2017年02月17日

奥の細道をだとる(秋の短歌十首)


奥の細道をだとる(秋の短歌十首)

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       山寺に対面石や朝の菊


八溝山奥に分け入り紅葉見ゆ清き流に散りて流れる

日光の華やかさを見て関所跡卯の花かざしみちのくに入る

草の花たどりて細道やみちのくに入る関所跡かな

白河の関所の跡や虫の音をここに聞きつつみちのくに入る

あわれかなしのぶもちずりこの辺り木槿の咲きて村もありなむ

平泉金色堂や秋のくれみちのくに住みまた来るかな

平泉見て帰るかなみちのくに秋の夕映え美しきかな

山寺や流れのひびき菊に石朝日のさしして清しかりけり

山寺や磐にひびける流れかな秋の夕日のさして暮れにき

山寺に清流ひびき秋の星きらめきにけり御堂見上げぬ

湯殿の碑みちのくに多しあわれかな晩菊の碑によりそい咲きぬ

最上川船着場に虫の音やここに待ちにし人のありしも

最上川旅行く人や一時を船着場かな虫の音を聞く




地理感覚がどうして養われるのか?地理がむずかしいのはその大きさを認識することができないことにある。確かに今なら車でどこまでも行けるということはある。
それで地理がわかったかというとわからない、車で行く感覚と電車で行く感覚は違う。
車だとゆっくり景色が見れないので記憶に残らないということがある。
ある地点に行くには便利でもその途中の感覚がぬけてしまう。
地理は一回くらいその地を踏んでもわからない、東北だと何回も行っているしなんとか実感としてわかる、それでも日本は山が多いからわかりにくいのである。

芭蕉の「奥の細道」は東北の空間認識と歴史的認識が合体して古典になった。それがなぜできたのか?それはやはりみちのくを歩いて旅したからである。
時代というのはもどることができない、しかし空間は今も変わらないものがある。
山がなくなったり海がなくなったりしないからである。
奥の細道をたどると自分は自転車で八溝山を分け入りぬけてきて白河に来た。
そして白河の関所のあった所が暗い森の道がありみちのくに入るという感覚が残っている白河市になると何もない都会化している、中通りは都会化しているから奥の細道をたどる旅がしにくい、それでもそれなりにまだその感覚が残っている所はある

しのぶもちずり石は市街から離れている所にあるから芭蕉の句も生きている。飯坂辺りも奥になり山間になるから奥の細道の感じが残っている
ただ飯坂から仙台までは何か奥の細道を感じるものがともしい、感覚的に変化を感じるのは宮城県から山形県に入る所である。
面白山のトンネルをぬけると山寺になりそこが山形県になるからだ。そこは国境のトンネルをぬけると雪国だったとなる、春でも雪が残っているからである。
宮城県と山形県の境界は明確であり山を越えたときトンネルをぬけたとき感覚的に風土も違ったものとなる
福島県と宮城県の境界はそうしたものを感じない、浜通りだったら海岸線を行くのだから全く別な国に来たとは感じないのである。平野だったら地理的に区切るものがないから別な国に来たとは感じないのである。

芭蕉の不思議はみちのくのことを風土的にも歴史的にも感じていたことである。歴史と一体となったみちのくを感じていたのである。
それは平泉でも三代の栄華ということで名文を書いたのでもわかる。
それから「語られぬ 湯殿に濡らす 袂(たもと)かな」とあるとき東北には湯殿の碑が多いしそれが古いのである。湯殿には湯治に東北の民が行っていたからである。
この句はそうした農民の苦労を語っている、いろいろ苦労があるが語りきれないとかなる湯殿の碑を見るとき何か古いからそこに東北の農民の苦労がにじんでいるという感じにもなる、だからこういう句を作ったことが不思議だとなる
普通旅しているとその土地のことを深く知り得ないからである。

山形県というとき最上川であり日本海に夕日が沈むのが印象的になる。最上川には途中に何もない所にも船着場があった、その方が情緒があった。山形県は太平洋側とは感覚的に違っている、宮城県と岩手県の境も明確ではない、むしろ地理的には今回の津波でわかったように福島県と宮城県と岩手県の海岸線は一体の地域だったのである。
岩手県でも区界(くざかい)となると雪が厚く積もり盛岡とは分断しているのだ。
むしろ海での交流があった。宮古から鉄の素材が浪江の請戸まで運ばれていたからであるそれが葛尾村に運ばれて製鉄されていたのである。そして葛尾大臣という人がいて栄えた跡が残っている

芭蕉が旅したときまだ東北がどういう所か知られていない、でもみちのくを一回の旅でこれほど共感しえたことが不思議だとなる
ただいかに芭蕉とはいえみちのくを旅してもそれは線の旅だった。とても全体の空間を認識はできない、それは何度も旅してようやく認識される、東北から茨城県とか関東になるとすでに地理がわからなくなる、空間をアイディンティティ化できなくなるのである。
東北でも空間をアイディンティティ化することはむずかしい。
福島県と宮城県と山形県がなんとかできるとなるがこれでも広いからむずかしい。
いづれにしろ自分はこうして旅した行程を記憶の中でたどっているのである。
電車でもしたがやはり自転車で行ったことが記憶として残っているのである。
ただ今になると自転車は無理になったのである。

旅というときやはり距離感がなくてったことが旅がなくなったことの一番大きな要因である。やっと歩いて坂を峠を越えて来たなとかいう感覚が達成感がなくなったのである。
芭蕉が平泉に到達したとき「五月雨やふりのこしてや光堂」と句を作ったのはやはりはるばるここまできて金色堂が残っていたなという感懐があった。
そのはるばる来たという距離があってこの句ができたのである。
新幹線で二時間ではこの句はできないし味わうこともできないのである。

だから自分は柴田の千本桜を自転車で見に行ったときみんな散っていた。そしてはるばるまた自転車で帰った、その道のりは遠かった。そのことが忘れられないのである。
せっかくこんな遠くまで苦労して来たのに桜は散ってしまった、見ることができなかったそしてまた遠い道のりを帰らねばならなかったとなったからである。
でもそこにも何か深い感懐をいだくものがあったのである。
それはそれだけの距離がそうさせた、今はその距離感覚が喪失したから深い感懐も抱くことができなくなったのである。

タグ:奥の細道

風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線 (駅は人が交わる人間臭い場所だった)


風の影響で毎日のように遅れる仙台までの常磐線

(駅は人が交わる人間臭い場所だった)


今日は春一番が吹いて風で電車がまた遅れた。最近はともかく風が毎日吹いて電車が遅れる、最初は3分とか4分とかだが50分とかになり運休になる場合もある
今日は特に風が強かったからそうなった。

一時間とか待つとなると急いでいる人、仕事している人は困るだろう。
阿武隈信用金庫の人が何か投資の講演会があると人を待っていた。
その時はまだ遅れていない、その後に遅れたのである。

銀行は銀行法において、株式会社であることが規定されています。株式会社である、ということは、株主に利益を還元しなければ存続できなくなりますので、銀行が最も優先すべき事は利益をあげること、ということになります。

一方信用金庫は、ある地域内の地主や有力者、そして地域住民が会員となり出資し、設立した非営利法人です。そのため、利益よりもその設立理念である「会員の相互扶助にり地域社会の発展」に重きをおいています

信用金庫としんきんと銀行の相違は何なのか、双相信用金庫とかあったが合併して五城信用金庫とかなった。阿武隈信用金庫も今回の津浪や原発事故の被害地域が主な地域になっていた。亘理にもあるが狭い範囲である。阿武隈という地域である。浜通り地域である。信用金庫と株式会社である銀行の相違はより地域に密着したのが信用金庫だとなる
銀行は株式会社だから利益をあげて株主に配当しなければならないが信用金庫は株主より地域に密着して産業を会社を育てるという役割になる
銀行は小さい銀行でも福島県全部に支店をもっているしその資本金の額も大きいのであるそれでも阿武隈信用金庫でも投資信託をしている、これは信用金庫ではしていないと思ったがしていたのである。

