台までの開通だった。
それで毎日のように鹿島駅が無人駅になったのでボランティアの案内をしている
なんか自分は鉄道には世話になったし好きだからである

新地駅も新しくなり駅前が開発している、温泉も出たというからその施設もできる
でも駅前にはまだ空き地が多く開発されていない、鹿島区だと三つくらい新しい街ができた、そこに新しい立派な家が建てられたのである。
それはやはり原発の補償金をもらった人たちが建てたとなる
新地では津浪の被害であり原発の補償金はもらっていないから建てられないかともなる

新田川の運動場のある所から拡大してテニスコートが六面できる、これも広いと見た。
それからすでに鹿島区の川子にパークゴルフ場ができてあれも広いのである。
あそこは憩いの場所となると思った、景色もいい場所なのである。

ともかく他にニュースはある、建物も建っているからこの辺の変わり方は大きい
それは新しい施設ができていいことでもあった、ただ小高とかはさびれてしまった。
でも高校が開始すれば多少は活気がもどる

浪江の人たちが主にあれだけの数の復興住宅とか団地に移る、だから原発というのはそもそも広域的に相馬地方全体の問題として最初から検討しなければならないものだった。
今になって補償金でもめるのは双葉とか大熊と富岡とかの一地域の問題としていたからである。
今になればこうして相馬地域でも中通りでも福島県全体をまきこむ問題だったのである。だから最初から広域的に考えて検討していれば共同責任となり補償金でももめなかったのである。
今になってなんだ補償金をもらう人ともらわない人が争うこともなかった。
なぜなら原発はそうして相馬地域全体でも決めていたら責任も全体にあるからだ。
何か原発事故以後こうした責任がそれぞれに問われたのである。
漁業権でもそうだった、漁業組合の責任も大きかったのである。

いづれにしろ地域は密接にそれぞれの生活がかかわりあいがある。
昨日はキクチスーパーでマグロの解体をしていてトロとかが売れていた。
人で一杯でありこんなに南相馬市に人がいるのかと思う
土曜日はイオンでもそうだが混むからねそう見る

津浪原発事故後でいい面はいろいろな施設が作られたことである。
ただこれからは仮設のプレハブの宿泊所が撤去されたように仕事も減ってゆく、外からくる人もすでに減っている,除染も減っている、つまり仕事がなくなってくる
でも人手不足なのは少子高齢化のためである。
まずこの辺は他に10パーセント高齢化している、若い人は流出して帰ってこない、看護師なども子供を連れて流出して帰ってこない、だから脳卒中センターでも看護師不足とかなっているだろう。

ニュースというとき一地域でも様々なものがある。要するにニュースというとき一人一人がニュースなのである。狭い地域だとそうなる。
東京のことなどそこに何ができても便利でもここでは関係ないのである。
仙台なら多少関係はあるが毎日の生活には関係しない、自分は毎日買物している
スーパーとコンビニとツルハとかによる、意外は買物が一仕事なのである。
それだけ買うものが多い、料理するにしても何を買うのかわからなかった
どこに何を売っていることを知ることの方が料理するより先に知るべきことだがそれがわからなかったのである。
それでシシドスーパーができたので良かったなとなる

ともかく自分は良く介護していたとなる、今も家事に追われているから良く介護していたなと思う、それは母の場合はあまり手がかからなかったからだと思う
そうでなければ自分は不器用だしずぼらだからとても介護などできなかったからである。自分の一身上でも10年間は四苦八苦してのりこえたのである


「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、
唯一生き残るのは変化できるものである」ダーウィン

この辺で起きていること自分に起きたことでもこのことがあてはまるのかもしれない
あまりにも大きな変化のためどまどうだけになる人もいる
何をしたらいいのかもわからない人もいる、老人は特に変化に弱いからそうなる

今までの過去がなくなるとき一体どうしたらいいのか?
街作りでも全く新しい発想が必要になる
変化することができる者がこういう所では生き残るとなる
変化できないものは街自体でももう維持できないからである。
それは津浪の被害地でも起きているのである。

