2017年02月09日

戦争とは何であったのか? (レールモントフの詩より考察ー続編)


戦争とは何であったのか?

(レールモントフの詩より考察ー続編)

情熱とは観念の最初に発達したものにほかならない
それは心の青春のものだ、だから生涯それに興奮を感じようなどと思うものは愚者である多くの静かなる河は轟々たる滝ではじまるが海に注ぐまでとびはね、あわだちつづける河は一つもない、しかもこの平静さはしばしば隠れているが偉大な力のしるしなので、感情も思想も豊かに深くなれば過激な衝動は許されない
(レールモントフー「現代の英雄」)

この小説はレールモントフに興味をもったのでアマゾンで即座に古本で注文した。こういうふうに興味をあるものすぐ手に入り読めるのが便利なのである。
まず今までだったらこういう本は簡単に手に入られないからである。

こういうふうに二七歳で死んだのに透徹した心をもっていたということはやはり天才なのだろう。啄木とにている。啄木も二七歳で死んだからである。
ただこの人は病気ではない急激に決闘で殺されたのである。
だから病的な思想家でも詩人でもなかったのである。


当座の成り行きで速やかに過ぎ
彼はついに甘美な時にめぐりあわず
遠征軍のみじめな天幕の中で
病に倒れ、己が身とともに
天翔る まだ熟さぬ
漠然たる霊感や 裏切られた期待や
勇ましい無念の思いを墓へ運び去った

若いときはありあまる情熱とか欲望がわきあがる、そして行動に闇雲にかりたてられる
要するにその行動に深い思想はない、ただ行動したいというだけである。
その行動に意味が深い意味など問わないのである
それが自分たちの世代だったら全学連とかゲバ学生の革命ごっこであり自分はカルト教団での行動だったとなる、それは何の思想もないただ行動したいというだけだったのである理想に向かって猪突猛進する、その理想は何かもない、ただ理想という幻想に向かって行動していただけなのである。

戦争というときはまた違っていた、それは国家から強いられたものであり若者は何かやはり深い思想をもって行動したわけではない、それは国家自体も今ではその戦争の理由を言うがそれも一理あっても植民地解放のための戦争ということを目的にしたかどうかわからない、結果的にそうなったということはいえる。
ただ白人優越主義が強固にあり人種差別があったから日本人のみが欧米に対抗してシンガポールを陥落させてアメリカ人まで捕虜にしていたのは快挙だったとなる
そんなことありえないことだったからである。すべて欧米の植民地化して白人優位としてアジアは支配されていたからである。

「我々にとって異人種(非白人種)が真の敵ではない。真の敵はアメリカ連邦政府であり、ワンワールド主義者だ。ここがKKKと違うところだ。私の運動の目指すものは『アメリカの分離』であり、異なった人種がそれぞれ侵しあわないように棲み分けることだ。」
「ナチスがドイツの政権を握ったのは、彼らが一部の過激な政治集団だったからではない。ドイツでは、昔からドイツ民族(アーリア人)を最高のものとする『ドイツ主義』という考え方が支配的だった。一方、ナチスの思想もミュンヘンの財閥を中心とするドイツ保守勢力の考え方である『ドイツ主義』とその根本を共有していた。ナチスは決してドイツの一部の過激集団ではなかったのである。彼らはドイツそのものだったのである。

アーリア人が優秀で世界を支配すべきだという優生思想がもともとありその系譜に根強い白人至上主義がある。そのために日本人の学者とか日本人女性も殺されている。
トランプ大統領のような人がでてくるのもやはりそうした白人至上主義がアメリカにあるからだ。
だから白人至上主義からすると日本人に白人が捕虜になることは耐えられないことだったのである。だから戦場の橋のモデルの
泰緬鉄道でもイギリス人が優秀で橋を造れるのはイギリス人のみであり人種差別が以前として捕虜になってもあった
こうして根強い白人至上主義は外国に深くかかわればそれをありありと感じるから世界を回っていた理系の学者だった武田邦彦氏がそれを強く説いていることは理屈ではなしに感情的なものにもなるのだ。なんで白人がそんなに優秀で他の人種は劣等なのかとなると誰も納得できないからである。
日本には原爆を落としてもいいがドイツは同じ白人だから落とさなかったというのもそうである。その白人至上主義に唯一抵抗したのが日本でありそのための戦争だったというのも一理あるのである。
ただ日本人がそういう思想をもって戦ったかというとそれはわからない、ただ強いられたのであり若者が多くそれで特攻隊とかでも二〇歳で死ぬことはとても思想的に納得いかないものとして短歌などに残された。

いづれにしろ若いときは行動が先である、ありあまる情熱があるのだが成熟しない、レールモントフは天才だからそういうものを感じとっていた。
当座のなりゆきでとかで強いられて戦場に赤紙一枚で送られた、その時この戦争は何かと問うことすらできなかった。そんな時間もなかったのである。

彼はついに甘美な時にめぐりあわず
遠征軍のみじめな天幕の中で
病に倒れ、己が身とともに
天翔る まだ熟さぬ

甘美な時とは平和の時に培われる、それも普通は天才でないと長い時間がかかる
自分はようやくこれだけ生きて死に近くなり悟るように人間は成熟するのに時間がかかるのである。
自分は三〇年くらい甘美な時を過ごしたのである。これも平和な時代だからといって普通はありえないことである。今だったらみんな俺たちは奴隷なんだよとか社蓄なんだよとか働かせられるだけだとかなっているかららだ。
自ら働いてその労働に意味を見いだして働いている人はわずかなのである。
資本主義社会では結局金がどうのこうのといっても金があるものが自由でも何でも得る
金があれば別に働かなくてもいいし自分のしたいことをしていいとなるからだ。
金の奴隷になる必要がないからだ。

ただそのことが自分のカルマとなり十年間の介護とか自分の病気とか社会性のないことで辛酸をなめたのである。もし社会で苦労していればこうはならなかったのである。
でもそうなると甘美な時はなく強いられた労働に費やされていたことは確かである。
それはそれで全部が悪いとはならない、結局人間は生きる時間が短いからどんな人生でも満足な人生などないのである。たちまち時間は何するにしてもしないにしても消失して煙のように消えてゆくだけだとなる

レールモントフも決闘で死ぬなど馬鹿けだことだともなる、戦争で死ぬもやりきれないとなる、そうでなくても事故で死ぬ人もいるしこの世は危険に満ちているからである。
戦争は最大の災いである。そんなものを作り出してそれで死ぬというのは耐えられないとなる、戦争がなくても人生そのものが戦争だともなる、その上に最大の災いの戦争があったらそんな人生に耐えられないとなる、平和な時代でも人生そのものが戦争なのである。ただレールモントフでも短命で終わった人は人生を凝縮して生きたともなる
二〇代で六〇代を生きたともなる、それは啄木でも同じである。
でも二〇代では深い思想はもつことはできない、芸術も完成はしない、それでもふりかえると甘美なときとはあまりにも自分でも長いと思ったが短かったとなる
甘美な時間は誰でも実際は青春があるのだからもつがそれもあまりにも短い夢のような時間だったとなる、それもただ煙と消えてゆくだけだったとなるのが人生である。