投資信託を銀行に頼んだか興味深く聞いた、もっとこの辺の経済のこと震災の影響を聞けば何かわかることがあったと思うがあそこでは長い話はできない、待合室だからである。でもそれなりにいろんな人が出入りしていてちょっとでも話すと面白いと思った。
特に今この辺は外部からくる人が多いからである。
その人は地元の人だった。
郷土史研究などというと歴史だけで好事家のようなものだと思うが実際は故郷全体のことに関与することである
だからそういうことをプログで追求してきた。ただそうなると相当な広範囲な知識が必要になり自分だけでは手に負えない、記者だと雑誌でもそういうことを追求している
福島県には二つの雑誌があるからだ。でも東電については追求できなかった。
なぜなら東電はマスコミならどこでも宣伝費を払っていたからである。
そもそも雑誌などでも一カ月一回福島県で出してそれで生計が成り立つのかとなるからだ
地域というときそれは日々生活している場所だから全国的なニュースとか世界的なニュースより関心がある直接的なものとしてじ
かに影響する場である。

それで原発というのはそういうものとしてあったが地元なのに関心が薄かったのである。それより関心が喚起されなかった。それはやはりた報道の問題があった。
報道の意義は宣伝費を多くもらっているから何も言えないでは地元の人にも役にたたないとなる、新潟日報だけが巻町が原発に反対したとき同調したということで評価されている福島県の報道関係では反対した報道はなかったのである。
それも怖いことだなと今になると思った。第一報道すること自体やはり権力を持たないとできない、新聞社とかテレビ局を見ればわかる、報道するにも会社をもち金がかかる
新聞社などはあれだけの紙を刷って配っているのだから金がかかる
とても報道する内容だけでは成り立たない、だから宣伝費に頼ることになるし聖教新聞でも刷って金を得ることになる、そういう所から入る金は大きいからである

でもそうなると報道は会社の悪でも真実は追求できないのである。結果的に地元の人でも今回の原発事故のように大惨事となるまで追求できない
日本は報道の役割は権力側につきすぎる、権力にこびるだけなのである。そういうシステムになっている、たから原発の安全神話が通っていたのである。
そもそも報道とはなにかとなる、そんなことを考えたのはプログを書くようになってからである。前はホームページを書くようになってからである
それまで一個人が報道することはできなかったからである。
まずインターネットは発信することが楽だし金が全くかからないことでみんなしている
そしてリアルタイムであるから報道局を個人でさえもつことができる

そして感じたことは今はyoutubeで個人でも放送しているのである。
そのyoutubeを見て思ったのはテレビに出るときは何人かが対話形式で話しする、そこは一人の個人の発言の場所ではない、何人かがコメンテーターとして発言している
そしてそれはテレビ局の意向にそって発言を許されているという感じになる
そこで一番力をもっているのは司会者なのである。
司会者が意見を言うのは本当はあってはならないことだが司会者が常に意見を言うからもう客観的報道は不可能になる、司会者の言い分を意見を言う場所でありコメンテーターが飾りとして呼ばれているようになっている
だからyoutubeで個人で発言しているのを見てこれは今までとは違うなと見える
有名なテレビに出る人が個人で発言しているのである。
そうなると十分にその個人の言いたいことが言えるし深いことも言えるのである。

鉄道の駅は意外と人が交わりあう場所であり生の情報を得る場所であることにきづいた。もともと鉄道が全盛期のときはそういう場所だったのである。人間臭い場所だったのである。
それで奇妙だけど阿武隈信用金庫の人はまるっきりビジネスマンであり標準語を話す、それは今では当たり前になっているが駅というのは地方にある駅ならなまりがでてくるのが普通だけど今は子供まで標準語の世界になった、その時何か地域的なものが失われているのである。なまりには何かあたたかみを感じる、標準語はまるで英語のように感じるのである。英語は世界の標準語にもなっているからである。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 石川啄木

なまりが聞こえるような所が鉄道の駅だったのである。今は地方でも子供まできれいな標準語を話すのである。ビジネスマンになったらもう標準語しかない。
そこに何かあたたかみがなくなるのである。
そして奇妙だけど新地とか山下駅が新しくなり都会風になったときひなびた田舎の駅という感じではなくなった、それそれとして新鮮なのだが古い駅舎では昔ながらの人間臭いものを感じる、いづれにしろ自分は毎日駅に行って様子を見て案内したりしている
ボランティアの駅員になっている、何か自分には鉄道には旅が長いから思い入れがあるから鉄道にかかわりたいともなる

今日は春一番が吹き春時雨にもなった。日本の気候はつくづく変わりやすい、なんかいつも電車が風で遅れるとそれも結構長くなったり運休したりもする
すると川止めのような感覚になる、川止めだと一日も二日も待たねばならなかったからである。やはり人間は自然の影響からまねがれないということも未だにあるのだとしる
これだけ便利な社会になってもそうなのである。風の影響を受けないようには技術的にはできるがそれもまた工事が大変になる、技術が進歩してもやはり自然の影響をまねがれない、原発事故だって津浪という自然災害をまねがれなかったのである。
人間は科学技術がどれほど発展しても以前として自然の影響を受けるしその災害からもまねがれないものだと思った。


2017年02月18日

幸福の科学騒動 清水富美加の出家-芸能人を利用するカルト宗教団体


幸福の科学騒動

清水富美加の出家-芸能人を利用するカルト宗教団体


今回の騒動はなになのか?最初に注目したのが清水富美加の親が借金していたことである。

今回の騒動を通して、
大川隆法および教団が何を得ようと期待したのか?
どういう筋書き・思惑で騒動を起そうとしたのか?

このサイトは幸福の科学に詳しい

カルト宗教団体は一体何か目的なのか?それは宗教ではない、宗教の悟りとか救いとは無縁である。会員を増やすことをひたらすら追求する、それは何のためなのか?
その数と金とで権力をもつためである。それは創価がまさにそうであり幸福の科学も同じことを追求してきたのである。だから選挙にも会員を出した。
政治化したのである。政治は公権力を得ることでありそれでもって会員を増やすことに通じるのは創価を見ればわかる。

清水富美加は何かそうしたものに利用される、親もまたその原因になっている。
なぜなら親が事業に失敗したとういことで借金していたとなるとそうである。
事業の失敗の借金は大きいからである。そういう人を知っているから怖いと思った。
自分が病気のときに家族が苦しんでいるときに借金を要求してきた、脅迫してきたのである。

借金する→モラルの崩壊→犯罪

必ずこれが起きてくる、これは推理ドラマの定番なのである。まず犯罪の動機をみる、恨みなどがあるが借金しているかどうかが一番重要なのである。
借金している人はもうモラルが崩壊しているから犯罪に一番結びつきやすいのである。
要するに借金している人は犯罪予備軍であり犯罪者に近いとなるのだ。

江戸時代なら美人だったら借金のカタに遊女に売られた、不細工だと紙漉きとかの重労働をさせられた。それもまた過酷な現実だったのである。
借金をしたらパチンコ屋に働いているとかそのことも同じである。
もう働く場所を選んでいられない、ただ金になればいいとかないからモラルは崩壊しているのである。そういう人が自分が苦しいとき来たから恐怖だった。
自分は殺されるのではないかとも思ったからである。

清水富美加は親が借金していることからおかしくなり迷路に入ってゆきカルトに入り闇の世界にひきこまれたともなる。カルトとは大きな闇の世界である。そのカルトを作り出しているのは人間の闇が深いからである。
事業に失敗して借金したというときそこに深い闇が生れる、借金を返すために闇のカルトにひきこまれる、何か不幸があると障害者などにはカルト教団が創価でも何でもかかわってくる、それらは餌食になりやすいのである。
自分がそういうことを経験したから怖いと思った。
「あなたの不幸は信仰しないと解消しませんよ、会員になれば解決します」とか言われると藁をもつかむような精神状態になっているからひきこまれるのである。
またカルトはそういう人が一番会員になりやすいことを知っていて近づいてくる
その窮状を救うなどという心はない、会員にして勢力拡大をもくやむだけである

宗教というとき比叡山がそこは一つの国家だったのである。近江の琵琶湖の交通で税金をとっていたし職人であれ何であれその配下にあり従わせていたのである。
そこは治外法権であり一つの国家だったのである。だからそこで裁判も成されていた、今のような国家が中世にはなかったのである。
たから信長が比叡山を焼き討ちにしたのはそこが治外法権の国家であり山僧がいて武装もしていたから権力を得るためには戦わざるをえなかったのである。
第一城を建てるにしても職人が必要だがそれを掌握していたのは寺だったからである。
寺は個人が改心して求道して出家するような場所でもなかった。
そこは一つの大きな国家だったとするときそこで経済活動でも金貸しでも何でも世俗的なことをしていた場所だったとなる
そしてそれが不思議に不可侵の神聖な犯さざる場となっていたから税金をかけられないのは今のカルト教団と同じである。神や仏の所有地となっていたのだからそれに税金はかけられないのは今も同じなのである。だからそれを悪用することにもなる
そういう歴史の継続があることが「寺社勢力の中世」伊藤正敏で読んで面白かった。これは相当に考察する価値がある。