インターネットなんかでもそうである。新しい技術が生れるときそれに適応できなくなるそこでは新しい発想が必要であり変化が求められるからである。






posted by 天華 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している


NHKのフェクニュースの解説を今日のテレビでしていた


NHKも中立ではないマスコミは局の意図をもって報道解説している



これでわかった!世界のいま ▽偽ニュースが拡散中! なぜ世界はだまされるのか 
2017年2月26日(日) 18時10分〜18時42分 NHK総合

日本ニュース】米 偽の記事「フェイク・ニュース」信じた男が発砲


アメリカのある大学の実施した世論調査では、 
「メディアの方が信頼できる→39% 
トランプ政権の方が信頼できる→49% 
でメディア不信は深刻」、

大体本当に事実だけ伝えているニュースやマスコミなんて存在しないだろ 
発信側が意図的に作成した作文伝えてるだけ 

マスメディアはスポンサーから金をもらって 
スポンサーに都合がいい記事を書くのが仕事なんだから 
信じる方がバカとも言えるな


NHKの今日の番組ではフェクニュースがトランプ大統領側から流されのが多かったとして解説していた。
そこにすでにNHKの意図があった。

トランプ 偽ニュース,トランプ 偽ニュース、トランプ 偽ニュース

それを図解すると何かすりこみができる、つまりNHKはトランプ大統領側にはついていない、アメリカのマスコミと同じだった、日本のマスコミもトランプ大統領側についていないから流されるニュースはトランプに不利なニュースばかりだったのである。
それでも当選したことは驚きだった、マスコミの権威が地に墜ちたとして大きな報道の転換を迎えたことである。それはインターネットの影響も大きかった

メデアはメディウムに中間とあってもそうはなっていない、最初から局の意図をもって報道して編集している、コメンテーターもその編集の一員として配置している
自由な発言は許されていない

トランプ 偽ニュース

NHKはこの意図をもってトランプを批判していたのである。
ただNHKでも他の局でもわかりにくい面があるがそこは巧妙に中立を装い視聴者を誘導しているのである。
ただ事実を報道しているわけではないのである。そこがわかりにくい,誰かがそんなことはないよとか反論できないのがテレビだからである。

この辺でも原発避難民のことで補償金で問題が起きて対立があった。
その時も自分は書いてきたが原発避難民側にNHKが立って報道していた
それも巧妙だから地元でもすらわからないものがあった。
だからこんなことを話題にしたのは自分だけかもしれない

原発避難民を応援する、批判はしない、批判する人は発言させない

こういう意図をNHKはもっていて報道していたのである。
現実に補償金で不満な人たちや津浪被害者は発言させていない
そしてなんで原発避難者で苦労しているのに仮設に住んでいて受け入れないのかとか
言わせていた
それは理由がありあまりにも手厚い補償が原発避難民にされていたからである。
そして外部から今でもボランティアが来ていてかわいそうだと応援しているしそういうこともありなぜ地元の人は応援しないのかと余計になった。
ボランティアが悪いというのではなくそういう気持ちにさせた。
その後は両方で仲良くすることで祭りが行われたとかNHKでは報道していた

要するに報道は中立ではありえないのである。どの放送局もその局の意図をもって放送していると見るべきである。ただその意図が見えにくいのである。
いかにも中立の報道をしているように見えるのである。
それは外部からの自由な発言がインターネットのようにできないようにしているからである。
「そんな貧乏な人がいるんですか」とか言えない、確かめようもない
NHKで報道した貧乏な若い女性はNHKが貧乏のことを報道するので使われていたのである。その女性はそれなりに贅沢もしていたのである。
NHKがフェクニュースを流していたし他の局でも自分たちの意図があり報道して解説している。第一その事実も確かめようがないのである。
それがグローバルにになると余計にそうなる、それでイラク戦争のとき油まみれの海鳥の写真を信じた世界中で信じてイラクはひどいなと世界中でなったのである。
情報はアメリカならアメリカで意図をもって有利なものを流すのである。
それがフェクニュースになっていた。
その事実を確かめる術がないからそうなる

そのフェクニュースが有効になるのは何かそういうデマが広がるのはそういう社会状況が生れているときみんな信じやすい、熊本地震の時は動物園からライオンが逃げたというときもそうである。地震で混乱状態にあり信じやすかった。
その時も写真が出ていたので信じやすかったのである。

この辺だと補償金で対立したから

小高の人の車が傷つけられた

こんなフェクニュースを流すと信じる人がでてくる、いわき市でも実際にあったからである。ただこの辺ではそこまでは起きていないのである。
フェクニュースが信じやすい状況があり信じられて拡散されるのである。