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2017年02月10日

ボランティアがまだ来ていた ボランティアとは何なのか自分もして考えた


ボランティアがまだ来ていた


ボランティアとは何なのか自分もして考えた


今日も駅に行ったら新潟からボランティアの人が来ていた。
「新潟に避難した人が言っていたけど新潟の人は親切で待遇が良かった」
そう何度も言う女性の人がいた。それで新潟の人と交流がつづいたりした
その人は前に来ていた、またもう一回くらい来るらしい
東京とか秋田とか他の人とも合流してボランティアに来ていた
焚き出しなのかなになのか仮設に来てしていた
でももう仮設に住んでいる人もめっきりへったからまだボランティアが来ているのかと思った。

この辺では相当にボランティアの人たちがきた、津浪の時も来た。津浪の被害があった家で泥をかきだしていた、そこに京都ナンバーなどがあり全国から来ていた。
それはありがたいことだった、津浪の被害は大きいから助かったのである。
原発避難者の仮設にも全国から来ていた、焚き出しなのか来ていた。
そういう人がまだ来ていたのかとなる
そういう時期は過ぎたと思っていたからである。

ただこのボランティアも本当にその被害地に有効に働いているかどうかはわからない
その善意はありがたいのだがそれが有効になくかどうかはまた違っている
津浪の被害の家で泥をかきだしていた人たちなどは有効でありありがたいとなっていた。では原発避難者となるとボランティアでも必ずしも有効なのかどうかとなるとわからないお前はいちいちそんなことまでケチつけるのかとまた批判されるが人間の世界は善意がそのまま通るとは限らないということである。
善意があってもそれが現実の場で有効になるかどうかわからない
それが世界の援助でも問題になる、その物資でも金でも上前がはねられて肝心の困っている人にゆきわたらないということが問題になる

ボランティアで何か役たちたいという善意はありがたいのだがそれが現場で有効に働くかどうかは別問題である。
ただ援助を受けられる人にとっては全面的にいいものなのである。
地元だと補償金でもめているからそんなことはボランティアには関係ない、親切にしてくれてありがとうとなるだけだからである。
自分でも補償金のことを言うと嫌がられるがボランティアはそんなことを言わないから全面的にいいものとして受け入れられるのである。
そしてなんだ地元の人は補償金のことを何かとうるさいだけで何もしてくれない、冷たいなとなっている
でも一面ボランティアがそうして避難民にまだ援助していることはかえって自立精神をそこなっているということもあるのだ。
それでなぜ地元の人はかえって冷たい補償金のことしか言わないとなっているということも複雑なのである。
外からの人はわかりにくいけどそういうことがNHKの放送でもあったことを指摘した。
この辺は津浪の被害者だとか補償金問題とか複雑になっているからだ。

だからまだボランティアがきていたのか?もう地元の人で復興しなければならないのにとも思う。いつまでもそうしてボランティアを頼っているのかともなる
地元の人は何か自立精神がなくなり他者頼みになり補償金をもらいたい、もっともらいたいだけになっているのも現実なのである。
自分はともかくごくろさまとして新潟のボランティアを駅で見送った。

奇妙だけど自分が駅員のボランティアになっていたのだ。実はこのボランティアは自分が望まれてしていたわけでもない、駅員がいないなくり自分が電車が好きであり鉄道マニアでもあり鉄道に世話になったということで鹿島駅が無人駅になったのでしていたのであるまだ案内しないとわからないことがありそれで案内していた。
それをしていてボランティアは意外と仕事としてやりがいがあり楽しいと思った。
自分は全国でも世界でも旅しているからたいがいの人と話を合わせられる
その新潟の人が新潟でも風が日本海から吹くと言っていた。それで糸魚川の火事が大火事になってしまった。ここでは冬は北風だが日本海から冬は風が吹くのは浪が荒れていることでわかる

自分は糸魚川でも長野県の松本から塩の道をたどり行ったことがある。糸魚川は長い塩の道の終点になっていたのである。ただ日本海となると太平洋と違うから風のことなどがわかりにくいのである。
でも新潟の人かとなると地理的にわかるから話ができる、それは日本全国でもそうである
人間の仕事はみんな奴隷なんだよとか社蓄なんだよとか言うのが多い、仕事したくてしていないのである。ボランティアは志願して仕事している、その仕事がしたくてしているのである。だから意外と生きがいになるのである。
でもそれが金をもらうとその金のために働かせられることになる
金もらっているんだから金を払っているんだからとその金にしばられる
それも当然でありそこに責任も生れるからである。ボランティアは生きがいになるといってもいい加減であり責任はもたないことが多い、そこにボランティアの問題がある。

だからボランティアだからはいってみんな有効に働くとは限らないのである。
でも新潟であれ東京であれ遠くからきてボランティアして何か有効に働かない喜ばれないとしたら実際は生きがいにもならないとなる、それだけの労力を費やしているからである
自分の臨時駅員にしても一日いるわけではない、一日一回くらいたちより案内する程度である。
でもこの前はタクシーに先約がありひどく急いでいた人を六号線に案内した。
あれはそれなりに役立ったなと思った。まだ他から仕事などで来る人があり案内が必要になっているのである。自分は何か案内することが楽しいのである。
何か苦労だということも全く感じない、普通の仕事だとそうはいかない、何かしら苦しいけど仕事をせざるを得ないしそうしていと社会は成り立たないのである。

農業している知人の女性もそもそも苦労を言うけど農業を好きだからしているだけであるかえって金もかかるとれるものは人に分けるものさえ作れないのである
それはだからいくら苦労だといっても生きがいであり楽しみでしているのである。
退職した人などはそうした生きがいが今必要になっているのである。
このプログでもそうである。これもボランティアであり生きがいだとなる
仕事でもあまりにも苦労だったらつづかない、だから仕事は何なのだろうと「経済、社会の部」で追求してきたのである

要するに人間の仕事はこうして生きがいとなり楽しいときその人にあった仕事をしているのかもしれない、ただ現実は仕事となるとみんなそんな楽しいとはならない、厳しいし責任もある、命懸けにすらなる、甘いものではない、でも退職した人とかのボランティアはそうした金とかから関係なく生きがいを楽しみで仕事するのがいいとなる
そういうものが高齢化社会で求められているのである。
また余裕ある社会になるとそうして仕事がボランティアになる可能性がある
自分のしたいことをする、それがひいては社会の役にもたつという仕事である。
ただボランティアはきつい仕事は無理である。だから津浪の被害の泥をかきだすなどは相当にきつい仕事だったのである。
ともかくまだボランティアが来ているがボランティアの時期は終わったと思う
これからそういうボランティアではなく原発避難地域に住み着くとかそういう人が望まれているのである。人が住まないで困っているからである。



posted by 天華 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2017年02月11日

晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)