いづれにしろカルトとは何か、今の宗教は団体化した宗教はカルトである。本来の宗教とは何の関係もない、そこに悟りとか救いを求めるのは暴力団に入って悟りを求めるのと同じである。
なぜ暴力団員になるのか?それは犯罪者がいてアウトローになるからそういう場所に入る
そういう機能が寺にもあったという、そこは治外法権であり寺には武装した僧兵がいたからである。
戦国時代に侍が城をもったりする前に寺が城郭の役割を果たしていたのである。
僧侶が武士になったという説も興味深いのである。僧侶は軟弱な人たちではない、僧兵のように騎士団のような強者がいたのである。
侍の前進が僧侶、僧兵だったという説も確かにあると思う。
要するに中世でも国家などは存在しない、比叡山のような所が身の安全とか最低の生きる術を与える食料でも与えられる場所だった。

そういう寺がありやはり現代のカルト宗教に通じるものがある。底辺層なら生活保護を与えるとか何かしら権力をもっていて斡旋してやる、それは宗教とは違う、でも現実には現世利益となるから会員として勢力拡大になるのである。
そういう底辺層は何か高度の悟りとか救いなど求めていない、日々の生活に困窮するからそういう場に入り生きようとするのである。
それは共産主義政党でも同じである。そういう底辺層は常に豊かな現代でもいる、その人たちは損な立場にあるからそうなる
ただ宗教が怖いのはそういうふうに困窮しても安易に入るとどうなるのか?
結局地獄に落ちるとか罰当たるとかそういうものも引き受けるのである
結果的にはかえって地獄だと罰しか与えられないのである。その恐怖におびえるだけだとなる、それはエホバなどでも何でもそうである。宗派に関係ない、現代の宗教はみんな
カルトだと思う、宗教とは地獄を与えられることでもないし罰を与えることでもない
神の祝福を与えられることである。それはカルトでは地獄とか罰を引き受けるだけだとなるからたたらぬ神にさわりなしとなるのである。

ただ人間は何かしらの不幸をまねがれない,でもその不幸がすべて悪いものなのか?
そういう不幸も人間には必要なのである。例えば事業に失敗したからといってすべてが悪いとういものでもない、かえって失敗した方がいいかもしれない
なぜなら俺は頭がいいとかいう人が成功したと世間に自慢していてそれも未だにそうしている、それも借金していそうしている、むしろ別に事業に失敗したからといって人間失格になるわけでもない、俺は借金までして成功しているとしてこと自体が異常なのである。何かそういう奢りが神によって砕かれるべきなのである。
原発事故だってそうだろう、頭のいい人たちが自然の驚異の前にその傲慢さが砕かれたのである。自分たちは頭がいい、それは神のようにすらなっていたから神によって砕かれたのである。

いづれにしろカルトは人間の闇が作り出すからこれからも消えない、人間の闇とは上から作り出すわけでもない、人間そのものが闇をいだいているから闇の団体が作り出されるのである。人間個々人の闇があるからそれが集団化して大きな闇となる
ヒットラーが芸術家になりたっかのになれずに劣等感をいだき政治家になった。
オウムの麻原も目が見えないので劣等感をもったし池田大作も大学も出ないので劣等感をもち世界から勲章を集め大学の学位を政治力と権力でとる
またそれに従っている大衆も闇があるからそういう闇なるサタンに従うのである。
結局こうしてこの世がサタンに支配されるのである。

清水富美加はそうして闇の迷路に入ってしまった犠牲者だともなる、現代は複雑だから闇の迷路に入り安いのである。芸能人などもほとんどカルトのプロパガンダとして利用されるし利用されている、芸能人は芸能をやればいいのであって政治とかにかかわるべきではないと思う、民主主義だったら誰でも政治にかかわるとしても芸能人はプロパガンダに利用されるから危険なのである。大衆洗脳のために芸能人がいるのである。

宗教を見る場合は自分は歴史的に比叡山のようにそこが一つの国家となっていたように信仰とは関係ない俗社会の場だとしても何か奈良時代だと鎮護仏教文化があり平安時代でも貴族の仏教でも文化をつくり鎌倉時代など中世でも武士の仏教文化を作っている
江戸時代からは寺は幕府の役所になっただけである、戸籍係のようになっただけである。だから負の部分があっても中世までは仏教はそれなりに活きていた面があったとみる。
禅寺では貧乏人に薪がないからは寺の一部を壊して貧民に与えたとかある、何かそういうのが宗教者だったのかもしれない、
自らそうした私腹を肥やすようなことをしていたらいくらそこが国家でも成り立たないということはあるからだ

仏教というとき文化的な面から見るとわかりやすい、江戸時代以降はふうた仏教文化は生れていないからである。
中世が僧侶の国家であり文化であったが江戸時代はその僧侶が武士となった武士の文化となったからである。
まずカルト宗教団体から文化は生れない、個人的にも芸術家も生れない、それを見てもわかるのである。そこは利権しかない、利益追求しかない場なのである。
あとは地獄に落ちるとか罰あたるとかしか受けられない場所なのである。
現実にあれだけ数が大けれは不幸な人が山ほどいる、なぜそんなに不幸なのかと現象をもっとも重んじるのが宗教だから不思議だとなる

とはいえ不幸は誰にでもある、不幸はまねがれないのである。そもそも病気にならない人がいないからである。自分も家族や自分の病気でさんざんな目にあったことを書いてきたそれは別にカルト教団でも同じである。かえって自分より過酷な不幸におちいっている人は山ほどいるのである。創価に入って子供が若くして死んだとか交通事故にあったとか親も死んで今は家に誰も住んでいないとか無数に不幸がある。
それは他でも普通にあることである。それは自分にもあった。親が認知症になったとかなるが認知症になるのはもうこれから膨大にふえてくる、ではカルト教団に入っていたらまねがれるのかとなったらむしろ不幸はカルト教団の方が多いのである。
統計とればまちがいないてのである。なぜならそういう人たちもともと入っているからそうなるのである。貧すれば鈍するとなっているからである。

要するカルト教団に入る清水富美加のように闇の迷路に入ってゆく、そしてぬけだせなくなる、それも親が悪いともなる、なぜなら親の因果が子に報いである。
親がカルト教団に入っていればそのカルマを受け継ぐことになるからだ。
この辺では原発事故で住めなくなったように親が先祖のためにそうさせられたのである。ただすでに自分などにも責任はあったとふりかえればなる
この世の中はカルマから逃れられない、カルト教団に入ったことは親でも子にその因果が報いとなる、カルマを作り出したのが親である、先祖であるともなる









posted by 天華 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2017年02月19日

ボランティアの条件 (ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件


(ボランティアと仕事の相違)


ボランティアの条件として

●金をとらない
●金を出さない
●楽しい
●強要されない
●感謝も自由

他人の判断や責任のもとで行為するのではなくて、上のような意図のもとに、自分で状況を認識し、何をなすべきかを自分で判断し、あくまでも自分の責任において、いわば何の後盾もなく、行為を開始するのである。

<無償性>  無償性とは、経済的な報酬(金銭、物品、サービスなど)を目的としないということである。ボランティア活動をするときに、精神的な満足や交流の楽しみなどを報酬として目的にすることは、ここにいう無償性をそこなうものではない。

無償の立場から、公益性を探ろうとする点で、際だっている。もちろん、無償の立場だからこそ真の公益性を主張できるのだ

(一)チャリティーのボランティア(他人のための道徳的行為)
(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)
(三)社会参加のボランティア  (社会のための公的な行為)

ボランティアと仕事は違う、仕事は嫌でもしなければならないしそうしないと社会が成り立たない、ここのボランティアの考察は興味深い

自分が無人駅の案内としての偶然のボランティアはこのことだった。
金をとらないし金を出さないしやっていることが楽しい、公益性もある。強要されてもいない、感謝もされるがそれも自由である。

(二)自己実現のボランティア  (自分のための文化的行為)