放射性物質の高い黒いダストの塊りがある

こんなことも報道されてこの辺で騒がれたこともある

そこでインターネットは危険だとマスコミで言うがまたマスコミもそうして自分たちの意図をもち誘導するためにニュースを解説して偏向させているのである。
だからどっちもどっちだと今ではなったのである。

要するにマスコミの報道だったら解説でもマスコミの意図がどこにあるのか見抜くことである。それはインターネットなどの反論などが役にたつのである。
そのままテレビの報道や解説を鵜呑みにしないことなのである。

結局こうしたことが起きるのは

古代ギリシア語ではδημαγωγός(デマゴゴス)と言う。日本においては主に、意図的に虚偽の情報を流し、嘘をついて人を扇動しようとするさまを指してデマゴーグと批判として用いられるが、「流布された誤った情報」の意味でのデマ、それを意図的に流すものとしてのデマゴーグは日本に限った用法であり、本来「嘘」の意味は無い。
語源は「民衆(δῆμος / dēmos)を導く(ἄγειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は人々の感情や偏見に訴え、力を得る政治家や権力者の意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(Demagogie)と呼ばれる
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ギリシャのようポリスの直接民主主義でもこういうことが起きていた、ただ嘘というものではなかった、狭い地域では嘘はばれやすいのである。
例えば相馬地域とか福島県でも嘘はばれやすいからフェクニュースは成り立ちにくい、これが全国レベルになりグローバルになると嘘でもフェクニュースは信じやすくなるのである。






2017年02月27日

2017年02月28日

原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった (津波で淘汰された老人)


     
原町区の上渋佐で死んだ人は全部65才以上だった


(津波で淘汰された老人)

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全部死んだ人は65才以上だった



 東日本大震災の死者のうち60歳以上の比率は64.4%であり、東北3県沿岸市町村人口の同比率30.6%の2倍以上となっている。60歳代、70歳代、80歳以上の比率は、人口比率のそれぞれ1.4倍、2.3倍、3.3倍となっており、高齢者ほど死亡率が高くなっている。津波被害から逃げたり脱出したりする困難性が加齢により大きく影響を受けた様子がうかがわれる。地震の発生した金曜日午後には通勤者は自宅にいなかった場合が多いことも影響していると考えられる。また同じ年齢階級で男女を比較すると男性の方が高い倍率となっており、車中での溺死者や数波にわたる津波の間に自宅に戻った者に男性が多かった、あるいは女性を優先して逃れさせた様子もうかがわれる

高齢者が死んだ人が多いというときそもそも高齢化社会であり老人がどこでも多いから比率的に死ぬ割合も多かったのである。
でも上渋佐では65才以上でありそれ以下の人はいなかった。もともともこの辺も老人が多いからだとなるのはわかる。それにしてもこれだけ老人が多いということはその理由は何なのだろうとなる
気にかかるのとグラフで50才の人も多く死んでいる、これは50才の人も人口比率で多いからである。


若い人が通勤していて若い人とともに逃げられなかった。車を運転できない老人も多かったからなのか?今は農村部でも会社員になっているのが多い
すると一日家にはいないのである。その時若い人がいないから老人は対応できなかったのかとなる

若い人でも家族が心配でもどりそのために死んだ人もいる、老人が家に残っていたからである。これも順序が逆だったと思う、若い人は生き残るべきだった
老人は経験があるからというが津波の場合はそんな経験をしていないからかえって津波なんて来ないよ、来たことがないとか言って逃げない人もいた

そして言われるのは介護しなくて嫁は得したなとか言う人もいる、そういう時代でもある高齢化社会というのは何か自然の摂理とも反しているのである。
高齢者のために若い人が介護して犠牲になるというのは自然の摂理に反している
自然では子孫を残すために莫大なエネルギーが費やされている、卵子も膨大に生むし鮭などは産卵が終わったら役目を終えて死ぬ
自然は次代の命の方に関心がある、老人とかだけではない、群れのなかで弱ったものは他の動物の餌食になる、そうして種の保存が成されている

人間でもやはり次代のために子孫のためにエネルギーがそそがれる、子育てがそうでありそれが苦労でも苦労ともならない、次世代のために人は働いているのである
今苦労して働いたとしても恩恵を受けるのは次の世代である。
自分など遅かったが遺産をもらったというとき親が苦労して残した金を自分が使うのであり親ではなかったともなる