晩冬に仙台まで途中下車の旅(俳句十首)

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キクチスーパー山下駅にできたので便利 

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亘理駅

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仙台駅

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仙台の駅が変わっていた

これも変わったものである。

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満月が出ていた
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雲ににじみ光っていたが雪がちらついた

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一本の冬樹や社に古碑並ぶ

みちのくや途中下車して冬の雲

金華山駅より見えて冬の暮

冬の空城郭映えぬ亘理駅

城郭のかつてはあらむ寒椿

亘理駅枯木五本や風鳴りぬ

亘理駅一羽飛びゆく冬鴎

岩沼駅貨物列車に冬芒

線別る福島の方冬の暮

仙台に冬満月や新幹線


満月の雲ににじみて光るかな仙台あわれ雪しぐれかな

仙台に古本買いて帰るかな枯木並木に灯のともるかな


新地辺りからはいつも金華山とかが見えるようになった。この辺には金華山の碑がある。それは明治時代頃のものでありその頃お参りが参盛んになった。古いものではないのである。むしろ湯殿とかは古いのである。

山下駅におりた、キクチスーパーが駅にできていた。広いスーパーである。あれだと駅前に人を集められる、そこで休む場所があったので弁当を食べた。
駅前にスーパーがあると便利である。駅をおりてすぐ買い物できるし車がなくてもできるからだ。
鹿島駅で老人が車がないのでバスを走らせてほしいと言っていた。
高齢化社会は足が問題になる、それで路面電車が復活したりしている。車も運転すると老人は事故を起こしやすいからである。
前は原町の前にスーパーがあったが今はない、図書館があるがあれもいいものかどうかわからない。やはり買い物する店が必要なのだ。
自分も自転車でゆくと何か最近腰が痛くなるのである。だから自分にとっても足になるものが必要になる。

仙台は便利になったから時々また気軽に行けるのがいい、次は亘理駅によった。
残念だったのはあの城の中は見れなかった、休館だったのである。
あの城はあそこに案たわけではないけど立派であり見応えがある。
中通には城はあるが浜通りにはないからだ。
亘理駅で冬の鴎が一羽飛んでいるのを見たことがある、それであそこも海が近いと思った現実に津波の被害がやはり大きかったからである。
浜吉田というのも浜がついていたから海が近かった、しかし海が見えないので近いと思わなかった、だから浜吉田の駅まで津波が来ていたのには驚いたのである。

亘理駅で五本の枯木が風に鳴っているというとき写生なのである。写生だと何か単純だけど力強い句、簡潔なた句になるのである。

岩沼駅はいつも貨物列車がとまっている、あそこは工場地帯だから引き込み線もあるからだ。原発事故以降は双葉、大熊は通らないので貨物列車とスーパーヒタチなどの急行は通らない、だからそれも不思議である。
自分は介護で家族が鹿島の厚生病院に入院していたとき窓から貨物列車を見ていたのである。その貨物列車がなんとも病院にふさわしいものだった。
重い荷物を運ぶとき病人もそういう感じになるからだ。
何か電車には常に人間的なものを感じるのである。

仙台ではまた古本屋によって本を買った。やはり通販だけでは買い物は面白くないしわからないことがある。本でも中味が見れないからである。
そして仙台だと変わったものが研究した本でもある。
今日は万葉集の絵があるのを買った、それは見れないようになっていた。
でも書店の人にみせてもらい買った、四〇〇〇円だった、これは骨董品だと思った。
相当に紙まで古くなっていたのである。

仙台駅に冬の満月が出ていた。それが曇って雪がちらついた、それはちょっとふっただけのものであり雪しぐれだった。冬の終わり頃に雪しぐれがある。
これは情緒的に日本的な微妙な感覚をかもしだすものだった。
日本の季節は微妙に変化するのである。だから季語が無数にあるのだ。
実際自分は雪時雨は経験していないからである。

帰りは山下駅で十数分下りの電車をまった、強風のため必ず遅れるのである。
駒ヶ峰と山下駅までは高架橋になり風の影響を受けやすくなったのである。
だから風がこの頃必ず吹くから遅れているのである。
これも困ったものだと思って帰ってきた。

2017年02月12日

一つの地点から360度の視界を得るのはむずかしい (山下駅から山形、宮城、福島の三県を見る)


一つの地点から360度の視界を得るのはむずかしい

(山下駅から山形、宮城、福島の三県を見る)

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旅と保養は違う、現代の旅は保養なのである。旅館でうまいものを食べて温泉に入りゆったりしたいとかなる、旅とはそうしたものではなく延々と江戸時代のように道を歩きたどってゆく旅である。
現代はそうした旅人となることはむずかしい、車であり電車であれバスでもある場所にゆく、到達することが目的になっている
それは実際は旅ではない、その途中がぬけているからである。
それでも途中下車の旅というとき旅らしくなるのはそこに土地土地の何かを感じるからである。景色でも何か違ってくる、江戸時代だと土地土地で食べ物でも言葉でも何でも違ったものを感じたのである。
現代は便利だけどなんでも一様化しているから旅も平凡なものになりやすいのである。
ただいくら現代でも旅に出れば景色も変わるから新鮮なのである。

旅は道が未知であるとき江戸時代なら交通が発達していないから未知の世界にゆくことになっていた。隣の村さえ未知の領域になっていた。
今はどこにでもいつでも行けるとなるとそうした未知への期待が消失した
でも逆に何度でも行けるからその中で体験を深めることはできる
岩沼駅などは何もない平凡な工業地帯であり観光するものはなにもない
でも線路が二つに分かれて貨物列車がいつも止まっている
そこでそれも冬景色となり情緒があるとなる、それも岩沼駅の特質を知っていればそうなる

長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる

やはり亘理駅でもあの城は新しく作られた観光用でも立派であり見応えがある。
つまり何か目玉商品がないと外からの人を引きつけられないのが普通である。
鉄道の旅だったら城が駅から見えることは観光しやすい
福山駅などは実際に昔の城が駅につながっている、それは昔からあった城なのである。
城はやはり観光の目玉になる、目安になりやすい、わかりやすいからだ
外から来た人にはその土地の歴史などを理解するのがむずかしいのである。
なぜなら鉄道だと駅が玄関口になりそこからその街をイメージするからである。
ただ福山城というのは海に近く荷が海から運ばれていた。
そのことが鉄道の旅ではわからなかった、鉄道の旅はそうした盲点もある。
線路というのは固定していて変わらない、その視野も限られているからだ。
海からの視点が欠けていたことはその地理も歴史もわからないということだったのである仙台藩の船も入っていたとか記録にも残っていたみたいだ。
なぜこんな遠くまで仙台から船が来ていたのか、それは良く調べないとわからない