この文化的行為というのがむずかしい面がある。自分の場合は鉄道が好きであり鉄道会社に世話になっているということで文化的行為になっている
それから介護施設で老人の昔の話を聞いたときもそれは文化的なことであり郷土史にも結びついていたから文化的行為だったのである。
それは苦痛ではない、楽しいものだったのである。

原発事故や津浪ではボランティアが大勢きた、しかしその人たちがこのような無償の行為だったかというとみんながそうではない、例えば宗教団体が結構きていたがそういう人たちは自分たちの団体を宣伝するという目的があった。
それかち芸能人でもそういう人たちもやはり純粋にボランティアするというよりは名前を売るとかの目的があった。
この辺では福島県の詩人が有名になったけどそれは原発を種にして有名になった売名詩人である。名前を売り出すことができたからである。
そういう目的があってボランティアをしているのである。
だから純粋にボランティアしているというのは意外と少ないしボランティアは本当は相当にむずかしいものだと思う

だいたい人間は何か自分に利益がなければなにもしない、日頃近くで困っている人がいてもボランティアしているかというとしていない、ほとんど無関心なのである。
今でもボランティアにきて焚き出しなどをしているというが国から交通費が出ていると日当がでているとも言われる、第一遠くから来るとしたら交通費を自腹でするとなると簡単にはできないはずである。日当は出るとなる
この辺で仮設に議員が来て援助するというと票を得るためであり無償ではしないからそれも政治活動であり自分のためだともなる

このサイトのボランティアの考察で面白いと思ったのは(自分のための文化的行為)である。これが何か自分のしていることなのである。
文化的なことは本当はボランティアに向いているものがある。肉体労働とかなると苦しいからボランティアしにくい、文化的行為というとき鉄道が好きだとか鉄道マニアがいて鉄道にかかわりたいとかなるとそれは文化的行為なのである。
そもそも文学とか芸術とかは文化的行為である。これでもうけようとするのがなじまないのである。それから情報関係でもそういうことがある。
何かを伝えたいというとき別に金がほしいからではなく常に人間が社会生活ではあるからだ。電車が風の影響で毎日遅れているということを伝えることは別に金がほしいからではない、それがみんなに伝える必要があるものだからである。
人間の社会生活にはこうして実は金にならないものでも必要なものがある。
金にならないということで価値が認められない社会は余裕のない社会なのである。

本でも売れないから出版社で出さないとかあり著者は売れるようなものを書けとなるのが普通である。売る売れないで出版するかどうか決まる、それはマスコミでもそうである。視聴率をかせげるものを放送するが本当はボランティアだったら言いたいことをその人の関心をもっていることを赤裸々に言うことがかえって社会を知ることになる

だから余裕のある社会はボランティア精神を発揮できる社会だともなる、貧乏だったらできないからである。ボランティアできる人間はどうしても金銭的に余裕ある人である
時間的にもそうである。
ただボランティアの問題は責任がないということである。ボランティアの駅員でもいつもいるわけでもない、気まぐれだともなる、だからボランティアと仕事は相当に違っているのである。
嫌でも苦労でもしなければならないのが仕事なのである。
仕事は義務でありそれをしなければ社会生活が成り立たない、ボランティアは義務とか責任に欠けている、ただ自分がボランティアの駅員していて気持ちいいなと思ったのである結構ありがとうという人がいることなのである。こんなことで感謝されるのかとなる
別に感謝されなくてもいいがありがとうということは何か役に立っていることなのであるこのボランティアには全く自分は苦痛を感じていない、楽しいのである。
別にこれは他人でも社会でも認められるものでもないしそうされなくてもいいものであるちょっとした親切にすぎないからである。
ただ不思議なのはこういうことが善であるということも感じた

「人に注目されようとして自分の義を人の前で行なうことがないようによく注意しなさい。そうでないと,天におられるあなた方の父のもとであなた方に報いはありません。ゆえに,憐れみの施しをする際,あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば,ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。(マタイ福音書 6章4節)

つまりこういうものに通じるものがある。結局津浪原発事故では様々なことが問題になった。ボランティアもそうである。
この言葉のようにしている人はいない、普通の社会生活でもいない、何か自分に利益があってしているのである。みんな何かしらの報いを得るためにしているのである。
ボランティアでもそうである。人間は無償で何かをすることはしない
ただ文化的行為というのは芸術となるといい俳句が短歌が絵でも作れたなとなるときそれ自体が報いとなっている、仕事にもいい作品を作ればそれが報いとなることがある。
だから収入の多寡に関係なくいいものを作るために精進することはある。
それはボランティア精神なのである。つまり仕事でもボランティア精神がなければ成り立たない、だからボランティアが文化的行為になっているとと自ずとボランティアになっているのである。ただ文化というとき広範囲だから理解しにくいが文化には無償性が大きい出版とか報道とかは無償ではない、常に売れなければならない、視聴率をかせぎ宣伝して企業から金をもらむなければならないとか利益追求があるからかえって真実も伝えられないのである。
だからインターネットともともとボランティア精神から成り立っていた。営利事業はしていなかったのである
ウィキペディアなどがそうである

宗教でも本来は無償性かあって成り立つ、だから金をとるカルト宗教団体はうさん臭いのである。布施というとき自発的なものとして受け取る、強制はできないものとしてあったでもカルト宗教教団では布施でも自由に見えても強制されているのである。
そしてなぜ兆にもなるような巨額な金を集めるのか?
それはそれでもって権力を得て銀行でも従わせるとか政治活動して権力を左右するためにしている、宗教も本当はボランティア精神でしていればこうはならない
金もとならない、強制はしないとかなれば問題ないのである。
つまり人間には社会にはボランティア精神がなくては一方で成り立たない、仕事は義務であってもボランティア精神がなければその仕事もゆがんだものとなる
みんなしたくない仕事をしているから奴隷なんだよな、社蓄なんだよなとなっているのである。それが社会を不健全にしているのである。

posted by 天華 at 10:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年02月20日

機械化 、AI化、ロボット化は人間にとっていいものである (真の労働をボランティアで追求する時代に)


機械化 、AI化、ロボット化は人間にとっていいものである


(真の労働をボランティアで追求する時代に)

人間の社会は労働なくしてありえないし日々労働である。だから労働もしなかった自分が労働を考えるのもかえって労働しないから考える
自分の労働の経験は流れ作業とか底辺の肉体労働しか若いときしていない、だから労働を嫌悪してしなくなったのである。それができたのは家族に恵まれてできたのである。
自分は学校にも適応できないし会社勤めもできない性格だったからである。

人間がホモファーベルとうとき道具を使う人間というときやはり人間の労働が苦しいから道具を使って生産性をあげる、楽をするとかあり発達した。それは石器の時代からはじまっていたのである。そして石器から鉄になったとき飛躍的に生産性があがった。
稲荷信仰は実は鋳成神である

大鍛冶(タタラ)の仕事が行なわれた地域には鋳成神(稲荷神)が、小鍛冶(道具鍛冶)の仕事が行なわれた場所には荒神(庚申)が奉られた可能性が高い。稲荷の敷地からヒ(けら)や銑(ずく)のクズが、庚申塚の下から火床(ほと)跡が発見されることも多い。のちに、産鉄地が放棄されて神を奉った聖域だけが残り

稲作は鉄器を使った時飛躍的に生産が増大したのである。そして王という字は斧というのが元になっている、まさに斧をもったものが王となったことでも道具をもつものが支配者になるということである。