だから老人のために若い人のエネルギーが使われるのは何か自然の摂理に反しているのである。そういう社会は異常であり未来を作らない社会である。
もちろん介護というとき個々に事情があり家族も関係しているから社会的問題として考えるとき、社会的に考える時は違っているのである。
自分は親には特別良くしてもらったから必死で介護したのである。でもそれが社会にやはり負担をかけたりしているから自分だけの問題にはならなかったのである。

ともかく親であっても老人を助けるために若い人が死ぬというのは自然の摂理に反していた。なぜなら若い人が死ねばその村なり町なりが維持できなくなるからである。
そういことが津波の被害地であれ原発の避難地域であり起きているからだ。
津波でもやはり無情になるが老人は淘汰されたのは自然の摂理だったのかともなる

そもそも老人は何かこうした災害であれ変化に弱いのである。それで原発事故で死者がないというが関連死が多いのである。避難先で死んだ人が多いのである。
それは老人は変化に弱いから適応できないからそうなる
若いときは適応力があるからそうはならない、そういうことはいろいろなことで起きる
海外旅行などは自分は50才でしたから四苦八苦してしてきた
海外旅行は別に言葉ができるかできないかではない、どこでも英語が通じる訳でもない
一番大事なのは異なった世界での適応力なのである
だから言葉ができなくても海外旅行はできる、若い人は勘がいいからその場のことが勘でわかるからできるのである。
老人は適応力と勘が鈍くなるから言葉と関係なく適応力がなく海外旅行でも苦しむのである。

だからつくづく

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない、
唯一生き残るのは変化できるものである」ダーウィン

これが自然界の掟でありまた人間界にもあてはまるのである。
それが津波とかでも起きたし原発事故でも起きている、この辺の復興をどうするかというとき街自体が村がが消滅する危機になっているときそれに対処することができない
その大きな変化に老人は対処できない、ただ故郷に帰りたいというのわかってもこれだけ変化するとその変化に対応できないのである。
だから震災関連死で死ぬ人が多かった、でもそれが自然の摂理だともなる
老人は復興の足かせにもなるから淘汰されるべきだともなる
それで女川では老人は口だすなと言って街の復興に取り組んだのである。
何にもなくなったのだから全く新しい発想が必要になったからである。

双葉辺りで病人が老人が病院に置き去りにされたというときもその非は大きいにしても若い看護師が率先して逃げたというときもそうである。
やはりそれも若い人は生き延びるべきであり死にかかった老人は捨てられてもこういう場合は特別だからしかたがないという見方もある。
自然の摂理は子孫を残すことであり子孫の繁栄なのである。すると子供をもっている若い母親は放射能が危険だとなると異常なほど危機を感じて自主避難までしている
それは次代のものを育むのが母親だから自然の摂理でそうなったともなる

自分も親戚だったけどそういう経験をしている、病気の人を見捨てて登山とかしていた。それで怨まれたということはある。でもその時登山して疲労困憊して何もできなかった。自分は体力がないから登山は辛かったのである。
でも自分はその時登山して良かった、今になると体力的にできない、自転車旅行だって遊びだと言ってもできないからである。
つまり老人のために若いときするべきこともしないとしたら親でも怨むようになるだろう自分は介護してもしたいことをさせてくれたら怨まないし介護をしたのである。

高齢化社会の負担は社会的にも大きいしそれが若い人の負担となるのは問題なのである。だから何かのきっかけで自然災害であれ老人は淘汰されるかもしれない、自然は神でも次の世代、子孫の繁栄の方を望むからである。
だから老人にもいろいろ人がいても子育てが終わった老人はなんのために生きているのだろうと疑問を呈する人がいても不思議ではないのである。
ただ老人全般ではそうなるが家族があり個々の事情が違っているから等しくは考えられない、でも自然の摂理はやはり子孫を繁栄させるために淘汰するということか働く
それは非情にもなるがそれが自然の摂理だともなる

ともかく変化に対応できないのが人間にとっても致命的なのである。現代は技術的にも変わりやすいから特にそうなる、変化に対応できないことが致命的になる。
ただ老人にも強みはある、経験は役に立つし洞察力は高まるなど若い人よりかえって創造力があるともなる、自分のしている抽象画は現代の最先端の技術からartから生まれたのだがでも自然を見る目を養ってきた経験からも生まれているのである。
だからすべて若い人が有利に働くとは限らないのである。

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鹿島駅に止まった「電気・軌道総合試験車」は格好いい (浪江まで開通する準備らしい)