現代の旅は線の旅である、鉄道も線であり面を知ることはできない、面の旅はどこでもその地点から円をえがけば三六〇度の視点から見れば複雑であり広いのである。
線として横切ればそうした円の視点は得られないのである。


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山下駅


冬の朝泉が岳見ゆ山下駅

山下駅からは泉が岳が見えた、あの山は結構高いから見える、蔵王は山の陰になっているから蔵王ではない、山下駅になるとさらに宮城県の中に入った感覚になる
ただこうして360度の視点と視界が得られるのはもう百回とか日常的に行き来しているからである。
そして自分の住んでいる鹿島まで蔵王は見えるからである。蔵王というき二つの蔵王町がある山形県と宮城県側にもある、みちのくを二わけざまにという茂吉の短歌は山形県と宮城県だとあてはまる、福島県も見えるからかかわっている、でも秋田とか岩手県は関係ないのである。
宮城県と山形県の境界は面白山にさえぎられているから明確である。
あのトンネルをぬけると山形県であり雪が春でも残っている
宮城県と福島県の境はわかりにくい、相馬と宮城県の伊達とは地理的なものではなく歴史的境界になっている、でも文化的には伊達藩との交流が深い、小牛田とか山神系統でも
館腰という駅があるが館腰という碑もあったり金華山の碑もあったり交流が深く江戸時代の碑が残っているのでわかる。

いづれにしろ現代の旅は点と線の旅であり面の旅はなかなかできないし地理を理解することは一番むずかしい。日本は山が多いので余計にわかりにくくなる。
峠を越えると異界になってしまうのである。
旅というのはやはり距離感覚も大事である。
自分が柴田の千本桜を見に行った時自転車だったから遠かった、そしてやっとついたときあの千本桜はみんな散っていたのである。そこに深い感懐がありまた自転車で去って行った
せっかく自転車でやっときたのにみんな桜は散ってしまったということが心に残る
それは距離感覚から生れた感懐なのである。もし車をもっていたらこうはならないし現代は距離感覚が希薄になるから旅もまた軽いものになる、かえって印象に残らないのである

はるばると千本桜を見むときて散りにしあとや虚しく帰る

平泉まで新幹線で二時間だとなったらとても芭蕉のような深い感懐をいだくことはできない、平泉についたな、なんだ金色堂かこんなものかつまんねえなとかなってしまう。
それは距離が短く途中がはぶかれてしまっているからそうなるのである。
だから不便なときは不便なときのように得るものがあった。それはその時代でしか感じられないものだったのである。だから芭蕉の「奥の細道」は古典になったのである。
江戸時代まで距離感覚がまるで違ったものだったからである。






2017年02月13日

阿武隈川と蔵王(春の短歌十首)



阿武隈川と蔵王(春の短歌十首)


春の日に阿武隈川の広々と海に注ぐや蔵王を仰ぐ

雪厚く仁王のごとく蔵王かな噴煙吐きて怒りともならむ

荒々し蔵王にふぶき積もる雪磐(いわほ)も埋もれ樹氷映えにき

雪厚く蔵王光りぬ春の日に丸森町に坂越え来たる

阿武隈川蛇行し流るたぎりつつ吾妻嶺も仰ぎ桜咲くかな

阿武隈の川面に夕日光るかな春の日あわれ丸森暮れぬ

梁川の城跡古きあわれかな丸森越えて春にしのびぬ

桃桜阿武隈川の岸に咲き流れたぎちて吾妻嶺仰ぎ桜咲くかな

国境玉野に古き碑の並び春の日さして旧き道行く

我が町ゆ蔵王は見ゆるみちのくの重しとあれななお雪おおふ

春の日にさそわれ遠く行きにけむ道は分かれていづこに行かむ


旅だと遠くゆくことが旅だと思っている、でも近くでも旅なのである。
その旅は自由でないとできない、また車とか鉄道の旅となると違ったものとなる
本来は旅は道を行く、道は未知なのである。
だから歩くのが最もいいのだが次に自転車だといいとなる

自分は本当にそういう旅をしてきた。ふらりと出て行って道をたどり旅していた。
この道は分かれてどこに行くのだろうと誘われるように旅をする
その道は尽きずあったのである。阿武隈高原にはそういう道がある。
丸森を越えて梁川に出る、梁川に古い中世以来の城跡がある。ただそこには古い庭があったというだけでほとんど何も残っていないが歴史がある。
あそこは福島県と宮城県など伊達藩と相馬藩とか会津藩でも米沢でも代々の城主となっていた。そういうせめぎあう所に城があった
玉野でも森林資源で伊達藩と米沢藩と相馬藩が三つ巴で争っていたことでもわかる
そういう位置に梁川があった、それはやはり地理を知らねばわからない
それも自転車だと峠でも越えてゆく下ってゆくとかでその地理が記憶されるのである。

この辺には高い山がない、阿武隈山脈は高原であり山というものでもない、ただ蔵王は自分の町からも見える、だから蔵王は意外と身近なのである。
福島県の吾妻山は相馬からは見えないからだ。
阿武隈川とか蔵王は景観を作っている、阿武隈川でも船運があったから暮らしも川とともにあったとなるがもう一つその実感がない、それは最上川のようにはなっていなかったからである。ただ福島市辺りから米が運ばれて荒浜から江戸に船で運ばれたことは確かなのである。そこで丸森が港としてあったとなる

玉野は伊達と相馬の境である

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

この玉野というのはもともとの地名ではない、笹町とかなっていた。もともとの地名を新しくすると歴史が喪失することがある。美里などが多いがこれもただ地名の歴史的由来はなくつけられているのである。

ともかく自分は春の日に阿武隈高原などこうして自由にさまよっていた。
それができたのも家族に恵まれたからである。今になるとみんな死んだから何か自由にまたなったとしても帰っても待っている人もいないから安心しして旅できない
誰もいない家でもその家が何か不安になるのである。火事になるのではないかとか盗難とか現実にあったし不安になる
つまり自由とは実際は誰かが自由にしてくれるから自由なのである。
その誰かが人がいなければ全部自分でやるから自由がなくなる、家事も全部自分でやる他ないし自由がなくなるのである。

蔵王は春になっても分厚く雪が残っている、それがやはり蔵王がいかに大きな山であり長く雪に閉ざされた山なのかを示しているのである。


旅をふりかえり詠む桜の短歌 (白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)

相馬藩玉野村の境界争いはなぜ起こった?