そういうことは人間の歴史でつづいてきた、機械化は進んできた。
だからなぜ大井川とかで橋を作らなかったのか、船で渡らなかったのか?とか疑問があるがそれは人足が職を失うからだったというのもそうである。
川を渡す人足は相当数いたからその人たちが職を失うから船で渡さなかったという、
便利なものができればそれで職を失う人は必ずでてきて機械化に反対する人たちがいる
鉄道が車時代になったとき国鉄が衰退して社会党も消滅した
国鉄の組合が社会党を支えていたからである。でもその時は高度成長時代であり民営化しても退職金を多くもらうことができた、民営化に反対するというときこれも道具の移り変わり進歩でそうなったのである。つまり政治まで影響するのが技術の進歩なのである。
原発だってやはりその技術の進歩の結果としてまた事故にもなり政治に影響したのである
機械化するというとき家事に機械化も大きい変化だった、洗濯でも盥(たらい)や洗濯板でごしごしやっていたらその苦労は並大抵のものではない、家事も電化しないときは重労働だったのである、それで戦前でも中流家庭でも二人の女中を雇っていたという
それだけ家事に時間がとられていたのである。女中がそれだけ必要だったのである。
今は家事は自分も全部しているけど楽である。
何か自分は一人で三人分くらいの仕事をしている感じになる。
一人は毎日来ているとしても二三分しか働かない、皿二三枚洗うだけである。
それでも高い金をはらっているのは自分にとって必要だらしょうがないとしてそうなっている
つまり実際はその女性は別にここで働いてもらう必要がないのである。
それは機械化の結果である、でもそうなったらその女性は職を失うのである。
金がもらえなくなるのである。
現代は機械化とかコンピューター化すればますます職を失う人が増えてくる
アメリカで雇用を増やしてくれというときそうしたコンピューター化や機械化した結果としてもそうなっている、なぜなら企業はどこまでも効率化してゆくことが要求されるから金のかかるめんどうな人間を雇いたくないからである。

では機械化コンピューター化が人間にとって悪いことなのとかとなるとそうではない、そもそも機械化できるコンピューター化できる労働は単純労働であり機械化した方がいい労働なのである。流れ作業などがそうである。そういうことを人間はしたくない、だから機械化した方がいいとなる
それはロボットと同じであり実際に今はロボットが代わりにしている。
人間のやるべきことはそうした機械的なことではない何か創造的なことであり人間にしかできないことをやるようになる。
いくら機械化してもそういう仕事は人間に残る、女性の仕事もなくならない、女性は何か慰め役とかして男性にはできないことが適応があるからである。
つまり機械化 、AI化、ロボット化によって人間は本来人間にしかできないものをするようになる。

それはボランティア的なものを追求することになる、ボランティアは自発的にするものでありしたくないからするものではない、俺たちは奴隷なんだよなと社蓄なんだよなとかの労働ではない、労働はそもそもそういうものであってはならない、なぜならその時社会全体が不健康になるからである。
ところがもしみんなが自発的なボランティアのようになっていればみんな楽しく自発的にしているのだから社会が健康なものになるからである。
ある技術者は残業をしていたが守衛とかにやてくださいと言われたがもっと仕事をしたいから自発的にしているというときその人はその技術職だから技術を追求しているからそうなっている、流れ作業のよう梨ごとをしていれば一刻でも早くやめたいからである。
つまりこの世にはそうして機械化した方がいい仕事が多いのである。
だからコンビニでもアマゾンで自動化している店がすでにあるというときそういう仕事すら機械化自動化することは悪いことではない、その店員は別な仕事をより人間的な仕事を求めることになるからだ。

だからベーシックインカムというのも豊かになれば必要だとなる、人間社会では嫌な仕事をしたくなくても強制されるからである。自由社会とは何でも強制されない社会である。ボランティア精神でするのが自発性でもって仕事するのが自由社会である。
それは道徳的な面でもそうである。宗教をカルトのように強制的におしつけるのではない、自発的に求めるならいいのである。
人間はそもそも他者から強制されたり他者の言いなりになることは自分を失うことなのである。それを金のためにそうしている人があまりにも多いからこの世が不健康になっているのである。金によって自分のしたいこと自発性が損なわれるのである。
芸術家にしたってそんな絵を描いても文章かいても売れなければなんにもならないとか出版社でも画商でもなる、もし別に金があればそんなことをしなくてもいいのである。
要するに金のために働いているものは奴隷なのである。
だからこの世の中は奴隷社会になっている。そのことが社会を不健全にしているのであるカルト宗教でも人間の自発性を発揮させない、教育でも学校だと自発的に勉強するということがなくただ暗記だから興味を失うのである。
もし自発的なものとして勉強していれば勉強は楽しいものとなる

だから運送でも車の自動運転でもそうしたものが機械化できればそれは悪いことにはならない、確かにその反動はあり事故もあったりするがそういうただ物を運ぶということでもそこに創造性とか人間的なものがないものは機械化自動化した方がいいとなる
そして機械化自動化コンピューター化できないものが人間的な仕事だとなる
それで意外とそうして機械化自動化がすすむとき介護などの仕事は人間に直接ふれる仕事だから残るというときそういう仕事の給料が上がるかもしれないしそういう仕事に適応できるのは高給取りになるかもしれないのである
仕事の価値は時代によって変わってくるからである。
だから豊かな時代になれば
「あなたのしたいことをしてください、金のために働く必要はありません、会社のために働く必要はありません、
奴隷的仕事はしなくてもいいです、あなたのしたいことをしてください」
となるかもしれない、でもその時退職した人のようにとまどう人もでてくる。
そういう人はやはり奴隷にしてくださいともなることもある、自由といっても自由を本当に価値あるものに活用することもむずかしいからである。

人間が追求しているのは自発性、ボランティア精神なのである。それが民主主義であり自由社会の基本なのである。もちろんそれは理想なのだけどモラルだって自発性がなければいくら強制してもモラルは向上しない、カルト宗教団体などは全くこの自発性が皆無なのである。まさに精神的奴隷にされているのである。
ただ地獄に落ちるとか罰あたるとか怯えているだけの団体でありそれもこの社会を不健全にしているのである。
この世の中をゆがめているもの自発的にボランティアとして生きられないことなのであるいづれにしろ俺はこれが好きでやっているから苦しくなんかない、楽しいんだ、残業など強制されない、仕事をしていたいんだよとなっていれば健全である。
農業だってこれも別に趣味でしている人は楽しいのである。農業は実際はそうして売るためにとか金のためにではなくしていれば自然と密接に結びつくから楽しいものであり生きがいとなる、大工の仕事でも職人でも何でも自発的にしたいということはある
そこには機械的な作業もあるが何か自発的にしたいというものがありそれが創造性につながるのである。

posted by 天華 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2017年02月21日

自然から離れた現代人は記憶が消失する (万葉集の石の橋からなど考察)


自然から離れた現代人は記憶が消失する
  

(万葉集の石の橋からなど考察)

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梯立(はしたての) 倉橋川の 石の橋はも  男盛りに 我が渡してし 石の橋はも

旋頭歌(せどうか)は、奈良時代における和歌の一形式。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに作品が見られる。
五七七を2回繰り返した6句からなり、上三句と下三句とで詠み手の立場がことなる歌が多い。頭句(第一句)を再び旋(めぐ)らすことから、旋頭歌と呼ばれる。五七七の片歌を2人で唱和または問答したことから発生したと考えられている[1]。

石の橋とは飛び石のことであった、石の橋というとき奈良時代には作られていない、それはずっとあとのことである。倉橋川でも飛鳥川でも細い川だから飛び石を渡り横切ることができた。この飛び石の一つ一つを渡り歩くことが記憶に残っているのである。
男盛りにというとき若いときである。人間は青春時代が記憶に残りやすい。
ただ石の橋が記憶に残っていたというのは恋愛だとしても自然の中での生活があり記憶に残ったのである。

この歌は調べもよいし石の橋ということで記憶に残る、石というときヨーロッパだとローマ時代の石の建造物が残っている、ギリシャ時代でも石の神殿があり古いものが石柱の一部とかが残っている、石は残るから過去の歴史が記憶として印され残る
それでヨーロッパには歴史の継続が理屈ではなく物からイメージされる社会である。
石に記した文字でもそれは2000年とか残っている、石の恒久性があり残る、木簡とかなると残りにくい、紙でもそうである。記憶はして記録としても残すとなると石である。
エジプトの記録もヒエログリフで石の神殿に記されて残されたからである。

この歌の石の橋はそうした人工的なものではないからまた別である。でも余りに大きな石となると現代のように大きな鉄橋とかなると人間的なものから離れてしまう。
たいがい現代はあらゆるものがヒュ-マンサイズではない、人間はわたるとしても車でも鉄道でもわたるから橋が記憶となりにくい、それは現代生活は何か記憶になりにくいのである、この歌だったらさらさらと流れる水の音も記憶となって蘇る、一つ一つの石をわたるということで記憶されている、自然と密着して生活していれば記憶されるのである。
そうして故郷とは自然と密着した生活の中で自ずと記憶された場所なのである。

