心に青雲の著者の心情-戦争とは何であったのか?
(レールモントフの詩より考察)
詩人
レールモントフ
我が短剣の金の飾りは光りかがやき
刃は頼もしく傷跡もない
剣は神秘な焼きの跡を
戦国なる東方の秘伝の跡をとどめる
この短剣は奉仕の報いを受けることなく
長年山国の騎手に仕えてきた
胸に恐ろしい傷跡を残されたものも一人どころではなく
貫かれた鎖かたびらも一つどころではない
しもべより従順に持ち主と苦楽を分かち
侮辱の言葉に答えて探検は響きをたてた
その頃の剣のゆたかな彫り物は
縁なき恥ずべき装いだった
これはテーレク河の向こうで勇ましいコサックが
持ち主の冷たくなった死骸から奪い
その後行商のアルメニア人の店先に
長らく投げ出されていたもの
この勇士の哀れな道連れも今では
鞘は戦いに打ち砕かれてなくなり
金のおもちゃのように 壁にかかって光っている
なお 誉れにも害にならずに
誰一人慣れた入念な手つきで
手入れしてくれるものも、愛撫してくれる者もなく
誰一人夜明けに祈りながら
真心こめて短剣の銘を唱えるものもいない
惰弱に成り果てた現代では詩人のお前も同様
おのれの使命を見失っていないか
世人が黙然と敬虔に耳を傾けた
あの権威を黄金に見変えてしまっていないか
昔 お前の言葉は朗々たるひびきは
武士(もののふ)の戦意を燃え立たせた
その民にとってはなくてはならぬもの
酒宴の盃、祈りの香のように
お前の詩句は 神の御霊のように、民の頭上を駆けり
式典や民の災厄の日々には
気高き思想の反響が
民会の鐘のようにとどろきわたったものだった
それが今や、お前の月並みで傲慢な言葉は退屈で
金箔と欺瞞がわれらを楽しませてくれるだけだ
老いぼれた今の世は 老いさらばえた美女のように
脂の陰に皺を隠す癖が身についている
あざ笑われている予言者よ お前は再び目覚めるか
それとも復讐の声を耳にしても
一面に侮蔑の錆びに覆われた刃を
二度と鞘からぬくことはないのか?
A.N オドーエフスキーの思い出
わたしは彼を知っていた
東方の山の旅をともにし
配流のわびしい思いも
親しく分かち合った仲 だがわたしは
故郷に帰り 試練の時代は
当座の成り行きで速やかに過ぎ
彼はついに甘美な時にめぐりあわず
遠征軍のみじめな天幕の中で
病に倒れ、己が身とともに
天翔る まだ熟さぬ
漠然たる霊感や 裏切られた期待や
勇ましい無念の思いを墓へ運び去った
それら そういう期待や幸福のために
生を受けながら 彼は無分別にも
はやくも子供の衣ぬぎすてて
荒れ騒ぐ人生の海に投げこんだ
だが世間は容赦せず-神の救いもなかった
とはいえ、苦しい激動の中
人群れのなか 無人の荒野にあっても
内なる感情の静かな炎は消えず
保ち続けていた、瑠璃色の目の輝きも
良く透る 子どもぽい笑い声も
活気ある話ぶりも
誇らかな人間信頼も 人とコトナク生き方も
だが 彼は友達のから遠く隔てた所で相果てた
我が愛しのサーシャよ、心に安らぎあれ
異国の土におおわれて
静かに眠れ 我が記憶の
黙せる墓に眠る二人の交わりのように
きみはみんなのように 音もなく死んでいった
ただし毅然として 神秘な思いが
まだ君の額をさまよううちに
目は閉じられ、永遠の眠りについた
いまはのきわにもらした言葉は
聞いていた者のだれにもわからなかった
それは故国への別れの挨拶か
残してゆく友の名前か
青春を惜しむ気持ちか
それとも単なる最後の病の叫びか
だれも教えてくれない、・・・君の臨終の言葉の
深い意味は失せ・・・君の仕事も見解も
思索も すべて跡形なく消えさった
あたかも夕雲の軽やかな蒸気のように
それはきらりと輝く間ももなく また風に運び去られ
どこへ、なぜぁどこから などとたずねる者もいない、
レールモントフの詩をはじめて読んだけど27歳で死んでこれだけの詩を書いた。
早熟の天才だったというのはそうだろう。
これは啄木ともにている。なぜあのような短歌が作れたかとなるとこの二人には共通したものがある。
啄木は肺病で死と直面していた。レールモントフは戦争で死に直面していた。
若いときに死を現実に身近に感じて実際に死んだからこれだけの詩を作れたのである。
ただ若いが故に未完成で終わったのである。その思いが詩に痛切に現されている。
病に倒れ、己が身とともに
天翔る まだ熟さぬ
漠然たる霊感や 裏切られた期待や
勇ましい無念の思いを墓へ運び去った
それは故国への別れの挨拶か
残してゆく友の名前か
青春を惜しむ気持ちか
それとも単なる最後の病の叫びか
だれも教えてくれない、・・・君の臨終の言葉の
深い意味は失せ・・・君の仕事も見解も
思索も すべて跡形なく消えさった
こういうことが痛切なものとして詩で現されている。この感覚は自分などは天才でもないからこの年になりわかる、もう死が近い年齢になって実感することなのである。