権力に大小に比例してプロパガンダは効果を発する 政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す


権力の大小に比例してプロパガンダは効果を発する

政治も科学も報道も宗教も権力のプロパガンダと化す

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●原発の安全神話もプロパガンダによって作られた

注目度の高さは、目に触れる回数や反復数によって影響される。
注目度の高さは、呼び起こされた感情の強さに比例する。

ナチス党が政権を握ると、指導者であるアドルフ・ヒトラーは特にプロパガンダを重視し、ゲッベルスを大臣とする国民啓蒙・宣伝省を設置した。宣伝省は放送、出版、絵画、彫刻、映画、歌、オリンピックといったあらゆるものをプロパガンダに用い、ナチス党によるドイツとその勢力圏における独裁体制を維持し続けることに貢献した。
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プロパガンダとはその主張することや正義とか科学的真理とか公正さとかを追求しているのではない、事実すら追求していない、それは原発だったら原発を通すために権力がプロパガンダをする、原発を作るための目的がありプロパガンダする、そしてそのプロパガンダが効果を発するのは権力の大きさに比例して効果を発するのである。

原発はまさに最初読売新聞の正力松太郎がアメリカの意向を受けて推進したのである
正力松太郎から原発の安全神話のプロパガンダが開始されたのである。
その背後にアメリカがありその手先となったのが正力松太郎だった。
だからプロパガンダとは大きな権力が背後にありなされるのである。
日本はなかなか原爆を落とされた国であり抵抗があったが新聞社の力で安全神話が作られていった。
マスコミはただ事実を報道するだけではない、何かの目的があり意向があり主張があり権力のプロパガンダとして報道している

だから原発でも同じである。それが安全かどうかではない、科学の問題ではない、背後にアメリカの意向がありそのプロパガンダとして正力松太郎が利用されたともなるし逆に自分の利益のために利用したともなる
ともかく日本はアメリカに戦争に負けたのだからアメリカには逆らえないのである。
今でもそうであり日本はアメリカの一つの州になった方がいいという人がいるからだ。
だから戦争に負けて占領されたのだから日本はアメリカに全面的に従わねばならない立場になっていたのである。

原発のプロパガンダが権力の大きさに比例して効果を発するというときそれは権力をもっているものが一つの目的をもってプロパガンダするからそうなる
原発を作るためには戦争のようにあらゆるものがプロパガンダとして動員されたのである読売新聞社からそのプロパガンダがはじまったように全マスコミも加担したのである。
朝日新聞社すら東電にマスコミを中国に招待したとき事故が起きたことでわかる

プロパガンダが全マスコミで行われるときその効果は絶大なものとなる
そして学者も科学的なものよりそのプロパガンダをする一員として御用学者として利用されるのである。安全でなくても安全と学者が爆発したときも言っていたしメルトダウンしないということも言っていたからである。
東電でも電事連合という組合でも莫大な三百億円とかが宣伝のためにマスコミに支払われていたのである。
いったいこれだけの強力なプロパガンダに抗することができるのか?
だからこそ「安全神話」となった、神話はこうして権力によって作られていたのである。そのプロパガンダに抗することはできないものだったのである。

確かに原発が危険だと警告した人がいて本も出していた、でもそれは片隅に冗談のように置かれていた、その本ですら左翼系の団体から出されていたのである。
それであいつは左翼系だから信用できないともされていたのである。
「東京に原発を作れ」というときそれがSF小説のように自分などは関心がないから見ていたのである。
ともかくこれほど強力が国と一体化したプロパガンダに抗することは不可能に近いものだったのである。
だから権力が何かをするとき目的があるとき権力に比例してプロパガンダが効果を発揮する、政府の権力と東電とが一体となったときその権力は巨大であり三〇〇億円の宣伝費はマスコミに湯水のように使われたのである。

●プロパガンダする目的は何なのか?

原発を作るために「安全神話」のプロパガンダをする、それは政府が主導して東電とも一体となるから巨大だから効果も絶大となっていた。
それと同じように政府だけではない、権力をもつものはプロパガンダを日常的にしている政治運動でもプロパガンダなのである。
創価というとき宗教団体と見ているが実際は政治利権団体でありその目的は権力奪取にある、そのためにおおがかりなプロパガンダをする、地方の新聞社に聖教新聞を刷らせて批判させないし様々な工作を組織的にする、それは権力によって批判を抑え、大衆にプロパガンダして大衆を従わせるためである。
それはナチスでも日本が戦争したときでも何か目的がありプロパガンダする
芸能人でも大衆を操作するためにプロパガンダの一員として利用する。
最近佐藤優は創価のプロパガンダとして利用されている、利用するともなる

池田大作か生きているのか生きていないのかわからないが礼賛しているからである。
創価の目的は何なのか?宗教の布教なのか?
目的は権力奪取でありそのためには手段を選ばない、プロパガンダとして芸能人を利用するしそううい部門として民音がある、そこに金がつぎこまれているからだ。
カルト宗教団体とは何なのか?これも民衆の救済などとは何の関係もないものである。
巨大な権力を持ちその権力で社会を動かそうとする団体組織なのである。
宗教が目的ならそのために権力など使う必要がないからである。
シャカでもキリストでも権力などなにもない、住んでいる家もない、そんな人がどうして指導者になったのかとなる、権力など何の関係もなかったのである。
日蓮だって一人で茅屋に住んでいたからである

権力をもちたいというときそれは別な目的があってそうするのである。
創価は勝共連合に勝つために共産主義を普及させるのを防ぐためために組織されたとかも言われる、一方で共産系は左は必ず中国とか前はソビエト連邦のプロパガンダとして日本の役割があったとなる、つまりこの世はこうしたプロパガンダの戦いなのである。
事実だとか科学の真理だとか宗教だとかもそのプロパガンダのために利用されるだけだとなる、そのプロパガンダも権力の大きさ比例して実効力があるとなる
だから本当になぜプロパガンダ力でははとてもヒラリー陣営に勝てないのに弱小なのにトランプが大統領までなったのか?
それは政治でもやはりアメリカの現実をヒラリー派は知らせていなかったのである。
そうした現実をいくらプロパガンダが強力でも否定できなかった
インターネットができてマスコミのプロパガンダ力が低下した現れだったともなる

一番プロパガンダを必要とするのは戦争するときだから最も強力なプロパガンダをする
なぜならその時大量の人が死ぬからである。
死ぬかもしれないというとき人間は簡単にいくらプロパガンダされても従うとはならないからである。
だからその時最も強力なプロパガンダが行われる、アメリカが真珠湾を契機に真珠湾を忘れるなということで戦争を開始したことでもわかる、それも強力なプロパガンダとなったのである。それも陰謀論だとしくまれていて日本がはめられたとも言われるのもそのためである。

●強力なプロパガンダによって地獄にひきこまれる大衆

報道というのは常にそうした権力のプロパガンダがありなされているのである。
それはNHKでも公平のように見えてもプロパガンダを行っている
NHKは在日の力が強いとかで中国韓国よりになるとかあり右のプロパガンダではない左のプロパガンダを行う団体だとなる
そもそも左にしても慰安婦問題とか南京虐殺を言うけとそれももう事実など関係ない中国政府とか韓国政府のプロパガンダとして見るべきである
事実も科学も政治的プロパガンダになれば関係ないのである。自国にとって有利なようにプロパガンダしてゆく、それは権力に比例して効果を発揮するのである。