現代はあらゆるものが心の奥深くに記憶されない、膨大に記録はされても記憶されない、記憶と記録は違う、人間すら現代は記憶にならない、だから人と人との深い交わりもない人間は砂粒のようになり群衆となり大衆となり消えてゆくだけである。
どこでも人間の存在は希薄になっている、人間は経済的単位にすぎない、一票として数えられるだけだとかすべてそうなっている、カルト宗教団体などは宗教なのに数として数えられるだけである。人間は自然と大地とかとも切り離されるようになったからその存在感も希薄になったのである。東京のような所でどうして人間の存在感をもてるのか?
ただ蟻のように高層ビルの下で日々うごめいている大衆は一人一人の人間なのかと普通に見る、一人一人の顔があるのかとなるともうキリコの絵のようにないのである。
だから常に言っているけど田舎の方が人間の存在感はある、田舎の農家などでも都会の豪邸があったとしても存在感が自然の中である。それは例え貧乏であったとしてもそうである。万葉集ではそうした人間の自然の中で密着した生活から自ずと生れていたのである。だからその感覚が今ではなかなか理解しにくくなった。
風流として自然を見ているのではなく日々の生活の中で自然と密着して生活していたところから生れたものだからである。

高村光太郎の牛の詩を例にすると


牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは まっすぐに行く
牛はただでは飛ばない 
ただでは躍らない 
がちりがちりと
牛は砂を掘り土を掘り石をはねとばし 
やっぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐことをしない 
牛は力いっぱい地面を頼って行く 
自分を載せている自然の力を信じきって行く 
ひと足ひと足牛は自分の力を味わって行く
ふみ出す足は必然だ
うわの空のことではない 
是が非でも出さないではたまらない足を出す牛だ 
出したが最後 牛は後へはかえらない 
そして やっぱり牛はのろのろと歩く

のろのろと歩くということで大地と自然と一体化してゆく、車のように大地をとばしてゆくとなると記憶は消える、どこを通ったかも記憶されないのである。
橋があったとしてもそれはもう橋でもない、道路の延長でしかない。川があることさえ記憶されないだろう。

つまり一歩一歩あると、step by stepでありそこに記憶されるのである。

夕日逐ふ乗合馬車の寒さかな 漱石

乗合馬車だとまだ自然のリズムと調和している、車だったらもう夕日も追いかけられないそれだけ早すぎるのである、だから車を詩にしたり俳句にしたりすることができないのである。
車でもこれも自然と融和するものではない、電車は撮り鉄がいるから自然と融和することがあり自分も写真をとっているから電車はまだ自然的な人間的なところがあり好きになったのである。

牛は辺りの自然と一体化する、大地にふさわしいイデアとして神が創造したともなる
その牛のイデアを見事に詩にしたものがこの牛の詩だった  
神がイデアとして創造したというとき何でも孤立しては創造していない、大地と回りのものと一体のものとして創造している、海には魚であり陸には獣であり空には鳥を作ったのである大地には牛を創造したともなる。
詩とか絵でも芸術は神の創造したイデアを見いだすことである。
そして記憶が最後に人生だともなるとき記憶されないことは生の充実にはつながらない、だから大都会の生活をふりかえると何も残らない、人間すら膨大にいても大衆であり群衆でありそこには個はない、だから砂粒のように消えてゆくだけである

常に古代からエジプトの神像からはじまりギリシャの彫刻でもイースター島のモアイ像とかでも仏像でもやはり人間の像を作られてきたのは人間の存在感を示そうとしたためである。それは偶像崇拝の危険があったけど現代は数であり人間の像など個々の顔でもみんなロボットの顔になっている、機械人間にされているのである。
例えばコンビニとかでも会社でも公務員でも銀行員でも何でもそこに個性としての顔ある人間がいるのか?みんな同じような顔としてしか見ていないだろう
そこにいるのはその人でしかありえないかとかはない、誰がいても同じなのである。

古代とか原始時代になると人間は地域地域で違った顔をしていたというときそれは濃密な自然と密着した生活の中で自ずとそれぞれの顔が作られてきた。
像で考えろといっても現代はその像がないのである。
人間は何か記憶されないというとき生が充実していない、消失されている、消費というとき消すであり費やすということでもそうである。消費生活なのが現代人なのである。
だかちいくら消費しても生の充実感が得られないのである。
時代をさかのぼればのぼるほど像に満ちているのはなぜなのか?
人間としての存在感があるからこそ像が作られた、現代の人間の像はロボット化しているのである。要するに顔はみんな同じである、数字にすぎないとなる
それに耐えられない天才などはアウトサイダー化するのが現代である。
人間でありたいというとき数字にはなりたくないという反発である。数として数えられるだけの人間ではありたくないのである。

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 現代人の顔?

三本の老木が語ること(詩) (原発事故で故郷を喪失した老人を想い・・・)

  

三本の老木が語ること(詩)


(原発事故で故郷を喪失した老人を想い・・・)



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三本の老木

三本の老木はそれぞれ何かを語る

北風の吹く長き冬の日を

村に根付いて生きにし老木は語る

ここに生きたる昔を・・・・・


Three aged trees talk about something each

The long winter day when the north wind blows

I root in the village and make vigor and talk about the aged tree

It is ... here in old days as the vigor


今回の津波でも原発事故でも故郷が問題になった。故郷は何かなど普通は問わない、故郷を失って故郷を問うことになった。
故郷とは何かというとそれは老人にとってはそこで生きたということでありそこに人生が刻まれた土地だということがある。
故郷というとき農業をしていたときは八割も農民だったときは余計にそうだったのである土地に根ざして生きていたから当然だったとなる

今は農民ではない農民は一割にも満たない漁師でもそうであり山での生業でもそうであるほとんど会社員でありそれを象徴していたのが飯館村で今村を支えているのか菊地製作所だということでもわかる。農家が支えているわけではないのである
昔だったら燃料も炭だから炭焼きがどこでも行われていて山村もそれで生活していたのである。森林資源がありそれがエネルギー源となっていた。
そういう生活をしていれば余計にその土地と一体化していた。
それは万葉集に歌われたような自然との密着した生活であり歌が生まれた
だから故郷にそこに長く生きるものは愛着が自ずと生まれていたのである。

老人は故郷でも長くいた場所を離れにくいというときその土地に根付いた老木のようになっているからである。
そして老人はみんな昔を語る語り部になる、その語ることが老人の仕事にもなっていたのである。そして老人の語ることは次の代の人でも同じ土地で同じように農業をしていれば聞くに値(あたい)するものとしてあった。
つまり聞く価値があるものだったのである。つまり老人は昔を語ることでその土地に生きてゆくことの意味を語り知恵を教えていたのである。
だから老人は何も意味もないものとはならなかった。

それもみんなが会社員になったとき会社をやめれば昔を語るにしても会社のことでありその土地のことではない、それは農民ではないからである。
何か現代はそうして世代の断絶が生まれたのである。老人は役にたたない不用なものとされる、それは生活そのものが変わってしまったからである。
農業だけはやるな継ぐなと子供を殴ったということがあり極端にしてもそういう時代になったとき原発は歓迎されたのである。出稼ぎをしなくてもいいとかなったからである。 
それが裏目に出たというのがこの辺である。

人間が故郷に回帰するというとき鮭とかが生まれ川に帰ってくるのとにているきかもしれない。故郷にはそういう強い本能的アイディンティティをもつのかもしれない。
ただ故郷は生まれた場所ではなく長く住んだ場所なのである。
そこで生きたということを記憶されて語る場所である。
老人は最後に記憶に生きるのである。語り部になるのである。
自分も家族も全部死んだとき家族のことも語るようになる、死んだ人のことを語ることがまた勤めのようにもなるのである。
なぜなら死んだ人のことを語るとき死んだ人もここに生きるという感じになるからであるそれが故郷を失ったとき喪失する、そのことが精神的損害であり金では埋められないものがあった。賠償金は別な問題としてあるのだが老人が帰りたいとういときそこが生きた場所、記憶された場所だったからである。