「天翔る まだ熟さぬ」とか「勇ましい無念の思い」とかもそうである。
これは若くして死んだ人に共通なのである。
人間はつくづく成長するに時間がかかりすぎる、やっと死ぬときになって人生はこうだったのかとか自分などは悟っている、そういうふうに人間は人生を社会でも歴史でも深くみれないのである。その意味を知り得ないのである。
それは芸術でも同じである。芸術は鑑賞すること自体がむずかしいのである。
だから鑑賞できる人は芸術家でもあるともなる
この人は若くして死んだが故にそうした心残りを痛切に啄木と同じように残したのであるそれはまた戦争を経験したためでもある、すると戦争というとき戦争では日本でも300百万人も死んだ、そこにこれとは同じ思いをもって死んだ若い兵士がいるとなる。
でももう一つそうした戦死者の思いとか意味とかが語られていない、否定的に語られるのが多い、
この詩のように
それは故国への別れの挨拶か
残してゆく友の名前か
青春を惜しむ気持ちか
故国となれば日本でも戦争で死んだ人はそういう思いがあり死んでいった、今でも戦友のことを忘れることができないのである。
自分の姉はシンガポールで今のマレーシアのジョホールバルで従軍看護婦として4年間勤めた。そこはイギリスの赤十字病院だった。
そのことを死ぬまで語りつづけて最後はそのことを叫んで遂に死んだ
だから自分はそのことを忘れがたいのである。
重い認知症になっていたけどその青春の時が姉は忘れることができなかった。
それは戦争に行った人はみんなそうだった。90歳でも生きているが今でも戦争のことは生々しい記憶なのである。青春時代はなかなか忘れられないものを残す、それが戦争となると特に経験できないことだからそうなる
ただ日本の戦争については語られることが少ない、それは戦争自体を何か封印したいということがある、生き残った人も語らない、そこであの戦争とは何であったのか伝えられていないのである。
「心の青雲」の著者の気持ちはこの日本の戦争と深く結びついている、そして日本を守るためには徴兵制が必要でありあの戦争を賛美している、日本を守るためにはかつての日本兵のように強くならねばならないととして徴兵制を復活すべきだとしている。
空手をしていたからそういう強い意志を感じるのである。
ジャングルで生き残った小野田少尉のようなものを感じる、小野田少尉は本当に精悍な顔つきをしていてジャングルでまだ日本兵として戦っていたことに驚いたのである。
日本兵の亡霊のように出てきたから驚いたのである。
日本刀を下げていたしこの詩のうよにそれは短剣と同じである。
日本の侍だったとなる。だからそれから見ると
この勇士の哀れな道連れも今では
鞘は戦いに打ち砕かれてなくなり
金のおもちゃのように 壁にかかって光っている
なお 誉れにも害にならずに
現代に対してこうした感情をいだいているのが心の青雲のプログの著者である。
惰弱に成り果てた現代では詩人のお前も同様
おのれの使命を見失っていないか
惰弱になった現代の若者に失望して叱咤する、それが徴兵制復活なのである。
その是非はともかく戦後は国を否定してきた、そしてただ企業戦士となり利益のみを経済のみを追求してきたのが日本人だったのである。
その最たるものが同じ年代の団塊の世代だったのである。高度成長時代を生きたのが団塊の世代だからである。
ただ戦争とは何だったのかと問うときそのおびだたしい犠牲は何だったのかということになる、何かそれに対して意味を見いだされていない、だから戦死者を讃える詩なども作られていない、もし詩人だったら叙事詩として詩を作ることになるからだ。
だれも教えてくれない、・・・君の臨終の言葉の
深い意味は失せ・・・君の仕事も見解も
思索も すべて跡形なく消えさった
これと同じである。無数の死者の臨終の言葉は何であったのか?深い意味は失われて
ただ3百万人の犠牲がある、それだけの人間の死は虚しくされるとなる
そこでは若い人も数多く死んだし有能な未来を嘱望されたが死んだ
石巻の彫刻家の高橋英吉も戦死したし他にも若い有望な人たちが死んだのである。
それは若くして死んだからこの詩と同じものとして理解される
当座の成り行きで速やかに過ぎ
彼はついに甘美な時にめぐりあわず
遠征軍のみじめな天幕の中で
病に倒れ、己が身とともに
天翔る まだ熟さぬ
時代の浪に翻弄されるだけで自らの道を歩み大成できなかった。では戦争そのものに意義があればそうはならない、それがないから戦争が虚しいものとして否定される
ただ意味ある戦いとしている人もいる、それももう一つ訴えないのである。
ただあの戦争の意味はまだ歴史的に価値づけられていないこともある。