だから報道というとき特にマスコミになると何かの目的がありプロパガンダを行っているとみるべきである。その背後に巨大な権力がある。
なぜテレビで芸能人が政治とか芸能意外のことであれこれ発言させるのか?
要するに大衆操作のために芸能人が利用されるのである。
大衆とはまさに「パンとサーカス」を与えねばならないものだからである。
サーカスを見せるのが芸能人なのである。だから司会者が芸者だと言われたこともある。司会者もテレビだと強力なプロパガンダとされるのに一番適しているからである。
何でももしテレビを百万人常時見ているとなるとそれだけで力をもつのである。

それで宣伝でも絶大な効果があったとなる、宣伝によって買うということはかなりあるからだ。
でも今は消費でも通販になるとレビューを見て買う,するとその消費者の実際に使った人の言葉を信用するようになる、消費者とは報道でもマスコミのように一方的ではない、報道を消化するにもどういうふうに消化することが問題になる
マスコミではあんなことを言っているけど実際は違うんだよなと常に反論しているのが今度はインターネットだからである。今までだったらマスコミに反論することはできない、ただ一方的に消費されることをマスコミはできたのである。
要するに人間が物でも道具でも消費した人の意見が大事なのである。
そして経験した人の話が大事なのである。
自分は創価で運動していたからその経験を書いているのである。
実際に経験した人は物や道具でも買って使った人はその真実をしない人よりは実感しているから違っているのである。
社会は複雑でありとても自分の一人の経験だけでは理解できないものだからである。

要するに報道というときそれは何かの目的がありプロパガンダされていると見ることが必要である。物を売るにしてもその内容よりその物を売るためのプロパガンダとなることがあるからだ。
ただ物とか道具とかレストランでも料理とかはいくら宣伝してもプロパガンダしても一時的に効果があっても食べてみてどうかとなると偽ることができないから効果がなくなる
電気製品でもどうしてもメーカー品は高くても壊れないと信用がある。
台湾製のパソコンを買ってすぐに壊れたのもそのためである。
こういうものは偽ることができないのである。

これは芸術とかでもそうである。マスコミに宣伝されて有名になっても内容がなければすぐに廃れる、名前だけが売り出されても作品に内容がないといづれは廃れる
たいがい自分は小説とかはわからないが俳句とか短歌だとか詩なら評価できる
その評価の基準はどこまで自然と深くアイディンティティ化しているかで見分ける
啄木などはそうして不思議なのはあの若さで自然に精通していたということが不思議なことだったのである。自然と一体化するには自分のようにやっと死が近い老人になってからだともなるからだ。
芸術などでも学者でもやはり政治とは違いプロパガンダは通用しないのである。
その作品でも論文でも確実にいつかはその価値が正しく評価されるからである。
それが古典となったのは時間の中でその価値が変わらない、優れたものとして時間に左右されない価値をもっているからである。



2017年02月14日

春の日(倒木はなお生きて森に還る)


春の日(倒木はなお生きて森に還る)


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駅前の自転車屋かな一軒のみ病とてもなお働きにけり

長々と貨物列車の過ぎ行きぬ病院の窓に枯野広がる

鉄道に貨物列車のみかけぬは原発事故に途絶えしを知る

津浪にも残る社の一つあり形見にあれや冬のくれかな

北風になお吹き鳴るも倒れし木に春の日さしぬ我が見て通る


駅前の自転車屋がありあそこは自転車を使うのでなじみである。
貨物列車を見たのは病院に家族が入院している時だった
長々と貨物列車がゆくときそれが病院に寝ている人とか介護している人とかがいて
何か重荷になる、その重荷というとき重荷を運んでいるように見えたのである。
その時貨物列車のようにみんな重荷となる病人とか介護される老人が運ばれれば楽だなとも不謹慎だが思ったのである
短歌とかでも短いから一つの歌でもどういう場所にいて心境で詠んでいるのかを知ると深く理解できるのである。

今日見たのは道の脇に倒れている木だった、まだ北風が唸り吹いていたがそれほどでもない、春の日がすでにさしている、その倒れた木にもその春の日がさしていた
人間は木でもそれも生き物だから人間のように見ているのである。
すでに自分も家族はみんな死んだけど介護して供養するとき、家族は死んだけど供養しているとなる、その倒木に死んだ家族をイメージする

そして倒木でもそれはやがてまた森に還元される、森の栄養となるのである。
そういうふうに連環した命として植物もある、動物でもそのように昔だったら見ていた
それは人間もまた同じように自然の命としてそのように見ていたのである。
何か倒木にもやさしいあたたかな春の日がさしている、それは死んだとしてもまだ倒木として生きている感じになるからだ。
人間の悲惨は骨となって何も残らないことである。その極端な生と死の断絶がショックであり受け入れられないのである。
倒木は死んだとしてもまだ生きている、それがやがて森の肥料ともなり循環する命を生きているということでその死は無駄ではないと感じる
その死は自然では孤立した死ではないのである。

こういうふうに見るのは田舎ではできる、あるところに長く住んでいると見れる、でも都会では見れない、森というものがない、死というのが何かそうした自然の中の死ではない一つの機械の部品が消えるという感じにもなる、無機質的な死ともなる
人間も自然の中の命の一つだということを自覚できないのである。
そういうことが科学万能社会を作ったともなる
原発のように毒がはき毒を残す、一万年もプルトニウムの毒が消えない、放射線をだしつづけるというのがそうである。それは自然の命のサイクルにはならない
もし炭を燃料にしていたりしたらこんなことにはならない、自然の循環、サイクルの中で生きていることになっていたのである。

では昔に帰れといっても江戸時代にもどれといってもむずかしい、でも人間も自然の命の一つでありそれに逆らうものが科学技術にありそれが原発事故になり致命的な結果になった、そういうことを田舎に住んでいる人は余計に感じるのである。
都会ではそもそも自然と切り離されているから感じない
でも都会でも自然なしでは食料も入らないのだから生きていけない
だから東京でも大都会で食糧不足になり自然とのつながりを田舎とのつながりを具体的に自覚される時がくる、それは地震とかの災害でも必ずくる


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2017年02月15日

森を流れる川 (river in the forest)



森を流れる川 (river in the forest)

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a road in the forest

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deeo river

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I can easily make the abstract picture that this seen
in some river pulls several lines which are an abstract picture-like picture and it is soft and only processed this, and it was in this way