梯立(はしたての) 倉橋川の 石の橋はも  男盛りに 我が渡してし 石の橋はも 

こういう場所だったのである。男盛りというとき青年時代であり壮年でありその時生きた記憶が生き生きとあり蘇る場所だとなる
ただ現代は広域的に生きているから会社人間だからその土地に密着して生活していないからまた違っている、だから故郷にそれほど愛着しないとういことはある。
なぜ川内村が七割りも帰還したのか?それはもともと老人の比率が四割とか高かったからである。老人は帰りたいとどうしてもなる、チェ ルノブエリでも老人は村に帰り細々として野菜を作り暮らしていた、そして医者もいないけど苦しみ死んでゆくようになる。
でも故郷の村に帰って死ぬというまでになる
それだけ愛着があったということにもなる、故郷が死に場所になっていたともなる
人間は最後はどこで死ぬのか死にたいのかというのも問題になる
老人はだからそんなことを思うとき復興には向いていない
死ぬことを考えていては復興できないからである。
でもそうなるのが老人では自然なことなのである。それが許されないということも原発事故がもたらした非情なことだったのである。




posted by 天華 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年02月22日

抽象画は色の世界を追求している (The abstract picture pursues the world of the color)

  
抽象画は色の世界を追求している

The abstract picture pursues the world of the color

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one dence leaf

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streams in human brain


抽象画は本当に不思議である。自分自身で作っていても不思議なのである。
これは何のなのだろと思う、それはこれが今までにない芸術だからである。
ほとんど他人の作ったものを変形している、変化させている芸術なんか今までありえなかったのである。

そして抽象画は変化しやすい、固定していない、常に変わるものとしてそもそもあるから大量の作品が連続して生まれる
その種はオリジナルはインターネットに無数にあることで尽きることがないとなる

それから抽象画は絵画の一部だから色に反応する、色というのも抽象画を作っていて不思議だと思った。無数の色があり色の取り合わせがありそれが脳に反応しているのである。色の効果は不思議であり無限である。色もまた神が作ったのである。
黒と白だけの世界だったらもう飽きるし生きているのも嫌だとなるからだ。

色は心の状態としても反映している、青い色だったら瞑想的だとか赤は情熱的だとかそして青にしてもいろいろな青がある、色は多様であり現しきれないくらいあるのだ。
具象画というとき形であるが抽象画となると色に主に反応する
抽象画は形より色が主になる世界である。 


The abstract picture is really mysterious. It is mysterious even if I make it with oneself.
It which thinks that this is one of what is because this is unprecedented art.
The art that I changed that transformed the thing which another person made was almost impossible so far.

And it is if the original does not run out as for the kind that a large quantity of works are born in succession because in the first place there is the abstract picture as the thing which always change which I do not fix which is easy to change because there is innumerable it in the Internet

Then because an abstract picture was a part of the picture, the color in response to a color made an abstract picture and thought that it was mysterious. There are innumerable colors, and there is the combination of the color, and it reacts to brain. It is mysterious, and the effect of the color is infinite. God made the color again.
What I already get tired if it is the world only for black and white, and is valid is because it is if I hate it.

Even if and I do the red in blue if a color is the blue color that I reflect as a state of mind that meditation-like that passionate, colors with various blue are various and cannot show it, and there is it.
It is the time form called the representational painting, but the abstract picture which reacts to a color mainly when it becomes the abstract picture is the world where a color becomes more important than form.   


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三本の老木

三本の老木はそれぞれ何かを語る

北風の吹く長き冬の日を

村に根付いて生きにし老木は語る

ここに生きたる昔を・・・・・


Three aged trees talk about something each

The long winter day when the north wind blows

I root in the village and make vigor and talk about the aged tree

It is ... here in old days as the vigor


これも抽象画である、変化させたからである。
そこから詩が生まれた、絵から詩が生まれることもあるし詩から絵が生まれることもある
それが芸術なのである。芸術は総合的なものとしてある

This is an abstract picture, too; is because changed it.
It that poetry may come out of the painting which poetry was born as from there, and a picture may be born from poetry is art. There is the art that general
タグ:色の世界

2017年02月23日

情なき現代人の不幸-科学者は頭が冷たくなる (江戸時代は情で不足を補っていた)


情なき現代人の不幸-科学者は頭が冷たくなる


(江戸時代は情で不足を補っていた)

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知、情、意があるが、江戸時代は情の世界であり現代が知が拡大した、情は縮小した
江戸時代は不足を情で補っていた、現代の情なき世界は人間を不幸にした
知のみが突出しててまったのである。


人間は江戸時代となるとそんなところに生きたくないとなる、一方で現代と比べてそこがそんなに住みにくい場所だったのかとなるとまた違っている
江戸時代の人が外国人が来たときモラルも高いしみんな幸せそうな顔をしていたというときそうである。

現代人はみん幸せな顔しているかというと不満な人が多い
そして大方の人が金に追われている、なぜこれほど金に追われているのか?
江戸時代などと比べればどれだけ豊かな生活をしているのか江戸時代の人が現代に来たら驚くだろう。

自分が経験したことでも

●金でめんどうみてもらへ
●金をくれ
●金をよこせ
●金をください

これしかなかった。一人は別に金に困っていない、ただその人も金でめんどうみろと言って去った、一人は最初から金をくれときたから冗談と思ったが本気であり本当に家捜して金を奪った、その人は金に困っていたからである。
もう一人は金をよこせという脅迫である。事業に失敗して金に困り自分が苦しんで困っているときだからそうしやすかった。
これほど露骨に金が全面に出してはばかることもないのか?その驚きだった。
最後に来た人も金にずっと困っていたが金を要求してもまだ少ないから良かった。
そしてともかくたのみこむからことわりきれないことがあった。
それは金をくれとかよこせとかいうのではなく金をくださいと頭を何度も下げて頼むのである。
前の三者はそういう金をほしいのだけどそういうことはない、「金をくれ」「金をよこせ」という強要していたのである。
一人は強盗だったし一人は脅迫者になっていた
そして「金の切れ目が縁の切れ目」となった

ではこういうことが自分だけに起きたことなのか?。それは社会全般の傾向ではないか?
金しかない、金の力があまりにも大きくなった社会だからそうなっている
普通の生活をしていたら自分が健康で家族も普通の生活をしていたらこうはならなかった家族が認知症になった、介護になった、自分が病気になったということでこういう人が露骨に人の弱みにつけこむようになったのだから悪質である。
相手も金がないのだから困窮しているから相手のことなど考えられないのである。
こういう人と比べると最後の人はいろいろあってもましな人だなとつくづく思っている。この女性も金に常に困っている人ではあったがまだそこまで露骨にはならないし人間的情がある

現代とは江戸時代と比べれば豊かであり便利でありこんないい社会は今までないとなる
でもなぜそうでもていのか?その原因は何なのかとなる
便利になり技術が発達しても必ずしも人間は幸福にならないと言うことがある
車は便利でも交通事故があり原発でも事故になり故郷にも住めなくなったとかある
金がこれほど大きな力ももつようになったのもグローバル社会になれば外国から物を買うのだから金が必要になる、金の力が大きくなるのである。
そして格差社会にもなる、こういう社会では金持ちも幸福とはならない、常に危険にさらされることになる、自分はたいして金持ちでないとしてもそういう目にあったから怖いと思った。

なぜ人間は技術でも何でも進歩してきたはずなのに幸福にならないのか?
それは江戸時代と比べると見えてくるものがある。江戸時代が全面的にいいとかいうのではない、社会というものを比べるためにそうしている
江戸時代は情に厚い社会だったことは確かである。貧乏で不便なのだけど人間は濃密な交わりがあり情に厚い社会だった、知識だって今の千分の一なのか万分の一なのかその量も比べものにならない、だから勉強だって楽だったとなる
医は仁術というとき医者でも技術より情が重んじられていたのである。
それより病気を治せないものとしてありただ情をかけてすませていたともなる社会であるだから情をかけてもっただけで直らないというのでは困るということもあった。
でも治す技術もないし科学も発達しないのだからそうなったのである。
そういうことは社会全般にあったと思う、科学技術が発達しないから人間はただ情をかけてかわいそうだなとして対処できなかったということもある
ただそこに情が通っていたとはなる、無力なんだけど情をもって人々は暮らしていたともなる

現代の医者は情などより病気を治してくれ、治せない医者は無能だからいらないとなる
だから医者は情をかけるというより機械を操作したり知識をもち患者に対応する、そこでかえって情は無視されるのである、看護師だって情にかけている、常に治療のために気をとられるから情をもって接することはなおざりになる。
医者でも人間を機械のように見ているかもしれない、病気とは機械の部品を壊れたように見ているかもしれない、医療とか福祉の分野はどうしても情が必要になるがそこが欠けるようになった、もちろん江戸時代でも医は算術ということはあった。
薬となる朝鮮人参が高いということもあった。だから江戸時代では病気になったらもうあきらめるほかないとかあった。情をかけられても病気は治せないということがあった。
それでも厚い情をもって人々は接していたとなる
とすると江戸時代でも科学技術が発達しなくても情によって補っていたともなる。
それはそれでいい社会であり科学技術も発達しなくても貧乏でもいい社会だったとなるから外国人が日本人はみんな幸せそうな顔していたとなるのである。