それはアジア史とか世界史とかアメリカとかもかかわって価値ずけられる世界歴史になっているからである。
その時何が起きたのか?その世界史の解明が必要になるからである。
この詩にはただ若くして死んだということでその悔しさがにじみでている。
人間はやはり戦争が自己実現の道なのかとなると国家のために自己を犠牲にするのが戦争である。
何か一人の人間として平凡なものでも職業でも道を追求して大成するとかにはならない
国家なければ個人もないというのもわかるが国家は個人のためにあるとも言える
個人の大成のために国家がありともいえる、
人間とはどんな平凡な人でも大きくなりたい、偉大になりたいという願望がある。
それが「心の青雲」の著者は戦争に見いだしているのである。
戦争で英雄になることが偉大になることだとしている、ただそれだけではないにしろそういうふうに見られ安い。
彼自身が戦争を指揮して英雄になりたい、若者は徴兵制で鍛え自ら将軍となり指揮したいとなる。そういう危機意識をもっている、だから今の時代はただ自己の利益追求しかない国でも会社でも家族でも個々人でも金、金、金しかないのである。
第一愛国心などでも本当にもっている人がいるのかとなる
会社でもうけることでは過労死になるくらい必死になっているけど愛国心のためではない会社がもうけるためにそうしているだけなのである。だから企業戦士なのである。
でも強力な軍隊をもっていれば国を守れるのか?核武装すれば守れるのか?
武器によって守れるのか?武器が第一なければ戦いにもなれないとなるのか?
あれだけの核兵器があったソビエト連邦が崩壊したのか?
いくら武器を揃えてもそれだけで国が守れるのか、必要にしてもそれだけで国が守れるのか?今やロボットが戦争するというとき一体戦争とは何なのかともなる
徴兵制は別に戦争するわけではない、それに備えよというのだからまた違っている
そのことに意義があることも確かである。そのために備えることは悪いことではない
その時具体的に国を守るという共同意識が培われることも確かである。
現代は会社の共同意識かないからである。
徴兵制自体が即戦争になるわけでもない、でも本当に戦争になったらこの詩のようなことが起きる
戦争では若い人が死ぬ
その意義を見いだせるのか?
それが300百万人の死が現代に問うているのだ。特攻隊を賛美してもその人たちも苦渋の内にやむをえず死んだということになる、国家の犠牲になったともなる
戦争とは人が死ぬ、それも若い人が死ぬということで問題になる
戦争にもしそれだけの若くても死ぬ意義があればいいとなる
この詩ではそれが見いだせない苦渋を詩にしている
要するに別に日本だけではない、敵国でも戦争になると若い人が死ぬのである。
若い人の未来を奪うということにもなる、それが戦争だったとなる
それもやむをえない時代だったということもあるしそれだけ意義があったという見解も歴史の評価もある、戦争が残したものは何なのか
それは味方であれ敵であれみんな問われているのである。
アメリカが勝ったとしてもやはり問われている、原爆を落としたことでも問われている
だからといって徴兵制がすべて悪いとはならない、国を守る意識は作られるからである。ただ準備だけではない、戦争があるからこそ武道には意義があるともしている
短剣の詩でもそれが敵を殺したことで意味がありただ今はその用がなくなっているのと同じとしている。
武道を追求してゆくと真剣勝負が本当の勝負だとなる
それで本当に人を切ってみたいと侍が江戸時代の平和な時に辻斬りになった。
戦国時代のように人を簡単に殺せないからそうなったともなる
平和な時代もそういうふうになる、エネルギーのある人はそうなる。
自衛隊でも戦争して死んでみないと用がないともなる
自衛隊は戦争では役に立たないということも言われる
アメリカは戦争しているから自衛隊とは違う、そこに国民の不満さえある
税金はらっているんだから自衛隊は戦争して死んで意味があるとなる
そうでないとただ税金を無駄使いしているとみられる職業なのである。
でも災害の時はこの辺で津波などで一番働いたのは自衛隊であり感謝しているのである。
いづれにしろ徴兵制が言われるようになることは戦後70年で時代の変わり目になったのである。
それはあらゆる面で世界でもなってゆく、アメリカからは日本は日本で守れとなるしそういうことで日本はアメリカに守られている時代が終わったからである。
ネットウヨの徴兵には賛成である
口で勇ましいこと言っても訴えない
徴兵制で鍛えられてから言えば違ってくる
その言葉に重みがでてくる
戦争を経験したものが言うのと口だけで言っているのは全く重みが違うのである。
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