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抽象画はこれは何なのだろうと見る、川なのだろうか、山なのだろうか、海なのだろうかとか具象画をイメージする、抽象画でも具象画から離れてありえない
これは森だな、そこを川が流れているとして作る方でも作っているのである
森にしよとして作っている
偶然にそうなるものでもそうなのである。
だから森をイメージして見ないと抽象画も鑑賞できない場合がある
もちろんいろいろな見方があるがやはり具象画から離れてありえないのが抽象画である。

This impossible makes forest which even to make saying that a river drifts to forest , there makes with the abstract picture which images a representational painting whether it is a mountain whether the abstract picture is a river considering that this will be what that it is the sea apart from a representational painting and is

Even a thing so accidentally is so.
Therefore when it does not look in the image of a forest, the abstract picture has the of course various viewpoints that it may not appreciate, but it is an abstract picture that after all is impossible apart from a representational painting.
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本は何なのだろう (骨董品となり芸術品となっていた)


本は何なのだろう

(骨董品となり芸術品となっていた)

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絵に透かした紙を重ねている

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昭和18年に発行とあり53円は当時では相当に高かった

昭和20年の1円(100銭)は400円前後の価値
今の値段で6万くらいなのか?これは作るのにも金がかかっているからそうなるだろう。これを買った人は金持ちだったとなる
ただ戦争にも入っているとなるとその影響もあるから値段的には比べられない
それにしてもこんな厚い本を出したということ、その手間と労力と考えると
本は骨董品として価値があるとなる



仙台の古本屋で買った本はでかくて重かった
それが封印されていて中が見れなかった、中味は万葉集に絵をそいたものである。

「これ中味見たいんですが」
「いいですよ」
「悪いな、買うわけでもないのに、これは本の骨董品のようです」

ぱらぱらとめくり見た、絵があるので万葉集を学ぶのにいいのかとも思った
その絵はそれほどのものでもないようだった、ただこの本の不思議なのはでかくて重くて封印されている、それがかえって中が重要なものに見えたのである。
千部限定ともある。
大亦観風という人の作品である。この人はそれなりに知られていた、アマゾンで調べたら本もでていた、同じ本で2000円のようだ
古本屋の人に言った

「通販では中味が見れないですから、通販だけでは買物はできない」
「私の店でも通販に出していますよ」
「そうですか」
「売れたので通販のは削除しました」

まずこういう本があり中味がどういうものなのかわからないし名前も知らなかった。
となるとこれは何なのだろうととなる
かえって封印されていて見れないから見たくなるのが人間の心理なのである。
見られないということはかえって見たいとなる。
あからさまに見える、こんなものいつでも見れるとなると価値が低くなる
第一こんなでかい重い本があることに驚きがあった。
これは戦前に作ったものでずいぶん金がかかったろうなと思った。
こんな凝った作り方をしているからである。
これは明きらかに本の骨董品になっている
その内容よりも本が芸術品になっているのだ。

この本は出してから70年以上過ぎている、紙は変色している、この人の絵はたいしたことがないと思ったが最近見直されて展覧会もしている
70年も過ぎるともう本自体がほころびて紙も変色してくるし本の形もた保てなくなる
本でも50年でぼろぼろになってしまう。
でもネットなどよりは本に記しておけば残るということはあるだろう。
ネットだと一瞬にして膨大な記録が消える、そのことが怖いのである。
ネットでは何か書いても軽い感じになり消えやすいとなる

ただ最近ネットで簡単に本は作れる、それをしていないが自分のプログで書いたものウエブで本にしたいと思っている、ネットで詩集を十冊作った人がいる、その内容は陳腐なものである、でもそれだけのことがすでに簡単にできる時代になった
本を作るのは簡単であるがそれを書店に置くことはできない
書店に置くことは今でも出版社とか取り次ぎとか普通は置くことができないのである。
本はすでに一個の芸術品として作るともなる、ただその内容だけのものもあるが装丁とか一冊の本はすでに広く流通するより何かこのように一個の芸術品であり古くなると骨董品のようになる

何か自分は本が好きだった、そして本を読むより本の蒐集家のようにもなっていたのである。それで家が傾くほど本があった、それは全集ものがあったためである。
百科事典などでも重くなっていたのである。本はそれだけ家に集めることはやっかいなものなのである。でも人間が本を読める量は限られている、だから積んどくになりただ蒐集家のようになって中味を読んでいなともなる
アマゾンだったら今回のことでもわかるようにどんなものでも手に入る古本でもそうである。
この人のことが知らなかったので中味がわからないので買わなかっただけである。
アマゾンで買ったら2000円だった、でも中味がわからないのだから買いようがないのである。本でも立ち読みできないと中味がわからないものがある。
それが通販の問題なのである。通販がすべていいものではない、バッグとか着るものでもサイズがあわないとか重かったとか失敗が結構あるからだ。
だから高いものは買うのは冒険になる、メーカー品なら電気製品でも無難ではあるが恐くなる、ただ田舎だと自分は一万の町だから車もないから電気製品だったら小さいものはいいとして運ぶことができないから通販がいいとなる
そして通販の方が安いという思い込みができているからリアル店では買わなくなったということもある。

買物は人とのやりとりもあるし今電気製品でも操作がめんどうなのが増えた、すると老人にはその操作ができないという人が出てくる、操作ができなくて使えないという問題が出てきている。パソコンのソフトはもう使いこなすすことができずに無駄になる
まずフワトショップとか機能が多すぎて使いこなせない、習わない限りできないとなっている、一万で買ったとしても二万三万出してもいいから使い方を知りたいとなるのであるそれを教える所は田舎にはないし他でもないだろう。

買物だと市場がありそこでは買物するだけではない、人がその時集まるから嫁さがしとか何か別な用も生れ娯楽として楽しむ所でもあった。
それは金だけではと計れない人間的な場所だったのである。
それが通販にはない、物は何でも手に入っても人間のやりとりがない、関係もないのである。古本屋に行けば多少人間的なやりとりがある
でも今になると本の数が新刊でも古本でも圧倒的にたりない、アマゾンなら天文学的数字の本がありないものがない、ただこうして知らない本は中味もわからないし買いようがなっかたとなる

本は別に電子本でもなれれば読める、キンドルももっている、これだと関心があるものをすぐよめる、ネットで検索しているように読める、だから田舎でも情報に差がなくなったのである。
仙台に行ったら書店がまたなくなったとかある、古本屋の人も売れないと言っていた。
これはやはりどうにもなちない、量がそろえられないからだ。書店はやがて消失するのかもしれない、現実にそうなってきている、余りにも田舎だったら本が少なすぎるのである本は立ち読みが楽しいということがある。立ち読みで知識を得るとういこともある。
とても全部は買いないのだからそうなる
値段だと4000円がリアル書店でありアマゾンだと2000円とかなるから高いとなる
でもそれなりに人間のやりとりがあって面白いともなる
実際に品物を見るということがやはり買物のベースにある、それが通販ではないからどうしても買物でも無味乾燥になる、通販ではどうしても探すことがめんどうであり情報でもそうでありそこが問題になる、キーワードだけでは探し得ないものがかなりあるからだ。