鹿島駅に止まった「電気・軌道総合試験車」は格好いい


(浪江まで開通する準備らしい)

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この車両は、線路に異常がないか走行しながら検査する「電気・軌道総合試験車」とか「検測車」と呼ばれる車両。
この白地に赤いラインの外観の車両は、JR東日本が2タイプ所有する。
1つは、電車(モーターで走行)の「East i-E」。茨城の勝田の車両基地に所属。

この列車を見たことがある方は、かなりラッキーかも。日本中に1本しかなく、神出鬼没な列車だから。
ただし、秋田市内の車両基地(秋田車両センター=一つ森公園と金照寺山の間)に所属しているから、秋田では他地域よりは見やすいかも。

今日止まったのはこの車両だった、客車かと思ったが「電気・軌道総合試験車」というものだった、なぜこれがここに来たのか、線路の点検などで一両くらいのはくるがこんな長いのは来ない、だから珍しいし写真をとった

これは3月に浪江が避難解除になり電車も開通するということでそのための点検に来た電車だった。
この車両は一本しかないというと滅多に見れないものだとなる
インターネットだとすぐわかったから便利である。

鹿島駅に毎日行ってきるけど何かあるのが不思議である。
この前は中国語で話している人がいた、中国人が二人にベトナム人が一人だった、
これも不思議な関係だと思った。
ベトナム人を中国人が案内していた、その中国人は日本語がしゃべれたのである。
それで迎えに来た車にそのベトナム人をのせたのである。
工事関係か除染関係かそういう人がまだこの辺には来ている

仙台に行くという若い女性がいた、その人はなまりが違っていたらどこと聞いたら宮城県の人だった、宮城県は近いけど語尾に「だっちゃ、だっちゃ」というのが違っている
相馬ではだべとしか言わないからだ。新地ではもともと伊達藩だからだっちゃというらしい、新地の女性でだっちゃと言う人がいたからである。
なまりなつかし停車場というのはやはりそうである。
言葉にはなまりがありその人が土地の人とは違うなと判断する、でも今は標準語を話すから分からないことはある、でもなまりはでてくる、それでお里が知れるとなる
それがまた面白いともなる

ともかく鉄道好きなのはこうした車両に魅力を感じる人もいる
自分は鉄道の旅が長いから興味がある
浪江まで開通することもかなり復興にはなる
やはり新地や山下のように駅前を開発して人を集めるというのも見習うべきだろう。
鉄道が街の基点、玄関口になることを見直すことも必要である。
新しい街作りというとき長い通りの商店街は向いていない、なぜなら車の時代だから車と鉄道とが合体したような新地とか山下駅が参考になるのである。

「お帰りなさい」というとき上がり志向から下り志向になる時代でもある
駅は「お帰りなさい」というだけではない「行ってらっしゃい」という見送る場所でもある、だから自分は行ってらっしゃいと見送りしているのである。

右田がメガソーラーパネル場になる 交差点の道路で警備員と話していたら地震になった


右田がメガソーラーパネル場になる


交差点の道路で警備員と話していたら地震になった

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右田がメガソーラーパネル場になる-クリック拡大ーパノロマ写真

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第二の津波を防ぐ堤防

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津波から六年目で切った木の根からまた芽がでて伸びていた



右田の広大な津浪の跡がメガソーラー場の工事をしていた、半分くらいはできた
何に利用するのかと思っていたがソーラーパネル場だった
磯部でもソーラーパネル場になったからここもなった

大成建設が請け負い子会社が仕事しているという、あれだけの広さだと大きな建設会社でいなとできないと思った、ただ大成建設が請け負ったとしても電気関係だから子会社に仕事をやらせている

その警備員はいろいろ話した、亘理の鳥の海から来た人であり津浪の被害にあったという二階の家で二階に避難して助かったという、亘理というとここから近い、高速道路ができたから通うとなればできる、サントリーの関係の仕事をしていたが津浪で流されてなくなりこっちの仕事に来たという

「この道路は津浪を防ぐために高くした、次の津浪を防ぐのはあそこの堤防なんですよ」
「この道路は幅広いから津浪を防ぐにはいいでしょう」

津浪は三段階の堤防で防ぐことになる、それから高台も海岸沿いに作った、津浪にはこれだけ備えたから今度防げると思う

その右田の交差点で警備員と話しているとき地震が来たのである。
道路がぐらぐらと結構長くゆれた、信号もあったが電信柱がゆらゆらゆれた
道路があれだけゆれたということは相当な大きな地震だったのである。
なんかこの前も地震がありまた地震がこの辺で増えてきた。