いづれにしろ現代人は情がうすくなり冷たくなっていることはまちがいない、それは現代の社会によって作られたものなのである。
武田邦彦氏が理系であり技術者であっても文系にも詳しいから言うことは興味深い
物理とか機械とかにたずさわる人、知識人は頭が冷たくなるという、これも面白い表現だなと思う、そういう学問であれ技術であれ膨大なの知識で頭を酷使していると頭が冷たくなる、情が薄れてくる、そしてそのことは頭脳のみが肥大化した冷酷な人間と化す
何かそういう人は文系などから見ると数式をあやつり人間的世界から離れてしっている感覚になる、最後はフランケンシュタインのような異様な人間とまで化してゆく
何かそうまでしないとそうした世界には入っていけないということがある
だから頭が冷たくなるというのはそういう世界に没入するとそうなってしまうのである。
一方で庶民など体を使っている人はブラーカラーは情があり情がまだ厚いということが今でもある。それは庶民の方が情が厚いとなる、 女性の方が情が厚いのは知で物事を判断しないからである。ただ金の世界になったときそういうことも失われてきている、でもそうした科学技術とか知識人よりはかえって単純なのだけど情に厚い人はまだいる、ただ全般的に庶民ですら今は金で追われているから情は薄くなっている、現代は頭でっかちな人が多すぎる社会である。
江戸時代はほとんど農民であり職人であり体を使う仕事である。頭を使う仕事は非常に少ないから情があった社会だともなる。
現代に必要なのはかえって情がある情を養成することだとも逆説的になる
昔だったら情を養成する環境があった。牛とか馬とか生き物を使っていると自ずと動物相手だと情が働く,機械だと情が働かないのである。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 

現代とは何かというと知に働くから角がたつ社会なのである。一方で情にも問題があり情を流されるというのもあり情がすべていいものともならないことは言える。でもこの情が欠けた社会は人間を幸福にはしない。

現代は情を養成する環境が希薄なのである。人間は遂にロボットになるとかになる
ロボットの最大の欠陥は情がもていないことなのである。知識は技術はもてても情に欠ける、それは理系とか機械を扱う分野の人は頭が冷たくなるということでそうなってしまうのである。
だからこれからはどうしたら情を養うのかということが問題になる、知識だけが膨大に増大しても人間は幸福になれないからである。
でもここを問題にしているのは教育でも社会でもないのである。
でもそういうことが人間を不幸にしているとすれば人間はただ便利なもの知識のみ技術のみを追求してもかえって不幸になるということである。
だから社会は人間はそういうことをただ闇雲に科学技術だけを知識だけをいいものとして追求するのも問題なのである。でもそれを制御するものはない、それで原発事故とかなって不幸に陥れられたということがある。

要するに人間は江戸時代だからといってそこに生きていてもすべてが悪いとはならなかった、不便でも貧乏でもそれを補うものが情が厚かったとかある、だから人間はそもそも幸福とは何なのか?そのことを問題にしていない、ただ便利なものを豊かになることを科学技術の発達を追求しているのである。「人間の幸福」を別に追求しているのではないのである。人間として不幸になろうがやはり科学技術は追求されるし便利さは追求されるし知識はますます増大してしゆく、つまり人間社会は「人間の幸福」は追求していない、
そもそも「人間の幸福」は何かというときそれを正確にとらえていない、とらえられないからである。だから結局そうして豊かさや便利さを追求しても不幸になるのである。

ともかく情がない世界に生きることは恐怖である。情がない世界とは愛がない世界であるそれはいくら便利でも豊かでも恐怖になる、だから病院とかは何か無機質であり治療はしても情がないとなることを知ったから病院には一時的ないいが長くばいたくないとか死にたくはないとなる、情のない世界と愛のない世界でもありそれは地獄ではないか?
つまり便利でも豊かでも地獄に生きるということがあるのが人間社会だということである。
理系とか科学技術者とかでも頭が冷たいとなるとそういう人は人を人ともみないかもしれない、そういう傲慢なものにもなってしまう。
だって情がないとしたらその人がどんなに頭が良くてもつきあえるのか、その人は人間なのかとまでなるからだ。医者でも実際に患者を人ともみない、情もかけない、この人は実験材料だとかなってしまう、そういう冷酷なものとしても医者とかはありうるしあるから怖いとなる。つまり情がない世界はいくら豊かでも便利でも索漠としたものとなるのでありそれが現代だからみんな不幸な顔をしているともなるのである。

だから社会が進歩してきたとしても「人間を幸福」にしてきたとはならないのである。
もちろん豊かになれば確かに幸福にしたという面はあっても不幸にした面もある。
だから江戸時代の人間は貧乏であり不幸だったとは言えないし現代人がみんな幸福だとも言えないのである。思うに人間はこの世を楽園にはできない、どんなに努力してもできないようになっている、それが神のみしかできないことである。
人間は科学技術がいいと思っても必ず交通事故とか原発事故のように悪いものとして現れてくるからである。それは神話でも火を神から盗んで罰せられたプロメテウスのようにありそれが原発事故として現代でも再現されていたのである。
核も火でありそれを盗んだのだがそれが罰として原発事故になり故郷にも住めなくなって不幸をもたらしたのである。

インテリの非人間性(1)(武田邦彦)
タグ:情なき社会
posted by 天華 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した 駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所

   
鹿島駅の錆びついた入り口の戸は直した


駅とは広場とか待ち合わせとか出会う場所、外部の人との交流の場所
   
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今日も夜は風で遅れている、でもこれはいわきの方だった
今日は仙台方面は遅れてはいなかった

 

今日は福島市からレンタカーで仕事で来た人がいた。目だつところがないので駅に来たという、それからもう一人は車を駐車する所を聞いていた、駅のすぐ前だと長く駐車するには向いていない、自転車置き場の所が空いていた、そこに止めたらいいだろうと言った
指定されている所もあったが指定されていない所もあったからだ

要するに鉄道の駅といってもこうして車時代になると車で行き来しているから駐車場とかが必要になる、街中は駐車場がないのが問題なのである。
それで新地駅とか山下駅は駐車場を駅前に広くとった。車も駐車しやすいから鉄道を利用しなくても待ち合わせでも何かここで用をたすともなる
温泉も出たとなると憩いの場所にもなる

確かにこの本のように駅というのは見直す時期なのかもしれない、駅が街の玄関口なのはまちがいない、そして東京への上ぼり志向から下り志向へ地方へ再び目を向ける時代が逆にきている、東京へ東京へという時代は終わったのである。
地方はこれから見直される、ただその見直されるとしてもみんながそうはならない、地方としての何か創造とか個性とか売りになるものがないと見直されない
外国人旅行者が増えて東京から都市部から地方へ目が向けられるときもそうである。

今はこの辺は外部からの人が結構まだいる、駅の特徴はそういう外部の人とも交わる所なのである。それで自分は全国を隈なく旅行しているから相手がどこから来たかというとき話を合せられるのである、そういう場にいることが何か生きがいにもなる
自分にとっても面白いとか相手もここに来てこの町のことなど聞くのが案内されるのが面白いともなる
ただ案内するにしても今は津波とか原発のことがあるがその他では目だったものはここにはない、でも何かちょっとでも話すると面白いとなる
駅が外部の人との交流の場所となる、それは仙台まで通じたからできたことである。
この六年間くらいはそういうことはなかったのである。

今日はいわき市からきた建築会社の人が戸を直した、ここは前から自分が市にも言っていたし水戸から来た人にも言っていたし原町の駅の人にも言っていた
戸が古くなってあきずらくなっていたのである。
それを今日は直してくれた、それを自分は見ていた

それから今日も夜になって遅れがでていた、昼間はめずらしく風がなく遅れなかった
でも夜になり風が吹き遅れた、だから毎日遅れが出るのが困るとなる。
でもそれはいわきの方であり仙台方面は普通に運行されていた、風がこっちはなかったからである。             
                                  
参考になる本

「老いる東京、蘇る地方ー牧野知弘」
タグ:駅の役割