タグ:古本屋

2017年02月16日

みちのくの枯野の風景 (常磐線のいわき市から仙台まで)


みちのくの枯野の風景


(常磐線のいわき市から仙台まで)

いわき市辺りあ出ると車窓には枯野が広がる。大野、広野とかの地名がありこの辺はもともと広々とした野原だった。相馬藩の殿様がこの辺を余の森とした所である
今の双葉とか大熊とかは磐城藩との境で争いがあった。
余の森とは相馬藩の領地だという宣言である。「小良が浜」おらがはまというのも俺の浜だということで領有の宣言である。何か土地争いは常に古代からもあった
この辺は森におおわれていて明治に入って開墾された地域である。
ただ江戸時代でも人は住んでいたので野馬追いに出る古い家がある
浪江町は相馬藩に組み入れられたがあとからである。相馬藩の最初の城は小高にあり小高、原町、北郷(鹿島)相馬市が中心だった、そこに飯館村も入ってきた。

原町は神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある、もともとここには家はなく広大な野原であり土手が囲んでいて馬が放牧されていた。原町とはまさに原っぱしかなかったのである。原町から深野とか大原も野であり原が広がっていた。最初はみんな原や野が広がっていたのだ。だから日本では野とか原とつく地名が多いのである。
森は杜でありそこは別な領域であり鎮守の森として杜として残された。

この枯野がつづくの亘理までである。ここまでは家が少なく刈田が枯野が広がっている。それは陸奥らしい風景である。この枯野の風景も阿武隈川をわたると岩沼になりここは大きな煙突があり煙をいつももうもうとだしている工業地帯になる。引き込み線もあるからしだからいつも貨物列車が駅にとまっている、そして冬芒が心に残る


岩沼の次は館腰(たてこし)の駅だが館腰神社があり館腰の碑が相馬にもある。相馬藩内には伊達藩にあった神の碑が多いのである。小牛田の碑とかもそうであてる。山神の碑は小牛田に由来している。お参りしたためにそうなった。
なぜ磯部には寄木神社がある。

「寄木神社の由来
  合祀稲荷神社 寄木神社
平氏没落後志摩国磯部に身を隠した落武者辰
之丞一行は間もなく陸奥国石巻に下り寺島氏
を称して世を忍ぶ辰之丞を船頭として漁師とな
つたが 海面を混濁する北上川の氾濫に度々漁撈
を妨げられ 遂に適地を求めて宇多郡大竹荘磯部
の里に移つたと伝えられる

永享の末頃寺島家は元の漁師に復し神官は絶
えたが後 佐藤好信が相馬氏に仕えて磯部城に拠
り祈願所として開山した海蔵寺が別当を勤めた
と伝えられる 天正十三年(一五八五)の建立を伝え
られた

海蔵寺は浜吉田にありそこに慶長津浪の縁起が記されていた、言い伝えがあった。この寄木神社は慶長津浪(1611)年の前のことである
このように伊達藩とのつながりが相馬藩には多いのである。それは地理的に接しているからそうなった。

伊達と相馬の境の桜 花は相馬に 実は伊達に

という民謡が残された。これは駒ヶ峰が境となり残されとか山の方の玉野なのか不明である。ただ駒ヶ峰とか新地には中世の城があったり境になっていた。

今回の津浪では宮城県から岩手県に被害がありそこが一つの地理として結ばれた地域だったことを知らしめられたのである。今回の津浪は東北の海岸線を一つとして見なければわからないのである。

新地から山下までの駅は高くなり金華山とか牡鹿半島が見えるようになった。
そして相馬藩内に金華山の碑がある。これは丸森にもあった。金華山参りが行われていたでもそれは明治になってから盛んになったから新しいのである。
古いのは湯殿の碑なのである。これは東北の農民が湯治に行った場所だからである。

海というのは常磐線でも仙台まで意識しにくくかった。なぜなら海が見えたのは常磐線からだと新地でありわずかに見えただけだったからである。
それで浜吉田の駅まで津浪がきていたことに驚いたのである。それは小高でもそうである小高は駅を越えたのではなく街に下水道から津浪があふれたのである。

現代の交通は鉄道と車となったとき海の視点が欠けるようになった。それは全国的にそうである。日本は海に囲まれているのだから海の視点があってもいいはずなのだがそれが喪失した。
でも新地駅でも山下駅でも海が広々と見えたとき金華山でも牡鹿半島でも身近に感じたのである。あれだけ見えれば海をわたっても迷うことなく行ける、目標がはっきり見えるからである。
それで古代にも石巻まで相馬の海からわたったという人もいる
なぜ石巻に萱原という地名がありそこが万葉集の真野の草原とされていたのである。
それが定説とされていた。石巻には真野公という木簡も発見されているからだ。
だから南相馬市の鹿島区の真野郷は発掘がありこっちが有力になったのである。
ただどうしても実感としてあれだけ牡鹿半島や金華山が見えるということで地理的一体感がましたのである。
やはり海が見えるのと見えないのでは全く違った感覚になる

ともかく陸奥は枯野の風景でありそれがふさわしいとなる
上野を電車で出るとやがて30分くらいなのかビルもなくなり太陽が地平に沈んでゆく
そしてそこからみちのくの枯野が広がってゆく、その時電車の音が高鳴りひびき故郷に向かうということになる。
ただもう常磐線で十年以上東京には行っていない、介護で行けなかった。東京にはすでに10年以上行っていない、何か本当に歳月がすぎるのは早い、十年介護で一昔となってしまった。その間に津浪や原発事後がありあわただしくすぎてしまったのである。

みちのくは以前として芭蕉の「奥の細道」の雰囲気が残っている地域である。
でも芭蕉が歩いた中通りとかは都会化しているから感じられない、浜通りはいわきから枯野となる、大野とか広野とかになりそこが原発事故で人が住まなくなり本当に枯野となり原初の状態に戻ったとなるのも驚きである、家が街が草茫々の中に埋もれてしまったのである。
だからこれは風流として見ることもできない、そもそも風流があるのは貧乏ではかえって風流はない、もう生活に追われるだけであり自然を風流として見ることができないのである。そもそもそんな風流より原発が建てられたのは出稼ぎしないように地元で働く場をもつために誘致したのである。原発は高給になるから働いたのである。
原発の経済効果は本当に大きかったのである。それがみんな裏目に出て悲惨な結果になったのである。

風流ならば

みちのくに枯野に何か昼の月

こんなことにもなる、そういうふうに自分もあったのはやはり経済的にとか恵まれていたからである。それで介護で十年苦しんだのもそのためである。
今のこの辺はこんなのんびりな状態にはない、未だに復興は先である。
津浪の被害地でも広範囲でありこれが復興するのはまだまだ時間がかかるのである
その被害があまりにも広範囲だったからこうなったのである。