ともかくあそこは車がひっきりなしに通る、原町の方は通行止めになっている
地震を警報するアナンウスがスピーカーから流された、震度5弱ときいてそれくらあると道路のゆれからは感じた
あんなに道路がゆれるということは怖かったからである。
家だったらもっとゆれていたことは確かである。
何かこの辺は不気味である。まだ余震があり大きな地震が津浪さえくるかもしれない
それも原発の祟りなのかもしれない、神に呪われた場所なのかとさえ思ってしまうのである。

ともかくあれだけのメガソーラーパネル場ができると人の出入りがある、それでまだ工事関係者が入っている、それで福島県全体でも倒産件数が全国で一番低いのである。
ただその工事も一段落したということで補償金がもらえなくなり会社経営も苦しいと訴える人がでてきている、これからはやはり工事が減れば外部から入る人もへりその関係で経済の活気もこの辺では失われてゆく、そういう傾向はすでに現れているのである。

ただメガソーラーパネル場を見たときまだ大きな仕事があったとのかとみる
ただこれはそんなに時間はかからないみたいだ、組み立てるにも時間がかからないから長くつづく工事ではない、だから後は保守点検だけであり人手はそんなにいらないだろう。ただソーラーパネルがどれだけ収益になるのかはわからない、どれだけ発電力があるのかわからない、その材料が産業廃棄物となるからやはり環境破壊だという人もいる
環境破壊にはコスト的にそうだから原発とは変わりないという人もいる

ソーラーパネルというと自然であり環境破壊しないようで後始末するとき環境破壊になるそして長い間使っていると自然の風雨にさらされて傷んでくるからどれだけもうかるのかはコスト的にはどうなのかは疑問を呈する人もいる
ソーラーバネルで植物工場を経営した人も採算がとれないとかでやめたという報告もあるだからなかなかうまくいかいないのかとも思う

この辺はやはり以前として変化なのである。右田がソーラーバネル場になったのもそうである。風景が右田の松原であったのとは余りにも違ってしまった。
景色的にはいいものではない、でも土地を活かす方法がないので磯部と同じくソーラーバネル場になった、土地をもっていた人もそれで金になることもあるからだ
ただコスト的に採算がとれるのかどうかは長い目で見ないとソーラーバネルの場合はわからないとなる



村民らは今月1日、手仲村長が林地開発の不許可を府に求めるべきだとして、723人分の署名(うち村内在住者367人分)を村に提出した。同保育園に子どもを通わせる母親は「なぜ、保育園や小学校の近くで大規模な開発をするのか。理解しがたい」と眉をひそめる。

飯館村の草野でもソーラーパネルがしきつめられていた。それが何か前の素朴な村の感じを喪失さはた、景観的に似合わないのである。
それと有害なこともあり環境破壊にもなっていた
それで実際にそこに住む人が保育園などがあるから反対していた
ソーラパネルも実際に反対する人たちがいた。
ただやはり税収があり村としては今になると収入を得たいとなる
それは結局原発とにている、有害でも金がほしいとなる

右田の場合はあそこには人が住んでいない、磯部でもそうである。だから反対運動は起きないからいい、でも昔の松原の景色からすると環境的にはいいものではない
夏だって涼しいという感じはなくなる、光が反射して暑いとなる
海老の方はソーラーバネルがないのでいい、田舎はまだ広いから自然空間があるからそういう場所はさけるほかない。あそこは将来的にも憩いの場所とはなりにくくなった。

この辺は小高でもそうだが浪江でも空き地になったところがソーラーバネルとかになりやすいのである。土地が活かせないからそうなる
そこにも問題があった、どうしても利益優先になるから反対できないのである。
どっちにしろ人間が作り出すのもは環境破壊になるのである。
風車の発電でもそうである。音がうるさいとかあり現代の技術は環境にはやさしくないのである調和しないようになっているのである。



大成建設、短工期・低コストを実現した杭基礎架台「T-Root」を共同で開発

大成建設は積極的にソーラーバネルの開発をしている
杭基礎架台というのは建築会社の専門となるのだろう。
電気は電気で他の会社と提携している


posted by 天華 at 18:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処